蜜ノ園家は、平均的に見て裕福な家庭であった。一人娘の有李華の十九歳の誕生日に別荘をプレゼントする程度には。
十九歳といえば大学に通ったり就職したりする年齢だったが、有李華はディレッタントとして、高名な学者のもとで勉強をしたり稀覯本を読み漁ったり自由にファッションを楽しんだり、海外のオーケストラをはしごして音楽を嗜んだり、マリー・アントワネット嬢のように奔放に人生を謳歌していた。勉強が嫌いなわけではけしてなかった。だから大学へ進学しても良かったのだが、これまでの人生で同年代とは話が合わないと感じていたので、勉強は家ですることにしたのだった。会いたい人は自分で選ぶ。父に頼めば大学の教授にはアポイントメントを取れるしいつでも会える。
彼女はその外見にも恵まれていた。長い黒髪は毎晩椿油で手入れをして艶を保っている。使い込まれたその椿の木で造形された容器は母から誕生日に贈られたものだった。母はまたその母から受け継いだらしい。その顔は化粧などしなくても充分に整っていた。
何一つ瑕疵のない人生を送ってきたように誰からも見えるだろう、完成された可憐さが彼女にはあった。
***
買い与えられたのは迷路のように造園された広い薔薇園つきの別荘地。そこで過ごすこと数日、日がな一日、日中の間は本の虫のように読書をしていた有李華は、少し体を動かしたくなって、日が沈みかける頃玄関に出た。そこには二メートル先すらも薄ぼんやりとしか見えないような濃い霧が広がっていた。奔放なわたしが顔を出し、少し冒険心が疼いた。こんなに霧が深いのに日傘を差す意味なんてあるだろうか、と思いつつも紫外線を気にしてフリルのついたそれをさした。今日の服装は白いブラウスにボルドーのハイウエストスカート。
庭の薔薇園は霧によってついた露がうつくしかった。様々な色の薔薇が夕陽を反射してわたしを見てと咲き誇っている。
それを贅沢に通り過ぎて、有李華は気晴らしの散歩に出かけた。
「おや、二番地の蜜ノ園さんかな」
「佐藤さん? こんなに近づかないとわからないなんて面白いわね。ごきげんよう」
「ごきげんよう。この土地は涼しくていいんだが、霧が特別深くてねえ。蜜ノ園さんも気をつけるんだよ」
「ありがとうございます。気をつけますわ」
社交辞令を交わして、有李華は佐藤氏とすれ違った。
「あら?」
いつもの散歩コースからいつから外れていたのだろうか、見知らぬ分岐道を見つけた。
こんな道、地図に載っていたかしら。
興味本位で一歩踏み出す。それが取り返しのつかない一歩であると知らずに。夕露に濡れた紫陽花が左右を固める一本道は、奥へ奥へと進むごとにその色が青から鮮やかな紫へと移り変わっていった。
紫陽花の小道を抜けると、そこは一面の透き通った湖だった。こんな湖、地図には絶対に載っていなかった。自信を持って言える。
すこし離れたところにある瀟洒な四阿に人影が見えたので、有李華は話を聞くためにそこを目指した。
四阿に座って本を読んでいたのは、線が細く今にも消え入りそうな雰囲気の黒髪の青年だった。年齢は有李華と同じか少し上くらい。
「もし」
声をかける。青年が顔を上げた。その瞳があまりにも美しい湖色だったから息を呑む。
「はい」
「……ごきげんよう。この別荘地、こんな場所もあったのね」
「ごきげんよう。君は――新しく別荘を買った人かな?」
「ええ。蜜ノ園有李華と申します。ご挨拶が後先になってしまってごめんなさい」
「僕は……蒼夜と呼んでくれると嬉しいかな。よろしく」
「なんの本を読んでいらしたの?」
「詩集だよ。ランボオの『地獄の季節』」
「ああ、あれ。鋭く尖った言葉と、それに相反してどこか魂の居場所を感じさせないような感性が瑞々しく感じたわ。けれど――それがあまり肌に合わなかったのはきっと、ランボオがわたしよりも若かったからでしょうね。それを評価できる大人は尊敬に値するわ。わたしは読後あまりすっきりしなかったけれど、歴史背景に造詣が深ければもっと理解ができたのでしょうね」
「うん、そういう本はたくさんあるよ。だから勉強は大事なんだ」
「あなたは普段何をしているの?」
「霧の出る日はここで読書をしているよ」
「変わったひと。天気のいい日じゃないのね」
有李華は日傘を閉じて立て掛け、ポケットからシルクのハンカチを取り出して青年から少し離れた座面に敷いた。スカートをはらい、優雅に腰掛けて、問いかける。
「時々遊びに来ても構わない?」
「ああ、いいよ。本を読むのも好きだけれど、人と話すのも嫌いじゃないんだ」
「気にしていたらごめんなさい。貴方の目、とてもきれいな色をしているわね」
「そうかな。真っ直ぐにそう言われたことはなかったから新鮮だよ、ありがとう」
「そう、この湖みたいな色」
こんなにきれいなのに観光地にしていないのはなにか理由があるのだろうか。
有李華がそう言うと、蒼夜の顔が少し曇った。
「理由はあるだろうね」
「知っていて?」
「予想はできるけど、君は知らないほうがいいと思う」
「まあ、気になる言い方をなさる方」
蒼夜は読みかけだった本をぱたりと閉じた。
「栞は挟まなくていいの?」
「もう何度も何度も繰り返し読んでいるからね、だいたいどのページかくらいはわかるんだ」
「退屈がお嫌いなのね」
「そう。そして推測するならば、君もきっとそうだろう」
「ええ、大当たり」
有李華はくすくす笑った。
この会話レベルのテンポ感が好ましかった。
夕陽が沈みきり、深い霧も相まってあたりは暗くなる。
「ああ、わたしはそろそろ帰らなくちゃ。家人を心配させてしまうわ」
「そうだね。またおいでよ」
「貴方は帰らないの?」
「そうだね、僕は結構遅くまでここにいるよ」
「遅くまで? 蛍でも出るのかしら? じゃあ、夜になっても会いたくなったらここに来てもいい?」
青年は優美というほかない微笑みを浮かべたので有李華の心臓がとくんと脈動した。
「いいよ」
家に帰ると、ちょうど午後八時頃だった。
「どなたか友人ができたのですか?」
執事の吉野に問われて、有李華は笑顔で答えた。
「ええ、素敵な方よ。いつかお招きしたいわ」
「夕食の準備も整っておりますが」
その言葉を聞いて、有李華は不思議とお腹が空いていないことに気がついた。
結構歩いたのに不思議なこともあるものだ。
「ごめんなさい、今日は要らないわ。お風呂に入ってもう寝ます」
「かしこまりました。ではメイドに支度をさせます」
今日は不思議と湖畔の夢が見られる気がした。
***
翌日は燦々と日が照る一日だった。メイドの用意した洋服を身につける。今日のワンピースは濃紺だった。
「お嬢様はお肌のお色がお白くていらっしゃるので、濃い色が合うのです」
「いつもありがとう」
朝食の卵焼きと鮭とご飯と味噌汁をそれぞれ適量食してから、有李華は部屋から小説を一冊持ち出した。
「出かけてくるわ。サンドイッチを作ってくれる?」
「かしこまりました、少々お待ち下さい」
今日はあの四阿で青年――蒼夜と過ごすつもりだった。
少し待つと、メイドがサンドイッチをバスケットに入れて持ってきてくれた。
「ご友人と食べるのですか?」
「ええ、そのつもり」
「そう思いましたので、少し多めに作っておきました。もしご不要でしたらお残しくださいませ」
「まあ、とても気が利くわね。ありがとう」
行ってきます、と声を掛けて日傘を差す。今日渡されたのは和風の日傘だった。
