*冬*
五月女凪が毎日の日課に夜中の散歩を続けているのは、昔、家族が寝静まっている時に一人だけ眠れなくて、思いがけず飛び出した真夜中の外の空気が気持ちよかったからとか、そういう詩人めいたきっかけではなく、単に物心ついた頃からうまく眠れた試しがないからである。
正確には寝ているのだろうが、凪の中では寝るというより、いつの間にか意識を失っている感覚に近い。そしていつの間にか目覚め、いつの間にか、体内のリズムが整っている。
寝る時間が少なくて済むから、一日が長く感じて得かもしれないと、自分で思ってみようとしても、実際、起きている時間が長いとヒマでヒマでしょうがない。あまりにヒマだから、むしろ苦しい。贅沢な悩みだ。凪もそれは自覚しているから、夜中に散歩しているんですなんて、わざわざ人に話さない。誰も知る必要のない、個人の趣味の時間だ。
ふう、と息を吐き出せば、冷え切った深夜の大気と一緒に、自分の二酸化炭素が上空に消えていく。アパートの古ぼけたエントランスから出てすぐにこの寒さは、さすがに冬の訪れを意識せざるをえなかった。
今日は自転車を使わずに、歩きで一人の時間を楽しむ。合わせて音楽も静かなメロディー重視のプレイリストを選択した。イヤホンも少々高額の、防音性が優れた日本製。コードレスは一回購入してみて、駅のホームに落としたという典型的な日本人の失態をやらかしたため、有線イヤホンの支持者である。
凪のアパートの近くには、遊歩道を挟んで、それなりに大きな道路がある。
車の通りはさほど激しくない。運送業者のルートに入っていないためか、トラックなどの大型車も都心ほどは見かけない。行き交うのは一般乗用車が大半で、だから凪は、その道路を進んだ先にある、幅が広めの歩道橋をわざわざ渡り歩く。それから向こう側の道に着いたY公園へ行くのが、毎日のルーティーンとなっている。
凪は歩道橋を渡るのが好きだ。
そう発言をしたら、変わった趣味をお持ちですねと返答されるのがわかっているため、何も感じていないようにクールな顔で通り過ぎるけれど、少しだけ少年心が弾む。
凪はわくわくしている。
ここを渡る時。段差の広い階段に足をかける時。まばらに通る夜の自動車のヘッドライトを上から見下ろし、反対側の階段に行き着いて、最後の一段を下りる時。
凪はお目当ての対象人物を見つける。
その人は、真夜中の公園にいつも現れるのだ。
(今日も俺より先に着いてる)
間隔のおかれた常夜灯に照らされて、Y公園の広場は、まるで見知らぬステージのように妖しく不思議な空間と化している。
昼間にも時々、ここに吸い寄せられる者を見かけるけれど、明け方にも近い時間帯にまで出没する輩は、凪の知る限り彼女一人しかいない。
(女の人が真っ暗な公園で一人きり……。日本じゃなかったら殺されてるな。まあ、俺には関係ねえけど)
凪はおもしろ半分で、一心不乱に身体を動かす彼女の、真剣な表情を盗み見る。
年齢は自分と近いか、あるいは年下かもしれない。暗くてよくわからないが、上体のキレと全身からあふれるフレッシュなエネルギーが、彼女を二十歳そこそこの若者だと語っているように取られた。
凪はそそくさと、彼女の姿を一望できる特等席に向かった。自販機が数台設置されてある、常夜灯の近くの長ベンチだ。
これ見よがしに音を立てて飲み物を購入し、ベンチのそばに立って、半分ほど中身を飲み干す。
相手もこちらの存在に気づいているのだろう。あからさまに不審者を見るような視線を感じる時があった。
彼女の踊っているダンスのジャンルは、凪にはよくわからなかった。
ただ、動きは軽やかだなと思った。
月並みな言葉で表すなら、重力を感じさせないとか、そういう「ダンスのうまい人」に当てはめられるのではないかと、凪は考えていた。
しょせん自分は無知だが。
気が済むまで品定めをして、凪は、飲み干した缶をゴミ箱に捨てた。
*
Y公園は、知る人には知られている「穴場」らしい。
敷地が広く、一歩中に入れば奥の方に円形のだだっ広い自由スペースがある。周りは木々の植え込みなど、視界を外から遮るもので囲われており、外界の音が聞こえにくくなっている。情報に早い者がさっそく口コミでも広めたのだろう。休日には、Y公園はアマチュアダンサーや役者の卵たちの格好の練習場所とされていたようだ。
もちろん、場所の確保も戦いだ。いかに有利な練習時間と邪魔されないスペースを獲得できるかが、夢を追う者たちの力試しなのだろう。
つまり、夜も更けた頃に身体を動かす彼女は、いうなれば、場所取り合戦に負けたともいえる。
「難儀なものだなあ」
「五月女が難しい言葉を使ってる」
凪がひとりごとをつぶやくと同時に、バカにしたような視線が横からぶつかってきた。同僚である。
「だって夜から朝までずっと動いててさ。いつ休んでんだろう」
「昼に寝てるんじゃないの」
「うーん、どうなんだろうなあ」
商品の陳列棚をチェックしながら、最近ハマっている趣味を同僚に語る。悪趣味な男だと、同僚はますますバカにする視線を投げる。
客の応対を終えた後、あんたはさー、と小言を言われる。
「冷めてるし、意地悪だし、どうしようもないし」
言われた凪は、毎回くり返される文句を右から左に聞き流しながら、本社から押しつけられた売れ残りの商品をどうさばくか、考え始める。
(何か雰囲気変わった?)
