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傷だらけの医師

ナン・ルーナック

11,444 字

カイストシリーズの二次創作作品です。 ※アイディア元の原作: https://madtaro.x0.com/heavy_yokes.htm https://kakuyomu.jp/works/822139841951538606/episodes/822139842009174120 https://kakuyomu.jp/works/822139841951538606/episodes/822139842044768989

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※カイストシリーズの二次創作です。
※アイディア元の原作:
https://madtaro.x0.com/heavy_yokes.htm
https://kakuyomu.jp/works/822139841951538606/episodes/822139842009174120
https://kakuyomu.jp/works/822139841951538606/episodes/822139842044768989

傷だらけの医師

一

腹の右側が、締め上げられるように痛む。
半年前からだ。最初は鈍い痛みだった。町の診療所で診せると薬をくれた。効かなかった。痛みは少しずつ強くなり、場所が変わっていった。
別の町にある大きな病院でも診察をしてもらった。腹の奥に瘤があると言われた。取らなければ死ぬ。だが瘤は血管に絡みついていて、手術の途中で死ぬ可能性が高い。それでもやるかと聞かれた。治療にはいくらかかるのかを聞いた。とても払える額ではなかった。
ダルトはここで死ぬわけにはいかなかった。養わなければいけない家族はまだ多くいる。自分が死ねば彼らはつらい道を歩むことになってしまう。必死で金を工面したものの病院で提示された額にまったく届かず、もう金に換えられるものはなかった。

行き場を失って、ダルトは噂を辿った。
どんな病も治す。医師が見捨てる状況にあってもそこへ行けば健康になって帰ってくる。なんなら、病状が出る以前の体よりも健康になって。
ただし、治療を受ける前に妙な問診がある。診察の最中には首に金属の輪を嵌められる。治療中に患者が叫ぶことがある。治療費は驚くほどに低額だが、それ以外の対価を求められることがある。
まさに噂らしい噂だった。しかしダルトには、それを吟味する余裕がもはやなかった。
金以外の対価。何を求められるのか。それを気にする地点はとうに過ぎたのだ。

三日かけて辿り着いた町の裏通りに、その診療所はあった。看板は小さい。「診療所」とだけある。表通りから一本入った場所で、通りかかる者でなければ気づかない。扉は木製で飾り気がない。ただ、磨かれていた。

扉を押した。鐘が鳴った。
中は狭かった。待合の椅子が三つ。薬棚。湯を沸かす小さな炉。壁に掛けられた器具の中に、ダルトの知らないものがいくつかあった。医療用の道具にも見えたが、形状がどこか違う。何に使うのか分からないものだった。

奥の扉が開いた。男が出てきた。
ダルトは一瞬、言葉を失った。

一人の男だった。額から頬にかけて走る古傷。首筋にも、手にも、見える範囲すべてに傷痕があった。何百年も傷を重ねてきたような見た目。だが身に着けているものは清潔であり、どうやら医師ではあるようだ。
(どう見ても堅気ではないだろ……)
そう思ってしまったが、それを口に出せるほど余裕のある状況でもなかった。

男の首元に、何かが見えた。金属の光沢。首に巻かれた何か。だが服の襟で隠れていて、よくは見えなかった。
この男の傷は、戦った者の傷には見えなかった。耐えた者の傷だった。
男はダルトを一瞥し、それからダルトの腹の右側を見た。一瞬だった。

