兄の披露宴会場に彼が入ってきた瞬間、出遅れてしまったことに気付いた。そして、毅然とした表情の彼の首に掛かるチョーカーと、隣に立つ人好きのする風貌の男性を見た時には、もう打つ手立てはないのだと悟った。
今、両親は席を外している。やや離れた席に座るΩの妹を見遣ると、彼女は呆れたような溜息を吐いて緩く首を振った。
愚兄の行いによって、東栄アポロンの目論見が一つ潰えたという現実がそこにあった。
彼――野上智久さんと俺の兄である三尾新は、披露宴の半年ほど前まで許婚の関係だった。
我が三尾家は、ビストロを経営している野上家と父の代から親交がある。その関係を更に強固にするため、野上家からΩを輿入れすることになっていた。そして、その婚姻に選ばれたのが兄の新と野上家次男の智久さんだった。
明らかな政略結婚。だが、父には別に思惑があった。
父は長年、野上家の経営するビストロから、シェフを引き抜けないかと画策していた。都内のホテル本店にあるレストランでシェフを勤めてもらいたいらしい。
だが、ビストロは現在、オーナーの野上康博氏と長男でαの博通氏の二人で回しているような状況だ。シェフを引き抜くなどとてもできそうにない。
そこで目を付けたのが智久さんだ。彼はΩでありながら、父であるオーナーシェフも兄であるチーフシェフも認めるほど料理の腕が立つ。Ωであることが問題でシェフになれないというのなら、番を得てしまえばいい。つまり、三尾家のαと番にすれば問題なくシェフとして囲えるだろうという目算だ。
智久さんに本当の目的は隠したまま、婚姻の準備は進められていた。彼は自分の立場をよく理解してか、三尾家に対して良くしてくれていた。母ともよく会う機会を設け、親睦を深めていたのを覚えている。何度か手作りだという菓子を持ってきてくれたが、確かにかなりの腕だ。兄は何が気に入らないのか彼の料理を一度も口にしていないようだったが、あまりに薄情な態度だと呆れるしかない。更にそれが今日の結果に繋がるというのならば、最早愚かとしか言いようがない。
改めて、野上家の親族席を見遣る。緊張しているのか、はたまた怒りを抑えているのか、智久さんにしては珍しく険しい表情だ。パーティ会場などで会う時はいつも柔和な笑顔だったというのに。
と、彼の表情がふと和らいだ。どこか甘さのある笑みが浮かぶ。それが向けられる先は隣に座る男性。
あの席は智久さんの兄、博通さんの席のはずだ。直前に欠席の連絡と代理のαが来る予定だとは聞いていたが……
その正体を見極めようと、代理人を注視する。ふわふわとした淡いブラウンの髪と右目頭にあるホクロが特徴的だ。最近どこかで見た覚えがある。あれは……東栄が主催の講演会だったはず。そうか、E&Eホールディングスの役員候補だとかいう衛藤家の三男αか。少し前に東栄のホテル事業にちょっかいを掛けてきたという疑いもあったαだ。
東栄の競合相手でもあるレポグループとE&Eが提携しているとの話があったが、その架け橋になっているのがこのα――衛藤啓佑とレポグループの佐々木陸・空兄弟だ。α校時代の先輩後輩関係にあり、相当親交が深い。
尚も眺めていると、衛藤氏の表情が――何だあのαに有るまじき脂下がりっぷりは。智久さんについて嗅ぎ回っているとは聞いていたが、まさか恋愛感情なんかで動いていたのか? α社会だぞ? いくら三男とはいえ、大企業の役員候補がそんな浮ついた理由で東栄相手に立ち回るのか!?