数日後、いつも通りに観察を続ける凪の目に、今日の彼女は身体の動かし方が違って見えた。
何がどう違うのか、うまく説明できない。凪は踊りの素人だ。専門の知識はない。けれど彼女の佇まいが、全身が、何かをひどく糾弾しているように感じられた。
その分、踊りに力強さは出た。しなやかだった手の振りは決めるべきポジションで決められるようになってきたし、足さばきなどアスリートのように雄々しく、格闘技の型を見ているようだ。
(泣けるねえ、技術を身につける努力は)
興味半分、冷やかし半分で、凪は彼女の動きを逐一採点し始める。
四肢の伸ばし方が綺麗だ。初めて見た時から思っていたが、音感が潜在的に備わっているのだろう。振りがずれることがまずない。そして動きが早い。アップテンポの曲にも難なくついて行ってる。位置移動が正確だ。柔軟体操もきちんと続けているのだろう。素人が簡単に手を出せないポージングや、バランスのとり方が難しいサビの身体使いも見事だ。隙のない美しさというべきか。見る人に完璧なダンスナンバーを魅せつけてやるという気概が、ビリビリと伝わってきた。
痛いと感じるほどの視線の強さだ。
いっそ焼かれてしまいそうなくらい。
(圧が強いタイプのダンサーなんだなあ)
力強さを売りにする方針で行くのだろうか。韓国で流行している「ガールクラッシュ」のイメージを自分に寄せたい気もあるのかもしれない。それならば主戦場はK‐POPの分野になるが。
こちらに向かってくる圧が、どんどん強くなる。
(……ん?)
彼女が踊りをやめて、凪のいるベンチへ歩いてきていた。
大股で、ずんずん進んでいく。
射貫くような目で、凪を真正面に見据えている。
(え、やられる? 殴られる?)
凪は途端に後ずさり始める。ベンチに座っているため逃げ場がない。あたふたとしているうちに相手は目と鼻の先まで距離を縮めてきている。
「いや、あの、違いますよ。ダンスうまいなあーって思っただけで。ストーカーじゃないですよ。社会人です。立派なフリーターです」
凪が言い訳をくり出すごとに彼女の瞳は鋭くなっていく。
(まずい。誰か助けてくれ)
「あの、本当すみません。警察だけは呼ばないでください。不審者じゃないので、不審者じゃないので」
「どうでしたか」
「はい?」
「私のダンス、どうでしたか?」
言われている意味がわからなくて、凪は呆けた。動揺している自分の顔はさぞかし間抜け面だろう。いつもそそくさと逃げ回っていたツケがここにて回ってきたのか。
返す言葉が見つからず、凪はしばらく挙動不審に目を泳がせた。
「ずっと見てたんですよね? 客観的に見て、私のダンスに直した方がいいところ、ありますか」
「いや、俺、素人だし……」
「意見を聞きたいです」
人の話を聞け、と思わず言い返しそうになるのをぐっとこらえ、凪は何とか適切な表現を探す。
「直すところっていうか、変わったなあっていうか」
「どこが変わったと思いましたか」
「ええと」
落ち着け、下手なことを言ったら逆上されるぞ。特にこういうタイプはそれとなく言葉遣いを濁した方が後腐れなく終わるもんだ。
長年アルバイトを渡り歩いてきた勘が、さわらぬ神に祟りなしと脳みそに警告していた。
適当なこと言って早く逃げろ。
「何に対してそんなに怒ってんの?」
沈黙が下りた。
相手の時間が、完全に止まっていた。目を見開いたまま、そこから微動だにせず突っ立っている。
凪がびくびくと反応をうかがっているうちに、彼女は顎に手を当て、眉間にしわを寄せ始めた。
「いや、こんな素人の意見気にしないで、芸術性のままに弾けて踊った方がいいっすよ」
「いえ、参考になりました」
彼女はきりっとした顔で凪を見つめた。
「せっかくなので、これからもここに来て私のダンスを見てくれませんか」
非常事態になった。
どうしていいかわからず、余計に混乱する。
「……どれくらい?」
「できれば毎日」
(何でこうなるんだよ)
凪は内心、舌打ちしたくなる心を懸命に抑えつけていた。
「毎日外に出なきゃなんねえの……?」
「はい」
相手の瞳は爛々としていた。獲物を見つけて狩猟本能が刺激される肉食動物のようだ。
「私の観客になってください」
数秒、沈黙せざるをえなかった。
蛇に睨まれた蛙のようだ。自分って小動物だったのか。ずっとハンターだと思っていたが。
「蝶野まゆといいます」
「はあ」
「名前を教えてください」
「俺?」
「私も名乗ったので」
教えろ、とばかりに蝶野まゆは強い視線で訴えた。
「……五月女凪です」
しどろもどろになりながら、凪は内心、なんて面倒な事態になったんだと嘆いていた。まさかこんな巻き込まれ事故を食らうとは思わなかった。
そう思っているうちに、蝶野まゆは勢いよく頭を下げる。
「お願いします。私のダンスに率直な意見をください」
「だから俺、素人なんだって」
「そういう人が必要なんです」
引き下がらねえな、こいつ。
凪はますます面倒なことになったと苦虫を噛む。それを了承と捉えたのか、蝶野まゆはスポーツ用のジャージのポケットからスマホを取り出した。
今度は連絡先の交換か。
真摯な姿勢なのは褒められるべきところだが、相手のあまりにも必死な態度に、凪は少々面食らっていた。しかしそれを伝えることもできず、凪はしかたなく自分もスマホを開いた。
*
「ねえ、俺、告白されちゃった」
「告白じゃねえだろ。通報だろ」
昼のピークを過ぎた店内に、客の数はまばらだ。在庫の補充を確認する凪に、ピンチヒッターのメンバーがイライラと答える。担当じゃない曜日に呼び出されて機嫌が悪いのだ。凪はかまわず話しかける。
「動画けっこう送られてくる。夢に向かってがんばってるんだってさ。プロポーションもいいし、才能あると思わない?」
「女子高生に手出すクソ野郎じゃん」
「ちがう、ちがう。女子大生。二十歳。ギリギリセーフ」
「お前と付き合って何が楽しいんだか」
「たとえば、さ。悩んでいる時に話をひたすら聞くっていう才能がある。俺は」
「ふーん。てか、就職どうすんの?」
「あと一年踏ん張るって」
