その日、加山家を訪れたのは異例とも言える人物だった。何しろ、この家には縁遠いと思われる妙齢の女性なのだから。
「……大丈夫、大丈夫……」
彼女はもごもごと呟くと、インターホンを押す。しばらくして返ってきた『はい、どちら様でしょう』という若い男性の声に、背筋を伸ばして答えた。
「奏撰社の香住です。花山様とのご契約に伺いました」
声に緊張が含まれているのは、今回の相手が難物だと聞かされているからだ。フリーライターのくせに未だ二社としか契約しておらず、書いた記事も然程多くない。だと言うのに、奏撰社の編集部長が彼を――正確には彼の書く文章を――見初めてしまったのだ。
花山柾の記事が載っていた『梢』の出版元、樫の木出版に問い合わせ、渋る先方を説き伏せてアポイントメントを取り付けたのだ。何としても契約して来い、とは部長からの厳命である。
(確か同じくらいの歳だったし、いざとなったら色仕掛けでも……)
彼女――香住絵梨花には自信があった。齢二十六。まだ若いとも言えるし、大人の色香だって醸し出せる。更に、それなりの容姿もある。男性からの誘いは引きも切らない。今なら堕とせない男はいないとすら思っている。
せめて、色仕掛けをしてもいいと思える相手でありますように、と願いながら待っていると、玄関のドアが開いて黒髪の少年が姿を見せた。
(うわ……ちょっと地味だけど超可愛い!)
肩まで伸びた黒髪は少々野暮ったく感じるが、その顔の端正さの妨げにはなっていない。切れ長の目元は不思議と柔らかな雰囲気を醸し出し、整えられた目鼻立ちとは相反する可愛らしさを見せている。吸い込まれそうな黒い瞳は、程々に潤んでいる為か明るく輝いて見えた。大人っぽい色香を放つ造作に無垢な子供のような愛らしさが同居していて、どこかアンバランスさを感じさせる魅力がある。
歳の頃は十七、八か。となれば、彼は花山と同居しているという甥の方だろう。シンプルなTシャツとジーンズの上にこれまたシンプルなエプロンを掛けている。
「お待ちしていました。どうぞ」
花が綻ぶような明るく柔らかな笑顔で、彼は香住を迎え入れた。香住の好みとは違うが、美少年にエスコートされ、気分よく屋内に通される。
(ヤバいなー、仕事忘れちゃいそう)
天然物の美少年など、社会に出たらそうそうお目にかかれない。取材で声を掛けるような若者は、大抵が作り上げられたイケメンとやらだ。どれもこれも同じような顔で飽き飽きしていた。
上手く契約に漕ぎ着いて担当編集者になったら、依頼の度にこの美少年と顔を合わせる事が出来る。そう思ったら俄然やる気が出てきた。
(これは何としても契約取らなきゃ)
そう気合を入れて、リビングルームに入る。と、ソファに座る人物を目にした途端、香住の時が止まった。
気怠げに背もたれに身体を預け、伏し目がちに手元の文庫本を眺めている美青年――そう、そこに居たのは正しく美青年だ。昨今の『イケメン』などという安っぽい言葉では形容出来ないその容姿。
窓から射す陽光で、睫毛の影が形の良い目元に掛かっていた。柔らかそうな茶褐色の髪は、陽に透けて明るい金にも見える。日本人には珍しいくらいに透き通る肌の色。高い鼻梁と薄く均整の取れた唇の形が妙に色っぽい。こちらに気付いて向けられた瞳の色は青みがかったグレーで、これまた日本人には珍しい色彩だ。切れ長の目と気の強そうな眉が男性らしさを主張していて、全体的な印象はまるで、
(王子様がいる――!)