「座れ」

短く重い声で男はそう言った。

二

沈黙があった。

ダルトはとりあえず椅子に座る。男は向かいに座った。何も言わなかった。薬棚から何かを取り出すでもなく、問診票を広げるでもなかった。ただ、ダルトを見ていた。

ダルトは待った。ついに沈黙に耐えられず口を開いた。

「噂を聞いてここに来ました……腹の右側が痛みます。何回か他の医師を訪ねたんですが——」

「いつから痛む」

男が遮った。ダルトは口を閉じた。

「半年前からだな。最初は鈍かった。次第に強くなり、場所が変わった。夜は眠れない日がある。食欲は減っている。体重は落ちている。大便に血が混じる」

ダルトは目を見開いた。

「座った時に息を吐く間隔が不規則だ。痛みが一定ではない。体を右に傾けている。手は無意識に右腹を庇っている」

男は淡々と言った。

「瘤だ。腹の奥にある。血管に絡んでいる。手術が必要だ」

「……はい」

「普通の手術なら、途中で死ぬ可能性が高い」

ダルトは黙った。病院で言われたことと同じだった。

「だが、俺のやり方なら、死なない」

「……死なない?」

「死なせない」

ダルトは男を見た。嘘をついてるようにも思えない目だった。だが、死なせないと言い切る根拠が分からなかった。

「方法を説明する」

男は立ち上がった。壁に掛けられた器具の中から、一つを取った。
金属の輪だった。二つあった。それぞれから鎖が伸びている。鎖は頑丈だった。切れそうに見えなかった。

「これをお前と俺の首に嵌める」

男は輪をダルトに見せた。

「嵌めている間、お前の痛みは俺にも来る。俺の痛みはお前にも行く。互いに共有する。ただし痛みの度合いは、俺の裁量で配分することができる。故に完全に同じ痛みを受けるわけではない」

ダルトは輪を見た。重そうだった。鎖がついている。
(とんでもないところに来てしまった……噂より今この瞬間の方がよりひどいじゃないか……)

「配分するのは、痛みへの耐性に個人差があるからだ。また、俺の受ける痛みより、お前の受ける痛みの方が多くなる、そういったことは絶対に無いと宣言しておく」

治療器具とは到底思えない。いったいどこの世界にそんなやり方があるっていうんだ。

「……拷問器具ですか。それとも処刑用の何か、とか……」

「そうだった時期もある」

ダルトの背筋が冷たくなった。

「だが今は治療に使う。そして必要だ。お前の痛みを俺が感じる。だから、どこがどう痛いか、お前が言葉にしなくても分かる。お前が気づいていない異常があっても、俺が気づく」

「……」

「嵌めている間、気絶はできない。死ねない。治療の途中で死ぬことはない」

「死なない……」

「ただし、痛みは消せない。ある程度は俺が引き受けるが、完全には消せない。一般的な意味での麻酔は無いということだ」

「……どのくらい痛いんですか」

「お前が今感じている痛みよりは痛い」

「それから、輪でつないでいる間、お前の体は俺が押さえる」

「……押さえる?」

「痛めば人は暴れる。腹を開いている時に暴れられると困る。だから動けなくする。いつ、どこまで押さえるかは俺が決める。治療中に頼まれても緩めない」

「縛るんですか」

「縄は使わない」

ダルトは男の手を見た。鎖でつながれた輪だけが、まだそこに残っている。

「……どうやって」

「詳しくは説明しないが、俺の我力を使う」

ダルトは黙った。人生で初めて聞く単語であったが、内心もうどうにでもなれ、と思い始めていた。
男は輪を戻し椅子に座った。

「契約の話をする」

「……契約」

「治療の範囲を決める。腹の瘤を取る。それが主な治療だ。だが、治療中にお前が知らない異常が見つかることがある。それをどうするか、先に決めておく」

「……知らない異常?」

「瘤の周りに別の損傷があるかもしれない。隣接する臓器に影響が出ているかもしれない。お前が自覚していないことだ」

ダルトは考えた。

「……命に関わるものなら治してください。それ以外は、教えてから決めさせてください」

「治療の途中で決めることはできない。先に決めておく」

「……では、命に関わるものは治してください。それ以外でも、今後生きていく上で支障が出そうな、もの……というか、こと、というか。例えば今すぐにどうなる、という訳ではないけれど、もしかしたら将来悪影響が出る可能性がある腫瘍……とか。そういったものが見つかればそれも治療してください」

