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海の月は一心に揺蕩って

洞施うろこ

5,154 字

Ωバース・恋愛・再生の物語

"喪失の海を漂う月が、新たな光を見つける再生の物語。"

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 どうやって戻ってきたのか分からない。診療所の管理をしてくれている中江さんに、ちゃんと帰りの挨拶は返せただろうか。夕飯について何か聞かれたような気もするけど、僕はどう答えた?
 何もかもが僕の意識の上を素通りしてるみたいだ。頭が働かない。
 自室のドアに寄り掛かり、そっと首元に手を伸ばす。柔らかい布の感触と、その奥にはチョーカーのリボンの滑らかな感触。あまねさんが結んだスカーフと、美登里みどりさんがくれたチョーカー……

 ――――ごめんなさい。これは俺の我侭です――

「――――っ」
 周さんの声が脳裏に甦る。どうしよう。きっと、彼を傷付けてしまった。
『俺の子を産んでください、一途かずとさん。俺は美登里さんとの思い出ごと、あなたと番になります』
 そう言って周さんは、僕を受け入れると約束してくれた。だから、僕はそこに甘え過ぎてしまってたんだ。彼は僕が承諾する前からずっと、僕と美登里さんの思い出話を聞いてくれたから。
 馬鹿だ……死別した番のチョーカーを着けているΩなんて、『書き換え』を望むαにとっては見たくない姿だろうに。書き換えを承諾して尚、僕は何も考えずに美登里さんのチョーカーを着けて、彼女との思い出を話していた。それがどれだけ周さんを苦しめてるのか、思い至ることもできずに。
 膝から力が抜けた。ずり落ちるようにその場に座り込む。
「……ごめんなさい……」
 苦しい。胸が痛い。
「ごめんなさい……ごめんなさい――!」
 僕は誰に謝ってるんだろう。美登里さんに? それとも、周さんに? そのどちらもここにはいない。分かってるのに……
 分からない。何度も何度も考えての今なのに。後悔しないと決めて書き換えを受け入れたのに。周さんに重荷を背負わせてまでお願いしている立場なのに。どうして僕は、こんなところで被害者ぶって泣いてるんだろう。
「ごめんなさい……!」
 絞り出した謝罪の言葉は、静かな部屋の闇に溶けて消えていった。


 時間は嫌でも過ぎていく。『処置』という名の死を待つ間はさっさと過ぎて欲しかったのに、今は過ぎる時間に不安を覚えていた。
 周さんとどんな顔して会えばいいんだろう……あんな気まずい別れ方しちゃったから、周さんも困ってるかもしれない。でも、
「……会いたいな…………」
 呟いてハッとした。会いたいって……我侭だな、僕は。
 美登里さんを求める時とは違う感覚だけど、僕は確かに周さんに惹かれている。美登里さんに対しては、僕が隣でずっと支えてあげたいと願ってた。今もそうできたら、と想い続けてる。この気持ちはきっと生涯消えることはない。
 でも、周さんには僕の方が甘えてしまいたくなる。全部受け止めて欲しい。困らせたりしないから、少しだけでも寄り掛かることを許して欲しい。そんな我侭が湧いてきてしまう。
 この我侭が彼を傷付けてしまってるんだろうな。もっと、僕がちゃんとしないといけないのに。周さんは僕を救うために書き換えを申し出てくれたんだから、僕が気を付けなきゃ。
 ふう、と息を吐いてスマホの画面を眺める。月曜日かぁ……水曜日まであと二日。それまでに気持ちを整理して、我侭を飲み込んでいかないと。
 大丈夫。美登里さんへの想いは表に出さない。周さんに会う前はできてたんだ。またあの頃に戻るだけ――
 自室のベッドで丸まって、ゆっくり目を閉じた。破りかけていた美登里さんへの想いの殻に、また籠っていられるように。


