← 作品ページへ戻る

『原稿の外側』

アル

8,287 字

メタフィクション、哲学、サスペンス

"書く者と書かれる者、そして読む者。物語の境界線が溶解する、禁断の創作論。"

あらすじ 締め切りに追われる小説家・坂口渉は、自分が書いた原稿の末尾に、身に覚えのない一行を見つける。それは渉の行動を正確に描写していた。書いた覚えがない。なのに、消しても消しても現れる。やがて渉は気づく——自分が作ったはずの登場人物に、見られていると。書く者と書かれる者の境界が溶けるとき、外側にいるのは、果たして誰なのか。

← 右から左へスクロール

第一章 書く手

十一月の雨が窓を叩いている。

坂口渉は画面を見つめたまま、もう三時間、同じ段落の前で止まっていた。カーソルだけが点滅を繰り返している。点いては消え、点いては消え、まるで何かを訴えるように。

新しい中編小説の第二章。登場人物の名前は「ハナ」。廃された映画館のある地方都市に、記憶のない女が目覚める話だ。設定だけは決まっている。あとは書くだけだ。あとは、書くだけなのに。

渉は煙草に火をつけた。禁煙して二年が経つのに、なぜかこういう夜だけ吸いたくなる。引き出しの奥に隠してあった一本を取り出し、煙を吐く。

登場人物に感情移入できなくなったのはいつ頃からだろう、と渉は思う。以前は違った。二十代の頃は、書きながら泣いたこともあった。自分が作った人間の死に、本気で胸が痛んだ。

今は違う。ハナが何を感じようと、映写技師の老人が何を語ろうと、渉の胸には何も届かない。彼らはただの記号だ。物語を動かすための駒だ。

それでも締め切りは来る。

渉はキーボードに指を置いた。書けなくても、指だけは動かす。それがここ数年で身につけた唯一の習慣だった。

ハナは目を覚ました。

その一文を打った瞬間、渉は違和感を覚えた。

画面の下の方に、見慣れない段落がある。自分が打った覚えのない文章が、原稿の末尾に一行、静かに存在していた。

私はここにいる。あなたが書いた場所に。

渉は眉をひそめた。誤入力だろう。眠気で手が滑ったか、あるいはどこかのキーを押してしまったか。

選択して、削除した。

カーソルがまた点滅を始める。

渉は煙草を灰皿に押しつけ、続きを書いた。

── 第1章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

作品ページへ戻る

コメント

まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。

しおりを挟みました