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Bird1完全版

abejunichi

41,037 字

音楽と喪失、そして魂の再生を描く青春小説

"十年分の沈黙を破り、鍵盤に指を置く。月の上で、君の歌が聴こえる。"

青春音楽恋愛小説Bird1の完全版。喪失と再生を描く。

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   *

 ピアノの前に座ると、指が鍵盤の上で止まった。
 Cの音を押した。ドの音が部屋に満ちて、すぐに消えた。消えた後の沈黙が、音よりも長く残った。
 三十七歳になっていた。最後に曲を書いたのがいつだったか、正確には思い出せない。最後にスタジオに入ったのは覚えている。桜井とレニと三人で入って、何も弾けなくて、三十分で出た。あれは二十八か二十九の頃だった。浅井が死んだ翌年か、その翌年か。
 それから音楽を聴くことさえやめた時期がある。イヤフォンをすると浅井の声が聞こえる気がした。聞こえないことがわかっていても、聞こえる気がすることに耐えられなかった。
 十年が過ぎた。
 十年という時間は、何かを忘れるには短く、何かを思い出すには長かった。浅井の顔を思い出そうとすると、いつも同じ場面が来る。最後に会った日、浅井が何かを言いかけて、やめた。あの口の動きだけが残っていて、その前後の記憶はぼやけている。何を言おうとしたのか。十年間、考え続けている。
 村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでいた。何度も読んだ本だった。死んだ人間は死んだままで、僕たちは生きていかなければならない。生きていくということは、死んだ人間を少しずつ遠くに置いていくということだ。でも遠くに置くことと忘れることは違う。遠くにあるものは、見えなくなるのではなく、見え方が変わるだけだ。
 Cの音をもう一度押した。今度は少し長く押した。音が伸びて、部屋の壁に当たって返ってくるのが聞こえた。この音の中に何かを入れることができるだろうか。浅井の声の代わりに、僕の指が鍵盤の上で何かを探し始めた。
 窓の外から風の音が聞こえた。風は何かを運んでいる。二十歳の頃、バイクに乗ると風の歌が聞こえた。風の中に音楽があった。走りながら自然に歌を歌っていた。ヘルメットの中で誰にも聞かれない声で歌った。あの声はどこに行ったのだろう。十年間歌わなかった声は、身体のどこかに残っているのだろうか。
 もう一度Cを押した。三回目のCは、最初の二回とは違う音に聞こえた。同じ鍵盤を同じ指で押しているのに。弾くたびに音が変わる。あるいは、音は変わらず、聴いている僕が変わっているのかもしれない。

 大きな時の流れがまるで見えるような時もあれば、今、目の前で起きていることさえ、いったいどんな意味があるのかわからなくなってしまう。
 時の流れは穏やかに見える。でもそれは河の表面だけを見ているからで、水の底では何かが絶えず動いている。僕たちはその底のほうにいる。浅井もそこにいた。浅井は今もそこにいるのかもしれない。
 心を通わせた人々が、時々、心の中にいることを感じる。でも彼や彼女は別の時間、別の場所に生きていて、それぞれの思いの中にいる。僕は自分が自分の中にしかいないと思っていた。けれどそれは大きな間違いだった。

 あの夏のことから話さなければならない。梅雨が明けて、空が高くなりはじめた頃のことだ。
 浅井が僕に言った。

 「とてもいい娘だから」

 好きなのは彼女の友だちではなかったのに。

   一 遊園地

 バイクのエンジンをかけると、排気ガスの匂いが夏の空気に混ざった。駅前のロータリーに女の子が立っていた。白いTシャツにデニムのショートパンツ。髪を後ろでひとつに束ねていて、束ねた髪が首の後ろで揺れていた。
 浅井の友だちだった。名前はまだ知らなかった。浅井が「紹介したい人がいる」と言い、僕が断る理由を見つけられないまま、この待ち合わせが決まった。浅井の提案に僕が逆らえたことは一度もなかった。
 女の子はバイクを見て、少し笑った。笑い方に遠慮がなかった。初対面の人間に対する距離の取り方を、この人は持っていないのだと思った。
 「遊園地まで、これで行くの?」
 「嫌なら電車でもいいけど」
 「いい。乗る」
 女の子はバイクの後ろにまたがった。どこに手を置けばいいか迷っている気配があって、結局、僕の腰に手を添えた。添えただけで、掴んではいなかった。その微妙な力加減が、初対面の距離そのものだった。
 国道に出ると渋滞が始まっていた。七月の太陽がアスファルトを焼いて、渋滞の車列からは熱気が立ち上っていた。僕らはその車列の脇をバイクで抜けていった。走りながら話をした。風の音で声が聞き取りにくくて、自然と顔が近くなった。
 「大学、何学部?」
 「教育」
 「え、先生になるの?」
 「ならない。たぶん」
 「たぶんって何よ」
 「入ってから考えようと思ったんだけど、まだ考えてる途中」
 女の子は笑った。風が笑い声を持っていった。ミラーにその顔が映っていた。目が細くなる笑い方だった。
 僕は何を話しているのかよくわからないまま話し続けた。大学の退屈な授業のこと。バンドのこと。今年の夏には海に行きたいということ。話しながら、この話を聞いているのが浅井ではないことが、背中の温度でわかった。浅井と話しているときには感じない種類の緊張が、首の後ろにあった。
 バイクが信号で止まるたびに、女の子の息が首に当たった。その度に背筋が少し伸びた。

 遊園地に着いたのは三時を過ぎていた。駐車場にバイクを停めて、ヘルメットを外すと、女の子の髪がほどけていた。束ねていたゴムが走っている間に取れたらしい。髪が肩にかかっていて、束ねていたときとは別の人に見えた。
 「暑い」と女の子は言った。額に汗が光っていた。
 「こんなに暑いなら映画館にでも行って、お茶でもすればよかった」
 「せっかく来たんだし」
 一日券を買った。もう午後三時だった。園内は家族連れと、僕らと同じくらいの年齢のカップルが歩いていた。僕らがカップルに見えているのかどうかはわからなかった。
 入口を入ってすぐに、巨大なジェットコースターが見えた。白いレールが空に向かってうねっていた。
 「ああいうのに乗れる?」
 女の子は首を振った。「怖いのはダメ」
 「怖いのがダメで、遊園地に来て何するの」
 「失礼ね。コーヒーカップとかあるでしょ」
 僕らはコーヒーカップに乗った。女の子が中央のハンドルを回して、カップがぐるぐる回った。回転が速くなると女の子は声を上げて笑い、僕は少し気持ちが悪くなった。降りたとき、女の子の顔は上気していて、僕の顔は青かった。
 「あなた、弱いのね」
 「コーヒーカップに強いやつなんかいるのかよ」
 女の子はまた笑った。この人はよく笑う人だと思った。浅井は笑うとき、口元だけで笑うことが多かった。この人は顔全体で笑った。
 植物園を歩いた。温室の中は外よりも湿気があって、シャツが肌に貼りついた。花の名前や木の名前は僕にはわからなかった。女の子も知らないようだった。ただ二人で、名前のわからない植物の間を歩いた。
 「高校の頃はどんな話をしてた? 浅井と」
 「たいていは男の子のこと。でもユリは聞く方が多くて、あんまり自分のことは話さなかったから」
 「彼氏ぐらいいたんだよね?」
 「それは秘密。今はいないよ」
 「それっていたってことだろ?」
 「そっちこそどうなの?」
 「もてなかったから」
 「音楽やってるんでしょ?」
 「だからってもてることとは関係ない」
 「ふうん」と女の子は言った。それから少し間があって、「なんでユリはあなたのこと、私に紹介したんだろうね」
 「夏だからじゃない?」
 女の子は声を出して笑った。温室の湿った空気の中で、その笑い声だけが乾いていた。

 ボートに乗った。園内の小さな湖を一周するボートだった。動物の形をしたペダルボートに乗ったカップルが笑いながら漕いでいた。僕らが乗ったのは普通のボートだった。その普通さが悪くなかった。
 僕がオールを漕ぎ、女の子は向かいの席に座って水面を見ていた。
 「漕いでみる?」
 「いい」
 風が止んでいた。水面が鏡のように空を映していた。オールを入れるたびに、その鏡が割れて、すぐに元に戻った。
 僕はオールを動かしながら、浅井のことを考えていた。浅井がこの場にいたら、僕はもっと楽に話せただろう。浅井とはいつもそうだった。何を話しても、話す前から受け入れられている感覚があった。この人にはそれがない。その代わり、この人には別のものがあった。何かはわからなかったが、それは浅井にないものだった。
 「浅井はとても魅力的だよ」と僕は言った。「けど何か違うんだよな。異性を見る目で見るのとは違う、何か変なことがあったんだよ」
 「何よ、その変なことって」
 「なんか色々話せたみたいなことだよ」
 「なんだか私とは色々話せないみたいじゃない?」
 「そういうわけじゃないんだけど」
 「要するに、ユリのことが好きだったって言うんでしょ?」
 「違うよ。なにか不思議と思っていることが何でも話せたんだ」
 「違わないよ」
 「たとえば、こうして話してると、どこかぎこちないだろ? そういうのってどこか固くなってしまう部分があるというか」
 「緊張してるんだ」
 女の子は満足そうに笑った。僕は舌打ちをして、違うんだけどな、とつぶやいた。
 ボートを降りたとき、女の子が言った。
 「ユキでいいから」
 「呼び方?」
 「そう。名字で呼ばれるの嫌いだから」
 「浅井のことだって本人の前ではさんづけなんだぜ」
 「それはそれ。私はユキ」
 ユキは手の甲で額の汗を拭いた。その動作がぞんざいで、女の子らしくなくて、そのぞんざいさが少し好ましかった。

 夕方になっても暑さは引かなかった。カフェに入ると、ユキが最初に「飲もう」と言った。
 「バイクで来てるんだぞ」
 「バイクなんか今日は遊園地に置いていきなさいよ。また今度取りにおいで」
 「わかったよ」
 ビールを頼んだ。ユキはカシスオレンジを頼んだ。グラスが来ると、ユキは一口飲んで「おいしい」と言った。それから僕のビールを少し飲んで「苦い」と言った。
 アルコールが入ると、少しだけ舌が軽くなった。ユキは人の話を聞き出すことがうまかった。きっとそういうふうに高校時代も色んな人の恋の話を聞いてきたのだろう。
 僕はバンドの話をした。大学に入ってすぐに音楽サークルに入ったこと。そこで桜井と再会したこと。中学の時の不良の桜井が、大学でベースを弾いていたこと。レニがドラムを叩いていること。そして浅井が歌っていること。
 「浅井が歌うの?」
 「歌詞も書く。すごくいい歌詞を書くんだ」
 「知らなかった。ユリ、歌のこと全然話さないから」
 「浅井はそういうところがある。自分のことをあまり話さない」
 「似てるね、あなたと」
 僕はグラスを傾けた。似ている。そうかもしれなかった。

 レジで会計を済ませて外に出ると、空が変わっていた。夕暮れの光が遊園地全体を橙色に染めていた。ジェットコースターのレールが夕陽を反射して白く光っていた。
 観覧車のチケットを二枚買った。列に並んでいる間、ユキは黙っていた。今日初めて黙った。黙っているユキの横顔を、僕は横目で見た。睫毛が長かった。睫毛の先に夕陽が引っかかっているように見えた。
 ゴンドラに乗った。向かい合って座る形だったが、僕はユキの隣に座った。ユキは窓の外を見ていた。ゴンドラがゆっくりと上昇した。遊園地が小さくなっていった。
 ゴンドラが頂上に近づいたとき、ユキが僕のほうに手を差し出した。その手を握った。小さくて、冷たかった。カシスオレンジのグラスを持っていた手だった。
 ユキが振り向いた。
 世界は夕暮れの中にあった。僕らが恋人だったなら、愛を語り合うのにふさわしい時間だった。僕らは恋人ではなかった。今朝初めて会った二人だった。
 「今日、本当に楽しかった」と僕は言った。「まるで憂鬱な梅雨がいっぺんに吹き飛んで、雲ひとつなくなったみたいに」
 「それだけ?」
 「ユキのことが気になりはじめている」
 「私はあなたのこと、なんとも思ってないけどね」
 そう言って、ユキは僕にキスをした。
 一瞬、何もわからなくなった。今いる場所がどこで、自分が誰で、浅井がどこにいて、世界がどうなっているのか。ユキの唇は冷たくて、カシスオレンジの味がした。
 ユキはすぐに顔を離して、窓の外を見た。
 「ねえ、すごく綺麗だよ」
 雲が夕陽に照らされて、空に模様を描いていた。僕はさっきの行為が幻なのだろうかと考えていた。
 ゴンドラが降りていった。世界が元の大きさに戻っていった。

