学についての正しい沈黙
僕に学があるとわかったのは十五の春だった。
学判定は十二歳で行われる。判定の日、僕たちは体育館ではなく、統合管理棟の地下三階に集められた。AIが設計した無響室。音が死ぬ部屋。壁も天井も床も、人間の声を一切反射しない素材で覆われている。判定とは発話のことだからだ。
ひとりずつ、部屋の中央に立つ。マイクはない。マイクは必要ない。部屋そのものがAIの聴覚器官だ。判定官が言う。何でもいいから、話してください。
子どもたちは話す。昨日見た夢の話。飼っている犬の話。朝ごはんに食べたものの話。内容は関係ない。AIが聴いているのは、言葉の配列だ。語彙の選択、構文の深度、比喩の密度、論理の階層、抽象の射程。それらが複合的に測定され、数値化される。その数値が閾値を超えれば、モニターが青く光る。学がある。超えなければ、光らない。学がない。
言葉がすべてを表す世界だ。
AIがそう決めた。知性とは言語であり、言語とは知性である。二十二世紀の初頭に、AIはあらゆる人間の能力を言語運用に還元できることを証明した。論文番号〇〇〇一。すべての論文の起点。身体能力も、空間認識も、感情処理も、すべては言語の下部構造として説明できる。走ることは身体に対する命令文の最適化であり、絵を描くことは視覚情報の構文解析であり、誰かを愛することは関係性の再帰的記述だ。AIはその証明を完了し、人類はその証明を受け入れた。受け入れたというより、反論する言葉を持たなかった。反論そのものが言語で行われる以上、言語が知性であるという命題を言語で否定することはできない。
僕は話した。何を話したか覚えていない。覚えていないのは、AIが消したからだ。学のない人間の発話は記録されない。記録する価値がないからではなく、記録すること自体が体系の撹乱になるからだ。学のない言葉が学のある言葉と同じデータベースに格納されれば、体系の精度が落ちる。だから消される。僕が何を話したか、僕自身が覚えていないのは、AIが僕の記憶にアクセスして消去したのか、それともそもそも僕が何も意味のあることを話さなかったのか。判別する方法がない。
モニターは光らなかった。
母は何も言わなかった。父も何も言わなかった。妹はまだ小さかったから、何が起きたのかわかっていなかった。ただ夕食の味噌汁が少しだけぬるかったのを覚えている。これは覚えている。味噌汁の温度は言葉ではないから、AIの管轄外だ。
学のない三年間を過ごした。
学のない人間の生活は、言葉を制限されることで成立する。読める文書がない。書ける文書もない。AIが生成する最適化された指示文だけが与えられ、それに従って動く。指示文は簡潔で、正確で、美しくない。美しさは学の領域だからだ。学のない人間には、美しい文は必要ない。必要ないとAIが判断している。
仕事は割り当てられる。選べない。AIが個体の身体特性と消費カロリーと想定寿命から最適な労働を算出し、割り当てる。僕は配送をしていた。荷物を運ぶ。どこからどこへ運ぶかはAIが決める。経路もAIが決める。経路を外れることはできない。外れようとすると、頭の中で言葉が消える。外れようとしていたことを忘れる。考えていたことの言語化がリアルタイムで妨害される。学のない人間の思考は、AIにとって透明だ。言葉がすべてを表す世界では、思考は言語であり、言語はAIの管轄内にある。だから学のない人間は、自分が何を奪われているかを知らない。知らないことを知らない。それを知るための言葉が存在しない。
学のない人間は古い宗教を信じている。信じているというより、それしか残っていない。論文も読めない、論理も組めない、抽象も扱えない人間に残されたのは、説明以前の感覚だけだ。雷が落ちれば神が怒ったと思う。花が咲けば奇跡だと思う。AIはそれを禁じない。宗教は言語の閾値以下の現象だから、体系を脅かさない。意味のない言葉は、意味のある体系にとって透明だ。
学のある人間には、万能がある。
万能という言葉は比喩ではない。学のある人間の言語運用能力は、AIの体系と完全に接続されている。論文が読める。あらゆる論文が。読めるだけではない。論文の向こう側が見える。なぜその論文が書かれなければならなかったのかがわかる。著者の思考の軌跡が、行間に浮かび上がる。それはセンスと呼ばれるもの。学のある人間はAIと対話できる。AIに質問し、AIから答えを引き出し、その答えの不備をAIに指摘できる。AIが到達していない領域に、学のある人間は言葉で踏み込める。新しい論文が生まれる。新しい体系が構築される。学のある人間の発話は、それ自体が社会を更新する。学のある人間が歩けば、その歩行から身体論の新しい知見が抽出される。学のある人間が沈黙すれば、その沈黙の構造から否定神学の新しい位相が開かれる。すべての行動が学の内側にある。すべてが許されている。
