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ポラリスの羅針盤

神影零

8,861 字

青春文学、ボーイズラブ、悲劇

"一等星が瞬くような君の笑顔が、僕の羅針盤だった。"

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今でも時折、春の星空を見ると思い返すことがある。

私の高校は男子校であった。一般の高校と比べ、男子校というのは特異な部分が多い。
ただ、その特異点というアクセントを削ぎ落として削ぎ落として、何の風味もなくなたものがあの頃の私だった。
何の取り柄もなく、運動は下の下、勉強は中の下、趣味の電車分野だけは上の上で入学以来誰とも馬が合わぬ生活をしていた。
瞼の油で汚れたメガネをつけ、顎には無精髭、前髪は目を覆うまで伸ばしていた。

夏、恋をした。
マスクをした同級生だった。
凛とした顔立ちで、勉強は中の上、運動も中の上、サッカーは上の上。私の持っていないものを全て持っている人だった。
当然私は、高嶺の花だと腹を括っていた。
不釣り合いにもほどがある。自分が一番わかっていた事だった。
自分に相応しい学校なんて、出会いのない男子校がいいだろうと、そんなことを考えて選んだ学校で何を望む?
99%の嘲笑と、1%の恋心が私の心をサクサクと刺していた。

席が隣になった。
またとない絶好のチャンスだった。
好かれれば思惑通り。
嫌われればそれも思惑通り。
授業のたびに会話して、そのままの自分を曝け出した。
髭を剃り、前髪を切り、眉を整えた。
声の震えも、息の苦しさも、乗り越えた。

LINEを手に入れた。
社交的だった彼には、抵抗感はなかったのだろう。
毎日会話を続けた。
たわいもないニュースの話、明日の天気の話、先生の真似、球技大会の打ち合わせ。
時には趣味の話をもした。
「えーそんな自分の趣味熱中できるのすごいと思うけどな」
そんな返信が来ていた。いつも馬鹿にされていたからこそ、沁みた。
ああ、やっぱり嫌われたくなんかないなぁ。
その晩は特に、感じた。

勇気を出した。
一世一代の大博打を打った。
放課後の教室はがらんとして、誰一人として教室に残っていなかった。その日は水曜日だったから、部活動は無く、みんなさっさと帰って行った。
浅く早くなる呼吸を押し殺し、口を開く。

「実は 俺 好きになっちゃったみたいで」

最悪だ。好きになっちゃった、だなんて。好きになったと言えばいいだけなのに。
あざとくて胃がもたれる。
終わりだ。最悪の自分に吐き気がしてきた。涙がこぼれそうになって、抑えれなくなった。

床に二滴、涙が落ちた。一滴は私の、もう一滴は彼のであった。

彼の端正な顔もまた、涙の通り道ができていた。マスクには黒ずむ部分もできていた。
両思いであった。
高嶺の花は、目先の花であった。
そうして、三分ばかり抱き合っていた。この時の三分は、体感では三千年に感じるほどであった。
布越しの体温、しゃくりあげる息、さすられる背中。経験したことのない、そしてこれからも経験することのないほどの、最上の抱擁だった。
彼の笑顔は、まるで一等星が瞬くかのような美しさがあった。

夏休みに入った。
こうなると毎日、互いの家に遊びに行くようになった。
Nintendo Switchを持ち合って、スマブラで戦ったり、たまには私の趣味の電車の話をしたり。時にはJ1リーグの観戦に一緒に行った。暑い中、汗だくになって応援をした。
私がマンチェスターユナイテッドの話をすると、彼はひどく驚いた顔をする。
彼がJR西日本新幹線500系の話をすると、私の顔が変だと彼に笑われる。
そんな日々だった。
彼の笑顔は相変わらず星のように瞬いていた。
かっこよくて、それが大好きだった。
笑い合って麦茶を飲み、時には泊まったこともあった。
同じ部屋で寝ると言いながら、本当は一つのベッドで寝た。
この時の抱擁も、筆舌に尽くせぬものだった。
ゆったりとした心拍と呼吸。まるで私たちのセレナーデであった。

八月三十一日。
通称、夏休み最終日。図書館に篭り、二人で残った課題を猛スピードで片付けた。
私の数学の課題を彼が写し、私は彼の国語の課題を写していた。
そうでなきゃ、終わるわけがなかった。