昨日と同じ道を辿って四阿へ行ったが、そこには青年は居なかった。
「あら……」
まだ来ていないのか、今日は来ないのか。
どちらにせよ少し落ち込んだ。けれど折角来たのだから、本は読んでから帰ろうと思った。
バスケットを置いて、ハンカチを敷いて、座って背筋を伸ばす。有李華は読書を始めた。
昼になっても彼は来なかったので、一人でサンドイッチを食べた。一人で食べるには多かったのでおそらくデザート用であろうフルーツサンドは残した。
本も読み終わってしまった。久々に読んだが相変わらずロジックがきれいな小説だった。自分が好むミステリ小説だったので、読むのは二度目であった。通っていた女学校ではタネが分かっているミステリを読み返すなんて変わっていると言われていたけれど、蒼夜も同じ本を何度も何度も読み返すと言っていたし、有李華はやっぱり特に変わってはいないんだわ、と思った。それに、彼女たちは雑誌ばかりではなく本をもっと読めばいいのにとも思った。
夕方になったら彼が訪れるかもしれない、と思った有李華は、一度伸びをしてから、もう一度同じ本を読み返し始めた。
午後二時頃になって、本を先程よりも早いスピードで読み終わってしまった有李華は、ふうと息をついて立ち上がった。流石に同じ本を三周するのは飽きてしまう。今日は蒼夜は来ないのだと思って、バスケットを片付けて別荘へと帰ることにした。期待が空振りに終わることには慣れていたので、特にショックは受けなかった。
「ごめんなさい、残してしまったわ。夕食のときに食べるから、取っておいてくださる?」
「承知いたしました。ご友人は来られなかったのですか?」
「ええ。もともと、約束をしていたわけではなかったから」
約束をしなければ人と人とは会えないのだ、ということをすっかり忘れていた有李華のミスだ。特段落ち込むことではない。約束をしていてなお会えないこともあるのだから。ふと幼少期の誕生日のことを思い出したが、目を瞑って頭を振って脳裏から追い出した。
***
翌日は朝から霧が深い日だった。朝食のとろとろスクランブルエッグとサラダとホットサンドを食べながら、もしかしたら蒼夜が居るかもしれないという期待が胸にふわっと浮かび上がった。それを押さえつけつつ、メイドに申し付ける。
「ねえ、今日もまたサンドイッチを用意してくれる?」
「かしこまりました。量はどうなさいますか?」
「昨日と同じだけ」
「承知いたしました」
今日も来なかった場合のことを考えて、有李華は文庫本を三冊ほど用意してあの湖畔へと向かった。
***
紫陽花の小道を抜けると、四阿に人影が見えた。
ああ、やっぱり。
こころなしか早足になった有李華は四阿の蒼夜のところへ向かった。
「ごきげんよう、蒼夜さん」
「ああ、ごきげんよう、有李華さん。昨日はごめんね」
「どうして昨日もわたしが来たことを知っているの?」
「君は興味を持ったら止まらない性格のように思えたから」
「うーん、あたってる。少し、複雑だわ」
「でもこうして今日も会いに来てくれた。嬉しいよ」
その言葉に単純にも有李華の心は弾んだ。
「ひとつ推理したのだけれど」
「なんだい?」
「貴方はどうしてか霧の深い日にしかここに来られない」
蒼夜はくすりと笑った。
「試行回数が少なすぎやしないかい?」
「それを言われるとぐうの音も出ないけれど、覚えておいてね、わたしってせっかちなの」
「そうなんだ。でも正解だよ。僕は霧の深い日にしかここには現れない」
「日光に弱いの? そういう病気?」
「うーん、まあそんなようなものかな」
「そう……大変なのね。あ、そう、サンドイッチはお好きかしら? 昼食にと思ってあなたの分も持ってきたのだけれど」
「ごめんよ、僕は食事をしないんだ」
「家で用意したものしか食べられないということ? アレルギーをお持ち?」
「いや、そういう訳じゃあ、ないんだけれども……」
蒼夜は言葉を濁した。有李華はバスケットを置いて、青年から少し離れた隣にハンカチを敷いた。
「言いたくないなら構わないわ。今日は一緒に読書をしたくて来たの」
「なんの本を持ってきたの?」
「小学生の頃に買った本よ。三冊とも同じ作者のミステリ」
「ミステリが好きなんだね」
「ええ、ロジックがきれいであればあるほどね」
「僕は怪奇小説が好きだな。近代の怪奇小説なんかは特に好きだ……」
「わたしも読むわ。分厚いのほど挑戦しがいがあっていいと思いませんこと?」
「そういう観点で本を選んだことはなかったなあ」
蒼夜は笑った。
あまり笑わない人が笑うと魅力的だ、と感じた。
二人並んでそれぞれが持ち寄った本を読んだ。左手首の内側の時計を確認するとちょうど正午だったので、バスケットからサンドイッチを取り出した。
「じゃあ、食べられない人の目の前で悪いけれど、昼食をいただくわね」
「どうぞ」
通常ならお腹がすく時刻なのになぜか食欲がなかった有李華はサンドイッチになるべく小さい口で噛み付いた。どうしてだろう。味があまりしなかった。
二口目に口をつけるのを躊躇っていると、蒼夜はふいに立ち上がった。
「僕はちょっと休憩に湖を一周してくるから、その間に食べるといいよ」
「え、わたしも一緒に行きたいわ」
「じゃあ三時ごろになったらまた気分転換に行こう。とりあえずはご飯をお食べ」
蒼夜に言われるがまま、蒼夜の背が遠くなってからサンドイッチを口にすると、さっきのは何だったんだと感じるほど美味しく感じた。いつもどおりの調理人の味である。
思わず蒼夜の背を目で追うも、霧がその体を隠してしまっていた。
帰ってきた蒼夜は、先程と同じ位置――有李華の隣に腰を下ろした。
途端に食欲が失せたわたしは、サンドイッチをバスケットに戻した。
「帰ってくるのが少し早かったかな」
「そんなことないわ」
どういう意味だろうか。まるで有李華の食欲に自分が干渉しているかのような言い様だ。
「さっきまで、どんな内容の本を読んでいたんだい?」
「ああ……そうね、短編連作方式の構成よ。全体的に醸し出されるゴシックな内容に惹き込まれるの」
読んでみる? と銀色の表紙のそれを差し出す。
「読んでみようかな」
「それがいいわ。わたしにもなにか今度本を貸して頂戴」
「いいよ」
ねえ、貴方は一体何者なのかしら。
そう問いかけてみたかったけれど、自分で解き明かしてみたくもあったから口にはしなかった。
「じゃあ、また霧の深い日に」
「ええ」
別荘に帰ると、やはり、予測通り食欲はなかった。
そのことを伝えて、自室に下がる。
***
翌日目覚めると、カーテン越しでもわかるきれいな晴天が広がっていた。ああ、今日は蒼夜に会えないな、と思った。ベッドで目覚めて最初に思うことが蒼夜のことだったのが我ながらいじらしく思えて忘れようと努力した。
朝食のフレンチトーストとブラックコーヒーを食しながら、蒼夜は何を食べているのだろうと考えた。あんなに細いのだから、もしかすると拒食症なのかもしれない。この別荘地には静養に来ているのかも。
そう思いながら、有李華はそれが空々しい空想であるという感覚が抜けなかった。蒼夜からはいつも空虚な香りが漂ってきていたからだ。
人間味がない、のだ。
深い霧の日にだけ見える幻なのではないかと思った。
霧をスクリーンにして映る幻。
だとしたら有李華は幻に惹かれてしまっている。
これまで読んできた本や映画たちはそれが死への誘いだと告げている。本当は蒼夜にはもう会いに行かないほうがいいのだろう。
