第十五話「ルーメン」
パークは夏休みに入り、まさに佳境を迎えていた。
人の波と熱気にさらされる日々、営業中のスタッフエリアは、従業員たちの息抜きと緊張の交錯する空間だ。
小休憩を終えたゆりは、背中を反らすように大きく伸びをして、疲れの滲んだ大欠伸をこぼした。
連日の混雑が身体に積み重なっている。
ほんの一瞬の気の緩みだったその時。
建物の扉が開き、目の前に現れたのは蓮だった。
バチッと視線が交わる。
「……っお疲れ様ですっ!」
慌てて伸ばしていた腕を下ろし、ゆりはピシッと背筋を伸ばした。
つい先ほどまでの緩んだ空気が一瞬で消え、業務中の顔へと切り替わる。
「でっけぇあくびだな。疲れてんの?」
不意を突かれたゆりは、咄嗟に首を横に振った。
「…っいえ!まさか!」
「オフィス戻るの?」
「いや、パークに戻ります。」
「あそ。じゃあ一緒に行こうかな。」
「はっ?」
「現場まで送るよ。」
軽い調子で告げる蓮の言葉に、ゆりは思わず両手を突き出して蓮の身体を押しのけた。
「いやっ鳳条代表はお忙しいですから!結構ですよっっ!」
「現場どこ行くの。」
「メインキャッスルエリアです」
「じゃあ俺、パーク通って歩いて本部帰ろっと。」
蓮のあっけらかんとした言い分に、ゆりは内心で頭を抱える。
こうなると絶対言うこと聞かないし、本部行くついでなら…ま、いっか。
小さくため息をついてから、仕方なく答えた。
「……わかりました。」
「よっしゃ!行こ!」
蓮は当然のようにゆりの手を取り、関係者出入口へと引いて歩き出した。
その掌の温もりに、ゆりの心臓が一瞬だけ大きく跳ねる。
「職場ですよっ!」
ゆりは慌ててその手を振りほどいた。
真剣に怒ったような表情を見せるゆりが、蓮にはどうしようもなく可愛く映る。
「パークでは私に2メートル以上近づかないで下さいね。」
「せめて1メートルにして?会話聞こえねーよ。」
二人で談笑しながらパーク内を歩いてるその時だった。
「…………光った…」
「え?」
ゆりが、急にピタリと立ち止まり、険しい表情で遠くの空を見上げた。
「…鳳条さんっ!スマホあります?雨雲レーダー入れてますかっ!」
「えっ!?あぁ…スマホはあるけど、雨雲レーダーとかあったかなぁ…」
面食らいながらも、蓮はポケットからスマホを取り出す。
「貸してくださいっ!!」
勢い込む声に押され、慌ててロックを解除して差し出すと、ゆりはすぐさま画面に目を落とした。
「……………。」
画面に釘付けになったゆりの顔は真剣そのもの。
細い指が高速でタップを繰り返し、ぶつぶつと独り言がこぼれる。
「どうして……ついさっき…ランチの時に見たレーダーは雲ひとつ無い晴れ予報だったのに……」
指先が止まり、瞳が見開かれる。
「えっ!?降水量100ミリ以上!?うわーっ!!レーダー真っ赤だ!!」
ピカッ──!!
大気を裂くように閃光が走った。
今度は蓮の目にもはっきりわかるほど、遠くの空が鋭く光を放つ。
さっきまでの晴れ渡った青空は、一瞬にして濃い灰色の雲に覆われはじめていた。
雷鳴を孕んだ空気が張りつめ、地上のざわめきとは裏腹に、ひやりとした緊張が漂い出す。
「応答願います、全エリア、フードワゴン担当。フードワゴン担当、応答願います」
ゆりは腰の無線を掴み、はっきりとした声で呼びかける。
本来であれば、今日の天気は終日快晴。
パークは夏休みの賑わいで、どのフードワゴンもフルオープンの状態だ。
太陽が真上に昇るにつれて気温はさらに上がり、ドリンクやアイスは飛ぶように売れている。
そのため昼過ぎからは追加で最大台数のワゴンを出すよう、午前中に自分が指示を飛ばした。
《こちら、スターアクアリウムエリア、どうぞ。》
《こちら、キッズファンタジーエリア、どうぞ。》
次々に入る応答に、ゆりの声は緊張を帯びる。
「東南の方角に雷雲を確認。間もなくゲリラ雷雨が見込まれます。全エリア、大至急フードワゴンの撤退。フードワゴン全撤退、すぐに新規案内カットに入ってください。待ち列状況、連携お願いします!」
《ジジ……こちらウィルダネスチャレンジエリア、アイスワゴン、待ち列20分です。》
《……ジジ……こちらメインキャッスルエリア、限定バニーズチュロスワゴン、30分待ち、30分待ちです。》
無線から各エリアの報告が飛び交う中、ゆりは蓮のスマホを手に、必死に指を動かしていた。
画面に浮かぶ雨雲レーダーの赤い帯が、刻一刻と現在地へ迫ってくる。
「こちらの雨雲レーダーによると……雷雨降り出し予報まで……」
そこまで言いかけて、ゆりの視線が数字に釘付けになる。
画面右上の時刻と、降り出し予報の時間。
わずかに空いたその差を確認した瞬間、顔色がみるみるうちに蒼白していった。
「……10…分………………」
風が吹き荒れて、ゆりの髪がばさりと舞い上がり、制服の裾が翻る。
空気は一瞬で冷たくなり、湿り気を帯びて肌にまとわりついた。
遠くの空を覆った黒い雲がじわじわと迫ってくる。
晴れ渡っていたパークは一転、ざわつきに包まれ始めた。
子どもを抱えた母親の声、スタッフの呼びかけ、広場で立ち止まる来園者の群れ。
空気が確実にざわめき立っている。
「すぐに、ヘルプに向かいます!!」
ゆりは無線へ向かって声を張り上げ、そのまま足早に歩き出した。
背中を押すのは使命感。
泣きそうになる心を叱咤して、全エリアへ必死で指示を飛ばす。
「応答願います!応答願います!全エリア、レストラン担当!!レストランスタッフへ!お近くのフードワゴンのヘルプ要請を──」
「待てって!!」
ガシッ、と腕をつかまれた。
振り返った瞬間、蓮の声が無線への声を遮った。
「落ち着けって!レストランスタッフ全部ワゴンに回したらどうなる!」
「……っ!」
「今だってもう、避難する客が近くのレストランに押し寄せてきてんのに、この後本降りになったら更にごった返して、中はパンクする!そっちの対応どうすんだよっ!」
突きつけられた正論に、ゆりは言葉を詰まらせた。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
頭では理解しているのに、目の前で崩れていく秩序を前にして、心がどうしようもなく焦る。
「………っじゃあどうしたらいいの!!!」
ゆりの声は裏返り、涙声になっていた。
肩は小刻みに震え、無線を握る指先まで力なく震えている。
ピカッ──!!
昼空を切り裂くように、鋭い閃光が走った。
瞬間、蓮は閃いたように顔を上げ、動揺するゆりの両肩を掴んで低く力強い声を放つ。
「ほら、泣いてる場合じゃないぞ。」
そう言って彼女の手を取る。
力強く、安心をその手に込めるように。
「ピンチの時こそ、新しい道を切り開くぞ!」
そして蓮は振り返りざまに、ゆりが心の底から愛してやまないあのキャラクターの名セリフを力強く口にした。
.
「雷は物語を壊すためにあるんじゃない。新しいページを照らすためにあるんだ!!」
.
叫ぶように言い放つと同時に、拳を突き上げて「ゴー!」のポーズを決め、ゆりの手をぐっと引いてパークを進む。
「……っ!」
思わず見開いた瞳に、込み上げていた涙が一気に熱を変える。
胸の奥に、勇気が点火された。
「……ルーメンじゃんっ」
絞り出すように言った声は、もう泣き声ではなかった。
ぐっと奥歯を噛み締めて、涙を堪えたゆりは、蓮と手を繋いだまま力強く歩みを進めた。
ゆりが駆けつけたのは、最も長い待ち時間が報告されていたキャッスルエリアの「限定チュロスワゴン」だった。
「どうして…嘘でしょ……」
目の前の光景に、言葉を失う。
すでに一時終了の案内を出しているはずのワゴンには、行列がさらに伸びていた。
列を切るために必死で声を張り上げているスタッフたちは、詰め寄るお客様対応に追われ、隙を突くように列はどんどん膨らんでいく。
「……私のせいでっ!!」
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
昼休憩の時、自分が指示を出した。
暑さでドリンクやアイスの需要が高まり、フル稼働以上に追加でワゴンを出して、それが仇になった。
どのワゴンも人手が足りなくなり、全体のバランスが崩れてしまった。
「私が…私が無理に台数を増やしたから…!こんなに…っあちこちで…沢山のお客様が……っ」
パニックのように自分を責め続けるゆり。
涙が滲みそうなその瞳に、横から伸びた蓮の手が静かにゆりの肩に触れる。
「お前がパニクッてどうすんだよ。」
穏やかで、それでいて力強い声。
両肩に置かれた蓮の手が、熱を分け与えるように優しく押さえた。
「それだって気温が上がってきて、列が伸びてきてて、お前がお客様のためにって想って、動いた行動だろ。」
責めるでもなく、ただ落ち着かせるようなトーン。
その声音に、張り詰めていたゆりの心の糸がふっと緩む。
肩の力が抜け、肺の奥に溜めていた空気をようやく吐き出すことができた。
「こういう時は落ち着いて、来園者達をよく見ろ。」
蓮の声は、雷鳴が迫る空の下でも不思議とゆりに落ち着きを与える。
「お客をよく観察して、お客が今何を求めてるか。俺たちは来園者達のために何ができるか、それをよく考えれば新しいページは必ず開ける。俺も一緒に考えるから。」
まっすぐなその言葉に、ゆりの胸の奥が震える。
だが次の瞬間、空が裂けるように閃光が走った。
ピカッ!!
目を焼くほどの白い稲妻。
続けざまに、地響きのような雷鳴が腹の底に響く。
ゴロゴロ……ドォン……!
強い風が巻き起こり、制服の裾をはためかせ、ゆりの長い髪を乱暴にかき乱した。
黒い雲はいつの間にか空一面を覆い、夏の青空は跡形もなく掻き消されている。
……もう……無理…………
ゆりの心に、暗い影が差す。
押し寄せる不安と、責任の重さ。
視界が揺らぎ、喉の奥が詰まる。
その時──。
.
わぁーん……
.