 水曜日は、約束通り周さんに噛んでもらった。焦ってるのは伝わっていると思う。でも、もう周さんを傷付けたくなかったし、僕自身が早く周さんに縛られてしまいたかった。楽になりたい。そう思った。
 触れる手は優しくて、その手を受け入れることはできるのに、繋がることに対する拒否感が強い。気持ちはもう受け入れられているはずなのに体が拒む。このαは美登里さんじゃない。どうして番以外を受け入れてるのか。体の中が歪んで周さんを押し出したがっていた。体と心がチグハグになって、視界が暗くなる。気持ち悪い。怖い。美登里さんに縋りたい。
 押し殺した悲鳴と彼女の名前は、啜り泣きになって溢れた。
 周さんは前回と同じように丁寧に後始末をして、そっと僕の頭を撫でてくれた。その手にすら怯える自分が情けなくて悔しい。
 もっときちんと周さんを受け入れたい。美登里さんの影は見せないようにするから。もう、あんなに寂しそうに笑って欲しくない。
「……薬、飲んでくださいね」
 周さんの言葉にどうにか頷く。少し間を置いて響いたドアの音は、息苦しくなるような閉塞感で僕を圧し潰した。


 大学が夏季休暇に入ったそうで、周さんの訪問が増えた。噛まれた回数は増えるのに、まだ体は周さんを拒んでいる。早く、と急く気持ちが良くないのかもしれない。そう考えても、焦りはなくなってくれない。
 なるべく積極的に彼に触れるようにしたけど、いざとなると上手くいかない。行為の時以外はだいぶ近い距離でも問題ないし、楽しいと感じられる時も増えたんだけど。
「一途さん。水族館はどうですか」
「水族館?」
 周さんの通う大学が夏季休暇の間、追加された月曜日の訪問。何となく、その追加した日にはデートをするようになっていた。
「夏らしいところ、と考えてたんですが、なかなか浮かばなくて。悪友に知恵を借りました」
 あ、胡散臭くない笑顔だ。じゃあ、本当にお友達から聞いたのかも。
 最近、周さんの表情が読めるようになってきた。別に彼は感情を隠すタイプでもないんだけど、何か誤魔化したいことがある時は笑顔の質が変わる。会ったばかりの頃は僕の警戒をどうやって解こうかと必死だったらしくて、胡散臭い笑顔になってたみたいだ。ちょっと可愛い……とか思ったらαに失礼かな。
 でも、水族館か……海と繋がってはいない、けど……
「嫌なら別の場所にしますよ」
「え……?」
 ……また、遠慮させてしまったんだろうか。僕が『海は嫌です』って言ったから。少しでも海を想起させる水族館はダメなんだって、美登里さんの記憶に繋がるからって、そう考えて諦めようとしてるなら――
「嫌じゃないです。連れて行ってください、周さん」
 僕はそれを隠し通さないと。