 ベンチに並んで座った。ライトアップされた遊園地が、昼間とは別の場所のように見えた。ジェットコースターのレールが青い光に照らされていた。
 僕らはもう一度キスをした。今度は深く、長いキスだった。何も言葉は交わさなかった。キスが終わったとき、僕は何を言えばいいのかわからなかった。
 ユキも何も言わなかった。ただベンチに座って、ライトアップされた遊園地を見ていた。僕の手はまだユキの手を握っていた。ユキの手はもう冷たくなかった。
 帰りの電車の中で、ユキは僕の肩に頭を預けて眠った。初対面の人間の肩で眠ることができる人なのだと思った。あるいは、もう初対面ではなくなったのかもしれなかった。
 駅に着いて、ユキを起こした。ユキは目を擦って、少し恥ずかしそうにした。今日初めて恥ずかしそうな顔をした。
 「バイク、取りにいかなきゃね」と僕は言った。
 「また今度ね」とユキは言った。
 改札で別れた。ユキが改札を通って、振り返って手を振った。その手の振り方が大きくて、子どものようだった。
 僕は駅のホームに一人で立って、浅井のことを考えた。浅井に何と報告すればいいのかわからなかった。ユキとキスをしたこと。ユキの手が冷たかったこと。ユキの肩で眠った電車の揺れのこと。そのどれも、浅井に話すべき言葉の中に入らなかった。
 浅井が「とてもいい娘だから」と言ったとき、浅井は何を意図していたのだろう。僕が浅井に向けていた気持ちを知っていたのだろうか。知っていて、ユキを紹介したのだろうか。浅井ならわかっていたのかもしれない。浅井は何も言わずにわかっている人だった。そしてわかった上で、平和的に解決する方法を選ぶ人だった。
 でもそれは、浅井の優しさだったのか、それとも別の何かだったのか。当時の僕にはわからなかった。今もわからない。

   二 部室

 浅井ユリは哲学科の二年生だった。
 それ以外のことは、出会ってからかなりの時間が経っても、僕はほとんど知らなかった。出身地を聞いたことがない。家族の話を聞いたことがない。高校時代にどんな生活をしていたか聞いたことがない。浅井は人の話を聞く人間であって、自分のことを話す人間ではなかった。
 部室で初めて二人きりになったのは、大学に入って最初の夏前だった。昼一の授業をサボって部室にいたら、浅井がいた。浅井もサボっていた。何を話すでもなく、同じ空間にいた。部室にはアコースティックギターやら、ペットボトルやら、どこかのバンドのデモCDが散乱していた。正方形の、どこにでもある大学の部室だった。
 浅井は壁にもたれて本を読んでいた。何の本か聞いたら、浅井は表紙を見せた。プラトンの『饗宴』だった。
 「哲学科だから?」
 「課題」
 「面白い?」
 「愛について書いてある」
 「愛?」
 「人間はもともと一つだったのが二つに分かれたから、自分の片割れを探しているっていう話。嘘みたいだけど、なんか少しわかる気がする」
 浅井はそう言って本を閉じた。そして僕を見た。浅井に見られると、何か見透かされているような気がする。でもそれは不快な感覚ではなかった。見透かされた上で、そのままでいいと言われているような感覚だった。
 「あなたは音楽が好きなんだよね」
「好きというか、それしかない」
 「それしかないって、強いね」
 「強いんじゃなくて、他に何もないだけだよ」
 「それが強いって言ってるの」
 浅井は笑った。口元だけの笑い方だった。目は笑っていなかった。目は別のことを考えていた。
 僕は浅井に自分の話をした。高校を卒業してから大学に入るまでの間に病気になったこと。半年間、部屋から出られなかったこと。その間ずっと音楽を聴いていたこと。音楽だけが外の世界との接点だったこと。
 浅井は黙って聞いていた。途中で何か言おうとして、やめた。浅井にはそういう癖があった。何か言いかけて、飲み込む。飲み込んだものがどこに行くのか、僕にはわからなかった。
 「つらかった?」
 「つらいとかじゃなくて、消えたかった。自分が世界のどこにもいないような感じがした。でも音楽を聴いていると、どこかにはいていいような気がした」
 浅井は考え込んだ。考え込む時、浅井は唇の下に手を置く癖があった。
 「音楽って、そういうものだと思う。どこにもいられない人がいていい場所」
 その一言で、僕は浅井のことを信頼した。信頼というのは正確ではないかもしれない。もっと即座の、もっと根本的な何かだった。この人にはわかる、と思った。それは恋愛感情ではなかった。少なくとも、僕が知っている恋愛感情とは違った。もっと深い場所にある何かで、言葉にすると壊れてしまいそうだった。

 桜井がサークルに入ってきたのは、僕より少し後だった。
 最初、僕は桜井が同じ大学にいることを知らなかった。キャンパスですれ違ったこともなかった。音楽サークルの部室に、ある日、背の高い男がベースケースを担いで入ってきた。部室にいた数人が振り返った。男は入口に立ったまま、部屋の中を見回した。その目つきに見覚えがあった。
 「桜井?」
 男は僕を見た。二秒ほどの間があった。
 「お前、こんなとこいたのか」
 中学以来だった。声が低くなっていた。顔が大人になっていた。でも目つきは変わっていなかった。世界の何かに対して怒っている目つき。その怒りを隠そうとしない目つき。
 桜井はその日から部室に来るようになった。ベースを弾いた。桜井のベースには硬いものがあった。弦を叩くように弾く。指が弦に当たる音が、ベースの音よりも先に聞こえることがあった。その音に、中学の頃の桜井が残っていた。
 レニは最初からいた。安田玲二。みんなからレニと呼ばれていた。ドラムを叩く。柔らかい音を出す人間だった。話すときも叩くときも、相手の言葉を最後まで聞いてから自分の言葉を出す。急がない人間だった。レニがいると場の空気が穏やかになった。桜井のような怒りを持った人間の隣にいても、レニは変わらなかった。
 四人が集まったのは自然だった。誰かが提案したわけではなかった。部室で僕がキーボードを弾いていると、桜井がベースを合わせ、レニがスティックで膝を叩き始め、浅井がそれを聞いていた。四人がいる部室の空気には、他の時にはない密度があった。
 バンド名はなかなか決まらなかった。何度も候補が出ては消えた。
 「Bird一でいいんじゃない」と浅井が言った。
 「鳥?」
 「飛ぶものがいい。地面にいるんじゃなくて」
 桜井は「なんでもいい」と言った。レニは「いいと思う」と言った。僕は「一は何だ」と聞いた。
 「最初の鳥。一羽目の鳥。私たちが最初」
 浅井はそう言って笑った。最初の鳥。まだ飛んでもいなかった。

   三 練習

 最初の練習は散々だった。
 スタジオは大学の近くにある地下の貸しスタジオで、壁に防音材が貼ってあり、その防音材が湿気を吸って微かにカビの匂いがした。一時間いくらの安いスタジオだった。機材は古く、キーボードのBフラットの鍵盤が少し沈んだまま戻りが悪かった。
 桜井がベースのチューニングを始めた。レニがスネアの位置を調整していた。僕はキーボードの前に座って、沈んだBフラットの鍵盤を何度か押した。戻りが悪いことを確認して、そのまま弾くことにした。
 浅井が来た。遅れてきた。ドアを開けて入ってきたとき、少し笑っていた。遅刻の申し訳なさではなかった。ドアを開けたらそこに僕たちがいた、ということが嬉しいという顔だった。
 「ごめん」
 浅井はマイクスタンドの前に立った。スタンドの高さを少し下げた。浅井は歌うとき、わずかに前かがみになる癖があった。そのことを僕はこの時はまだ知らなかったが、後に何度も見ることになる姿勢だった。
 「何をやる?」と桜井が言った。
 誰も答えなかった。僕たちにはまだ曲がなかった。カバーをするという話もなかった。何もないところから始めるしかなかった。
 「じゃあ適当にやろう」と桜井が言って、ベースを弾き始めた。
 桜井のベースは短いフレーズを繰り返した。三つの音が上がって、一つの音で落ちる。繰り返すたびに少しずつ変化した。桜井は変化させようとして変化させるのではなく、指が勝手に動くに任せていた。桜井のベースにはいつも怒りに似た硬さがあった。
 レニが合わせた。レニのドラムは桜井とは対照的に柔らかかった。ハイハットを軽く刻んで、バスドラムを控えめに踏んだ。桜井の硬い音を、レニの柔らかい音が包んでいた。
 僕はコードを探した。桜井のフレーズがどこに向かっているのかわからなかった。Cを押してみた。違った。Amを押した。少し近かった。Fを押した。桜井が一瞬こちらを見た。合っていたのかもしれない。僕はFを繰り返した。
 三人の音がスタジオの中で混ざった。混ざったが、まとまらなかった。三つの音が同じ空間にいるだけで、同じ方向を向いていなかった。
 浅井はマイクの前に立って聞いていた。五分ほど聞いてから、浅井が手を挙げた。
 「止めて」
 三人が止まった。残響がスタジオの壁に当たって消えた。
 「全然だめ」
 桜井が「わかってる」と言った。レニが「まあ最初だし」と言った。僕は何も言えなかった。
 浅井がマイクから離れて、僕たちの方に歩いてきた。桜井の隣に立って、桜井のベースのネックに触れた。
 「桜井くんのベース、すごく怒ってる」
 「怒ってないよ」
 「怒ってる。それは悪いことじゃない。でも今、レニくんのドラムは優しい音を出してて、そこに怒ったベースが入ると喧嘩になる」
 桜井は黙った。
 「喧嘩してもいいの。でも喧嘩するなら、ちゃんと喧嘩しないと。中途半端に怒ってるから、音がぶつかるだけでどこにも行かない」
 桜井が「じゃあどうすればいい」と聞いた。
 「もっと怒って。レニくんはもっと優しくして。そうすると間ができる。その間に私が入る」
 浅井はそう言ってマイクの前に戻った。
 「もう一回」
 桜井がベースを弾いた。今度はさっきより強かった。弦を叩くように弾いた。指が弦に当たる音が、ベースの音と同時に聞こえた。レニがそれに応じた。ハイハットをさらに弱く、ほとんど触れるだけにした。バスドラムも引いた。桜井の硬い音とレニの薄い音の間に、隙間が生まれた。
 僕はその隙間にコードを置いた。今度はFではなく、Fmを押した。短調の暗い響きが、桜井の怒りとレニの静けさの間に落ちた。
 浅井が声を出した。
 歌詞はなかった。メロディでもなかった。声だった。浅井の地声に近い、低い声。その声がマイクを通してスタジオの空気に入った瞬間、何かが変わった。
 三人の音がばらばらだったのに、浅井の声が入ると、一つの場所に向かって動き始めた。浅井の声が道を作って、僕たちの音がその道の上を走り始めたような感覚だった。
 僕は弾きながら浅井を見た。浅井は目を開けていた。スタジオの壁でも天井でも僕たちでもない場所を見ていた。その場所がどこなのかわからなかった。でも浅井がそこを見ているとき、浅井の声はまっすぐになった。まっすぐで、細くて、折れそうなのに折れない声だった。
 桜井のベースが変わった。怒りが消えたのではなかった。怒りが形を持った。さっきまでぶつけるだけだった音が、何かを求める音になった。レニのドラムがそれに応えた。スネアを一打入れた。その一打が桜井のベースと僕のキーボードの間のどこかに落ちて、四つの音が初めて一つになった。
 五分くらい続いた。曲の形はなかった。始まりも終わりもなかった。ただ四つの音が一つの場所にいた。
 浅井が声を止めた。僕たちも止まった。浅井の息がマイクに入って、スピーカーから聞こえた。四人で浅井の息を聞いた。
 桜井が笑った。桜井が音楽の後で笑うのは珍しかった。
 「これ、なんだ」
 「わかんない」と浅井は言った。
 「わかんないけど、いいな」
 レニが「もう一回やる?」と聞いた。
 浅井は首を振った。「今日はいい。今のでいい」
 浅井はマイクから離れて、鞄からペットボトルの水を出して飲んだ。水を飲んでいるとき、浅井はただの二十歳の女の子だった。さっきまでスタジオの空気を変えていた人間と同じ人間に見えなかった。
 浅井が水を飲み終えて言った。
 「ねえ、今の、録ってた?」
 僕は首を振った。
 浅井は少し残念そうな顔をして、それからすぐに笑った。
 「まあいいか。また来るし」