でも、次に会う約束をしてしまったから。
約束は守らなくてはいけないから。
約束を破られたら悲しいから。
フレンチトーストにメープルシロップを追加でかけながら、有李華はそう思った。
この先も会うかどうか決めるのは、それからでも遅くはないと、思ってしまった。
今日は一日家でゆっくりしようと決めて、メイドに庭で読書をする旨を伝えた。
***
晴天の今日、アフタヌーンティーが運ばれてきたタイミングで、執事が初めて見る男性を連れてきた。
「お嬢様、こちらは庭師として雇った由利翔星さんです」
「ああ、庭師をずっと探していたものね。よろしくお願いいたします、由利さん」
「そんなご丁寧にどうも……よろしくお願いします」
***
それから数日の間晴天が続いた。蒼夜に会いたかったが、この天気では無理だろう。
今日の有李華はアフタヌーンティーを楽しんでいた。アールグレイのアイスティーを飲みながら、ページをめくる。今日は好きな音楽アーティストの出した歌詞詩集を読んでいた。
マカロンを口に運ぶ。
これは……コーヒー味かな。
しばらく読書に集中していたら、気がつくともう空は暗くて霧が深くなっていた。
「……この様子なら、いるかしら」
でもこれから行っても夕食の時間に間に合わないから、今日は行くのをやめておこう。
***
翌日、目が覚めると窓の外は深い霧模様だった。会いに行こう、と思い立ってベッドから起き上がると、くらりと嫌な目眩がした。
枕元のベルを鳴らしてメイドを呼んで、体温計を使う。三十七度五分。どうやら風邪のひきはじめらしい。
メイドに見せる前に体温計の電源を切って、笑顔を見せる。
「杞憂だったみたい。今日のお洋服を見繕ってくれる?」
湖畔に移動すると、珍しく蒼夜は四阿ではなく湖の畔で湖の中を覗き込んでいた。落ちてしまうのではないかと心配になって早足で蒼夜の隣にしゃがみ込む。有李華の黒髪がその動きに付随してとさりと膝に落ちる。
「蒼夜さん? 何をしていらっしゃるの?」
「ああ……有李華さん。いや、湖が今日は透明できれいだから、見ていたんだ」
「ああ、驚いた……まるでそのまま落ちてしまいそうに見えたから」
そう言うと、蒼夜の顔色が一段と悪くなった。
「どうしたの、蒼夜さん? 顔色が悪いわ……」
「大丈夫……それよりも有李華さん、君のほうが顔色が良くないように見えるな。調子が悪いんじゃないか?」
「いえ、そんなこと……」
蒼夜の手がすっと伸びて有李華の頬に触れた。それはこれ以上はないくらいに大切なものを手にするような繊細さで。
その指先の冷たさに、有李華は何故だか悲しくなってしまった。
「やっぱり、熱があるみたいだ。今日は早くお帰り。僕とは霧が深い日ならいつでも会えるんだから」
蒼夜の手がゆっくりと離れていった。
その手を掴む。
「どうしてこんなに冷たいの?」
「心が冷たいからだよ」
蒼夜が振り払わなかったので、有李華は蒼夜の手を握ったまま話し始めた。
「今日、少し熱があるの。それだけ。気にしなくていいの、これくらい」
「僕は心配だな」
「心配なんてしないで。健康なのよ。大丈夫だから」
「本当に?」
「お母様に比べれば、ぜんぜん……嫌だわ、こんな話をするつもりではなかったのよ。わたしは貴方に会いたくて来ただけなんだから、同情なんてしないでね」
「君のお母様は何かご病気なの?」
「ええ。肺病を患っていらっしゃって、ろくに会うこともできないわ。わたしはいつでも素敵な絵本やおもちゃを与えてもらってきたけれど、お父様にもお母様にもあまり会うことはできなかった……。誕生日だって、今まで覚えている限り家族が揃ったことなんて一度もないわ」
ああどうしてこんな身の上話をしているのだろう。
「――やっぱり、今日は帰りなさい。僕と一緒にいると、体温が下がってしまうから」
「どうして?」
蒼夜は一瞬黙って、それからゆっくりと言い聞かせるように告げた。
「僕の平熱がとても低いんだ。それにこの湖畔は今の君には涼しすぎるだろう。熱が引いてからまた来るといい」
「そう……そうね、わかったわ」
「いい子だね」
「そうなの。わたし、いい子であることに定評があるのよ、昔から」
頭にぽんと手を置かれた。
「いい子」
わたしは両手で顔を覆っていた。
「蒼夜さん、そういうこと、淑女に気軽にしてはいけませんわ……」
家に帰って熱があることを告げると、執事とメイドに寝室に押し込まれて手厚い看病をされてしまった。
***
翌日は眩いほどの晴天だった。
すっかり調子の良くなった有李華は、午後庭へ出てアフタヌーンティーを楽しんだ。ティラミスがおいしい。今日の紅茶はセイロンだ。
そうだ、ここの別荘地に来て仲良くなった人を呼んでパーティを開こうか。蒼夜は来られるだろうか。なんとなく彼は来られない気がした。
***
今日は霧の深い日だった。
真っ白のフレアワンピースに身を包んで、朝食の席へと向かう。
今日の朝食はスフレパンケーキ。ふわふわの食感に舌鼓をうつ。
「今日は夕食は要らないわ」
「まだお体の調子が優れませんか?」
「いえ、そういう訳ではないのだけれど」
蒼夜と会うと何故か夕食が食べられなくなるのだ。それをどう伝えればいいだろう。
「――お会いする日は、そのお友達の家で、夕食をいただくことにしているの」
――有李華は、嘘をついた。
今日は恋愛小説を湖畔に持っていった。蒼夜はいつものように四阿に座っていた。
ふと顔を上げた蒼夜が儚げに笑った。それがどこか切なさを帯びていることに有李華は気づいた。
「やあ、有李華さん。今日はなんの本を持ってきたんだい?」
「恋愛小説よ。半分ノンフィクションなんですって」
「へえ、面白いね」
「作者の狂気が透けて見えるわ」
すると、蒼夜がすっと右手を持ち上げた。
「手を合わせてみて」
どきん、と心臓が跳ねた。
左手を持ち上げて、そっと手首から合わせていく。
一回りは大きいその手に、ゆびさきが、触れた。
つめたい。
背筋がぞくぞくっと震えた。このまま触れていたら熱が彼に持っていかれてしまいそうだった。
けれどそれ以上に。
ああ、もうどうしようもない。有李華はこの人に触れられて嬉しいと感じていた。
たとえ熱が奪われていっているのだとしてもこの胸の奥の熱だけは奪われることはないだろうとも感じた。
「十秒間、手を合わせていられたら、相性がいいらしいよ」
「そうなの? あと何秒?」
「もう経った」
蒼夜はすっと手を離そうとしたので、指を絡めた。
「ねえ、蒼夜さん」
「どうしたの」
その声があまりにも優しかったから、有李華は気づかないふりができなくなってしまった。
「すこし、貴方の体温が上がった気がするわ」
「そうかな」
有李華は蒼夜に絡めた指をすうっと離した。
蒼夜は安心したような顔をした。
「ひとつ推理したのだけれど」
「なにかな」
「あなたは人の体温を持っていくことができるのね?」
「……やさしい言い方をするね。正しくは、奪ってしまう、かな」
「あなたはだあれ?」
その質問には、蒼夜は笑って答えなかった。
「さあ、本を読もう」
「ええ……」
くらりと一瞬強めに目眩があったが、蒼夜が支えてくれた。蒼夜は、出会ったばかりの頃のような儚さがなくなっているような気がした。
***
ざあざあの雨の日だった。出窓に片肘をついて、外を眺める。胸の奥が疼いた。こんな雨の日にはさすがにあの蒼夜も居やしないだろう。
ああ、けれどもしも居たとしたら?