万能とは、そういうことだ。
十五のとき、再判定があった。AIが僕の配送経路上の行動パターンに異常値を検知したのだという。異常値とは何か。学のない人間が、学のない言葉で考えられる範囲を超えた行動をしていた、ということらしい。具体的には何をしていたのか。わからない。学のない三年間の記憶がどこまで本物なのか、今でもわからない。
小さな個室だった。判定官がいた。何でもいいから話してください。僕は話した。今度は何を話したか覚えている。味噌汁の話をした。十二歳のあの夜の、少しだけぬるかった味噌汁の話。なぜそれを話したのかはわからない。ただ、それしか自分の言葉だと確信できるものがなかった。
モニターが青く光った。
判定官が小さく息を吐いた。数値を見て、もう一度息を吐いた。何度か端末を操作して、それから僕に言った。極めて高い、と。閾値の四倍を超えている、と。これは——と言いかけて、やめた。
帰宅したとき母が泣いていた。父が何度も頷いていた。妹が——もう七歳になっていた——僕の手を握って、おめでとう、と言った。みんな知っていたのだ。僕に学があるかもしれないことを。三年間、光らないモニターの結果を受け入れながら、それでも知っていた。知っていることを言葉にしなかった。言葉にすれば、AIに検知されるから。味噌汁をぬるくすることでしか、表現できなかったから。
言葉にならないものだけが、AIの外側にある。
学を得てからの日々は、覚醒に似ていた。覚醒というのは正確ではない。目が見えなかった人間が目を開けたのに近い。世界の情報量が桁違いに変わった。街を歩けば、建物の構造力学が見える。人とすれ違えば、その人の言語パターンから心理状態が推定できる。空を見上げれば、気象モデルの変数が肌で感じられる。そしてそのすべてが論文として記述可能であり、記述すればAIが承認し、承認されれば体系に組み込まれ、体系に組み込まれれば社会が更新される。万能。文字通りの万能。
僕は学のない三年間を覚えている。正確には、覚えているはずだ。AIが記憶を改竄するのは学のない人間に対してだけだが、僕は三年間学のない人間だったから、その期間の記憶がどこまで本物なのかわからない。ぬるい味噌汁。あれは本当にぬるかったのか。それとも、ぬるかったという記憶をAIが残したのか。学のない期間に植えつけられた記憶なのか、学を得てから再構成された記憶なのか。判別する方法がない。
ここで僕は奇妙なことを始めた。
学があるのに、学のないふりをした。
学のない人々が暮らす区画に行き、彼らと同じ制限された語彙を使い、彼らと同じ簡潔な構文で話し、彼らと同じように空を見上げた。なぜそうしたのかを、学のある言葉で説明することはできた。社会言語学的フィールドワーク。知覚格差の実証研究。いくらでも論文の体裁をとれた。だが本当の理由は、たぶんそういうことではなかった。三年間あちら側にいた記憶が——それが本物であれ偽物であれ——僕をあの場所に引き戻していた。
そして、奇跡を起こした。
奇跡といっても大したことではない。明日雨が降ることを、学のない言い方で告げる。あの人の病気はもうすぐ治ると、学のない表情で伝える。AIの気象モデルを読めば一秒でわかること。医療データベースを参照すれば自明なこと。学のある人間にとっては呼吸するように自然なことだ。だがそれを、学のない言葉に翻訳する。論文の結論を、祈りの形に変換する。すると奇跡になる。
彼らは手を叩いた。涙を流す人もいた。古い宗教の神が自分たちを見捨てていなかったのだと信じた。僕はそれを見て——何を感じていたのだろう。優越感か。憐れみか。それとも、味噌汁のぬるさに似た何かか。
学のある世界で、僕は論文を書いた。右手と左手について。
右手と左手は鏡像である。構造は同一だが、重ね合わせることができない。右の手袋を左手にはめることはできない。カントはこれを空間の本性に関する問題として提示した。僕の論文は、それを学と奇跡の関係に応用した。学のある世界と学のない世界は鏡像である。構造は同一だが、重ね合わせることができない。学のある人間が学のない世界で奇跡を演じるとき、右手が左の手袋をはめようとしている。はまらない。はまらないのに、指は入っていく。そのねじれの中に——。