「ふーん。みんな何かになりたいのかねえ」
同僚はぽつりと言って、奥のカウンターに引っ込む。凪はレジ棚の釣り銭を確認する。空から金が降ってくればいいのになあと妄想しながら、この日の仕事を終えた。
「まゆの踊ってるジャンルって何?」
恋人を自宅へ送る帰り道、凪は聞いた。まゆのしなやかな手足を毎日鑑賞しているわりに、自分は無知であるのをそれとなく気にし出した頃だった。
「うーん、凪はあまりダンスについて知り過ぎることないよ。私、博識家きらいなの。凪は頭でっかちにならないで」
少しつり気味に上がった目もと、よく整えられて綺麗な体裁を保った眉、口調からにじみ出る溌剌とした声が、まゆの手垢のついていない若さを強調していた。
「俺はずっと素人でいいの?」
「そうそう。私のお客さんだから。私だけの」
まゆは満足そうに、こちらに腕を絡めてくる。彼氏としての優越感を感じるとともに、ある種のしこりのようなものが凪の心に巣くう。
(いろいろと、憤ってるんだろうな。自分にも人にも)
横断歩道を渡りながら、まゆがこちらをじっと見上げているのに気づいていた。
「凪こそ、いつも何飲んでんの?」
「ああ、あそこの自販機でしか売ってないマイナーな飲み物」
「レアもの?」
「そう、売れ筋じゃなくて一点もの。みんなの口には合わないんだよなー」
「私の口にも合わない?」
「まゆには難しいだろうなあ」
ふうんと言ったきり、まゆは会話をやめた。
信号機が点滅する。小走りで歩道を渡り終え、何となく話を続けるのも気だるい感じがした。
まゆの手が腕から指先に絡み始めていた。
何となくそれっぽい行為をする空気になったのを察知した凪は、恋人の頭を自分の方に引き寄せた。
鼻筋にそっと唇をのせた後、ゆっくりと下って、口にたどり着いた。
数秒、柔らかな時間を楽しんだ。
幸せな瞬間が自分にはあった。
甘えられる異性に思いきり甘えて、最後にとんでもない奈落の底まで突き落とされたいという劣情。立ち上がれなくなるくらい倒れ込んで、溺れてすがりつきたいという、消し炭のような欲望が。
常に自分の内に眠る動機のままに生きてきたつもりだ。これからもずっと遊ばれて、受け入れられて、そして五月女凪という形を溶かして分解され続けるだろう。理念も概念もいらなくなるほど、這いつくばりたかった。
口を離すと、まゆの瞳にいつにも増して暗い陰が差していた。
「……まゆ?」
「私はおかしい?」
まゆの瞳は何かに揺らめいていた。
熱いものを感じた。火。自分が付き合う恋人はいつも何かに燃えていた。火だと思った。自分自身へ向けるものもいれば、社会に向かっているものもあった。それは形容しがたい感情だった。まゆの中から身体を超えて噴き出しているその様が、凪にはわかっていた。
「もう一度言うけど、まゆは何に怒ってるの?」
恋人は再び口をつぐんでしまった。
「現状? まゆは踊ることで何を伝えたいの」
ひりっとした感覚にふれた。
ああ、苦手だな。
相手の核心をつく時にあふれ出る殺伐とした緊張感が、凪は苦手だった。そのくせそこを無自覚につくのは誰よりもうまい。
「多分ね」
壊そうかな、と思った。
「合ってないんだと思うよ」
冷静に出した声は低い響きを伴っていた。
「まゆのやりたいことと、目指すべき方向性が」
相手が目を見開く。
「私にダンスは向いてないってこと?」
「違う。方向性って言っただろ。ポップなことやってるじゃん、今。でも周りがお前に求めているのは、それじゃない。お前の笑顔は怖い。笑いながら、美しい顔で踊るお前がすごく怖いよ」
きっと自覚があるのだろう。まゆの瞳が揺らいでいた。不安そうに交差する互いの視線。彼女の目に自分の無表情な顔が映り込んでいる。
「まゆは知ってるはずだよ」
掴まれている腕が痛い。きつく指を食い込まれている。
「今のままじゃ飛べないってこと」
まゆは押し黙った。
この子は、本当は気づいているのではないか。自分が彼氏に求めているものと、凪が自分のどこを見ているのかという視点に。
「まゆは俺にどうしてほしいの」
「……私は」
「まゆの理想の通りに生きてあげたいよ。ああしてって言われたら、いくらでも叶えるし、何も知らないファンでいてほしいのなら、ずっとそうしててあげる」
「私は」
言葉が途切れた。
重苦しい空気が流れる。
時間だけが無常に過ぎていく。
「何がしたいの」
凪は尋ねた。
まゆは言葉を失っていた。
この子の中に何が眠っているのか、何にわだかまり、何に心動かされ、何を手放せるのか、凪は指し示すことをずっとためらっていた。
凪の方もわかっていたのだ。
まゆは凪を心のよりどころにしている。まゆが満たされれば、自分たちの関係も終わることを。
まゆは夢が叶えば旅立てばいい。けれど凪は空っぽだ。凪が何かで満たされることは、凪自身を慰めるものは、ないのだ。凪に自分を説明できるものは備わってないのだ。
強いて言うなら、それは女か。
凪は女に――異性に、すべてを求めていた。
ずっと誰にも伝えていないことがあった。
凪は、子どもの頃から、真夜中に外出していた。
保育園から家に帰る時。小学校から家に帰る時。
凪は一人だった。
両親はいる。凪を送り迎えし、食事を作り、寝床を提供していた。
けれど凪は、一人だった。
凪は、二十五年間生きて、自我が芽生え始めた時期からずっと、泣いたことが一度もなかった。
泣いても誰も自分のもとには来ないことを、知っていたからだ。
凪の両親は、赤子の凪を――凪自身にその記憶はすでにないけれど――ベビーベッドに置いておいた。ぐずる凪を、あやそうとしなかった。凪が泣き止むまで、どんなに大声で訴えても、両親は凪に近づこうとしなかった。凪がやがて、涙を流すのは無駄なことだと悟るまで、黙り続けた。
家には静寂が流れていた。他愛ない話や、世間で流行っているもの、それらを共有する秘密の「五月女家」としての意識のつながりが、なかった。不気味な静けさだけが凪の育った家庭を示唆していた。
その奇妙な冷たさは、ある日突然、終わった。
