「兄上はうつけ者である。次の当主には私こそが相応しい。」──父の信秀の式場で、抹香をその白い柩に投げつけた兄の信長を見て、信勝はそう思った。いや、そこにいた一門重臣皆が、その愚行に、そう感じたに相違なかった。驚いた顔であっけらかんとしている坊主、真っ青な顔で涙ぐんでいる母上、怒りに歯を鳴らしながら出ていく背中を睨みつけている柴田、──そのすべてが、織田家の未来を憂いでいた。今川と斎藤に挟まれた尾張国は、絶え間ない内乱に苛まれていた。尾張の虎と呼ばれた父の信秀は、それまで尾張守護斯波氏の陪臣だった織田弾正忠家を、尾張を代表する領主へ飛躍させた。けれどもそれは同時に、さらなる火種を抱えこむことでもあった。そんな最中、父は流行病に沈んだ。今、白い上等な柩に眠っている彼を眺めると、思っているよりも小さく感じた。その前で、線香の白い煙が、弱々しく立ち上っていた。
信勝にも、兄の苦悩がわからないでもなかった。父は守護斯波氏、そして本家筋にあたる守護代織田家との戦いに足を踏み入れたまま、自分勝手にも死んだのだ。それは遺された兄弟にとって、負の遺産にも相違なかった。だからもともと感情的だった兄の信長の暴挙は自然にも思えた。が、これは戦争である。政治である。家臣を引き連れていく大名として、その暴挙は容易に看過できる問題ではなかった。
「まあまあ、皆様がた落ち着いて……」
そう苦笑を浮かべながら、手で波を作っているのは、家老の平手政秀であった。初老を迎えた彼は、兄の信長の傅役であった。兄の愚行を一挙に引き受けた彼の額には、たくさんの脂汗が滲んでいた。
部屋中に大きなため息が響き渡った。中には嗚咽をあげるものもいた。殊に苛立っていたのは、政秀の隣に佇んでいた、家老の林秀貞である。彼は物静かにしかし、その緊く閉じられた唇に小刻みな震えを蓄えていた。
そして今そっと部屋を出ていったのは、母の土田御前である。母は何か悲しいことがあると、独り部屋にこもって泣くのが常であった。父が床についてからは、母はめそめそ泣くことが増えた。兄はそんな母を一度も労わったことはなかった。
信勝は開けっ放された襖から見える、誰もいなくなった古い木の唐門を眺めていた。出ていった兄は今頃、馬にまたがって悪友と何かやっているのだろう。あるいは唯、林の中で男泣きでもしているのだろうか。ぼんやりそんなことを考えていた。──信勝には、そんなことはどうでも良かった。ただ、そんなだらしのない男が嫡男であることだけが、どうにも許せなかった。母を悲しませるだけの息子が、偉大な父に認められたことが、どうしても解せなかった。信勝は自分の目頭がじんわりと熱くなってきたのを感じた。ふと前から、桜の匂いを含んだ、爽やかな風が彼の頬を撫でた。
そうして気づけばまた念仏の声が聞こえ出した。政秀も咳払いをしながら、座っている。その横で秀貞が大きなため息を吐いた。恐ろしい顔で歯を鳴らしている柴田も落ち着きを取り戻しはじめていた。母の席は依然として空いていた。信勝も眼を襖から、柩の方へ戻した。木の黒い床には、誰も拾おうとしない抹香の粒が、いくつも散らばっていた。
抹香
歴史小説、心理描写
"愚行か、それとも苦悩か。父の葬儀で暴れる兄を前に、弟が見た織田家の未来。"
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