問一、次の選択肢から筆者の考えを表しているものを選べ。
ウ、人の目を気にしすぎることはかえって不幸を招く。
問二、筆者の幸福に対する主張が書いてある文を句読点を含んで最初の5文字と最後の5文字で抜き出せ。
まさにそれ、花である。
問三、筆者は「人生」をどういうふうに捉えているのか説明せよ。
「筆者は人生を一度だけのものと考えており、後悔しない選択をすることがその人生を豊かにすると言っている。」

なぜこの答えになるのかと聞いた。疑っているわけではなかった。ただ、言葉が聞きたかった。
彼は「俺がそうだと思うから」とだけ答えた。
国語の成績は悪くないはずなのに、なんでこんなことをするのかはよくわからなかった。

午後七時、図書館の閉館とともに、自転車を漕ぎながら二人で帰った。
自転車のタイヤの回転は緩やかで、帰りたくないという一心だけだった。
帰ってしまったら二学期が始まる。
気付けば彼の家の前まで並走していた。
彼が自転車を降り、こっちに歩いてくる。
「いつも俺のそばにいてくれてありがとう。大好き。」
そう言ってぎゅっと私の肩を持ち、顔を寄せた。
ちゅ、と音が鳴る。
初めてのキスだった。舌の味が遅れてやってくる。甘かった。そして、ほんのり苦かった。
彼の顔は耳まで赤く、口元を押さえていた。多分私も、同じように覆っていた。
照れ隠しにおやすみと告げて、私は足早に家から去った。
感触が残る中、自室にこもって悶々としていた。

九月一日。
朝のショートホームルーム。
彼はめずらしく遅刻しているようだった。
先生も事情を知らない、連絡がないと言っていた。一体何があったのだろうと思いながら、ペンをくるくる回していた。
1時間目の古典、2時間目の地理、3時間目の生物。彼は来なかった。
昼ごはんを食べながら、今日の授業のプリントは私が持っていくと先生に伝えようと思った。というより、無意識にそうすべきだと察したのだ。第六感と言うものであった。
職員室にふらりと立ち寄り、ドアノブを握った。
ドアノブが震えていた。何か変だった。
ガラスの中では先生たちが慌ただしそうだった。

夏樹くんのプリントを貰いにきたと言って、職員室に入る。
全員の動きが止まった。
途端、全身を悪寒が走った。
先生たちは口をつぐむばかりだった。
プリントの重みが腕から離れなかった。
4時間目、5時間目、6時間目、ショートホームルーム。5秒にも満たない速さだった。
学校が終わった瞬間、学校を飛び出て彼の家に向かった。
車はそこにはなかった。おかしい。
何かがおかしい。
そういえば、彼の家に行った時、親御さんの顔を見たことが何度あった?
泊まる時にも、そう言えば車はなかった気がする。記憶の限りでは数度だけだった。

家に帰るしかなかった。
道は非常に長かった。体が鉛のように重く、一つも思うように動いてはくれなかった。
家に帰って、一人布団に潜り込む。なにも出来なかった。動けなかった。ただ、これから起こることを知りたくなかった。

九月二日。
朝最初のショートホームルーム。担任が口を開いた。
「三宅夏樹くんが…昨日、亡くなったと、連絡がありました。」

その夜。自転車が悲鳴を上げるまで、近くの葬儀所を回った。彼の顔を一目見たかった。
小さな小さな、葬儀所。三宅家の表示を見て、飛び込んだ。親族と思われる人の顔も気にならなかった。
後悔するから。そうするしかなかった。

棺桶の中の彼は、口を開かず、ただあのときの寝顔のようだった。
寝ていた。寝ているんだ。寝ているんだと思いたかった。
でも、それを否定するかのように、嘲笑うかのように首筋に黒ずんだ線があった。
ああ、苦しんで死んだんだと思った。
泣き崩れて、立てなかった。彼の両親が私を引き剥がし、外に追いやるそのときまで、彼の顔が頭から離れなかった。

高校に行くことはもうなかった。
行ったら涙が溢れて、なにも出来なくなるから。思い出しては泣いてしまうから。
部屋の棚に飾ってある、彼の顔は美しかった。マスクと長く縛られた髪の毛が映えている。
いつになったら彼に会えるのだろう。
また私の名前を呼んでくれるのはいつなんだろう。
願いが叶うことなんてないと思っていても、私はすがることを止められなかった。それが、後悔しない選択だったから。

