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工場の女

44,938 字

ディストピアSF・不条理ミステリ

"街が消え、工場に飲み込まれた世界で、記憶と現実が織りなす悪夢の記録。"

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第一部 序
 夕暮れ工場を出ると、街が消えていました。僕はこの記録を、地上に遺します―
 9/30 夏が通り過ぎていく冷たい寂しさ
 先に記した通り、街が消滅したのはほんの一瞬のことのようでした。僕が仕事を終え工場を出たのはおおよそ17時半ごろでした。僕は仕事中、基本的に建物内にいるので、外の様子は僕の知るところではありません。ある時、ゴミ出しを言い訳に外の空気を吸いに行ったことがありまして……たしかそれは16時をまたいだぐらいのことです。いや案外17時に近かった気も……急いで書き上げないと記憶が曖昧になる。まあとにかく、それで一度外に出たことがあったのです。その時の街の様子はいつもと変わらず、3mほどの鉄のトタン塀の際、僕は何気なく、空に流れる雲を見つめていました。空を見上げる過程で、いくつかの家の屋根が一瞬目に映ります。薄汚れた煉瓦のような赤色や、鯖の背のような青色をした、さまざまな屋根です。屋根の数だけ日常がある。もしかすると家とは生活の出発点であり終着点でもあるのかもしれない……そんなことを考えた気もします。僕はそこで一服した後、すぐに建物に戻りました。その途中、一瞬だけ工場の入り口を覗いたことがあったのですが、そこから見える景色も普段と何ら変わりのない2軒の家、でした。するとそうですね、異変が起こったのはこの後ということになります。ものすごい短時間というわけになりますね。着々と練られた誰かの陰謀なのか、それとも自然発生的な偶然か。あるいは人類の因果の巡り合わせか。2020年というのはその節目なのかもしれません。綺麗な数字ですが不気味さも感じます。あなたはどうでしょう。そちらは何年ですか?西暦というものはまるっきり消滅して、新たな年が刻まれていますか?
 遠くへ行くのは恐ろしかったので、とりあえず工場の周りを歩いてみました。しかしどこを見渡しても「アニマルズ/ピンクフロイド」のジャケのような工場だらけでした。少し歩いただけで迷ってしまいそうなぐらい、どこを見ても同じような建物だらけでした。工場はきっちり区画ごとに建てられていて、整然としていました。街づくりシミュレーションで同じ装飾を立て続けに置く退屈さと、無機質で不気味な美しい景観が同居していました。その時、心臓の鼓動を強く感じました。街のいたるところが工場なのであれば、僕の家は一体どうなっているのでしょう。胸のざわめきは、小舟に乗り込んだ時のようにずっと僕の心臓を揺らし続けました。僕は必死になって抑え込もうとしましたが、夕陽があまりにも燃え盛っていたのです。冷静でいるなんて、とてもできた話ではありませんでした。家に電話をかけようと携帯を出しましたが、どういうわけか、画面に圏外と表示され使用できませんでした。普段ならそんなこと起こるはずないですし、今までに見たことのないエラー画面でした。僕がノートの記録を決意したのはこのためです。僕は記憶を頼りに距離感を把握すると、ノートに簡単な地図を書き込みました。仕事用のノートでしたが、ページを切り離して使えるし、このような状況で、そんな躊躇はありませんでした。自宅へ帰る決意をしました。
 工場を出て左へ曲がると、緩やかな登り坂に対面します。今朝歩いた道を戻るわけですが、普段日常と捉え安心していた景色、4階建てのマンションやコンビニ、小さな立ち呑み屋までも、全てが工場に置き換えられていて、全く別の街に変形していました。子供の頃からよく感じていたことですが、自宅へ帰る道のりの中、自宅へ近づけば近づくほど自分が安全圏のサークルを進んでいるという実感が湧いてくるのです。同心円的な安全領域。特にどこか遠くへ、見知らぬ地へ出かけた帰りは無性に感じます。車の中から眺める映像に、見慣れた街並みの景色が流れ込んでくると、浮遊感のある旅の幻想から目が覚める。家に帰ったらするべきこと、片付け、掃除、明日の予定。抹殺していたはずの日常生活が甦り、僕を現実に引き戻す。しかも大抵その現実は、夢以上に居心地の悪いものなのです。
 坂を登りきりました。夕陽に照らされた赤煉瓦色の工場は、どこも静かでした。思いの外、道路の形状や歩き慣れた細かい傾斜というのは身体がよく覚えていました。感覚的に、自分が街の中のどの辺にいるのか、見当がつくのです。思い切って坂の上からさっき自分がいた工場を探してみました。見つけるのは簡単でした。煙突に会社の名前が見えるので、僕がいた工場だけ目立って見えるのです。
 先に記した通り、自分が何年も往復してきた特徴のない道は、自分が思っている以上の感覚的起伏を記憶に残していたのです。しかしその事実が、僕に残された命綱の脆弱さをありありと見せつけてくるのです。もしこの道路が変形して、全く新しいものに変わってしまったらどうなるのか。すでに街一帯が工場に差し換えられている以上、
だけが変わらないという保証はどこにもないのです。
 坂の上から見渡す異様な光景は、ネットの旅動画かなにかで見たバルセロナの規則正しい碁盤の目の街並みにそっくりでした。
 それからしばらく東へ進むと……2丁目に入りました。1丁目と2丁目の境はよく覚えています。道路上の丁度境に亀裂が入っているのです。僕の家は2丁目の南端にあります。大通りは「いつも通り」だったので、それを頼りに自宅を目指しました。厄介なのは、家と家の間にあった細い通路や街に張り巡らされた、入り組んだ路地の存在です。それらは全て工場に占拠されてしまっていました。普段さほど気にしていなかったのでしょう、今になってその重要性に気づきました。通勤時は工場の立地的に、選ばずとも車線のしっかり引かれたまっすぐな道ばかりを使っていました。しかし、たしかにスーパーやドラッグストアへ行く際は好んで細い路地を選んでいました。正確な距離を測ったわけではないので近道かどうかはさておき、急がば回れなどよりも、秘匿な路地裏の神秘性に惹かれるのは、今生僕だけではないでしょう。
※付け足:(ちょっとした思いつきを追記。道に迷うなら塀に貼られてあるポスターの位置や電柱に記されている番地を見ればいいのではないか―そう思って気付いたのですが、さっきから電柱を一本も見かけていません。信号機もです。ポスターなんかも一枚も貼られていないのです。)
 西野鉄道は100年前からある路線で、隣町へ行く際、地元民は揃ってこれを使います。もともとは西丸鉄道という名前でしたが、経営危機に陥っていた野口鉄道(読み方はこれで"やぐち")を買収し合併、さらに自社の名前まで変えて西野と名乗ったのです。買収後、野口鉄道で働いていた社員たちも全員洩れなく採用し、食っていけるようにもしたそうです。なぜそうまでして手を差し伸べたのか……それは、暴力団との交際疑惑の記事が出た時、火消しに動いてくれた義理があったから、とかなんとか……ただ合併の歴史はこれまた複雑で、噂に聞くと少し悶着があったそうです。合併の手続きの最中、野口鉄道に鉄道抵当法に基づく強制執行が実施され、運賃収入が差し押さえられるということがあり、西野鉄道の社長が紙面で笑い者にされたのだとか。なんであんな路線を取り込むんだって。また、もともと野口鉄道は開発によって造られた貯溜施設の糞尿処理にあたっていたこともあり、合併の噂が出た時は人々から糞乗列車と揶揄されました。まあ、過去は過去です。現在は皆すっかりそんなことを忘れて利用しています。噂ってのは死体なんですよ。一度埋葬してしまえば罪人だって供養される。しかし掘り起こしてしまったら、これはもう大変事です。死体が誰かなんて関係ありません。噂というのは身元不明であるが故に噂なんです。一度広がってしまったら、全てを回収するのは不可能でしょう。なんでこんな話をしたかというと、今その西野鉄道の沿線を目の前にしているからです。ほら、こうして真相の分からない噂が掘り返される。いや、全くそんなつもりありませんでしたし、これを読んでいるあなたを共犯者に仕立て上げるつもりもないですよ。
 驚きました。街が工場だらけになっても沿線は綺麗にそのまま残されているんです。僕の家は線路を越えすぐのところです。
 今までこれを記述するか迷いましたが、大切な情報なので割り切ることにしました。個人情報、と言っても家庭の話なのですが、僕にはもうすぐ23になる妹がいます。僕とは4歳差です。夏でも赤いセーターを着ています。お気に入りなんです。洗濯するから脱げと言っても頑なに着たがるんです。事情があって僕らは2人暮らしをしています。父親は僕らが幼い頃に亡くなりました。母親は僕らを女手一つで懸命に育ててくれましたが、数年前に心臓病で父の元へ逝きました。両親の遺産で僕らはなんとか生活を続けられていました。僕らは今も実家を出ていません。妹のことなのですが、彼女は頭にちょっとした病気を持っており、それで、誰かが世話をしてやらなければならないのです。電話が使えない以上、彼女の安否は確認しようがありません。とにかく帰宅を急ぎます。
 左手を鉄製の塀に沿って泳がしながら、縁石を上がったり降りたり。しばらく歩くと、ある場所に着きました。目の前には工場の大きな門があります。門は開放されていました。僕の家があったはずの場所は、すっぽり工場の敷地になっていました。展開が予想していたのと瓜二つだったものですから、衝撃も限度の知れる程度でした。それに初め見た時はさすがに疑いましたよ。道路を台にして見たって観測できる範囲はふやけたビニールの皮のように、頼りない記憶の輪郭ぐらいですからね。しかしその薄っぺらい記憶を頼ってみることにしました。僕の家の前のマンホールは、デザインマンホールといって街に由来する固有名詞的な装飾が施されてあるのてす。その模様とを当てはめれば、そこが自分の家のあった場所だと分かります。マンホールの模様は地元のサッカーチームのロゴと、市公認マスコットキャラクターがそれを指差しているようなものだったはずです。工場前のマンホールを見ると、僕の予想は的中でした。するとここはやはり、僕の家があった場所なのです。
 この瞬間まで、通行人の1人ともすれ違っていませんでした。職場を離れるべきではなかったのかもしれません。一度中へ戻って、事態を報告するべきでした。記録を付けながら、冒頭の自分の愚かさと対話してみますが、どうやら彼の頭は自分の家のことでいっぱいになり、更新不能を起こしていたみたいです。
 僕の勤務先までは1kmぐらいですが、引き返すべきか考えました。仮に引き返したとします、果たしてそんな行動が、手足も抗えないこの状況を変える種になるのでしょうか。行きができたからといって帰りの安全が保障されるわけではありません。もし辿り着いたとしても、そこには妹の形見すらないでしょう。あるのはただあの工場なんです。そして何より僕の帰る場所は初めからここでした。そう、ついに僕は帰ったのです。妹の居場所だって分からない現状をみるに―ようやく頭が冴えてきました。僕はこの工場の閉ざされた入り口を叩くべきなんです。もしかしたら中に人がいるかもしれない。何を言われよう、ここには本来、僕の家があったのですから、理由を尋ねる権利ぐらいあります。何せ所有者を無視して消えてしまったんですから。右足を前に差し出すとその勇気に感銘を受けて左足も続きました。そして右左右左みぎ左みぎひだり……。そこはトラックの停まる駐車場のはずでした。
 ぐるぐるぐるぐる。男は螺旋の中を歩いていました。ぐるぐる、ぐるぐる、、。
 倉庫の中で目を覚ました男は、右頬をつねったり両手を怪しい宝石商人のように揉み込んだりして正気を確かめていました。男の様相は次に――若い。角ばった顎に縦に長い顔。肩の盛り上がりと、紺のポロシャツの張り付きを見るに悪くない肉付きだが、腕と脚の先が極端に細い気もする。欠伸を糊で固めたような油断だらけの背中を見せていたので、後ろからもう一突き喰らわせることもできました。今度は死の予感を感じたので二発目は控えることにしました。男はよろめきながら立ち上がると、懐をまさぐり何かを探していました。きっと"どこかで落とした記録帳"を探しているのでしょう。身長は約180cmぐらいか。男はあたりを見渡し、入口と書かれたドアの方を振り向きました。そして後頭を手でさすりながら近づいていきましたので荷台から降りて後ろから男に駆け寄りました。以下はその時に交わした会話です。多少のずれはありますがおおまか違いはありません。まあ男に対するイメージが少し先入しているかもしれませんが。
「おぉ、これはこれは、、本日はどこかお勤めで?」「え、あ、その、なんか、えーっと、」「いやいや、見たら分かりますよお、どっと疲れた顔をしていらっしゃる」「あぁ、あのなんか、き、気づいたらここにいて、そっそのなんか、まあ、」「なにも怯えなくたって。ははっ、誰にでも忘れたくなる一日ぐらいありますよ。ささ、こんな倉庫、誰も使わないんですから、入って入って。」「え、え、え、え、んと、あの、ここどこです、か?て、てっきり工場の中だと、でもなんか荷物配送?用の倉庫だと見受けられる、、」「まあ普段倉庫なんて来ないですからね。あなたがにいたこと、ここだけの話にしておきますよ。」男はひたすら困惑した表情を固めていました。ドアを引くと、男を先に中へ入るよう手招きしました。
 いいえ、違います。目を覚ましてください。これはあなたです。男の錯乱がおさまらないので、とにかく身元を調べてみることにしました。胸元をまさぐると財布が落ちました。それを拾って中から運転免許証を引き抜きました。
「氏名 新里 順平
 免許の条件等 義手」
 男は免許証を取り返そうと暴れましたが、やがて数人の男がやってきて、「まったく、一体どうしたんですか」「工場長!ほら、みんなも、この男を取り押さえて」「作業中だったか!」「はいっ、進捗報告に事務所に戻る途中でした」「くそっ、暴れるな!」
通りかかった三,四人の配管作業員の男たちによってどうにか事態を鎮静できまき(斜線の跡)できまし
 (軽い息切れ)どうにか奪取できました。薄暗い廊下。これから先は、事件の俯瞰した事実証明と、より分かりやすい説明を優先し、第三者視点による記録に切り替えます。先入観が記録を歪ませるのです。あるいはこれを人類史の末端とし、ありのまま記すためです。これから私を指す呼び名は「記録者」とします。工場を取り仕切るあの悪夢の入り口のような男が記録者から財布を奪い、自由を奪い、記憶を奪い。記録者はどうにかこのノートを奴から取り返し、やっとの思いで逃げてきたのです。この避難は次の一手のための戦略的撤退なのです。これから、途切れた記録の続きをお見せします。
 工場の倉庫からさらに内部へ入るためには、1つの小さな間部屋を通過する必要がありました。電車の連結部のようなつくりでしたが、大きさは6畳ほどありました。取り囲まれたのはその部屋です。作業服を着た男たちは、記録者を関節技を決めるような手際のよさで抑え込みました。記録者はその最中、何度か膝蹴りを喰らいました。未だそのあざが痛むほどです。記録者は静かにするほかありませんでした。
 「工場長」記録者を尾行した男はそう呼ばれていました。記録を見返すと、奴に襲われた痕跡がありますが、実のところよく覚えていません。たしかに後頭部にどっしりとした痛みが脈打つのは感じます。どうやらそれが奴との最初の接触のようです。
「あのお、まあ、手荒な真似でごめんなさいね。あ、恨まないでくださいよ?あなたが暴れたんですから。こっちは親切に人助けしようとしただけなのに。えっとー、で、家とか分かります?自分の家」
記録者は答えませんでした。どうやらそれが奴らの妄想を加速させたのです。
「ん、なら、とりあえず中に入りましょ」工場長は男たちを引き連れ、工場のさらに奥へと続く扉を開きました。記録者は彼らに抱き抱えられるようにして、当然抵抗はできず、奴の背中に続きました。
 さっきいた倉庫よりはるかに高い天井。奥はどれほど続いているかわかりません。その空間に、立方体キューブのような形をした大量の家が棚に陳列しています。棚は三段あり、それぞれ上から赤、藍、茶色の屋根をした家が並んでいます。棚は幅4mぐらいの通路を挟みながら何列も並び、こちらも記録者の視野の途切れる遥か奥まで続いています。天井は倉庫と同じような金属の骨組みが剥き出しになっていましたが、不思議なことに電灯らしいものは見当たりませんでした。しかしどこかにあるらしい光源から熟れたかぼちゃのような色合いの光が洩れていました。
 それは異様なほど自然な光景でした。通行人という名の「安堵」の発見は、記録者のそれまでの行動原理でしたが、その彼らは疑いもなくその景色に溶け込んでいたのです。そして恋敵の登場のように、さらなる動機が現れたのです。外の街が嘘だったかのように、たくさんの人が行き交っていました。彼らの表情の風景との浸透度は、記録者の不安をすり抜けるほど深く、彼の立場はより辺境に追いやられるほかありませんでした。滑らかな風景との溶け合いが、向けられる「嫌な視線」が、彼の狼狽を際立たせたのです。家から出る者、家に帰る者、通行人の性格はさまざまです。棚にはレール付きの梯子が取り付けられており、それがそれぞれの家の前に配置してあるので、住人はそれを使って出入りをしていました。マンションとの性質の違いはそこにあります。マンションはどちらかというと部屋の集合です。部屋だけでは成り立つことはない、マンションという一つの集合でようやくその名を冠するのです。しかしこの住宅群は、本来それだけで独立するはずの一軒家が集まって構成されています。そのためマンションのように共有の階段やエレベーターが用意されているわけではありません。1階の住人は必要ないですが、2階、3階に住む人々はそれぞれの家の梯子を使用して上り下りするのです。建設の効率としては非常に悪いものです。重要なのは、一体いつからこの奇妙な街並みができあがったのか……。人々の何食わぬ顔を見るに、生活の習慣化はすでに遂行されている模様です。辛いのは現時点で記録者の味方が1人もいないことです。