男は頷いた。

「分かった。次に、報酬の話だ」

ダルトは緊張した。金以外の対価。噂にあったやつだ。

「治療費は最低限の額で構わない。なんだったら公的保険の適用も可能だ。だがそれとは別の報酬をお前に要求する」

「……何ですか」

「お前が、自分でも悪いと思っていることを一つ選べ。『どう考えてもこれを行うのは悪だ』そういったことを今後はやらないと約束しろ」

ダルトは息を止めた。

「……悪いこと、とは」

「お前が悪いと思っていることだ。俺が決めることではない」

ダルトは黙った。何かを考えた。それから、口を開いた。

「……他には」

「お前の力で救える者が現れ、その者から助けを求められたのなら、一回以上全力で応えろ。一回の定義はお前に任せる。無論、何度でも救っていい。上限は無い。そしてお前がするその行為に対して、見返りは求めるな」

「……家族でもいいんですか」

「家族は除く」

「なぜ——」

「家族を守るのは当然だ。当然のことは対価にならない」

ダルトは男を見た。男の目は静かだった。揺るがなかった。

「……分かりました」

「約束するか」

「……約束します」

「名前を言え」

「……ダルトです」

男は立ち上がった。二つの金属の輪を手に取った。

「最後に一つ。嵌めたら、治療が終わるまで外せない。お前が途中でやめたいと言っても、外せない。お前が叫んでも、泣いても、外せない。治療が完了するまで、外れない」

ダルトは輪を見た。重そうだった。冷たそうだった。

「……それでも、お願いします」

男は頷いた。

輪が嵌まった。二つ。ダルトの首と、男の首に。鎖がつながった。

金属は冷たかった。だが、すぐに温かくなった。そして、痛みが来た。

ダルトの腹の痛みが、鮮明になった。今まで鈍かった痛みが、鋭くなった。男の表情は一つも変わらなかった。

「……痛い」

「ああ。俺にも来ている」

三

鎖でつながれたまま二人は移動する。

短い廊下だった。途中に扉が一つ、突き当たりにもう一つ。男は途中の扉の前で足を止めなかった。そのまま通り過ぎた。

「……今の部屋じゃないんですか」

「まだだ」

男はダルトの半歩前を歩いた。鎖は二人の間で緩く垂れていた。歩くたびに、腹の奥が揺れた。一歩ごとに痛みの形が変わる。

「これは何の時間なんですか」

「お前の体を検証している」

変な言い回しだな。それに歩いているだけじゃないか、と言いかけたが、その言葉が出る前に男はまた妙なことを言い出した。

「今から少し痛くする」

「……え」

答える前に来た。

指先に針を刺されたような痛みだった。鋭いが、短い。ダルトは思わず手を振った。何も刺さっていなかった。男を見た。男は立っているだけだった。手も動かしていない。

次が来た。今度は奥歯だった。歯の芯を、細い錐で削られているようだった。ダルトは顎を押さえて呻いた。

三つ目は頭の奥から来た。片方の目の裏を、内側から焼かれるような痛み。ダルトは壁に手をついた。息が止まっていた。

四つ目で膝に激痛が走り、思わず床に膝をつきそうになった。痛みが消えた。ダルトは壁際の手すりにしがみつき、荒い息を繰り返した。

「……何を、したんですか」

「お前がどこまで耐えられるかを測った」

男の顔は、最初から何も変わっていなかった。同じ痛みがこの男にも来ていたはずだ、とダルトが気づくまでに、少し時間がかかった。

「三つ目までなら、お前は正気を保てる。治療はその手前でやる」

「……四つ目は」

「あれは使わない」

(いきなり何をするんだ、この人は……)

男はもう、来た道を戻り始めていた。

「来い」

男は、さっき通り過ぎた扉を開けた。寝台が一つあった。

ダルトは言われるまま仰向けになった。首の輪から伸びた鎖が、寝台の縁を越えて男の首へ続いている。鎖は床に垂れて、緩く弧を描いていた。

男は器具を並べた。刃物がいくつか。鉤のようなもの。細い針と糸。湯を張った盥。どれも磨かれていた。
男がダルトの服の前を開けた。腹が冷たい空気に触れた。

「切る」

それだけ言って、男は刃を当てた。

痛みは覚悟していた。覚悟していたものとは違った。
刃が皮膚を割る感覚が、そのまま頭の芯に届いた。熱いのか冷たいのか分からない。ダルトの喉から声が漏れた。声はすぐに叫びになった。噂は本当だった、と頭のどこかで思った。

