第二部 事例1:昨日に囚われ続けた男の場合
わたしの書き方
部活の練習が終わり、僕は友人と3人で帰宅していた。通学路にはとある自動車会社が管理する大きな芝生グラウンドがあった。その隣にはさらに大きなパン工場があった。学校から工場まではおよそ800mぐらい。練習中、パンの甘い香りが漂う頃、夕焼けが僕らを焚きつける。僕は陸上短距離の選手で、校庭に入ってすぐの100mのレーンを主に使っていた。校庭を北南に分けて、北ではサッカー部、南では野球部が練習していた。両者の間、校庭の端っこ西では砂場を使って跳躍種目の練習が行われていた。この4ブロックを周回すると、ちょうど一周200mのトラックができあがる。練習の初めと、時たま終わりにこのトラックを走る。何周かする。アップとダウンだ。リレーの練習で使ったりなんかもする。また、これは僕にとって大事なことなのだが、100mの選手は練習で100mだけを走らない。大抵110とか20m、余計に走る。そうすることで100mを存分に走り切る体力を得るのである。
話を戻そう。僕らはいつものようにその芝生グラウンドの横を歩いていた。僕らの話は物質の反応のように多彩で、そして操りづらい。話し相手が変われば会話の内容もそれに合わせて変化する。2人でいる時と3人でいる時では話の内容もリズムも抑揚も違っていた。誰と2人で歩くかも重要だった。でも僕は3人でいる時が好きだった。グラウンド横の歩道は狭く、2人でぎりぎり歩けるぐらいだった。対向から自転車なんかが来ると、みんな怯えたように体をフェンスに引っ付かせる。無論怯えてなどいない。苛立ちである。そしてまた2人が先頭を横並びに歩き、大抵僕が彼らの後ろを歩いた。それでも彼らの話を聞くのは楽しかったし、たまに自分の意見を彼らの肩越しに投げかけるのも誇らし気を感じていた。パン工場から流れる芳醇な香りは練習が終わるといつの間にか消えているものなのだが、その日はいつもと違い、帰り道でも感じれた。そのことを2人に話した。しかし彼らは練習に真面目に参加しない部員への罵りに夢中であまり反応してくれなかった。1人が一瞬振り向き、片目で返事した。「しない。」今回の僕の手持ちの話題は彼らの話と比べて重要ではなかったようだ。その気になれば2人の会話に否応なく割り込んで爆弾を置くことだってできた。しかし予想される爆発は彼らの髪を少し乱れさせ、ぎこちなくさせる程度だ。しかも彼らの会話は終着に差し掛かっていた。1人の家が近くなって、僕らは彼にさよならをした。2人きりになってすぐ、沈黙の余韻があったので、「匂い」についてもう一度振ってみた。「てかさっきも言ったけど、今日ずっとパンの匂いしない?」「いやしなくね?」「じゃあ俺だけなんかな」「まあ部活中はしてたけど、あいつは?」「しないって」「あー、感覚が研ぎ澄まされてるんじゃない。覚醒すんじゃね」僕らの会話は普段からこんな感じで、現実の話を妄想話で包装するような構造だ。しかしこの時の僕は現実から目を離せなかった。現実を会話にしていたら、会話が現実に現れる。僕らの歩みは工場手前に差し掛かり始めていた。普段なら気に留めもしなかったが、この時は妙に神経質になり、工場の入り口で立ち止まって建物を睨んだ。数秒たって、期待した反応が返ってこなかったので横にいる友人の方を向いた。そこに彼はいなかった。足元には彼が履いていた靴が置かれていた。車道を挟んで対岸を見ると、家々があったはずの場所に工場が建っていた。工事があった覚えはない。僕は夢を見ているのかと感じた。グラウンドと同じ管理下にある横の団地は辛うじて原型をたもっていた。そこにはすでに別れたもう1人の友人が住んでいるのでそこを目指そうとした。しかし足が粘土のように地面に接着して動かない。それどころか、地面はゆっくりと水平移動し、僕の身体を工場の敷地へ運んだ。敷地内に入ると、急に地面から水が湧き出てきた。沖縄で見た美しい海の色だったが、海水だとは思わなかった。靴に浸水する焦りで反射的に片足を上げると、地面との接着は消えていた。自由になった身だが、僕はこの状況に選ばれた自分の使命を感じた。背後を一瞥もせず、僕の体は建物の中へ動き出した。
友人2人とは中学入学以来の仲だ。同じ陸上部に入ったのがきっかけだった。たち昇る石灰と砂とが交じり合い、校舎から間延びした錯覚が僕らにまじまじと識らせる午後3時30分。警官は警官らしく、教師は教師らしく棒を振るう。(第二中学校陸上部による目覚ましい活躍です!関東大会でのご健闘、期待しています!)結局、決勝までこぎつけた「ご健闘」は外部関係者との不祥事により棄権となった。