凪が小学校を卒業し、地元の中学に進学する頃だった。
両親が、凪の誕生日にケーキを用意した。
「家族らしいことをしよう」と、二人は、それまでの互いの張りつめた空気感が嘘のように、仲良くなり出した。
凪にほしいものを買い与えるようになった。スマホがほしいと言えばすぐに契約し、ゲームがしたいと言えば専用の機器を探し出し、小遣いを上げろと言うと、額は二、三割増しになった。
十五歳になる頃、両親からもらえる金額が月四万を超えた時――凪は、ねだるのをやめた。
おそらく、あの不思議な冷え切った家は、二人の不仲が原因だろう。親は共働きだ。仕事のことや、互いの心の距離、育児ノイローゼの問題もあったのだろう。凪は自分の家族を責めたりはしなかった。二人も人間だ。追いつめられている時、人は自分が情を失っている事実に気づかない。
誰かに抱きしめられたかった。
その対象がなぜ、女になるのか。
父親でもよかったのに。
求めているのは、なぜ、母親だったのだろう。
まゆが自分に応えてくれない理由は、どこにあるのか。
知り合った女たちは、どうしてみんな、離れていくのか。
凪にはわからない。
凪は空っぽだからだ。
「もう、いい」
まゆの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「凪にはもう何も求めない」
掴まれている腕からまゆの力が抜けていく。
恋人の心が、自分の懐からすり抜けていく気配がした。
「わかった。じゃあ最後に言っておくけど」
凪はわざとらしくため息をつき、冷徹な目を向けてやった。
「まゆ自身の、”ダンスを好きな理由”を見つけられない限り、まゆはずっとそのままだよ」
まゆは返答せず、凪から目をそらした。凪の手を振り払い、怒りをあらわに立ち去った。いっそ前につんのめりそうになるほど速く、まゆは後ろを振り返らずに家路への道を突き進んでいった。
*早春*
まゆのSNSに一種の兆しを感じ始めたのは、冬の終わりに差し迫った季節のことだった。
その頃、凪は店舗先でも異動が決まって、交通の便が少々悪い場所へ配属されていた。まゆのダンス練習を観察し続けられていたY公園へ行くのもままならず、それなりに忙しく、気だるい毎日のサイクルに戻った。しばらくぶりの平穏さが心地よかった凪の目に、まゆの個人動画の再生回数の回り方が、いつもと違って見えた。
今までなら、ある程度の数字を突破するのに一定数の時間を要していた「壁」が、少しずつ薄くなってきている気がしたのだ。
徐々にまゆのファンがついている。
凪は確信した。
だがそう思ったところで、あれ以来まゆとは一度も連絡を取っていない。ほぼ関係は途絶えている。もはや自分と彼女をつなぐ糸は切れているのかもしれない。凪はほとんどあきらめていた。
今さら何か言ったところで。
凪は動画サイトを閉じ、出勤の準備を始めた。
「彼女と別れたん?」
異動先でさっそく仲良くなったメンバーと休憩時間の談笑をし、相手から痛い言葉をかけられ、凪はどきりとした。
「えー、自然消滅かなあ」
視線を泳がせて半笑いを浮かべる。
「あんたから連絡してやったら?」
「うーん、気分が乗らなくて」
「うわ、サイテー」
メンバーの新田は眉をひそめ、女たらしは困るわーと小言をくり返す。
「あいつの進む道には将来性が感じられないんだよ。次は堅い女を捕まえないと」
「誰かー。ここにクズ男がいまーす」
新田は大仰に息を吐き、自作の弁当を広げて箸を動かす。ウインナーをはさみ、凪のカップ麺にポイッと放り投げる。
「あげる。私からの慰めとして。栄養ないでしょ、その量じゃ」
「何だよそれー」
新田は凪の異論にかまわず、ほうれん草のひたし、卵焼き、プチトマトなどを次々に放る。凪は大人しく受け取って、麺と一緒に口に入れる。
「俺がかわいそうなんじゃなくて、俺に遊ばれた蝶野まゆさんがかわいそうなんですよ」
得意げに笑う凪を見て、新田は若干深刻に表情を落とした。
「溺れてるのは、凪だと思うけどなあ」
「まさか」
凪は一笑する。新田がこちらを見ている。
「悪趣味なストーキングしてたら、まゆちゃんから声をかけられたんだよね?」
「おう」
「まゆちゃんのどこに惹かれて、付き合ったの?」
「いや、向こうから告白された。これ俺の自慢なんだけど、自分から行ったことないのよ。絶対相手に惚れられるの。みんなそうだったし」
いったん間が空き、次に新田の台詞が降ってきた。
「たぶん、あんたが哀れだからじゃない?」
「…………は?」
凪は鋭い目で凄んでみせた。関係性ができあがってる新田の前では効果などないが、たやすく「哀れ」と言われて受け入れるほど、自分は落ちぶれてないと凪自身思っていた。
新田は凪のにらみを正面から受け止める。そして続けた。
「女は、あんたを見ると愛情を与えたくなっちゃうのよ。母性っていうか、慈愛の心っていうか。この人孤独で震えてるから、上着くらいかけてあげるかなあ、みたいな感情だと思う。女は孤独を読み取るのがうまいから」
へえ、と凪は淡白な返事をした。新田から分けられたウインナーを頬張り、締めのスープを半分ほど飲む。インスタントの安っぽい味が、腹にしみた。
「対してあんたは、受け入れてるふりして、求めてる。先にまゆちゃんに恋したのは凪の方だよ」
「何で断言できるのさ」
だって、と新田は言いかけ、口をつぐんだ。数秒気まずい沈黙が流れる。
「怒らないから言えよ」
「えー、じゃあ言うけどぉ。――死んでるじゃん。今のあんた」
「もとからこういう顔だっつの」
「最近ますます干上がった男みたいに見えるよ」
「人を魚に例えるな」
言葉の応酬をしばらく交わした後、休憩時間の終了を知らせるタイマーが鳴った。
さて、仕事仕事、と新田は逃げるように席を立ち、さっさと持ち場へ戻っていった。凪も立ち上がる。
最初から、心なんて死んでるし。
流されるのが性に合っていた。木枯らしに吹かれ巻き上がる落ち葉のかたまりのように、何も逆らわず動かされず、時代の潮流に押されるまま生きるのが好きだった。
(だってそっちの方が楽しくない?)