 [所持品]
 ノート、ペン、たばこ、ライター、家の鍵、携帯用小型電灯、拾った単三乾電池、スマホ。
 [工場長]
本名は現時点で不明。誰も彼もこの名で呼ぶ。緋色のドットストライプが走る黒いスーツに身を包む。年齢も不明、、年上だろう。吊り上がった目尻と、オールバックによって強調される横長のでこ。常にうすら笑いを浮かべている。胡散臭いセミナーの講師のような見た目で、妙に頭に残る顔をしている。粘り気のある話し方。四白眼気味なせいか、意表をつかれる眼差しを感じる。

  狼狽している記録者の肩に手を乗せ、工場長は語り始めました。
「いやあ、どうなんでしょうね?思い出せますかね?アルコール検知でもしますか?」
「誰か、警察は……」
「水、いります?」
「どうなっているんですか……ここは一体……なんの施設なんですか……!」
「いやいやあ、施設も何も……世界ですよ」
記録者は強引に引っ張られました。
「やめろっ、おい、ここは一体なんなんだ……。俺の家も、みんなの家も、全てが消えたんだぞ……!関係者は!誰もいないのか!」
この叫びは「嫌な視線」に厄介な増援を呼んでしまいました。好奇の目をもった野次馬たちが彼を取り囲んだのです。
「さあどいたどいた!彼を通して!」「兄ちゃん飲み過ぎだよ!」「あはははっ」
「俺を飲んだくれと一緒にするな、くそ、どうしてみんな普通でいられるんだ……」この世界を受け入れていないのは記録者だけでした。きっと変形の真実を知る誰かがどこかにいて、暗いトンネルに一筋の光を差し込んでくれるに違いない。そう思うしかありませんでした。
「でなければこれは醒めない悪夢だ、悪夢から生還するには、現実への落下に臨む、一張羅の希望が必要なんだっ……」祭り屋台で賑わう神社の参道を渡るように、工場長は人混みを押しのけました。すると自然に人集りは2つに分かれ、彼を通しました。記録者は頭部が禿げた作業服の男たちに肩や腕を掴まれ、強引に連行されました。人集りにできた道を進むのは、飢えた囚人たちのいる監獄の通路を歩くようで、生ぬるい汗が流れました。記録者を見つめるのは、馬鹿にしたような薄ら笑いをみせる若者たち、怪訝な顔を浮かべる赤子を抱いた母親、中には、情けの眼差しを向ける中年男だっていました。しかしどの視線も身の毛を逆撫でするようなものばかりで、記録者に同調を示すものはありませんでした。記録者たちは、混雑を進み、ついに壁際まできました。
 「個人室」と書かれた扉があり、工場長は記録者を中へ入れました。記録者はパイプ椅子に座るよう促され、仕方なくそれに従いました。工場長は1人を記録者の後ろに立たせ、他の男たちは外へ出るよう指で合図しました。約4畳ほどの、今からまるで尋問でもするかのような狭い部屋です。奥に見える扉からみるに、ここも一種の「関所」みたいなものでしょう。倉庫から住宅街までもそんな部屋を挟みましたが、この工場にはそういった空間がいくつもあるのでしょうか。関所なんて喩えをしましたが、イメージ的には医療機関や食品工場に見られる無菌室が近いです。決してその部屋がそれに準ずるものではないと思われますが、椅子に座らされた時の緊張感は、無菌室に入る時の少しこわばった精神状態と特段離れていませんでした。記録者のいた工場は主にコンクリートの製造、販売をしていたので無菌室やエアシャワールームなどはありませんでしたが、何度か食品加工工場に見学しに行って見たことがあります。まあ当然ですが食品工場と工業系の工場では衛生管理の意識が違いますからね。工場内の構造もかなり違っていたのを覚えています。
 連れてこられた尋問部屋でしばらく待たされた後、記録者は工場長と2人きりになりました。この時は絶望というより、成り行きにまかせつつありました。工場に入ってから時間が経ち、混乱も治ってきたのです。その代わり、今こそ自分の権利を堂々と行使する時ではないかと思い始めていたのです。それは、絶対不可侵の権利。なんのカルト集団か分からないが、奴らが相手にしているのは1人の人間なんだぞ、そう自分を奮い立たせていました。
「警察、呼びますよ」
「警察?あぁ、それは前時代に取り残された化石ですよ」
「あんた、工場長なんて呼ばれているが、今に見てろ。ここでの全てを記録して、世界に公開してやる」
「おいおい、待ちなさいよ。周りには誰もいないんですから、もっとリラックスして話してくださいよ。ね?リラックス」
「ここは一体何なんだ。そして街の様子だって。知っていることを話してもらおうか。でなければ……」
「あぁ、記録、ですか?これのことですよね」
「あんたが持っていたのか」
「拾っただけですよ。いやぁ、ただ、おもしろい記録ですね?これは。夢日記とかですか?」
「全て本当の記録だ。知らないとは言わせないぞ」
「そんなこと言われましてもぉ。はは。」
「さっき前時代と言ったな、ということは明確に今と区別できる、分けて説明される、時代の切り取り線があるってことだ。もう逃れられないぞ。あんただって分かってるはずだ、俺が酔っ払いじゃないってことぐらい」
「ふん、なるほど。でもね、警察だなんてものはな……。ふむ……(よく聞き取れなかい)るということか。そう、君はね、うん、ごほん。いや、もういいか。君が望むなら教えてやる。君は歓迎されなかったんだ。この場所に。君らしく言うとこの時代にな。だから今のこの状況は、裏口入学ってところだ。」
「先に時代を持ち出したのはあんただろ。それに、歓迎されなかっただと?元から望んでないね。俺はただ街の変貌について知りたいだけだ、。この場所が一体なんなのか、ここは本当に2020年の東京なのか!」
「先に時代を持ち出したのが私だと?はあ。よく思い出せ。この記録帳……西暦なんて久しぶりに聞いたよ。どうしてそんなに時代にこだわるんだ、まったく」
「遺すためだ。この記録を、未来に」
「ふん、それでノートねえ。ただ、それならデジタルの方がいいだろう。文字自体がデジタルなんだから、媒体もそれに則したほうがいい。ま、君の気持ちもたしかに分からなくもないが、君がやっているのはただの足掻きだ。君の未来への訴えを読んだが、あれは、あまりにも白痴で楽観的だね」
「お前に何がわかる、俺は、」
「俺は特別だ?馬鹿言え」
「黙れ!そんなこと思ってもない!」
「思っても言えないか、ふん。まあそう思いたいならそう思えばいいさ。でもそれも束の間だよ。現実を受け入れるんだ。いいか?未来というのはものとしてやってくる。過去や現在と同じ軸で語ってはいけない。未来は、過去から今を繋ぐパイプに接続されていないんだよ。未来とは、今この瞬間から断絶された、霧の向こうにある。今を生きる我々は未来を前にして立ち止まるしかないのだ。いずれここでの生活にも慣れる。外の連中を見ただろう。絶え間なくやってくる1秒後を受け入れ、懸命に生きる。それが生物、とりわけ我々に課せられた使命だとは思わないかね?」
「自分の哲学を声高に論じている中すまないが、慣れるつもりなんて毛頭にないね。早くこの薄気味悪い場所から出たくてうずうずしているぐらいだ。ここの実態が世界にばれてみろ、政治家の汚職なんて規模じゃないぞ。なんの計画か知らないが全く興味はないね。それにそのノート、それは俺のものだ。返してもらう」
「楽園に警察はいらないんだよ。誰もルールを犯さない。ある程度のきつさで縛れば、解こうとする者もいない。縛られていることを忘れるからね。はあ……。残念だよ。素質はあるんだけどね。赤いニットを着たあの娘、うむ、なら身内はなし、か」その時すでに、記録者は椅子から立ち上がり、拳を振り上げているところでした。
「さあ、ノートを返してもらうぞ」
「いいのか?」
「どういうつもりだ」
「一つだけ言っておくが、私は誰よりもここに詳しい。ほらほら、聞いておくなら今のうちだぞ」
「何を……知っている……」
「どうした?さっきまでの威勢は。すっこんじまったか、もぐらみたいに」
「その娘と俺は関係あるのか」
「どうだろうな?あるか……」
「言ってみろ!」
「ただこの記録を読んだだけだよ、冗談冗談。そんなにむきになるなよお」
「俺の住んでいた家は、ここにあるんだろうな」
「だから入っできたんだろう?ここに自分の居場所があると思ったから」
「懸念だよ。少なくとも信じてはないね」
「ふん、まあいいさ、好きにしろ……」工場長はノートに何かを書き始めました。記録者にしても言いたいことがいくつもありましたが、漏斗に詰まったビー玉のように、どう切り出せばいいのか分かりませんでした。記録者は工場長のいる側へ近づきました。彼はこの状況にもノートへの書き込みを続けていました。記録者は彼の右腕を強引にこじ開けてノートを取り返すと、そのまま急いで部屋を出ました。
 記録者は壁に沿って走り続けました。いつからか分かりませんが、作業服を着た男が3人追いかけてきていました。そのまま走っていてもいずれ捕まるの思ったので、急な方向転換を仕掛けることにしました。ゴム性厚底の鈍く揃った足音がだんだん大きくなってきたところで、急激に90度上半身を捻り、住宅通路の方に向ける。入射角は56度!片寄った重心を倒さまいと両足は回り続ける。腰を受け皿にして、傾いた胴体をこぼさないように持ち堪える。前傾のし過ぎで危うく地面と追突しそうになりましたが、どうにか上体を起こし、今度は綺麗なフォームで脇道を走り抜けました。ただ、それで追手を完全に巻くつもりはありませんでした。これはほんのちょっとした目眩しを期待したもので、本当の狙いはその道の先にありました。住宅棚に挟まれた道を40mほど走ると、さっき人集りができていた、ひらけた場所に出ました。幸運にも、夕方の帰宅ラッシュを思わせるぐらい、人が行き来していたのです。記録者はその濁流の中に飛び込みました。振り返ると、流れに阻まれる追手達の苦悶した表情が見えました。
 とにかく遠くへ行くべきと本能的に感じたので、とりあえず建物の奥を目指して歩くことにしました。通行人のほとんどは自宅を目指していました。みな梯子を使って帰宅していました。たとえば、両手で段ボール箱を抱えた夫婦は、子供を先に登らせていました。子供は梯子に取り付けられたレール板に乗り、2階にある家の前まで上昇していきました。次に夫婦は段ボールを登らせました。はじめに、梯子の後ろからフォークリフトのフォーク部分のようなもの(正式名称は分かりませんが)を取り出し、レールに着けました。そしてそれの上に荷物を置くと、レールが再び動き出したのです。夫婦の持ち方から想像していた重量は、音も立てずにすんなりと、2階へ運ばれました。家の前の廊下で待機していた子供がそれを玄関へ持っていきました。奇妙でやけに非効率的なつくりですが、一点をみればマンションやアパートなどと似たような構造をしているのが分かります。それは陳列された住居という見た目です。しかし逆に言えば共通項はそれだけです。むしろ驚くべき、マンションとの決定的な違いがあるのです。家の前にある通路、マンションでいうところの部屋と部屋を繋ぐ廊下、ベランダでもよいのですが、柵らしいものがないのです。つまり、朝刊を取ろうと寝ぼけたまま玄関を出たと思ったら、足を滑らして逆に自分が朝刊に載ってしまう落下事故を見せてしまう。いくらこの生活に慣れていると言われても、なにかの弾みで体勢を崩したり、荷物の重心を捉え損ねたら、大事故になりかねないのです。そんな危険地帯での居住を望むのはなぜでしょう。
 そのまましばらく歩いていると、大移動する群れはぽつりと寂しくなり、記録者は路地で1人きりになっていました。見知らぬ集団に投げ込まれるのも恐怖でしたが、急な孤独への投棄はそれ以上に不気味でした。彼は誰もいなくなった通路を歩き続けました。空調の音か分かりませんが、ぶおぉというざわめきが遠くへ消えていき、真っ白な静寂と共に鉄製の扉が現れました。左右を確認しましたが人の気配は感じませんでした。閉店間際のデパートのような薄気味悪さでした。記録者は逃げるように扉を開け中へ入りました。
 扉を開けると、2人で歩くには横歩きを強いられるぐらいの細い道が続いていました。古びれた蜂の巣色の電灯がついており、視界的にはっきりしていましたが、壁を這うカビや埃の影が仄暗いトンネルの演出に名乗りをあげていました。床には破れた細長い包装用ビニールやガラスの破片のようなものが散乱していました。壁はコンクリートでつくられており、天井はアーチ状の形をしていました。無風でしたが、妙な寒気がしました。ちくしょう、あの男にあいつの居場所について聞けばよかった、夢なら早く覚めてほしい……しかし壁のざらつきが記録者を現実に引き留め続けました。足を前に出すごとに砂利を踏み込むような音がしました。しばらく歩きながら、記録の続きを書くことにしました。ここで、途切れた分の記録を書き始めたのです。奴らに連れていかれたぐらいからの記録ですね。だいぶ時間がかかりましたが、ようやく現実時間に追いつきました。いま記録者は、薄暗い廊下で現在のことを書いているのです。これがどれほど心地いいことか……。記録者は達成感に満ちると、すぐに歩き始めました。自分の使命はここで終わりではないと、切り崩した山を歩くような覚悟をしたのです。
[注意]
こんなことをわざわざ自分で書くのも恥ずかしさがありますが、一応、混乱を避けるために……。記録者はノートにメモしながら、時には一気に書き上げ、時には観察に集中して記しています。ですので、どうしても時制がぐちゃぐちゃになったり、推敲なんてのも悠長にしていられない可能性もありますから、誤った語句表現を使っているかもしれません……。勢いで書き上げた今までの記録を見返していると、やはり記録者としてこうした説明責任を感じるのです。

