精神科入院患者報告書
患者氏名 塩津なぎさ
生年月日 2010年10月20日
要介護の状況 要介護1
住所 〒193-0832 東京都八王子市散田町5丁目40−41
病状の経過 2026年4月9日 当院に救急搬送 重度の鬱病、パニック障害、合併症として虚血性心疾患、心電図において不整脈、低カリウム症を認める 即日入院
重度の幻聴幻視あり 光に興奮するため暗室有する病室配置
飲食拒否、点滴するも強い拒否感示す BMI13.8
疋田医師以外の接触へ強い拒否感示す 不整脈誘発可能性を考え接触非推奨
5月9日時点バイタルサイン 体温:35.6℃ 脈拍:81回/分 血圧:95/50mmHg SpO2:98%
治療方針 心筋梗塞、不整脈防止のため点滴投薬による管理 手術不可能なため緩和ケアも考慮すべき
家族との関係 父親連絡取れず 母親入院許可 病気への理解なし
GAF 22点 R8年5月9日
特記すべき事項 喜怒哀楽の感情誘発は不整脈再発の可能性があるため慎重に行う
上記の通り、入院患者について報告いたします。
令和8年5月9日
病院名 星鵬会堅田記念病院
医師名 疋田佳奈( ひきた かな )
「あ……えっと……せ、せんせー……?なにか、かいてる……の?」
なぎさちゃんがこちらを見ているのに気づかず、ついカルテを書いてしまっていた。
「うん、そだよ〜。なぎさちゃんのことを書いてた!なぎさちゃんが、どうやったら元気になれるかな?って!」
嘘は言ってない。本当に元気になってほしい。笑っていてほしい。それだけに、今の「笑わせてはいけない」、「悲しませてはいけない」、「怒らせてはいけない」、「楽しませてはいけない」状況が心にずしっとのしかかっていた。
「そうなんだ……。あの、せんせー。そのかみ、ほかのひとにみせないで……。」
え、と声を漏らしてしまった。「みせて」と言われるだけだったら対応も簡単だった。でも、まさか「みせないで」だとは。どうしよう。バイタルサインの無機質な音がわずかに響いている。
「あの……かなせんせー……?もしかして、きいちゃだめなことだった…?」
まずい。心配されてる。だいたいこうなったら、次は「だめなことしちゃった」と思って泣いてしまう。だめだ、それは避けなければ。
「あのね、なぎさちゃん。これは『なぎさちゃん』の為の紙だから。許してほしいな〜。お願い!」
言ってて気持ち悪くなる。こんなの、私の母と一緒じゃないか。「あなたのためを思って医者になれって言ってるのよ」。あんな大人にはならないって決めてたのに。結局人間はこうなるのか。努力も何も身を結ばないのか。自己嫌悪が心の底でとぐろを巻いている。
「……わかった」
ああ、くすんだ言葉で無理やり納得させてしまった。六年間の大学でみにつけたのはこういう時の切り抜け方ばかりだった。レポートは遅れ、実習では判断を誤り。なぜ医師になれたかもわからないような人間、それが私だった。いつの間にか膝の上で、親指が人差し指を潰していた。
気づけばかなりなぎさちゃんと接触していた。まずい、医長にクドクド言われてしまう。すぐに他の患者を見にいかなければいけないのはもちろん、「長い間の接触」は間違いなくなぎさちゃんのためにもならなかった。いつ不整脈を起こすかわからない。
「なぎさちゃん、また来るからね!絶対!だから、ちょっと他の患者さん見てくるね〜、また後でね〜」
「だめ!いなくならないで、せんせ、かなせんせー……」
ごめん。本当にごめん。私だって離れたくないよ。一人にさせたくない。あとは病室の表にいる看護師さんたちに任せるしかない。カルテにはああ書いたけど、最低限、というか私がいない間の「つなぎ」はしてもらわなければならない
「せんせー……おいてかないで……」