なぜみんな抵抗するのだろう。上へ行こうとするのだろう。ここではないどこかへ、居場所を探しに出かけるのだろう。
俺にはわからない。周りの意思が。
凪はレジのカウンターに立ち、事務作業に集中した。
足がY公園の方角へ向かっているのは自覚していた。
新田にかけられた言葉を反芻しているうちに、凪は知らずと電車に飛び乗っていた。各駅停車、青梅行き。
吊り革に掴まる。窓越しに、高速で流れ去る民家が見える。一つ一つの家庭に、それぞれの家族が帰って、食事をとって眠りについて、朝になれば家を出ていく。それが当たり前のようにくり返され、これからもくり返されていくと信じて疑わない。
胸の奥がきゅっとなる。
自分が何を欲しがっているのか。
渇望しているものを自覚してないほど子どもではなかった。けれど手を伸ばせる容易さでもないことも、充分承知していた。
外の景色はだんだん中規模のビルやショッピングセンターに移り変わっていく。目的地が近づいている。行きたくないのに、行きたいと望んでいる。
出会わなければよかったとさえ感じていた。
蝶野まゆを、知りたくなかった。
電車は駅に到着する。
懐かしい街並みと、どうにも垢抜けないホームの外観。
凪は足早に階段を下りる。エスカレーターを使うのもじれったかった。
Y公園には先客が何名もいた。知らない間に有名スポットになったようだ。夜の初めの時間帯だからか、あの時散歩をしていた季節柄、たまたま空いていただけだったのか。
数人で台詞の掛け合いを練習する役者の卵たち。敷地内をジョギングするランナー。ブレイクダンスを習得しようと励む若者。夢を追う人間たちで満ちたY公園の、奥の方の窪まった場所――まるでステージのように見える広場だ――そこに、彼女を見つけた。
初めて会った時と変わらない、強くしなやかな踊り。圧倒的なリズム感を見せつけるような身のこなし。自身の生きてきた道程を誇りに思う者だけが持つ、エネルギッシュな魅力があふれていた。
あの頃の、怒りに任せた動きではなかった。
美しかった。
凪は、一歩ずつ近づいていく。
まゆがこちらに気づく。
表情を硬くさせる彼女に、努めて穏やかな口調になるよう、話しかける。
「踊ってたんだ。……まだ」
「うん」
まゆはこくりとうなずいた。
本当は、お前の動画も欠かさずチェックして、見守っていたんだよ、なんて台詞は言わない。自分が彼女の立場だったら、そんな薄気味悪い行為をする男など願い下げだ。
凪とまゆの間に、沈黙が下りる。
そのまま幾秒か過ぎ、まゆが口を開いた。
「何か、変な感じ。どれくらい会ってなかったかわからないのに、あんたを目の前にすると自分が自分じゃなくなる」
「……と、いうと?」
それとなく聞くと、厳しい叱責が飛んできた。
「喧嘩したんじゃないの、私たち? そのままどっちも連絡しなくて、自然消滅だって思って……」
「うん、俺も思った」
「じゃあ、どうして来たの?」
「わからない。俺にも説明がつかない」
まゆは深いため息をついた。落胆の色と期待のまなざしが込められた反応だった。
「やめるの、私」
「…………え」
一瞬、自分の耳を疑った。
だが間違いなく、蝶野まゆはそう言った。
「夢を追うのはもうやめる。ダンスは趣味で続けることにした。就活しなきゃ。来年三年生だし」
「ハタチじゃん」
息せき切ってこぼれ出すわけのわからない感情に押されて、凪は反論した。弱気になる彼女の顔を見るのが我慢ならなかった。
「キラキラの成人じゃん。ピチピチの女子大生じゃん」
「……バカなの? その世界じゃもう遅いんだよ」
「小便くさいガキなんか相手にするな。色気もへったくれもねえ小娘になんか真似できない、お前自身の魅力ってもんがあるだろ」
まゆの瞳は冷え切っていた。凪が強気な姿勢を見せれば見せるほど、かえって表情が暗くなっていく。
(何でだよ)
一向に理由が見当たらず、凪は感じたことのない不安と憤りを抱いた。
「やたらと私の肩持つね」
まゆは拗ねたように顔をそらす。
「そりゃあな、恋人だし」
当てつけのように言ってやると、今度こそ重い空気が流れた。凪が最も苦手とする、張りつめた意識のせめぎ合いが、肌に痛かった。
「何か言えよ」
「凪にあげられるものは、もう何も残ってない」
「……は? 何だよそれ」
すごむ勢いで、強く尋ねる。まゆは沈黙を貫く。
埒が明かない。凪は正直な気持ちを伝えることにした。
「残念だな。お前には……さ」
いざ言葉に出すと、胸にちくりと空しさが刺した。
「パフォーマンスアートの精神を感じたのに」
彼女がこちらに顔を向けた。
すがるような瞳と、その奥に隠れる、凪への熱い情欲が見て取れた。
何かを必死にこらえている。まゆの中から強い思いが熱となって放出されている。
「そっちこそ」
まゆは泣き声に近い声色で訴えた。
「何でも話してほしかったのに」
(――――ああ)
隠しごとはなぜバレるのだろう。
「夜に、眠れないのは……。いつから……。子どもの時からずっと、続いてるなら、どうして病院に行かないの……? 私じゃ癒せないなら、今になって会いに来ないでよぉ……」
まゆは子どものように泣きじゃくっていた。顔を覆った手のひらがひどく震えている。
凪は知らずと空を見上げた。
冷たい風。暗闇を灯す常夜灯。今日は晴れてるのだろうか、星がチカチカと瞬いている。こちらの都合のために天気は悪くなってくれず、肩を濡らす雨は降らない。
「毎日飲んでるあれも、教えてくれない……」