体が跳ねようとした。跳ねなかった。
手も足も、胴も、寝台に貼りついたように動かない。縄も帯もない。何にも縛られていない。目は動くし喋ることもできる。そのせいで、首から下が自分のものではないように感じる。
我力、と男は言った。これがそうなのか。

意識が遠のきかけた。遠のかなかった。
目の前が白くなる。白くなったところで止まる。その先へ行けない。気を失う直前の、一番苦しいところに、ずっと引き留められている。

「気絶はできないと言った」

男の声は平らだった。

ダルトは男を見た。視線だけは自由にできるが、それが痛みを紛らわす助けには到底ならない。男は腹の上に屈み込んでいた。額に汗はない。唇の色も変わっていない。刃を持つ手は、少しもぶれていなかった。
襟の開いた首元に、輪が二つ並んでいる。一つからは鎖がダルトへ伸びている。もう一つからは、何も伸びていない。

同じ痛みが、この男にも来ているはずだった。
廊下の四つとは比べものにならない痛みが。

「……っ、嘘だ……」

「何がだ」

「あんたにも……来てるなんて……」

「来ている」

男は刃を置き、別の器具を取った。腹の中に何かが入ってくる。押し広げられる。臓腑の奥を指でなぞられるような感覚があった。

「瘤だ。血管を三本巻き込んでいる。順に剥がす」

一本目が剥がされた時、ダルトは泣いた。二本目で、声が出なくなった。

「外してくれ……」

喉から絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。

「外してくれ……もう無理だ……!」

「無理ではない」

「何が分かる……!」

「分かる」

男は手元から目を離さなかった。

「お前の痛みは、俺にも来ている」

「なら、なんで平気なんだ……!」

「慣れている」

「ふざけるな……!」

「今の痛みなら、お前は耐えられる。検証済みだ」

「止めろ……止めてくれ……」

「治療は止めない」

男の手が三本目の血管に掛かった。そこで、ほんの一瞬だけ止まった。

「必要なら、痛みを一段階上げることもできる」

ダルトは息を呑んだ。

「そうすれば、今の痛みがまだ耐えられる範囲だと、比べて分かる」

冗談を言っている顔ではなかった。そもそもこの男が冗談を言う顔を、ダルトは想像できなかった。やろうと思えば本当にやれるのだ、ということだけが分かった。

「……や、やめろ」

「では、このまま続ける」

三本目が剥がれた。ダルトはもう叫ばなかった。叫ぶ力が残っていなかった。

男が何かを持ち上げた。盥に落とす。重く湿った音がした。

「取れた」

終わった、とダルトは思った。

「もう一つある」

「……え」

「肝臓の縁に、小さな影がある。今は何もしていない。だが十年もすれば、今日の瘤と同じものになる」

ダルトは何か言おうとした。言えなかった。

「契約の範囲だ。取る」

刃がまた入った。
先に決めさせられた理由を、ダルトはその時になって理解した。今の自分に、何かを決められるはずがなかった。ただ痛みがあって、それが終わるのを待つことしかできない。やめてくれと言っても、そのやめてくれには何の意味もない。意味があったのは、輪を嵌める前に言った言葉の方だった。

二度目は短かった。短かったが、楽ではなかった。

針が皮膚を縫い始めた。一針ごとに、細く鋭い痛みが走る。ダルトはそれを数えた。十を過ぎたあたりで、数えるのをやめた。代わりに、家で待っている者たちの顔を、一人ずつ思い浮かべた。
全員の顔を思い浮かべ終わっても、針はまだ動いていた。もう一度、最初から思い浮かべた。