僕だって被害を被ったひとりだ。これを事件と認めると途端に犯人探しに嗅ぎ回るのが学校の連中だが、たしかにこちらに完全に非があったわけではないとは言い切れない。しかし事の発端は向こうにある。マンホールの外れた道をどうやって気にせず通れというのか。
幸いなのはそのことを顧問がよく理解していたことだ。たとえ理解していなくても、日頃のしごき以上には教え子に対する愛情の深くを知ることができた。事件以降、活動の見直しが行われた。といっても、誰も懲戒を受けることなく、活動が制限されることもなかった。変更になったのは、一日の終わりだけだったミーティングを練習前にも追加するというのと、服装の自由化、シャツ出しの解禁などだ。あとは掛け声の強化。それらがこの事件と無関係だとは誰も言い出せなかった。しかし同時に、少なくとも、誰かから不満が出るほど強引なものでもなかった。それらのルール変更は部員たちの組織としての意識を目覚めさせるのに一役買ったのかもしれないが、それはこの先参加する後輩たちに何ら及ぼす影響ではないのである。もし仮にこの一連が集団を結束する儀式的な意味合いを持って育まれるのであれば、是非その後輩たちにも規則誕生の起源を語り伝えるべきだと思う。
僕は今、悔恨と焦燥の垣根に立たされている。薄枯れ褪せた雨雲のような廊下。道の片方にだけフックがずらりと一列をなし、それぞれに大きさのさほど違わぬナップサックや巾着袋がぶら下げられている。腕一本先の左斜め前方にガラス付きのドアがあったので、忍び寄って覗いてみると、木製の机と椅子の組み合わせがざっと30ほど確認できた。僕は懐かしいその光景に立ち尽くした。郷愁の手綱を握らせたのは、その部屋の前方を埋める黒板だった。ここは紛れもなく母校、かつて通っていた小学校なのだ。ドアを開け教室に入ろうとしたが、廊下を歩き続けることにした。躊躇したのかもしれないし、後ろめたさを感じたのかもしれない。しかし実際のところ、細部にいたる再現っぷりに狼狽しつつも歩みを止めなかったのは、児童も教員も誰1人として確認できなかったからで、したがって閉ざされた出口を見つけ出し、現実切れを引き起こしたこの世界から抜け出すという決死の使命感が生まれるのは必然である。消えた彼のことを気にしなくなったわけではない。この、不気味な体験が夢であれば、必ずいたずらの「山場」が約束されているはずだ。どんな方法であっても種明かししてくれれば、「お望み」の盛大なリアクションを披露してやる。しかし、あのあまりにも不自然な消え方からその後の超現象までの飛躍をみるに、悪友のおふざけでは空中分解してしまうだろう。これは僕に用意された運命からの挑戦状で、それを乗り越えなければ友との再会もありえない。そうやり過ごすことしかできなかった。
血/記憶/土
しばらく廊下を歩き続けると階段付近まで来た。教室や廊下に「懐かしさ」を見出したものの、火をつけた写真のようにぼんやりとした、この膨張し続ける風景からの脱出は、水中で手足をばたつかせるほど無謀に思えた。無様な抵抗によって生まれた気泡は、僕の頭から「しこう」をかすめ取り、すぐさま見えないところへ消えてしまう。気づけば僕の体は階段を降りていた。しかしよく見るとそれは僕の右足だった。右足を失った体はぐらついたが、何とか持ち堪えた。しかし体が大きく右側に傾いたままだったので、その理由を知ろうと視線は自然と下に落ちていた。失ったのは右足ばかりではなく、左足さえも消えていた。2つの足音が廊下に響く。独立した左足は上に、右足は下に降りていった。驚くことに、僕の体は浮いたままだった。そして風が下の階から吹き上げると、僕は風船のように廊下を滑っていった。
突き当たりのとある部屋に近づいていった。扉は閉まっていたが、僕が近づくと急に開き、そのまま僕を吸い込んだ。そこは校長室だった。高級そうなソファの上に辿り着くと、体はそこで止まった。扉に掛け軸が吊るされていた。そこには血/記憶/土と書かれていた。壁に飾られている歴代校長たちの顔は揃って笑顔だった。誰かに覗かれているような気分だった。早く家に帰らないといけないような気がした。急いで自転車を漕ぐ夕暮れの子どもたちのように。しかし体は僕の言うことを聞いてくれなかった。腕をチアダンスのようにいろんな方向に突き伸ばしたり振ったりしてみたが、せいぜい体の向きが変わるだけで、大した効果は得られなかった。次に僕は胸を目一杯膨らませ、全身から息を吐いた。すると部屋の壁に貼られたポスターや書類が一斉に舞い上がり、円を描きながら窓を突き破った。僕の吐いた息はカーペットに波を起こした。波はだんだん大きくなり、部屋を揺らし始めた。そしてさっきの書類のように部屋中のあらゆるものを僕ごと外に吹き飛ばした。