 どれぐらい歩いたことでしょうか。振り返ると入り口の扉が開いていました。しっかり閉めたはずです。見るからに電動で動くようなものではなかったし、それらしい仕掛けもなかった。風で動くほどの材質でもなかった。すると、誰かが開けた、そして、通路を、記録者を目撃したということになります。しかしまてよ、もし見たのなら何故声をかけて来なかったのか、そして何故扉を閉めなかったのか。考えられる理由はいくつもありますが、その中でより現実的なものを選びました。
[理由]
その①この通路は住民もよく使うので、記録者のことも不審に思わなかった。そして覗いてきたのがどこかのうっかり屋で閉めるのを忘れてしまった。
その②開けたのはさっきの追手で、記録者の現在地を報告するため、もしか仲間と合流するため襲って来なかった。
その③実は記録者がうっかり屋だった……。
通路の先に何があるのか分からなかったため、それ以上のことは考えられませんでした。先に結論を言うと、その通路は普段は開放していないらしい。それはそうだろう。でなければあんなに汚しておくわけがない。つまり①ではない。ただたまたまあの時は開いていたので住民が覗いた可能性はあるが、あの時間彼らは外に出ないらしいのです。では②か。これは半分当たっていたが残りは間違っていました。そして1番期待していた③は……ただの見当違いでした。逆に言うと、そこまで気を抜いていなかった。ということでよしとします。では、その後の記録を続けます。
 恐ろしい予感がした記録者はなるべく足音を立てないように急いで扉から遠ざかることにしました。途中で左右の壁に入り口同じような扉が見えました。錆びついた鉄製のドアノブに手をかけようとしましたが、仮に開いたとして、中に人がいたらどう説明するべきか……開かなかったとしてもその試みが中の人物に聞かれて応じさせてしまったら……。どちらにせよ虎口だったので侵入は諦めて先に進みました。
 しばらく進むと、十字路に着きました。前方はまだ終わりが見えないぐらい続いていました。右側の壁に背をつけそっと頭を出すと、まず左方少し奥に扉が確認できました。扉には「年寄りの部屋」と書かれた看板が吊られていました。右側を覗くと同様な扉がありましたが、こちらは開いていました。映画で観るサイコパスの実験部屋のようなネオングリーンの光が洩れていました。冷静な判断力を持つなら右を選ぶのが当然でしょう。説明するまでもありません。 ̶蟻̶の̶巣̶を̶見̶つ̶け̶た̶ら̶砂̶で̶覆̶い̶た̶く̶な̶る̶も̶の̶で̶す̶。
 記録者はできるだけ壁に身を寄せながら扉近づきました。右手が光に染色されドアノブの上に融けていく。その瞬間、内側から凄まじい勢いで力が加わり扉を閉められました。一瞬の出来事だったので狼狽えることしかできませんでした。鯨の声のような震えた金属音が通路を跳ね返っていきます。ただ彼は自分をつけているであろう連中にその音が聞こえたのではないかと焦ることしかできませんでした。彼はノートをしまい身構えました。数歩後退りして再び十字路の交差点付近まで来ましたが、もしそこで顔を出したらどうなるでしょうか。もし追手がすぐそこまで来ていたら。彼はきっと袋小路に追い詰められ無様な降伏を余儀なくされることでしょう。両側から電車が迫る暗いトンネル内に立たされたのです。レールと車両の隙間を信じて寝転ぶ勇気が、果たして彼の中にはあるのでしょうか。その万事休すのトンネル内で、誰かが扉を開きました。
 半開きの扉から、ギリシャ兵の兜のような、かっちりと固められた黒髪の、若い女が顔を出しました。薄暗い電灯の下で、彼女は髪の丸い艶を見せつけるように頭を上下に揺らし記録者を見つめました。足先から目と合うまで舐めまわすように見られましたが、その視線はまるで定期診察の時のようで、卑しい情緒は感じませんでした。年齢は分かりませんが、初見の印象では20代か……10代と言われても信じるぐらいです。しかし大きな黒い瞳と、すっと立った鼻筋から釣り上がった目尻にかけての淡い赤らみが艶かさを覗かせており、どうも気が抜けない見た目です。女はきょとんとした様子で言いました。
「ん?えっとー、どうかなさいましたか?」
そこで記録者は考えたのです。この女、もしや自分のことを逃亡の身と見ていないのではないか、と。しかし、だとすると女から見て自分はどう映っているのでしょうか。物は考えようです。この女を人質にとれば追跡者たちに対する抑止力になるのではないか。女から見る自分の姿を精一杯想像してみました。汗が滲んだ額、呆気に取られた口、路地裏の残飯を漁る鼠のような立ち姿。なるほど物は考えようですね。しかし女の考えは危惧していたほど手の込んだものではありませんでした。
「もしかして、整備の方ですか?」
「ええ、まあ」
「そうでしたか、ではこちらにどうぞっ」
どう見たって怪しすぎる男を通すなんてどうかと思いましたが、思わぬ幸運に感謝し、言われたとおりにしました。

 [明らかになった女の見た目]
・大きな瞳・黒髪・ボブヘアというやつ(前髪で額は見えない)・薄いピンクの唇
・黒スーツ黒スカート(短め)・濃赤インナーシャツ
・身長は150cmに届くかぐらい

 [既にノートにあった記述]
電車の乗り換えでホームを歩いていると、白い布に覆われたグランドピアノぐらいの物体を見ました。赤い紐で二重に巻かれ、薄い木の板の上に置かれていました。誰もそれを気にしていない様子でした。その日の印象といえば。公衆便所のような匂いがホームを往来していて嫌な汗をかいたこと。待合室のベンチに座ろうとしたらシートが濡れていて、物置板に倒れたコーヒーカップを見たこと。それから、すれ違う男が尿の匂いを引いていたこと。午後1時57分。その日は曇天でした。天気予報によると、その後雨だという。灰色の空から零れた雲が灰色のトンネルで溺れていました。その日は曇天でした。

 (息が切れる)たばこ、やめようかな。落ち着いて書ける場所を見つけました。この非常階段にはあまり人が寄りつかないらしい。しかも今いるのは階段の1番下、地下何階かも分かりませんが、とにかく光の届かない場所なので、身を隠すには打ってつけでしょう。しばらくはここで記録を書きます。覚えている範囲で