ひとりきりで寂しいのではないのだろうか。
寂しく在ってほしい、と思った。
有李華が居ない日を寂しく思ってほしい、と思った。
顔が熱くなる。
なんてことを思ってしまったのだろう。恥ずかしい。
クロゼットの奥から大きめのレインコートを取り出して、身につける。ちょっと様子を見に行くだけ。
それだけだから。
いつものバスケットにはバスタオルを三枚くらい詰め込んで。
結局蒼夜はこんなにもひどい天気であるのに四阿にいて、読書をしていた。彼が一滴も濡れていないのが不思議だった。
「蒼夜さん、あなた何をしているの?」
「それはこちらの台詞だね。こんな雨の日に何をしにきたんだい」
「え」
言葉に詰まってしまった。
何をしに来たんだろう。
有李華がいないとさみしいと想ってほしくて。
違う。
「さみしかったから、顔が見たくなったんです。それだけ」
「また風邪を引いてしまうよ」
「蒼夜さんは? さみしくなかった?」
「さみしいのには慣れてしまったからね」
その一言で、天啓が降りたような気がした。
「あのね、わたしも、さみしいのには慣れているのよ」
「そうなんだ」
「そう。そう……それだけ」
「人と会ったりするのも有李華さんが久しぶりだ」
「そうなの?」
「そうだよ」
だから風邪を引かれたり、拗らせて死なれたりされたら困っちゃうんだ。
蒼夜はそう言った。
「さあ、おかえり。また霧の深い日に会おう」
「ええ、ええ。そうね。そうするわ」
***
何度も何度も蒼夜との逢瀬を繰り返した。霧の深い日にばかりでかける有李華を家人は不思議そうな目で見たが、有李華にはそんなことはどうでもよくなっていた。蒼夜と会話することに夢中になっていた。
今日も霧が深かったので、会いに行こうと思っていた。
***
「お嬢様、お客様がいらっしゃいました」
「お客様? 誰とも約束はしていなかったのだけれど」
ハンカチで口元を拭って、席を立つ。
玄関ホールに、二人の男性が立っていた。
「ごきげんよう。どちら様かしら?」
「蜜ノ園有李華さんでお間違いありませんか?」
「ええ、そのとおりです」
「我々は警察です。私は警部の林、こちらは部下の今井です。実は、この別荘地に残忍な殺人犯が逃げ込んだ可能性があるのです。重々身の回りに注意して過ごすようにしてください」
「まあ、殺人犯?」
実際の警察は手帳を出したりなどしないものなのか、と有李華はふと思った。
「富裕層ばかりを狙う計画犯です」
「霧の深い日にばかり犯行を繰り返しています。この別荘地に来る可能性もあるのです」
霧の深い日にばかり?
その言葉に一瞬目が泳いだのを、林は見逃さなかった。
「なにか心当たりがおありで?」
「心当たり? いいえ、何もないわ」
***
自宅のうつくしい薔薇園には目もくれず、有李華は息せき切って湖畔への道を辿った。紫陽花の小道はやさしく有李華を包んだけれど、胸の内にある不安は拭い去ってはくれなかった。
蒼夜さん、あなたは、もしかして、もしかして。
その日も四阿には蒼夜が居た。有李華は頽れるように四阿の椅子に腰掛けた。
***
「チッ、見失ったか」
「霧が深いですね……」
***
「蒼夜さん!」
「どうしたの、有李華さん。大丈夫?」
優しく問われて、有李華は言葉に詰まってしまった。
有李華は何を聞きに来たのだろう。
あなたは人を殺している?
だ、なんて。
聞きに来たのかしら。
息を整えながらしゃがみ込むと、蒼夜に背中を擦られた。その手は服越しでも冷たかった。
「蒼夜さん、人を殺したことはある?」
「え? ――どうしてそんなことを聞くんだい?」
――誤魔化した。
ぞわりと、これまでとは違う悪寒が走る。
これまで知っていた蒼夜がまるきり違う生き物になってしまったかのような錯覚に陥った。
「――この別荘地に、殺人犯が逃げ込んだんですって。何人も殺されているの。深い霧の日にばかり」
「ああ――そうなんだ」
「蒼夜さん、ひとりきりでこんなところに居るのは危ないわ。しばらく、家に居たほうがいいと思う」
心配しているように聞こえただろうか。
有李華は混乱していた。心配して息を切らして走ってきた少女に見えただろうか。そうでなければ、最悪の場合、ここで死ぬことになるかもしれない。
――ああ、でも、蒼夜は、有李華の知っている蒼夜は、人殺しなんて好まない、知的で理性的な――。
「わざわざ知らせに来てくれたの?」
――そうか。
蒼夜だって四六時中この四阿にいるわけではないのだから、あの林という警察には会っているはずだ。
不自然な忠告だったかもしれない。
「有李華さん、僕はね」
ひたりと左手で頬に手を触れてその湖色の視線を合わせられる。
「ひとを殺したことがあるよ」
***
様々な可能性が頭の中を駆け巡った。
冗談。嘘。そんな類から、必要に駆られて。そんなものから、自分が生きるために、例えば心臓の移植を殺人だと思いこんで過ごしているのかもしれない。というものまで。
当然その中には、世間知らずの小娘を騙して甚振って殺すというものも含まれていたのだけれど。
しかし、蒼夜がよほどのペテン師でない限り、享楽犯というのは考えづらかった。これまで一緒に過ごしてきてそう感じた。
ただ、知性的で理性的な殺人犯だって居るのだということはもう思い出していた。これまで読んできたミステリに何度登場しただろう。
「どうして?」
「僕が僕であるために必要だったから」
「いつ?」
「君が警察役をやるんだね。いいだろう、応えてあげる。最後に殺したのは三年ほど前かな」
じゃあ、少なくとも今起きているこの別荘地での殺人は蒼夜の手によるものではない。
それに安心しながら、蒼夜の手に自分の手を重ねた。
「あっさりと自供するのね」
「捕まらないからね」
「その自信はどこから湧いて出てくるの? わたしがこのまま警察に駆け込むかもしれなくてよ?」
「君は警察になんか行かないよ」
「どうして?」
蒼夜は声を出さずに笑うだけで、返事はしなかった。
それは有李華の激しくしとやかに打つ胸の鼓動に対する蒼夜の答えのような気がした。
「有李華さん、今日は何も持たずに来たの?」
「ああ、ええ……さっきの話を確かめることしか考えていなかったから……」
「直線的だね」
「自覚しているわ。それが危険だということも」
それならよかった、と蒼夜は有李華の頭を撫でた。そのままするりと髪を一房取って口づけた。