ぐすっと鼻が鳴る音がした。ああ、ほら泣かせた。「悲しませてはいけない」。自分が書いたくせに守れてないじゃないか。なんて愚かな医師なんだろう。ドアを開けて、表にいた看護師さんに交代を告げた。
「木ノ本さん、牧野さん…すみません、ちょっと状態が悪そうなので管理お願いします」
「ああ、あの子?ちゃんと見ておきます。それにしても、疋田先生……ちゃんと寝てます?疋田先生が倒れたら塩津さんも大変なことになりますからね!しっかりしてくださいよ!」
「ほんとほんと!この前は塩津さんも『疋田先生が来るなら』って言っておとなしくしてもらったんですから!」
「あー、はは…」
乾き切った笑いしか出なかった。それほどに追い詰めているのは誰だ?私だ。私がもっと、他の人と接触するように言えばまた何か違ったのかもしれない。でも、今のあの子は私と自分だけの世界にこもっている。光も音もない世界で。笑みも涙もない世界で。
「じゃ、そろそろ行きますね。よろしくお願いします。」
「できるだけ早く用事済ませてくださいね〜」
作り笑いで頷いて、さっさと足を進めた。早く帰らねば。なぎさちゃんは一人では生きていけない。かと言って誰かがいても生きていけない。なぎさちゃんは「かなせんせー」がいないと生きていけない。だから、足を進めるしかない。
後ろ髪を引かれる感覚は影のように付き纏っていたが、それを振り払わねばならなかった。解雇されては元も子もない。また戻るために、離れる。行くしかなかった。
回診を終え、急いでカルテを持って医長の元へ駆けた。思えば、大学生活6年で走ることはほとんどなかった。医師として運動をするべきということはあっても、自分はほとんど運動していない。医者の不養生、ならぬ医者の不運動。いかんいかん、こんなくだらないことを考えてる暇があるなら足を動かせ。
息がゼエゼエとなる中、なんとか医長の元に辿り着きカルテを渡した。
「ん〜、疋田さん〜。君遅いよ〜。早くって言ったよね〜。また塩津さんのところいたの〜?いくら依存してるからってだめだよ〜?」
……今津新太。医長であり、私の上司だ。いっつもいっつもネチネチネチネチ。もしこの世に法律がないのであれば、このカルテでバシバシと頬をぶっ叩いてやりたいくらいだ。
「ん〜、それでね〜、君忘れてないよね〜。これからオペあるんだよ〜。早く準備しなさいよ〜。」
「はい、できるだけすぐに行います。」
「頼むよ〜。それくらいのことはしてもらわないと、回らないんだから〜。」
「はい、失礼します。」
腹の中では今すぐカルテで殴ってやりたかったが、職を失うわけにもいかないので踵を返すしかなかった。
医長のいるスタッフルームを抜けた途端、牧野さんが走ってこちらに向かってきた。汗をかいており、焦っている。背筋がぞわりとした。なぎさちゃんのことだと、話さないでもわかる。
「疋田先生!なぎさちゃんが、泣いちゃって、バイタル下がって…!」
「行きます!」
カルテという荷物がないおかげか、私は光のように駆け出していた。なぎさちゃんが死んでしまうような気がしたから。
病室にたどり着いて、息を大きく吸って吐く。吸って吐いて、ドアを開けた。
「せんせー……かなせんせー……」
心拍が早くなっている。ご飯も水も食べれないし飲めないのに、消耗させている。泣かせてしまっているのだから、涙を止めねばいけなかった。
でも、オペは少しづつ近づいていた。廊下では場違いみたいにチャイムが流れていた。まずい、早くいかなければ。
なぎさちゃんの目がこちらを見た。頬を拭った指は水の粒を乗せていた。ああ、すごく泣かせている。本当に冗談にならない。今の状況は非常にまずい。
「かなせんせー……おねがい……いかないで……」
無理なお願いだった。ここを断れば他の患者に迷惑がかかる。先約を優先すべきなのは見え切っていることだった。
後ろから牧野先生の声がする。