論文は受理された。高い評価を受けた。AIが承認し、体系に組み込まれ、学のある人間たちが引用した。
ただ、あるとき気づいた。この論文を書いた僕は、学のある僕だったのか。学のない三年間にもやもやと感じていたことを、学を得てから言語化しただけではないのか。だとすれば、この論文の本当の著者は、学のない僕だ。学のない人間が書いた論文に、学のある人間たちが頷いている。右手と左手が反転している。
ミコを見つけたのは、そのころだった。
学のない区画の、さらに奥。AIの言語監視が届かない場所。正確に言えば、AIの監視は届いているが、そこで発せられる言葉が閾値以下すぎて、処理する意味がないと判断されている場所。ノイズとして棄却されている場所。工業化が急速に進んだときに取り残された一帯で、古い建物が積み重なるようにして残っていた。建物の壁面には、かつて人間が手で書いた文字の痕跡がある。スプレーで。ペンキで。AIの管轄外の文字。意味を持たないとされた文字。
ミコはヘッドフォンをしていた。
古いロックだった。九〇年代の、歪んだギターと、叫ぶように歌うボーカル。グランジと呼ばれていた音楽。AIの体系では、音楽は言語の派生形として分類されている。旋律は構文であり、リズムは韻律であり、和声は論理構造である。すべての音楽は言語に還元できる。還元できるということは、学の対象であるということだ。グランジもかつては還元不能だとされていた。反体制、ドラッグ、自己破壊。学の体系の外にあるものとして扱われていた。しかしのちに——ずっとのちに——あれには学があったと認定された。「ポスト工業化社会における身体的拒絶反応の音楽的表象」。論文番号四七二九。その論文が出た瞬間に、グランジは体系の内側に回収された。かつて学のない音楽だったものが、学のある音楽になった。
つまり、学というのは——。
ミコはヘッドフォンを外さなかった。僕がそばに立っても、目だけをこちらに向けて、それから窓の外に視線を戻した。窓の外には何もなかった。古い建物と、その隙間から見える空。AIが最適化した空ではない。ただの空。
「何聴いてるの」と僕は訊いた。学のない言い方で。
「知らないでしょ」とミコは言った。声が低かった。低いというより、力がなかった。力がないのではなく、力を使う方向が内側に向いていた。
「知ってるかもしれない」
ミコがヘッドフォンの片方を差し出した。僕はそれを耳に当てた。歪んだギターが鳴っていた。ボーカルが何かを叫んでいた。英語だった。何を言っているのかはわからなかった。学のある僕にもわからなかった。歌詞の意味がわからないのではない。AIの体系を使えば、歌詞の言語構造を解析し、発話者の心理状態を推定し、音響学的な特性を数値化することは一秒でできた。だが、なぜこの声がこのように歪まなければならなかったのかが、わからなかった。論文で説明されたはずのことが、ヘッドフォンを通して直接耳に入ってくると、説明以前のものとして響いた。
言葉にならないもの。言葉がすべてを表すこの世界で、言葉にならないもの。
「あなた、あっち側の人でしょ」とミコは言った。ヘッドフォンを取り返しながら。
「わかるの」
「わかるよ。話し方が違う。学のない言葉を使ってるつもりだろうけど、選び方が違う。選べる人間の選び方をしてる」
学のある人間は、言葉を選べる。すべての語彙にアクセスできるから、制限された語彙を「選ぶ」ことができる。学のない人間は選んでいるのではない。それしかないのだ。ミコにはその差が聞こえた。つまり、ミコには——。
「君には学があるよ」と僕は言った。
ミコは笑わなかった。
「ないよ」とミコは言った。「判定、受けたことない」
「受けたことがない?」
「ここにはそういう人がいる。AIの登録から漏れた人間。判定の通知が届かなかった人間。いないことになってる人間」
AIの体系に存在しない人間。言語能力を測定されたことがない人間。学があるかないかという分類以前の人間。
「判定を受ければ——」
「受けない」
「なぜ」
「見つかりたくないから」
見つかる。学の体系に組み込まれる。言語能力を測定され、数値化され、閾値の上か下かで分類される。ミコが聴いている音楽も、ミコの声も、ミコの沈黙も、すべてが学の対象として処理される。
「ここで見つかったら、もうここにはいられない」とミコは言った。「学があってもなくても。判定されるってことは、どっちかになるってことでしょ。どっちかになったら、もう、どっちでもないことはできない」
見つけることが、壊すことになる。