窓を開けて、春の夜を大きく吸い込む。

一年経っても、彼の粒子はまだそこにあると思っているから。

名も知らぬ白星が、ゆっくりとまたたいた。

悶える中、思い返すのは彼の顔だった。
それでも俺の心には、後悔は一つもなかった。

俺の人生は生まれつき真っ暗なものだった。
幼少期の俺は、ずっと壁の五十音ポスターを見つめていた。習い事もたくさんやった。
英語とピアノ、水泳、そろばん、体操。
どれも長続きはしなかったけど。
小1から始めたサッカーは惰性で続けた。
見るのは好きだったから。やるのは好きじゃないけど。

中学校ではいろんな人に声をかけられた。
全部表面的なものだった。
かっこいい、イケメン、なんでもできる。そんな言葉を毎日毎日浴びてきた。
俺はうんざりした。俺じゃなく、かっこよくてなんでもできる人間が好きなんだ。
そんな薄汚い考えを持つ俺自身に対しても、殴りたいほど嫌気がさしていた。
親もそうだった。俺にずっと勉強をさせ続けた。
大宮から宇都宮まで逃げたこともあった。二日で見つかって、こっぴどく叱られたけど。

中学3年生になった。
詰め込み教育の賜物で偏差値はそこそこの数字を保っていた。
志望した学校の全てがA判定だった。
ただ、俺にも反骨心というものがあった。単純に、このまま頭のいい高校に行ったって俺の人生が良くなることはないんだと感じた。
周りの女子からの黄色い声も、親の夜食の塩おむすびも、全部が俺の脳を見ているようだった。

体を壊した。
サッカースクールで転倒して、受験直前に右腕を折った。
全治2ヶ月。受験が終わるまで右腕が使えない。
偏差値は見る間に下がった。最後の追い込みについていけるわけがなかった。
チャンスだと思った。
一番近所の男子校に行きたいと、親に頭を下げた。
もうあの高い声が聞きたくなかった。
当然、簡単に了承されるわけがなかった。
その男子校は、第三志望の高校と同じくらいの偏差値だったからだ。
親にとってはこの時のために投資をしてきたも同然。そりゃそうだ。
一ヶ月交渉にかかった。
入試で首席を取るとまで言って、無理やり俺の願いを通してもらった。

合格した。
難なく受かった。偏差値が下がったとはいえ、安全校のレベルだったからだ
でも、入学式のスピーチに選ばれることはなかった。それが「首席ではない」ということの何よりの証明だった。
己の才のなさを恨んだ。何ひとつ自分ではできやしない、親に靴を履かせてもらってるだけの小僧なのだと己を憎んだ。
親に怒鳴られた。散々怒鳴られた。もう何もしないと言われた。
俺は何もできていない。焦りが頭を渦巻いた。

友達、と呼んでいいのかはわからないが、毎日昼食を食べるくらいの親しい人は初日にできた。
とはいえ、昼食は全部俺が作ったものだが。親は文字通り、何もしなかった。まあ、学費は払っているっぽかったが。
入学初日、サッカー部の見学に行った。
ずいぶん先輩のプレーが鈍く見えた。俺だったらもっとうまくできる。
軽くドリブルしてシュートしたら、「次期エースに!」とまで言われた。
酷く面白くなかった。
でも、あの頃のキャーキャー言われる頃よりはマシだった。

6月くらいになって気づいた。
俺が弁当…まあ、俺が作った弁当を食う前で、いつもパソコンを見ながら弁当を食べる人がいた。
それが青葉だった。
青葉は誰とも会話する事なく、いつもパソコンと睨めっこしながらご飯を食べていた。
周りの男たちは、青葉のことを「変な奴」と言っていた。
気味が悪かった。何にそんなに熱中することがあるのか。何がそこまで突き動かすのか。
蹴ったボールがゴールに弾かれる。
ガンッ、っと鋭い音がした。

それからすぐに、席替えがあった。
青葉の隣の席だった。
初めて会話した時の青葉の言葉が、今も鮮明に浮かんでくる。
「あ、あの…僕、西野青葉っていいます、これからよろしく…」
顎にポツポツと髭があり、髪はボサボサで目を覆うほどまである。
そんな男子高校生から出てくるには似つかわしくない声で、そんな男子高校生から出てくるのは当然のようなこと。それが初めての会話だった。
俺は、確か「おお、俺は三宅夏樹。よろしくな!」とか、そんなことを答えたと思う。