「塩津さんのバイタルでしたら、こちらで記録して管理します。先生のオペ中はこちらが対応しますが…」
「かなせんせーがいいの!」
そう言って、骨と皮しかない腕を振り回した。見るたびに細くなっている。布団を引っ張り、くるまって引きこもっている。
バイタルの数字は悪化の一途を辿っていた。心拍は82と変わっていないが、血圧は89/47、SpO2は95。チアノーゼを起こしていることは容易に想像できた。
「あの、疋田先生。食事だったらこちらでも摂取させられますので……。」
布団の山がもぞっと動き、くぐもっていた声がさらに震えた。
「たべない!」
何も解決できてない。このままだと塩津さんの状態も悪くなり、先約のオペもできない。連絡用端末が震えた。もう行くしかない。なぎさちゃんを任せるしかなかった。
「絶対帰ってくるからね!手術が終わったら戻ってくるから!」
後ろ髪を引っ張られる思いはここでも心を埋めた。でも行くしかなかった。時間が迫っている。そして足を出そうとして気付いた。本当に後ろ髪を、いや服を引っ張られている。
今にも折れそうな細い指が、力ではなく気力で無理やりしがみついていた。
「だめ、やだ、いかないで……ぜったい……」
引き剥がすしかなかった。木ノ本さん、牧野さんはすでにこちらに対して頷いている。早く行きなさい、の証だった。
ドアを開け、少しの光が病室に差し込む。木ノ本さんの手には鎮痛剤があった。そして、目に入ったのと同時に声が響き渡り、脳髄を刺した。
「いやだ……!!うそつき!!せんせいのばか!!!」
脳髄がじくじくと、「嘘つき」という言葉で私の心を突き刺す。走って振り切ろうとした。それでも、問題は頭の中にあった。振り落とせないまま、消毒の匂いが充満する手術室に入る。患者は一人なんかじゃない、何人もいる。まずは手術に集中しなければ。絶対に、明日はもっとそばにいる。覚悟を決めた。
手術が終わった。もう夜だった。
何時間も集中していたせいで、もう走れなかった。疲労のまま、病棟にふらふらと戻った。汗が流れる。そんなこと、なぎさちゃんの状況と比べればなんでもなかった。
スタッフルームにたどり着き、ドアを開けた。医長が「座れ」のハンドサインをしていた。
ふらつく足でなんとか座り、医長の胸元をじっと見る。顔は見れない、見たくない。
「お疲れ〜。話だけど〜、塩津さんなんだけどね〜。」
話が違う。医長の目元を見た。普段のヘラヘラしている顔とは違う。話し方はこんなのでも真面目な顔だ。
医長は駆けていたメガネを外し、そっと布で拭った。掛け直して言葉を続けた。
「不整脈で一時JCS-300まで状態が下がって〜。投薬で持ち直したけど、まずい状況なんだよね〜。」
ペンでコンコンと机を叩く。横にはさまざまな数字が並んでいたが、腎機能や心機能の数字が異常な数字を叩き出していた。排尿量もわずか。これでは一週間、いやあと何日、一日だって持つかわからない。
「今は意識戻して〜、薬剤で眠らせてるけど〜。このままなら家族を呼ぶことになるね〜。意味はわかるよね〜。」
意味くらいわかる。言われないでも、散々勉強した。死期が近い、という意味なんだろ。それくらい……察していた。目は背けていた。なんと利己的な人間なのだろうと、自分で自分を嘲笑った。
個室の前にふらふらと立つ。ドアをそっと開けた。音も光もない。あるのはなぎさちゃんか私の息の音。そして、無機質に刻み続けるバイタルの音。点滴の数はここ一週間でどんどん増えていった。今日は二つ増えていた。酸素マスクの下の顔は、おでこに薄い皺を寄せていた。
SpO2は92まで下がっていた。気管挿管も検討すべき数字が迫っていた。でも、それに耐えうる体か?体にほとんどエネルギーがない状態で?耐えられるのか?
何を選ぶ?何を捨てる?何をする?何をしない?