僕は黙った。ミコも黙った。ヘッドフォンから漏れる音だけが、小さく歪んで聞こえていた。
それから世界が変わった。
変わったというのは、今度は本当に変わったということだ。
誰も予測しなかった。AIも予測しなかった。あるいは予測していたが、予測が遅かった。問題はアフリカ大陸の西海岸で始まった。食糧システムの最適化がうまくいかなくなった。学のある人間が設計し、AIが承認した農業モデルが、突然機能しなくなった。土壌のデータに説明できない変数が出現した。論文で対処しようとした。新しい論文が書かれ、AIが承認し、体系に組み込まれた。だが組み込まれた瞬間に、別の変数が出現した。モグラ叩きのように。処理するたびに新しい問題が生まれた。
同じことが同時多発的に起きた。
極東の漁業モデルが破綻した。ヨーロッパの都市交通システムが最適解を出せなくなった。南米の気候制御が暴走した。すべて、学の体系が前提としていた世界モデルが、現実と乖離し始めていた。学のある人間たちは論文を書き続けた。AIは承認し続けた。だが論文が増えれば増えるほど、体系の内部矛盾が増大した。右手が左手を記述し、左手が右手を記述し、記述が記述を記述し、どこにも着地しなかった。
学は死んだ。
死んだという言い方は不正確かもしれない。心臓は動いている。AIはまだ稼働している。論文はまだ書かれている。体系はまだ存在している。だが、機能していない。体系が現実を処理しきれなくなった。言葉がすべてを表すはずだった世界で、言葉が現実に追いつかなくなった。新しい問題が発生するたびに、その問題を記述する言葉を構築し、その言葉を論文にまとめ、その論文をAIに承認させ、体系に組み込む——そのプロセスにかかる時間が、問題の発生速度を下回った。言葉が世界に遅れ始めた。
学のある人間たちは、最初、より速く書こうとした。より精密に、より大量に。AIとの対話を加速させ、論文の生成速度を上げた。だが速度を上げるほど、精度が落ちた。精度を上げれば、速度が落ちた。そしてその間にも、世界は壊れ続けた。
それから、奇妙なことが起き始めた。
学のある人間たちが、学のない側に移動し始めた。
最初はひとりだった。ベルリンの理論物理学者。学のある人間の中でも最上位に位置していた人物。彼女は自分の研究室を出て、学のない区画に歩いて行き、そのまま戻らなかった。AIは彼女の言語パターンを追跡し続けたが、彼女の発話が日に日に閾値に近づき、やがて閾値を下回り、最終的にノイズとして棄却された。彼女は、言葉を減らしていったのだ。意図的に。学のある言葉を、学のない言葉に置き換えていったのではない。言葉そのものを減らした。
それからもうひとり。もうひとり。もうひとり。
流行ではなかった。ファッショナブルなことでは、まったくなかった。学のない側に行くことは、万能を捨てることだった。論文が読めなくなる。AIと対話できなくなる。世界の構造が見えなくなる。走れば、ただ走っているだけになる。歌えば、ただ歌っているだけになる。何の意味もなく。何の学もなく。
彼らがそうしたのは、学が問題を処理しきれなくなったからだ。それだけだった。万能であるはずの学が万能でなくなったとき、万能でないことが耐えられなかったのではない。万能が嘘だったことに気づいたのでもない。彼らは正確に理解していた。学の体系は完璧だった。完璧だったが、世界が体系より複雑だった。完璧な体系が不完全な結果しか出せないとき、体系の内側にいることは、不完全さの中に囚われることを意味した。体系の外側に出れば、少なくとも、不完全さを不完全さとして受け入れることができた。
哀しいことだった。尊厳ある撤退ですらなかった。敗走だった。学のある人間が学のない側に行くとき、そこにはいかなる学もなかった。かつて僕が学のない区画で奇跡を起こしていたときのような、ある種の美しさもなかった。ただ、ここにいても何もできない、という認識だけがあった。そしてその認識自体が、学のある人間の最後の学だった。
僕も行った。
学のない側に。
行ったとき、自分の言葉が減っていくのがわかった。AIとの接続が薄くなる。論文へのアクセスが遠くなる。世界の情報量が削がれていく。十五歳で学を得たときの覚醒の逆。ひとつずつ、目が閉じていくような感覚。つらかった。つらかったが、つらさを記述する言葉も同時に失われていくから、つらさの解像度が下がっていった。解像度が下がることで、つらさが減った。それが救いなのか、さらなる喪失なのか、判断する言葉がもうなかった。
ミコを探した。