消え入りそうにつぶやいたまゆの台詞に被せるように、凪は告白した。
「生姜スープなんだ」
途端、まゆはきょとんとする。無防備な表情を、ああ、可愛いと、素直に思えた自分に驚きを感じる。
凪は続けた。
「寒くなったら、あそこの自販機で発売するんだ。温かい飲み物で、睡眠作用の効く生姜がすげえいっぱい入ってんの」
「睡眠作用……」
「うん。……俺はね」
幼少の頃の、自分に背を向けている両親の姿が、脳裏に浮かんだ。
「睡眠障害なんだ」
夜は、凪にとっての避難場所だった。
静まり返った暗い歩行者通路を、当てもなくふらふら歩いた日。生まれて初めて、自由だと思った。親から、家から、解放された。社会が眠りについている。けれど時々、自分と同じように、電気の点いている部屋がある。起きているのは赤の他人だ。縁もゆかりもないどこかの誰かの存在が、凪にとっての共同体だった。
「病院は?」
「行かない。治らない」
「何で決めつけるの?」
「生まれつきだから。俺は赤ん坊の頃から寝れない子だった。それで母親は産後うつになった。後はどうやって育ったのか記憶にない。金がかかるから病院には何度も行かせられないって、父親は言った。俺は受け入れた。だからこれからも受診することはない」
まゆはひどく悲しそうな顔をした。
「お前が落ち込むことないのに」
余計愛しくなってしまう。
二言目は言わないでおいた。
まゆが再び顔を上げた。
熱っぽい瞳で、凪を見つめる。火だと思った。自分が付き合う女は誰もが何かに燃えていた。
「好き」
告げられた。胸の中に、こらえ切れない感情が潮騒のごとく響き渡る。
「凪が好き。好きだよ」
唇を噛みしめた。
手を伸ばしてもいいのだろうか。
定職にも就けない、一日の生活を生き抜くことがやっとの、低賃金労働者の。
「この先どうなるかわからない。でも今、凪の過去の一部を知れてよかった。凪のことが見えた気がして、嬉しくなった。もっと教えてほしい。私にいろいろな面を見せて」
どんな言葉を伝えればいいのか、今まで凪は熟知しているはずだった。こう返せば相手は気持ちよくなるだろう、納得するだろうと、人の感情を受け取るのが得意だと思っていた。
口ごもる自分は、正直かっこ悪い。取り繕う術も忘れた。
「まゆ」
「ん?」
目の前の女は柔らかく微笑む。どんなタレントよりも美しく。
「キスしたい」
まゆは笑った。心から幸福そうに。
「恥ずかしい台詞だね」
「うん、俺もそう感じる」
互いに笑い合った後、甘くこそばゆい雰囲気が流れた。
彼女が目を閉じる。
凪は一歩ずつ近づいていった。
相手の身体にふれた。
自分とは違う柔らかな肌触り。手を握った。細くて長い指だった。俺のよりずっと小さいんだなと、心に疼く密かな色欲を感じた。この上ない愛情も。
まゆの手を握りしめたまま、唇にそっと、自分のものをあてがう。
反応を探るように、機嫌をうかがうように、慎重に。
まゆは凪のキスに応えた。
受け入れられた。
言いようのない寂しさが埋まったような、包まれるような安心感が、染み渡った。
(ありがとう)
恋人を抱きしめた。今度は強く。
足りない、与えられない、持っていないと嘆いていた今までの己を、存在ごと肯定してもらえたかのような、満ち足りた感情が胸の内に迫った。枯渇していた心が、深い川底へ沈んでいく。
まゆの腕が背中に回った。
細い力だった。懸命にこちらを求める温もり。
与え返したいと、生まれて初めて凪は思った。
その瞬間、自分の中に棲むどうしようもない小さな男の子が死んだと、悟った。
冷たい夜風が吹いた。
なんてことのない寒気。
凪とまゆは、支え合うように互いの熱を抱きよせていた。
*初夏*
「凪」
早番のシフトが終わり、夕刻時の帰宅路を歩いている途中、カバンの中のスマホが振動した。
電話の振動だった。名前を見てすぐに応答した凪の耳に、恋人の声は震えて聞こえた。
「何か、あったのか」
凪とまゆは同棲をできるほどの金銭的な余裕がない。まゆは大学三年になり、就職活動に勤しんでいるし、凪は変わらずフリーターのままだ。二人はその分、なるべく頻繁に互いの近況を報告し合っていた。時間を見つけてたくさんのデートを重ね、プレゼントを贈り合い、思い出を共有し続けた。
「…………まゆ?」
通話口から無言が続く。よくないことでも起きたのかと、凪は不安を覚えた。
「どうした」
「凪、あのね」
一呼吸おいて、まゆが話し始めた。
内容を知った瞬間、外でなかったら飛び上がりたいほど凪は興奮した。世界が拓けるほどの吉報だったのだ。
「オファーが来た」
「……仕事か!?」
ドク、と心臓が熱く燃えたぎるような感覚を味わった。チャンスが回ってきたのだ。忙しない毎日を送っていたところに、突然やってきた巡り合わせ。驚きと武者震いで、早く先が聞きたくなった。
「どんな?」
「うちの事務所に所属してみませんかって」
「スカウトか、なるほど」
「私の動画、見てくれたの。それで、オーディションを受けさせたいから、うちと契約を結んでほしいって先方が」
「どこの事務所?」
「Aプロダクション」
「中規模の芸能事務所だな。まゆ、やったじゃん!」
「ありがとう。すっごく嬉しい」
まゆはほっとしたように声を弾ませる。
「凪が喜んでくれてよかった」
「自分のことのように嬉しいよ」
思えばずいぶんと素直になったものだ。自分で発言しながら笑えてくる。
「それでね」
まゆが続けた。
「凪に、会いたくなって。直接話せるかな?」