ぐるぐるぐるぐると思考が動く中、オペ前と同じように布団が動いた。
「……せ…………んせ……」
息が漏れる音かと聞き間違うほどに、微かな声だった。酸素マスクをつけて、それでも懸命に顔をのぞこうとしている。
何のため?私の顔を見るため。私の顔を見て安心するためだ。
残酷なほどに現実が目の前にあった。わずかな月光で顔はなんとか見える。
そして、見たくもないが見なければならないバイタルサインも見えていた。
心電図は相変わらず不規則だった。正常ではない波形がほとんどで、うまく心臓を震わせられていなかった。
ひゅ、ひゅ、という呼吸音。なぎさちゃんはじっとこちらを見ていた。
夜は更けていく。時間も、止まることなく流れて行く。
手の汗を服でぬぐい、なぎさちゃんに微笑みかけた。
なぎさちゃんが、大きく震えた。
瞳孔が開いた。
手足が大きく痙攣し、目が拳上した。舌が管を押し上げ、大きく体が揺れた。
心電図を見る。
そこに映し出されていたのは、無慈悲なサインカーブだった。
Ventricular Fibrillation。心室細動。致死性不整脈。
放置すれば数分でAsystoleに進行する。心静止。つまり、死。
プルルルル、プルルルル。ピピピピピピ。警告音のオンパレードだった。
腕をまくって、全力で胸骨圧迫を行う。目は何も映し出していない。上を向いたまま、光もないまま。
心電図は好転しない。SpO2も心配だ。酸素を取り込めていなければ、低酸素脳症を起こす。脳障害まで起きれば、多臓器不全に陥り死ぬ。
一秒の行動で何もかも変わる世界だった。
心電図はまだサインカーブを描いていた。
それでも、五分以上胸骨圧迫を続けた。
自分の粗い呼吸音と、警告音が響いている。神はいないのか。神がいるなら、なぎさちゃんを救ってくれ。
「…………う」
声。
声をあげた。
つまりは、心拍の再開を意味する。心電図のアラームはピンコーン、ピンコーンという音に変わっていた。血圧の低下、あるいは心拍数の低下に伴うものだろう。
「……ぐ、くる……し……」
そして、なぎさちゃん痛みに悶え始めた。
今、私はなぎさちゃんを救ったはずだった。なのに、目の前で苦しんでいる。果たして私の判断は本当にあっていたのか?救ったはずだよね?なのに、なんで?
なぎさちゃんが苦しんでいる。涙を流して、苦しんでいる。なのに私は何をしてあげられた?このままならいずれ死ぬ数字が並んでいるこの少女に、私は何ができる?
無能、低脳、ゴミ人間。頭の中が私への罵詈雑言で埋められる。
私は、なぎさちゃんに何ができる?
変わってもやれない。治してもやれない。なら。
モルフィンを打った。
鎮痛剤、麻薬成分配合。強い薬剤で、離脱症状も激しい。この薬は、「終わりの薬」だ。
そんなことはわかっていた。でも、もう苦しませたくない。だから、もうこうするしかなかった。
他の選択肢はあったのだろうが、もう蹴り倒してしまった。
静脈に針がぷすりと刺さり、液体が入っていった様子を見て、私はとんでもないことをしたのだと感じた。
空になったアンプルが、鈍く光ったように思えた。末期がん患者に使うような用量を投与してしまった。
気づけば涙が溢れていた。その涙は、微笑みながらとろんと眠るなぎさちゃんを映し出していた。
苦悶の顔はもうそこにはなかった。あるのはただの、麻薬中毒となり行く、そして死に行く十六歳の少女の顔だった。
アンプルを握る右手はまだ震えていた。防犯カメラは幸いにもこの光景を映していない。まずはカルテを改竄する。アンプルを砕いてトイレに流す。
びっくりするほど冷静な判断だった。そして、それを打ち消すかのように、「取り返しのつかない行為をした」という実感が腹の底を冷やす。
眼球はもう、正しい景色を映していなかった。
アンプルを砕きに、部屋を出る。
普段、後ろ髪を引かれる思いをしていた行動だった。でも、今その原因となる少女は年相応の寝顔をして眠っていた。もう二度と目覚めないかもしれないのに。閉じてある目の内側では、人格は溶けていっているというのに。
アンプルを砕き、トイレに投げ捨てた。これで証拠は無くなった。
ついでに都合を合わせるため、カルテを改竄していく。
「夜間、不整脈を起こしたため治療後オピオイド系鎮静剤投与。投与量は既存の鎮静剤と変化なし。」これまたさらさらと文が思い浮かんだ。
高校卒業前に書いた短冊。「正直なお医者さんになってたくさんの患者を助けたい!」と書いていたはずだった。しかし、今の私はどうだ?