それこそ、少女漫画に出てくるような王子様。香住がこれまで会った男性の中では間違いなくトップに躍り出る美貌の持ち主だった。
「お茶をお出ししますので、どうぞお掛けになってください」
声に振り返ると、愛らしい黒髪の美少年。美形二人に挟まれるなど、夢の世界に迷い込んだような気分だ。
「はい……それでは、お言葉に甘えて……」
思わず茫洋と答え、香住は我に返る。仕事で来たというのに。
促されるままソファに腰掛ける。見た目はシンプルだが、相当に良い品らしい。絶妙な弾力で、ふわふわと浮いているような座り心地だ。
(何? 何なのここ? 本当にこれ現実?)
目の前にある全てが浮世離れしている。漫画か乙女ゲーの世界にでもいるようだ。
と、挨拶の言葉を思い出そうとしていた香住の前で、美青年の口が開いた。
「俺、これ以上は契約増やすつもりないんだけど」
染み込むような低い声は、香住の思惑とは逆方向の言葉を紡いだ。
「…………はい……?」
「新井さんからの紹介だっけ? 俺の身体が弱いって事は聞いてる?」
矢継ぎ早に尋ねられて、頭が回らなくなった。ちょっと待て。いきなり拒否から入られて、どう話をしろと。
香住が口を開け放していると、眠そうな目の王子様はだらしなくソファに身体を沈めた。
「俺、別に仕事しなくても生活には困んないんだよね。無理に動くと体調崩すし、今以上に依頼受けるのヤダ」
妙に子供っぽい口調と低い声がミスマッチだ。見た目は二十歳そこそこだが、確か花山はアラサーに差し掛かっていたのではなかったろうか。
「……叔父さん、俺が話に加わる前に断るの止めてよ」
キッチンカウンターの向こうから、美少年の声がした。僅かに苛立ちが見て取れる。これは追い風と見ていいのだろうか。
甥から文句を言われた花山は、拗ねた様子で口を噤んだ。甥に発言権があるのか。ならば、甥の方を陥落してもいいかもしれない。
(どっちに転んでもいい男だもんね……難航してくれた方がいいかも)
そんな邪な事を考えていると、甥が紅茶を出してくれた。花山と彼自身はコーヒーのようだ。女性だから紅茶? だとすれば気を利かせ過ぎだと思うが。
「ありがとうございます」
軽く礼を言うと、甥は笑顔で会釈を返してくる。可愛い。邪気が全く感じられないのだが、この子は天使か何かなのか。
美少年は花山の隣に腰掛け、エプロンのポケットを探っていた。何か出す気なのか。
「ええと、奏撰社の――」
「香住です。香住絵梨花と申します」
「香住さんですね。こちらが花山柾こと、加山匡史で――」
言いながら、甥は名刺を差し出してくる。花山の名刺だ。こんな事まで甥に任せているのか、この尊大な王子様は。
「僕は甥の加山樹です。叔父の仕事の手伝いをすることもありますので、お見知り置きいただけると助かります」
社交用の態度ではあるのだろうが、丁寧で育ちの良さが見て取れる。花山の態度がどうしようもなく悪い事もあってか、この子の愛くるしさは癒やしになっていた。
「はい。よろしくお願い致します」
「こちらこそ」
さらりと返される答えと笑顔が堪らない。もし一人の時にこれを見たら、小躍りを始めてしまいそうなくらいには。隣にいる香住の好みどストライクな外見の男が霞むのだから相当だ。
(ホント可愛いなー……仕事抜きで会いたかった……)
もう仕事が終わり次第口説きに掛かってしまおうかとまで考えた。尤も、契約が決まれば逆に下手な事は出来ないのだけれど。
「その、ですね。本日は花山様に弊社とのご契約をお願いしに参りました。こちらが弊社の発行している月刊誌『あさ霧』です」
鞄から取り出した雑誌を、若干迷ってから花山の方に渡した。記事を書くのはこの面倒臭そうな王子様だろうから。
「花山様のご執筆された記事を拝読致しまして、弊社の編集部長である大路が――」
「回りくどいなー……俺は仕事増やしたくないの」
