深夜二時。
ネット空間の薄暗い片隅で、一人の少女が息を詰まらせていた。
「やめて……もう、お願いだからやめて……!」
人気動画配信者・星川リリの配信ページは、底なしの悪意で埋め尽くされていた。
『死ね』
『不快』
『詐欺師』
『消えろ』
『人生終わったな』
たった一度の言い間違い。
それだけを燃料に、文字の暴徒たちは増殖を続けている。
リリはモニターの前で震えていた。
その時だった。
高速で流れるコメント欄の隙間。
バグのように歪んだ画面の奥から、二つの赤い瞳がこちらを見返していた。
黒い電子ノイズの塊。
まるで獣のような影。
それはゆっくりとディスプレイの内側からこちらを覗いていた。
翌日。
「というわけで、新規の現代妖怪案件です!」
事務所で紫兎が元気よく宣言した。
青紫色のバニー耳ホログラムが楽しそうに明滅する。
「リリちゃん、精神的にかなり追い詰められているみたいです」
(ガジェット:・▽・)
「早めに助けないとですね!」
リリの自宅マンション。
紫兎はARスキャンを起動した。
すると見えてきたのは異様な光景だった。
建物全体に張り付く電子掲示板。
現実には存在しない誹謗中傷の落書き。
『悪魔』
『嘘つき』
『消えろ』
『引退しろ』
怨念のような文字列が、壁面から黒い煙を垂らしている。
「うわぁ……」
紫兎が顔をしかめた。
「これは酷いですね」
部屋へ入る。
カーテンは閉め切られていた。
リリは布団に包まり震えている。
「リリちゃん?」
「現代妖怪対策調査員の紫兎ですよ」
リリは怯えた目で見上げた。
「……あなたも私を叩きに来たの?」
「まさか!」
「助けに来たんですよ!」
紫兎が笑顔を向けた瞬間だった。
部屋中の画面が明滅した。
テレビ。
スマホ。
タブレット。
パソコン。
全てのディスプレイから黒い電子煙が噴き出す。
『コロセ』
『キエロ』
『ネットカラ消エロ』
黒い煙は部屋の中央へ集まり、一つの巨大な獣へ変わった。
黒狼。
全身を電子ノイズが覆っている。
赤い瞳。
巨大な牙。
現代妖怪――犬神。
「おおっ!」
紫兎の目が輝く。
「でっかいワンちゃんですね!」
(ガジェット:!?)
犬神が咆哮した。
その瞬間。
何千人もの罵声が紫兎の脳内へ流れ込む。
『いい気になるな』
『お前も叩かれろ』
『黒歴史全部晒してやろうか』
「ひゃうっ!?」
紫兎が耳を押さえる。
「だ、大丈夫です!」
「中学時代の黒歴史ノートくらいしかありませんから!」
(ガジェット:;▽;)
だが次の瞬間。
ガジェットが警告を表示した。
【警告】
【対象:星川リリ】
【精神侵食率:89%】
【社会活動停止予測】
【48時間以内】
紫兎の表情が変わる。
「まずいですね」
「このままだとリリちゃんが社会から切り離されます」
犬神はリリへ向かって飛び掛かった。
「させません!」
紫兎が飛び出す。
リリの前へ立ちはだかった。
「ガジェット!」
「回線遮断!」
(ガジェット:>□<)
ルーターが火花を散らす。
通信が切断される。
スマホは圏外になる。
しかし。
犬神は消えなかった。
『消エナイ』
『マダ悪意ガアル』
『マダ終ワラナイ』
犬神はさらに巨大化した。
紫兎は息を呑む。
「そうか……」
「あなた自身が悪意なんじゃないんですね」
犬神が止まる。
「人間が投げ捨てた悪意を」
「全部押し付けられていたんですね」
犬神の瞳が揺れた。
初めて迷いが見える。
「だったら!」
紫兎が笑った。
「攻略法、見つけました!」
犬神の本質。
それは群れ。
命令に従う存在。
ならば。
命令を書き換えればいい。
「ガジェット!」
「コア解析お願いします!」
(ガジェット:>▽<)
ホログラム展開。
解析開始。
【古代犬神プロトコル検出】
【服従コード残存】
「やっぱり!」
「根っこは忠実な犬なんですね!」
紫兎は小型ドローンを射出した。
犬神へ強制接続。
ハッキング開始。
「リリちゃん!」
「スマホを出してください!」
「え……?」
「ネットへ投稿するんじゃありません!」
「本物の声を届けるんです!」
リリは震えながらスマホを構えた。
犬神を見る。
恐ろしい怪物。
そう思っていた。
でも違った。
よく見ると。
とても疲れている。
とても苦しそうだった。
リリは震える声で言った。
「いい子……」
「暴れちゃダメだよ」
「いい子だから……」
その瞬間。
犬神のノイズが止まった。
『ヨイ……コ……?』
紫兎が笑う。
「そうです!」
「あなたは悪意なんかじゃありません!」
紫兎は右手を差し出した。
「お手!」
犬神の瞳から赤い濁りが消える。
かつて人間に愛されていた頃のような。
優しい目。
『クゥン……』
犬神の身体が光へ変わる。
電子ノイズが崩れる。
最後に小さく鳴いた。
『アリガトウ』
そして消えた。
数日後。
青空の下。
カフェのテラス席。
リリは笑顔を取り戻していた。
「ようやく普通に外へ出られるようになりました」
「よかったです!」
紫兎も笑う。
リリが帰った後。
紫兎はオレンジジュースを飲みながら空を見上げた。
「画面の向こうの言葉って強いですね」
(ガジェット:・▽・)
「でも」
「本当に人を救うのは」
「やっぱり目の前の言葉なんだと思います」
ガジェットが静かに頷いた。
「だから私も」
「ちゃんと面と向かって伝えるようにします!」
青紫色のバニー耳ホログラムが明るく輝く。
紫兎の調査メモ
犬神は悪意そのものではありません。
人間が投げ捨てた悪意を押し付けられた存在です。
本当の問題は妖怪ではなく、その餌を与え続ける人間側にあります。
画面の向こうにも人がいます。
どうか忘れないでください。
(了)
悪意の飼い主
現代ファンタジー・社会派
"ネットの悪意が具現化する時、本当に救うのは、目の前の言葉だ。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。