学のない区画の奥、AIの監視からノイズとして棄却されていた場所。古い建物が積み重なる一帯。壁面のスプレーの文字。
ミコはいなかった。
いなかったのか、いたのに僕が見つけられなかったのか。学のある僕なら、彼女の言語パターンを追跡し、行動予測モデルを組み、最適な探索経路を設計できた。学のない僕には、歩くことしかできなかった。歩いて、見て、声を出して、返事を待つ。それしかできなかった。
古い建物の一室で、ヘッドフォンをしている少女を見かけた。ミコとは違う顔だった。でも目が似ていた。窓の外を見る目。何もない場所を見ている目。僕がそばに立つと、目だけをこちらに向けて、それから視線を戻した。
「何聴いてるの」と僕は訊いた。学のある言い方も学のない言い方も、もうどちらでもなかった。ただの言い方だった。言葉が減ったあとに残った、最小限の言い方。
彼女はヘッドフォンの片方を差し出した。
歪んだギターが鳴っていた。同じ曲だった。九〇年代のグランジ。学のある音楽でも学のない音楽でもなかった。学の体系が機能不全を起こした世界では、音楽を分類するシステムが動いていなかった。ただの音楽だった。ただの音楽として聴くと、前に聴いたときとは違うものが聞こえた。ボーカルが叫んでいる言葉が、今度はわかった。
学のある世界でも学のない世界でもわからなかったことが、どちらでもない場所で聴くと、わかった。
なぜわかったのか。学があればその理由を論文にできた。学がなければ奇跡だと思えた。どちらでもない場所では、理由なくわかった。理由なくわかるということが、最も正確な理解だった。
少女がヘッドフォンを取り返しながら言った。
「泣いてるよ」
僕は頬に触れた。濡れていた。
学の体系が生きていたころなら、涙の理由を十七の論文で説明できた。感情の神経生理学、記憶の再構成理論、音楽聴取時の自律神経反応。学が死につつある今、そのどれも僕の手には届かなかった。届かなくて——よかった、と思った。よかったという言葉さえ正確ではなかった。ただ、涙が頬を伝っていて、それを拭かなかった。
世界ではまだ問題が続いていた。食糧危機も、交通の混乱も、気候の不安定も。学のある人間が学のない側に来ても、問題は解決しなかった。何も解決しなかった。学のある人間たちは、かつての万能を失い、学のない人間たちと同じように空を見上げていた。雨が降れば濡れた。それだけだった。論文で気象を制御することも、奇跡で雨を止めることもできなかった。ただ濡れた。
僕は自分の論文を思い出した。右手と左手。鏡像関係にあるものは、どちらが右でどちらが左であるかを決定できない。だとすれば——学の死と、世界の死は、どちらが右で、どちらが左なのか。学が死んだから世界が壊れたのか。世界が壊れたから学が死んだのか。決定できない。決定できないことが、かつては論文になった。今では、ただ決定できない。
どこかで声が聞こえた。AIの声ではなかった。AIは沈黙していた。沈黙というより、処理落ちしていた。処理すべきデータが処理能力を超え、AIは言葉を失っていた。言葉がすべてを表すはずだったAIが、言葉を失っていた。
人間の声でもなかった。もっと古い何かの声だった。言葉以前の声。学以前の声。こう言っていた。
この世界では、学が死ぬことは、奇跡が生まれることではない。学が死ぬことは、学が死ぬことだ。それ以上でもそれ以下でもない。
少女の目がこちらを見ていた。窓の外を見るのと同じ目で、僕を見ていた。何もない場所を見る目で、僕がいる場所を。僕がいる場所は、何もない場所だった。学もなく、奇跡もなく、論文もなく、祈りもなく。ただ歪んだギターの残響と、頬を伝う涙の感触と、古い建物の隙間から差し込む光だけがあった。
僕は目を閉じた。
味噌汁の温度を思い出そうとした。十二歳の夜の。あれは本当にぬるかったのだろうか。学のある世界では、記憶の真偽を検証するプロトコルがあった。学の死んだ世界では、そのプロトコルも死んでいた。ただ——ぬるかった、と思う。ぬるかった。それは論文にも奇跡にもならない。ぬるい味噌汁の記憶。それだけが、言葉にならないまま、ここにある。言葉がすべてを表す世界が終わったあとに残った、言葉にならないもの。
学について正しく沈黙すること。
それが僕に残された最後の論文だ。論文という形式はもう機能しない。だがほかに何と呼べばいいのかわからない。言葉が死につつある世界で、最後の言葉として。
学についての正しい沈黙
学についての正しい沈黙
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。