私の恋人は、いつも優しい。
私にはもったいないくらい、素敵な人。
「陽樹(はるき)くん」
私は、彼のためにコーヒーを淹れる。
彼と出会ったのは、バイト先でのことだった。私は学費を稼ぐため、ほとんど毎日バイトに明け暮れている。掛け持ちしているうちの一つ、駅近の小さなカフェに彼は来た。
彼はこじゃれたカフェに合うラフな格好で、一人アイスコーヒーを頼んだ。端正な顔立ちに丁寧な所作が、何だか目について。少し、気を逸らしていたかもしれない。
「熱ッ」
あ、と思った時には、手元が狂って持っていたトレーのバランスを崩してしまっていた。慌てて支えたものの、ホットコーヒーが跳ねたらしく近くにいた客が悲鳴をあげた。幸い怪我にはならなかったが、客は怒り狂った。店員のミスに対して過剰に怒る人はいるもので。何を言われたのかはもう覚えていないけれど、何度も頭を下げて怒鳴りつけられたことは覚えている。
周りもさすがにもう勘弁してやれ、という空気になりながらも遠巻きに見ている中、私は恐怖に耐えられなくなっていた。客の怒りがヒートアップして、ついに泣きそうになった時、彼が立ち上がった。
「言い過ぎですよ。店員さんもわざとじゃないんでしょう?」
一言一句違えず、ちゃんと覚えてる。彼は客の前に立って、私を庇ってくれた。客はまた何か怒鳴っていたけれど、冷静な対応に熱が冷めたのか、結局面倒くさそうにカフェを出ていった。
「あ、ありがとうございます……」
お礼を言うと、彼は何でもないようにいえ、と言って笑った。爽やかな笑顔は、私を釘付けにするのに十分で。
その日から、彼は私のヒーローになった。
「陽樹くん、いらっしゃいませ」
いつも通り、彼に挨拶する。今や、彼はカフェの常連だ。
「愛梨花(えりか)さん、今日もお疲れ様」
彼は、いつだってにこやかに返してくれる。
「ありがとう」
私は、嬉しくなって口元が緩んでしまう。お疲れ様、と彼は言うけれど、疲れてなんかいない。だって、貴方に会えるから。直接言うのは恥ずかしいけれど。
彼が私を助けてくれた日、私はろくな会話もできなかった。客の怒鳴り声に耳が痛くなっていたのに、今度は心臓の音ばっかりうるさくて、でも嫌な高鳴りじゃなくて。頬が熱くなるのを感じながら、ただありがとうございますを繰り返すだけだった。
彼はカフェにはふらっと立ち寄っただけだったようで、また訪れることはなかった。次の日も、その次の日も。私は彼の名前すら知らなくて。でも、私はどうしても彼のことが忘れられなくて。もう一度会えた時、神の恵みとすら思った。それから少しずつ話すようになって、彼はコーヒーが美味しいと言ってくれて、カフェに来るようになって。こうして毎日笑い会える関係になったことは、奇跡としか言いようがない。
私はもう、彼の名前を知っている。陽樹くん、なんて素敵な名前だろう。彼の明るい人柄がよく表れている。その名前を呼んで、彼に振り向いてもらえる。なんて幸福だろう。
優しい、私の恋人。
「愛梨花さん、隈ができてるよ。大丈夫?」
親とうまくいかなくて家を飛び出した私を、彼はいつも気遣ってくれる。大丈夫?、ってその言葉が聞きたくて、私は彼のそばにいる。だって、大丈夫、と答えられるから。足が震えるまで接客に動き回っても、真夜中のコンビニで一人レジに立っていても、襲う睡魔に必死で耐えて講義を受けても、ボロボロのアパートに帰っても。貴方さえいれば大丈夫だって言えるから。
陽樹くん、貴方はいつも優しい。
「大丈夫ですか?」
彼は声をかけて走り寄った。どうやら他のバイトの女の子がつまずいて転んでしまったらしい。そういう時、彼は真っ先に行動する。
「大丈夫です、すみません」
その子はすぐに立ち上がって、謝った。客の注文を聞きにいったところだったようで、食器を割ったりしないで済んだ。
彼はいえ、と微笑む。いつも通りの笑顔を振り撒く。バイトの女の子は、ほんのりと頬を染めて彼に目線を送る。
私の恋人は、いつも優しい。
私は彼のためにコーヒーを淹れる。
彼は私を見てくれる。振り向いて、私に声をかけてくれる。私の淹れるコーヒーを美味しいと言ってくれる。私に笑顔を向けてくれる。
彼は優しいから。
私は彼の恋人だから、その優しさを知っている。彼は私のヒーローだから、あの日私を助けてくれた。私はちゃんと覚えてる。私はもう、彼の名前を知っている。好きなものだって知っている。忘れることなんてない。いくつバイトを掛け持ちしたって、彼が来るカフェは休まない。どれだけ眠くたって、どれだけ疲れてたって、彼との時間は奪われない。私はちゃんと覚えてる。
貴方の名前も家も趣味も生活も、
ちゃんと覚えてるから、知っている。
貴方は優しい。いつでも、どこにいても。
貴方は優しい。だれといても。
「大丈夫ですか?」
彼はそう言って走り寄る。他の子にだってそう問いかける。
私は貴方の恋人だから、私はちゃんと知っている。
「アイスコーヒーが好きなんだ」
貴方の笑顔を知っている。
「ここのカフェ、美味しいんですよね」
カウンターで微笑む貴方を知っている。毎日訪れる貴方を知っている。
いつだって微笑むから。
みんなに笑いかけるから。
みんなが知っている。
バイトの子だって知っている。
他の人も、貴方を知っている。
「店員さんもわざとじゃないんでしょう——」
貴方は私を助けてくれた。
「確かに、危なかったですね——」
貴方は私を助けてくれたのに。
「でも、ちゃんと気をつけてるでしょう——」
貴方はだれにでも優しい。
「危ないですから——」
貴方は私以外にも優しい。
「ホットコーヒーは火傷しちゃうので——」
ねえ、
陽樹くん。
ホットコーヒーを貴方に。
ホットコーヒーを貴方に
恋愛心理サスペンス
"優しい彼への、甘く危険な一杯。"
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