か細い泣き声が、雷鳴にかき消されそうに響いた。
ゆりの視線が引き寄せられる。
そこには、小さな子供がしゃがみ込み、両手で目をこすりながら泣いていた。
足元には、地面にぶちまけられたポップコーン。
転がるバケットは空っぽで、白い粒が雨に打たれる前に無惨に散らばっていた。
そして脳裏に木霊する蓮のあの時の言葉──
(どんな時でも常にお客がどうしたら喜ぶのか、来園者の為に何がベストか、知ってて当たり前だろーが)
「……光の……しおり……」
私たちスタッフが、来園者へ紡げるひとつの物語。
「……そうだ……これだ!」
吹きつける風に、ゆりの髪が大きく揺れる。
ピッ。
無線のボタンを押すと、ゆりの声が鋭く全域へ飛んだ。
「全エリア、フードワゴンの待ち列へ…光のしおり、光のしおり配布にてご対応をお願いします!」
「……なるほど、光のしおりか」
蓮は目を丸くしながら、ゆりの指示に思わず頷いた。
ゆりは思い出していた。
幼い頃、転んだ弾みにポップコーンをひっくり返して泣きじゃくった自分に、スタッフが微笑みながら差し出してくれた一枚のしおり。
「これがあれば物語の続きが始まるんだよ。」
と言われ、しおりをワゴンに持っていくと、空っぽになったバケットにもう一度、元の量までポップコーンが戻ってきた。
光のしおりは、アトラクションが止まった時や、緊急事態に臨機応変に使える。
一度閉じられてしまった物語に、スタッフがお客様を物語の先へと導いてあげられる唯一の魔法だった。
雨雲はついにパークの真上まで迫り、稲妻が天を裂くように閃いた。
轟音とともに空気が震え、来園者達の不安げなざわめきがあちこちで広がる。
「間もなく雨が降り出します!危険ですので、こちらのしおりをお持ちいただき、後ほど改めてお越しくださいませ!」
ゆりの声が震えながらも真剣に響き渡る。
一人ひとりのお客様の手に、彼女は素早くしおりを差し出していった。蓮も隣で同じようにしおりを書き続け、謝罪と笑顔を繰り返す。
その誠意に触れた来園者たちは、驚いたように、けれど次第に安心したように頷き、整然と列を離れていく。
やがて、ワゴンの前にあれほど長く伸びていた行列は、嘘のようにすっと消えた。
同時に空は暗転し、バケツをひっくり返したような豪雨がパーク全体を襲った。
スタッフ総出での撤退作業。
びしょ濡れになりながらワゴンを押し、資材を抱えて走る。
フードワゴンは次々とシャッターを下ろし、最後の一台がスタッフエリアへと消えた時、稲光と轟音に包まれたパークは一瞬の静寂を取り戻した。
──二時間後。
激しい雨は嘘のように止み、雲間から差し込む陽光が再びパークを照らした。
濡れた地面はスタッフの懸命な排水作業で水が引き、光を反射してキラキラと輝いている。
「よし、開けるぞ!」
再びワゴンのシャッターが上がる。
シナリオを知っていたかのように、来園者たちは次々と戻ってきた。
空を仰ぎながら笑う声。
笑顔でしおりを差し出し、新しいチュロスを受け取る子どもたち。
行列はあっという間に再び伸びて、まるで嵐など無かったかのように、いつもの賑わいが戻っていた。
「しおりお持ちの方はこちらでお受けしまーす!」
ゆりは腕を高く掲げ、朗らかな声で来園者たちを呼び込む。
駆け寄ってきた母娘が、雨で少し濡れた髪を払いながらしおりを差し出した。
「さっきはありがとう、お姉さん。」
その一言に、ゆりの表情は一瞬で柔らかくほどける。
「あっ!ありがとうございます!凄い雨でしたね、濡れませんでしたか?」
「もう駄目かと思ったの。でもここまで並んだから、多少濡れてもいいから買ってから雨宿りしようって思ってて。」
「えっ!それは危ないところでしたね。」
「そう、ほんとに。お姉さんがあの時あのしおりをくれなかったら、もうこの後パークで遊べないほどびしょ濡れになってたと思う。」
母親がそう笑うと、子どももつられてにこにこと頷いた。
ゆりは胸を撫でおろすように笑みを返す。
「そんな……良かったです、無事に間に合って。」
その言葉と同時に、ワゴンの中から湯気を上げるチュロスが差し出される。
ゆりは丁寧にトレーにのせて、勢いよく声を響かせた。
「お待たせしました!バニーズチュロスです!いってらっしゃい!」
「ほんとにありがとう、お姉さん!いってきます!!」
嬉しそうに駆けていく親子の背を見送りながら、ゆりは自然と笑顔になっていた。
その笑顔は、嵐の後の陽射しのように周囲を明るく照らす太陽のようだった。
その横顔を、蓮は黙って見つめていた。
お客様を安心させ、心から喜ばせる。
自分がどれだけ経営や数字を語っても、この笑顔ひとつには敵わない。
しおり対応が一段落し、嵐の余韻でまだ湿った風が頬を撫でていた。
ゆりはパッと蓮の方を振り向き、迷うことなく小走りで駆け寄る。
「先ほどはありがとうございました。鳳条代表のお陰で助かりました。」
その場に立ち止まると、制服の裾を正し、深々と頭を下げた。
額に落ちる髪が揺れ、真剣な眼差しで。
「え?俺?なんもしてないよ。」
肩をすくめて笑う蓮に、ゆりは首を横に振った。
「いえ…代表が居なかったら、私きっとパニックのまま、ワゴンもレストランも回せなくなって、きっと最悪の状況になってました。」
悔しさと安堵の入り混じった声。
少し胸を痛めるように目を伏せるその横顔を見て、蓮はすかさず優しい声音で言った。
「お前の機転は素晴らしかった。お客を想って、よく閃いた。ゆりはいつだって、どんな時でもスタッフとして100点満点だよ」
「……っ、えへへ……」
蓮の口からうっかり零れたプライベート呼び。
くすぐったい言葉を受け止めたゆりは、堪えきれずに笑みを零した。
照れくさそうに頬を赤らめる姿に、蓮の胸は強く打たれる。
あ、そうだ…
一瞬の沈黙の後、蓮はふと声の調子を変えた。
「今日まで本家だけど、明日やっとマンションに行けるから、明日一緒に帰ろ。早番?」
胸に秘めていた誘いを、自然に差し出すように。
それは業務の延長のように聞こえつつ、どこか私的な色を帯びていた。
「明日はぁー……非番だ。」
空に視線を彷徨わせてから、正面に落としたその瞬間。
ゆりの表情は、スッと曇った。
「非番?じゃあ、こっちの仕事が終わったら寮まで迎えに行くよ。」
当たり前のように口にする蓮に、ゆりは即座に否を突きつける。
「いや…」
明日は司との約束がある。
心の奥がざわつき、咄嗟に口をついて出た言い訳は
「生理中なんで。」
「……あぁ?なに?」
「女の子の日だから…出来ないってことです。」
正面を見据えたまま、抑揚のない声で告げる。
淡々とした態度の裏に、ほんの僅かな焦りを隠しながら。
そのまさかの言葉に、蓮は一瞬、苛立ちを押し殺すように息を吐いた。
正面に向いていた身体を、ぐるりとゆりの方へと向けて頭を傾ける。
「なに?俺ってセフレかなんか?」
「そういう卑猥なこと、パークで言わないで下さい。」
冷ややかな視線を向けるゆり。
内心、いやセフレだろ、と毒づきながらも、口に出すことはしなかった。
蓮はしばし睨み返し、それから呟くようにに言った。
「……やんなくていいから、普通に来ればいいじゃん。」
「…え?」
思わず瞬きをする。
てっきり「欲望優先の男」だと決めつけていたからこそ、意外な言葉に小さな驚きが走った。
とか言って、どうせ欲情してくるんだろう、と心の中ですぐに否定する。
「……2日目以降重いので私。体調悪いから無理です。」
毅然と告げるゆりに、蓮は大げさに肩を落とし、わざとらしく口を尖らせた。
「ちぇっ……わーかったよ。」
子供っぽく拗ねるような声音。
その横顔が少し可笑しくて、気づけばゆりの口元に微かな笑みが浮かんでいた。
──────。
翌日の役員会合会議。
役員会議の開始を告げる時刻が近づくと、各部署の重鎮たちは足早に大会議室へと向かっていた。
廊下には革靴の硬い音が響き、張りつめた空気が流れる。
蓮と司はそれぞれ反対方向から歩いてきて、ちょうど角で鉢合わせる。
「お疲れ様です。」
「お疲れさまでーす。」
蓮と司。
肩を並べると、自然と歩幅がそろう。
交わされる挨拶は形式的。
だが並んで歩き出すと、二人の間には奇妙な沈黙が生まれた。
ふと、司の視線が蓮の手元へ落ちる。
黒いスーツの袖口から覗いたのは、場違いなほど鮮烈な黄色。
「…急にどうしたんだ?」
訝しむように声を低める。
「キャラクターのスマホケースなんて、今までの蓮には考えられないな…お前には似合わない。」
「ん?」
蓮は軽く肩をすくめ、手にしていたスマホをひらりと傾けて見せた。
そこには稲妻を纏う雷雲。
アーク映画作品の人気キャラクター、ルーメンの姿が鮮やかに描かれている。
「なんか似てるって言われて。」
「似てる?その雲にか?」
司の眉がわずかに動く。
雲に似てる?そんな突拍子もない例えを口にする人間は限られている。
しかも、アークのキャラクター。
脳裏に、ひとりの女の顔が鮮やかに浮かんだ。
今夜は、ついに念願の彼女と過ごす約束の夜。
その直前によりによって蓮に彼女の声を思い出させられたことが、司の胸をざわつかせる。
「サンダークラウドのルーメン。」
蓮は少し得意げに、その名を口にした。
会話自体は軽い。
だが司の心には小さな火種が落とされる。
「……変なこと言うやつがいるんだな。」
吐き捨てるように言った瞬間、司の足取りは変わらずとも胸の奥の鼓動は強さを増していた。
視界の端に映る稲妻の黄色いケースが、まるで挑発するかのように鮮やかに輝いて見える。
──バリバリと、胸を焦がす熱。
それは、嫉妬という名の電流だった。
第十六話「告白」
「……妻とは、3年前に結婚をしました」
煌びやかなシャンデリアがきらめく高級ホテルのレストラン。
柔らかなピアノの音が流れる中、白いテーブルクロスの上には色鮮やかなコース料理が並んでいる。
司とゆりは、表向きはいつものように、差し障りのない会話を交わしながら食事をしていた。
だがその静かな空気を切り裂くように、司の低い声は落とされると、フォークを持つゆりの指先が、一瞬ピクリと震えた。
「……隠していたんですか」
ゆりは顔を伏せたりままで、冷静な声で問い返す。
「隠すつもりは無かった。ただ……自分から言う必要が無いと思っていた」
まるで事務的に告げるような司の口調。
ゆりはその言葉を咀嚼するように沈黙した。
必要が無い、とはどういう意味か。
彼にとって私は“ただの相手”だから、自分のプライベートなど知らせる必要は無い。
そんな風に聞こえた。
ワイングラスに揺れる赤が視界の端で煌めく。
ゆりは俯きかけた目をゆっくり上げた。
今回、ようやくすべてが繋がった。
蓮とは違って、司は決して自宅に自分を招かない。
職場から共に退勤することもなく、いつもホテルか、どこか人目から遠ざけた空間ばかり。
なるほど、それには理由があったのだ。
胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に流れ込む。
真実を知った安堵と、裏切られたような痛み。
そのふたつが絡み合い、ゆりの表情は複雑に揺れていた。
「……家同士の事情で出た縁談。妻には当時から恋人が居て、私との結婚に酷く抵抗を示していました。当然、私自身も彼女に気持ちはありませんでした」
司は、ワイングラスの縁を指先でなぞる。
その仕草は穏やかに見えて、どこか己の感情を誤魔化すようでもあった。
「桐生家は代々、政治家や外交官を輩出してきました。父は外交官で、親族の中には現役の国会議員や大使館関係者もいる。結婚は“縁”というより“契約”。それは決められた伝統であり、桐生家はそうやって、人脈と影響力を広げてきた一族です」
ゆりは息を飲み、黙って耳を傾ける。
テーブルに反射するシャンデリアの光が、赤ワインの液面に揺れていた。
「妻の家もまた、海外事業を展開する企業一族。双方にとって都合が良かった、つまり“ビジネス婚”です」
そこまで言って、司は一度、目を伏せた。
声は冷静そのもの。だが、瞳の奥に沈んだ影が、淡々とした言葉を裏切っていた。
「……私はロンドン本社の人間として契約交渉を担う立場。桐生家の国際的な人脈は、私にとっても大きな後ろ盾になり得る。…本社からも桐生家からも、望まれた結婚でした」
沈黙の中で、ゆりの胸に奇妙なざわめきが広がっていく。
それは同情にも似ていたが、同時に彼が隠してきた現実との距離を突きつけられるようでもあった。
司は、ゆりの瞳を真正面から捉え、言葉を継いだ。
「避けられない運命に、妻が提案してきたのは、お互いに別のパートナーを容認すること。表では夫婦を演じ、裏ではそれぞれ別の人生を歩む。そういう契約です。」
その瞬間、ゆりの脳裏に過ったのは、応接室で初めて見た彼の妻。
美しい高身長の女の冷たい笑みだった。
胸の奥に、得体の知れない感情がじわりと滲み広がっていった。
別次元の人だ。
わかってはいたが、ゆりは改めて実感した。
こんなにも悲しいことを、まるで呼吸をするかのように淡々と口にする。
政略、契約、容認された不誠実。
彼にとってそれは“現実”であって、悩む余地すら与えられない宿命なのだろう。
私のような庶民とは、やっぱり感覚が違う。
そう思うのに。
胸の奥では、じわじわと熱が灯っていた。
哀しみなのか、憐れみなのか、それとも別の感情なのか。
自分でも正体がつかめない。
「…………部屋に、上がりませんか?」
気づけば、唇が先に動いていた。
心に浮かんだ理屈よりも、身体が欲した。
彼の冷静な瞳を、もう少し近くで確かめたかった。
「行きましょう」
司は、迷いなく頷いた。
それだけで、ゆりの胸は大きく脈打つ。
そして、ゆりは静かに立ち上がると、一歩、司の前に進み出ると、自らの手を司へ伸ばす。
差し出された大きな手と触れ合った瞬間、その指を絡め、ぎゅっと恋人つなぎに結んだ。
歩き出すと、ゆりは迷わず司の腕に自分の両腕を絡めた。
ぴたりと身体を寄せ、頭をその肩へもたせかける。
視線は前に向けたままなのに、心はもう、彼の体温を確かめることに夢中だった。
まるで部屋に辿り着くのを待ちきれないかのように。
今すぐにでもこの距離を埋めたくて、焦燥に駆られるように、ゆりは絡めた腕ををぎゅっと離さず、司の存在を確かめ続けた。
────────。
蓮の家。
仕事を終え、数日に渡った本家での用事も終えて、蓮は数日ぶりにプライベートマンションへ。
シャワーで汗を流し終えた後、バスローブ姿のままソファに腰を沈める。
グラスに注いだシャンパンの泡が、静かな部屋にかすかな音を立てて弾けていた。
リモコンを手に取り、無意識に映画アプリを開こうとしたその瞬間──
(アークスタジオがいい!)