正直?笑える。そんなのかけらもない。自分の欲のまま動いた、愚かで醜い医者だった。
少しずつ外が白んでくる。牧野さんが、木ノ本さんが来る前にさっさと隠滅を進めなければならなかった。
漆黒色の考えが脳を突っ走る中、なぎさちゃんの小指が手に当たった。
微笑みながらむにゃむにゃとするなぎさちゃんの顔。間違いなく初めて見る顔だった。
十六年の人生で、何度こうして微笑んでいられただろうか。
私が行った行為も、この顔を見れば肯定されたような気になる。錯覚なのはいうまでもなかった。でも、それを認識してまともでいられるような人間ではなかった。
医師だからといって頼られる。とはいえ、私も一人の人間だ。もう、こんな生活にも疲れてしまっていたのかもしれない。
ああ、今もなぎさちゃんは微笑んでいる。死を前にした安らかな夢だろうか。これから社会的に死ぬ私と、生命的に死ぬなぎさちゃん。なんと私は愚かなんだろう。
「……ぱぱ……まま……」
目が開いていた。なぎさちゃんは強かった。
焦点が合わないままの目で、こちらを見て、言葉を続けた。
「あのねぇ……ゆめ、みたんだよ……。ぱぱとままがいてね…。でも、いない…。せんせーは、いるよね……?ねえ……だっこ、せんせー…」
ああ、脳が灼かれている。モルフィンで人格が壊れつつある。せん妄も混ざって、三歳の子供のような喋り方になってしまった。ああ、たった一度で、たった一晩でこんなことになってしまった。舌足らずに「せんせー」と呼ぶ声が心臓を握りつぶそうとしてくる。罪の淵が実体を持って浮き上がっていた。
「せんせー、おかおこわいよ?せんせー…なぎさね、せんせーにそばにいてほしいの」
そういって、小さな小さな花が、ようやく花びらを咲かせたかのように笑った。
見れない。純白の、可憐な笑顔を見ることなんてできない。罪に汚れた自分の体の煤が、なぎさちゃんに移ってしまうから。そして、そんな顔を見たら、自分の汚さが露呈して死んでしまいたくなってしまうから。
「せんせー。そっち、むかない。こっち、むいて……。なぎさのかお、みて……」
距離が物理的に詰まる。もう顔を見るしかなかった。
途端、心臓が線香花火かのように跳ねた。
今、この子を私は殺しつつあるんだ。苦しかった。ただ、罪深さで苦しかった。
「えへ、みてくれた。」
花びらが開き切って、満開の白い花。そんな言葉が似合う、なんの汚れもない、ただ無垢な、ただ無垢な笑顔だった。
この笑顔を作った薬が、この笑顔を壊している。因果を形どる紐は、ぐるぐるとなって解けなくなっていった。
「つかまえた。」
いつの間にか、白衣の裾を握られていた。骨ばった手で、離すまいとして。
外はずいぶん明るくなっているようだった。月光はもうどこにもない。その代わりに、かすかに朝食の配膳カートの音がガタゴトガタゴトと続くばかりだった。
世界は何も変わらない。ここで一人の少女が殺されようとしているのに。
世界は何も変わらない。ここで一人の女医が罪に苛まれているというのに。
そして、時間の流れが新たな問題を突きつけていた。
「薬が切れたらどうする?」
薬が切れたら?薬を求めたら?一人で動いたら?体を動かすと、エネルギーを使う。エネルギーがないのに動けば、脈が狂う。昨晩みたいに、VFを起こして、死ぬ。
でもそれも、元はと言えば私が悪い。モルフィンを打った私が悪いんだ。
「せんせー?」
苦しい、心臓が跳ねている。世の中に私の居場所なんてなかった。いや、ここの部屋だけは別なのかもしれないが。
「……なぎさちゃん。私は、絶対になぎさちゃんを守るから。」
嘘っぱち。逆のことをしてるくせに何を言ってんだ。そんな大声が脳を汚していった。
気づけば、なぎさちゃんはぐっすりと眠っていた。
すうすうと、安らかな寝息を立てていて、ぐっすりと眠っていた。
そして私も、しばらく眠っていたようだった。
「おはようございます〜なぎさちゃ〜ん…あれ、先生。朝早くおられちゃったんですね。」
木ノ本さんと牧野さんが病室に入ってきた。
「ああ、おはようございます。私、すっかり寝てたみたいで……。」
「あら、ぐっすり寝れたのはいいことじゃない!にしても、今日はなぎさちゃんもゆっくり寝てるのね!先生がいてくれたおかげかしら?」