香住から受け取った雑誌をぱらぱらと捲りながら、花山はつまらなさそうに呟く。否定的な態度を何とかする為に――多少は私情も加わりつつ――香住は花山の手を取った。
「そう仰らずに、お願い致します。ぜひ花山様に筆を執って頂きたいんです」
前のめりになりながら、ブラウスの開きを意識する。両手で花山の右手を握り、胸を寄せた。こうすれば、谷間が強調されるのは計算済みだ。
「お願いします……私に出来る事なら何でもしますから」
握った手を口元に寄せるが、花山からは大した反応が返らない。無駄に顔が良い分、女に不自由していないのかもしれない。
どう攻めるか、そう考え始めた時、
「――……」
がちゃん、と派手な音がした。音の方を見ると、甥――樹がカップをソーサーに置いた状態で俯いている。
「樹、妬いた?」
花山が香住から甥に視線を向けて尋ねる。どこか嬉しそうな表情だ。
「妬いてない」
樹は表情を消して簡潔に答えた。先刻まで愛らしい雰囲気を纏っていたというのに、感情が覗えない今では冷淡な空気を醸し出している。元から整った顔立ちをしている為だろうか。
(って言うか、何て事を聞いてんのよ)
樹が花山に嫉妬しているかどうか。中身を知れば断然樹の方が魅力的だが、顔だけならば花山の方が女性ウケするだろう。見た目の華やかさは叔父の方が高い。恐らくそこで余程辛い目に遭わされたのだろう。
(これは、樹くんの方を慰めるべきよね。彼にも発言権があるみたいだし、この傲慢な王子様にも痛い目見て欲しいし)
香住としても、色仕掛けをするなら樹を相手にしたい。
目標を甥にシフトした香住は、花山の手を離して樹に目を向けた。どうやら不機嫌な様子の樹に話し掛ける。
「樹くんはどうでしょうか。叔父様への依頼を増やすのは、やはり難しいですか?」
尋ねると、樹は顔を上げて小首を傾げた。表情は落ち着いた物に戻っている。
「体力的に余り頻繁な依頼は受けられませんが、少しなら書けると思います。ただ……本人があの調子なので、契約してもなかなか……」
依頼を受けたがらない、と溜息混じりに零した樹に香住は同情する。相当に苦労させられているに違いない。
「契約だけでもしていただければ、花山様のご都合に合わせますので、ぜひ。樹くんに負担が掛かるような無理はしません」
こんなに健気な可愛い子に苦労を掛けてなる物か。そう思った香住は、樹の両手を取って胸元に寄せた。樹は目を丸くしてこっちを見ている。驚いた様子の他は特にこれと言った反応がないが……
(え、何? まさかとは思うけど、純真過ぎるとか?)
誘っている事にも気付かないのだろうか。このくらいの年頃ならば、それなりに女性への興味がありそうだが。
(純粋培養なの? 確かに天使みたいだけど、流石に……)
それはないだろう、と半ば呆れていると、ぐい、と手首を掴まれた。花山が首を傾けて、香住を見下すような目を向けている。
「……上から色仕掛けでも使えと言われたのか?」
それまでのグダグダとした口調が消えていた。低い声は静かな物だったが、それ故に内包した怒りを伝えてくる。
「俺に対してだけなら適当にあしらってやってもいいが、四方や未成年にまで仕掛けるとはな。大した女を寄越した物だ」
花山は握っていた香住の手首を打ち捨てるように離すと、その手を樹の肩に回した。
「取りあえず、樹には触れないでもらおうか。俺の大切な甥だからな。それと、条件付きなら契約してやる」
尊大な態度で言われたが、香住は今の状況を把握するので精一杯だった。『俺の大切な甥』『触れないでもらおう』その言い方と、樹の肩を抱く仕種はまるで、
「まず、契約後の担当者から君は外してもらう。担当は、出来れば男性がいい。余計な横槍を入れられては迷惑だ。それから連載は無理だ。体力的に問題がある。依頼は樫の木出版が最優先。そちらから声が掛かれば、他の依頼は受けない。そして、今日の事は他言無用だ。これらを守れるのならば、契約を結ぼう。あとは――」