思わず頭を抱えたくなった。あの愚兄……誠実に智久さんと向き合って、表面上だけでも彼を婚約者として扱えば問題は起こらなかっただろうに。智久さんは聡明なΩだ。仮面夫婦でも家のためとして三尾家に嫁いでくれただろう。それに、東栄は智久さんが望んでいた料理人としての職も用意できたんだ。あのいけ好かない美怜嬢に現を抜かしたせいで、とんでもないαに智久さんを掻っ攫われてしまった。
兄が美怜さんと結婚すると言い放った直後、父から俺に打診があった。曰く「侑、智久さんと縁を結ぶつもりはないか」と。
父としては智久さん本人が必要なのだ。兄が破談にしてしまった以上、俺にその話がくるのは妥当ではあった。
俺も智久さんなら番として申し分ないので、乗り気ではあった。だが、何分、兄と美怜さんのことがある。破局後すぐに持っていけるような話じゃなかった。野上家に智久さんの様子を尋ねに行った時にも『しばらくそっとしてやってください』と返されてしまったことだし。
智久さんはαの間での評価が高い。兄には勿体ないという声さえあった。兄や智久さん本人の耳には届いていなかったようだが、もし伝わっていたなら俺がもっと早く動けたかもしれない。そうしたら、東栄のホテル事業は俺が継げた可能性がある。
父は数字を見るのに長けている。経営に向いているとも言えるだろう。だが、その他に秀でた才はない。兄にホテル事業を任せるという判断も、長子だからという一点から導き出したものだ。俺たち兄弟を正しく見ていれば、その判断は間違いだと気付けただろうに。
深く息を吐いたところで、席に両親が戻ってきた。招待客の出迎えが終わったらしい。父が苦々しい表情で腰を下ろす。
「……何故智久くんが来ているんだ」
小さく呟いた言葉は周囲に漏れてはいないだろう。かなり抑えられた声だった。
「さあ。お義姉さまのご意向ではないですか。兄さんはそこまで恥知らずじゃありませんし」
義姉になるΩをあからさまに腐す発言だが、正直にいえば妥当な評価だろう。彼女はΩとしては凡庸だ。それなりに整った容姿はしているが、突出していることもない。
「それにしても、もう首輪付きだと……それもE&Eの小僧とは……」
「完全に出遅れましたね」
父を茶化すと鋭い目を向けられた。家ならば怒鳴られていたかもしれない。だが、茶化されたとて仕方ないだろう。もうこちらに打つ手はない。それを痛いくらいに理解したのだから。
再び野上家の親族席に目を遣る。戻られたご両親も智久さんも、穏やかに何か話している。衛藤氏が自然に溶け込んでいる様子からすると、良い関係が築けているようだ。
俺が言えた義理ではないが、智久さんが幸せそうでよかった。兄が彼にしたことは、到底許せるようなものではない。酷く傷付けてしまったのは確かなのだから、その傷が少しでも軽くなったのなら安心だ。
『どうやら、新郎新婦の準備が整ったようです。皆様、どうか温かい拍手でお迎えください』
白々しく司会の声が響いた。まばらな拍手の中、兄と義姉になるΩが入場してくる。気が重くなる式だが、どうにか遣り過ごすしかない。
俺は適当に手を打合わせながら、この後の茶番を乗り切るため自分を押し殺していた。
式は酷い有様だった。表面上は乗り切ったが、まず新婦側の招待席がガラガラの状態。更にはお互いの親族席の空気は冷え切っていて、お世辞にも祝いの席とは言えないような惨状だ。
野上家の親族席では衛藤氏が――恐ろしいほど――にこやかに新郎新婦を祝福していた。智久さんを捨ててその妹に手を出した新郎に対する当て付けだ。事情を知る者にしかそうとは分からない棘。
式の中で一番盛り上がった場面は、皮肉にも衛藤氏と智久さんの結婚を発表した瞬間だった。『新郎新婦の幸せに便乗させてもらった』という体だが、中身はなかなかに辛辣だ。『傷心の折』にある智久さんを噛んで番になったことや、『新郎新婦の幸せそうな姿』などという兄たちの現状とは真逆の言葉が織り交ぜられたスピーチだ。披露宴という華々しい場に相応しい、棘の混じったいいスピーチだった。智久さんの幸せそうな姿がそれに拍車をかけていたのが印象深い。
流石はα社会で『できるだけ敵に回すな』と囁かれるα。式を壊さず兄と義姉に棘を刺し、更には場を盛り上げて周囲からの祝福をもぎ取った。この淀んだ空気に辟易していた招待客にとって、彼らの結婚発表は清涼剤になっただろう。事実、そこから一気に式場の空気が軽くなった。
歓声の中、衛藤夫妻は席に戻った。さて、我らが父上はどんなご様子だろうか。どこか他人事のような気分で父を見る。
彼は眉を顰め、不機嫌さを面に出していた。もうホテルオーナーとしての体面すら保っていない。
そもそもが非常識極まりない式だ。披露宴など開ける立場じゃない新婦。しかも、新郎の元婚約者を招いている。本来なら智久さんにぶち壊されてもおかしくない状況で、よくここまで無事に進行したものだ。これも衛藤氏の手腕なのだろうか。いや、兄が式を壊さないことを条件にあの発表を許可したのかもしれない。新婦の美怜さんは憤りを隠しきれない様相だが。
あのΩはどういうつもりで智久さんを呼んだのだろう。まさか祝福して欲しいと考えたわけでもあるまい。
博通さんが言うには、どうも折り合いが悪い兄妹であるようだし、彼女は婚約者を奪った立場でもある。考えられるとすれば嫌がらせなのだろうが……式を滅茶苦茶にされるリスクを負ってまで自身の兄を痛め付けたいとでも?