目を細める。
この瞬間、たしかに恭悦が在った。
「ねえ、名前を呼んで」
「どうして?」
「わがまま」
「じゃあ聞いてあげないとね。なんだい、有李華さん」
「それが聞きたかっただけ。もういいわ」
蒼夜は湖の中央の方を眺めた。
「ここは恋ヶ淵と呼ばれているんだ」
「そうなの?」
「大層な昔、男女がよく心中に使っていたらしい」
蒼夜が有李華の指先に自分の指先を絡めた。
蒼夜の指はやはり冷たかった。
「もう全部の遺体は引き上げられているけどね」
「詳しいのね」
「まあ、ここにこれだけ居ればね」
「あ、そうだわ。わたし、家人になにも言わずに出てきてしまったから、心配しているかもしれない。というか、十中八九心配されているわ。今日のところは帰らなくちゃ」
「また会いに来てくれるのかい?」
「貴方がお嫌でなければ」
「勿論」
「じゃあ、次の霧深い日に」
「霧深い日に」
***
金持ちが嫌いだ。世の中は金じゃないと金持ちが言う。それがあるかないかだけで人生が狂うのにまるで重要ではないものかのように金持ちが言う。許せない。許せない。許せない。
何事もうまく行かず友も居らずもうすることといえば死ぬしかないおれに向かって勝ち誇り言っているのか。
だったら死ぬ前により多くの金持ちを道連れにして殺してしまえ。
そう決めた俺は山深くの別荘地の駅を降りた。前回は大きめの別荘地を標的にしてしまったため発見が早かった。このくらいの規模の方が殺しやすいだろう。
幸運にも庭師を募集していた金持ちがいたので、吐き気を催しながらも笑顔を作って雇用してもらった。
「この別荘のお嬢様は特に庭の薔薇園がお好きだから、丁寧に手入れをしておくれ」
「はい、かしこまりました」
自分の薔薇園などを持っているのか。殺しがいがありそうだ。
庭の小屋は自由に使っていいと言われたので、殺人道具などはそこに置いておくことにした。
***
「お嬢様! 心配いたしました、朝食も召し上がらずにどこへお出でだったんです」
「心配をかけてごめんなさいね。いつもの友人のところよ」
「全くです。殺人犯が潜んでいるのですよ、今度からは、行き帰りはメイドを同伴させてください」
「可能性がある、というだけのお話でしょう? まだ確定していないんだから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
動きづらくなったわ、と思いながら、有李華は思案した。
今度からは、こっそり抜け出すか紫陽花の小道の入り口まで付いてきてもらうかにしよう、と結論を出す。
「わたし、いつも友人とは湖の畔の四阿で会っているの。だから、その入口まででいいわ。帰りは八時に入り口まで戻るから」
「湖なんてこの別荘地には……」
「そう思うでしょう? でもあったのよ。恋ヶ淵と呼ばれているらしいわ。ああ、あと、送ってくれる時メイドは二人以上にしてね。じゃないと別荘にメイドが帰るときに一人きりになってしまうでしょう? メイドが狙われないとも限らないのだから。その間、屋敷は貴方と由利さんが二人だから大丈夫よね」
「かしこまりました。とにかく、お気をつけくださいね」
***
その日は、朝食も昼食も食べられなかったが夕食は食べることができた。
仮説を立てる。蒼夜と長く過ごすごとに食事が喉を通らなくなっていく傾向にある。これは事実だ。では何故なのか? それはわからない。蒼夜の数多ある謎のうちのひとつだ。
蒼夜は今何をしているのだろうか。
月でも見ているのだろうか。
あの恋ヶ淵の畔で。
どうしても会いたくなってしまって、有李華はお風呂を上がったらこっそり逢いに行くことにした。
***
ドライヤーで髪を乾かして、椿油を櫛に染み込ませてじっくりと手入れして、ネグリジェワンピースの上にカーディガンを羽織った有李華は、寝静まった家を抜け出した。
夜の薔薇園は霧の中でもきれいだった。
少し庭を歩く。
「おや、お嬢様?」
背後から声をかけられる。
驚いてびくっと肩が跳ねる。
振り返ると、枝切鋏を持った由利が立っていた。
夜の月明かりが霧に反射して淡く彼を照らす。
「驚いたわ……こんな時間までお仕事を?」
「はあ、今日は芝を整えようと思いまして。お嬢様は?」
「ちょっと友人に逢いに行くの。吉野には秘密にしていてね」
「でも、いいんですかい。殺人犯が潜んでいるって」
「それは、少し心配だけれど……それは不確実なことだから、それよりも優先してお友達に逢いたくなってしまったの」
「そうですか……お気をつけて」
「ありがとう。なるべく静かに行ってくるわ」
由利に手を振って、有李華は湖畔に向かった。
夜に、ひとりきりで歩く道は昼とは全く様相が違った。まるで本の中の世界みたいだった。ロンドンの夜なのではないか? シャーロック・ホームズの物語のような。
あと霧といえば、匣の中の失楽。この別荘地にはあんな不快感はないのだけれど。むしろ、涼しい、清涼な霧だった。息苦しくなることもない。
紫陽花の小道に入って、湖畔へ至ると蒼夜の姿が無かった。
「あら……」
蒼夜は帰ってしまったのだろうか?
四阿まで歩くと、背後から声がした。
「こんな時間に出歩くなんて、悪い子だね」
振り返る。
乾いたばかりの髪がふわりと揺れる。
そこには、望んだ彼の姿があった。
「蒼夜さん、どこに隠れていたの?」
「君からは見えないところ。それよりもどうしたの、こんな時間にこんなところで」
「お風呂に入っていたら逢いたくなってしまったから。別に夜に来ても構わないと仰ったでしょう?」
「君の筈だったよ、殺人犯が徘徊していると教えに来てくれたのは」
「それでも逢いたかったの、貴方がこの時間に何をしているのか知りたかったの」
「君のその奔放さが心配になるよ」
「ねえ、何をしていらしたの?」
「月を見ていたんだ」
「安直に綺麗ですねなんて言いたくなんてないけれど、湖面に映る月は綺麗ね、儚くて。湖の中から見上げる湖面の月は、きっとそのときだけ本物になるのだわ」
「詩的だね。――でも、危ないな。帰りは一人なんだろう?」
「ええ。でも、来る途中も何もありませんでしたし……」
「それは帰りもなにもない保証にはならないね」
「そうですけれど」
有李華は少しだけ面白くなかった。逢いたかったのが自分だけだったみたいで滑稽だったからだ。