声色から、そこはかとない憂いを凪は感じ取った。手放しで喜んでいるかと思いきや、恋人は何やら気がかりな案件でもあるらしい。
「わかった。今どこにいる?」
「商店街抜けたところの並木通り」
「すぐ向かうよ。確か近くに児童公園があったから、そこで話そう」
「うん。待ってる」
場所を確認し合い、まゆの方から電話を切った。
日の入りがずいぶんのびたと、公園の敷地内に入ったとたんに凪は気づいた。夕方六時近く。児童は見当たらなかった。小さな滑り台、ブランコ、二人掛けのベンチ。面積も広くなく、一世帯分がひっそりと遊ぶような、路地の途中に申し訳程度に設置されたのがわかる場所だった。
まゆは、ブランコを囲う柵のふちに腰かけていた。凪を見つけると、小さく手を振る。凪も振り返して、まゆの隣に座った。
「おめでとう、まゆ。……それで、どうした? 浮かない顔してんじゃん」
まゆが言葉に詰まっている様子を見て、それとなく手にふれる。恋人は嬉しそうにはにかむ。胸の内を甘やかな衝動が駆ける。
夏の匂いを感じさせる、ぬるい風が吹いた。住宅群の隙間から沈みかけの太陽が覗いていた。
「とっても幸せな時間をもらえている気がするの」
言葉と裏腹に、彼女は悲しげに微笑んだ。
「私、ずっと夢だった。踊るのが好きで、みんなが盛り上がってくれるのが嬉しくて、これからはもっと大勢の人たちを幸せにしてあげられるんだって予感がして、今、無敵なの。オーディション、絶対に合格してやる」
「その意気だよ」
まゆが顔を向けた。しどけなく凪にもたれかかる。片腕で抱きとめ、頭を撫でてやる。アッシュブラウンの髪は綺麗に手入れされていて、指になじんだ。
「凪。私のこと、好き?」
「好きだよ。当たり前だろ」
安心したように、まゆは息を一つ吐いた。
夕方にも関わらず、気温は下がる気配を見せなかった。むっとした風の匂いが鼻腔をかすめる。
「条件を出されて」
「……うん」
目指すのは芸能界だ。内容は話されなくともすぐに予想がついた。
「私、あなたの存在を隠しておかなくちゃいけない。それか、関係を終わらせてほしいって」
じわじわと湿気が凪の額に汗を光らせる。どこかで季節を先取りしたセミが、ミーンと、かすかな鳴き声を漏らした。
「芸能の道に進むのなら、男の影をちらつかせてはいけないと。早い話、恋愛禁止なの。若いうちは」
まゆは膝の上に置いた手をぐっと握りしめ、唇を震わせた。
彼女が涙をこらえているのがわかった。
「輝きたい。スポットライトを浴びたい。……でも、こんなのは」
「まゆ」
「ん?」
「ちょっと、散歩しようか」
「……ん」
こくりとうなずき、まゆは凪の方に手をのばす。
凪は包むように手を取る。
二人は連れ添って、並木通りをまた歩き出した。
春先に花を咲かせていた街路樹は今、生命力の強そうな緑の葉を枝先にまで茂らせている。
道路を行き交う車が、ヘッドライトを点け始めていた。日が完全に沈む間際の時間まで、二人は当てもなく歩いた。
凪は足を右に向けて、歩道橋の方へ進んだ。まゆもついてきて、階段に足をかける。
「俺は、就職しようと思ってる」
まゆは口をつぐんだまま、凪の言葉を聞いている。
「学歴なんかねえけど、契約だろうが何だろうが、職をもぎ取る。死んだように生きるのは、もうやめる」
「だから最近ずっと黒髪なんだ。前は茶髪にピアスまで開けてたのにね」
横から茶化すような声をかけられ、凪は照れ臭くなる。
二人は階段を上る。上り続ける。
「これから、どうする?」
まゆは問いかけた。
橋にたどり着き、平らな道を真ん中まで行った。柵の向こうから見える景色はいつもと変わらない。けれど地平にわずかに残る橙色の日の名残り、灯り始めた街灯、過ぎていく人の流れが、今、鮮明に脳裏に焼きつきかけている。
写真を、撮りたいと思った。
街なかの風景をフレームに収めたいという衝動が、突然、走った。
スマホではなく、カメラで。端末を通すのではなく、フィルムとして。
「私たちの、これからは……」
恋人が切なげに目を伏せる。
凪は手の力をぐっと強めた。
「お前は」
頬に当たる風が、ぬるいような冷たいような、行き場なく吹かれていく昔の自分に重なった。
「チャンスを掴んで、ものにして、仕事に人生を捧げないと」
まゆは薄く微笑んだ。こう返されるのはわかっていたというように、無言でこちらを見つめる。
しばらく静寂が流れ、二人は橋の下に見える走行中の乗用車やバイクを眺めた。
「もう一つだけ、凪に聞きたい」
まゆの柔らかなまなざしが凪を包む。
「何で私だったの?」
雑多な音が鼓膜を刺激する。エンジン音、ひゅうっと吹く風音、その他いろいろな、自然と人の生活音。気にもとめなかった日常が、クリアに凪の視界に入る。
世界と無関係に生きることなど、できない。
「私を見つけたのは、偶然?」
まゆの質問に、凪は答えた。
誰にも話さなかった、凪自身の昔を。
「一度だけ、親に連れて行ってもらえた場所がある」
凪は地平をじっと見つめた。
かすかに涼しくなった風が頬に当たり、髪を撫でていく。
「イベント名はもう覚えてない。ダンス会場だった。ソロダンサーや、グループで出場している人たちでいっぱいで、熱気があふれていた。プロかアマチュアの試合かもわからなかったけど、座席がすごい近くて、パフォーマーの飛び散る汗がスポットライトに当たって、キラキラ飛んでて、すげえ綺麗で、俺は」
唐突に、目の前の景色がぼやけていく。
「知ったんだ」
懐かしい思い出があふれ、あたたかな痛みとなって自分の心を浄化する。