 赤や青の光を点滅させたコンピュータが部屋の壁を埋めていました。サーバールームと呼ぶにふさわしい場所でした。記録者は女に言われた箇所を見ました。埃だまりの空調はたしかに機能していませんでした。記録者は脚立を降りてから、それ風に言いました。
「お時間をいただいてもよろしいですか……」
「もちろんです。私はあっちにいるので何かあれば仰ってください」
 女を騙せたことにより、本物の整備士が来る前に上手く仕事を切り上げる必要が出てきました。しかし、どうもいけすかない。女のことではなくこの部屋のことです。点滅する機械に埋め尽くされているくせに、すぐ横には家庭的な木製机があり、洗い場があります。ドラマのセットのようなわざとらしくつくられた日常に見えたのです。演出された台所は病院でよく見る車輪付きの仕切りによって一応の遮蔽効果はありますが、混ざらない絵の具のような異種さは拭えません。異種さで言うと女も工場の立派な住民とやら、なのでしょうか。特別室を用意されている点で何かしらの役職を与えられているのは確実でしょう。肝心なのは仕事内容です。
 用意された脚立に乗りました。プレートを指で叩いたりポケットに手を入れたりして時間を稼ぎつつ、女がどこにいるかもう一度確認しておこうと思いました。いくら虫の居所が悪くても、行方不明よりはましです。埃がついた指を太ももで拭きました。脚立と換気扇を左手で掴んで固定し、首を目一杯伸ばしました。しかし視界は仕切りに遮られます。
「くそ、あっちってどこだよ」
空気を掠む溜息。地下を流れる下水のような轟音。機械。事態は思ったより深刻になっていました。「あの、すみません。空調整備で来ました。」扉を叩く音、甲高いが気怠げな声。雲から抜けた飛行機のように、女が影からすっと登場しました。女は記録者の顔をまるで長年の相棒を見るような、同時に見透かすような横目で一瞥し、扉の方へ体を向けました。
「この時間で承ったんですが」
女は扉を見つめながら天井に向けた人差し指を唇に近づけました。しばらく沈黙が続くと、扉から離れていく足音が聞こえました。
「偽装整備士ね」予期していた存在の接近と思わぬ事態の転換に、記録者はただ唖然とするばかりでした。
「偽装整備士って?」
「いるのよ、そう言う輩が。知らない?」
「いやぁ、世間にあんまり疎いもんで」
記録者は同情を誘うような自嘲気味な笑いを見せました。女は両手を尻の方に回して組み、換気扇を見上げました。その一連の最中、さりげなく記録者の目を見ました。しかし目が合った瞬間気まずそうに逸らしたのです。
 女は上目遣いで「でもあなた整備士でしょう?噂とか聞かないんですか?仲間内じゃ意外と素っ気ないのかなあ」……こいつ、鎌掛けてきやがるのか。それとも本当にそんな悪徳集団がいるのか。たしかに善意を装って住宅に侵入する手口なんていくらでもあるが。あの工場長が言っていたことが正しいのなら、犯罪なんて起こらないらしいがな。しかしそんなこと本当にあるのだろうか。警察が機能しない国なんて見るも悲惨だぞ。仮にそんな集団がいたとして、本気で俺を整備士だと信じ込んでいるのか。それとも俺の方こそ偽物だと見抜いてそんな発言をしているのか。ただ女の発言からするに、整備士が来るのは予定通りらしいな。ならこのまま演じ切れば……頭の中の会議が足踏みしだすと顔にもその様子が表れたようです。女は口を不器用に動かす記録者を見つめ微笑しました。彼はその笑いが何に向けられたものなのか分からず、不安になりました。きっと記録者のぎこちない顔に笑ったのでしょう。ただそんなことを考えて頭の余白を使うなら、今後の作戦会議のためにとっておいた方が良いと考えました。ですが頭の中はすでに餅つきのように叩きつけられ、もみくちゃになっていました。押し寄せる思考の波も一度頭蓋の臼に落とされると、見分けがつかなくなってしまうのです。機能不良に陥った頭はろくな言葉を吐きません。頭を冷ましている間、当たり障りのない台詞を探しました。「厄介ですね…空調…」「ごめんなさい、全然分かんなくて」「いえいえ、分かる人の方が珍しいですよ」「あんまりよく知らなくて、あなたのこと」
 時間が凍りついたような感覚でした。
「えっ僕のことですか?」
「そんな目で見ないで……」記録者ははっとし、女は続けました。
「たしかに、やり口は汚いと思います、私だって。でも、彼も反省してたから。どうか許してあげて」懇願する目の前の女に対して記録者は、主導権を得た気分でした。それは、これから下す自分の決断がいかなる権限を持ってしても覆されることはないという自信でした。しかし肝心の行使がうまくいきませんでした。
「つまりその、あの、要領が悪くて……彼って……」
名前を出すのも億劫でしたが、恐らく言葉以上に自分のことを知っているであろう相手に誤魔化しは通用しないと考えました。
「あの、工場長のこと、ですか?」
女は少し間を置いて「そうよ。そうに決まってるじゃないっ」急に声を荒げました。
「あの、すみません。そうですよね。でも、僕のことどこまで知っているのか分からなくて」
女は両手で額を包むように覆い顔を背けました。
「ちがうの、ごめんなさい。私が悪いんです。今のは私じゃない」
急いで絞り出すような女の告白に、記録者は両手を振って気にしていない素振りを見せることしかできませんでした。
「たまに思ってもないようなことを口にしちゃうんです。私じゃない誰かの頭の中を覗いているようで、でも縛られてるわけではなくて……」たんにホルモンバランスの乱れじゃないのか、と感じましたが、世の中には統合失調や解離性なんたらがあるのです。断定するには早すぎる。しかし女の素性が分からない以上、その嘆きにどう応えたらいいのか分かりませんでした。尋問するつもりはありませんでしたが、別に信じたわけでもありませんでした。
「つまりその、別人格みたいな……?」
「そう、そうなんです。ごめんなさい。突拍子もないですよね、こんな話。でも入れ替わる瞬間は何の違和感もなくて、素の自分に戻った瞬間、入れ替わりに気づくんです。それも自分の性格だと思ってました。でも、あの人に出会って分かったんです。これは立派な病気なんだって。だから、治すことに決めたんです」
さっきまで自信なさげだった女の瞳は、今度は真剣に記録者の顔を捉えました。
「それでここにいるんですか?」
「はい、でも完全に隔離されてるわけじゃないんです。定期的にあの人が来てくださって、一緒にお話しするんです」
「一体どんな」
「将来の夢とか、昔話とか、1番好きなのはご飯の話です!」女の印象はどんどん幼稚になっていきました。
「近いうちに来るんですか?」「うん、たぶん」
「たぶんって、不定期なの?」
「そうに決まってるじゃない。忙しいのよ」女はまた声を荒げました。記録者は一刻も早くそこから逃げ出したい気持ちになりました。
「ごめんなさいねえ。またでちゃったかしら。なかなか治んなくて。ふふ」
どれが本当の彼女なのかと思い混乱しました。
「あなた、驚くと喉を触る癖があるのね。ほら、皮を掴んで何度も引っ張ってる。皮で遊ぶの楽しい?」
目の前にいる、いつ溢れ出すか分からない鍋を冷ますにはどうすればいいのか必死に考えました。重い蓋で閉じるのはかえって逆効果だと思いました。記録者は敵意がないことを見せようと、目で精一杯の慈しみを示しました。ぎこちなく歯を見せる笑顔は敵意を剥き出しにするだけなのです。にたにた笑みを浮かべていた女は、少しづつ平静を取り戻していきました。
「あの、さっきの話しに戻しますけど、僕のこと全然知らないってどういうことです?少なくとも話を聞いたとか何かあるんじゃないんですか?でなきゃそんな言葉……」
「ね……。でもあんまり言えないんですよねえ」
「口止めでも?」
「いえいえ。そんなことはまさか。ちょっと説明が難しくて。なんて言えばいいのか……」
「じゃあ僕について知ってることは?」
「質問好きってことかしらね、」
「そうじゃなくて……」
「あと軽度の吃音ですかねえ」
「僕は世界の異変を知っているんだ」記録者は思わず叫びました。その後すぐにその声が廊下に響いてしまうであろう心配で鼓動が早まりました。
 女は下を向いてくすくす笑い始めました。
「本当なんだ。みんな一体どういうつもりなんだ。街が消えたんだぞ。ここでの生活だっていつから始まったんだ……」
「なら私からも1つ質問ね。あなたの妹は見つかったの?」
「どうしてそれを」
今度は声に出さず目尻で笑っていました。
「たしかにちょっとは聞きましたけどねえ、あなたのこと。でもだからって聞いた話全てを信じてる訳ではないですよ?」「どんな話を」「知りたいならこっち」女はそう言うと、自分がさっきいた部屋の方へ手招きしました。
 仕切りで見えなかった部屋の全貌が明らかになりました。仕切りの先は細い通路になっていて、ずっと奥まで暗闇が続いていました。覗いていると吸い込まれてしまいそうになる暗闇でした。通路がどこまで続いているのか見当もつきませんでしたが、すぐに女が教えてくれました。
「この先はホログラムなんです。だからせいぜい2mぐらいしかないんです。」女の口調はいつの間にか戻っていました。
「ごめんなさい、見えないですよね。今照明つけますね」女は右側の壁についてあるスイッチを押すと、背をよじって振り向きました。
「私、暗くても視えるんです」
 明かりがつくと女の発言が確かだと分かりました。通路の奥には扉がありました。銀色の丸いドアノブが付いたもので、扉自体はところどころ錆びていました。壁にはいくつもの引き出しがありました。その様子を見ると、この空間がいつできたものなのか一層不可解に感じました。
 記録者の視界にまるで枯葉のように侵入した女は、同じように扉を見つめました。
……何を思って見つめているんだろう……
 垂直に降りた髪の一本一本が力強く己の存在を主張していました。何か声をかけるべきかと悩みましたが、その前に女はかがみ込んでいました。右側の壁の引き出しから何やら黒い立方体の箱を取り出しました。しゃがむとスカートのスリットから桃の果肉のような大腿が見えました。砂の大地のような肌からは想像つかないほどのほとばしる純白でした。箱を見つめる女の横顔、もしその砂のベールをめくったら、産まれたままの白さが疼いているのでしょうか。
 (血圧の上昇を確認)/く、腕がさっきから勝手に動く。記録者はノートに記しながら右腕の腹に痺れを感じています。
 黒い箱の中には、柔らかそうな布の上に置かれた黒いキャップがついた画鋲のようなものが見えました。女は中身を確認すると蓋を戻しました。あまりにも自然な動作だったので、この時点で記録者に疑問符は浮かびませんでした。
「で、話って……」
「なんですか……」
「いやさっき、話してあげるって……。僕について、工場長からなにか伝えられているんじゃないんですか。メールでも電話でも……」
「そんなに気になるんですね……自分のこと」
「ち、ちがいますよ……!僕はただ、なんで急に妹のことを出したのか聞いているんです……!」
「私が言われたのは3つ……別の工場から来た記憶喪失の男について、覚えているのは妹を探しているということ、少し荒っぽいってこと……かしらね」
「さ、さっきの言い方からして、あなた、患者なんでしょう?なんで僕のことなんか伝えられる権利があるんですか……!」
「そんなに知られたくない……?別に私から知りたいって言ったわけじゃないわよ……。ただ、ここに来るかもしれないでしょう?たとえるとあなた、注意喚起されてるんじゃない」
「僕が危害を加えるとでも……あいつ……」
「でも、ちゃんと見てわかった。そんな人間じゃないって」
「僕は何も知らないんだ、この世界で僕だけ……」記録者は項垂れました。
「ほら、気を確かに持って……!あっち、あの扉を開けば廊下に出れる」女は箱をポケットにしまうと、記録者に目を向けました。
「探しているんでしょう?」
「どこにいるか分かるんですか……?」
「悪いけど私は知らないの」
「そんな……」
「ここにいたらいつ彼らが来るか分からない。けれどあなたを匿ったり庇ったりする力もない」
女の言う通り、そこに長居することはそれなりの代償があると考えました。
 はじめは敵の懐に潜り込んだ感覚でしたが、その優位性から一席空けれるぐらいには心は落ち着いていました。敵は思っていたような相手ではなかったのです。記録者は考え直しました。もっと重要なことを知っている人がいるかもしれない、この異変を知覚している人物が。
「あなたと話せてよかった。結局何も分からずじまいだったけど」
「けど手助けぐらいならできるわ」
「どうやって」
「あいつら、ちょっと手荒いでしょう?いじめないであげてって釘を刺すことぐらいならね……」
「あなたは一体どんな権限を……?」
女は顔を少し傾け、眠たげな表情をしていました。髪の毛が重力に勝てず頬を掠め、どことなく、そよ風が通っているようでした。腕を後ろで組み、右足に重心を乗せ、退屈した少女のような立ち姿の女、しかし目線は扉に向けられていました。扉を見てもやはりそこには無機質な境界があるだけでした。
「権限なんてもっているように見える?」
どこか悲しげな口調に驚いて見ると、女は全てを言い切ったように微笑んでいました。憂げな笑みでした。今にも壁にもたれ粉砕してしまいそうな儚さに、記録者は追求することができませんでした。
「妹のことは自分でなんとかします。あいつ、1人じゃ何もできないんで。他に頼れる人を探してみますから。あと、できれば僕がここにいたことは秘密で」
「分かったわ……。でもなんとかしてあげたい気持ちはあるの。だから信じて」
「信じてもいいんですか」
「あなたを傷つけるつもりはないの。だから、もっと友達みたいに話してほしい」
「信じてみるよ」
「もっと」
「わかった、また来る」
「うん」
彼女は何かを言いかけて、やめました。
「何?」
「ううん、またね」
 記録者は扉を開け廊下に出ました。
「ずっと一本道だからね」女の声が記録者を追い越しました。何重にも反響したその声を聞くと、壁に手を添えながら歩く彼女に先導されているような気分になりました。声の残響は次第に遠くなり、女の姿も透けていきました。そこで初めて後ろを振り返りました。扉はすでに閉まっていました。何かを期待していたわけではありませんでしたが、再び寒気がする孤独に取り残されたようでした。
 さっき歩いたのと同じような廊下に出ました。床には相変わらずガラスの破片や紙くずが落ちていました。廊下はたしかに一本道になっており、どこにつながっているの分からないパイプ管や換気扇からは、時折吸引音のようなものが聞こえました。記録者はノートを取り出し、歩きながら女との会話を何度も頭で繰り返しました。しばらく進むと、汚れた段ボール箱が落ちていました。箱の上部は荒く裂かれており、その形跡とも言えるテープ痕が見えました。中を覗くと、乾電池が大量に入っていました。恐らく捨てられたもののようでしたが、使えそうだと思いいくつか拾っていきました。何気ない道具や物体に惹かれて収集する癖は、 ̶記̶録̶者̶に̶長̶年̶付̶き̶ま̶と̶う̶影̶の̶よ̶う̶な̶も̶の̶ ̶い̶や̶影̶と̶言̶っ̶た̶ら̶聞̶こ̶え̶が̶悪̶い̶な̶。̶髪̶型̶の̶よ̶う̶な̶も̶の̶?̶い̶や̶い̶や̶ ̶
記録者には昔からの収集癖があるのです。いつか使うかもしれないという想いで、特に、どこにでもありそうなものを手元に置いてしまうのです。たとえば洗濯バサミやクリップ、ペットボトルのキャップなどです。しかしその「いつか」が訪れることはありません。今後もないでしょう。ですからポケットに入れたこの乾電池も使い道は現在模索中です。