脳裏に甦ったのは、隣で無邪気に声を弾ませていたゆりの姿。
このソファにちょこんと座り、目を輝かせながら画面を操作していた光景。
気づけば口元が緩みかけて、すぐにシャンパンを一口含んで誤魔化した。
マンションに帰る夜、ここにゆりがいないのは久しぶりだ。
以前は当たり前だった一人きりの時間が、今は妙に空っぽに思える。
「……あいつ、体調どうかな」
今日は“体調が悪いから”と断られていた。
電話…くらいなら、いいだろうか。
声だけでも聞ければ安心できる。
もし辛そうなら、その時はすぐに切ればいい。
蓮は迷うようにシャンパンのグラスをテーブルに置くと、スマホを手に取った。
画面に映る通話ボタンの光が、なぜか心臓の鼓動を速めていく。
────────。
スイートルームの大きな窓。
夜景の光がガラス越しに揺れ、二人を淡く照らしていた。
シャワーを浴び終えたゆりは、まだ火照る身体を隠すこともせず、司の首へ白い腕を回す。
司もまた、その背中にしっかりと腕を回し、互いを引き寄せるようにして強く抱きしめ合った。
吐息と吐息が重なり、求め合うように激しい熱を帯びた口づけが、濃密に繰り返されていく。
──ブーッ、ブーッ、ブーッ。
静寂を破る低い振動音。
濡れた唇の音と舌の絡み合う湿った水音の合間に、無遠慮に割り込んでくる。
司は眉をわずかに寄せ、唇を離した。
呼吸を荒げながら、静かに言葉を落とす。
「……いいですよ。一旦」
ゆりはハッとしたように瞬きをして、小さく呟く。
「ごめんなさいっ」
慌てて鞄に手を伸ばし、取り出したスマホを握る。
画面には、見慣れた名前。
──蓮。
バイブは止まらず鳴り響いている。
胸の奥がざわめく。
だが、ゆりは一瞬迷った末に、サイドボタンを押して音を消し、そのままテーブルにスマホを置いた。
何事もなかったかのように。
逃げるように。
そして、再び司へと求めて腕を伸ばした。
強く抱きつき、熱を取り戻すように彼の唇へ顔を近づける。
「……電話、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
短く答える声に、ゆりは小さく首を振った。
そんなことより、今は司が欲しい。
胸の奥でそう呟き、言葉ごと塞ぐように司の唇を奪った。
「ん……っ、はぁ……んんっ……はぁ……はぁっ」
絡め合う吐息と舌。
互いの胸や下半身を弄び合ううちに、全身の熱はさらに高まり、二人の呼吸は喘ぎと共に激しく荒くなっていく。
司はもう抑えきれない。
窓際からソファへと、ゆりを押すように導きながら深くキスを重ねた。
ソファの傍らで、ゆりが一転して司を押し倒す。
跨り、覆いかぶさるようにしてまた唇を奪う。
支配と服従が反転し、お互いを夢中で求め合いながら、熱に浮かされた空間に支配的な音だけが響いた、その瞬間。
──ブーッ、ブーッ、ブーッ。
無粋な振動が割り込む。
ソファすぐ横のテーブルで、ディスプレイが仰向けに置かれたスマホが震えていた。
二人は思わず反射的に唇を離し、その画面へと目を向ける。
そこに表示されたのは――
「鳳条 蓮」
一瞬で空気が変わった。
司の瞳がわずかに細まる。
脳裏に浮かぶ、昼間の光景。
廊下で見た、黄色いサンダークラウドのスマホケース。
そして、ゆりの声で想像した「蓮に似てる」という言葉。
──やっぱりか。
胸の奥に黒い炎が灯る。
嫉妬、確信、そしてどうしようもない執着。
目の前の女は、蓮と繋がっている。
わかってはいたはずなのに、改めて突きつけられたその現実に、司の胸はざわめきと苛立ちで煮え立っていった。
まずいっ!
見られた!
ゆりの心臓が跳ねた。
慌ててテーブルに置かれたスマホへ手を伸ばす。
だが、その先に伸びたのは彼女の指よりも早く、司の手だった。
バッと鋭い音を立ててスマホを掴み上げる司。
そのまま迷いのない動きで画面をスライドさせ、通話を繋げて落ち着き払った声で言い放った。
「蓮。彼女は今日、非番だ。自由に過ごさせてやれ」
低く、挑発の色を滲ませた声音。
《…………司……?》
スマホ越しに音漏れが響いたのは、聞き慣れた蓮の声だった。
その瞬間、空気が凍りつく。
まるで部屋全体が張り詰めた弦になったような緊張感。
ゆりは弾かれたように飛びつき、司の手からスマホを奪い取ると強引に通話を切る。
胸は激しく波打ち、耳の奥で自分の鼓動が鳴り響いて、脳裏には
どうしよう
言い訳しなきゃ
すぐに掛け直す?
でもなんて言う?
焦燥の声が渦を巻く。
そんな彼女の葛藤を見透かすように、司の声が落ちた。
「蓮と、会い続けているんですね」
その声音には確信と皮肉が滲み、口元には勝ち誇ったような歪な笑み。
まるで人の弱みを握ったときの、あのいやらしい顔。
カチリ、と心の奥で何かが弾けた。
ガッ──!
「お前、なにやってんだよ?」
怒声とともに、ゆりの両手が司の胸元を掴み上げた。
白い指が食い込み、襟元を乱暴に引き寄せる。
「だから何だよ?そーだっつってんだろ」
鬼のような形相で睨みつける瞳は、炎のように揺らめいていた。
「嫉妬して余計なことして殺されてぇのか?てめぇ」
締め上げられる襟。
司の顔は瞬く間に赤く火照り、胸がきゅんと締め付けられて言葉を失う程。
やがて、ゆりは冷静さを取り戻したかのようにパッと手を離した。
「…ケホ……ッ」
恐怖と、同時に昂ぶりすら覚えるその感覚。
司は荒い呼吸の合間に、笑みとも嗚咽ともつかぬ声を漏らした。
「あっ!そーだ、司にいーものがあるの♡」
唐突な声音。
ほんの少し前まで窓際で、少女のように可愛らしく、夢中でキスを重ねていたゆりの姿が嘘のように、今司の前にいるのは、悪意と愉悦をその身に纏い、咳き込む司を見下ろしながら、妖艶に口角を吊り上げる、
そして、バッグの中に手を差し入れる。
ゆっくりと、わざと焦らすように取り出された“それ”に、司の喉がゴクリと鳴る。
「……っ!!!」
光沢を帯びたレザーの先端が、空気を切り裂くように視界へ滑り込んだ。
棒の先に逆三角形の平たい革
短鞭。
黒々としたその存在感は、部屋の空気を一瞬で塗り替える。
短鞭を手にしたゆりの表情は、もう先ほどまで抱きしめ合った愛らしい女ではなかった。
「……悪い子な司には…ちゃんと反省してもらわないとね…♡」
短鞭の革の先端に舌を這わせ、艶めかしい表情を見せながら、これでもかという程の色気を漂わせ、ゆりは妖艶に微笑んだ。
それだけで司の呼吸は乱れ、熱を帯びた下半身が一気に硬直する。
──スイートルーム寝室。
足を床に下ろしてベッドに腰掛ける裸の司。
その両脚の間に、ゆりが身体を滑り込ませている。
腕を司の肩に回し、密着するように口づけを重ねながら、もう片方の手にはしっかりと短鞭を握っていた。
「……奥さんとは….する…?」
唇が触れ合う距離で囁かれた問い。
同時に、短鞭の革がスルリと司の太腿を這い上がる。
その感触は、冷たい金属の留め具としなやかな革とが交互に擦れる、異様な刺激。
ぞくぞくと肌から背筋へ、電流のように走る。
「……したことありませんっ…一度も……」
喉の奥から、掠れた声が絞り出された。
思わず太腿が震え、鞭の感触に無様に反応してしまう。
「へぇー…そうなんだぁ」
ゆりは舌先で耳朶を甘くなぞりながら、今度は胸元へと鞭を移す。
革の先端が、司の胸の突起を優しくなぞった瞬間、司の身体はびくりと大きく震えた。
「……“司は”、私とだけ…なんだね?」
あえて「司は」と強調して告げられる。
それは他の男、蓮の存在を無意識に意識させるような、残酷な挑発。
「……っ!」
胸の奥に燃え上がる嫉妬と快感。
その狭間で、司の瞳は熱を孕み、狂気すら帯びはじめていた。
脳裏に、刹那の幻が映る。
蓮がゆりを抱きしめ、熱を交わす光景。
ありえない。
許せない。
その想像だけで、司は拳を固く握り、関節が白く浮き出るほどに力を込めていた。
だが胸の先端を優しくなぞる革の感触。
そこに走るのは苛烈な怒りではなく、甘く痺れる快楽だった。
精神には嫉妬という鋭いナイフを突き立てられながら、身体は反して優しくチグハグに弄ばれる。
その矛盾が、たまらなく麻薬のように心を侵食していく。
そして鞭の先端は、ゆっくりと軌道を変えて、司の硬く膨れ上がったそこへ。
冷たい革が熱に触れ、痙攣のように下腹が震える。
「……司。私の…可愛い司……」
耳元に甘い吐息を絡ませながら、ゆりは鞭を司の下半身へ優しく這わせる。
先端を小刻みに擦り上げ、ゆっくりと上下に撫でさする。
「これはね…司を想って探したの…」
吐息混じりの囁きに、司の心拍は跳ね上がる。
「司を叩くことを想像して…司のことを考えて……数日間…ずーっと司を思い浮かべて選んだんだよ……」
──甘すぎる。
ナイフのように鋭く突き刺さる嫉妬の痛みに続けざま、容赦なく降り注ぐ飴のような慈愛の言葉。
その両極端を交互に浴びせられる感覚は、精神の奥底から甘くも鋭い刺激がズブズブと染み込んでいき、崩壊させられるほどの快楽だった。
飴と鞭。
相反するものを同時に与えられる心地よさに、司の理性はどんどん溶かされていった。
あのプリンセスに涙していた、あまりにも清純な彼女が。
自分を叩くことを想像して日夜、鞭を選んでいたなんて。
考えるだけで、頭がおかしくなりそうなほど堪らない。
「……私に愛されてるでしょ?司は…あんな女と違って…」
甘く、けれど毒を含んだ言葉がゆりの口から零れる。
その声音には、まるで“妻”という存在を妬むような響きすらあった。
ズシンと胸の奥から、甘い感情が溶け出していく。
もう、ゆりは癒しそのものだ。
最高に、最高に良い女だ。
彼女のためなら何もかも、全てを捧げたい。
愛しさがあまりにも強く溢れて、司は耐え切れず彼女に口づけた。
熱が噴き出すように、強く、深く。
ゆりはその熱を受け止めながら司をぐっとベッドへ押し倒した。
ベッドに背を沈める司。
ゆりはその腰に跨がり、唇を離すとゆっくりと上体を起こす。
見下ろすその顔は、先ほどの柔らかな微笑みではない。
一片の感情も見せず、ただ冷たく、無表情に、静かに吐き捨てる。
「……あの女、私のこと“小娘”って言った」
ぞくり、と背筋が震える。
ゆりの声は怒りに揺れているのに、涙ぐむでもなく、あまりにも静かで。
その姿は逆に恐ろしく、同時に愛しくてたまらなかった。
「………ゆりさんは小娘なんかじゃありません…」
司の口から自然とこぼれるのは、甘やかすような響き。
それは慰めというより、盲目的な信仰にも似ていた。
だがゆりの唇は、すぐに冷たい弧を描いた。
「……でもさぁ……司…」
その声音は低く甘い。
「私に、“下がれ”って言ったよね?」
「……っ!」
ビシィッ──!
鋭い音と共に、単鞭が空を裂き、司の胸を叩きつけた。
瞬間、熱い衝撃が肌を走り抜ける。
「あぁっ……!」
思わず声が漏れる。
先ほどまでの甘やかな空気は一転。
そこにあるのは支配と罰の時間。
見下ろすゆりの顔には、もう慈しみはなかった。
愛しい嫉妬心と、冷酷な眼差し。
そのギャップに、司の心臓は破裂しそうなほど高鳴った。
「……“この私と話をする時間より、嫁の方がそんなに大切ですか?”」
ビシィッ──!
「はぁっ……!」
熱い衝撃が胸に刻まれ、司の背筋は反射的に震えた。
(“この私と話をする時間より、そんなに現場が大切ですか?”──)
脳裏に蘇る記憶。
あの日、大会議室で初めて二人きりになった時。
無意識の傲慢さで、自分がゆりに浴びせてしまったあの一言。
まるで鏡写しのように、ゆりは同じ言葉を選び、突き返してきた。
罰の言葉と鞭の熱が一体となり、司の心臓は激しく脈打つ。
「司がこの私を追い出して…あの女に馬鹿にされた!!」
ビシッ──!
「っあぁぁ…!…すみません…っゆりさん…っ!」
痺れるような痛み。
だが同時に、羞恥と快楽が脳を痺れさせる。
鞭の一撃ごとに、ゆりへの罪悪感が甘美な刺激へと変わっていった。
「……司、来て。」
ベッドの上。
ゆりはゆったりと背を預け、ためらいもなく両脚を開いた。
細く長い指で自らを割り開き、艶やかに濡れそぼった秘所を、司の目の前に突きつける。
「償いとして舐めてよ」
悪女の笑みを浮かべながら吐き出された冷たい命令。
その瞬間、司の視界は鮮烈に赤く染まった。
「あぁっ…はぁ、はぁっ…ゆりさんっ!!」
高鳴る心拍。荒れ狂う呼吸。
興奮と羞恥に突き動かされ、司はがむしゃらにゆりの下半身へ顔を埋めた。
────────。
「はぁっ…あぁ…!司っ…いきそう…っあぁ…ほら、もっと……っ」
ピシッ──!
「はぁあっ!!」
背に奔った熱い痛み。
鋭い鞭の一撃は、ゆりの言葉以上に強烈な命令のように、司の肉体を突き動かす。
「…あっ…いく…いく…!もっと奥っ…あぁっ!!」
ピシッ──!