最後の糸が結ばれた。

「終わった」

首の輪が、音もなく緩んだ。
男がそれを外した。自分の首からも外した。男の首元には、古い輪だけが残った。

痛みが引いていく。完全には消えない。だが、さっきまでのものに比べれば、無いに等しかった。

「眠れ」

言われる前から、瞼が落ちていた。
最後に見たのは、鎖を束ねる男の手だった。その手は、最初から最後まで、一度もぶれなかった。

*

ダルトの寝息が規則正しくなったのを、男は確かめた。
それから治療室を出て、扉を閉めた。

誰もいない部屋で、男は壁に手をついた。
一度だけだった。

手を離し、水差しから水を一杯注いで飲んだ。机に向かい治療記録を書き始めた。

患者名、ダルト。腹部腫瘤摘出。血管三本剥離。肝縁部に微小病変、契約範囲につき切除。

筆は淀みなく進んだ。ただ一箇所、「剥離」の一画だけがわずかに震えていた。

四

目を開けると、天井があった。

見覚えのない天井だった。ダルトはしばらくそれを見ていた。それから、腹の右側に手をやった。
手が動いた。
包帯が巻かれていた。その下に、細く長い膨らみがある。縫い痕だった。押すと、鈍く痛んだ。だが、締め上げられるような、あの痛みではなかった。

「起きたか」

男が寝台の脇の椅子に座っていた。膝の上に帳面を載せている。いつからそこにいたのか分からなかった。

「治療は完了した。傷は残る。一か月は重い物を持つな。右の脇腹が突っ張る感じは、半年ほど続く」

男は帳面を閉じた。

ダルトは体を起こした。腹が引き攣れたが、起き上がれた。半日前まで、この体は寝台に貼りついたまま、指一本動かなかったのだ。

男の首元には、古い輪が一つだけ残っていた。ダルトは自分の腹の包帯を見た。それから、男の顔の傷を見た。首筋の傷を見た。手の傷を見た。

「……あんた、何者なんだ」

言ってから、口調が崩れていたことに気づいた。男は気にした様子もなかった。

男はすぐには答えなかった。ダルトを見ていた。最初に診療所で向かい合った時と同じ目だった。ただ、あの時より少しだけ長かった。

「話してもいい。ただし条件がある」

「……条件」

「俺の話について、お前の問いには一切答えない。それでもいいか」

また契約だ、とダルトは思った。この男は何をするにも先に決めごとをする。

「……それでいいです」

男は頷いた。

「この世界は、委員会の管理下にある」

委員会。聞いたことのない言葉だった。ダルトは口を開きかけて、閉じた。

「本来、俺のような者が好き勝手に動いていい場所ではない。だが、俺の師匠は委員会にかなりの貢献をしていて、コネもある。俺が修行するために、この町一帯を俺の自由にしていい、という取り決めを委員会と交わしてくれた」

俺のような者。師匠。修行。問いたいことが喉元に積み上がっていく。ダルトはそれを全部飲み込んだ。

「俺はBクラスのカイストだ。治療士としてはまだCクラスの下限にも届いていないがな」

カイスト……治療士……医者ではないのか。
飲み込んだはずのものが、一つだけこぼれた。

「……あれで、修行中だなんて」

言ってしまってから、ダルトは口を押さえた。男の目がこちらを向いた。

「それは問いではない、と判断する」

男はそう言って、少しだけ間を置いた。冗談なのかどうか、顔からは分からなかった。

「治療士の中には、光を撒くだけで病を治す者がいる。お前の瘤程度なら、一時間もかからない。痛みもない。糸で編んだ繭に包んで、千切れていようが体を元通りにできる者もいる」