屋根を剥がされた体育館が見えた。バスケをしている何人かがいた。僕の上半身をソファや植木鉢、歴代校長の肖像が回転しながら取り囲み、ぐるぐる、ぐるぐる。僕らは校舎の屋上が見えるぐらい高く昇ってしまった。周りを見渡すと街は工場に覆い尽くされていた。占拠されていた。むしろ草原で休む工場の群れに学校が一つ紛れ込んでるようだった。
両腕に寒気を感じると段々周囲の景色が霞み始めた。霧の中にいた。飛行中の旅客機から見たことのある景色。雲のなか、そう、僕は雲に突入していた。靄は濃度を増し、白濁としていた視界を黄ばんだ灰色が侵食し始める。しかし風船だったはずの僕の身体は気流の影響を感じない。それどころか髪は僅かにも揺れてさえいない。右頬に硬い感触が伝わる。満杯のバケツのような重みが頬を圧迫する。ぼんやりとしていた視界が融け出し、僕はくしゃみをした。鼻を指でこすり太ももで拭いた。驚くことはない。これが僕の本来の姿であり、ただ元に戻っただけなんだ。夢から覚めたんだ。どうやら僕は体育館脇の石畳で眠ってしまっていたようだ。立ち上がって校庭の方へ歩いた。そして隅まで行き、ジャングルジムを見上げた。金属パイプを握る拳に信頼を預け、全身を脱力させた。右肩にかかる負荷を感じながら僕は宙ぶらりんになった。指の付け根に皺が押し寄せる。汗が滲み出し、そして、ゆっくりと滑っていく。固定された錠が外れ、ざらついた感覚が爪を立てながら、指の腹を滑らかに転がる。鈍い衝撃と砂の擦れる音がした。世界が傾きかけるが左足への重心移動で耐える。
生/理性/死
ジャングルジムの横には畑がある。低学年の児童がここで自然の営みと厳しさを学ぶ。その畑の横には一辺1mぐらいのコンクリートブロック塀の立方体があり、貯水槽を乗せている。それが突然、ベルトコンベアが作動したような挙動で移動し、畑の上に覆い被さった。最終的に停止したブロック塀だが、その時の衝撃と移動時の振動の衝突により、貯水槽内で大きな波を発生させてしまった。内部圧力により破裂する配管のように、貯水槽は大量の水飛沫をあげて飛散した。僕はその衝撃で校庭の中央に押し流された。気がつくと僕は海上を漂うビニール袋のように、校庭を浮遊していた。詳しく言うと、校庭は貯水槽の水に侵食され、文字通り「海」になっていた。なんとか体を起こすと意外にも水位は腰ぐらいで溺れる心配はなかった。校舎の方へ向かおうと足を踏み出したが、泥濘に抱きつかれたかのような唐突の足の重量に、つい鈍い唸り声を発してしまった。水中でどうにか靴を脱ぎ、ばた足で校舎へ向かった。水温は感じなかった。視覚情報と、手足を攫われそうになる浮遊感だけが、水中にいることを気づかせる。
昇降口の前まで来た。泳ぎをやめて立とうとしたがうまくいかなかった。足が地面につかないのだ。いつまで経っても目線は水面から上がらなかった。何かを掴もうと手足をばたつかせたが、口の中に水が入ってくるだけで結果は同じだった。息を吸っては唾液と共に思いっきし水を吐く。ばたつけばつくほど呼吸が浅くなり、どんどん水を頬張ってしまう。そうやってもがいていると、いつの間にか着ていた制服が昇降口の扉の前で立っていた。まるで透明人間がいるかのようだった。口に含んだ水を肺の誤作動で飲み込んでしまった。しかし液体が喉を降りる感覚はしなかった。主人から独り立ちした制服は、扉を開け靴箱のある方へ消えていった。僕は裸になった。羞恥心はなかった。なぜなら、僕の身体は透明になったからだ。いや透明ではない、融けていた。皮膚は伸びたスポンジのような網目をつくり、内側から溢れた肉が水中に散布していく。だが同時に見えなくなる。僕は海になった。肉体が液化し、意識と一体となる。正月の墓参りのような寒気が立った。小さな足音と共に昇降口から子供が一人出てきた。服には小枝や枯れ葉がついていた。子供は手に持った枝を水面に向かって投げると駆けていった。
しばらく揺れると春が来た
工場の少年
幻想文学、シュールレアリスム
"日常が融解し、記憶と身体が変容する、夢幻の工場譚。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。