第一章 書く手
十一月の雨が窓を叩いている。
坂口渉は画面を見つめたまま、もう三時間、同じ段落の前で止まっていた。カーソルだけが点滅を繰り返している。点いては消え、点いては消え、まるで何かを訴えるように。
新しい中編小説の第二章。登場人物の名前は「ハナ」。廃された映画館のある地方都市に、記憶のない女が目覚める話だ。設定だけは決まっている。あとは書くだけだ。あとは、書くだけなのに。
渉は煙草に火をつけた。禁煙して二年が経つのに、なぜかこういう夜だけ吸いたくなる。引き出しの奥に隠してあった一本を取り出し、煙を吐く。
登場人物に感情移入できなくなったのはいつ頃からだろう、と渉は思う。以前は違った。二十代の頃は、書きながら泣いたこともあった。自分が作った人間の死に、本気で胸が痛んだ。
今は違う。ハナが何を感じようと、映写技師の老人が何を語ろうと、渉の胸には何も届かない。彼らはただの記号だ。物語を動かすための駒だ。
それでも締め切りは来る。
渉はキーボードに指を置いた。書けなくても、指だけは動かす。それがここ数年で身につけた唯一の習慣だった。
ハナは目を覚ました。
その一文を打った瞬間、渉は違和感を覚えた。
画面の下の方に、見慣れない段落がある。自分が打った覚えのない文章が、原稿の末尾に一行、静かに存在していた。
私はここにいる。あなたが書いた場所に。
渉は眉をひそめた。誤入力だろう。眠気で手が滑ったか、あるいはどこかのキーを押してしまったか。
選択して、削除した。
カーソルがまた点滅を始める。
渉は煙草を灰皿に押しつけ、続きを書いた。
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