ダルトは言葉を失った。

「俺はまだ、切って、痛ませて、縫うことしかできない。傷も残る」

男はダルトの腹を見た。包帯の上から、縫い痕のある辺りを。

「まともな治療士なら、傷など残さない」

ダルトは包帯に手を当てた。修行中。この男は本気でそう言っているのだ、と分かった。

しばらく、どちらも喋らなかった。
ダルトは、輪を嵌める前に交わした約束を思い出していた。自分でも悪いと思っていることを一つ、やめる。助けを求められたら、応える。

言葉を選んだ。問いにならないように。

「……変わった報酬だと、思いました」

男は少しだけ黙った。

「昔は、悪を罰していた」

ダルトは顔を上げた。

「それが正しいと思っていた。長い間、そうしていた」

男の声は、変わらず平らだった。

「あるやつに、間違った道を歩き続けるのは悪だ、と言われた。それで、別の道を探した」

「……」

「悪を罰するより、求められて救う方が正しい。今はそう思っている」

男はそれ以上言わなかった。ダルトも、何も言わなかった。返せる言葉を持っていなかった。
男の首の古い輪が、窓からの光を鈍く返していた。

「……それは、外さないんですね」

問いにならないように言ったつもりだった。男は首元に手をやりかけて、やめた。

「外さない」

ダルトは治療費を払った。驚くほど安かった。噂の通りだった。
男は扉まで送らなかった。待合の椅子に座り、水を飲んでいた。

扉を押した。鐘が鳴った。
外に出てから振り返った。飾り気のない木の扉が、磨かれていた。
来た時と同じ扉だった。それなのに、違って見えた。

ダルトは歩き出した。家までは三日かかる。
交わした約束を、一つずつ思い出しながら歩いた。

輪を嵌める前、どう考えても悪だと思うことを一つ選べと言われて、迷わなかった。ずっと、仕方がないと自分に言い聞かせてきたことだった。
もう、言い聞かせることはできない。

五

ダルトが去った後、診療所には誰もいなかった。

男は治療室に戻り、寝台の敷布を剥いだ。盥の水を捨て、器具を一つずつ洗った。刃物、鉤、針。最後に、鎖でつながった二つの輪を手に取った。輪は冷たかった。男はそれを布で拭い、壁に掛けた。待合に戻り、椅子に腰を下ろした。長く息を吐いた。

「おーおー、繁盛してるじゃねえか」

扉の内側に見慣れた顔が立っていた。鐘の鳴る音は無かった。

男は視線だけを、その訪問者へ向けた。

「昔は首枷嵌めた相手を痛めつけてたくせに、今は客商売か。なあ、トウク」

トウクは顔を上げた。

「患者だ」

「同じようなもんだろ」

「違う」

「ふうん」

その訪問者は勝手に奥へ入っていった。止める間もなかった。机の上に置いたままの治療記録を、指でつまんで覗き込む。

「フロウ。記録に触るな」

「契約範囲につき切除、ねえ。相変わらず固っ苦しいな。せっかく治療士に転向したんだから、こうパーっと手をかざしてシュッと病気が治りました、みたいにやりゃあいいのに」

「駆け出しの身として、基礎を飛ばすようなことはできない。それに今の段階では、人体を物理的な手段で治療することすら、俺にとっては容易なことではない」

紙をめくる指が、一箇所で止まった。

「震えてんぞ、ここ」

トウクは答えなかった。フロウも、それ以上は言わなかった。記録を机に戻した。元あった通りの向きに。

フロウは懐から包みを出し、トウクの膝に放った。重かった。布の間から、器具が覗いていた。細工が細かい。どう見ても、こんな町の診療所に並ぶ品ではなかった。一緒に、安酒の瓶が一本転がり出た。