「仕方ないな……送っていくよ」
「え?」
「ただし、手をつなぐことになるけど、それは我慢してくれよ」
「手を繋ぐの、わたしたち?」
「そう」
そう言って蒼夜は有李華に手をそっと差し出した。
「さあ、どうぞ。お嬢さん」
有李華はなんだか全てが恥ずかしくて顔を伏せて、しずかに指先を彼のつめたい手のひらにのせた。異性と手を繋ぐことなど蜜ノ園有李華の人生において初めてだったのだ。
蒼夜はゆっくりと有李華をダンスフロアにエスコートするかのように四阿から出た。有李華の歩くペースに合わせてゆったりと歩いてくれる。
「蒼夜さんって、湖の畔に住んでいるのだと思っていましたわ。あと、湖から離れられないのかなって、推理していたのだけど」
「離れられないわけではないよ。でも湖の辺りに住んでいるのは当たってる」
「ねえ、今度わたしの家でパーティを開こうと思うのだけれど。来られる?」
「君が呼んでくれるなら」
「ええ、勿論」
二人を周囲から切り離すように霧が包んでいた。二人で歩いている空間だけ時間の流れが違う気がした。
有李華は蒼夜にどうしようもなく惹かれていた。
***
標的を定めた。十六番地の老人だ。あそこはメイドも執事も居らず、老人がひとりで住んでいるだけだから発見も遅れるだろう。
深い霧の中、人間殺害セットを手に十六番地へと向かった。呼び鈴を鳴らすと直ぐに老人は現れた。
一度強化スタンガンで眠らせる。猿轡は手慣れたもので、気品ある老人は無様によだれを垂れ流しびくんびくんと痙攣する物体へと姿を変えた。その様が笑えたのでハンドカメラでムービーを撮った。
首根っこを掴んでずるずると奥の部屋へと引きずっていく。
拷問の時間の始まりだ。
まずは体を紐で椅子にくくりつける。主に上腕、脹脛などを紐でぐるぐるに縛る。
そして、ゆったりとした肘掛けに両の手首を縛って、準備が完了した。
親指から順番に持ってきた釘で縫い止める。人差し指の第二関節に太い釘を当てて、金槌でごん、ごん、と打っていく。痛みで強制的に意識が戻された老人は為すすべもなくただ首や全身を左右に捩って抵抗しようとしている。
次は二本目だ。中指の第二関節を打っていく。
完全に両の手を椅子に固定したら、今度はナイフを取り出した。
この老人の死因は窒息死だ。
だが、あえて老人の目の前でナイフを見せつけた。
「これで、お前を刺す」
そして、前腕部の内側をすうっと切って見せた。縦に、横に、斜めに。網の目になった自分の肌から目をそらすように老人はうめき声をあげて首を反対側へ向けた。
丁度いいのでそのまま首を締めて、殺した。
そして心臓が止まっていることを確認したあと、首に通っている太い血管にナイフを突き刺して、彩り豊かに出血させた。
それから腹部を開いて、腸を引きずり出し、蝶結びにしてやった。
「ほら、お前の好きな金だぞ」
言いつつ、腸を引きずり出して空いた腹の中に前回の殺人でせしめた札束を詰め込んでやった。
「良かったな、お腹いっぱいだなあ、じいちゃん。三途の川の渡り賃だ」
***
蒼夜に家まで送り届けて貰った。
有李華が家の敷地内に入って、振り返ると、蒼夜は既に居なかった。
すばやいひとだわ。
何かから目を逸らすようにそう思った。
有李華は裏口からこっそり自室に戻った。あのひとと繋いでいた手は冷え切って、けれどその芯は火が熾ったように熱い。その熱の正体がまだあのひとに知れていませんようにと願った。この心臓の罪深い熱量が伝わりませんようにと願った。
***
翌日。霧の深い日だった。
また警察の林が屋敷に訪れた。
「有李華さん、昨晩はどちらにお出ででしたか?」
「どうしてそんなことを聞かれなくてはならないの?」
「昨日、被害者が出ました。一名。残酷な手口からして、我々が追っていた犯人だと思われます」
「まあ……」
「最も重要なのは、あなたの身を守ることです。ご協力願いたい」
控えていた執事の吉野が有李華に訪ねた。
「昨晩お出かけになられたのですか?」
「……ええ」
「危ないので外出の際はメイドを伴ってくださいと申し上げたはずですが」
「ごめんなさい。夜も遅かったから、起こすのが申し訳なかったのよ」
「お嬢様の御身に何かあったらと思うと、吉野の残り少ない寿命が更に縮んでしまいます。どうか今度は人を連れて行ってください」
「吉野はまだまだ死なないわ。そうでしょう?」
「ええ、もちろん。お嬢様の花嫁姿を目にするまで死ぬわけにはいきませんとも。ですが、それとこれとは別の話です」
ごほん、と林が咳払いをした。
「どちらに行かれていたのですか?」
「……」
有李華は答えに窮した。
あの湖のことはできるだけなるだけ人に知られたくなかったのだ。それに蒼夜は、人を殺している。今回の殺人には関係がないとしても、その罪が暴かれるのは嫌だった。
「秘密の場所……」
「有李華さん、我々も遊びでやっているわけではないのです」
林は声のトーンこそ変わっていなかったが、どこか苛立っているように感じられた。男性の苛立つ声は怖くて好きではなかった。
「存じ上げていますわ。けれど、……言いたくないの」
「人が死んでいるのですよ」
はっきり言ってしまえば、有李華にとって知らない人が死んだということはヴェールを隔てた向こう側の出来事のような感覚でしかなかった。現実味がないのだ。
「わかっています。わかってはいるのよ……」
有李華は嘆息した。誤魔化せないところまで来ている。けれどもし、もし蒼夜が件の連続殺人犯だったら? 有李華に嘘を吐いているだけだったら?
だとしたら、蒼夜が有李華を殺していない理由が見つからない。殺さなくても害がないと思った? それだけの信用を有李華は蒼夜から得ていた? 否、そこまで交流は深くない。有李華が一方的に慕っているだけだ。
蒼夜からあの湖での逢瀬について口止めされたことは一度もなかった。
つまり、蒼夜はあの湖が知られても困らないということ?
否、彼はあの静かな生活を妨害されることは嫌がるだろう。だからわざわざあんな人気のない場所にいるのだろうから。
そもそも蒼夜はなぜ人を殺したのだろう。
推測ばかりで確実なことが一つもない。そんな状態で警察に湖のことを教えるのは嫌だった。
「明日、家で小規模なパーティを開きます。そこに彼を――わたしがお会いしている方を招く予定です。そのときに林さんにご紹介します」
それではいけない?