 ずっと膝を抱えた座り方をして縮こまってたものですから、腰に痛みを感じました。腰に体重がかからないように太腿をずらし膝を立て、体を伸ばそうとしました。そのせいで頭を階段の骨組みにぶつけてしまいました。鐘のような金属の鈍い音が響きます。頭頂部の痛みと唸って揺れる空気の振動に再度縮こまりました。(鼓動の加速を確認)突然階段の上の方で物音がしました。かちかち、かんかんかん、。歯車の回る音がしたあと、パイプ同士が打ちつけ合うような音がしました。機械的な音でしたが、それとも人が出したのでしょうか。
 ちょうどこれを記している時、男が非常階段の扉を開け、記録者のいるところまで降りてきました。記録者は迂闊にもペンを離してしまい、実時間での記録には至らず。扉が軋む音が聞こえた時には心臓が首を吊っているかのように焦り、重苦しかった。ただし、その男は記録者の知る者だった。現在この文章は男の隣で書かれている。なぜこれを追記したかというと、単にそれは個人的な動機だから。かもしれない。いや、特別な意味はありません。男との再会は安堵と不信の衝突によって迎えられた。男の詳細は追って記していく。急の登場は混乱を招くため、ここでの紹介はこれにて。
 丸まった紙くず。拾うとこんな文言が見えました。「産業廃棄物処理計…」さっき立ちあがろうとした時に腰のポケットから落ちたようです。紙面上を走るしわを指でなぞりながら、ピザ生地をこねるように広げていきました。

  「産業廃棄物処理計画実施状況報告書」

 工場から出る産業廃棄物の処理状況を報告するための書類です。誤って持って帰ってきてしまった。それにこんな扱いで。表面には事業の種類「生コンクリート製造販売」、計画における目標値、排出量や処理委託量が記された項目が載っています。裏面にはそれぞれの項目のグラフと、備考が記されています。項目を見ていくと、廃棄物処理を全て委託しているのが分かります。再生利用、中間処理、海洋処分などはしていない模様。ただそれにしてもここの工場は何の生産をしているのだろう。工場の外観と、あの家群のフラッシュバックを頭の中で重ね合わせる。生まれたイメージは、静かに聳え立つ煙突、煙突をゆく住民達、住民達を挟み見下ろす陳列された住宅群。渦を巻いて練り上がった多重露光写真は、吸殻のように散っていき、その中に妹の姿はありませんでした。
 誰を信じていいのかもう分からなくなってきました。やっぱり、人間なんか所詮信じるべきじゃないんです。だからこそこの記録を、信用に足る証拠として書き上げなくてはいけません。
 どうやら他の工場にも同じように並べられた家があり、同じような機構を持っているようです。同じように疑いを抱かない民がいて、同じように彼らを仕切る族長がいる。ではシャーマンはどこに?
 しかしながら、記録する、という行為にも慣れてきた。こんなメモを残したところで、これを読んでいる諸君にはなんの導きにもならないだろうが、案外こういうところに、失踪者の足跡が残されているのかもしれない。文章もなるべく消さないようにしておこう。間違えた時は斜線で、消した痕跡が見えるように。いや待て、どうしていま失踪者なんて言葉使ったのだ。自分を失踪者と自覚している失踪者がいるだろうか。自覚があるうちに失踪届をだせばいいのだ。なんて、こんな独り言が、あとで思考の出発点になるのだ。