「俺の目の前に」
記憶の底に沈んでいた、美しい過去の情景。
「楽園が、あるんだと」
こぼれ落ちる涙をぬぐう真似は、今はしたくなかった。
「今、俺がいるのは、楽園なんだ。そう確信した。子ども時代の、いたいけな想像力だなんて思わない。俺は理想郷を見つけた。誰にも理解されなくていい」
にじむ街並み。幸せも不幸も、怒りも憤りも悲しみも、同じようににじむ。
「親は変わらず冷たくて、家に帰ったらいつもの地獄が始まって、それでも、あの瞬間だけ、世界でいちばん幸せだった」
まゆが愛おしそうに聞いているのがわかった。
「どれほど理不尽なことがあっても、誇れるものなんか何もなくても、ステージだけは美しかった。楽しかったから。感動したから。スターになりたい夢を追いかけるやつらを、本当はずっと、応援していた。意志の強さを、分け与えてもらっていたから」
日が沈む。ともに過ごした日々が沈む。
凪は目もとを拭い、恋人と視線を合わせた。
「俺は、ダンスに賭ける蝶野まゆが、好きだよ」
もう一度、手を絡め合う。互いの顔を正面から見つめる。
世界に二人だけしかいないような錯覚を感じるほど、まゆの瞳は艶やかにきらめいていた。
頬にふれた。
他には何もいらない。
彼女が目を閉じる。
柔らかな温かさに唇を当てる。そっとついばんだ後、もっとほしくなって二度、三度と愛情をねだった。まゆは応えた。熱と人肌の温もりが、凪の悲しみを満たしてくれた。
ずっと続いてほしいと願った甘い時間も、永遠に続くと思い込んでいた己の哀れさも、終わるのだと、凪は知った。その事実は救いにもなったし、呪いにもなった。けれどそれでよかった。自分はもう閉じていない。
二人は顔を離し、しばらく恥ずかしそうに笑い合った。
まゆが凛とした表情を見せる。
「私は、ステージに立つ」
迷いも何もない、覚悟だけを背負ったパフォーマーの瞳。
「芸術には永遠が住んでる」
「――うん」
俺も、それが答えだと思うよ。
心の中でまゆに返事をして、凪は、彼女を自宅まで送り届けた。
「アドレスは消さないで」
別れ際、まゆは自分の髪をさわりながら、それとなく凪に告げた。
「どうしようかなあ」
凪はからかい気味に返事をする。和ますつもりで言っていることも互いにわかり切っている。
じゃあね、また。
伝え合い、二人は別れた。
また明日会えるかのような、他愛のない挨拶だった。
蝶野まゆと言葉を交わしたのは、その日が最後だった。
*
スタジオから出ると、むせるような暑い風が五感を刺激した。梅雨前線も次第に弱まり、晴れる日が多くなったからだろう。季節の色合いは雨季から夏へと移行し始めている。今日は室内にこもりきりの作業だったため、外の空気を吸うといくらかさわやかな気分を味わえた。
「五月女さん、この後どうします?」
「まだ残ります。今日中に仕上げられそうだから」
「働き者ですね」
かけられた言葉を反芻する。働き者ですね。何をもって「働く」と言うのか、凪には何一つわからない。けれど自分は働いている。社会の一部に痕跡を残している。
歩くだけで汗ばむ気温だ。さわやかさを通り越してうだるような空気を感じつつも、地に着く足は迷わず、前に進む。
数年前にできたといわれる街頭パネルでは、夕方の天気予報が流れている。この後夕立が起こる確率が高いため、傘を忘れずに――。雨雲が発生しやすく――。雑音とともに入ってくる声はやがて終わり、バラエティー番組が流れ始める。
最近盛り上がりを見せているオーディション番組が放送される。最終選考に残った上位数組が、デビューをかけて思い思いのパフォーマンスをやり遂げる。
一人、美しい女に目を奪われる。
少しきつめの目もとをアイライナーで色っぽく引き、真っ赤な口紅をつけた、すらりとした背の女。
引き締まった肉体と、みなぎるパワーが、一つ一つの振りつけから画面を通して視聴者の目に入りこむ。アップテンポの曲調に合わせて動き出す彼女に、次第にスタジオ内の空気が静まり返る。
彼女は己のダンスに集中している。確かな体幹から生み出される、芯の通った美意識。正直でダイナミックな表現の幅。
信号機が青に変わる。止まっていた人の流れが再び動く。
凪も歩き出す。どこかへ向かう人混みの中を、同じように流れていく。けれどいつかたどり着く。自分の求める何かをわかる時がやってくる。凪に迷いはない。
上を向けば、液晶画面に彼女の姿はとうに見えない。映像は別のタレントにカメラを移していた。
歩を進める。隣を歩くクライアントと宣材写真の方向性を詰める。繁華街の人いきれと、立て看板のそばに設置されたランチメニューを横目に流しながら、美味しそうな店を脳内で物色する。綺麗な歩行者通路と、その隅に転がる空き缶一つ、陰になって見えない路地裏の薄暗さも、凪にとっては居場所なのだと、ふいに証明したくなる。シャッターを押したくなる。
夏がいよいよ近づいてくる。シャツの内側に張りつく汗、むっとした湿気が、凪の何かを追い立てる。ドクドク波打つ心地よい躍動感が、体内のリズムを正確に打ち出す。ぎらつく暑さが、凪を何者かにさせようと、まるで挑発するかのように世界の温度を上昇させていく。
了
スリープディスオーダーにおかえり
青春恋愛小説、自己発見と成長の物語
"不眠の夜に交差した孤独と情熱。その出会いは、二人の世界を鮮やかに変えていく。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。