 また来るし。
 浅井はそう言った。その言葉を僕は今も覚えている。来週も来るし、その次も来るし、この場所にはいつでも来られるし、この音楽はいつでもまた鳴らせる。浅井はそう信じていた。僕たち全員が信じていた。信じていたことが正しかったのか間違っていたのか、今でもわからない。

 練習を終えると、地下にあるスタジオから地上に出る。桜井と僕は煙草を吸った。
 地下から出た瞬間の外気が好きだった。スタジオの中は密閉されていて、汗と防音材の匂いと音の残響が空気に混ざっている。そこから一歩出ると、季節の温度がある。夏なら夜風が汗を冷やし、冬なら肺が冷たい空気で白くなる。どちらにしても、地上に出た瞬間、世界に戻ってきたという感覚があった。
 桜井はいつも火をつけるのが早かった。スタジオのドアを閉める前にもうポケットからセブンスターを取り出している。僕はその少し後に火をつけた。二人で並んで壁にもたれ、煙を吐いた。
 レニはドラムスティックをくるくる回していた。レニは煙草を吸わなかった。スティックを回しながら、空を見上げていることが多かった。
 「彼女はいつ帰ってくるんだろうね」
 そうレニは言った。浅井のことだった。練習が終わるといつも浅井は先に帰った。四人で飲みに行くこともあったが、浅井は途中で静かに消えることが多かった。来るときは突然来て、去るときは気配を消すように去る。浅井にはそういうところがあった。
 煙が夜空に昇っていった。街灯の光の中を煙が通ると、白い筋が見えた。
 「今日の浅井の声、すごかったな」と桜井が言った。
 「うん」
 「あいつが声を出した瞬間、俺のベースが変わった。自分で変えたんじゃなくて、変わった」
 僕にもわかっていた。浅井の声には何かがあった。それは技術ではなかった。音程が正確でもなかった。ただ、浅井が声を出すと、空間が変わった。空気の密度が変わった。
 桜井が煙草を地面で消した。
 「明日も来るか」
 「ああ」
 レニが「おやすみ」と言って、自転車に乗って去っていった。桜井は僕とは反対方向に歩いた。僕は一人でアパートに向かって歩いた。
 夜の道を歩きながら、さっきの音を頭の中で再生した。あの五分間。四つの音が一つになった五分間。あの場所に行きたかった。もう一度。何度でも。

   四 夜

 夜は長かった。
 アパートの部屋は六畳で、窓を開けると隣の建物の壁が見えた。壁と壁の間に空が細く切り取られていて、その空に星が二つか三つ見えた。
 部屋にはベッドと机とMacBookと、壁に立てかけたギターと、積み上げたCDがあった。CDは桜井に教わったもの、自分で見つけたもの、中古CDショップの百円コーナーで名前も知らずに買ったもの。ジャケットの色と手触りで選んだものもあった。CDを並べると、自分の音楽の歴史が壁に現れた。中学の頃の荒い音から、高校のときに聴いた静かな音へ、そして大学に入ってから聴き始めた広い音へ。CDの並びが変わるたびに、僕の耳も変わっていた。
 MacBookを開いて、キーボードソフトを立ち上げた。本物のピアノには触れない。大学の音楽室は夜は閉まっている。だからMacBookの中の鍵盤を弾いた。ヘッドフォンをして、スピーカーではなく頭の中に音を満たした。
 ヘッドフォンの中の世界は、部屋の六畳よりもずっと広かった。音が左右に広がり、上下に伸び、奥行きを持った。ヘッドフォンの中では僕はどこにでも行けた。砂漠にも、海の底にも、空の上にも。音が空間を作り、その空間の中に僕は立っていた。
 誰も聴いたことのない曲を探していた。誰も聴いたことのないメロディライン。その展開。こうなればこうなると人が予期する流れを超えたかった。ヴォーカルのソロからリズムが加わり、静かにベースとピアノが加わるところを想像した。悪くないアイデアに思えた。でもそういう曲も、どこかで誰かが作った流れだ。全く新しい流れではない。
 ピアノから手を離し、黒いカバーのベッドに横になった。天井を見上げて、煙草を火をつけずにくわえた。
 自分が宙に浮かび上がるところを想像した。天井を通り抜けて、夜空に浮かぶ。星が遠くで輝いていて、風に揺られている。音楽は、聴く人にそんな夜の自由を伝えることができるだろうか。空に揺られながら浮かぶ僕は、風がどこから生まれているのかわかっている。夜がゆっくりと朝になるまでのささやかな静けさであることがわかっている。でもそれを伝える方法がない。どうすれば音を通じて、感じていることを伝えることができるだろう。
 そっとハミングした。夜空に浮かぶ風と僕のために。そしてこの気持ちを伝えるには言葉が必要なのだと思った。
 浅井のことを思った。この夜空の下のどこかのマンションの一室に浅井がいて、自分と同じように自分の歌を探し求めている。そう思うと、僕は煙草をくわえることをやめて、またMacBookの前に座った。

 冬になると、大学が休みになった。
 レニは遠く離れた故郷へ帰った。浅井は姿を消した。桜井は地元が大学からそれほど離れていないから、そのまま冬を過ごしていた。
 地元へ帰ればよかったのかもしれない。正月は帰省もしたし、そのまま実家にいてもよかった。冬はひとりでいるには寒すぎる。でも掴めそうで掴めないものは、この大学の街にある。凍える冬をやり過ごすことは大変だった。でも真夜中にひとり音楽を響かせ続けると、いつかひとりではなくなるという気がした。
 最後に本物のピアノに触れたのはいつだろう。生のピアノの音を思い出すことができなかった。だからこそ美しいピアノの音を求めて何時間でもMacBookを触った。心をそのまま世界中に解放するような音。そんな音があれば、何を描くことができるだろう。想像の中では可能性は無限に広がっている。実際に鍵盤を弾いてみると、イメージとは何かが違う。もっと想像の中にある音をこの世に現出させたかった。でも音楽は心の奥にあるだけでは誰にも届かない。だから自分が演奏した欠片をいくつも記録として残した。雪がずっと降り続けているように、しまいこんだ。
 CDを取り出すことはなくなっていた。CDだけが部屋を彩るオブジェだった。音楽はすべてMacBookの中にある。検索すればさまざまな音楽がネット上にアップされている。自分の心に響く音楽を探して、インターネットの海を漂った。
 様々な音楽を聴いた。そこにどんな思いがあるのか探った。彼らの音楽には、それぞれの世界観や、触れることができた愛や、世界に対する憎しみがあった。音と同化し、自分の心がどんな音に感じるのか理解しようとした。あらゆる音楽は歴史という時間の中に埋もれている。そこへ深く意識の振り子の鎖をおろした。揺さぶる音の在り処がどこにあるのか、しっかりと見出すために。
 三日間、ほとんど眠らなかった。眠るのが惜しかった。目を閉じると音が消えてしまう気がした。缶ビールを飲んで、煙草を吸って、音楽を聴いて、MacBookで音を作って、また音楽を聴いた。部屋には空き缶が散乱した。灰皿は煙草で溢れた。そういう朝を迎えるたびに酒なんて飲むものじゃないと思った。でもシャワーを浴び、部屋を掃除し、窓を開けて空気を入れ替えると、不思議に気分はましになった。

 時々は散歩に出かけた。いつも真夜中だった。
 アパートから歩いて十分のところに河が流れていた。河川敷に降りて、上流に向かって歩いた。河川敷には誰もいなかった。風が髪を撫でた。
 もうひとりではない。自分には何もないと思っていたけれど、桜井やレニはともに音楽を演奏してくれる。そして浅井がいる。まだ荒削りだったが、ライブで演奏することもできた。目指す音には遠くても、心震える感触があった。でもそれは一夜だけ起きた奇跡のようにも思えた。
 音楽を続けて何になるだろう。言葉にするとすべてが嘘のように感じた。
 たったひとり音を紡いでも、笑うことはできない。自分には大きな欠陥があって、心は闇夜に沈んでいる。でも音楽を響かせている間は輝きのない光が見える。その光を追い求めている。
 夜の静けさの中で流れる河の音を聴いていると、できることはそこにあるものをそのまま響かせることだけなのかもしれない。
 鳥たちはどこにいるのだろう。真夜中には鳥たちが美しく空を飛ぶ姿を見つけることができなかった。流れを大きく飛び越えていく姿。探したけれど、鳥たちは月で静かに羽を休めているのかもしれなかった。
 河のほとりに立って上流を見ると、暗闇の中に水面だけが微かに光っていた。その光は月の光だった。月が河に映って、河が月を運んでいた。上流へ歩いていくと、月は常に先にいた。追いつくことはできなかった。

 ある夜、桜井が部屋に来た。
 ビールを買ってきていた。六本入りのケースを持って、黙って上がり込んだ。僕はMacBookの画面を閉じて、桜井に缶を渡した。
 桜井は部屋の隅に置いてあったアコースティックギターを手に取った。僕のギターだったが、僕よりも桜井のほうがよく弾いた。桜井はギターを爪弾きながらビールを飲んだ。僕は壁にもたれてビールを飲みながらそれを聴いた。
 「音楽はどんなものを聴いてもいい。でもバンドをするからには自分の感覚だけじゃなく、俺の聴いてるものも聴いてほしい」
 そう桜井が言ってCDを持ってきたことがあった。ニルヴァーナやパールジャム、セックスピストルズやレッド・ホット・チリペッパーズ。それらの音楽はとても野蛮で激しく歪んでいた。でも激しく僕を揺り動かした。特にカート・コバーンの歌は突き刺さった。激しいギターと叫び声は、まるで自分の中にある叫びのようだった。
 桜井はそのとき煙草に火をつけた。煙を吐きながら言った。「音楽は魂から響く。そう思わないか」
 今夜もビールを飲みながら、桜井は何も言わずにギターを弾いた。まるで子どもの頃のようにすぐ近くに友だちがいて、感覚を共有していた。言葉は少なかった。でも音があった。桜井のギターと、缶ビールを開ける音と、時々入る沈黙。それで十分だった。

 二日酔いの翌朝、ジョギングシューズを履いて走った。
 真夜中にしか訪れなかった川沿いを、昼間に走るのは初めてだった。夜には見えなかったものが見えた。遠くまで続いている電線。河川敷を揺れる草のゆらぎ。どこかからやってきた釣り人の竿から垂れ下がる糸。光に反射する水面。そして河の流れとともにどこまでも続くあぜ道。
 静かに走り始めた。どこかまで走った後は、帰らなければならない。でもどこまでかは走ることができる。少しずつ遠くに向かって走れるよう、両足を動かした。
 肉体的なものを忘れずにいること。桜井がいつも話していることだった。桜井は音楽を身体でやる人間だった。指が弦を叩く音がベースの音より先に聞こえる。それは指と弦が出会う音であり、肉体が音楽に触れる最初の瞬間だった。
 走りながら、昨夜作りかけた曲のことを考えた。頭の中で音が鳴った。足が地面を蹴るリズムが、そのままドラムのキックに聞こえた。
 河沿いの道を折り返して走りながら、幸運なミュージシャンのことを考えた。六十歳になっても音楽を続けている人たちがいる。でもほとんどのミュージシャンはどこかで音楽をすることを諦めてしまう。自分たちはまだ入り口にも辿り着けていなかった。可能性は無限にあって、自分というものが何なのか、考える時間があった。大学で学ぶということ。期限はあるが自分の可能性を懸けた確かな時間が流れている。もし時間というものの大切さに気づくことができれば、いつからでも可能なことだ。
 走り終えてアパートに戻ると、汗をかいていた。冬なのに汗をかいていた。シャワーを浴びた。湯気が狭い浴室を満たした。湯気の中で、頭の中の音楽がまだ鳴っていた。身体を動かした後の音楽は、座って作った音楽とは違う質感を持っていた。身体の中を血が巡っていることが感じられた。血が巡るリズムが、そのまま音楽のリズムになった。
 新しい学期になる前に決めていたことがあった。大学の授業にもっと参加すること。レポートで単位はとれても、それだけでは足りない。自分がまだ可能性のある存在であることを理解できたから、広げようと思った。哲学や心理学、音楽史や歴史学、文学、IT系科目。自分の関心には偏りがあったが、必修の科目以外にも講義を聴きたいと思う授業を探し続けた。桜井がとっているからという理由で仏教系の科目も履修登録した。
 知識は音楽に流れ込んだ。哲学の講義で聞いた言葉が、夜の部屋でメロディになった。歴史の本で読んだ出来事が、歌詞の断片になった。すべてが音楽の材料だった。世界がまるごと、音楽のために存在しているような錯覚を持った時期がある。それは傲慢ではなかった。世界のすべてを音にしたいという欲望だった。

