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ジャスミンの香り

こうよう

1,829 字

ノスタルジック・幻想譚

"失われた夏と、記憶の香りが織りなす、儚くも美しい夢幻の物語。"

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 四畳半の部屋のベッドに、僕は一人、横になっていた。木の板の並んでいる天井は汚れていた。ずっと聞こえていた蝉の声も、斜陽のオレンジの光に、いよいよ鳴くことを諦めたらしい。窓からは、紺色の星空が見えはじめていた。僕は薄汚れた皺だらけのベッドの上から、その紺色の空を眺め、ぼんやりと思考を巡らせた。それは昔によく遊んでいた、幼馴染の少女との事だった。夏の風にひらひらさせていた、白いワンピースが、僕の頭の後ろにはっきりと浮かび出した頃、耳の奥で、都会にはいないはずの蜩の鳴き声が聞こえはじめた。
 気がついてみると僕の身体はいつしか、当時の公園にたどり着いていた。目の前にはゆらゆらと揺れるブランコが、甲高い金属の軋む音を響かせている。

「私は夕方が嫌い。別れがあるから。」

 彼女は日に焼けた青色のベンチに腰をおろして、小麦色の脚を交互にぶらぶらさせている。その目の先は、すぐ前にある砂場でも見ているのだろうか。それを僕は立ちながら見下ろしている。彼女の左巻きの黒髪は、小さなツインテールに結ばれていた。

「でも、明日があるじゃないか。」
「明日なんて、本当に来るかわからないよ。あの予言だって──」

 予言というのは、あの誰もが口にしていた世界滅亡の予言だった。結局あれは嘘だった。が、彼女はそれを知らずに、──僕にはなぜかその先が思い出せなかった。もしかすると僕の身体もその日に滅亡していたかも知れなかった。
 僕は彼女の揺れる小麦色の脚を見ていた。膝にはこの間つけたかさぶたが黒々とついていた。少し黄ばんだ白い靴下の先には、子供らしいピンク色のシューズがあった。ふと僕の手に麦わら帽子がある事に気がついた。それは彼女の物だった。すると彼女のジャスミンの香りが僕のまわりを漂いはじめた。

「いや、明日は来るよ。何となく僕にはわかるんだ。」
「ありがとう。」

 彼女はゆっくりこちらを向いて、微笑んだ。傾いた日に照らされた彼女の黒い目はきらきらと揺れていた。僕はその表情に、妙に胸騒ぎを覚えた。まるで胸の中を、映らないテレビの白黒のノイズのような、そんなものが心の中の暗闇を覆った。と同時に、胸の鼓動が激しくなっている事に気がついた。

「さ、帰ろっか。」

 彼女はうさぎが跳び跳ねるように、青いベンチから立ち上がった。彼女の背丈は僕の顎くらいだった。僕は持っていた麦わら帽子をそっと彼女の頭に乗せた。彼女は目を細めながら、そのつばを持って取り上げて、両手で胸に抱えた。そしてブランコを背中に、水色の所々赤錆びた、小さな門の方へ歩みはじめた。その時急に、夏の生暖かい風が木の葉をさらさらと揺らした。

「帰らないの?」

 彼女は後ろを向いたまま、首だけをこちらに向けていた。僕はその背中をぼんやり見つめていた。僕にはなぜか、水色の門も、その横に乱雑に置かれていた植木鉢も、そこに咲いていた黄色いミニ向日葵も、青いベンチでさえ見えなかった。それどころか、彼女を中心にして、そのまわりがまるで映画のスクリーンのように真っ白になっていた。
 ぼおっとしていた僕を不思議がったのか、彼女はいよいよ身体ごとこちらを向いた。

「どうしたの?」
「いや、……」
「あなたも、帰るのが怖い?」

 その声に僕は驚いた。一瞬聞こえた声色は、当時の幼き声ではなかった。それはあの病室の、──はたと気がつくと、彼女はやはり幼い、小麦色に焼けた、胸に麦わら帽子を抱えた、白いワンピース姿だった。
 夕暮れの強い日ざしは、彼女の片顔だけを照らしていた。その丁度影になっている目尻に、妙にきらきらと輝くものが見えた。彼女はまた笑った。その瞬間僕の胸の中は、時が止まったかのように鼓動が鳴り止んだ。蜩の声も、ブランコの甲高い音も、はたと聞こえなくなった。それと共に心惜しい感覚が僕を襲った。目尻にあった輝く物が、つと彼女の頬を伝ったかと思うと、たった一雫だけを残して、彼女の姿がなくなった。
 気づくと僕は四畳半の部屋の汚れた天井を眺めていた。頬に一筋の涙の乾いた感触があった。あれは夕闇の見せた、夢だったのだろうか。僕にはわからなかった。ただ彼女の優しいジャスミンの香りだけが、不思議とそこに残っていた。が、それもやがて、どこからか聞こえてきた風鈴の音に押し消されるように、霞んでなくなっていった。……

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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