「……どこから持ってきた」

「拾った」

「……」

「別に支援じゃねえ。暇だったから持ってきただけだ」

トウクは器具を一つ取り上げ、窓の光にかざした。

「……使わせてもらう」

「タダじゃねえぞ。代金払え」

「見ての通り『繁盛』してる。よって金は無い」

「はぁ~つまらん男だね」

フロウはトウクの対面にある椅子にどかりと座り、足を投げ出した。

「じゃあ貸しにしとく。俺が死にかけたら、タダで診ろ。あの痛えやつでいいからよ」

「お前からは、最初から取るつもりはない」

「なんでだよ」

「お前からは、既に受け取っている」

フロウが黙った。一瞬だけだった。

「……気持ち悪いこと言うな。泣いてねえし」

「そうか」

「そうだよ」

フロウは舌打ちして、そっぽを向いた。

「だいたいな、噂になってるぜ。お前んとこの報酬。頼まれたら救え、ってやつ。俺はお前に頼まれた覚えなんかねえぞ」

「知っている。頼まれずに救うのは、俺にはまだできない」

フロウは何か言いかけて、やめた。頭を掻いた。

「……俺は好き勝手やってるだけだ」

フロウの目が、トウクの首元に行った。

「まだそれ着けてんのか」

「外さない」

「ふうん」

それだけだった。
フロウは立ち上がり、診療所の出口へ向かう。扉に手を掛けた。
扉を開けることなくそのまますり抜けて出て行った。
鐘はまた鳴らなかった。

トウクは安酒の瓶を拾い上げ、棚の端に置いた。
そこには、同じ安酒の瓶が何本か並んでいた。どれも封は切られていない。

水差しから水を一杯注いで、ゆっくりと飲んだ。

六

「トウクんとこ行ってきたぞ」

フロウは向かいの椅子に勝手に座り、卓の上の杯を勝手に干した。
杯の持ち主は咎めもしなかった。眼帯に描かれた目が、面白そうに細くなった。

「どうじゃった」

「相変わらずクソ真面目にやってたわ。患者の腹かっさばいて、記録つけて、水飲んでた」

「そうか」

「たまには自分で見に行けよ、ガリデュエ。師匠だろ」

「わしが行くと、あやつはえらく縮こまってしまうでの」

ガリデュエは空になった杯を眺めた。

「弟子としての分をな、クソ真面目に守っとるんじゃ。わしの前では背筋を伸ばして、口を開けば報告ばかりじゃ。茶の一杯も落ち着いて飲めん」

「目に浮かぶな」

「治療士になると言いに来た時も、そうじゃった」

眼帯の目が、少し遠くを見た。

「今までの道を捨てることにした。あなたに数多のことを学ばせてもらったが、それを捨てることになる。破門にしてくれ、とな。床に手をついてじゃよ」

「……あいつらしいわ」

「どうしたもんかと困ったわい」

「で、どうしたんだよ」

「わしが教えたのは疑う心じゃ、と言うてやった。滅殺のやり方を教えた覚えはない。お前は自分の道を疑って、変えた。わしの教えを一番よう守っとるのは、お前じゃ。そんな弟子を破門する師がどこにおる、とな」

フロウは鼻を鳴らした。

「泣いたか、あいつ」

「泣かんよ。あやつは泣かん。ただ、しばらく顔を上げんかったのう」

フロウは杯を置いた。それから、じろりとガリデュエを見た。

「トウクの野郎、お前に余計なこと喋っただろ」

「何のことかの」

「俺が、その……あいつの前で、どうだったとか」

「トウクのことを、大層心配してくれたそうじゃな」

「泣いてねえし」

「ほう。あの『蜘蛛男』が泣いとったのか」

「だから泣いてねえって」

フロウは舌打ちした。ガリデュエの眼帯の目が、今度ははっきりと笑っていた。

「……まあいい。とにかくだ。俺はお前の大事な弟子に、でかいでかい貸しを作ったわけだ」

「ほう」

「あんたに借りたやつと、相殺できるんじゃないか」

ガリデュエはすぐには答えなかった。フロウを見ていた。眼帯に描かれた目は、瞬きもしなかった。

「ほーん。お前、ほんとにそう思っとるんかの」

フロウは黙った。一瞬だけだった。

「……嫌なじじいだな、お前」

「よう言われる」

フロウは立ち上がった。卓に硬貨を一枚放った。杯の代金には足りなかった。

「ま、今後もちょくちょくあいつの様子見に行ってやるよ。暇だからな」

「そうか」

「暇だからだぞ」

「分かっとる」

フロウは出て行った。扉は閉じたままだった。

ガリデュエは空の杯に、酒を注ぎ直した。

(完)

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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