   五 森

 ピアノからは僕の思いが溢れ出していた。
 浅井から何か特別なものを受けとっていた。部室で、スタジオで、浅井の声を聴くたびに、僕の中の何かが変わった。イメージは飛翔しはじめていた。僕らは鳥になって大地を遥か見下ろして飛んでいる。空はどこまでも広く自由がある。大きな河が眼下にあって、そのほとりに宿り木を見つける。でも、そのままではだめだ。僕は美しい森を見つけなければならないと思った。
 バイクに乗って森を探し始めた。
 街を南へ南へ走り続けた。普段は大学と市内に行く程度だから、その先に何があるのかわからなかった。ただ僕は実際に河が流れるその源流にある森を見たかった。音楽の中で飛んでいるだけでは足りなかった。この身体で、この足で、音楽が指し示す場所に行きたかった。
 河をさかのぼって走り続けると、どちらが北でどちらが南という方向感覚がわからなくなった。河はうねりながら山へ向かって流れていた。大きなカーブがあり、曲がりくねっていた。とても大きな長い河だった。飛ぶことはできなくても、その源流に向けて走ることはできると思った。
 何度もコンビニエンスストアで休憩した。しかし徐々にコンビニエンスストアを見かけることも少なくなってきた。風は冷たく、周囲にあった田畑もだんだん少なくなった。枯葉が地面に落ちていた。本格的な冬が到来しようとしていた。それでも河は流れていた。
 密室で音楽と向き合っていると、自然が奏でる音のことを忘れてしまう。バイクに乗ることは、風の歌を聴くことだった。太陽の日差しや影の移ろい、雲の変化、河の流れ、木々の揺らぎが音楽のように聴こえた。ヘルメットの中で自然に歌を歌っていた。スタジオでは出せない声だった。誰にも聞かれない声。風に混ざって消える声。でもその声は僕自身の声だった。浅井の声でも、桜井のベースでも、レニのドラムでもない、僕だけの声。
 河沿いの道は次第に細くなっていった。アスファルトの舗装が途切れて、砂利道になった。バイクの振動が腕に伝わった。ハンドルを握る手が痺れた。河の水音が近くなった。水が岩に当たる音。水が水に重なる音。その音は、音楽ソフトでは作れない音だった。

 その途中に大きな森があった。
 誰も足を踏み入れたことがないような森だった。バイクを停めると、森にそっと足を踏み入れた。風が静かに吹いていて、生きているものは何もいないという気がした。
 奥深くに何があるのだろうと思いながら歩き続けた。昔、近所の森に秘密基地を友だちと作って、その山の持ち主にずいぶん怒られたことを思い出した。山や森や自然は本来誰のものでもなかった。
 空気を吸いこんだ。深い呼吸だった。太陽の日差しを感じた。冬だから太陽の光は少し弱まっていた。でも空気はとても澄んでいた。ひとつ呼吸をするたびに時間が動いていることを感じた。
 鳥の鳴く声が聞こえた。
 その声に誘われていると思った。誰かが呼んでいる。女性たちの声だ。少し笑っている。微笑みかけている。誘っている。もっと自由になるように。
 森の中にいると、ものごとの本当の有り様がわかるような気がした。その奥には愛があって、しっかりとした温かさがある。スタジオの防音壁に囲まれて音を出しているとき、僕たちは密閉された空間の中で何かを探している。でも森には壁がなかった。音はどこまでも広がることができた。

 森の樹の高いところに、その鳥たちはいた。どこかへ向けて鳴いていた。
 僕は鳥の真似をして鳴いてみた。でも鳥には僕の言葉はわからないようだった。鳥には鳥の世界があり、人間には人間の世界がある。
 歌なら鳥ともコミュニケーションがとれるかもしれないと思った。
 僕は森の中で、自分たちが今つくっている歌のメロディを歌った。
 声が木々の間に響いた。スタジオとは違う響きだった。防音壁に吸われる音ではなく、木の幹に当たって跳ね返り、枝葉に吸われ、空に昇っていく音だった。自分の声がこんな音をしているのかと思った。MacBookのスピーカーから出る声とも、スタジオのモニターから出る声とも違った。森が僕の声に別の響きを与えていた。
 鳥は翼を広げると、より高い枝へ向けて少し飛んでみせた。少しは伝わったのかもしれなかった。森には僕と鳥たちしかいないのかもしれない。でも鳥たちに向けて歌を歌うことには、とても新鮮な驚きがあった。僕と鳥との間には、人間同士以上に深い河が流れているかもしれないと思っていたからだ。でもそんなことはなかった。鳥のほうがあるいは、僕の歌を歌そのものとして聞いてくれているのかもしれない。そういう予感がした。
 鳥が鳴いた。そのメロディを聴いた。何を求めて鳴いたのかわからなかった。ただ歌を歌っているのかもしれなかった。でも鳥は鳴くのだ。そしてそれは僕だって同じだった。
 鳥のために歌を歌った。鳥はまた高い枝に移って、そして歌を歌った。
 僕はもう一度歌った。今度はBird一のメロディではなく、即興で歌った。頭の中に浮かんだ音をそのまま声にした。鳥が応えた。鳥の声と僕の声が重なった。森の中で、二つの異なる生き物の声が、一瞬だけ同じ場所にいた。浅井の声が僕たちの音を一つにするように、森の空気が僕と鳥の声を一つにした。
 鳥はいつ飛ぶのだろう。鳥が飛び立つところを見たかった。僕も連れていってくれ。そう願った。でも季節は秋から冬へ本格的に移ろっていて、その鳥はどこかから飛んできて、そしてその森にいるのかもしれなかった。

 僕は森の中に長くいた。どれくらいいたのかわからない。太陽の位置が変わっていた。冬の短い日差しが、木々の間から斜めに差し込んでいた。光の筋が空気の中の塵を照らして、塵が金色に輝いていた。
 地面に座った。落ち葉の上に座った。冷たかった。でもその冷たさが心地よかった。部屋の中のベッドの上ではない場所に自分の身体がある。鍵盤の前ではない場所に指がある。森の土の上に手を置いた。土は湿っていた。虫が這っているかもしれなかった。でもそれでいい。音楽を作っているとき、僕は頭の中だけで生きていた。身体は椅子に座って鍵盤に向かっているだけの道具だった。でも森の中では、身体が世界と直接触れていた。土の冷たさ。空気の澄み方。鳥の声。木の幹の硬さ。それらは全部、身体が受け取るものだった。
 バイクのところに戻った。エンジンをかけた。手が冷えていた。グローブをしていなかった。森に入るとき、グローブを外していたのだ。木の幹に触れたかったから。樹皮のざらつきを手のひらで感じたかったから。音楽を作るとき、僕はキーボードの鍵盤に触れている。でも鍵盤はプラスチックだ。この森の木は生きていた。何百年か何十年かわからないが、この場所で生きていた。
 帰りの河沿いの道を走りながら、鳥の声が頭の中で鳴り続けていた。あの鳥たちは何を歌っていたのだろう。僕が歌ったメロディに応えてくれたのか、それとも最初から自分の歌を歌っていただけなのか。どちらでもよかった。鳥が歌い、僕が歌い、その二つの歌が森の空気の中で交わった。それだけで十分だった。
 Bird一というバンド名を浅井がつけた理由が、少しだけわかった気がした。

   六 学食

 浅井はよく晩御飯を学食で食べながら、何も言わずに僕の作った歌を繰り返し聴いてくれた。
 その音源には、僕が仮に歌ったメロディラインが入っていた。僕はできるだけ、僕の歌は気にしないでと、何回も話してから聴かせた。自分の声には自信がなかった。歌うための声ではなかった。でも曲の輪郭を示すには、仮でも歌を入れるしかなかった。
 学食の椅子に座りながら、浅井は注意深く複雑なメッセージを解読しようとするようにヘッドフォンに両手をあてて、深く音楽を聴きこんでいた。簡素なテーブルと椅子が食堂には並んでいて、僕たちはその隅にふたりきりでいた。周りでは他の学生たちが定食を食べたり、レポートのことを話したりしていた。僕は味噌汁を啜りながら、浅井の表情を見ていた。浅井が音楽を聴いているとき、浅井の顔には何の表情もなかった。聴いているのか聴いていないのかわからないくらい、静かな顔をしていた。でもその静けさの中に、集中があった。
 十分。十五分。何度も浅井は僕の歌を聴いてくれた。
 そして、ようやくヘッドフォンをとると「これ、私が歌っていいのね」と言った。
 いいに決まっている。浅井が歌わなければ、この曲は曲にならない。僕が仮に入れた声は、浅井の声が来るまでの場所を取っているだけだ。浅井の声がそこに入れば、曲は完成する。
 「ここの部分」と浅井が言った。ヘッドフォンを片耳だけ外して、イントロの後のメロディラインを口ずさんだ。浅井が僕の曲を歌う。学食の隅で、味噌汁の湯気の横で。その光景は不思議だった。大学の食堂は音楽をやる場所ではない。でも浅井が歌えば、どこでも音楽の場所になった。
 「この部分、もう少し上がったほうがいい。ここで止まると苦しい」
 「上げると高すぎないか」
 「私の声で歌うなら、ここは上がったほうがいい。あなたの声で歌うなら下げたほうがいいけど」
 浅井は自分の声の特性をよく知っていた。低い声だった。女性としては低い。でもその低さの中に、高い場所に昇ろうとする力があった。低い場所から高い場所に向かうとき、浅井の声は震えた。その震えが、浅井の声の一番いいところだった。
 僕は浅井の隣に座り直して、一緒にヘッドフォンを聴いた。片耳ずつ分けて。浅井の耳に近い側から、浅井の髪の匂いがした。シャンプーの匂いだったのか、浅井自身の匂いだったのか、わからなかった。
 浅井が完璧な音楽について聞いたことがある。
 「完璧な音楽って何だと思う?」
 僕は少し考えて答えた。そんなものはなくても、その場所へ向けて最善のことをすることが、音楽を作る本当の意味なのではないかと。
 浅井は黙って頷いた。それから味噌汁を飲んだ。味噌汁はもう冷めていた。

 二年目の春は静かに季節が変わった感触があった。
 バイクに乗っていると風が気持ちよく、どこまでも走りたくなった。密室で音楽と向き合っていると、自然が奏でる音のことを忘れてしまう。バイクに乗ることは、風の歌を聴くことだった。太陽の日差しや影の移ろい、雲の変化、河の流れ、木々の揺らぎが音楽のように聴こえた。自然に歌を歌っていた。
 バイクで走り続けていて、ふと古い寺を見かけた。目的を定めずに走っていたから偶然だった。でも駐車場にバイクを停め、階段をのぼった。眼の前には小石で敷き詰められた境内があった。
 古くから残っている木造の建築で、巨大な仏像が塔の中に祀られていた。鎮座している像を見つめながら、いったい何千年、仏教というものが続いているのかと思った。財布から小銭を取り出し、賽銭箱へ入れた。上から釣り下がっている綱をゆすって鐘を鳴らし、手を合わせた。何を考えればいいのかわからなかった。ただ心を空にして、その前にいた。音楽に向き合っているとき、心の深い部分が見える。同じように、誰かに触れられた気がした。何を願っているのかも言葉にできなかった。でもそのまま願い続けた。
 山の上にある寺だったから、見渡せば街並みが見えた。道路やビルや住宅街や森や河の流れが見えた。街は夕陽に照らされて美しかった。景色を見ながら時の流れについて考えた。街が変化する部分。変わらない部分。残り続けるもの。変化するもの。僕の肉体もまだ変化していた。
 音楽が人の心の投影である部分があるなら、宗教はどうだろう。河の流れに人生を思う時、見つめる心と何が違うのか。わからないままだった。でも風に吹かれている答えを、そのまま誰かと見つけたい。