重ねて落ちる快感の鞭。
痛みと屈辱が、甘美な悦楽へと脳髄を狂わせていく。
司は必死に舌を差し込み、指を動かし、ただひたすらに彼女を満たすことに没頭した。
その身体に走る熱は、まるで「奉仕の強制」。
そう錯覚させられるほどの支配だった。
それこそが、最高の屈辱であり、同時に甘い救済でもあった。
「ああぁあーーっ……っ!!」
ビクンッ、ビクッ……!
全身を痙攣させながら絶頂に達したゆりは、その余韻がまだ身体を包む中で、突如、司の腕を掴んだ。
「……っ!」
驚く司を一気に引き寄せ、自らの上に覆い被させる。
そのまま腰に腕を絡めて強引に引き寄せると、花びらがビクビクと痙攣した状態で濡れそぼる中心へ、司を深く──奥の奥まで呑み込んだ。
「ああああーーーーー……っ!!」
堪らない。
舌で突き上げられて絶頂したばかりの敏感な下半身にすぐさま、今度は全てを押し込まれる衝撃。
奥の内壁に届く圧迫感が、余韻と重なり爆発する。
前回の夜で味わったあの衝撃。
司の深いところまでを抱きしめる、この圧倒的な快楽。
もう、癖になっていた。
「はぁっ…あぁっ…最高…っ気持ち良すぎるよぉっ…ああぁ…っ司ぁ…っ」
理性も体裁も投げ捨て、声を荒げて叫ぶ。
ぐっーと腕に力を込め、司の腰を自分の方へ押し付けながら、子宮口に硬く熱い先端を必死に擦りつける。
「んあぁっ…っもっと…っ奥まで…ああ……っ」
欲望に突き動かされ、ゆりは無我夢中で腰を振る。
それは相手を顧みない、わがままで、自分勝手で純粋な欲求に駆られた動きだった。
蓮との営みではこんな勝手は決して得られない。
司とだからこそ掴み取れる、気絶するほどの快感。
ゆりの奥で暴れるたびに、きゅうっ、ぎゅうっと痙攣するようにゆりの中は締めつけてくる。
その内側の律動に、司は一瞬で限界を悟った。
こんなにも早く終わってしまうなんて。
もっと長く、もっと深く、彼女を味わっていたいのに。
「……ゆりさんっ…!い、いっちゃいます…!もう駄目です……離してくださいっ…!!あぁっ、あぁぁっ!!」
必死に懇願する声。
だが、腰を押さえる腕はびくともしない。
むしろゆりはさらに強く、必死に司を奥へ押し込み、自ら腰を激しく揺らした。
「……やーだよ♡」
囁くような甘い声と、無邪気に見せかけた残酷な笑み。
ビュルルルッ……ッ!
「あぁぁーっ!!!あっ…うぅっ…はぁ、はぁ、はぁぁっ…」
司の身体から一気に迸る熱。
喉を裂くような声を上げながら、全身を震わせた。
ゆりの欲望に搾り尽くされ、逃げ場を許されぬままの絶頂。
それはただの快楽ではない。
屈辱。背徳。悲壮。
心を削るはずのその感情が、なぜか全身を痺れさせるほどの快感に変換されていく。
もはや自分でも理解できない。
だが確かに、ゆりに支配され、搾り取られることこそが最高に甘美だった。
「……はぁー……はぁー……はぁー……」
荒い呼吸を落ち着けたかと思うと、司はすぐにゆりへ身を寄せ、縋るように唇を重ねてきた。
必死に、まるで子犬のように擦り寄り、何度も唇を重ねながら震える声を漏らす。
「……ゆりさん…私は、知られたくなかったんです…きっと焦って…咄嗟に追い出してしまっただけです…許してください……」
その声音は切実で、どこか幼さすら漂わせていた。
権力の象徴のような男が、今はただ一人の女に縋り、必死に許しを乞う。
ゆりはそんな司を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。
その仕草に冷酷さではなく、慈愛にも似た甘さがあった。
「……私も知られたくなかったよ…蓮のこと……」
互いの痛みを舐め合うように重ねられるキス。
許し合うように、温もりを確かめるように、柔らかく続いた。
地獄のような底なし沼。
甘さと苦さが交互に押し寄せるこの関係は、もはや抗えぬ依存へと変わっていた。
やがて司はゆりから身体を離し、ベッドの上で膝をつき、跪いた。
大きな体を小さく折り畳み、瞳を潤ませながら。
「……私の全てはゆりさんだけのものです…心も、身体も……命さえも……どうか、ゆりさんだけに……」
声は震え、その必死さは、胸を抉るほど真実味を帯びていた。
「……ゆりさん…私だけの…王女様でいて欲しいです……どうか……お願いします…」
嗚咽まじりに懇願する姿に、ゆりは妖しく微笑んだ。
権力者とは思えぬ惨めな姿。
滑稽過ぎる。
「……司……私はもちろん、司だけの王女様だよ」
ゆりは堪らぬ優越感を含んだ笑みでそう告げると、司の下半身をそっと咥え込む。
驚愕と歓喜の入り混じった声が、喉の奥から迸った。
力を失った司をもう一度固まらせようと、軽く吸い込みながら上下に動かす、
そして熱い息を吐きながら舌を這わせて、上目遣いに熱を帯びた顔で妖艶に司の視線を熱く射抜いた。
アーク映画作品の題材のひとつ、童話「ハーメルンの笛」。
村へ尽くしたハーメルンは、その誠意を踏み躙られた復讐に駆られ、笛の音色で子供達を二度とは戻れない場所へと攫っていく。
その美しい旋律はどんな生物も催眠状態へと導いて、幸せに包まれた虚な笑顔で、疑いもせずに笛に連れられ歩き出す。
「ね……もう一回しよ?司♡」
彼の心に甘い音色を落とす。
気づかれぬように、優しく、深く。
抗えない旋律を纏わせて、永遠に抜け出せない奈落の地まで連れていく──。
司は私の奴隷。
彼女の復讐の笛は、まだ鳴り止まない。
第十七話「俺だけの」
翌日。
ロッカーで制服を脱ぎ、軽やかな私服に着替えてゲートを出たゆり。
勤務を終え、ようやくスタッフとしての顔を置いてひとりの女性に戻れる、そんな安堵が胸を満たした瞬間だった。
シュッ──
走行音が、足元の地面を震わせる。
黒光りする漆黒のリムジンが、ゆりの視界に割り込むようにすっと横付けされた。
場違いなほど異様な存在感。
夕陽を反射して鈍く光るその長大な車体は、ただ停まっているだけで周囲の空気を制圧していく。
数秒前まで日常の延長だった景色が、一気に異質な色を帯びた。
ゆりの足が止まり、胸がざわつく。
次の瞬間。
ガチャ
無遠慮に開かれる扉。
まるで逃げ道はないと告げるように、強制的な誘いが差し出される。
高圧的な空気と共に、車内から蓮の声が響く。
「乗って」
短い一言に、拒否権など微塵もない。
「ユニフォーム管理棟のゲートには来ないでって言いました」
ゆりは眉を寄せ、低い声で返す。
その言葉の奥に、職場での生活を守りたい切実さが滲む。
「お前が電話に出ないからだろ」
淡々とした口調。
けれど抑え込まれた苛立ちは、確かに熱を帯びていた。
はぁ──。
ゆりは深く溜め息を吐き、視線を左右に走らせた。
ゲートを行き交う従業員やスタッフの姿。
ほんのわずかな安堵と、背筋を冷たく撫でる緊張。
その両方を胸に抱えながら、ゆりは静かにリムジンの奥へと足を踏み入れた。
リムジンは静かに走り出した。
厚いカーテンで遮られた車内は外界の喧騒から切り離され、ただ低く響くエンジン音と二人の呼吸だけが支配する。
長い沈黙──。
互いに言葉を飲み込みながらも、頭の中には、二人とも同じ人物の顔を思い浮かべていた
共通の男の存在が、空気を凍りつかせていた。
蓮は組んだ腕をゆっくりと解き、視線を窓からゆりへと向ける。
その瞳には、怒りと疑念と、抑えきれない独占欲が混じっていた。
「……体調悪いって嘘?」
ようやく吐き出した声は低く、鋭い。
「嘘じゃないよ」
ゆりは凛とした口調で言い返した。
視線は窓へ向けられたまま、怯むことなく真っ直ぐに。
その落ち着きは、荒れ狂う蓮の胸に油を注ぐようなものだった。
「……見せろよ」
「は?」
次の瞬間、蓮の手が鋭く動いた。
ゆりの細い身体はシートに押し倒され、強い腕に抑えつけられる。
「…やめてよっ!!」
必死に暴れても、力の差は歴然だった。
抵抗むなしくスカートが荒々しく捲られ、下着が引き下ろされる。
「……っ!」
バシンッ──!!
乾いた音がリムジンに響いた。
蓮の掌がゆりの頬を打ち、白い肌に赤い痕が浮かぶ。
息を呑むゆりの瞳を、蓮は荒ぶる炎のような眼差しで睨みつけた。
休日の彼女は、決して捕まらない。
なんだかんだ理由をつけては誘いをかわしてきた。
そして、たまに応じてくれた非番の日も思い返してみたら。
司が、アメリカやロンドンに行ってた時だけだ。
疑念が形を持って頭を貫いた瞬間、蓮の奥底で嫉妬の炎がさらに膨れ上がった。
蓮の手が荒々しく伸び、ゆりの髪の毛を掴み上げ、顔を上げさせる。
鋭く吊り上がる視線は、もう怒りを通り越して狂気を孕んでいる。
「わざわざ生理とか嘘ついて、昨日は司に会いに行ったの?」
吐き捨てるような声。
唇だけは笑っているのに、眼差しは氷より冷たい。
「そうやっていつも涼しい顔して、俺と司とあっちこっちでやりまくってたわけだ?お前やってることやばいよ」
力強く引かれる髪に、ゆりの頭皮が痛みで熱を持つ。
顔をしかめ、涙を堪えるように眉を寄せた。
「…い…痛いよ、蓮…っは…なして…っ」
その泣きそうな声と震える表情が、怒りに塗れていた蓮の理性を一瞬だけ呼び戻す。
はっとしたように乱暴に掴んでいた髪を放すと、指先が虚しく宙を彷徨う。
「……あいつ、既婚者だけど」
「知ってる」
蓮の押し殺すような低い声。
ためらいもなく返されたその一言に、蓮の胸がざわつく。
「一緒になれない」
「一緒になるつもりない」
きっぱりと言い切る。
その瞳は真っ直ぐに蓮を射抜いていて、取り繕いも嘘も感じられなかった。
「私は司の彼女じゃないし、蓮の彼女でもない」
サァァ──
音を立てて冷たい衝撃が胸を駆け抜ける。
血が逆流するような息苦しさに、蓮は思わず喉を鳴らした。
彼氏彼女という言葉を交わしたことは、一度もない。
約束も、宣言もない。
確かに形式では何もないのかもしれない。
だけど蓮にとって、ゆりはとうに「ただの女」ではなかった。
セフレなんて安っぽい関係で済ませられるわけがない。
もっと、ずっと、取り返しがつかないほど大切な存在。
「…だったら何?…なんでお前がこんな二股みたいなことすんだよ!」
蓮の声は怒号に近かった。
心の奥では違う、その叫びを飲み込んで。
吐き出せたのは、ぶつけどころのない苛立ちだけ。
まずい。
ゆりの胸の奥で警鐘が鳴り止まない。
なんでこんなことになったんだろう。
思い返せばあの日。
私服セキュリティに捕らえられて、抗えずに始まった夜。
そこから芽生えた復讐心。
司の権力に抗うために、必死に踏み込んだ二重生活。
だったらこの方法で、今の状況を切り抜けてやる。
「……私に……拒否する権利ってあるのかな……」
目に涙を浮かべ、上目遣いで困ったように眉尻を下げ、うるうると揺れる瞳。
蓮を見上げるその視線は、怯えと哀願が入り混じった小動物のよう。
「………っ!」
そんなゆりの、うりゅぅ…っと泣きそうな顔を見た瞬間、一瞬で蓮の胸は鷲掴みにされた。
怒りも嫉妬も、すべてを呑み込むように。
更にゆりの攻撃は、怯んだ蓮に追い討ちをかけた。
「……司に私を上納したのは……蓮だよ……?」
ぽろぽろと、頬を伝う涙。
その言葉は、蓮の胸にグッサッッ!!と鋭く突き刺さった。
衝撃と後悔に激しく襲われ、精神は崩壊寸前にまで追い込まれる。
「……ごめんっ!!ゆりっっ!!!!」
堪えきれず、蓮は彼女を思いきり抱きしめた。
その腕に込められる力は、必死さと懺悔そのものだった。
「……ごめん…っ俺が……俺が守るから……っ!どんなことがあっても、絶対にゆりを守るから……!」
きつく抱きしめたまま、震える唇を重ねる。
切なさが堰を切ったように溢れ、執拗に彼女を求めるようなキスに変わっていく。
「……だから……俺だけを見てよ……ゆり……」
囁きは祈りのようで、溺れるように重ねられるキスに、蓮の想いが滲んでいた。
一丁あがりだ。
ゆりは涙をぽろぽろと溢し続けながら
心の中で笑った。
────────。
その後は、いつも通りの蓮の部屋。
まるで何事もなかったかのように、甘く穏やかな時間が流れていく。
お互いに向き合えば崩れてしまう現実がある。
触れてはいけない部分から、わざと視線を逸らすかのように。
だからこそ二人は、この何でもない一瞬を宝物のように抱きしめる。
まるで、互いに守り合うように。
まるで、互いを騙し合うように。
その夜も、ふたりは「いつも通り」を演じることで、壊れやすい日常を繋ぎとめていた。
シャワーを終え、タオルでまだ濡れた髪を軽くまとめながら、ゆりがソファに戻ってくる。
「ふぅー……」
ひと息つくように吐き出しながら、プシュッと缶を開ける。
立ち上る炭酸の音と共に、湯上がりでほんのり赤く染まった頬が灯りに映えていた。