矢継ぎ早に告げられるその条件に着いて行こうとする香住に、花山は冷たい目を向けて言い放った。
「今回の君の行動は、飽くまでそちらの独断だという事にしておいてやる。君も会社に属しているなら理解出来るな」
一瞬、責任を全て背負えと言うのか、と反発しかけた。が、それを飲み込んだところで意図を察する。
「色仕掛け程度ならまだ聞く話だが、それを未成年にまで仕掛けるようでは感心出来ないからな。上からの命だとなれば尚更だ」
香住の推察通りの言葉が花山の口から出た。上司からは『何としても契約して来い』と言われた。その言外には色仕掛けも含まれていたが、明言はされていない。上に迷惑を掛けるような事態になれば、当然、自分の立場も悪くなる。花山の言う通り、樹に――明らかに高校生くらいの少年に――まで色目を使ったのが、上からの指示だという事になれば。
「どうする? 条件を飲むか、帰るか。俺はどちらだろうが構わない。樹におかしな手出しさえされなければな」
断言しながら、花山は樹を抱え込んだ。その手付きは明らかに血縁者の物ではない。
「……匡史さん、人前で俺抱えるのやめて」
諦めたように樹が溜息を吐く。花山を『叔父さん』ではなく名前で呼び、尚且つ『人前で』抱えるなと言う。つまり――?
「ちょっと……どういう……」
「質問を受け付ける気はない。君の仕事は契約を取り付ける事だろう。こちらが出した条件が不満だと言うなら帰れば良いだけの話だ。それ程厄介な条件でもなし、飲んで契約を結んだ方が得策だと思うが?」
確かに香住の任務はそれだけだが。だが、こんなあしらい方で納得しろと言うのか。一方的に花山の口上ばかり聞かされて、半ば脅されるような形の対話で終わりとは。
自分の軽率な行動を棚に上げ、香住は苛立つ。とは言え、この状況を打開出来る自信もなく。
内心で歯噛みしていると、花山に抱えられ、あまつさえこめかみにキスされている樹は――甥にキスはやり過ぎだろう。何を考えているんだこの変態ホモ王子め――、疲れた表情で「香住さん」と声を掛けてきた。
「匡史さん――花山は、この通り扱いにくい人物ですし、契約の件は上司の方とよくご相談なさってください。後ほど細かい条件などもお伝えしますので、今日のところはこの辺りで……」
勘弁して欲しい、という気持ちが痛い程に伝わる声音だった。柔らかい声質に、どこか重たさが感じられる。
ここで香住が食い下がれば、この不憫な美少年は苦労するのだろう。それを思えば花山に不満もぶつけられず。
「……分かりました……ご連絡をお待ちしております」
渋々ながらも、香住は引き下がる他なかった。
数日後、提示された条件を飲み、奏撰社とフリーライター花山柾の契約は締結された。電話越しに応対していた甥の評判は頗る良好で、花山本人の評価も下がりはしなかった。社内で彼の本性を知るのは香住と、その後担当編集者になった先輩男性のみで、尋ねられても二人の口から詳細が漏れる事はなかった。
締結後に紹介元である樫の木出版の副編集長と会話する機会があったが、先方は無事に締結出来た事に驚愕したようだ。更に、最初に香住が交渉に行ったと言うと、しばらく沈黙した後に「さぞかし苦労なさったでしょう」と労られてしまった。樫の木出版の副編集長――新井が言うには、花山は昔から扱いにくい人物で、女性相手にも容赦ない態度なのだそうだ。甥との関係性についてそれとなく漏らすと「本当にあのバカは……」と頭を抱えてしまったので、新井は事情を良く知った上で渋っていたらしい。
契約の締結はどうやら奇跡に近かったようだ。それから数回掲載された花山の記事は好評で、数年後に始めた英米文学の翻訳も上々な評価を得た。
その後、花山に対する愚痴の零し合いが切欠で結婚した香住と花山の担当編集者の男性は、末永く彼の態度に頭を悩ませ続けたという。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。