どうも理解が及ばない。そこまで憎い相手だとでもいうのだろうか。血を分けた兄とはいえ、最近では顔を合わせる機会すらなかっただろう。番を得て尚、兄に対する憎しみが続くものなのか。
Ωの思考は分からない。況して、女性でもある。α男性の俺ではきっと考えるだけ無駄だろう。
そろそろ披露宴も終わりだ。二次会で軽く挨拶を済ませたらさっさと退散しよう。そう決めて、義姉から目を逸らした。
寒々しい披露宴は、どうにか無難に終えることができた。
披露宴からそのまま移行した二次会の会場で、衛藤夫妻は招待客に囲まれていた。あの式はほとんどこの夫妻のための舞台と化していたからな。あの短いスピーチでよく全体を掌握したものだ。
だが、それでよかったのかもしれない。兄と義姉ではあのまま盛り上げることもなく、ただ虚ろな式が続くだけになっただろうから。
招待客に対応している衛藤氏を眺める。人懐こい笑顔で朗らかに話しているが、内面は全く読めない。それでいて胡散臭さの欠片もないのだから、本当に敵に回したくないと感じる。一瞬の油断で足元を掬われそうだ。
あの結婚発表の際、衛藤氏は感極まったように智久さんを抱き締めていた。あの様子からみても、番への愛情はかなり深いのだろう。正直に言えばドン引きだ。大衆の前で恥ずかしげもなく番にデレデレとした姿を見せるなど、αとしてどうなんだ。いや、逆にこちらの警戒を解かせるためだとか……駄目だ。分からん。
それにしても、この『敵に回したくないα』がレポに着いたか……私情の面でも俺の兄夫婦とは反目するのが確実だろうし、厄介な事態になったな。
どう立ち回るのが最良だろうか、と思案していると、開かれた扉の向こうから二次会用のドレスに着替えた義姉がやって来た。退席しようとしていた衛藤夫妻の前に立ちはだかり、智久さんの頬を張る。
パチンという乾いた音を聞いてもしばらく事態を飲み込めなかった。三尾家に嫁いだとはいえ、智久さんは自分の兄だぞ。しかも、番は彼から奪い取ったαだろう。この場で勝ち誇るようなことはあっても、殴り付けるほど怒りを覚えることはないだろうに。
「ふざけないでよ! どうしてアンタがここで呑気な顔してんのよ!」
酷い金切り声だった。招待客の前だというのに取り繕う様子はない。これが披露宴を行った直後の新婦の姿か?
「大体、披露宴に出るなんて頭おかしいんじゃないの!? 家に引き籠もって膝でも抱えてなさいよ! アンタなんか惨めに泣いてる姿がお似合いでしょう!」
「俺に招待状送ったのはお前だろ……」
叩かれた頬を撫でながら智久さんが応じる。やはり、智久さんは義姉に呼ばれたのか。いや、だが――
一方的に衛藤夫妻を罵倒する義姉と、それを往なす智久さんの姿を呆然と眺めていた。どういうことだ。何故こんなにも智久さんに食って掛かるんだ。これじゃあ、まるで構って欲しいと駄々をこねる子供じゃないか。
場所を変えようと提案する智久さんを無視して、義姉は尚も喚き散らす。その内に衛藤氏へと粉を掛けていたことまで自白し始めた。待て。ここは自身の披露宴の二次会場だぞ!?
義姉の『善意の忠告』とやらを受けていたと答えた衛藤氏は、思い出したように頷く。これは……嫌な予感しかしない。
「そうそう。二ヶ月程前には『他のαと親しげにホテル街を歩いていた』と注進された覚えがあります。それでおかしいと思ったんですよ。何せ、その時には智久は私と番になっていましたから」
背後に花でも舞っているかのような晴れやかな笑顔だった。結婚発表でも言っていたことだ。智久さんは五ヶ月前には既に他のαを受け入れられない体になっていた。そうでなくとも、三尾家の面々は彼がそんなふしだらなΩではないことを知っている。……あの愚兄はそれもマトモに見ていなかっただろうが。
「そ……それが分かってて、私と過ごしたの? ねえ、写真見たわよね? 見ておいて何もなかったように二人でこんなところに来るなんて、マトモな神経じゃないわね」
「あの写真のことですね。あれなら、智久は一目で私ではないと見抜きましたよ」
「は……?」
『写真』? 義姉が何か智久さんにとって不都合なものを送って、更にはその小細工が見破られた、とみればいいのか?