 
 さらに30mほど進むと、扉に着きました。慎重に耳をあて、外の様子を伺いました。しかし換気扇の音で正確には聞き取れませんでした。空気の流動、まるで無数の虫がうごめいているような音。少なくとも話し声や足音はしなかったので、ドアノブに手をかけました。歯車が噛み合わさるような音。そっと触れたつもりでしたが、大きな金属音が鳴りました。記録者はすぐに手を離し、後ろを振り返りました。走って女のいる部屋へ逃げることもできました。そこで籠城すれば、こちらの要求も通りやすくなるかもしれません。しかしそんなやり方を取ったとして、妹の居場所に辿り着くのでしょうか。記録者は震える右手を押さえ、再度ドアノブに手をかけました。唾を飲み込むと、乾いてくっついた喉に痛みが伝いました。敵の突進に備え盾を構える兵士のように、ゆっくりと扉を開きました。
 そこは真っ白な空間でした。床も壁も天井も、まるで雪原にいるような眩さでした。扉を開いた瞬間、扇をひらいた光の一斉射撃に記録者は目を細めました。少し経つと、瞳孔が視野の隅から影をたぐり寄せ、振動する鉄柱を掴むようにぼやけた輪郭に縫い付けました。
 目の前には7人の男が立っていました。なかでも灰色のつなぎを着た6人の前に立つスーツ姿の男には見覚えがありました。工場長です。記録者はノートを上着の内側にしまいました。
「おっと、奇遇ですねえ」相変わらず泥をこねくりまわすような喋りでした。
「ずっと待ち構えていたのか」
「いやあ?今来たところだよ」
「あの女……やっぱり俺をはめるために」
「ん、勘違いしてるな?お前の逃げた場所は把握済みだったんだよ」
「どういうことだ」
「出し抜いたと自惚れていたかもしれんが、お前の逃走経路は全て用意されたものなんだよ」
そんなわけが……記録者は自分が走った道を思い出しました。しかし急な方向転換も人混みへの擬態も、自分で取った行動なはずでした。
「"またたぎ"の追い込み猟って知ってるか?"またたぎ"っていうのはきつねぐらいの大きさで、見た目はクマに近い……わりかし賢いやつなんだ」
工場長は両手を使って説明を始めました。
「生息域は主に山中なんだが、たまに野うさぎを狩りに草原にも降りてくるんだ。猟師たちはあらかじめ草原で、待ち伏せ捕まえにかかる……当然"またたぎ"は逃げる訳だが、その草原にはすでに巧妙な罠が仕掛けられているんだ。大小さまざまな岩、草を刈ってつくった小道、動物の死骸、土手、堀……。待ち構える猟師たちの位置も全て計算されている。驚いた"またたぎ"は山へ引き返すわけだが、逃げながら本能的に安全でかつ最短ルートを取る。だが、そこで取る選択というのはまさに、猟師たちにとって想定済みなんだよ。"またたぎ"がどの道を選びどの道を避けるのか、無意識のうちに誘導させるんだ。そして最終的には山に入る直前で待ち構えていた猟師に捕獲される。手間がかかると言えばそうなんだが、な、そっくりだろう?お前と。前にお前をもぐらに例えたが……今はどちらかというとみみずだな。」
工場長は右手でつくった拳を左手で包み込み、にやついた視線を記録者へ向けました。
「こちらとしてはお前を追いかける必要はなかった。問題はお前が本能的かどうかだったわけだが、ありがたいことに、予想通り住宅区を抜けてくれた」
「あの部屋にいた女も俺が来ることを予想して待たせたってことか」記録者は唾を飲み込みました。痛みはなかったものの、しかし今度は唾液の泡や生温かさが喉を這う不快さを感じました。
「あぁ、いや、あの娘はもとからだ。お前ももう知っているだろう。まったく、可哀想な病気だよ」
「彼女、俺の存在を誰かから聞いたような言い方をしていた。彼女に何をさせるつもりだったんだ」
「いや、あの娘の役目は終わったよ。ほら首のとこ見てみろ」
記録者は首の後ろに手を回しました。
「なんだこれは……」小さな何かが刺さっていました。
「データチップだ。もうじき脳に着くだろう」
「まさか、あの女……」
「まあそう昂るな。悪いものじゃない。記憶機能を向上させる薬って思ってくれればいい」
「記憶機能だって?一体なんのつもりだ」
「なんのつもり?」
「そんなことをしてお前らになんの得がある」
「あの後考えたんだが……こちらとしても、ありもしないことを書かれるわけにはいかない。記録には公平性が必要だからな」
記録者は首に刺さった突起物を勢いよく引き抜きました。肉を無理やり引っ張る痛みが、うじ虫のように首から這い出てきました。それは、女が箱から取り出して見ていたキャップ付きの画鋲でした。
「今更抜いても遅い。いずれお前もそいつに感謝する時がくる」
「もう誰も信用できない、早くここから出してくれないか」記録者の叫びは部屋の隅に虚しく消えていきました。こんなにも上手くいかないものなのかと記録者は嘆きました。
「そう恐れなくてもいいんだがな。前にも言った気がするが……たしかにお前は出港に乗り遅れた乗客だ。しかしだからと言って乗船資格を剥奪されたわけではない」
工場長の背後に立つ6人の男たちはみな同様にだらりと伸ばした両手を腰の前で組んでいましたが、親指同士を擦り合わせる者や掌を開いたり閉じたりする者、鼻をほじろうと葛藤する者などで規律はなさそうでした。中には足首を内側にひねり立とうとする者もいて、そいつは危うく体勢を崩しそうになっていました。中学生の全校集会のような緊張感のなさがその部屋の歪曲をさらに強調しました。
「むしろ我々は歓迎しているんだよ。そうだ、発散区に行くといい。そうすれば心のもやも晴れるだろう。なあ?」
後ろの男たちは波止場の船のように頷きました。
「ほら、連れてってやれ」
指示された男たちは記録者の肩や腕を掴みにかかりました。ただ記録者が抵抗しなかったため、自分がどこを押さえればいいか分からず周りで慌てている者もいました。
「データチップは指示して刺させたんだ。いやあ、手際よくやってくれたじゃないか」工場長は記録者の歩調に合わせ、話しました。つなぎを着た男達の1人が先導し、彼らは部屋の奥へ歩いていきました。
「そいつはな、さっきは記憶と言ったが、もともとは記号化を目的としてつくられたんだ」
記録者はうつむきながら、その話に耳を傾けました。
「人と先生の違いは何だと思う?あぁすまない、先生ってのは人工知能のことだ。ここの連中はみんな先生って呼んでるんだ。で、人と人工知能の違いだが、それは人と猿の違いとも通じる。たとえば猿の手足を人間に移植できたとして、人格にはなんら影響はないだろう。腹ならどうだ?いいや。胸ならどうか、これも大差ない。そうやって身体の一部を順に取り替えていっても人間であることには変わりないと思うんだ。では脳を入れ替えたら?人間ではなくなるな。ならば人間であるとは何か……脳にあるのか?いやあ、私の考えでは、それは言語にあると思うんだ。自然と人間を分つのは言語なんだよ。ほら、今だって説明に使っているのは言葉だろう?そもそも説明という行為自体が言語の一機能でもあるわけだな。お前もこうして聞いている間、何かを考えたりするだろう?その時だって頭の中で言葉を思い浮かべるはずだ。そもそもお前が持っているノートも……なんだ?メモでもしていたのか?そのノートだって存在理由は言語だ。罫線は言葉の道標なわけだろう?記憶を思い出す時だって、つい言葉を口にしてしまう。お前の志す"偉大なる"行為は全て、言語を頼りにしているんだ。言語なしにノートが存在しないように、言語なしに思考は存在しない」
奥へ行くほど照明は弱まり、部屋の横幅も狭くなっていきました。記録者は工場長と肩をぶつけ合いながら歩きました。後ろを歩いていた2人の男たちが互いに足を引っ掛けこけそうになりました。カッターのように鋭く、吐き捨てられた微笑。白かったはずの壁は、気づけば金属質の灰色に変わっていました。ところどころ黒い擦り傷がついていました。部屋というより、もはやダクトの中を歩いている気分でした。あるいは食道……鉄の食道には、蟻のような行進で進む足音と、誇らしげな男の声だけが響いていました。
「言語は人間の思考を編み込むためのものだといっていい。しかし人工知能はどうだ?あれはプログラムだ。編むというより解く行為に近い。事象を全て記号に置き換えるんだ。人工知能が行う思考の出発点は記号にある。そう、だからデジタルなんだよ。人間はアナログから出発する。たしかに文字はデジタルだが言語そのものは違う。アナログ的イメージ……狂ったミシンから溢れる思考という糸を編むのが言語なんだ。だから時にほつれ、絡まる。人工知能はそうならないように初めから解いてあるんだ。そして直線にすすみながら面を形する。これが人間と人工知能の違いだ」
 記録者の目には、遠くで血生臭く燃える扉が見えました。実際にはただの金属扉でしたが、そう見えたのです。
 工場長は話を続けました。
「データチップはもともと、人工知能への挿入を想定されてつくられた。目的は記号化。人工知能は受け取った情報を特徴量的数値に置き換え保存する。チップはその膨大なデータを保存するための保管庫、いわば情報の銀行……。人間の思考は言語にあると言ったな、つまり文字という記号に置き換えることができる。実世界での体験を記号に結びつける、記号接地問題の延長実験だ。人間の記憶は機械と違い、どうしたって干渉を受けてしまう。そして忘却が起こるわけだが、脳が無意識に捉えた情報を記号化し保存しておけば、そんなこと起きないだろう?成功すれば自分の感覚を客観化できる。そして自分の非言語的記憶と照らし合わせれば、より正確な記憶の引き出しが可能というわけだ。自分ではその変化に気づかないだろうが、無意識の情報を無意識に主体化できるんだ」
「なるほどな。それで俺に公平な記録を強制できるっていうわけか」
「強制ではない。選択権はお前にある。書きたくなければペンを捨てればいい」
行進の足音は扉を前にして息を潜めました。
「開けろ」
工場長が指示すると、つなぎを着た男が扉を開きました。密かに、記録者には好奇心がありました。未知の世界への興味。しかし期待は二重の扉によって退けられました。男が取手のない二つめの扉を——今度はシアターの入り口のような革製の重厚な扉でした——を押そうとしましたがびくともしなかったので、協力を呼んでようやく開きました。扉の向こうには下へ続く階段がありました。記録者の静かな期待は蛇のように、階段の奥深くに澱む闇へ消えていきました。降りていく誰もが、踏み外さないように慎重に足を運びました。つなぎを着た男たちは背中を押し合ったりして明らかにふざけている様子でした。
「システムの正常化には時間を要した。何せ人間への代用だからな。肉体的負担がかかる。お前に挿入されたチップは最終試験をクリアしている、貴重なデバイスだ。はじめは馴染まないかもしれんが、じきに一体化するはずだ」
 階段は13段続き、そして再び扉が現れました。暗さのせいでよく見えませんでしたが、男たちの力んだ掛け声から、同じように厚い扉だとわかりました。扉が開くと、暗闇にネオン光が咲きました。湧き返る享楽的な笑いと波の音が、記録者の肩を縮こませました。
 その空間は、映画館の廊下のように暗く、居心地の悪いほど広いのに狭く感じるのは天井のせいでしょうか。空間は円形のような構造で、中央には、巨大な円筒状のガラスが天井を貫いていました。波の音はそこから聴こえました。壁際には大小さまざまな屋台が絢爛なネオンサインを照らつかせ、客を取り合っていました。屋台のある通路からは階段が数本、下に向かって通っており、円形闘技場のような構造で客席が設けられていました。席の中には、卵状の席もあり、明らかに他とは格別の待遇をなされていそうでした。ただガラス柱はモザイク加工がされていて、一体何を鑑賞するのかは見当もつきませんでした。記録者のいる扉付近から、客席の最前列までぎりぎり見下ろせましたが、柵とガラス柱との不自然な隙間を見るに、記録者たちがいる場所より下にも空間がありそうでした。工場長は自分の御殿を扱うように両手を捧げ語り始めました。
「ようこそ、ここが発散区だよ」この際にも、記録者は周りの拘束を振り払って逃げ出すつもりでした。彼がここまで素直に従ったのはあくまで装いでした。
「あそこに見えるのは浮遊場だ」工場長はガラスを指差しました。
「使い方は慣れている者に聞くといい。他にもいろいろあるからな。まあ我々としては、ただ気楽になってほしいだけなんだ。だから見張りもつけない。自由に歩き回って羽を伸ばしてくれ」
記録者は拘束を解かれました。強く握られていたため、反射で手首を押さえました。
「ほら、丁寧に扱えよ。ただでさえ義手なんだからな」つなぎを着た男たちに笑いが起こりました。湿った笑いでした。記録者は彼らを背に歩き出しました。笑い声は行き交う人々の喧騒に溶けていきました。
 祭りで見る的当てや、運試しのくじ引きなどの屋台は賑わいを見せていました。記録者は人混みの中に入っていきました。屋台が並ぶ通路は、ネオンサインで色気づいていましたが、目の前の顔を確認できるのがやっとなぐらい暗く、そのせいで中央に聳えるガラス柱にばかり目がいきました。たかが的当てに騒ぐ連中を押し退け、記録者は人だかりの出口を探しました。見るに、どこの屋台にも主人のような人が見当たりませんでした。どこも無人で運営されていたのです。記録者はどうにか人混みを抜け出し、逃れるように階段を降りました。席の最前列まで降りました。柵を掴んで見下ろすと記録者のいるところは2階だとわかりました。1階もたくさんの人で賑わっており、ガラス柱には扉が取り付けられていました。1階に階段席はなく、遊園地などで見かける簡易的なテーブルとイスが配置されていました。そこで食事をする者や、会話する者、男女問わずの賑わいでしたが、さすがに子供は見かけませんでした。酔っているのか、テーブルの下で足をじゃれさせている男女もいました。2階は治安の悪い祭りのような暗さでしたが、1階はもっと甘美的な、ただし欺瞞に満ちた暗さに見えました。
 唾を撒き散らす笑い声や、罵声、地団駄。挙句満員電車を思わせるような圧迫。次から次へと現れる薄桃色に照らされた顔面を避けていく。皆酔っ払ったように"にやにや"している。
「くそ、息がつまる」記録者は階段を上がり屋台のある廊下に出ると、1階への道がないか、探し始めました。ここに来る前はやつらの拘束を振り切って逃げるつもりでしたが、巨大な未知を前に、ひとまず探索をしてみることにしました。もしかしたら、奇跡的な再会があるかもしれない、かすかにもそう期待したのです。
 しばらく歩くと、他のとは違った見た目の屋台がありました。屋台というより、扉のないコンビニのようでした。つまり店自体はコの字型に奥行きがあり、中には商品が陳列された棚が並んでいました。店内は商品が見えるぐらいには明るかったのですが、それでも外より少し目立つぐらいで、普通のコンビニに比べたら休業を疑うほどの暗さでした。しかも暗さに関しては、外と違って爬虫類的な緑を帯びていました。記録者にチップを挿したあの女の部屋のような色合いでした。ただそれよりも気になっていたのは、その店にすら店員らしき人物が見当たらないことでした。記録者の横をすれ違った、牛乳パックを手に取ったサングラスをかけた若い男は、そのまま店の外に出て行きました。(この空間での購買はすべて無料なのか……?それともここに入る時に購買も込みで使用料を払っているのか?そもそも、この工場街の経済はどうやってまわっているんだ?)
 そこにいる連中はどいつもこいつもうすら笑いを浮かべていましたが、その中で1人、気になる人物がいました。スーツを着た60か70代ぐらいの、腫れぼったい顔で、擦り切れたたわしのような頭をした男でした。役所で働いていそうな顔でしたが、ただ表情は虚無でした。プリンとコーヒー缶を手に持ち、立ち尽くしているだけでした。身長は170cm後半ぐらいあり、顔に似合わずがっちりとした体格でした。背筋はぴんと伸びていました。
「おい、あんた、騒いでた、あの酔っ払いだろ」
男が急に話しかけてきました。年寄り特有の、一語一語にアクセントを置く喋り方でした。男は目線だけこちらに向けていました。記録者にとって、こういうタイプの人間は苦手でした。何が笑いの種になり、何が許されないのか、いかんせんどうやって振る舞うべきか萎縮してしまうからです。
「酔っ払いだなんて、一体なんのことですか……」
「し、知ってる、あんたのこと」
「僕のことをですか?」
「通りで見かけた……。そのノート、記録してんだろう?」男は体を向き直し、はっきりと言いました。
「なあ、そうだろう……。見たんだよ、通りで」
記録者はどう反応したらいいか分からず、言葉を目で探していました。あの野次馬の中にいた……そう言おうとしましたが、その言い方で表現していいものなのかと躊躇しました。
「なんだ、?メモ取ってるのか?すごいな……本当に全て記録するつもりだ」
「え、ええ。そうですけど、僕を見かけたっていうんですか?」
「そう……連れていかれてただろう。あの工場長に」
「じゃあ……間違いない……僕です、それは」相手の思わぬ言いように、記録者は希望に似た感情を抱きました。
「うぅ……。」男は天井を見上げ、急に涙ぐみました。記録者は本当に参っていました。目の前の男の言動、目的、信用に足る人物か……それに、こんな光景を誰かに見られたら要らぬ詮索をさせてしまう。
「えっと、あの……」
「あぁ、くそぁ、すまんな。なんと言うべきか……私は君のような人間を待っていた」
「どういうことですか……僕も聞きたいことが山ほどあって、その……」
「そうだな、私も話したいことがある」
店の外から、工場長の声が聞こえてきました。
「場所を変えるべきだな……」
男は棚の陰に記録者を誘導しました。棚の隙間から、取り巻きを連れて歩く工場長の姿が見えました。
「どこに連れていかれたんだ?」
「何か、取り調べ室のような……」
「何を話した、?」
「たしか……(記録者はノートをめくりました)そう、とにかく状況を受け入れろと、この街の住人として生きるんだと言われて……」
「そうだったか。何というべきか、気になるな、その……」男は目線をノートに向けました。
「その後は逃げ出したんですが、そうだ、一度ノートを奴に奪われたんです。その後取り返しましたけど……それでそのまま街を抜けて、そういえば、あの街はいったい何なんですか。家を積み重ねた……住宅区、でしたっけ?すみません、疑問が次から次へと湧いて、自分でもどうしたらいいのか」
男は今度は手に持ったコーヒー缶を見つめていました。しかし瞳にはそんなもの写っていなそうでした。
「なるほどな、するとあんたも、何も覚えていないみたいだな」
「え、どういうことです」
「いや、分からねえな。どうも分からねえ。本当に覚えてないのか?」
「さっきから何のことだか……」
「記憶喪失ってやつか。でもどうして、ここにいれるんだ……?」
「そんな!」記録者は誤解されていると感じ、思わず目を見開きました。
「だったら連れてかれる話だけどな……」
「待ってください、僕、記憶喪失なんてしていませんよ!してるのはここの連中の方でしょう?だって街が消えたんですよ!家も店も何もかも工場に変わったのに、なんで誰も気にしていないんですか」
「なんだい、そりゃあ……」
「街が無くなったんですよ。僕は工場の外にいて、家に帰ろうとしてたんです。でもどこにも家なんてなくて、工場しかなくて」
「いや、そうじゃなくて、何で外なんかいたんだ」
「なんでって、そりゃ僕は働くために外に出かけてて、いやそもそも、家が工場の中にあるのがおかしいんですよ。家は外にあるものでしょう?」
「いや、分からんな。外って何だよ。家に入ればどこだって内だろ」
「いやそうじゃなくって」記録者は海を泳いでいるようでした。陸まであと少しなのに、波に何度も押し返されてしまう。しかしあと少しなのです。もう陸が見える距離には近づいていたのです。
「ノート、全部書いてあるんだろ?」見せたらどんなに説明が楽になることか。しかし実のところ記録は完全ではなかったし、くだらない文章やメモを見られるのは堪りませんでした。
「いや、その」
「もうちょい書き方があんだろう。何だよ腫れぼったいって」
「ちょっと、その」男はノートに手を伸ばし、記録者から引き剥がそうとしました。しかし頬の不自然な強張りからみるに、どうやらふざけているようにも見えました。あとからこう書いていると、どう見たってふざけていると分かるのですが、この時はどうも関わりづらいじじいとしか思いませんでした。店に客が数人入ってきました。
「一旦外出ましょうよ……」男は視線を横へ滑らしました。
「そう、だな」
記録者たちは店の外へ出て、客席へ向かいました。人混みは減ったようでしたが、それでもどよめきはうごめいていました。
「このシート、全然誰も使ってないですね」
「そりゃあそうだ」
「どうしてですか」
「もうそろそろみんな家に帰る頃だろう。座る必要なんてないさ」
「みんな住宅区に住んでるんですか。ここにいる人も全員」
「もちろんそうだとも。本当に何も覚えてないの」
「覚えていますよ。気づいたら街が無くなってたんですから。消える瞬間は見てませんけど」
「おい……どうして外にいたんだあんたは……。それに工場だらけってそりゃあ当然だろ」
「こっちからすれば、この世界がおかしいんですよ……。他の工場にもこんな場所があるんですか?たとえばあんなおかしな住宅が」
「あるだろうな。ただつくってるもんが違う」
「じゃあやはり工場としての機能はあるのか……」
「ここじゃあ玩具をつくってんだ」
「おもちゃを?」
「あぁ」
「だったらなんで家とかこんな場所つくるんですか」
「そんなこと言われたって、もとからこうなってんだから知らねえよ。まあ他の工場についても、正直よく知らん。服作ってるとこがあれば、植物育ててるとこ、金属加工してるとこもあんだろう。内情なんて知らんさ。他の奴らなんて気にしてたってしょうがないだろう?気にしなくったって生きてけんだから」
「おもちゃだけつくってどうやって生活をしてるんですか?」
「そりゃあ公平な取引してんだろ」
「工場同士で交易を?」
「そうだよ」
「じゃあ家は……あれはどうして……3段も並べる必要ないでしょう……もっとマンションみたいに、部屋の集合をつくればいいわけで」
「あんた、記憶喪失のわりには考えはまとまってるな」
「だから記憶喪失なんかじゃ……」
「わかったわかった。俺が悪いよ。外にいた理由は知らんが、虚言ではないってのは承知したよ」
「ならいいんですけど、ほんとに分かってくれてるんですかね」
「いや、本当に記憶喪失ってやつだったら、こんなとこにいるはずねえしな」
「なんですかさっきから、ここにいるはずないって。そんなに特別なんですか、ここは……。ぼくの話はあとで見せますから……あなたこそどうなんです。工場長を避けてるようですけど、何かありますよね、絶対」
「そろそろ俺が身の上話をする番か?」男は周りを見渡しました。そして少し考え込み、それから話し始めました。
「あまり大きな声じゃ言えないんだがな、俺もよ、子供の頃の記憶が思い出せないんだ」俺もという言い方には気になりましたが、静かにしました。
「誰の話を聞いたって当然そんなの俺だけだからよ、おかしいって思ったんだ。だが、やっぱり俺はみんなとは違えんだ。馴染めないっていうか、俺が抱くなんと言うか……気味悪さってのを、誰も疑ってくれないんだよ。けど、記憶がないことは誰にも言わなかった……俺はこの工場について前からおかしいって思ってたんだ。ずっと前から。そんなの俺だけさ。誰を見たって。俺はこの街で初めて疑問を持った人間だろうな。んで、たまたまさっき、あんたを見かけたんだ、あの通りで。その瞬間ばちこりきたね。もしやあいつも俺と同じなんじゃないかって」
「工場長から身を隠したのは、それがばれたらいけないからってことですか」
「まあな。ばれたら多分、連れていかれる。確証はできねえが、その一歩手前まできてるんだ。俺は今までずっと調べてた……この不安の正体を。まずよ……いいか?」
「もちろんです」
「まずよ、あんた、人が死ぬ時ってどんなだと思う?」
「哲学的ですね」
「あんま難しい言葉使うなよ。まあとにかく、人が死ぬ瞬間、見たことあるか?」
「いや、直接はないですね」
「そうだ、誰に聞いたってそう言う。俺と昔からの付き合いがある奴にも聞いたんだが、そいつだって、死んだ自分のじいさんの、その死についてよく知らないんだよ。いつの間にかいなくなり、それを誰も不思議と思わない。おかしくないか?生まれたんだから死があるのは当然だよな。けど、誰も死についての理解がない。いいか、ここを知らないあんたなら受け入れてくれることを願うよ……この街の住民は老いると姿を消すんだ」
「姿を消す……?いや、直接はないですけど、葬式とかで祖父の遺体はみたことありますし、死を知らないわけじゃないですよ」
「なんだ、あ、あんた、人が死んだの、見たことあんのか。まあ、やっぱり外から来たってのは本当なのかな……なんだか気味が悪いけど、とにかくここじゃ人が死ぬってのは、要するに失踪って言われてるんだよ。姿を消すって」
「じゃあ、死にそうな人は急に自らどこから消えるんですか?」
「いや、そうじゃない。連れていかれるんだ。その瞬間はいつ来るか分からない……だが、老いた奴はもれなく連れていかれる。白髪まみれのばあさんなんか見たか?見てないだろう。俺だけだよ。こんなに老いてるのは。いつ連れ去られるか分からない、その恐怖から俺は隠れてるんだよ」
「それって、ただ歳をとったからですか、それとも病気になったから……」
「それだよ!そう、俺はそれに辿り着いたんだ」
男は記録者の肩を掴みました。
「それ、ですか?」
「そう、病気ってやつだよ。ここには、病気っつうのがないんだよ。あんた、労働区には行ったか?」
「労働区、ですか?初めて聞きました」
「工場には3つの区域があるんだ。ひとつはみんなが暮らす住宅区。ひとつはここ、日常の蒸留って思えばいい、発散区だ。そして、俺にとっちゃ一番居心地の悪い場所、労働区」
「名前の通り、働くための場所なんですか」
「そうだ。基本的には玩具の製造ラインに立たされる。妊娠した女は別。あいつらは労働区の中でも別地域にいる。んで、生まれた子供も、自制が効くようになったら区内にある施設で学業だ。どの親にしてみても、いかに早く勉強させるかが名誉だからな。子供からしたら泣く泣く送り込まれるらしいが、俺にはこの記憶がない。全く」
「教育システムは確立されているのか、これじゃあ本当に工場の中に街があるみたいだ」
「だから街ってのは工場の中にしかないんだよ」
「そんなまさか……でも、機関や団体はどうなったんですか。自治体なんかはあるんですか。教育委員会は?学校があれば教師もいるでしょう?」
「ん、なんだ、政治の話か?俺はそんなに詳しくないぞ。工場長が全てを仕切っているのは分かる。誰一人として不満に思わないらしいが、で、教師か?いるよ。先生がいるさ」
「やっぱり独裁なのか、あいつの」
「ガキの頃の記憶は思い出せねえけど、でも、教わったことはちゃんと覚えてんだ。不思議だろう。独裁って良くないんだろ?」
「僕にしてみれば、どの世界にも独裁者はいますけどね。でも、ヒトラーの一人負けみたいになっている」
「だからよ、政治にはあんま詳しくねえんだ」
「知りませんかヒトラーって、聞いたこともない?」
「ないな。いやまて……いやないな」
「先生は教えてくれなかったんですか?」
「先生はなんでも知ってるよ。そうだ、ここにもいるから後で聞いてみるか。んで、なんの話をしていたっけ」
記録者はノートのメモに目を通しました。男も盗み見ました。
「そうだ、それだ。病気だよ。あんた、病気ってのに蝕まれたことはあるか?」
「え、ええ。昔から体が弱くって、子供の頃、気管支喘息で入院したこともあります」
「それって、施設に送り込まれるのか?」
「施設って言い方あんまりしないですけど、病院に」
「病院……病を集める院か」
「集めるっていうか、治すんですよ。僕の喘息だって、それで治りましたから。あの、病院ってないんですか、ここ?」
「あんたの言うそれ、それが正しいなら、ここにはないな。病院ってのは病気になったら行くのか。じゃあ、ないな。ここには病なんてないからよ」
「病がないって、どういうことなんです?」
「そうだ、それに気づいたのもそう昔の話じゃねえ。誰にも言えねえが、ある時先生をいじくって調べたんだ。俺らは生まれると、みんなチップを埋め込まれるらしいんだ」
記録者は言葉を失いました。しかし話を続けようと、なんとか絞りカスのような声を引き上げました。
「チップ……」
「聞いたことないか、まあそれがどうやって作用してんのか……それで俺たちはその……その病にならないらしい」
「聞きました。工場長から。そのチップってやつ。ちょうどさっき、僕にも埋め込まれた……」
「さっき……!じゃあ、あんたも……」
「いや、でも僕のは他のとは違うらしい。完成された技術ではないって言ってましたから」
「んだよ、それ……でも、埋め込まれたってことはもう逃れられないぞ」
「そんなこと言われたって……」
「なら俺も自慢してやるよ。俺もな、あいつらとは違えんだ。未熟なんだよ。俺のチップは」
「未熟?」
「そう、だから完全に機能を果たせないんだ」
「どうやってそれを」
「昔よ、頭打っちまって、ふん、それでガキの頃の記憶も消えちまったがよ、でもチップも脳と一緒に機能不全になっちまったんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。チップって、どんな機能があるんですか」
「俺だってそれをずっと調べてんだ。ただ分かるのは、どうしたって俺とあいつらじゃ溶け合いないってことだな。みんな俺以上に頭をやられちまってるのさ、きっと」
「けど、そんなもので病気が消えるのか……?」
「俺も詳しくは分からねえ、けど、俺の記憶喪失ってのも、要は病気なんだろ?だから誰にも言わなかったんだ。言ったら、多分、俺も……」
「連れていかれる……?」
「そう、だが、言わなかったとしても、もうこんな体だからな……突然なんだよ。年寄りはみんな、突然姿を消す。どっかに連れてかれるんだ。もちろん、年寄りじゃなくても、急にいなくなる奴もいる。だからそういう奴らは病気に襲われたんだろう。不幸な奴らさ」
「でも、どうして連れていかれるって言い切れるんですか。その瞬間を見たりしたんですか」
「いや、直接はない。けどある時、あれは、俺が配管の仕事を任せられてた頃、配管の仕事は老朽化してるとこをくまなく調べるから結構体力いるんだ、それでその才能があった俺はたまたま選ばれてたんだけど、ある日、ある狭い通路を調べるよう言われたんだ。作業員は俺ともう一人。俺たちは狭い通路をずうっと歩いて、配管の劣化を叩いたり図面と照らし合わせたりして調べてたんだ。そりゃあ仕事だからよ、真剣にやってたさ。けどその通路を歩いてた時、手元を見過ぎててそう感じただけかもしれねえが、急に現れたんだ。"年寄りの部屋"ってやつが。その時は怖くて無視したけどよ、黙っているのもむず痒くて、あとで相方に聞いたんだ。けど、そいつは知らないって言うし、たいした興味も示さないんだ。不自然に受け流すわけでもない、あれは本当に興味がない、他人が見た夢の話なんてどうでもいいって顔だった……。でも、そのあとの俺の調査もあって、もうそうとしか思えねえんだ。その部屋に何がある分からんねえし、本当のことを言えば今までの話、ただの俺の予想だけど、でも、それを検証しない奴らよりこっちの方がよっぽどましだろう……?まともなのはどっちだってんだ……」
「じゃあ、まだ確証に至る証拠は揃ってないと……」「正直、自分でも分からなくなってくる。俺はただ隠れるのに成功しているだけなのか、それとも単に俺はすこぶる調子が良くて隠れる必要もないのか……俺は消えるべき異常者か。俺は逃げてる。逃げ続けている。けどよ、どっちにしろこの不快感を晴らさずに死ぬのは御免だ」
男は自分の額を拭いました。そしてその手をすべらすように下ろし、胸に当てました。
「そうですね……」記録者は男から視線を逸らしました。聞きたいことはまだたくさんありましたが、出そうとする言葉は全て、深呼吸に押し込まれてしまいました。
 遠くから地平を揺らすような掛け声の集合がやってきました。
「いちっにっいちっにっ!」
「おい……あいつらかよ……」
「知り合いですか、あの人たち」
「いや、まあ……」
「今こそ団結っ!伝統っ復活!よそ者許すな!」
それは、10数人ぐらいの団体で、みんな腰に帯を巻き、ちくわを差していました。そして白いはちまきをし、それには闘争と書いてありました。
「ちょっと前に、他の工場でいざこざがあったらしいんだ、それで集団防衛ってのが一時期流行語になってよ、それぐらいからだよ。あいつらを見るようになったのは。前はもっと少なかったんだがな」
そいつらはマラソンしているかのように、しかし足踏みを合わせ、近づいてきました。
「いざこざ?」
「ある工場がある工場を丸ごと飲み込んじまったんだってな。あぁ、嫌いなんだよ、ああいう奴ら。観終わってすぐに映画の感想をぺちゃくちゃ話すような……。考えを練るってことができねえんだ。だからいつまで経っても中身が空っぽ」
「飲み込むって……それって比喩ですか」
「俺だって分かんねえよ。この目で見てないんだから。でもあいつらが言うには、物騒なやり方らしい」
「たとえば、武力行使による占領……」
「俺の知り合いの中にも、実はあの集団に参加したらしい奴がいる。急に見なくなったからそうなんだろうな。いや、それか死んだのかも。なあ、病気になったら目が腫れたりするのか?腕がひん曲がったり」
「症状はさまざまですよ。僕も医者じゃないから詳しくないですけど、目が腫れたりなんか珍しくないと思います」
「そうか」
「どうしてです?」
「いや、ただ気になったんだ。怪我した時とかよ、近所の物知りのおっさんのとこで治してもらってたからな。病院ってのは、要はそういうとこなのかな」
「そうですね。でも、病気がないっていうのは本当なんですかね」
「病気の定義が知りたい」
「病っていうのはいくらでもあるんですよ。たとえば、精神疾患なんか、それを病ととるかで意見が分かれる。本当は病なのに隠されているだけで、本質的に病人なんて山ほどいる……」
「それも、今後調べるかだいだな……」
「その、今までの話、病気がどうとかって、みんな不思議に思わないんですよね。仮にそれがチップの作用だったとして、一旦それで話はつけましょう。でもさっき、いや、だいぶ話を戻しますけど、なんでしたっけ……そ、そう、あなたはたしか先生をいじくってどう……とか言った。それの意味がいまいち分からないんですけど……」
「そうか、そりゃそれも分からねえよな……。俺も何から話せばいいのやら……。俺らにとっちゃ当たり前のことでよ、先生なんて」
「僕にとっては不気味でたまりませんよ。急に自分の目の前からいなくなる人がいる。いなくなったのには、適当な理由が当てられる……。あくまで病人とみなされた人のみ、消えていく……」
「……奴らを許すな!今こそ手を取り合うべし!」
「……同調なくして存在なし!一心同体強くあれ!不満があるなら今すぐ出ていけ!」
「証拠がない以上、否定も肯定もできねえな……。鬱陶しい。ちくしょう。ここの話、もっとしてやるから、下に行こう」
「行けるんですか」
「行けねえわけねえだろ」男は被せるように反論し、自嘲気味な笑みを浮かべました。
 記録者たちは階段を上がり、再び屋台の並ぶ廊下に出ました。はちまきを巻いた集団はホットドッグが売られている屋台の前で、砂糖に群がる黒蟻のように騒ぎ立てていました。彼らのせいで廊下は渋滞し、一方で記録者たちの歩く方向は先ほどまでの混雑が抜け通りやすくなっていました。しばらく歩くと、屋台一軒分空いたスペースがあり、見るとそこに1階へ続いていると思われる階段がありました。照明などはなく、完全な暗闇かと思われましたが、男が足を踏み入れた瞬間、階段の端を白い光が走りました。
 1階は階段席がない分、広く感じられました。テーブル席を利用している人も何組かおり、その周囲では何かむっとするような、アルコール的な甘い香りがしました。記録者はそこで、理由は分かりませんが突然はっとしました。この工場に入ってから時計を見ていないと。時の流れそのものは、この男の話を聞いても、工場長や他の連中を見ても自覚していそうだし、時間という概念も把握していそうでしたが、腕時計はおろか、今まで通過したどの空間でも、そのような「時刻を示す」機器は見かけなかったのです。なので今何時で、どれぐらいの時間が経過しているのかが全く分からないのです。体内時計というやつに頼ろうとしても、掴めない、いや、果たしてこの予想で決めつけてよいのか、という躊躇がありました。外の様子が見れないこの構造において、時計がないというのは夢に取り残されたような不安と焦りがあるのです。たしかこの工場に入ったのが夕暮れぐらいでしたので、もう外は真っ暗でしょうか。もう全く分からない。
 記録者たちは、テーブル席の一角に座りました。男は座る瞬間の息遣いに合わせて、そのまま話し始めました。
「……こんな感じだよ、下は」
「お酒とか飲めるんですか」
「あぁ飲めるよ」
「いくらぐらいなんですか……ここに来てからレジ打ちの1人も見てないんですが」
「レジ打ちい?やっぱりどうも話が通じんな」
「こっちの台詞ですよ」
乾いた笑いが起こる。
「発散区自体は滅多に入れるわけじゃないんだ。労働の対価として、然るべき人が、然るべき時に招待される。まあポイントを使えば入れないわけじゃないが、各々生活ってのがあるからな、下手に贅沢はしないさ」
「ポイント、ですか?」
「あぁ、労働したらみんな平等にもらえるよ。努力次第で個人差はあるが」
「じゃあそれで買い物とかを?」
「買い物は労働区」
「税金とか取られますよね……」
「ぜいきん?宝石商か何か?」
「まさか、ないんですか」
「聞いたことねえな……俺が世間知らずなだけかもな、はは……で、なんだ、先生のことだっけか」
「あ、そ、そうです。えっと……ちょっと待ってください」記録者は何から質問しようか、自分で書いたメモを見返しました。するとそこに、また例の声が聞こえてきました。粘度のある、あの声です。
「近くに……」
「いや、遠くだ、そのままじっとしとけ……」
記録者は顔を伏せたまま必死に目を旋回させました。
(この男はずっと隠れて生活しているらしいが、隠れる必要性自体、確証されたものではない……。こっちだって身柄を解放されたわけだし、たとえ奴と鉢合わせても、取るに足らない不愉快さと対峙することになるだけでこうまでして隠れる理由はあるのだろうか……。確かにできればその不愉快とは出会いたくないし、反射的に身を潜めてしまうが、この男となら奴の詭弁も多少なりとも言いくるめられるんじゃ……)
「実はこの近くに、ちょうどいい隠れ場所があんだ」
記録者は俯いたまま答えませんでした。
「おいっ馬鹿っ!聞いてんのかって!こいつ!」
急に男の声が耳元に近づいたので驚いて顔を上げました。
「か、隠れ家でもあるんですか……」
「あぁ、この距離なら走ったらいける。いや、待て、走るのはだめだ、目立ちすぎる。ごく普通に、当たり前のようにいけっ」声を小さくして言いました。
「で、でも正直僕は隠れる必要なんか……」
「俺は隠れねえといけないんだよっ!」
「なら2人で行きましょうよ……」
「いやだめだ……俺はしばらくここから動けねえ。このまま顔を隠すので精一杯だ。先にお前が行け」
「どうして……」
「2人で行っちゃいけねえ気がするんだ。2人で行っちゃ。いいか、これから先、3つの結末がある。奴らが俺たちに構わないのが最善だが、俺らのどっちかが目つけられるっていう可能性もある。だが同時にばれるよりはいい。お前も、俺と一緒にいるとこを見られて変な疑いをかけられるよりましだろ?まあ、たしかに俺だって隠れなくていいなら自由にふらふら歩きたいさ……でもまだ分かんねえだろっ。とにかくいけ!」
「でも、どうしたら……」記録者は迷いを見せましたが、しかしその目はじっと男に向けられていました。ここで彼を信頼するべきか、それとも自分の策を提案してみるか、瀬戸際に立っていたのです。ただ、彼は自分を信じられるほど、責任感を持ち合わせていませんでした。
「あの先の店に、そう、写真がたくさん飾られてる……あの店の中に、道端で頭を抱えている男の写真がある。その写真を押してみろ。結構力入れろよ。なんか注意書きがあるかもしんねえが気にせず押せ。そこなら隠れられる」
「あなたはこのまま……」
「あぁ、心配、するな……!今なら人もいねえ、今すぐ、いくんだ!」
記録者は立ち上がり、言われた通りにしました。その時一瞬、工場長の声がする方を見ましたが、姿は見えませんでした。どこか死角で話していたのでしょう、声は確かに聞こえたのです。
 そこは、店というより、写真の展示をしているテナントのようでした。中は暗いですが、3面の壁にさまざまな大きさの写真が展示されており、でも、全て人物写真でした。それ以外は簡素なつくりで、壁にはたしかに、「これ以上近づかないで下さい」という文言が貼ってありました。そしてたしかに、窓越しに撮られた「頭を抱える男」の写真もありました。記録者はあたりを見渡し誰もいないことを確認すると、ゆっくりと手を添え、力を込めました。足を屈伸させながら踏ん張ると、だんだん壁が奥に押し込まれていきました。大人1人分ぐらい押すと、壁は止まりました。空いたスペースを覗いてみると、右側はただの壁で、左側に階段が見えました。壁から手を離すと、またゆっくりと、定位置に戻ろうと動き出しました。スプリングの仕組みでしょうか。階段は店内から差し込む光のおかげで多少見えるぐらいで、下はずっと暗く、今までのどこよりも、生物的な恐怖を感じました。しかし男の話を聞くためには、とりあえず下ってみるしかないのでした。
 足先に感覚を集中させ、慎重に地面を確かめながら降りていきました。こういう繊細な動作と心理的圧力が、精神を衰弱させるのです。そして何より、その階段は思ったよりもずっと深く、だんだん暗闇が雑音を鳴らし始めました。どれぐらいの時間が経ったか分かりませんが、記録者はようやく一番下に辿り着いたようです。ここで彼は2つの思い違いをしていたことに気がつきました。1つは、懐中電灯の存在です。そうだ、そんなものも持っていた。特に理由はないのですが、むかし道で拾って、手に収まるぐらい小さい割には頼れる光量なので、もしもの時に取っておいたのです。悪い癖の被害者とばかり思っていましたが、まさか本当に使う時がくるとは……。2つ目は男との約束です。たしかに彼は壁を押して中に入れと言いましたが、こんな下まで降りろとは言っていませんでした。下で隠れていた方が安全だと思ったのか……それかそれすらも考えられないほど頭が麻痺していたのか。ただどちらにせよ、記録者はそこで残りの記録を書き始めました。

