最初に気づいたのは、腹だった。
その人間は、うつ伏せに倒れていた。四肢はなかった。最初からそうだったのか、失われたのかは分からない。ただ、そこにあるべき腕や脚という概念だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、滑らかに欠落していた。腹だけが、不自然に膨らんでいた。
ただの内臓の腫れではない。一定のリズムで、内側から皮膚を押し返し、引き戻すような、粘膜的な律動があった。
彼女は妊娠していた。
近づくと、背中に違和感があった。最初は影だと思ったが、影ではない。背中から、手が生えていた。皮膚を破っているわけではなく、肉の襞(ひだ)がそのまま指の形を成しているような、忌まわしくも完璧な配置だった。
一本ではない。複数の手が、それぞれ異なる速度で、まるで水中の植物のように蠢いている。それらは一つの身体から出ているにもかかわらず、個別の意思を持って、空気を、あるいは僕の存在を、探るように動いていた。
「大丈夫か」
僕が声をかけると、数秒の空白の後、背中の手のひとつが、僕の方へ伸びた。指先が空を切るたび、湿った風が吹いたような気がした。その動きは、助けを求めているようでもあり、獲物を検分しているようでもあった。
僕は救急を呼べなかった。言葉にしようとした瞬間、その「事象」が言語の枠組みを容易に踏み越えてしまうことが分かったからだ。
「四肢がなく、腹が膨らみ、背中に複数の手が蠢いている人間がいます」
そんな言葉が、現実の文法として成立することはない。だから僕は、彼女を運び込んだ。正確には、彼女という「現象」に、僕の生活が侵食されるのを、拒めなかったのだ。
部屋に運び込んで、布団に寝かせたとき、初めて顔をちゃんと見た。顔は人間だった。ただし、決定的に「ズレて」いた。目は僕を見ているのに、その視線の焦点は、僕という個体ではなく、僕の背後にある「空間そのもの」を捉えているような、底知れない距離があった。
僕が水を差し出すと、彼女はすぐには受け取らなかった。そして、口を開いた。その瞬間、僕は呼吸を忘れた。顎が動くのではない。口の内部が、細胞レベルで裂けるように押し広げられたのだ。その裂け目の奥には、歯でも舌でもない、肉の湿り気を帯びた一輪の花が、脈動しながら咲いていた。僕は、見てはいけないものを見た。同時に、その光景に、抗いがたい陶酔を感じてしまった。
翌日、僕は師匠のところへ持っていくことにした。師匠はそれを一目見て、僕より早く、その視線を腹と背中の蠢きへと固定した。
「妊娠か」
僕はうなずくしかなかった。
検査は、残酷なほど淡々と進んだ。血液、組織、背中の手の一部。師匠は結果を見ても、眉一つ動かさなかった。
「一致してる」
「何がですか」
僕が問うと、師匠は冷徹な響きを伴って言った。
「全部だ。君の細胞も、彼女の細胞も、その中にある『花』も」
「父親は?」
僕がそう聞いたとき、師匠は初めて、憐れみとも嘲笑ともつかない表情を見せた。
「いない。これは繁殖じゃない」
「……分裂だ」
その瞬間、僕の脊髄を、冷たい電流が走った。あれは、誰かじゃなかった。助けたと思っていたものは、最初から他人などではなかった。僕の中にあった、名前の付けられない衝動や、言葉にできなかった欠落が、彼女という形を借りて、外へ溢れ出しただけなのだ。
彼女のことを誰にも知られたくない。知られてしまったら、彼女は「異常な個体」として定義され、解剖され、僕の知らない「記号」へと変えられてしまう。
僕が嫌だったのは、師匠の手が触れたことじゃない。他人の認識が、彼女の輪郭を確定させてしまうことだ。見られることで、彼女は「個」として固定され、僕との境界線が、残酷なまでに引かれてしまう。
部屋に戻り、鍵を閉めた。閉めた瞬間、世界が一段階遠くなった。ここだけが、既存の物理法則から切り離された、純粋な「未分化」の領域となった。
彼女を床に横たえる。腹の膨らみは相変わらず、内側からゆっくりと、しかし力強く、世界を押し返そうとしていた。そのリズムを見ていると、不思議と安らぎを感じた。これは守っているのではない。僕は、彼女という「僕自身の断片」を、現実という名の檻から、隠蔽しているのだ。
背中の手が動いた。今度は、僕の服の裾を、確かめるように、愛撫するように触れた。その指先が触れるたび、僕の皮膚の境界が溶け、内側から熱がせり上がってくる。
僕は彼女のそばに座り込む。鍵の向こう側で、社会が、言葉が、論理が、騒がしく続いている。けれど、そこにはもう、何の意味もない。
僕は彼女を抱えた。運んだのではない。吸い寄せられるように、そうしてしまっていた。その重さは、もはや他人のものではなかった。自分の欠けた部分を、血肉を、持ち上げているような、痛烈な充足感。
どこへ行くかは決めていなかった。けれど、足は自然に海へと向かっていた。街の明かりが遠ざかるほど、僕の思考は薄れ、境界は曖昧になっていく。
海は、すべてを飲み込む沈黙の中にあった。夜の水面は、何も拒絶せず、ただ、広大な「未分化な空白」として横たわっていた。
僕はそのまま、海へ入った。
冷たさは、一瞬の衝撃に過ぎなかった。すぐに、境界がほどけていく感覚がやってきた。僕の皮膚が、水の分子と混ざり合い、僕の肺が、海そのものと溶け合っていく。何が僕で、何が彼女で、何が世界なのか。その区別は、あまりにも無意味で、あまりにも重たかった。
沈んでいく途中で思う。これは終わりではない。むしろ、分かたれる前の、完璧な静寂へと回帰するプロセスなのだ。
水の中で、すべてが静かになる。
そして最後に残るのは、彼女でも僕でもなく、名前も、形も、区別も持たない、ただ一つの、圧倒的な「生」の胎動だった。
StigmaEcho/Lilly-C【MV】
幻想文学、不条理ホラー、哲学
"己の深淵が、異形の『彼女』として顕現する時、世界は溶解し、生は回帰する。"
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