 閃きは突然だった。
 脳内で何かが弾けた。心臓が血を送り出し、つま先から脳天まで駆けまわっていることが感じられた。肌に震えを感じた。今、何か美しい音楽が聴こえる。感触を逃したくなかった。
 大学からバイクの駐車場へ走った。誰か知り合いとすれ違ったような気がした。忘れないように急いで自宅へ帰った。信号を無視してしまったかもしれなかった。
 部屋に辿り着き、MacBookの起動を待った。その時間すら長く感じた。立ち上がったソフトの鍵盤に指を置いた。さっき脳内で弾けた音を、今度は指で追いかけた。追いかけると、音は少し逃げた。でも追い続けた。逃げる音を追い、追いながら新しい音が生まれた。閃きは一瞬だったが、その一瞬から出てきた音は十分にも二十分にもなった。
 森で鳥と歌った日のことを思い出した。鳥が高い枝に飛び移ったとき、鳥は何かに応えていた。僕の歌に応えたのか、風に応えたのか、自分自身の何かに応えたのか。どれでも同じことだった。応えるということ。音楽とは応えることだった。世界が投げかけてくるものに、音で応えること。
 寺の鐘を鳴らした時の音を思い出した。鐘の音は鳴った瞬間がいちばん大きく、そこから少しずつ消えていく。でも消えかけたところに、別の音が聞こえる。鐘の倍音が空気の中に残って、それが寺の木造の壁に当たって返ってくる。最初の音とは違う音。でも最初の音がなければ生まれなかった音。
 僕が今作ろうとしている曲は、そういうものだった。

 その曲をスタジオに持っていった。
 MacBookをアンプに繋いで、カウントを取って演奏を始めた。頭の中で閃いた演奏のままではなかったけれど、近づこうと生まれた音だった。
 最初は小さく、アルペジオを弾いた。音のヴォリュームをあげていった。エフェクトをかけ、空間を音で満たした。反響し、こだました。充分に部屋の隅々まで行き渡ったところで、静寂を生み出した。残響が残った。
 浅井がRiver's flowと囁いた。
 レニがドラムを叩き始めた。バスドラムとスネアにハイハットを混ぜた。浅井がflownと歌った。桜井がベースでゆっくりとフレーズを繰り返した。
 そこにまた祈りのようなアルペジオを小さい音から効果的に響かせた。夜が明ける前の白い月の光みたいに。
 浅井がもう一度、今度はDeep flowと歌った。
 ピアノは少しずつシンセサイザーの音に変わっていった。同じフレーズの反復でも、音色が変われば印象は違う。それは時が変わった後の輝きみたいに響いた。
 空間を音色が満たしていった。音をとめても響きが残り続けた。
 レニと桜井は鳥が上昇するタイミングを見計らっていた。鳥はずっと音の中にいた。浅井がFlyingと歌った。その音を拾って反復させた。歌が響き続けた。
 翼を広げる。その瞬間にレニと桜井が弾けた。飛んだ。上昇が始まった。
 浅井がAs a birdsと歌った。音程を変化させ、高い音で響くように。Flown, as a birdsと繰り返し歌った。イメージを超えて演奏してくれた。歌ってくれた。ひとりで生み出すイメージには限りがある。彼らが生み出すイメージにさらに交わった。
 鳥にとって河は少し身をよせる場所だ。森にも、高層ビルの上にも、雲の中にもいくことができる。まだ若い鳥にとって、未知の世界へ向けて飛ぶことは必然だった。
 鳥は飛ぶために生まれた。

 十二月にサークルのライブがあった。
 ライブハウスのステージ上では、PAを担当している先輩がサウンドチェックをしていた。舞台の上で聴こえる音と観客に聴こえる音は違う。でも、舞台で演奏している音と観客が聴く音ができるだけ同じになるように、PAのチェックは続いた。ベース、ドラムのスネア、ハイハット、バスドラム、キーボード、そしてボーカル。ひとつひとつの音が重なってひとつの曲になる。ひとりひとりの出す音が広がって重なり合い、ひとつのバンドになる。
 僕たちは小さなステージに立った。前のバンドの熱狂がそのまま残っていた。僕はMacBookをアンプに繋げると、Yesterdayのサビの部分をピアノで演奏した。過去は変わることなく存在していた。レニがドラムをセットし終えると、はじめようと言った。桜井のベースも準備ができているようだった。浅井は静かに目を閉じていた。
 僕は最初のピアノを弾き始めた。静かに、心に残るように。リバーブとディレイが演奏の響きを繰り返した。浅井がYou are flyingと囁いた。ベースが低音から静かにうねりはじめた。ドラムのレニはそのグルーヴを静かに解放しつつあった。浅井がファルセットでできる限り高い声を響かせると、僕らは本格的に飛翔しはじめた。身体に電流が走った。観客も何かを感じているようだった。
 あの森の鳥たちが見えた。急降下すると美しい森を見つける。木々は時を超えてそこにある。大地も変わらずそこにある。さらに飛ぶと大きな湖が見える。その向こうに虹が天へ繋がる道を作っている。僕たちは鳥になって、その虹を駆け抜けるように飛んだ。音はどこまでも空気を震わせていた。浅井は祈るように歌い続けた。僕たちが失速してしまわないように。
 太陽が何度も繰り返し昇る。月が姿を変えながら輝き続ける。僕らはその中で何度も生まれ変わりながら、すべての苦しみが消える日のことを願う鳥だ。
 沢山の争いがあった。多くの生命が死んだ。でも魂はずっと世界に残っていて受け継がれている。浅井はそんなひとつひとつの魂と交信するように歌った。心が震えていて演奏が乱れそうだった。でも浅井を支えなければならなかった。心の中に正しい祈りが宿ったような気がした。あらゆるもののために僕はピアノを響かせ続けた。
 演奏が終わった後、拍手が響いた。はじめて受けとった拍手だった。浅井が主役だった。でも僕たちの音楽はサークルの人間に認められたようだった。
 その夜、酒を飲んで沢山笑った。まだ大学の最初の一年が過ぎようとしているにすぎなかった。でも僕はどこまでも浅井や桜井やレニと飛んでみようと思った。

 練習を終えると、地下にあるスタジオから地上に出て、桜井と僕は煙草を吸った。
 様々な断片が積み重なり、呼吸まで重なる。演奏を終えた後は、複雑なプログラムを走らせた後のCPUのように熱い。冬の外気が肌に触れると、その熱がゆっくりと冷めていった。
 レニはドラムスティックをくるくる回しながら、空を見上げていた。
 「彼女はいつ帰ってくるんだろうね」
 浅井のことだった。冬の間、浅井はいつも姿を消した。どこに行くのか誰も知らなかった。浅井に連絡する方法はあった。でも結局、連絡はしなかった。浅井に対する想いをどう考えていいのかわからなかった。
 煙が冬の夜空に昇っていった。白い息と白い煙が混ざって、街灯の光の中で消えた。
 桜井が煙草を地面で消した。
 「春になれば来るだろ」
 「うん」
 「来なかったら迎えに行く」
 桜井はそう言って、暗い道を歩いて行った。

   七 櫻井

 夜、眠れない時に櫻井のことを考えた。中学の櫻井と、大学の桜井が同一人物であることは間違いなかったが、時々、別の人間のように思えた。
 中学一年生の四月、最初に声をかけてきたのが櫻井だった。僕の席の後ろに座っていた。授業中に後ろから肩を叩いて、ノートの端に描いた絵を見せてきた。何かの怪物の絵だった。よく描けていた。
 「絵、うまいね」
 「そうか?」
 それだけで友だちになった。
 櫻井は最初から教師に睨まれていた。髪が長かった。授業中に居眠りをした。提出物を出さなかった。でも絵はうまかったし、本をよく読んでいたし、話してみると頭のいい人間だった。頭の良さを学校という場所で発揮する気がないだけだった。
 櫻井が僕を本屋に連れていったことがある。普通の本屋の、普通ではないコーナーに櫻井は迷いなく歩いていった。棚から一冊の本を取り出した。アウシュビッツ収容所の写真集だった。
 「見てみろよ」
 写真を見た。骨と皮だけになった人間たちが写っていた。中学一年生の僕にはその写真の意味がよくわからなかったが、何か恐ろしいものであることはわかった。
 「これ、学校に似てると思わないか」
 「え?」
 「もちろんここまで酷くない。でも考え方が似てる。人を集めて、管理して、言うことを聞かせて、番号で呼んで、成績で並べる。できないやつは切り捨てる。そういう仕組みが似てる」
 僕はその時は大袈裟だと思った。でも後になって、櫻井の言葉が何度も頭の中に戻ってきた。
 櫻井が音楽の話をし始めたのは夏休みだった。櫻井の家に行った。六畳の部屋にCDが積み上げてあった。櫻井はCDプレイヤーにディスクを入れて、僕にヘッドフォンを渡した。
 「聴いてみろ」
 英語の曲だった。何を歌っているかわからなかった。でも叫び声だけはそのまま伝わった。怒りの叫びだった。でもただ怒っているだけではなかった。怒りの底に何か別のものがあった。それが何かはわからなかったが、その何かが僕の胸に響いた。
 「いいだろ」と櫻井が言った。
 「すごい」と僕は言った。
 「こういうのを俺たちもやろう。バンドだ」
 僕は中学一年生で、楽器を弾いたことがなくて、バンドが何をするものなのかもよくわかっていなかった。でも櫻井の目が光っていた。教室で居眠りをしている時の目とは全く違う光だった。
 「いいよ」と僕は言った。
 結局、中学でバンドを組むことはなかった。二年生になったとき、僕と櫻井は別のクラスになった。教師たちが意図的にやったのだと、後で知った。悪い影響を与える生徒から切り離すために。
 クラスが変わると、僕たちは急速に離れた。廊下ですれ違っても、最初のうちは声をかけたが、だんだんかけなくなった。櫻井は櫻井の世界に行き、僕は一人になった。
 一人になって、僕はイヤフォンをして音楽を聴くようになった。櫻井が教えてくれた音楽を、インターネットで探して聴いた。聴きながら、櫻井がいない教室で、耳の中だけに櫻井との繋がりが残っていた。
 音楽はそうやって僕の中に入ってきた。友だちの代わりとして。引き裂かれたものを繋ぎ止めるものとして。
 大学で桜井と再会したとき、僕はあの中学の日々のことを話そうとした。でも桜井は「昔の話はいい」と言った。桜井はベースを弾いていた。言葉ではなく音で話す人間になっていた。
 ある夜、練習の後で二人きりになったとき、桜井がビールを飲みながら言った。
 「親父に殴られてたんだ。俺は。警察官の親父で、いつも怒ってた。俺のことが気に食わないと殴った」
 桜井はビールの缶を見ていた。僕を見なかった。
 「だから保育園の時にお前を殴った。殴られてたから、誰かを殴らずにいられなかった。覚えてないかもしれないけど」
 覚えていなかった。でも、櫻井が中学で僕に声をかけてきた理由が、そのとき初めてわかった。償いだったのかもしれない。あるいは、殴った相手とでも友だちになれると証明したかったのかもしれない。
 「今は殴らないのか」
 「今はベースを殴ってる」
 桜井は少し笑った。怒りが消えたのではなかった。怒りの出口が変わったのだ。
 僕たちは引き裂かれ、殴られ、管理され、競争させられた。でもここにいる。音楽をやっている。同じスタジオで音を出している。それだけで十分だと思った。
 桜井と二人で夜の道を歩くことがよくあった。練習の後、レニは自転車で帰り、浅井は気配を消すようにいなくなり、残された僕と桜井は駅まで並んで歩いた。
 桜井は歩くのが速かった。僕はいつも半歩遅れて歩いた。桜井の背中を見ながら歩いた。背の高い桜井の背中は、中学の頃と変わらなかった。あの頃は僕のほうが少し背が高かったが、いつの間にか桜井のほうが高くなっていた。
 歩きながら音楽の話をした。新しいアルバムの話。好きな曲の話。嫌いな曲の話。桜井の音楽の好みは僕とは少し違っていた。桜井はもっと硬いものが好きだった。歪んだギター。叫ぶヴォーカル。壊れそうなリズム。僕はもっと柔らかいものが好きだった。ピアノの響き。静かなメロディ。余韻の長い音。でも僕たちはBird一の中で、それぞれの好みを持ち寄った。硬いものと柔らかいものが出会う場所。そこに浅井の声が入り、レニのドラムが支えた。
 「お前のピアノは弱い」と桜井がある夜、言った。
 「弱い?」
 「音が弱いんじゃない。弾き方が弱い。遠慮してる」
 「してないよ」
 「してる。俺のベースにぶつかってこない。レニのドラムにも乗っからない。浅井の声の後ろで小さくなってる」
 僕は黙った。桜井の言うことは正しかった。僕は浅井の声を邪魔したくなかった。浅井の声が道を作るなら、僕はその道の端を歩けばいいと思っていた。
 「端を歩くな。真ん中を歩け。お前がいちばん弾きたい音を弾け。ぶつかったら、そのときはそのときだ」
 桜井はそう言って、コンビニに入っていった。缶コーヒーを二本買って出てきた。一本を僕に渡した。冬の夜の缶コーヒーは手を温めた。
 桜井の言葉は、スタジオでの僕の弾き方を変えた。次の練習から、僕は少しだけ音量を上げた。少しだけ鍵盤を強く押した。浅井の声にぶつかった。ぶつかったとき、浅井は僕を見た。驚いた顔はしなかった。待っていたという顔をした。
 ぶつかった音は汚かった。でもその汚さの中に、今まで聞こえなかった何かがあった。桜井が「それだ」と言った。レニが少し笑って、スネアの音量を上げた。四人の音が、初めて対等にぶつかり合った。
 あの夜のことを、僕は今でも覚えている。桜井の缶コーヒーが手を温めたこと。冬の夜空に星がなかったこと。コンビニの白い光が二人の影を道路に落としたこと。そして桜井が最後に言った言葉。
 「お前は弱くない。弱いふりをしてるだけだ」