隣に腰を下ろしたその横顔を見た瞬間、蓮の胸にチクリと痛みが走る。
さっきの衝動。
振り抜いてしまった自分の手。
「……ゆり……」
思わず声が漏れる。
伸ばした指先が、そっと彼女の頬へ近づいていく。
「さっきは、ごめん…痛かった? こっちだっけ…こっち?」
肩に腕を回し、抱き寄せながら、手のひらと手の甲で右と左を交互に撫でる。
まるで子どものように確かめる蓮の仕草に、ゆりはぷっと頬を膨らませた。
「めっちゃ痛かった。このDV男」
いじけたようなトーン。
けれどその眉間にシワを寄せた顔と、上目遣いで睨む仕草は、どうしようもなく可愛い。
「本当ごめんって!まじでごめん。絶対もうしないから」
慌てて言い募る蓮に、ゆりは耐えきれず吹き出した。
「あはは。いいよ、もう痛くないから」
柔らかく笑ったその横顔に、蓮の胸がぎゅっと詰まり、ゆりを抱きしめた。
罪悪感と安堵と、込み上げる愛しさ。
抱きしめる腕に自然と力がこもった。
「……蓮が私を想って…やっちゃった事だから。それだけ私に気持ちがあったって思うと、ちょっと嬉しいよ」
背中を撫でながら告げられたその言葉に、蓮は呼吸を震わせた。
「……当たり前だろそんなん…そりゃカッとなるよ…嫌なんだよ俺は」
耳元で絞り出すように落ちた声は、悔しさと切なさが滲んでいた。
抱きしめる腕がわずかに震えているのを、ゆりは感じ取った。
その震えは怒りではない。
胸の奥から溢れ出す、どうしようもなく拙い愛情のかたち。
ゆりはしがみついてくる蓮の身体をそっと押す。
そして、顎をほんの少し上げて顔を覗かせた。
唇をアヒルのように少し尖らせ、目尻をわずかに垂らし、潤んだ瞳で上目遣いに囁く。
「……蓮…ちゅ、して……?」
突然、蓮の胸の炎がボワッと一気に燃える感覚、
怒りや苛立ち、罪悪感なんて一瞬で吹き飛ぶ。
ただ「可愛い」という衝動だけが全身を支配する。
言葉にするよりも早く、吸い寄せられるように蓮はゆりの尖らせた唇に自分の唇を重ねた。
狂おしいほどに愛おしい。
ずるいくらいに可愛い。
抱き締める腕に、自然と更なる力が込められた。
やがて二人は、自然に寝室へと足を運んでいた。
ベッドに身を横たえると、互いに横向きのまま抱き合う。
蓮が抱き寄せる片腕はゆりの頭を優しく支え、自然と腕枕の形を作る。
お互いの身体へ腕を回し合い、脚と脚を絡め、体温を確かめ合うように密着して、そのままとろけるようなキスに没頭した。
ゆりの小さな吐息が、蓮の唇の隙間からこぼれ落ちる。
深く舌を絡め合うたび、甘い痺れが胸を駆け上がっていく。
やがて、蓮の呼吸は乱れ始めた。
そしてもう一方の手が、そっと彼女の背中へ、腰へゆっくりと這うように滑っていった。
蓮の手はゆりの存在を実感するように全身を撫でて這い回り、やがて蓮の指先が胸の中心を優しくなぞる。
ゆりの身体は小刻みに震えた。
同じように、ゆりもまた蓮の胸へと手を這わせ、互いの熱を確かめ合う。
絡め合った足は次第に強く擦れ合い、太もも同士が甘い摩擦を生み出す。
唇は舐め合うように重なり、舌先を求め合いながら、吐息はますます荒く熱を帯びていった。
そして蓮は腕枕をしていた片腕をそっと首元から外すと、肘を突いて上体を持ち上げる。
見下ろすようにゆりを見つめ、次の瞬間、肩へ手を添えてゆりの身体を仰向けへと押し倒した。
ゆりの揺れる瞳を受け止めながら、蓮は迷いなく片手を伸ばす。
柔らかな太ももを押し広げると、ベッドの上でゆりの足は自然と開かされていった。
蓮の中指がゆりの下着越しに窪みを押し、じわりと広がる湿り気を確かめる。
生地の向こうに伝わる熱と柔らかさが、指先を濡らしながら艶やかな膜をまとわせていく。
そのまま指を滑らせて、わずかに上、小さく固く主張する突起を捉えた。
下着の布越しでもはっきりと感じられる存在。
蓮は爪先で上下に小刻みな動きを与え、続けざまに指の腹で円を描くように柔らかく撫で回す。
最初は優しく、しかし徐々に力を強めながら同じ動きを繰り返す。
布を隔てたわずかな距離さえも、敏感な突起に強烈な刺激を伝えた。
ゆりの吐息が乱れ、声が大きく弾む。
快感の波が頂点に触れた瞬間、ピシャッと音を立てるように、突起から勢いよく液体が溢れ出した。
下着越しに蓮の指を濡らす温かな雫。
蓮は一瞬だけ動きを止めると、次いでその濡れ跡を慈しむように撫で続けた。
ゆりの荒い呼吸が色気を帯びて唇から漏れる。
その隙間を逃さぬように、蓮は身を屈めて自分の唇を重ねた。
ゆりは蓮の両肩に手を置き、落ちてきた蓮の唇を受け止めると、自ら舌を絡め取るように深く絡めた。
濃密な吐息と湿った音が交わり、互いの熱をますます高めていく。
キスを続けたまま、蓮の指がゆりの下着に忍び込む。
人差し指で布を横へずらし、中指をそのまま奥まで一度だけ深く挿し入れる。
柔らかく締めつける温かさを確かめると、すぐに抜き取り、その指先はしっとりとした滑りを纏った。
濡れた中指は迷いなく上へと移動し、小さな突起を直に捉える。
そして先ほど布越しに与えたのと同じリズムで、今度は直接刺激を繰り返す。
鋭い快感に、ゆりの身体はびくびくと一定のリズムで跳ねた。
蓮はその反応を感じ取り、口づけをさらに深めながら、指の動きを緩めることなく続けた。
そして、蓮の中指は再びゆりの中へ沈み込む。
内壁の天井をなぞると、とめどなく甘い雫が溢れ出す。
蓮はさらに薬指を添え、中指と揃えて二本を挿し込み刺激を加える。
敏感な箇所を絶え間なく擦り上げられ、ゆりの喉からは抑えきれない声が響いた。
「あぁっ…んああ!っはあっ!あん……!」
頬を紅潮させ、とろけきった顔で蓮を見つめながら、ゆりは自ら頭を浮かせる。
求めるのはただひとつ、蓮の唇。
だが、蓮はその願いを叶えない。
わざと自分の顔をゆりから僅かに遠ざけ、焦らすように逃げた。
「ん…ベロ出して…」
熱に濡れた声で囁きながらも、蓮の指の動きは止まらない。
大きい音で濡れたいやらしい水音を立てながら、二本の指が内壁の天井を刺激し続ける。
喘ぎ声と共に必死に呼吸を乱しながら、ゆりは蓮の言葉に従い、震える舌を伸ばした。
はぁ、はぁ、と濡れた吐息の合間から覗く。
欲しそうに蓮の舌を見つめながら差し出された舌。
蓮は喉の奥から熱を込み上げさせながら、その姿に見惚れる。
「……あー…可愛いー…」
囁くように呟き、唇は決して触れさせないまま、舌先だけを伸ばす。
互いの舌先がちろりと絡み合い、蓮は至近距離でゆりの甘くいやらしい顔を凝視しながら存分に堪能した。
蓮はそれまで焦らすように小刻みに動かしていた手を、いきなり容赦なく激しくかき回すように動かした。
同時に、堪えきれなくなった蓮の舌が勢いよくゆりの口内へと差し込まれる。
舌と舌を絡め、貪るように内側を舐め回し、唇ごと強く吸い上げた。
「あっ…あっ…あんっ…ああーっ」
その瞬間、ゆりの下腹部に溜め込んでいた快感の堤防が決壊する。
蓮の止めどない激しい指の動きに、ゆりの快感は勢いを増して昇りつめる。
────────。
透明でさらさらとした液体が勢いよく噴き出し、ベッドシーツを濡らした。
ブルブルッと全身を震わせながら、ゆりは絶頂に呑み込まれていく。
腰は反り返り、目尻には涙の粒。
止まらぬ吐息と震えの合間で、声は甘く掠れて部屋に響き渡った。
絶頂の余韻に震える身体。
まだ下半身は小刻みに痙攣を繰り返し、脈打つ熱が止まらない。
「っはぁ……はぁ…….はぁ……」
司との夜に刷り込まれてしまったあの感覚が頭から離れない。
絶頂直後に突き当たりまで一気に貫かれ、子宮の奥で痺れるように震える快感。
その記憶が、鮮烈に甦ってきた。
ゆりは震える身体をゆっくりと起こす。
そして蓮の正面で腰を落ち着けると、上体を起こしたまま、白い指で自らの花びらを左右に広げてみせた。
「……入れて……蓮………」
司の熱い鉄が奥まで貫く記憶の快感に全て囚われる。
視点は合わない。
顔は蕩けきり、正気を失った表情で唇が震えながらそれを求める。
「……早く……っ蓮……一番奥まで……お願い……っ蓮が欲しいの……」
煌びやかに濡れ輝く秘所。
開かれた入口はビクビクと脈打ち、まるで彼を吸い込むように誘っていた。
「……………っっ」
蓮の心臓が大きく脈打つ。
視覚だけで全てを溶かされるような、抗いようのない誘惑。
最強すぎる顔面と甘美な身体。
こいつは誘惑のバケモンだ。
理性はとうに砕け散り、固く脈打つ自身は今にも暴発しそうに疼く。
「……あぁ……ゆり……俺もうお手上げだわ……」
低く吐き捨てるように呟き、蓮は一気に覆い被さった。
開かれた両脚の間へと熱を導き、そのまま深奥まで、容赦なく突き込んだ。
「ああぁっ──」
貫かれた瞬間、ゆりは腰をぐーっと自ら押し付け、己の意思で蓮を更に奥深くへと迎え入れた。
子宮の入口に突き当たる感覚。
その強烈な快楽に、全身が小刻みに震え、秘奥はぎゅうっと痙攣しながら蓮を締め上げた。
「はぁぁ…うっ…あぁ…」
思わず声を漏らす蓮。
あまりに強烈な吸い付きに、支えていた腕の力が抜け、パタリと上体をゆりの身体に倒し込む。
ゆりの耳元で熱い吐息を吐きながら、堪え切れずに心の奥から言葉がこぼれた。
「…っ…俺の……女になれよ……」
初めて自覚して、素直に口にした、蓮の想い。
欲望の奥底でようやく形になった告白。
耳をかすめる熱い声に、震えながらもゆりの瞳は虚ろに揺れ、けれど口元だけは艶やかに釣り上がった。
快楽に溺れる中で浮かべたその笑みは、甘さと残酷さを併せ持つものだった。
蓮はゆりの耳元から静かに顔を上げると、そのままそっと唇を重ねた。
触れるだけの優しいキス。
だが離れた瞬間に、ゆりの虚ろな瞳を見つめた途端、胸がぎゅうっと締め付けられる。
蓮の瞳は泣き出しそうなほど切なげに揺れる。
強がりも余裕もどこにもない。
胸の奥を深く抉られるような苦しさに、堪えきれず、どうしようもなく言葉が漏れた。
「……俺だけのゆりになって……頼むから…っ」
奥まで押し込んだまま動きを止めた蓮の熱に応えるように、ゆりの奥はぎゅっ、ぎゅっと規則的に脈打ち、締め付けと解放を繰り返す。
まるで「もっと欲しい」と自ら訴えているように。
ゆりは息を震わせながら、潤んだ視線を絡めて囁いた。
「……私が素直で…本当の私でいられるのは…蓮だけだよ……」
弱くてむき出しの心臓を包まれるような感覚。
ハーメルンの笛の音色のように、甘い旋律が蓮を幸せな催眠状態へと連れて行く。
言葉の後に、ゆりの腰がゆっくりと上下し始める。
身体をしなやかにくねらせ、右肩を少し上げて艶やかに顎を斜めに傾けた。
虚ろな上目遣いの奥に、甘く蕩けた光を宿しながら蓮を見上げるその姿は、狂おしいほどに妖艶で、美しかった。
蓮の熱を、浅いところまでゆっくりと抜き、またゆっくりと挿し込む。
その度に下腹部から込み上げる快楽に、震えるように吐息が溢れる。
あぁ欲しい
下半身が熱い
子宮が疼く
「はぁ….はぁ….」
掠れた甘い吐息。
腰をゆっくり上下させながら紡がれる誘惑の囁きは、まるで美しい笛の音色のように、男の理性を踏み砕く。
「…蓮…はぁ…ぁん…めちゃくちゃにして…私を…あぁ…壊れるくらい…気持ちよく…して…はぁ…お願い…蓮…」
その一言に、蓮の胸が大きく跳ね上がる。
頭の奥が真っ白に弾け、意識をスーッと持っていかれそうになる。
ゆっくりと抜き挿しする彼女の腰。
まとわりつき、吸い付くように離さない内部の感触。
壊れるのはこっちの方だ。
「……お前は……本当に……悪魔だ……」
蓮は歯を食いしばり、次の瞬間、ゆりの腰を強く掴んだ。
理性を振り切り、彼女をベッドに押し倒すと、烈しい勢いで奥へ突き上げた。
蓮は、もはや抑えきれない衝動のままに、容赦なく腰を打ちつける。
ベッドの上で響く音と熱を帯びた吐息。
「……ああっ…ゆり…俺の…はぁっ…俺だけの…ゆり…ああ…っ!」
壊れていく思考の中で、蓮はただ必死に、願いのようにその言葉を繰り返さずにはいられなかった。
幸せの絶頂にあるはずのこの瞬間でさえ、胸の奥は乾ききった荒野のように渇望で満たされていた。
俺だけのものだと繰り返さずには、理性が砕けてしまいそうだった。
熱に焼かれ、震える声は哀願のようでもあり、縋るようでもある。
どんなに焦がれても焦がれても、求めれば求めるほど、ゆりが遠ざかってしまいそうで、そんな焦燥と恐怖が、甘い悦びの裏で蓮を苛んでいた。
「…あぁっ…もっと……蓮っ…気持ちい…っあぁん…蓮…っい…く…っいっちゃうぅ…っ」
絶頂を目前に、ゆりの声は甘く、必死で、縋るようだった。