授業の時の会話は新鮮だった。
いつもは「あ、うーん…ど、うなんだろ…」と歯切れ悪く答えるだけだったが、地理や世界史の時には「それは、ここの教科書153ページの資料を参照したらこの部分だけ明らかに特質な点があって…」と、俺が止めるまでずっと話し続ける。
俺は目を丸くするばかりだった。
なんの飾りもない、無味無臭で砂のような人だと思った。
そして、気付かぬうちに俺は青葉に惹かれていった。
見たことがなかった。
俺の周りの人間は全員へつらう。
恥などないのだろうか、ずっとずっと俺の顔色ばかり見て。
気に入らなかったら捨てて。
でも、青葉は。青葉だけは違った。

弁当を青葉と食べることにした。
そういえば、ずいぶん青葉の顔立ちは変わっていた。
髪の毛は眉の上まで切り、眉毛は整えられ、髭はなくなっていた。
そして、少しハキハキ喋れるようになっていた。
とはいえ、昼は邪魔せず、パソコンを睨む青葉の顔をおかずに白米を食うだけだった。
少なくとも、以前のような昼休憩の虚しさは消えていた。
青葉の顔は変わらないのに、なぜか美味しく感じた。

青葉とラインを交換した。
確か、青葉はクラスラインにすら入ってなかった。一人で孤立していた。
俺がクラスラインに入れようかと聞いても、青葉は「いい」とだけ返信するばかりだった。
本当に自我が強いなと思った。
自我が強く、自分の好きなことを貫ける。
…それって、俺に一番欠けている部分を持っているってことじゃないか?
嫉妬はしなかった。憧れはあった。
以前の俺では考えられなかった。

たわいのない話をする仲になった。
ラインの青葉はずいぶんスタンプをたくさん使う人だった。
猫の絵文字を良く使って、たまに意味もなく絵文字を送ってきたりした。
謎だった。
俺に構う理由なんてないのに。俺に構ったって、こんな俺の内面を知ったら離れていくに決まっているのに。
でも、俺はもうその頃には青葉と縁を切るなんて考えられなかった。
青葉のラインが楽しみになっていた。
次はどんな電車を見せてくれるんだろうか。どんなニュースを見せてくれるんだろうか。
「えーそんな自分の趣味熱中できるのすごいと思うけどな」みたいな文章を送ってしまったこともあった。ずいぶん上から目線で、送信取り消しを押そうとして間違えて削除を押してしまった。もう消せなかった。
青葉は怒ってないだろうか。
そう思いながら、フリーキックの練習をする。
ドッ、と音がしてサッカーボールが飛んでいった。

7月末の水曜日だった。
青葉に唐突に、「放課後に話がある」と言われた。
言われた途端、ドクンと心臓がなった。
何が起きるのか。怖かった。
考えたくなかった。
壊れてしまうから。何もかもが戻ってしまうから。
あんな日常に戻るなんて考えたくもなかった。
でも、放課後は一瞬でやってきた。みんな昇降口から出ていってしまった。
この教室には青葉と俺だけだった。
青葉は唇を噛んで、口を開いて、また閉じて。
しばらく待っていた。

「実は、俺…好きになっちゃったみたいで」

聞いたことがなかった。
「好きになっちゃった」。
俺が好きにさせた。
初めてだった。俺の存在がどれだけ影響を与えたか。それが心にどすんと沈んできた。
青葉は泣いていた。
顔をおさえて、嗚咽を押し殺して。それだけ俺が好きで。壊れるのも厭わずに。
自分だって同性愛だとわかっているはずなのに。普通じゃないって、わかってるはずなのに。
「僕」という一人称を変えて、自分の意思を伝えようと、本気で。
涙がマスクを滴って、一滴落ちた。
ああ、両思いなんだ。
憧れの相手も俺を好きでいてくれていたんだ。
気づいた途端、涙がどんどん溢れてきた。
思えば嬉し泣きの経験は一つもなかった。サッカーのクラブチームが優勝した時でもこんなには泣かなかった。
気づけば抱きしめていた。夕日がさす中、冷房もなくうだるような暑さの中で。
ずっとずっと抱きしめていたような気がする。
ふと時計が目に入った時、長針はそんなに動いていなさそうだった。涙であまり見えなかったが。
彼の笑顔は、まさに平原で咲き誇る青い花のようだった。
その日は自転車で並走して帰った。
並走するのも人生で初めてだった。