やけに用意周到な嫌がらせだ。不仲だからという一言では説明が付かないレベルの。
何かがおかしい。兄を智久さんから奪ったのも愛情からとは思えない。それにここまで執拗に智久さんに嫌がらせをしているのも、ここで自分の立場を危うくしてまで突っかかるのも異常だ。
衛藤氏に軽くあしらわれ、智久さんに叩かれて諌められる。そんな対応をされながらも智久さんに詰め寄り、子供のような無茶苦茶な理論で噛み付く美怜さんを見ながら、俺の脳裏にはある推測が浮かんでいた。しかし、そんな……まさか、そんなわけが……
「うるさい、うるさいうるさい! アンタなんか愛されてるわけないでしょ! そんなことも分かんないなら何回だって分からせてやるわよ! 何回だって寝取ってやるんだから!」
智久さんと取っ組み合いになっている義姉の背後に、ようやく兄がやってきた。新婦の体を羽交い締めにして智久さんから剥がすと、感情の消えた表情で彼女を叱る。
「いい加減にしなさい」
新郎が新婦に掛ける声とは思えなかった。諌めるものとも違う。かといって冷え切っているわけでもない。どこか諦めたような、空虚な声だった。
縋ってくれ、と頭の中で願った。頼むから新郎に縋ってくれ、と。そうでないと、浮かんできた疑惑が真実味を増してしまう。
だが、俺の願いも虚しく義姉は智久さんを睨み付けたままだった。
「何よ! 離して! アイツに分からせてやらなきゃならないの!」
ジタバタと見苦しく藻掻き、智久さんに掴みかかろうとする。番は全く視界に入っていない。それはきっと、初めからそうだったのだろう。美怜さんの視界には、初めから。
「何で止めるのよ!? まだ智久に未練でもあるっていうの!? アレのどこが良いのよ! 離して! 気持ち悪い!」
決定打、か……この局面で『気持ち悪い』と口に出るのはもう、
「…………」
思わず溜息が漏れた。もう駄目だ。俺は兄を支えてやる気にはなれない。Ωの趣味云々はどうでもいい。愚鈍な兄ではこのΩの真意に気付けないだろう。そして、周囲からの哀れみを受けながら事態の収束に奔走する羽目になる。智久さんを裏切ってまで求めた番に愛されていないと知って尚、その理由も分からないままに彼女を囲うことになるのだ。
赤くなったり青くなったり、と忙しく顔色を変える父に目を向ける。父がまだ兄をホテル事業の後継にと願うようなら、父も同時に切り捨てて新しい道を模索するか。いっそ、レポに降ってもいい。人材も見極められない父と兄という似た者親子の尻拭いをするより、遥かにマシな待遇を受けられるだろう。
どこかスッキリとした気分になっていた。目が覚めたという感覚に近い。
俺は泣きじゃくる義姉と見下ろす兄を一瞥し、衛藤夫妻が去って行った扉を潜った。
義姉は三尾家のお荷物になった。軟禁に近い状態で離れに暮らし、同じ離れで過ごすことを厭った妹はΩ校を出てすぐに一人暮らしを始めた。
兄には妾が充てがわれている。その妾が本妻面をしているのは見ていて不快だが、義姉がその座にいるよりもマシだと思うことにした。
俺はアミューズメント事業に回された。ホテル事業は兄に任せるという父の判断に変わりはなかったらしい。目が見えていないのは父も同じだったか。
ほどほどに経験を積んだら、俺は職を辞してレポに降る予定だ。
先方には既に話を通している。佐々木兄弟が直々に来た面接は大層息苦しかったが、俺の考えを正直に話したらひとまず受け入れるとの回答が得られた。あの兄弟を出し抜ける輩なんているのか? 少なくとも俺には無理だ。
今後、東栄はどうなるだろうか。レポは東栄を取り潰すつもりはなさそうだ。これからも活かさず殺さず、ライバル関係である、と世間に広めるだろう。レポとしてはその方が何かとやりやすい。その恩恵に父と兄が気付くことはないだろうが。
妾を押し付けられた後も兄は義姉の元へ通い詰めている。会話もほとんどないというのにご苦労なことだ。これからもずっと返ることのない愛情を注ぎ続けるのだろう。あのΩが誰を想うかも知らないままで。
あと二年。俺はあと二年だけ耐えてからここを出て行く。レポに生涯囚われるつもりもないが、東栄に戻るつもりもない。俺もαだ。自力でのし上がってやる。愚兄とは違うんだ。目の前に用意された成功ですら一時の気の迷いで逃してしまうようなαとは。
改めて決意し、俺は近々切り捨てる予定の家業へと赴いた。
盲いたネズミは檻の中
α/Ωバース、企業政略、家族ドラマ
"盲目な愛憎が交錯する披露宴の舞台裏、一人の男が家族の檻から脱却する物語。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。