「あぁーっ…ゆり…出す…っあぁっ……いく……っ」
「……奥に….あぁっ…もっと奥に入れて…っはぁっ…はあっ…いっぱい出して……熱いの…いっぱい奥にっ…」
お互いの身体に必死でしがみつき、唇を押し付け合う。
その瞬間、蓮の先端が突き当たりに叩きつけられ、熱が一気に弾け飛んだ。
どくん、と脈打つ衝撃と共に、灼けるほど熱い液体がゆりの奥深くへと大量に注ぎ込まれていく。
二人の身体は、互いを壊すほど強く抱き締め合ったまま、快楽の渦に呑まれていた。
「……胸が……はぁ…はぁ……痛くて……苦しいよ……はぁ……ゆり……」
消え入りそうな吐息に混じって、悲痛な独白が零れる。
力尽きた蓮の身体は、そのまま重力に負けるようにゆりへと覆いかぶさり、額を彼女の肩へ埋めた。
息は乱れ、声は震え、思考は途切れ途切れに。
ただ無意識の奥から、どうしようもない本心だけが溢れ出す。
ゆりは、そんな蓮の震える想いを感じ取ると、空中へ投げるように視線を逸らし、蕩けた顔のまま、幸福に満ちた笑みを浮かべた。
微笑みながら優しいのに、無力な子供達をその手の中へと堕とすハーメルン。
蓮は私の虜。
彼女の復讐の笛は、まだ鳴り止まない。
第十八話「反則」
夏休みも終わり、ハロウィンイベントを控えた束の間の時期、パークは穏やかに落ち着きを取り戻す。
しかし今日は大混雑の特別な日。
本日から初日を迎える、新たな夜の城前ショー。
日が暮れ、光と音が城をを彩る開演を前に、パーク全体は異様なほどの熱気と高揚感に包まれていた。
メインキャッスルエリア正面。
お城を真正面に臨むレストランの入口は、人波で埋め尽くされていた。
観覧場所を一刻も早く確保しようとする来園者が、通路に立ち止まり、押し寄せ、レストランの動線は今にも塞がれそうだ。
「申し訳ございません、こちらはレストランご利用のお客様専用通路です、観覧エリアはあちらでご案内しておりますので…」
「すみませーん!こちら立ち止まらずにお進みくださーい!」
冷静に、しかし通る声で次々と注意を促す。
汗ばむほどの人波の中、ゆりは来園者に体を向け、手を広げて動線を示しながら、絶え間なく声をかけ続けていた。
小柄な身体が、押し寄せる熱気と人の勢いに飲み込まれそうになりながらも、その瞳は真剣に前を見据えていた。
ふと目をやった先は、ショーを待つ熱気に包まれたテラス席。
その一角で、植え込み花壇に立ちあがりカメラを構える来園者の姿が飛び込んできた。
ライトアップされたお城へ向けてレンズは高々と空へ。
「すみません!危険ですのでお降りいただけますか?それと、こちらのテラス席はレストランご利用のお客様専用で──」
駆け寄ったゆりの声に、来園者が振り返った。
「What!?」
目を丸くするより先に、強い声音が返ってくる。
英語圏のお客様だ。
しかも声も態度も強い。
「あー…アーユー…スピークイングリッシュ?」
自分でも噛むほど拙い言葉が口から飛び出す。
「What are you talking about!?」
畳みかけるように鋭い声。
ショー開演直前のざわめきに重なり、ゆりの心臓がドクンと跳ねた。
緊迫した空気の中、頭の中が真っ白になる。
「えっと……プリーズ……あー…ディス……ノー……ノースタンディング……!」
必死に伝えようと口を動かすが、外国人客の勢いに圧倒されて、つい単語がつっかえる。
指で「降りて」という仕草を交えながら必死に訴えるも、外国人客の表情は険しさを増していく。
その時だった。
背後から低く落ち着いた声が響く。
「Excuse me, sir.」
振り返ると、人混みをかき分けて現れたのは司だった。
すっとゆりの横に立つと、わずかに姿勢を正し、穏やかでよく通る声で流暢な英語を口にする。
「This area is for restaurant customers only, and standing on the flowerbed is dangerous.
Let me guide you to a better spot for viewing the show.」
その堂々とした立ち居振る舞いに、険しかった外国人客の表情がふっと和らぐ。
「Oh… okay, thank you.」
納得したように笑顔を浮かべ、花壇を降りると、素直に司の案内に従った。
司はすぐ近くの観覧エリア担当スタッフを手招きする。
「このお客様を、正面ブロックまでご案内して」
「かしこまりました!」
担当スタッフがすぐに引き継ぎ、外国人観光客をエリアへと誘導していく。
その後ろ姿を見送ると、司は迷いなく踵を返し、再びゆりの元へと歩み寄った。
「すみません…桐生統括…私がちゃんと出来ずに、ご迷惑を……」
プロ意識の強いゆりは視線を落とし、悔しさを隠しきれない顔をした。
叱責を恐れているのではなく、自分の未熟さを恥じている。
その瞬間。
~~~♪!!
バーンッ!パンパーン!!
大音量のファンファーレと共に、闇夜を裂くように花火が打ち上がった。
一気に場内の空気が華やぎ、城に映し出されるプロジェクションマッピングに、スタッフたちが歓声を上げる。
「……!」
ゆりは思わずハッと顔を上げると、先ほどまでの沈んだ表情は跡形もなく消え失せていた。
急いでレストラン入り口前へ駆け戻りながらも、目はお城に釘付けになる。
「うわぁ……やばー……」
子どものように声を漏らすゆり。
光の映像で色とりどりに輝くお城を見上げるその横顔は、さっきまでの萎れた花のような姿ではなく、憧れに心を奪われたひとりの夢見る少女そのものだった。
司は横目でその表情を捉え、思わず息を呑んだ。
(夢中になって……完全に職務放棄だな)
そう心の中で皮肉を浮かべながらも、その視線はやさしく、どこか切なげに滲んでいた。
「来て」
不意に伸ばされた司の大きな手が、ゆりの手を絡め取る。
戸惑う間もなく引かれ、ゆりは慌てて声を上げた。
「え、ちょっ…桐生さん!?」
しかし司は振り返りもせず、レストラン責任者へ短く告げる。
「すみません、早瀬さんを別のエリア対応でお借りしてもいいですか」
「あ、承知しました!」
即座に返る了承の声。
ゆりはますます混乱した。
抵抗も空しく、司に導かれるまま人混みを抜ける。
「えーと確か…あぁ、ここだ」
夜空に映える城の光景を背に、二人はお土産ショップの扉をくぐった。
照明と喧騒に満ちたフロアを素早く横切り、関係者専用のバックヤードへと入ると、司は迷いなく階段を上り、二階の一角にある扉の前で足を止めた。
ポケットからカードキーを取り出し、電子ロックに翳す。
ピーッ──。
短い電子音と共に、扉が解錠される。
「ここ、なんですか…」
不安と緊張を隠せず問いかけるゆり。
司はちらりと横目で彼女を見やり、静かに答えた。
「倉庫です。商品の在庫を管理している部屋。」
司は倉庫の中央に備え付けられた大きな窓へ歩み寄り、厚手のカーテンを両腕で掴んで勢いよく引いた。
ザァッ──と布が揺れ、同時に窓を押し開けると、夜風と共に一気に光と音が流れ込む。
「~~~♪♪~~!!」
空気を震わせるような音楽と、目を焼くほどの眩しい光。
視界の先に広がったのは、一切の遮るものなく見渡せるお城の全景だった。
(…確かこの次だな…良かった間に合って)
心の奥で小さく安堵しながら、司は窓辺から一歩退いてゆりに場所を譲った。
「……わぁー……」
思わず漏れた声は、まるで子どものように純粋で無垢だった。
映像が切り替わり、城壁に鮮やかな模様が描き出される。
次の瞬間、光の中から一人のプリンセスの姿が現れる。
「……わぁーっ……セレナリアー……!」
ゆりは目を輝かせながら景色に釘付けになる。
両手を顔の前でぎゅっと組み、ため息のような吐息を漏らす。
司はこのショーの内容に何度も監修で立ち会い、台本の隅々まで熟知している。
だからこそ、あと数秒で場面が切り替わり、ゆりの大好きな「プリンセス登場」の瞬間が訪れると分かっていた。
ゆりの頬を伝って透明な雫がつぅっと流れ落ちた。
ショーの光に照らされたゆりの横顔は、まるで舞台の一部のように鮮やかだった。
大きな瞳はお城の映像に釘付けで、瞬きすら忘れたかのよう。
頬を伝う雫が光を反射して煌めき、彼女自身がまるでプリンセスに憧れる少女のように映っていた。
新しいキャラクターレストランの企画を告げた時に、堪えきれず涙を溢したあの時も、今日と同じように、プリンセスに心を揺さぶられていた。
職務の時には凛と毅然とした表情を崩さない。
夜の時は全てを支配するかの如く強く。
それなのに、プリンセスが姿を現すと、年相応どころか子供のように純真な顔になる。
そのギャップが堪らなく愛おしい。
司は隣で、只々愛しそうに、暖かい眼差しで見守る。
光と音に包まれ、無邪気に涙を流すゆりの横顔は、彼にとって何よりも美しい光景だった。
そして映像はクライマックスへ。
夜空を焦がすように鮮やかな花火が次々と打ち上がり、照らし出されたお城の中央に、パークの象徴であるメインキャラクター、ノアとリラの姿が浮かび上がる。
観客たちの歓声がひときわ大きく弾けた。
会場の熱気は最高潮に達し、やがて音楽が静かに収束していく。
司はその終わりを知っていた。
胸に込み上げる余韻を抑えながら、そっと窓枠に腕をかけて体を預け、隣のゆりの横顔を覗き込む。
花火の光に照らされた頬は、まだ濡れていた。
涙の粒が消えきらずに、煌めく光を反射して宝石のように輝いている。
「……これでも、まだ権力は嫌いですか?」
小さく問いかける司の声は、花火の余韻に紛れてしまうほど静かだった。
ゆりは目を伏せて、息を震わせる。
「……これは反則ですよ、桐生さん」
ほんの少し拗ねたような声色でそう告げると、彼女は涙で濡れた瞳をお城へ向けたまま笑った。
司の口から零れたのは、心の奥に沈めていた想い。
「……キスしてもいいですか?」
「ずるいですね、本当に」
呟きながらも、ゆりは自ら一歩、司との距離を詰める。
そして、花火の残り香と甘い夜風に包まれる中で、ゆりは彼の唇にそっと自分の唇を重ねた。
それは、まるでフィナーレの余韻を飾るような、静かで熱い口づけだった。
柔らかく触れ合ったはずの口づけは、一瞬で熱を帯びる。
押し殺した感情が解き放たれたかのように、互いの唇は深く重なり合い、強く絡み合った。
(……業務中はお控え下さいね)
以前、ゆりが照れ隠しに笑いながら口にした言葉が司の脳裏をよぎる。
その記憶が逆に背徳感を一層濃くして、司の胸を強く締め付けた。
彼女を抱き寄せる腕に自然と力がこもる。
ゆりもまた、司のスーツの襟を掴むようにして引き寄せ、息を奪うほどに激しくキスを続けた。
窓の外では余韻の花火が散っていた。
だがこの瞬間の二人の世界にはもう光も音も存在せず、ただ互いの熱と背徳の甘美だけが支配していた。
そんな幸せなひと時も束の間、数日後──
《ねー司?この前の件どーなってる? 種付け順調?》
唐突に鳴り響いた着信。
応接室の机に置かれたスマホが震え、司は眉間に皺を寄せながら受話器を耳に当てた。
自宅のラウンジチェアに寝転がり、ワイングラスを弄びながら電話しているのは紗羅だった。
普段は滅多に関わりを持たないが、こうして突然連絡してくる時は決まって一方的で、自分勝手な用件ばかりだ。
「下品な女だな。悪いがその件については取り合うつもりは無い」
淡々と突き放す司の声。
応接室に差し込む午後の光は静かで、彼の吐く冷たい言葉とは対照的に、張り詰めた空気が室内を支配した。
《………はぁ?》
電話口の向こうから返ってきたのは、氷のように冷ややかな声。
怒りを孕んだ響きに、紗羅の苛立ちが滲んでいる。
《あんたこの状況わかってんの?検査の結果はお互い問題無かったわけ。それがどんだけマズイ事か理解出来てる?》
「マズイのはお前だけだろ。俺には関係な──」
《なに、もしかしてもう別れちゃった?》
否定の言葉を最後まで言わせまいと、紗羅は食い気味に遮る。
その強引さに、彼女の自己中心的な性格が滲み出ていた。
だが司が口に出したのは、ただ一つの確かな思いだった。
「彼女にそんな事はさせられない。それだけだ」
ゆりは、司にとって己を奴隷として支配してくれる尊い存在。
桐生家の都合に利用するなど、考えるだけで吐き気がする。
《………へぇー……まさか、今回珍しく本気?》
電話越しの声に含まれる嘲笑。
司は言葉を失い、唇を強く結んだ。
《嘘でしょ? あんなションベン臭い子》
妖しい光を宿すように、紗羅の声音が低く艶めく。
彼女の口元が、電話の向こうで嗤っているのが目に浮かぶようだった。