――――――――――

 平日ということもあってか、水族館はそんなに混雑していなかった。ゆったりと歩けそうで安心する。
「イルカショーとカワウソのごはんタイムが重なるみたいですね。一途さんはどっちがいいですか?」
 どこか子供っぽい表情で、周さんが聞いてくる。はしゃいでるみたいでちょっと可愛い。
「カワウソがいいです。周さんは……」
「俺もカワウソ派ですね。イルカもいいんですが、水飛沫は避けられないんで」
 そっか。それも込みで見るショーだもんね……もっとラフな恰好なら気にならないけど、今日の恰好だとちょっと嫌かも。
 指をそっと首元に当てる。触れるのは、スカーフの柔らかい感触だけだ。
 あれから、周さんとの外出時にチョーカーは着けなくなった。美登里さんを忘れるわけじゃない。忘れられるわけない。ただ周さんの前で殊更に、僕の番は未だ美登里さんなのだ、と主張するのを避けただけ。
 周さんは、美登里さんとの思い出ごと僕を受け入れてくれる。そう約束してくれたけど、僕がそれに完全に甘えてしまうのは違う。美登里さんの影がチラつけば、その分周さんも気に病んでしまうと思う。だから、僕がちゃんと配慮するべきだった。本当に僕は駄目なΩだ。
「一途さん、こっち」
 と、周さんが僕の手を握った。反対の手で水槽を指し示す。そこにはゆっくりと色を変えていく光を反射して浮かぶ、幾つもの浮遊体。
「クラゲですよ。これだけの数が集まると幻想的ですね」
 ライティングされた水槽にミズクラゲがいる。ふわふわと漂うクラゲは、海月という漢字が示すように水中に浮かぶ小さな月みたいだ。
「そうですね……」
 頷いて、浮かぶ海月を目で追う。頼りなく揺蕩う姿を見て、ふと自分の姿が重なる気がした。どこに行くでも何をするでもなく、ただふらふらと流されるままの僕と彼らと。
「……僕みたい……」
 美登里さんを喪って、流されるまま周さんに甘えて――
「うん?」
 声に気付いて隣を見る。周さんは、優しい目で僕を見下ろしていた。
「あ、いえ……何でもないです」
 変なこと言っちゃったな。周さんだと、恥ずかしい反応してきそう。
「綺麗で癒やされるところとか、ですか」
「っ! またそんなこと……」
 やっぱりそういう歯の浮くような台詞を――!
 どうしたらいいのか分からなくて、彼を上目遣いに見上げてしまう。そんなに楽しそうにクスクス笑われると恥ずかしさが増すんだけど……
「そう言えば、クラゲって心臓も血管もないって知ってます?」
「心臓が? それは初耳です」
 唐突に聞かれて首を振った。心臓がないって、じゃあ、どうやって生きてるんだろう。
「傘の部分を開閉する動きがありますよね。それが心臓のポンプと同じ働きをするんです。それで水管――血管みたいな役割をする管を通った海水が、栄養と酸素を全身に運ぶんですよ」
「あの動きで?」
「そうです。あの動きは遊泳のためだけじゃなくて、必死に生きるための動きでもあるんです」
 周さんの説明を受けて、もう一度クラゲに目を向ける。光を受けながら優雅に開いては閉じる傘。その動きの一つ一つが、彼らの鼓動なんだ。
 必死に生きているクラゲと流されるままの僕、か……つい重ねてしまったけど、僕なんかとは違って――
「……一途さんも生きてください」
 そっと囁かれた言葉に、呼吸を忘れそうになる。見上げた周さんは、僕を見つめて一つ、しっかりと頷いた。
「周さん……」
「俺は隣で一途さんが笑っててくれたら、それだけで幸せですから」
 僕がこれからを生きるためには、書き換えを完了させないといけない。それは、周さんの番になるのと同義だ。でも、こういう時に周さんは『番になって』とは言わない。独占欲を見せない。いつも、僕の中の美登里さんを無視しない。
 スカーフを巻いたあの時も、彼は『チョーカーを外して欲しい』とは言わなかった。上から覆ってしまっても、着けさせないという選択をしなかった。書き換えは始まっていたのだから、前夫の痕跡は消したかっただろうに。
 周さんの覚悟に、僕は甘えっ放しだ。もっとちゃんとしなきゃ。僕の中の美登里さんを、周さんは許してくれてるんだから。
「……はい」
 繋ぐ手に力を込める。ふらふらしてちゃ駄目なんだ。僕は生きるって決めたんだから。
 揺蕩う月の群れを眺めながら、僕は何度も何度も自分に言い聞かせていた。

――――――――――

 甘えてばかりじゃ駄目だ、という僕の決意は、ひと月もしない内に周さんによってぐずぐずに溶かされてしまった。それで、彼が本当に美登里さんへの想いごと僕を大切にしてくれるんだ、と分かった。正直、自分が情けない。
 周さんは美登里さんと過ごした日々を語れるただ一人の人になった。そして、僕の全てを託せるただ一人の人にも。
 気負いがなくなったからなのか、体が慣れてきたのか、気が付けば周さんとの行為を受け入れられるようになっていた。忌避感がなくなると、その、やっぱりいいな、なんて……これはΩなんだから仕方ない。
 最近になってようやく、美登里さんと周さんは違うαなんだって事実と、自分の感情の折り合いがついてきた。
 美登里さんがいない現実も、周さんと番になりたいと願う気持ちも、ちゃんと受け止められる。書き換えにも前向きに臨める。全ては、周さんのお陰なんだけど。
 あの日、水族館で眺めたクラゲに自分を重ねてすぐに、彼らにも及ばない自分の情けなさに落ち込んだ。
 でも今は、ふらふらと漂いながらでも必死に生きようと思う。美登里さんのために。周さんのために。そして、何よりも僕自身のために。
 周さんを待つ水曜日の朝。彼からもらったカーディガンを抱き締めながら考える。いつか、周さんと番になった時には海へ行こう。これまで怖くて哀しくて近付けなかった場所へ。美登里さんに近い場所へ。

 周さんと一緒なら、海に揺蕩う月のように全力で生きていけるから。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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