「あー、ちょっと薬変えたからかもですね……」
「そんなこと言わないで!先生のおかげですよ〜」
「ははは……。」
本当のことは絶対に言えない。
「そうだ、疋田先生。ちょっと医長から伝えるようにと言われて。」
牧野さんが声をひそめた。
「このあと、なぎさちゃんの治療方針についてのカンファレンスがあるからくるようにね〜、と。」
途端、どくんっと脈が跳ねたのを感じた。察されないようにしなければ。すぐに平静を装い、思考を張り巡らせる。わかるわけない。カルテにはちゃんとオピオイド系鎮痛剤とかいた。まさかモルフィンとは思わないだろう。大丈夫、いける。
「あ、もう時間的にすぐ行かなきゃなんですよ。」
もうちょっと早く言って欲しかった。ささっと鎮痛剤を変える。もちろんモルフィンはもう投与しない。コデインに切り替える。
コデインなら毒性は薄い。もちろん、代謝の1割がモルフィンに変換されるという弱点はあるが、一時凌ぎにはなるだろう。
コデインが一滴垂れ、血管に入っていった。なぎさちゃんの寝息はさらに深くなっていった。
おやすみ、どうかいい夢を。先生、ちょっと行ってくるね。
カンファレンスルーム。医長が奥に座っていた。牧野さんと木ノ本さんの位置を確認し、自分も座った。薬剤師や牧野さんたち看護師も座っていた。
医長がぐるりと見渡してから、口火を切った。
「ん〜、昨日のカルテ見たよ〜。これは〜、厳しいね〜。親御さんへ連絡は〜?」
牧野さんが答えた。
「それが……全く連絡が繋がらなくて」
「ふ〜ん。困ったね〜。」
この状況は自分が招いた。私の中の私が、怒気を孕んだ声で叫んでいた。お前のやっていることは殺人だ。そんなことは私もわかっていた。でも、止められるわけがなかった。苦しくなってほしくなかったから。短冊に書いた「正直な医者」。その言葉が意味するところは、患者に対してではなく、自分に対しての意味だったのかもしれない。
医長がじろりと私の顔を見た。
「疋田先生〜。あと、どのくらいだと思う〜?」
空気が凍りついた。医長の顔も少し引き締まっていた。
どのくらい。つまり、余命。
しかし、この質問は逆に自分にとってはありがたいものでもあった。
「数日くらいかと……。」
沈黙が落ちた。五秒。十秒。十五秒。
医長がファイルを閉じた。
「そうか。では、ご両親への確認は継続しようか〜。じゃあ、緩和ケアについては疋田先生に任せるよ〜。最期まで、よろしくお願いします〜。」
その言葉は、あまりにも私の肩に覆い被さるのには重すぎた。
なぎさちゃんを近くで看取るということだった。
自分の手で殺しつつある少女の、最後を見るということだった。
カンファレンスは終わった。医長は一番最初に書類をまとめ、椅子を引いて出ていった。薬剤師も、看護師も出ていった。木ノ本さんが「体、気をつけなさいね」と呟いて、最後に出ていった。
カンファレンスルームには私一人が、立てずに残されていた。
ほっとした自分を、メスで刺し殺してやりたかった。
殺人鬼、人でなし、自分の中の自分が叫んでいた。もう動けるわけがなかった。しかし、動けなかったとしても動くしかなかった。動かねばバレてしまう。
ふらつきながら廊下を歩いた。患者の声が漏れて聞こえる。それは五メートルの距離にあって、五光年の遠さにあった。
病室のドアを開けた。
なぎさちゃんは、歯を食いしばって体を掻きむしっていた。
「……っ、ぅ……」
脂汗が滲み、腕が震えていた。
無いエネルギーを振り絞っていた。脈は百を超えていた。
離脱症状だった。明らかに、コデインが切れていた。
「……せ、んせぇ……たす……けて……」
形容し難い、骨を蟻が這うような痛みを受けて、小さな体が震えていた。
トラマドールを投与することにした。
コデインより強い薬だった。もう、モルフィンを投与した以上これも気休めにしかならなかったが。
強い薬を使うということは、つまりなぎさちゃんを死に追いやっている、いや、死という大きな底なし穴に押し込んでいるということだった。
そんなことはわかってる。わかっていても、手は止まらなかった。
トラマドールを投与して、数十秒。
「……ぁ。」