《……だったらこうしたらどう? あの子に子供を産ませたら、乳母として桐生家に入って貰う》
「………!」
想像も出来なかった突然の提案に、司の心臓が大きく跳ねた。
《そうすれば、結婚は出来なくてもずーっと一緒よ? あの子も産んだ子供を手放さなくてもいい》
まさかそんな方法があるなんて、考えもしなかった。
ゆりとずっと一緒に居られる未来を想像して、紗羅の言葉に司は少し心が揺れた。
《母親は私だけどね》
悪意に満ちた紗羅の声。
嘲るように付け加えられた一言。
例えゆりが産んだ子供を二人で夫婦のように育てても。
体裁上は紗羅の子供。
ゆりは我が子に母と認識される事は無く。
紗羅にあれこれこき使われながら、あくまで乳母として我が子の成長を見守り続けながら永遠に影に追いやられるだろう。
そんな残酷な事があるだろうか。
「………お前だけは彼女に近づかせない。一切関わるな、絶対に」
応接室に響く司の声は、抑えきれぬ怒りと憎しみに震えていた。
スマホを握る手に血が滲むほど力が籠り、その姿は紗羅の悪意を打ち砕こうとする決意そのものだった。
《悪い話じゃないと思うけどなぁ》
電話越しに紗羅の含み笑いが広がる。
怒りに震える司の声を嘲笑うかのように、紗羅はわざと軽く言い放つ。
《もしもあの子に本気なら、真剣に交渉してみてよ。そうすれば“ずっと手元に置ける”んだから》
甘い罠のように差し出された提案。
だがその裏には、ゆりを桐生家に縛り付ける残酷な意図が透けて見える。
「……そんな話はしない」
司の声は低く、怒りを押し殺した響きを持っていた。
だが、その揺るぎない拒絶も紗羅には戯れにしか聞こえない。
《あの子も、司と一緒に居たければ、条件を飲むはずよ》
鋭く突き刺さるその一言に、司の拳が机の上で震えた。
「……っ」
言葉を失う沈黙。
その反応すら、紗羅にとっては格好の玩具だった。
《よろしくね、跡取りくん》
通話の向こうで、妖艶に嗤う気配がした。
司はスマホを強く握りしめたまま、胸の奥を焦がす憎悪を必死に押し殺した。
そして紗羅はいつものように、自分勝手に電話を切った。
第十九話「プレゼンテーション」
本部大会議室──── 。
重厚な扉を抜けると、そこは数十人規模の役員・重役・部長級社員が一堂に会した大規模プレゼンの場だった。
最前列には重役がずらりと並び、背後には各部署のキーマンが着席している。
空気は緊張感に包まれ、プロジェクト発表を前に騒めきすら抑えられていた。
今日のテーマは、メルヘンダイニングのリニューアルオープン「プリンセスダイニング」プロジェクト企画発表会。
蓮は姿勢を正しながら着席し、手元に配られた厚い資料へ目を落とす。
「……あれ、ゆり……」
誰にも届かぬほどの小さな声。
次第表の担当欄には、確かに「早瀬ゆり」の文字があった。
思わず顔を上げて会場を見渡す。
視線の先、遠くの通路で、資料を抱えたゆりが一人ひとりの席を回り、丁寧に配布している姿が目に飛び込んだ。
真剣な表情、少し緊張を帯びた所作。
普段の無邪気さや可愛らしさは影を潜め、今は一人のプロジェクト社員として堂々と振る舞っている。
そして間もなくプレゼン開始時刻。
壇上の脇にはプロジェクトメンバーがずらりと並び、各々が緊張感をまとって待機していた。
「桐生統括、原稿こちらの部分のスクリーン展開って──」
蓮の視線が自然と吸い寄せられる。
そこには、司に資料を確認しながら小さく微笑むゆりの姿。
やり取り自体は完全に業務的だ。
だが、あの柔らかな笑顔がどうしても胸に引っかかる。
苛立ちに似た熱が胸の奥で膨らみ、資料を握る指先に力が籠った。
《それではお時間になりましたので、メルヘンダイニング、リニューアルオープン企画“プリンセスダイニング”企画発表会を始めます》
司会進行の声が会場に響き渡り、静まり返った空気がさらに張り詰める。
次第表に沿い、各項目ごとに担当者が壇上へ上がり、プレゼンが進行していく。
デザインチームからは内装デザインの解説。
運営担当からは今回から新たに導入される有料優先予約“PRIOシステムの”説明。
緻密に練られたスライドと共に、プロジェクトの全貌が少しずつ形を現していった。
《続きまして、新メニュー企画について、フードサービス部の早瀬ゆりスーパーバイザーよりご説明申し上げます》
呼ばれた名がマイクを通して響いた瞬間、蓮の胸が跳ねる。
壇上に歩み出るゆり。
スーツに身を包み、背筋を伸ばして立つ姿は、普段の無邪気さを完全に封じた“SV”の顔だった。
《セレナリアのティアラパフェは、宝石をモチーフにしたゼリーやエディブルフラワーを用い、見た目の華やかさと ──》
澄んだ声が会場に響く。
壇上に立つゆりは、少し緊張をにじませながらも真剣な眼差しで原稿を見つめ、凛とした口調でプレゼンを続けていた。
その姿は、ただ業務をこなしているだけなのに、不思議と輝きを放っていて、蓮の視線は自然と彼女を追ってしまう。
蓮の心の奥でざらついた感情が膨らむ。
何故司が。
冷徹で、傲慢で、横暴で。
部下を使い捨ての駒としか思わず、女を女とも扱わず、徹底して感情を排した鉄の人間。
そんな男が。
よりによって、何故ゆりに興味を抱いたのか。
胸の奥に熱い塊が広がり、資料の文字が霞んで見えるほどだった。
《今回リニューアルオープンするプリンセスダイニングは、プリンセスに憧れて訪れる来園者たちが、おとぎ話を見て、物語を信じて、憧れを叶える場所です。“ここに来て良かった”と心から思えるように。“やっぱりストーリーテイルパークが大好きだ”と、もっと好きになっていただけるように。その願いを込めて、これらの新メニューを企画いたしました。》
真っ直ぐで、一片の濁りもない言葉。
堂々と会場を見渡すその姿に、ざわめいていた空気がふっと整う。
ゆりのプレゼンは、理屈ではなく心を揺さぶっていた。
あぁ、ゆりだからか。
胸の奥が軋んだ。
わかった。
司が惹かれた理由を。
仕事には真面目で、判断は早く、頭の回転も効く。
誰よりもお客様を想い、子どものように純粋にアークを愛する。
二人きりになれば少し冷たく、素直じゃないのに
夜には甘く、無防備で、底なしに可愛い。
しかも信じられないほど床上手。
その多面性。
一度でも触れれば、抗いようもなく沈んでいく。
そうだ。
だからあの司ですら、沼に沈んだんだ。
納得してしまった自分に、蓮は奥歯を噛みしめた。
ゆりを見つめる目は熱を帯び、抑えきれぬ嫉妬と愛しさで胸が痛む。
そんな彼女の数え切れない魅力を、知っているのが自分だけではない。
その事実が、頭を灼き尽くすほど悔しかった。
ゆりのあの可愛さを、司も知っている。
あの笑顔を、あの声を、あの体温を、共有している。
許せない。
許せるはずがない。
俺を見て。
俺だけを見て。
俺だけのものになって。
胸の内で狂おしいほど繰り返しても、現実は無情に突きつけてくる。
──── 。
プレゼンが終わり、会場は大きな拍手に包まれた。
一礼して顔を上げたゆりの視線の先は──
司だった。
壇上を降りると、迷うことなく彼のもとへ駆け寄っていく。
拍手をしながら穏やかに頷く司。
その表情に、まっすぐ屈託なく笑みを返すゆり。
蓮の中で、堰き止めていた何かが音を立てて崩れ落ちた。
壊れる音が、確かに胸の奥で響いた。
その後も次第表通りに、淡々と別の担当者によるプレゼンが続いていく。
会場に響く説明の声は雑音に変わり、蓮の胸の奥に渦巻く思いだけが膨れ上がっていく。
蓮の耳には、内容の一言も入ってこなかった。
《それではここから質疑応答タイムに移ります──》
次々と飛ぶ質問と回答。
重役たちのやり取りが規律正しく交わされ、会場には緊張感こそあれ、波風のない穏やかさが漂っている。
視線の先にいる彼女。
視線を投げても、ゆりは気づかない。
彼女は壇上脇に控え、誠実で凛とした表情を崩さずに発表を終えた仲間たちを見つめている。
俺はここに居るのに。
同じ空間に居るのに。
ゆりは俺を見ない。
俺はこんなにゆりを見てるのに。
胸の奥で膨らんでいく焦燥と切なさが、喉を詰まらせる。
祈るような想いが言葉にならないまま、蓮の心の中で繰り返される。
俺を見てよゆり
お願いだから──
熱に浮かされたように、蓮は堪え切れず、静かに右手を上げた。
「いいですか」
蓮の声音は静かだ。
だが、その静けさは嵐の前触れのように鋭く、ゆりの心を切り裂いていく。
近場にいるスタッフが、蓮へマイクを手渡した。
《新メニューは確かに華やかですが、見た目にコストがかかりすぎていませんか?その価格設定に対して、お客様は“ストーリー”にいくら払うつもりだと想定しています?ブランド力だけに頼ってはいないでしょうか》
《新メニュー企画担当、早瀬SV。お願いします》
進行役が冷静に名前を呼ぶ。
マイクを手に壇上へ進み出たゆりの背筋は真っ直ぐだったが、心臓は激しく跳ねていた。
《…はいっ…お答えします》
声を発した瞬間、ゆりの回答を待たずに蓮の矢が次々と放たれる。
《プリンセスとの触れ合いがテーマとなるレストランとなると、対象顧客は当然女性やお子様ですが、お客様が負担する単価コストにはPRIOのコスト負担も乗っかってくる。たった一度プリンセスと触れ合って、たった1食プリンセスメニューを食事するだけで、トータルどれだけのコストが女性と子どもたちに降りかかるのか、そこまで考えての企画内容ですか?》
「……………」
壇上で、ゆりは言葉を失った。
視線が会場を彷徨う。
だがどこを見ても、鋭い蓮の視線だけが突き刺さる。
《おとぎ話を餌にして、顧客から大金を搾取する行為は……本当にお客様の為を思っての事ですか?》
蓮は気づけば、更に鋭い言葉が口から飛び出していた。
蓮自身、その刃を振り下ろす自分を横から眺めているような感覚だった。
止めたいのに、止められない。
ゆりの心臓がぎゅっと縮む。
その問いは、業務としての指摘を超えて、胸の奥深くに踏み込んでくる。
《……申し訳ありません。価格設定を…見直します》
絞り出すように返す声は震えていた。
だが蓮は止まらない。
こんな事をしたいんじゃないと、胸の奥で必死に自分へ言い聞かせても、嫉妬と苛立ちが血流に混じり、言葉となって勝手に溢れ出していく。
《PRIOの導入で一人あたりの利益上昇を見込むのであれば、メニューにかけられる原価率も見直す必要がありますよね。そこは織り込み済みですか?》
会場に低いざわめきが走る。
蓮の鋭さは理路整然としていて、正論に満ちていた。
だからこそ、逃げ場がない。
《価格を見直せばいいとは雑すぎませんか。それだけでは最終的な利益は伸びません。“物語”と“数字”、どちらも成立する根拠を示していただきたいです。》
矢継ぎ早の言葉に、ゆりの呼吸は浅くなる。
その正当すぎる指摘の数々に、自分の未熟さが浮き彫りにされ、胸を抉られるようだった。
《………企画を一から練り直した方が良いのではないですか?》
最後の一撃が突き刺さった瞬間、会場全体が静かに揺れた。
抑え込まれたようなざわめき。
ただならぬ空気に、役員たちも互いに顔を見合わせる。
壇上のゆりは、震える唇を噛み締めながら、今にも泣き出しそうな顔をして立ち尽くしていた。
そんな中、司がスッと壇上に上がると、ゆりが震える手で握り締めていたマイクをそっと受け取った。
《ご指摘ありがとうございます。確かに見た目の華やかさは一見するとコスト高に映ります。しかし実際には、彼女が細部まで工夫を凝らしており、原材料費は意外なほど抑えられています。食材の色彩や質感を活かし、加工や仕入れ方法を見直すことで、コストと品質の両立を成し得ているのです。》
澱みなく続く言葉。
張り詰めていた会場の空気が一気に変わり、聴衆が司の話へと引き込まれていく。
《さらに補足いたしますと、本場アメリカで既に大人気となっているプリンセスダイニングと比較しても、今回のメニュー原価率は遥かに抑えられています。それでいて、彼女の企画はロンドン本社の成功事例以上に、お客様の心を掴む独自性とクオリティを備えている。私はむしろ、彼女の工夫により大きな成功を確信しています。》
「彼女」
司の口からその言葉が出るたびに、蓮の胸に鋭い棘が突き刺さる。
全身の血が逆流するような怒りを、無理やり押し殺す。
《そして、忘れてはならないのが、“ここはおとぎの国”であるという点です。お客様はただ食事をするために足を運ぶのではない。ここでしか得られない物語を体験するために訪れるのです。物語のために払う対価を惜しまない。むしろ素晴らしい物語のひと時を過ごせたお客様は、価格以上の満足を得て帰っていきます。》
誰の口から夢を語っている?