そう尋ねると、林はため息を吐いた。
「わかりました。ですが、けっして一人で行動しないように」
「わかりました」
***
今井が笑いながら林に話しかけた。
「パーティですってよ、林さん。被害者の写真の一枚でも見せてやったらどうです? お嬢さんには刺激が強すぎて倒れちゃいますかね」
林は黙って煙草を取り出して一本咥え、ジッポライターで火をつけた。
***
「一番地と三番地、あと七番地の方々に招待状を出してくださる? 明日の夜にパーティを開くから」
執事の吉野にそう言いつけると、吉野は首を傾げた。
「いつもお会いになられているお嬢様のご友人には招待状は出さないのですか?」
「彼には直接わたしが持っていくわ」
「必ずメイドを連れて――」
「わかっています」
***
霧が濃かったので、有李華はメイドを二人伴ってあの紫陽花の小道へと向かった。
「お嬢様はいつも霧深い日にこんな道を一人で歩いていたのですか? 怖くありませんでしたか?」
「ぜんぜん怖くなんてなかったわ。むしろ探検みたいで楽しかった」
「お嬢様は昔からお転婆でしたものね」
「あら、失礼しちゃうわ。こんな淑女をつかまえて」
「ふふ」
「淑女は夜中に家を抜け出しません」
「まあ、それは、そうかもしれませんけれど」
有李華は口を尖らせた。
その様子を見てメイドはふたりともけらけらと笑った。
この二人と吉野は生まれたときから有李華についてくれているので気のおけない仲だった。
両親に甘えることができなかった有李華を代わりに甘やかしてくれたのはこの三人だ。
「あ、見えたわ。あの紫陽花の小道を行ったところに彼はいつもいるの。ここまでで結構よ」
「私達のことは紹介してくださらないのですか?」
「それはパーティのときにね」
メイドからサンドイッチと招待状と文庫本の入ったバスケットを受け取って、有李華は軽く手を振った。
「じゃあ、午後八時頃に迎えに来て頂戴」
「かしこまりました」
***
蒼夜はいつものように四阿に腰掛けていた。
「蒼夜さん」
「おや、暗い顔をしているね有李華さん。どうしたの?」
「警察がここに迫っているわ」
「そうか。君は何も悪いことはしていないのだから、気に病む必要なんて無いのに」
「あなたが人を殺したのを知っているのに黙っているのよ」
「僕に脅されていたと云えばいい」
「そんなことはできないわ、脅されてなんかいないもの」
ハンカチを四阿のベンチに敷いて、腰を下ろす。優雅に一枚のカードを取り出して、蒼夜に差し出す。
「これ、招待状。明日の夜にパーティを開くから、いらして」
「是非」
「絶対よ。警察もいるけれど、怖がらないでね」
絶対という言葉のありきたりな響きに有李華は自分で笑ってしまいそうになった。
「大丈夫、僕は捕まったりしないから」
「……捕まらないでね」
「大丈夫だよ」
その蒼夜の自信がどこから来るものなのか知りたかった。安心したかった。
「あのね、蒼夜さん」
「なんだい、有李華さん」
「あなたがもしも連続殺人犯だったとしても、わたしはあなたに惹かれていたと思うわ」
「ああ、困ったな――そんなことを言われると」
蒼夜は有李華の耳元に唇を寄せた。
「殺したくなってしまう」
それでも良い、と思ってしまった。
耳にかかる吐息は冷たく、繋いだ指先も冷たく。けれどその芯だけが温かい。
「いいわ。その代わりうんと綺麗に殺してね」
耳元で蒼夜がくすりと笑った。
「冗談だよ」
蒼夜がゆっくりと有李華から離れた。
「今日はなんの本を持ってきたんだい?」
***
前途ある子供を殺すのは楽しい。幼くして将来を約束されているのだ。妬ましい。金持ち総ての子供を殺してやりたい。この手でなくても構わない。何らかの理由で死ねばいいと思う。もうすぐ安寧の地に行けたはずの老人を殺すのよりも楽しい。未来を刈り取る死神はおれだ。おれなのだ。
子供の嘆きが聞こえる。どうしてこんなことをするのかと。
お前の親が資産家だからだよ。金持ちはみんな凄惨に死ね。
ママの名を呼び騒ぐのでママの首を投げてやった。眼球がくり抜かれ、首を斧で斬られた母親の首を。
子供は無力なのでくくらなくても良かった。力でねじ伏せて、ナイフで体の各所に線を引いていく。血がぷつりぷつりと出る様は興味深かった。その顔にナイフを向ける。
子供が泣き叫んでうるさかったので口を横に薙いで口裂け女のようにしてやった。
やはり子供は嫌いだ。うるさい。その心臓にナイフを突き立てて、一気に引き抜いた。生きたままだったので盛大に血が吹き出した。ついでに腹を開いて、腸を引きずり出し、蝶結びにしてやった。まだ脈打っていた腸がだんだん動きを止めていくのを俺はじっくりと眺めた。その空いた空洞の腹の中に母親の首を無理やり突っ込んだ。人体は柔性があるのでどうにか収まった。
***
翌日は昼ごろから忙しかった。普段は使っていない広間を開けて、メイドと一緒に準備をした。当然、有李華は見ているだけでも良かったのだけれど、退屈だったのだ。
厨房を覗きに行くと、下ごしらえで吉野と調理人がてんてこ舞いだった。料理を手伝わせてもらったことはないので覗くだけに留める。
***
夜が、招待状の時刻がやってきた。
招待客が訪れる。最初のお客様はシックなドレスに身を包んだ夫人だった。
「ごきげんよう。いらっしゃいませ」
「ごきげんよう、お招きありがとうございます。蜜ノ園さま」
「お気軽に有李華と呼んでくださいな」
「あら。では恐縮ではありますが、そうさせていただきますわね、有李華嬢」
招待したのは有李華と年の頃の近い令嬢の居る佐藤家と、庭が綺麗な小見夫妻と、ピアノが上手な神夫人だった。
「夫人、広間にはピアノがありますの。よろしかったら後で一曲お願いしてもよろしいかしら」
有李華は夫人を広間へと案内しながらそうお願いした。
「まあ、そんな、気恥ずかしいですわ」
「恥ずかしがることなんてちっともありませんわ。いつも貴女の家の前を通るとき、素敵な音色が聞こえてくるから、是非近くでお聞きしたいと思っていましたの」
「有李華嬢にそんなふうに思われていただなんて」
「ね? だからお願い」
「わかりました、でも一曲だけですわよ」
「ありがとう」
次に訪れたのは佐藤家だった。
「有李華さん! 本日はご招待ありがとう」
「雪乃さん、こちらこそ来てくださってありがとう」
二つ年上の雪乃は病気がちで、この別荘には静養に来ている。散歩中に出会って仲良くなったのだ。雪乃はその名の通り淡い雪色のマーメイドドレスを身にまとっていた。
雪乃とそのご両親を広間に案内している最中に、雪乃がこっそり耳打ちしてきた。
「それで、有李華さんの王子様はどちらにいらっしゃるの?」
「なっ、何を仰っているの! そんなんじゃないったら!」
雪乃はくすくす笑った。
「ごめんなさい」
「蒼夜さんのことなら、まだ来ていないわ。もう少ししたらいらっしゃると思うけれど」
次に訪れたのは小見夫妻だった。
「やあ、有李華嬢。素敵な薔薇園だね」
「今晩は、ごきげんよう。お二方。お褒めに預かり光栄ですわ、今度庭師に伝えておきます」
「またうちの庭も見に来てくださいな」
「ええ、是非!」
有李華は玄関の外に出て、彼が来るのを待った。
来られないかも知れない、と頭の片隅で考えていた。有李華の家に送り届けてくれたときは、”手を繋いでいた”から湖を出られたのかもしれないと推測している。
踵を返して、広間に向かおうとする。来賓を放っておくわけにはいかないからだ。
その瞬間、背後から目隠しをされた。
その冷たい温度に覚えがあった。
「ごきげんよう、有李華さん」
「ごきげんよう、意地悪な蒼夜さん」
ぱっと振り返ると、いつもとは違って正装をした蒼夜が立っていた。
「そのボルドーのフィッシュテイルドレス、とても似合っているね」
「蒼夜さんもいつもとは雰囲気が違って素敵だわ」
こちらへいらして、とあの日とは逆に蒼夜の手を引いてエスコートする。その手の温度がまた少し温かみを増していた。代わりに、有李華の背筋を悪寒が走る。
けれどそんな些末なことは蒼夜がいまここにいるということに比べればどうでも良かった。
家の前に立っていた警察の林のもとに向かった。
「林さん」
「お嬢さん、どうしました? そちらは?」
「こちらがわたしが会いに行っていた方です」
「蒼夜と申します。はじめまして」
「県警の警部の林と申します。いくつかお伺いしたい点がありまして……」
「何でも聞いてください」
「お名前、フルネームでお聞かせくださいますか」
「蒼夜夕です」
有李華はくるりと蒼夜を振り向く。
「え? 蒼夜さんって下の名前じゃないの?」
「そうだよ」
「どうして教えてくださらなかったの」
林の咳払いが聞こえた。
「ご年齢と職業は?」
「年齢は秘密です。職業は無職になるのかな」
「秘密って……あのね、ふざけていないで真面目に答えてください」
「忘れちゃったんですよ。自分がいくつになるのか」
蒼夜は飄々と答えた。
「外見だけ見ると、わたしより少し年上くらいかしらね?」
「そうかもね」
「殺人犯がこの別荘地に逃げ込んだことはご存知ですか?」
少し苛立ったような林の声を聞き、有李華はそこでおや? と思った。これまでの質問からもそうだが、林と蒼夜は初対面らしい。警察があの湖を知らないなんてことがあるだろうか?