なぎさちゃんの体の動きが止まり、呼吸が穏やかになり、脈が遅くなる。
ベッドに倒れ込み、焦点が合わず、ハイライトがどこかにいってしまった目で天井を見つめる。
枯れ枝のような腕を上に伸ばして、落とした。
「……ぁはは。おほしさま、きらきら……」
それは、あまりにも甘美で残酷な人格崩壊。幻視と精神退行だった。
「ねぇ?せんせー?きれいねぇ、ねぇ?」
血圧はどんどんと下がっていっていた。
ああ、死ぬな。ぼんやりと、星が見えない目で天井のシミを眺めていた。
「……ぁ!ながれぼし!ねぇ、せんせーねぇ?なぎさねぇ、せんせーと、いっしょを、おねがいしたんだよぉ。」
その瞬間は一瞬だった。
糸が切れる音でもなかった。
スイッチが押される音でもなかった。
ただ、水が当然のように川下のように流れるかのようだった。
死のう。
一緒に死のうと決めた。
もう無理だった。これ以上生きていても、私の中の私に殺されるか、社会の人間に殺されるだけだった。なぎさちゃんの家族に責められ、訴えられ、収監され、ゴミみたいな人生が待っているだけだ。じゃあもういい。それならいっそ死んでやる。
なぎさちゃんは、まるで出鱈目で、リズムも何もない鼻歌を奏でていた。
気づけば、私はなぎさちゃんの頭を撫でていた。
なぎさちゃんは時折何かを見ては「ねぇ?せんせー?」と言って笑っていた。そして眠り、起きては幻覚を見ていた。
そんなことを繰り返し、気づけば夕方だった。
「ねぇ?せんせー?」
そう言った目は、ハイライトこそなくても、私のことだけを見つめているのだとすぐにわかった。
そして、舌足らずな口でなぎさちゃんは続けて言った。
「なぎさ、もうしぬんでしょ?」
空気が凍った。
そして、私の体が勝手に震えていた。
「……どうして、そう思うの?」
気づかれていた。自分の息がどんどんと浅くなっていた。もはや、取り繕う気力も全くなかった。
「わかるから。」
舌足らずで、甘くて、透明で透き通った声だった。
「ねぇ?せんせー?しぬの、こわくないよ。せんせーがいるから。ねぇ?せんせー?」
ああ、今言いたいことを理解した。もう、このあとに続く言葉は決まっていた。断るつもりもひとつもなかった。
「……せんせーも、いっしょに。ねぇ?」
頷くより、涙が布団に落ちるのが早かった。
返事より、嗚咽が漏れ出てくのが早かった。
「あーあ。ないちゃった。」
なぎさちゃんの目尻にも涙があった。それでも、まだ笑っていた。
「ねぇ?て、にぎって。さいごまで、ねぇ?」
「うん、絶対離さないよ。絶対。」
「ぜったい!」
涙はそこにはなかった。ただ笑顔だけがあった。
ポケットには、静脈注射用のカリウムのアンプルがあった。
「じゃあ、なぎさちゃん。行こっか。」
「うん!」
カッターも、念のため持っていた。なぜかはわからないが、勝手にポケットに入れていた。
幸か不幸か、これで一緒のタイミングで死ぬ準備ができた。
私は、そっとなぎさちゃんのお布団に入った。そしてなぎさちゃんの体を持ち上げ、そっと抱きしめた。
ふわっとなぎさちゃんの匂いが鼻に入っていた。最期の匂いとしては最上の、可愛らしい匂いだった。
ぷつっという音。点滴が外れた。手首に真紅の珠玉が浮かぶ。痛みはもうなさそうだった。
そして自分の手首に、急速カリウム注射を行った。高カリウム症は、奇遇にもなぎさちゃんと同じ致死性不整脈を起こす。これで一緒だった。
「あかい。」
なぎさちゃんは、そう呟いて、私の胸に頭を寄せた。
同じ布団の中、二人で最期の数分が過ぎていった。
目を閉じても、ずっと手は離されなかった。
なぎさちゃんの呼吸がどんどんと浅く、ゆっくりとなっていった。
心電図のアラームが遠くから響いているような気になったが、もう、それに気づいても何もできない。
私も死ぬのだから。なぎさちゃんも死ぬのだから。
最後に、小さく、本当に小さく、笑って。
「ありがと、せんせー。」
それきり、もう喋ることはなかった。
二人は動かなくなった。
18時39分。
全く同時に、二人の魂は、天へと帰っていった。
外は、どこまでもどこまでも続く、美しい紺色の空だった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。