   八 ユキ

 ユキと過ごす時間が増えた。
 水曜日と土曜日に会った。ユキの部屋に行くか、僕の部屋に来るか、どちらかだった。ユキの部屋はワンルームで、小さなテーブルの上にいつもレシートやチラシが散らかっていた。僕がそれを片づけようとすると「触らないで、あれはあれで場所が決まってるの」と言った。
 ユキは料理をしなかった。コンビニの弁当か、カップ麺か、僕が作るかだった。僕の料理はひどかったが、ユキは文句を言わずに食べた。食べながらテレビを見て、テレビの中の人間に対して「嘘でしょ」とか「ありえない」とか言った。その声が部屋に満ちると、一人暮らしの部屋が一人の部屋ではなくなった。
 ユキと身体を重ねた。初めての夜は互いに緊張して、何もうまくいかなかった。二回目も三回目もうまくいかなかった。でも身体を重ねるたびに、言葉で話すよりも深い場所で何かが通じ合った。身体が言葉の代わりをした。言葉では固くなってしまうことが、身体を通すと柔らかくなった。
 ユキの部屋で朝を迎えることが増えた。ユキは朝が弱かった。僕が先に起きて、コーヒーを入れた。ユキの部屋にはインスタントコーヒーしかなかった。マグカップにお湯を注いで、粉を溶かして、ユキの枕元に置いた。ユキは目を閉じたまま手を伸ばして、マグカップを掴んだ。目を開けずにコーヒーを飲んだ。その動作が毎回同じだった。
 僕はユキの部屋の窓辺に座って、外を見た。ユキの部屋は二階にあって、窓からは隣のアパートの屋根と電線と、その向こうの空が見えた。朝の空は薄い青だった。夜の深い青とは違う、目が覚めたばかりのような青。
 「ねえ」とユキが言った。目はまだ閉じていた。
 「うん」
 「今日、何する?」
 「特に予定はない」
 「じゃあここにいて」
 ユキはそう言って、また眠った。僕はユキの部屋にいた。散らかったテーブルと、安いカーテンと、壁に貼ってある映画のポスターと、床に転がっている靴下。それがユキの世界だった。浅井の世界とは全く違う世界だった。浅井の世界には哲学の本とプラトンと音楽があった。ユキの世界にはレシートとチラシとインスタントコーヒーがあった。でもどちらの世界にも、人がいた。僕を受け入れてくれる人がいた。
 ある日、ユキのアパートの階段を上っているとき、隣の部屋のドアが開いた。中年の女性が出てきた。僕を見て、少し頷いた。僕も頷いた。ユキの部屋に入ってから、ユキに聞いた。
 「隣の人、僕のこと知ってるのか」
 「そりゃ知ってるでしょ。毎週来てるんだから」
 「恥ずかしいな」
 「何が? 恋人が来るのは普通のことでしょ」
 恋人。ユキはさらりとその言葉を使った。僕たちはいつから恋人になったのだろう。遊園地でキスをした日からか。初めて身体を重ねた日からか。それとも、もっと後の、ユキの部屋でコーヒーを入れるようになった日からか。境界線はなかった。いつの間にか恋人になっていた。浅井が「とてもいい娘だから」と言ったとき、浅井にはこの未来が見えていたのだろうか。
 ある夜、ユキがベッドの中で言った。
 「あなたって、浅井の前では全然違う人間になるよね」
 「そうか?」
 「そう。私の前ではどこか構えてるのに、浅井の前では子どもみたいになる」
 「子どもって」
 「悪い意味じゃない。素のまんまっていうか。私のことはまだ少し怖がってるでしょ」
 否定できなかった。ユキの前では、常にどこかで自分を良く見せようとしている自分がいた。浅井の前にはそれがなかった。でもそれは浅井が特別なのであって、ユキに何か足りないのではなかった。
 「浅井は、何というか、鏡みたいな人なんだ。自分が映る。でもユキは違う。ユキは窓みたいな人で、ユキを通して外が見える」
 「何それ」
 「自分でもよくわからない」
 「わかんないなら言わなくていいよ」
 ユキは僕の胸に額を押しつけた。その重みが心地よかった。

 時々、ユキとベッドにいるとき、MacBookのピアノの音を思い浮かべた。憧れて、求め続けた結晶。夢のような世界が音楽の中にあって、幻のようだった。時の流れを変えるように飛ぶ鳥たちの歌。その未完成の歌がいつか懐かしい思い出になる。そういうことが僕には理解できた。
 ユキには音楽のことをうまく話せなかった。浅井には話せたことが、ユキには話せなかった。でもユキには別のことが話せた。朝起きたときの気分とか、食べたいものとか、疲れたとか、明日が嫌だとか。浅井には話さなかった種類の、地面に近い言葉。浅井との会話はいつも空の近くにあった。ユキとの会話は地面の上にあった。僕には両方が必要だった。

 ある日、ユキがずっと話を聞いた後で言った。
 「もう、自由になっていいの」
 僕がずっと待っていた言葉だった。何から自由になるのか、ユキに説明したことはなかった。高校のこと、受験のこと、病気のこと、櫻井のこと、浅井のこと。すべてを話したわけではなかった。でもユキはわかっていた。僕がどこかで何かに縛られていることを。
 「ここは学校ではないでしょ」とユキは言った。「人生は何もせずに生きることができるほどシンプルなものじゃない。でも、いつも何かに怯えて生きる必要もない。あなたの音楽、素敵だった。演奏してる姿に、何か美しいものが見えた」
 「浅井のことが好きだったの、わかってたのか」
 「最初からわかってた。でもそんなことは関係なかった。ライブハウスで演奏してるあなたに惹かれたのは私のほうだったから。私は人生の一瞬一瞬を大切にしてるの。好きな人が本当は友だちのことが好きだったとしても、自分のほうに運命を手繰り寄せる。私にとっては、いつも今が大切なの」
 ユキの言葉は強かった。浅井の言葉が水のように染み込むのとは違って、ユキの言葉は風のようにぶつかってきた。浅井が鏡ならユキは風だった。風は鏡には映らない。でも風があることは、肌でわかる。
 僕はユキの隣で、初めて、音楽以外の場所に自分がいてもいいのだと思った。

 ユキと別れたのは、大学を卒業してしばらく経った頃だった。
 理由はひとつではなかった。僕が音楽にのめり込みすぎたこと。ユキが社会人として忙しくなったこと。会う頻度が減ったこと。会っても話すことが減ったこと。
 でも本当の理由は、僕がまだ浅井のことを抱えていたからだと思う。ユキはそれをわかっていた。最初からわかっていた。わかった上で僕と付き合い、わかった上で別れた。
 最後に会った日、ユキは笑っていた。あの遊園地で初めて会った日と同じように、顔全体で笑っていた。
 「ねえ、あなたにとって、私は何だった?」
 「窓だった」
 「まだそれ言うの」
 「でも本当にそうだった。ユキがいなかったら、僕は音楽の中だけで生きていた。ユキが窓を開けてくれた」
 「そう。じゃあ私は窓でいいよ。窓はいつでも開けたり閉めたりできるから」
 ユキはそう言って、僕の頬に手を当てた。冷たい手だった。遊園地の観覧車の中で握った手と同じ冷たさだった。
 「元気でね」
 「ユキも」
 改札で別れた。ユキが改札を通って、振り返って手を振った。あの日と同じだった。大きくて、子どものような手の振り方。僕は手を振り返した。ユキが見えなくなるまで。

   九 最後の演奏

 四年目の秋だった。
 僕たちの演奏は変わっていた。最初の練習で四人の音がばらばらだった日から、三年以上が経っていた。今ではスタジオに入って最初の音を出した瞬間に、四人の空気が合った。言葉はいらなかった。桜井がベースを弾き始めると、レニがどのテンポでどのリズムを叩くべきかわかっていた。僕がコードを入れるタイミングを、浅井が声を出すタイミングが教えてくれた。
 練習の回数は減っていた。週に二回だったのが、週に一回になり、隔週になることもあった。桜井はアルバイトで忙しくなっていた。レニは就職活動を始めていた。浅井は大学院に進むかどうか迷っていた。僕はユキと過ごす時間が増えていた。
 四人が集まる時間が減るほど、集まったときの密度は高くなった。限られた時間の中で、僕たちは音楽の中に潜った。深く潜って、できるだけ長くそこにいようとした。
 ある日の練習の後、浅井が珍しく残った。いつもは先に帰る浅井が、スタジオの外で僕たちと一緒に立っていた。
 「ねえ」と浅井が言った。「来年、どうなるんだろうね」
 来年、桜井とレニと僕は卒業する。浅井は一年下だった。
 「バンドのこと?」と僕が聞いた。
 「全部のこと」
 浅井は空を見ていた。秋の空は高かった。雲が薄く広がっていて、その向こうに星が見え隠れしていた。
 「みんないなくなるんだね」
 桜井が言った。「俺はいなくならないよ。ベースを弾く場所が変わるだけだ」
 レニが言った。「僕もドラムは続ける。たぶん」
 「たぶんって何だよ」と桜井が言った。
 「社会人になって、どれくらい時間があるかわからないから」
 僕は何も言えなかった。来年どうなるのか、自分でもわからなかった。ユキとの将来のこと。仕事のこと。音楽を続けるのかどうか。何も決まっていなかった。
 浅井が僕を見た。
 「あなたはどうするの」
 「わからない」
 「音楽は続けるでしょ」
 「たぶん」
 浅井は少し笑った。「たぶんの人ばかりだね」
 四人で少し笑った。笑いながら、僕たちは全員わかっていた。このままではいられないということを。時間が流れていくということを。流れていく時間の中で、四人がこの場所にいる時間が、残り少ないということを。