冷徹で傲慢で、物語なんて一笑に付す男だったはず。
その司が、堂々と“物語”を語っている。
これまでに一度たりとも見た事も、聞いた事もない司の姿、出てくる言葉。
目から鱗が出る程の司の変化の正体。
それは──。
《その“おとぎの国マジック”を誰より理解しているのが、彼女です。彼女がプリンセスに憧れを抱き、心からアーク作品を愛してきたから。だからこそ、ここを訪れるお客様の“憧れたい気持ち”“物語を信じたい気持ち”に寄り添うことができる。その想いを形にした新メニューは、必ずや多くのお客様の心を掴みます。日々現場で来園者と接し、来園者の笑顔のために努力を惜しまない彼女だからこそ、私はこのプリンセスダイニングの大成功を確信しています。》
パチパチパチパチ──。
会場に自然と大きな拍手が湧き上がった。
ゆりを守るように言葉を尽くし、夢を堂々と語る司。
その姿は聴衆の心を完全に掴んでいた。
喝采の渦の中。
蓮の胸の奥ではマグマが暴れ狂っていた。
嫉妬、屈辱、怒り。
自分が止めを刺そうとした彼女を、堂々と救い上げ、夢を語り、観衆の喝采を浴びる司。
《承知しました。それでは企画をそのまま進めて下さい。》
盛大な拍手の中、蓮は煮えたぎるような思いを隠して静かに着席し直した。
プレゼン企画発表会は終了した。
会議室の重い扉が閉じられると、さきほどまでの拍手と熱気は嘘のように消え、場は一気に静けさを取り戻した。
硬い革靴の足音が反響し、参加者たちは資料を抱えてぞろぞろと退出していく。
ロビーへ降り、役員車やタクシーを待つ者たちの姿が次々と消えていくにつれ、ざわめきも薄れていった。
その流れに混じり、司とゆりもプロジェクトメンバーと軽く言葉を交わした。
腕に抱えた資料を整えながらエレベーターに乗り込む。
会議中の緊張が解けたのか、ゆりは小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
肩の力が抜けたその仕草に、司は視線を横へ滑らせる。
一瞬だけ彼女の横顔を見つめ、何かを言いかけたものの、結局言葉にはせずに静かに視線を逸らした。
──ポーン。
ロビー階に到着。
開いた扉の向こうから夜の街灯が差し込み、秋の冷たい夜風がすっと流れ込む。
さきほどまで熱気に包まれていた空気とは対照的に、どこか張りつめた静けさが二人を包み込んでいた。
ゆりと司が並んで、ガラス張りのエントランスを抜けた瞬間──。
夜の街灯に照らされ、漆黒の車体が冷たく光を弾いていた。
堂々と横付けされた一台の黒塗りリムジン。
まるで獲物を待ち構えていたかのように、そこに在る。
ドアの傍らに立つ影。
ポケットに片手を突っ込み、もう一方で無造作に車体をコンッと叩く。
光に浮かび上がったその横顔は、見間違えようもなく、蓮だった。
「……っ」
ゆりの足が反射的に止まる。
胸の奥で冷たい緊張が走り抜ける。
蓮の口元は、笑みにも冷笑にも見える曖昧な弧を描いている。
その双眸だけは、暗闇よりも鋭く、まっすぐに二人を射抜いていた。
「お疲れ様です。素晴らしい企画発表会でしたよ、早瀬SV」
皮肉を混ぜた低い声。
静寂を切り裂くその響きに、ゆりの背筋は粟立つ。
司は立ち止まらず、すぐさま半歩前へ。
自然に、だが確固としてゆりを庇う位置に立ち、司は威嚇するように蓮へ言葉を放った。
「鳳条代表。ここは会社の正面口です。話なら場所を改めて──」
「何の話ですか?」
蓮の声が司の言葉を鋭く断ち切った。
「ここでは出来ない話ですか?」
わずか数秒の沈黙。
だがその間に、場の空気はさらに重く張りつめていく。
そして蓮はゆっくりと一歩、前へ。
硬い革靴の音が、夜のエントランス前に重く響いた。
車寄せに吹き込む夜風が、三人の間を冷たく通り抜けた。
さっきまで賑やかだったはずのエントランス前。
役員や社員たちは次々と車へ乗り込み、残されたのは、ゆり、司、蓮の三人だけ。
しんと静まり返る夜の空気。
その静寂を破ったのは、司の低い声だった。
「……蓮。何か言いたそうだな」
さきほどまでのビジネスモードを解いた声音。
その一言が合図のように、蓮の胸に抑えていた感情が一気に噴き出す。
「なに、司のくせにどーしちゃったわけ?今回の抜擢って私情?」
「私情丸出しはお前だ。あんなのはただの揚げ足取りだ」
「新規プロジェクトの人参ぶら下げて、囲ってるつもり?」
「会議で最初に彼女の名前を挙げたのはフード部だ。俺が最終確定したのは、早瀬SVが誰よりも適任だからだ」
「従業員の適正なんて、お前がちゃんと見て人選した事、これまであったかよ」
「嫉妬か。彼女の能力がわからないなんて経営者として未熟にも程がある」
「やめてくださいっっっ!!!!」
張り詰めた夜の空気を震わせる、ゆりの叫ぶような声。
その瞬間、矢継ぎ早に応酬を繰り広げていた二人の口がピタリと止まった。
「桐生統括は、私のアーク作品やプリンセスへの愛、そしてお客様やパークへの情熱を認めてくださって、プロジェクトチームに選んでくださいました!!」
蓮へ向けて、言葉は鋭くも、感情を押し殺した毅然とした響き。
そして振り返るように司へ。
「鳳条代表のご指摘は、経営者目線でお客様に寄り添うとても的確なものでした!!私の至らなさ故のご指摘であり、とても勉強になりました!!」
二人に向けられるのは、責めでも媚びでもない。
ただ、揺るぎない覚悟とプロ意識の炎。
「以上!!解散っっっ!!!」
その場の空気を一刀両断するように言い放つと、ヒールの音を響かせてツカツカと歩き出す。
ためらいも振り返りもせず、ゆりは迷いなく蓮のリムジンのドアを開け、乗り込んだ。
続いて蓮もゆりの後に乗り込むと、間もなくリムジンのエンジンが低く唸りを上げた。
重厚なドアが閉まった直後、スッと後部座席の窓が下り、窓から顔を出したゆりは、司へ業務的な笑顔を向けた。
「桐生さん、お疲れ様でした。本日は色々と助けていただきありがとうございました。」
リムジンの中から、ゆりが変わらぬ丁寧な声で告げる。
さっきまで張り詰めていた感情の一切を悟らせない、きちんとした“社会人”としての振る舞いだった。
「早瀬さんのお陰で大成功でしたよ。またよろしくお願い致します。」
司もまた、動揺を欠片も見せずに応じる。
ただその瞳の奥で、彼女が隣に誰と座っているのかを痛いほど理解しながら。
「こちらこそです!それでは失礼致します。」
「お気をつけて。」
短く交わされた挨拶。
それは表面上は穏やかで礼儀正しいものの、互いの胸の奥底に沈殿する感情は嵐のように荒れていた。
ブーン──
低いエンジン音を残し、黒塗りのリムジンは夜の街へと走り去った。
「……飯どうする?」
リムジン車内の空気は重い。
窓の外に目を向けたまま、ゆりの顔を見ようともせず、蓮の声は沈んでいた。
そんな蓮の醸し出す雰囲気が、ゆりは少し気になった。
「怒ってる?」
「別に」
我が儘で、自分勝手で、気に入らない事があるとすぐにヘソを曲げるんだから。
ゆりは小さく溜め息をついた。
会話は途切れ、車内に沈黙が落ちる。
ただタイヤの振動だけが、二人の間の重苦しい空気を揺らしていた。
「ルミナリア行きたい」
「は?」
ゆりの唐突な言葉に、蓮は顔を向ける。
ルミナリアは、ストーリーテイルパーク最寄りの駅に直結する複合施設。
ショップやレストラン、映画館が立ち並び、パークを行き交う人々で賑わう場所だ。
「“姫と怪物”の映画、見たいんだよね」
「ああ……え、今?」
上映中のアークグローバルエンターテイメント映画作品。
ゆりが子供の頃から大好きなおとぎ話の題材映画だった。
「映画の時間調べてさ。上映まで時間があるなら先にルミナリアでご飯食べて、すぐ始まるなら終わってから食べようよ」
「わかった」
ゆり本来のマイペースさで、ようやく会話らしい会話が戻る。
ゆりはスマホを取り出して上映時間を調べはじめる。
ピッ
「ルミナリア行ってくれる?」
リムジン内蔵マイクへ蓮が話すと、運転手がハンドルを切り、リムジンはゆるやかに進路を変えて、ルミナリアの駐車場へと向かっていった。
「うーん……上映7時か。まだ1時間以上もあるねぇ」
駐車場に車を停めると、スマホを見ながらゆりが小さく呟く。
「先に飯だな」
「うん、上のレストラン街行こ」
二人はルミナリアの館内へ足を踏み入れた。
施設内はすっかりハロウィン一色に染め上げられている。
石畳風の床に反射するオレンジ色のライト、天井から吊るされたランタンやガーランド。
漂う甘いパンプキンパイの匂いと、鉄板で焼ける肉の香ばしい匂いが入り混じり、耳にはあちこちで弾む笑い声が届いて、賑やかさに包まれていた。
あれこれ迷った末、二人は小洒落な洋食店に入り、さっと夕食を済ませた。
グラスの氷が溶け切る頃には、もう三十分以上が経っていた。
「ちょっとアークストアに行きたいんだよね」
ぱっと立ち上がるゆりに、蓮は仕方なく頷く。
館内吹き抜けに広がる屋外広場は、夜のライトアップに彩られ、壁一面に最新映画「姫と怪物」の巨大ポスターが掲げられていた。
キラキラと反射するイルミネーションに囲まれ、子どもたちがポップコーン片手にはしゃぎ、カップルたちがスマホを掲げて記念撮影をしている。
「可愛いー!素敵ー!」
ゆりは足を止めてはスマホを向け、夢中でシャッターを切る。
その頬には、子どものような無邪気さと、大人の女性らしい輝きが同居していた。
「俺、大人になってからルミナリアまともに来るの初めてかも」
「うっそでしょ!?パーク経営者失格」
「なんでだよ、関係ねぇし」
軽口を叩き合いながら歩くストリート。
ハロウィン装飾に包まれた光景の中を並んで歩く二人の姿は、どう見ても普通のカップルのデートのようで。
蓮はふと気づく。
胸の奥が、どうしようもなく温かく、そして切なく満たされていくのを感じていた。
上映時間が迫ると、二人は館内奥にあるシアターフロントへと向かった。
高いガラス天井からは柔らかな灯りが差し込み、広場には映画を待つ観客たちのざわめきが溢れている。
やがて場内が暗くなり、スクリーンいっぱいに物語が映し出される。
ゆりは開始早々、夢中になったように身を乗り出し、煌めく瞳をスクリーンに注ぎ込んでいた。
蓮はそんな横顔を横目に見ながら、映画の世界に引き込まれていく。
物語のワンシーン。
怪物が、強引な形で自分の城へと置いていた姫。
怪物は姫を釈放し、姫は城を去って行く。
無理やり閉じ込め、手元に置き続けることはできるが、それは彼女の幸せではないと悟ったから。
愛しているからこそ、手放さなければならない。
だが失う苦しみは、己を裂くほどに痛い。
ひとり残された怪物は、空を仰いで悲しげな涙を流した。
それは怒りにも似て、けれどもどうしようもない孤独の表現だった。
蓮は不意に、自分の胸が強く締めつけられるのを感じた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。