夏休みに入った。
当然毎日のように互いの家に遊びに行くようになった。
Nintendo Switchで、スマブラで戦った。3年以上やってなかったのに、案外いい勝負になった。
貯金を崩して、J1リーグの観戦にも行った。青葉の汗がシャツに一滴溢れるたびに、青葉の香りがふわっと漂っていた。
試合の結果は思い出せないくせに、この時の香りは今も鼻腔をくすぐっている。
青葉がマンチェスターユナイテッドの話をした時もあった。すごく驚いて、確か麦茶をこぼしたはずだった。青葉が腹を抱えて笑って、それに俺が怒って。
翌日、俺が一生懸命調べたJR西日本新幹線500系の話をした。青葉の顔はずいぶん間抜けだった。俺もまた、変な顔だと笑った。妙な関係だった。
青葉の笑顔は何よりも支えになった。
親に無視されようと、サッカー部の練習試合だろうと、その後の汚れた服の手洗いだろうと関係なかった。
青葉の笑顔が栄養だった。酸素だった。

親が居ない間に青葉に泊まってもらったこともあった。
親には同じ部屋で寝ると伝えていた。まあ、ラインは当然既読無視されるのだが。
しかし、結局青葉が隣で寝たいと言い出すものだったから、一緒に寝ることにした。
痩せている青葉の体はひんやりとしていて、でもあったかくて。
サッカーの試合を一日やった後よりも、ぐっすりと眠れた。
朝の四時に目が覚めると、青葉が涎をこぼしながら寝ていた。
可愛くてしょうがなかった。眠いことで理性も働いていなかったのだろう。
そっと頬に口付けして、またベッドに潜った。
神様、お願いです。時間が進まないようにしてください。
心の中から、何の算段もなくそんな声が漏れ出た。

八月三十一日。
朝から図書館で課題をしていた。
課題といっても写し作業で、数学ができる青葉の答案を丸写しして、そして俺は国語を解いて青葉に見せるだけだった。
数学のプリント集に、小さく書かれた青葉の字は汚かった。
汚いのに、なぜか読めてしまう。
一ヶ月の付き合いで、俺の脳は進化していた。
D=16・3-36、よって0を超えているので実数解が二つ存在する…
ふーん、と声が出たのと青葉が喋るのが同時だった。
「この問三って、なんでこの答えなの?」
なんでと言われても、良くわからなかった。俺も本文を斜め読みして答えただけだったからだ。
適当に「俺がそうだと思うから」とだけ言っておいた。
青葉はしばらく黙って、ちょっと笑ってからまたシャーペンを握った。

午後七時。図書館の閉館時間だった。
またいつものように、自転車を漕ぎながら二人で帰った。
帰りたくない、別れたくない…そう思いながらゆっくり帰った。
青葉は俺の後ろから離れなかった。
ついに俺の家まで来た。
可愛くて可愛くて、もう抑えられなかった。
「いつも俺のそばにいてくれてありがとう。大好き。」
ぎゅっと肩を持った。顔を寄せた。
あとはそのままに、少し息を吸った。

キスをした。
俺も青葉も、顔を赤くして突っ立っていた。ずいぶん間抜けな顔だった。

青葉の「おやすみ!」の声ではっと現実に戻された。
気づけば青葉の背中はずいぶん小さくなっていっていた。

「…ただいま」
「アンタ。さっき玄関で何してたの。」
四ヶ月ぶりの、母親の声だった。
体が強張った。
「…ごめん、」
パンッと音がした。
頬を叩かれた。
手じゃなく、ベルトだった。学校のズボンのベルトが、頬を掠めたのだと理解した時には、痛みで絶叫した。
「穢らわしい」
「頭がおかしい」
「何もできない愚図」
「障がい者」
そう叫ぶ声と、鈍くバチンと響く音。玄関がその音で埋め尽くされた。

頭の中で何かが爆ぜた。
痛みが遠のく。温もりも、母の声も。
ああ、もう、どうでもいいや。
学校も、人生も、何もかも。
汚れた人間なんて生きていても世の中に害を及ぼすんだから。
終わらせよう。

投げられたベルトの金具が肩にぶつかる。
痛くなかった。
ベルトを持って、自分の部屋のドアを開けて、閉めた。
ドアノブにベルトを掛けて、首を入れた。
そして、足を滑らせた。
気道がベルトに塞がれた。もう息ができない。じきに死ぬ。
もう何も望まないでいい。
もう何も苦しまないでいい。
もう誰の顔も見なくていい。
視界が歪む。音も聞こえなくなってきた。
もうすぐ何も考えられなくなるだろう。
でも、もう生きようとも思わなかった。
それが後悔しない選択だったから。

最後に脳裏を駆けたのは、青葉の微笑む顔だった。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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