 「最後の演奏をしよう」
 その言葉を口にしたとき、桜井が僕を見た。レニがスティックを止めた。浅井はマイクの前に立ったまま、何も言わなかった。
 僕たちはいつかそれぞれの道を歩き始める。わかっていた。大学を出れば、週に二回スタジオに入ることも、部室で昼を過ごすことも、四人でいることも、当たり前ではなくなる。でもそれを口にしたのは僕が最初だった。
 「なんで」と桜井が言った。
 理由を説明するのは難しかった。ユキのことがあった。でもそれだけではなかった。Bird一として演奏することで闇夜を抜け出せた。死ぬことを考えなくなった。生きることを考えるようになった。多くの人に心を開くことができた。だからこそ、いつまでもこの場所にいてはいけないと思った。
 「いつまでも続けられると思ってたのに」ということではなかった。いつか終わることはわかっていた。ただ、終わらせるのが僕である必要があったのかどうかはわからない。でも僕が言わなければ、誰も言わなかった。浅井は何も言わない人だった。桜井も言わなかっただろう。レニは周りに合わせる人だった。
 「何があったのかはわからないけど」とレニが言った。「君はもうひとりで飛ぶことを決めたみたいだね」
 僕はうなずいた。
 浅井は何も言わなかった。マイクの前に立ったまま、僕を見ていた。浅井の目は何も責めていなかった。何も求めていなかった。ただ見ていた。見ていることだけが、浅井の返事だった。

 最後のライブは小さなライブハウスだった。客は二十人もいなかった。ユキが来ていた。サークルの仲間が何人か来ていた。それだけだった。
 ステージに上がった。機材をセッティングした。桜井がベースのチューニングをした。レニがドラムの位置を調整した。僕はキーボードの前に座った。浅井がマイクの前に立った。
 マイクスタンドの高さを調整する浅井を見ていた。少し低くする。いつもの通りだった。いつもと同じ動作なのに、今日が最後だと知っているだけで、その動作が違って見えた。同じものが違って見える。それが「最後」の意味だった。
 曲は五曲。どの曲も自分たちで磨き上げてきた音楽だった。浅井がその一曲一曲に歌詞を書いてくれた。
 一曲目が始まった。桜井のベースが入った。いつもの硬い音だった。でもいつもよりほんの少しだけ柔らかかった。怒りではなく、惜しむ音だった。レニのドラムが重なった。僕がコードを弾いた。
 浅井が歌い始めた。
 浅井の声は、最初の練習の日と変わっていなかった。うまくはなかった。音程が正確だったわけでもなかった。でも浅井の声が入ると、音がまっすぐになった。まっすぐになって、どこかに向かった。どこに向かっているのかはわからなかった。でもそこに向かっていることだけは確かだった。
 二曲目、三曲目と進むにつれて、僕たちの演奏は変わっていった。最初は丁寧に弾いていた。最後だから間違えたくなかった。でも三曲目の途中で、桜井がいつもとは違うフレーズを弾いた。楽譜にないフレーズだった。桜井が何かを壊そうとしていた。壊して、その壊れた場所から何かを出そうとしていた。
 レニが応じた。ドラムが激しくなった。レニの柔らかい音がなくなって、硬い音だけが残った。僕もコードを変えた。練習通りの音ではない音を出した。
 浅井が歌をやめた。歌ではなく、声を出した。最初の練習の日と同じだった。歌詞もメロディもない、ただの声。その声がスピーカーから出て、ライブハウスの壁に当たって返ってきた。
 四人の音がぶつかって、壊れて、また集まった。集まっては壊れ、壊れては集まった。客がどう思っていたかは知らない。僕たちは客のことを忘れていた。四人しかいなかった。四人が一つになろうとして、なれなくて、でもなれないことの中に何かがあった。

 風が吹いているようだった。雲を突き抜けて青空を目指していた。はるか眼下に雲がどこまでも広がる。鳥たちの楽園がある。四羽の鳥はとても高いところを飛び続ける。どこまで飛べるのかその力を試しはじめている。一羽がはぐれそうになると、もう三羽の鳥が鳴いて、はぐれないようにそっと促す。太陽の光がどこまでも世界を照らしている。
 浅井が囁くように歌い続けていた。すべての悲しみがなくなるように祈っている。導くように踊っている。僕はピアノの鍵盤のすべてを使うように演奏した。どの音も素晴らしい響きを宿していた。急降下すると美しい森を見つける。あの森だ。冬の日にバイクで走って辿り着いた、あの森。木々は時を超えてそこにある。鳥たちが高い枝で歌っている。僕がメロディを歌った森。浅井は祈るように歌い続けた。僕たちが失速してしまわないように。

 四曲目が終わった。五曲目の前に、少し間があった。
 浅井がマイクに口を近づけて言った。小さな声だった。客に向けた言葉ではなかった。
 「ありがとう」
 桜井がベースのネックを握り直した。レニがスティックを持ち直した。僕がCの音を押した。ドの音。最初の音。最も基本の音。
 五曲目が始まった。
 この曲だけは、最初に作った曲だった。あの最初の練習で、浅井が「まあいいか、また来るし」と言った日の翌週に、桜井が持ってきたフレーズから始まった曲だった。浅井が最初に歌詞をつけた曲だった。
 歌詞は短かった。浅井の歌詞はいつも短かった。多くの言葉を使わなかった。でもその少ない言葉の中に、浅井が見ていたあの場所があった。スタジオの壁でも天井でもない、どこか別の場所。
 僕は弾きながら、浅井を見ていた。浅井は目を開けていた。どこかを見ていた。あの場所を。
 曲が終わった。
 残響がライブハウスの中で消えていった。音が消えるまでの数秒間が、いつもより長かった。音楽が終わる場所と沈黙が始まる場所の境目。その曖昧な数秒間に、僕たちの四年間があった。
 客が拍手をした。二十人に満たない拍手だった。でもその拍手の中に、ユキの手が叩く音があった。それだけ聞こえた。
 ステージを降りた。機材を片づけた。桜井がベースをケースに入れた。レニがスティックを鞄にしまった。僕はキーボードの電源を切った。
 浅井がペットボトルの水を飲んでいた。さっきと同じだった。水を飲んでいる浅井は、ただの二十代の女の子だった。
 僕は浅井に何か言おうとした。四年間のこと。浅井の声のこと。浅井が見ていた場所のこと。でも何も言えなかった。音楽の後の沈黙を言葉で埋めてはいけないと思った。
 浅井が水を飲み終えて、僕を見た。
 「お疲れさま」
 それだけ言った。いつもと同じだった。最後のライブの後でも、浅井の言葉は変わらなかった。
 僕は「ありがとう」と言った。浅井は小さく頷いた。

 ライブハウスを出ると、夜だった。冬の夜だった。四人で歩いた。どこに向かうでもなく、ライブハウスの前の通りを歩いた。ユキは少し後ろを歩いていた。
 桜井が言った。「飯、食うか」
 近くのファミレスに入った。席について、水を飲んだ。メニューを開いたが、何を頼んでいいかわからなかった。音楽の後の空腹は、普通の空腹とは違った。身体が空っぽになっているのに、何かで満たされている。食べ物を入れる隙間がなかった。
 ハンバーグを頼んだ。桜井はカレーを頼んだ。レニはパスタを頼んだ。浅井はオレンジジュースだけ頼んだ。
 「食べないの」
 「お腹空いてない」
 浅井はいつもライブの後は食べなかった。声を出した後の喉を休めているのだと僕は思っていた。でもたぶん違った。浅井はライブの後、まだ音楽の中にいた。身体はファミレスの椅子に座っているが、浅井の意識はまだステージの上にあった。あの場所に。スタジオの壁でも天井でもない、あの場所に。
 ユキが僕の隣に座った。ユキは僕の腕に自分の腕を通した。ユキの腕は温かかった。
 「すごかったよ」とユキは言った。
 「そうか」
 「泣きそうになった。最後の曲」
 僕はハンバーグを切った。ナイフが皿に当たる音がした。
 桜井が言った。「これで終わりなのか」
 「終わりだよ」
 「お前が決めたことだから、文句は言わない。でも俺はまだ弾く。別の誰かとでも、一人ででも」
 「知ってる」
 レニが言った。「僕は少し休むかもしれない」
 「レニは休んでいいよ」と桜井が言った。「お前は休んでも、またいつか叩く」
 レニは笑った。穏やかな笑い方だった。
 浅井はオレンジジュースを飲んでいた。ストローで少しずつ飲んでいた。何も言わなかった。浅井は最後まで何も言わなかった。
 ファミレスを出た。駅まで四人で歩いた。ユキは先に帰っていた。駅前で立ち止まった。
 桜井が手を出した。僕は握った。桜井の手は硬かった。ベースを弾く手だった。
 レニが手を出した。僕は握った。レニの手は温かかった。
 浅井が手を出した。僕は握った。浅井の手は小さかった。その手が歌詞を書き、マイクを握り、ヘッドフォンに両手を当てて僕の曲を聴いた手だった。
 「じゃあね」と浅井が言った。
 「うん」
 「また会おうね」
 浅井は笑った。口元だけの笑い方だった。でもその夜、浅井の目には別の光があった。寂しさではなかった。もっと静かなもの。何かを受け入れた後に残る光。
 四人はそれぞれの方向に歩き出した。僕は振り返らなかった。振り返ったら泣いてしまうと思った。足音だけが聞こえていた。桜井の足音。レニの足音。浅井の足音。三つの足音が少しずつ遠くなっていった。
 最後に聞こえたのは浅井の足音だった。軽い足音だった。鳥の足音みたいに軽かった。

   十 月の上で

 浅井が亡くなったとユキから電話があったのは、ユキと別れて二年ほど経った頃だった。
 僕は二十七歳になっていた。仕事をしていた。Web関連の仕事で、仲間たちの音楽を紹介するサイトを作っていた。時々、桜井やレニとスタジオに入ることはあったが、前のようには弾けなくなっていた。浅井がいないスタジオは、同じ場所なのに違う場所だった。
 電話が鳴ったのは仕事中だった。ユキの名前が画面に出た。別れてから連絡を取っていなかった。
 「浅井が亡くなった」
 ユキの声は平坦だった。泣いていなかった。事実を伝える声だった。
 「死因はわからないの。私も最近はそんなに頻繁に会っていたわけではないから、細かいことはわからないけど」
 「ごめん。ちょっと電話を切るよ」
 「うん。また」
 電話を切ってから泣き始めた。仕事中だった。オフィスを出て、廊下の自動販売機にもたれかかって泣いた。
 泣きながら、色々なことが頭の中を駆け巡った。浅井と部室で話したこと。浅井がプラトンの『饗宴』を読んでいたこと。「どこにもいられない人がいていい場所」と浅井が音楽のことを言ったこと。最初の練習で浅井が「全然だめ」と言ったこと。浅井が歌ったこと。歌詞のない、メロディのない、ただの声。その声がスタジオの空気を変えたこと。学食の隅で片耳ずつヘッドフォンを分け合って聴いたこと。浅井の髪の匂い。味噌汁の湯気。
 「まあいいか。また来るし」
 浅井はそう言った。また来るし。でも浅井はもう来ない。どこにも来ない。
 泣くだけ泣いて、三十分ほどして、なんとか仕事を終えた。その日は珍しく定時で帰った。帰ってから、ユキにLINEでお通夜のことを聞いた。

 浅井を最後に見たのは、大学を卒業してしばらく経った後のライブハウスだった。共通の知り合いのバンドのライブを観に行った。浅井がいた。珍しく髪をいつもより伸ばしていた。肩にかかるくらいの長さだった。
 浅井は僕を見て笑った。いつもの口元だけの笑い方だった。
 「元気?」
 「まあまあ。そっちは?」
 「まあまあ」
 それだけ話して、ライブが始まった。
 ライブの間、僕は時々浅井のほうを見た。浅井は音楽を聴いていた。目を閉じて、身体を微かに揺らしながら聴いていた。スタジオで僕たちの音を聴いていたときと同じ姿勢だった。浅井は変わっていなかった。髪の長さは変わったが、音楽の聴き方は変わっていなかった。
 ライブが終わって、少し話した。浅井は大学院を出た後、何をしているのか聞いた。浅井は曖昧に笑った。「いろいろ」とだけ言った。浅井はいつもそうだった。自分のことを話さなかった。
 僕は自分の話をした。Webの仕事をしていること。音楽のサイトを作っていること。時々スタジオに入ること。でも前のようには弾けないこと。
 浅井は聞いていた。聞きながら、時々頷いた。浅井に話を聞いてもらうと、自分の言葉が正しい場所に置かれていく感覚があった。それは大学の部室で話していたときと同じだった。浅井は何も変えなかった。ただ聞いているだけで、僕の言葉が変わった。
 「ピアノは弾いてる?」
 「弾いてるよ。たまに」
 「よかった」
 浅井はそう言って、少し笑った。
 帰り際、浅井が何かを言いかけた。口が動いた。でも言葉にはならなかった。浅井は口を閉じて、代わりに笑った。
 「じゃあね」
 「うん。じゃあ」
 それが浅井と会った最後だった。
 浅井が何を言おうとしたのか。十年間、考え続けている。寺の鐘が鳴った後の残響のように、浅井の口の動きだけが記憶に残って消えない。言葉にならなかった言葉。音にならなかった音。でも確かにそこにあった何か。