「ふう、やっと終わった……」
「すごいな……やっぱり。全部覚えてんだもんな」
「いやいや、メモしてますからね。それに……工場長の言う通り、記憶力が上がっているのかも」
「すいませんねさっき……」
(追記:男が階段を降りてきた時、追記としてだいぶ前に挿入しましたが……記録者はその時彼に静かにするよう合図していました)
「いやいいよ……腕、痺れるだろ」
「書いてたら慣れるもんです。丁寧に書こうとすると、僕なんか字が下手だから前腕に力を入れすぎちゃうんです。でもほら、こうやって腕そのものを一本の軸として動かせば変に力まずとも書ける」
「だろうけどよ、よく思いついたな……記録なんて」
「ただ思い立っただけですよ……明確な理由は自分でも分かりません」
「なあ、ちょいと見せてくれよ」
「いや、だからそれは……」
「見ないと分かんねえんだよっ……いろいろ焦ったいよ、あんた……」
「見せたら楽なんでしょうけど、もしかしたら、もっと混乱するかもしれません……」
「いんだよそんなの!見せるために記録してんじゃないのかよっ」
「……いや、だとしたらまだ早いんですよ……まだ。全てを書き上げられていない……それに、ここにいる人に見せたってなんの証明になるんですかっ……持って帰ることが重要なんです」
「あんま言いたくなかったけどよ……やっぱあんたの話、分かりずれえんだよな。だから、さ……分かるだろう?」
記録者はノートをぺらぺらとめくり、考えました。
(こうして読むと、結構書き間違えもあるんだなあ)
「僕がここに来たのは、僕が住んでいた街が消えたからであって、自ら望んだわけじゃないってことをよく考えてほしいですね」
「理解し合うには手っ取り早いだろうよ……」
「ならはっきりさせる必要がありますね。僕が求めているのが何なのか……たしかにここの構造的な話は気になりますよ。でもそれは二次的なものであって、あくまで出発点は帰宅なんですよ」
「はは……帰宅に出発ってか……」
「ふざけないでくださいよ……僕からしてみれば、つまり家が無くなったってことなんですよ。消えたのは財産だけじゃない、家が無くなるってことは僕の安全圏が保証されなくなったんだ」
「んん……うーむ」
その後長い沈黙