 葬式の後、桜井とレニと飲んだ。三人とも酔った。桜井が珍しく泣いた。レニは泣かなかったが、グラスを持つ手が震えていた。
 誰も浅井の死因を知らなかった。知らないまま、浅井はいなくなった。知らないということが、喪失をさらに深くした。何が起きたのかわからないまま、ただ浅井がいなくなった。
 桜井が泣き止んだ後で言った。「あいつの声が、ここに残ってる」。桜井は自分の胸を叩いた。「ここで鳴ってる。消えない」
 レニが言った。「僕のドラムの中にもいる。浅井が歌い始めるタイミングを、今でもスネアが覚えてる」
 僕は何も言えなかった。僕の中にも浅井はいた。鍵盤に触れるたびに、浅井の声が指の先から聞こえた。でもそれを言葉にすることが怖かった。言葉にしたら、浅井が本当にいなくなってしまうような気がした。
 三人で飲み続けた。浅井の話はしなかった。音楽の話もしなかった。天気の話と、仕事の話と、どうでもいい話をした。どうでもいい話をしながら、三人とも浅井のことを考えていた。言葉の間にある沈黙が、浅井の不在を語っていた。
 終電が近くなって、店を出た。駅前で三人で立った。あの最後のライブの夜と同じだった。四人だったのが三人になっていた。
 桜井が手を出した。僕は握った。硬い手だった。
 レニが手を出した。僕は握った。温かい手だった。
 浅井の手はなかった。小さくて、歌詞を書き、マイクを握り、ヘッドフォンに両手を当てて僕の曲を聴いた、あの手はなかった。

 それから僕は音楽から離れた。聴くことも、弾くことも、歌うことも。イヤフォンをすると浅井の声が聞こえる気がした。聞こえないことはわかっていた。でも聞こえるかもしれないと思うことが怖かった。聞こえたとき、僕は何を感じるのか。その感情に耐えられる自信がなかった。
 夜の中にいた。長い夜だった。十年分の夜だった。
 あの頃の夜を思い出した。アパートの六畳の部屋で天井を見上げて煙草をくわえた夜。MacBookの鍵盤を叩いた夜。河川敷を歩いた真夜中。鳥たちが月で羽を休めているかもしれないと思った夜。桜井がビールを持って来た夜。あの頃の夜には、暗闘の中に音楽があった。浅井が死んでからの夜には、音楽がなかった。音楽のない夜は、ただの暗闇だった。
 バイクには乗らなくなった。あのバイクはとっくに手放していたが、新しいバイクを買おうとも思わなかった。バイクに乗っていると風の歌が聞こえる。風の歌が聞こえると、あの森のことを思い出す。あの森のことを思い出すと、鳥の声が聞こえる。鳥の声が聞こえると、Bird一のことを思い出す。Bird一のことを思い出すと、浅井の声が聞こえる。
 すべてが繋がっていた。音楽を断つということは、あの四年間に繋がるすべてを断つということだった。
 河には行かなくなった。煙草もやめた。CDは段ボール箱に入れて押し入れにしまった。MacBookは仕事用だけに使った。音楽ソフトは削除した。
 それでも音楽は来た。スーパーの有線放送から。電車のホームで誰かのイヤフォンから漏れる音から。カフェのBGMから。街は音楽で溢れていた。その度に僕は少し立ち止まった。立ち止まって、浅井のことを考えた。考えて、歩き出した。
 三十歳を過ぎた頃から、立ち止まる時間が少しずつ短くなっていった。三十歳のときには三十秒立ち止まっていたものが、三十一歳では二十秒になり、三十三歳では十秒になり、三十五歳では五秒になった。音楽が聞こえて、浅井のことを思い出して、また歩き出す。その動作が次第に滑らかになった。滑らかになることが、忘れることなのか、受け入れることなのか、わからなかった。
 桜井とは年に一度か二度、飲みに行った。桜井はまだベースを弾いていた。別のバンドで、別の音楽をやっていた。桜井のベースは変わっていなかった。硬い音。怒りのある音。でも三十歳を過ぎた桜井の怒りには、若い頃にはなかった深さがあった。怒りの底に、悲しみが混ざっていた。浅井の死がそうさせたのか、それとも年齢がそうさせたのか。
 レニは遠くの街に引っ越していた。年賀状が来た。結婚した。子どもができた。レニの年賀状には家族の写真が載っていた。レニは笑っていた。あの穏やかな笑顔のまま、家族に囲まれていた。
 ユキとは連絡を取っていなかった。浅井の訃報を伝える電話の後、LINEで事務的なやり取りをして、それきりだった。ユキは元気だろうか。ユキは今も一瞬一瞬を大切にしているだろうか。

 三十七歳になった年、僕は村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでいた。何度も読んだ本だった。死んだ人間は死んだままで、僕たちは生きていかなければならない。
 ピアノの前に座った。Cの音を押した。ドの音が部屋に満ちた。
 指が動き始めた。何を弾いているのかわからなかった。でも指は止まらなかった。浅井の声の代わりに、僕の指が鍵盤の上を動いた。浅井が見ていたあの場所を、僕の指が探していた。
 森の鳥たちのことを思い出した。あの冬の日、河を遡ってたどり着いた森。鳥に向けてメロディを歌ったこと。鳥が高い枝に飛び移ったこと。鳥は応えてくれた。鳴き声で応えてくれた。
 浅井もそうだった。僕が音を出すと、浅井は声で応えた。僕と鳥の間に流れる河よりも、僕と浅井の間に流れる河のほうが深かったかもしれない。でも音楽はその河を越えた。越えられたのだ。
 あの頃の夜を思い出した。六畳の部屋で天井を見上げて煙草をくわえた夜。自分が宙に浮かび上がるところを想像した夜。浅井のことを思った夜。そして煙草をくわえることをやめて、また音楽を探しはじめた夜。あの頃、僕は探していた。誰も聴いたことのない曲を。誰も聴いたことのないメロディを。
 十年経って、まだ探している。探し方が変わっただけだった。あの頃は闇の中で手を伸ばすように探していた。今は光の中で目を凝らすように探している。闇の中の手探りのほうが、たまに美しいものに触れることがある。でも光の中で探すほうが、見つけたものを失くさずにいられる。
 河辺を歩いた夜のことを思い出した。鳥たちはどこにいるのだろうと思った夜。鳥たちは月で静かに羽を休めているのかもしれないと思った夜。あの夜から何年が経ったのだろう。河はまだ流れているだろうか。あの森はまだそこにあるだろうか。寺のてっぺんから見た夕陽に照らされた街並みは、変わっただろうか。
 たぶん、変わった。でも変わらないものもある。河は流れ続けている。森の木は立ち続けている。鳥は歌い続けている。僕が音楽をやめていた十年間も、鳥は歌い続けていた。
 メロディができた。歌詞を書いた。かつて浅井が歌詞を書いてくれたように、今度は僕が書いた。学食の隅で片耳ずつヘッドフォンを分け合って聴いた日のことを思い出しながら。浅井の髪の匂い。味噌汁の湯気。「これ、私が歌っていいのね」と言った浅井の声。今度は僕が歌う。浅井の代わりに。浅井の声ではなく、僕の声で。

 I remember you. In our dream.
 I remember you. In our heart.
 Because you are waiting on the moon.

 月の上で待っている。浅井がそう言おうとしたのかもしれない。あのライブハウスで、何か言いかけてやめたとき。月の上で待ってると言おうとしたのかもしれない。それは真実ではないだろう。でも僕はそう思うことにした。

 We'll reunite again again again.

 何度でも再会する。記憶の中で。音楽の中で。指が鍵盤に触れるたびに。

 I'll reunite again. On the moon. I imagine in future.

 想像の中の未来で、僕は浅井に会う。浅井は笑っている。口元だけの笑い方ではなく、目も笑っている。Bird一の名前を決めた日のように。
 僕は曲を弾き続けた。誰もいない部屋で、キーボードを弾いた。レニがドラムを叩いているような気がした。桜井がベースを弾いてくれているような気がした。そして浅井が歌ってくれているような気がした。
 特別な歌だ。あの頃、求め続けた美しい歌。

 鳥にとって、飛ぶことは生きることだ。飛ぶことをやめた鳥は地面にいる。地面にいる鳥も鳥だ。でもいつか、また飛ぶ。飛ぶことを思い出す。風が来て、翼を広げて、地面を離れる。
 十年間、僕は地面にいた。浅井が死んで、僕は飛ぶことをやめた。でも今、指が鍵盤の上を動いている。それは小さな飛翔だった。地面を数センチだけ離れたような飛翔。でも数センチでも、地面を離れたことに変わりはなかった。

 大きな時の流れがまるで見えるような時もあれば、今、目の前で起きていることさえ、いったいどんな意味があるのかわからなくなってしまう。
 でも今は少しだけわかる。あの四人の時間は特別だった。特別であることは、永遠であることとは違う。特別なものはいつか終わる。終わるからこそ特別だ。
 浅井は言った。人間はもともと一つだったものが二つに分かれたから、自分の片割れを探しているのだと。プラトンの本に書いてあったと。嘘みたいだけど少しわかると。
 僕は自分の片割れを見つけたのだろうか。浅井がそうだったのだろうか。ユキがそうだったのだろうか。桜井が、レニが。
 たぶん、全員がそうだった。僕はたくさんの破片に分かれていて、浅井の中に一つ、ユキの中に一つ、桜井の中に一つ、レニの中に一つ。あの四年間の中に、たくさんの破片があった。
 浅井が死んで、一つの破片が月の上に行った。取り戻すことはできない。でもその破片が月の上にあることを、僕は知っている。知っていることが、生きていくことだ。

 僕はピアノを弾いた。
 浅井の歌が聞こえた気がした。あの声だ。うまくない声。音程が正確ではない声。でもその声が入ると、すべてがまっすぐになる。どこかに向かう。どこに向かっているのかはわからない。でも向かっていることだけが確かだった。
 月の上で、浅井が待っている。
 僕はまだ地面にいる。でも指は動いている。音は鳴っている。いつか、もう少しだけ高く飛べるかもしれない。
 窓を開けた。夜の空気が部屋に入ってきた。あの六畳の部屋とは違う部屋だった。でも夜の空気は同じだった。二十歳の夜も三十七歳の夜も、空気は同じ冷たさで肌に触れた。
 窓の外を見た。星が見えた。あの頃の壁と壁の間の細い空とは違って、今の窓からは広い空が見えた。でも星の数は同じくらいだった。二つか三つ。東京の空には、いつも星が二つか三つしか見えなかった。
 その星のどれかの向こうに、月がある。月の上に、浅井がいる。
 バイクで森を探しに行った日のことを思い出した。河を遡って、コンビニがなくなって、砂利道になって、森を見つけた。グローブを外して木の幹に触れた。鳥に歌を歌った。鳥が応えてくれた。
 あの日、僕が探していたのは森ではなかった。音楽が指し示す場所だった。音楽が「ここに来い」と言っている場所。その場所は森だった。今、音楽が指し示す場所は、月の上だった。
 まだ行けない。でもいつか行ける。音楽があれば、どこにでも行ける。浅井がそう教えてくれた。どこにもいられない人がいていい場所。それが音楽だと。

 また来るし。

 浅井の言葉が聞こえた。また来る。何度でも来る。この音楽の中に。この記憶の中に。この指が鍵盤に触れるたびに。
 浅井は来る。また来る。
 僕はそう信じることにした。
 鳥は飛ぶために生まれた。僕は弾くために生まれた。浅井は歌うために生まれた。
 月の上で、浅井が歌っている。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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