 しまった、いつの間にか寝てしまっていました。男は相変わらずの位置で記録者のことを見つめています
「だいぶ寝たな」
「どれぐらいですか……」
「俺がだいぶって思うぐらいだ」
「ちくしょう時計はないのか……」
「焦ってるなあ。慌ててノートを開いたかと思えば……」
「何か変わったことは……」
「ある……」
「何ですか」
「俺が変わった」
「どういうことですか」
「どうだと思う?」
「そんなはぐらかさないでくださいよ。どこか行ってたんですか」
「動いてない」
「じゃあ……」
「頭は動いた」
「頭?」
「知識が増えた」
「知識って……」
「あんた、ほんとに探してんのか?妹のこと」
「やっぱり見たんですかっ……だから寝るんじゃなかった……」
「まあまあ、だいぶ分かったからいいじゃねえか。けどよ、そいつを見るに、もう家とか妹とかに関心なさそうだけどな」
「なにをっ……」記録者は上体を支えていた片手を両手に変え、床を擦りながら右膝を立て、しかし自分がしている行為に何の理由もつけられずに、結局また尻もちをついてしまいました。
「あとはなんだ、文にもなってない言葉の羅列、メモってあれのことか?」
「仕事で使ってたんですよ……たぶんそれもあるから……」
「いやあ、読んでても湧いてこないんだわな……どっちにしろ。なんというか……退屈というか」
「そ、そりゃあまだ完成していなんですし、そもそも公平な記録を目指してるんですから……そのことも書いたはずですよ」
「あぁ書いてあった。書いてあったけどよ、なんかそれも言い訳に聞こえるっていうか」
2つの煙っぽい影をつくる懐中電灯の光は、その影によって絶えず揺さぶられていました。しかし荒波を砕く灯台のように、あるいは際限なき闇に放たれた恒星の導きのように、たしかな暖かみを抱いていました。電池を替えることにします。

 寝ている時に夢を見たので、これも大脳との関係を鑑みて、一応記しておきます……石畳の路地、ただ目に映るのは地面だけで、それ以外には白い靄がかかっていました。そこにふっと、若い女が現れました。黒いキャミソールをまとい、白い太ももをすらりと見せていました。手には透明のグラスを持っており、ブルーベリーソースか分かりませんが、そのようなものが入っていました。視点は俯瞰。しばらくして、男が二人やって来て、女からグラスを受け取ると、受け取った腕を自分たちの股間付近まで下ろしました。こちらの視点では、男たちの背に隠れよく見えませんでしたが、蒸気のけたたましい音と共に、男達は上下に細かく振動し、数秒してそれらは収まりました。するとグラスを持った男はそれを女に返しました。女は受け取りましたが、中身は変わっており、ブルーベリーだけだったはずが、その下に白い液体が加えられていました。分離しかけのヨーグルトのようでしたが、そうでないことは明らかでした。それの正体に気づいた瞬間、視界は曖昧になり、この夢は幕を閉じました。

 記録者はノートを見返しながらふと考えました。工場長の言う、言語と人間の思考の関係……人はアナログから出発し、言語というプロセスを経る……これを考えるのも言語……もっと根源的なものをそのまま昇華させるもの……芸術なんてものがそうだが、ここにそれはあるのだろうか……。

── 了 ──

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