「ええ。ここにいる有李華さんに教えていただきました」
「別荘はどちらに?」
「もしかして、僕は今事情聴取されているのですか?」
「そんな大層なものじゃないですよ。任意の協力を願っている段階です。本格的な事情聴取となったらもっと怖いですからね」
「怖いのは嫌だわ」
「任意なのでしたら、そろそろパーティに参加してきてもよろしいですか? 有李華さんをお待たせするのも嫌ですし」
林は深いため息を吐いた。うまくハンドリングできない曲者だらけの別荘地に辟易しているのかもしれない。
蒼夜に手を引かれ、広間へ入場すると、皆が一斉にこちらを振り向いた。
立食パーティ式なので皆それぞれ楽しんでいるようだった。
「遅くなりまして申し訳ありません。みなさん、お楽しみいただいておりますでしょうか?」
「あら、貴方が有李華さんのお友達ね? 初めまして、佐藤雪乃と申します」
雪乃の一礼に蒼夜も優雅に返す。
「初めまして、蒼夜と申します。時折有李華さんからお名前をお聞きしておりました」
「まあ、有李華さん、何を話したの?」
「僕も聞きたいな、有李華さん?」
急に二人に見つめられて、有李華はにこやかに笑ってみせた。
「そんなに変なことは言っていないわよ。……本当よ?」
神夫人のワルツ曲を堪能して、広間に拍手が響く。恥じらう夫人は少女めいて可愛らしく見えた。
「あのね、わたしの旦那様がピアノがお好きなの。だから一生懸命練習したのよ」
「幼い頃から許嫁でいらしたのよね?」
「ええ……」
「少女小説みたい! 素敵ね」
「わたしには有李華さんの生き方も素敵に思えるわよ。知識人という感じ」
「そんなことはないわ! まだまだ知らないことばかりですもの。でもありがとう」
「有李華さん、わたしにもそちらのピアノがお上手な方を紹介してくださいな」
雪乃が訪れた。
「雪乃さん! 神夫人、こちら佐藤雪乃さんというの。確かおふたりは同い年だったはずだわ」
「佐藤さんも二十一歳なの?」
「ええ! 共通点が一つ目」
同い年の二人の話がはずんでいたので、壁の花と化していた蒼夜のもとへとすっと寄る。
「蒼夜さん、楽しめてる?」
「ああ、こういう場は久しぶりだから楽しいよ。……ねえ、有李華さん、薔薇園を案内してくれないかな?」
「ええ、勿論」
吉野に中座する旨を伝えて、有李華は蒼夜と庭の薔薇園に繰り出した。蒼夜はやはり家で用意した何の料理にも手を付けなかった。
「薔薇っていろんな色や種類があるんだね」
「ええ。折角だから、昼に咲いているところを見せたいのだけれど……」
「昼は、ちょっと難しいかな」
「ええ。なんとなくそんな気がしていたわ」
一輪の閉じた薔薇に顔を近づけて、目を瞑った蒼夜は初めて出会ったときのように儚く美しく見えた。
まるで消えてしまいそうだったので、薔薇の茎を掴むその手に触れた。
「……有李華さん?」
不思議そうに尋ねられて有李華は遅れて自分の行為の大胆さにぱっと手を引いた。その手を蒼夜に掴まれる。
「あまり可愛らしいことをしないで」
「い、いえ、まるで貴方が消えてしまいそうだったから」
蒼夜の柔らかな視線に射抜かれる。
「僕は消えないよ」
「それじゃあどうして貴方はそんなに儚いの?」
「いざというとき君を守れるくらいには儚くないけれど」
「口説いている?」
「さあ、どうだと思う?」
「都合よく解釈しろって云うのね、ずるい人。じゃあ、口説かれてる」
「正解」
「でも、あなたには秘密が多すぎるわ。もっとお互いのことを知らなくちゃ」
「そうかな」
「解きたい謎が多すぎるんだもの」
「ミステリマニアだね」
「そうかしら」
「じゃあ質問ごっこをしようか」
「質問ごっこ?」
「一つずつ相手に質問をして、相手がそれに答えるゲーム。勿論嘘はなし」
「なんだか蒼夜さんに仕掛けられると怖いものがあるわね」
「失敬だなあ」
「冗談よ。受けて立ちます」
「じゃあ質問。怖いものは何?」
「怖いもの? そうね……」
有李華はうつむいた。
「人に期待することが怖いわ。うーん、怖いというより、諦念を持っている、と言ったほうが近いかしら。とにかく、好きじゃないの」
「それはどうして?」
有李華は幼少期に思いを馳せた。何歳だったかの誕生日。本邸の広い食堂で、豪奢なケーキとともに取り残される自分の姿。
たしか母の容態が急変しただとかで、父は会社を早退して母のもとへ向かったらしい。その日の内に帰ってくることは無かった。
そんなことが重なって、重なって、重なっていく内に、母のことを嫌いになりそうになって、でもそうなりたくなかった有李華はいつしか人に期待することをやめたのだった。
「――どうしてかしらね」
「ごめんね」
「あら、どうして謝ったの? 気にしなくていいわ。じゃあ、わたしの番ね」
有李華はドレスの裾を持って立ち上がった。
「貴方が今日このパーティに来られたのは何故?」
「君に、招待状をもらったからだよ」
「招待状をもっていなかったらきっと来られなかったのでしょう」
「うーん、君は鋭いね」
「あら、わたしは初めて出会った時から鋭かったつもりだけど?」
蒼夜が何か言いかけたときに執事の吉野の声が背後から聞こえた。
「お嬢様、そろそろ中へ」
「わかったわ……蒼夜さん、中へ入りましょう。この遊びの続きは次会ったときに」
「ああ、そうだね」
***
皆を見送る段になって、林と今井がそれぞれを送り届けることになった。蒼夜は二往復めで送るらしい。
「僕にはそんなもの要らないんだけどな」
「きっと任意の聞き取りがあるわよ。面倒なら先に帰ってしまったらいかが?」
「そうだね。そうしようか。今日はお誘いありがとう、有李華さん。またお呼ばれするのを待ってるよ」
「ええ、勿論。充分に気をつけて帰ってくださいね」
そう言いつつ、有李華は蒼夜が誰かに襲われることなどありえないのではないかと確信めいて思っていた。
***
金持ちの中で最もおれが嫌うのは中年だった。人生の良いところ総てを富裕層として過ごしてきた人間だ。説教などをされた日にはもうその場でナイフを突き立ててやりたくなる。衆人環視のもとで凄惨に死ね。
使用人も連れず家族だけで別荘に来ていたことを呪うがいい。家族の方は先に殺しておいた。最後に残った中年をひとり、最初の老人のときの要領で椅子にくくりつけて、周りに家族の首を並べて置いた。妻の首が置かれた時、金持ちの中年男は滂沱した。中年男が愛妻家であることは知っていたのでよく見えるように近くに置いてやった。
ふつふつと悦びの感情が沸き起こってくる。
すべてだ。
これまで与えられてきたすべてを喪わせてやる。
俺は中年男の手の爪と肉の間に細い釘を細かく打ち込んだ。うるさかったので悶絶する中年男の頭に一発金槌を打ち込んでおいた。
屋敷のお嬢さんはどんな殺し方をしてやろうか。
右手の親指には五本。人差し指には四本。中指には三本。薬指には二本。小指には一本、細い釘を打った。
左手はアサルトナイフのようなもので縦に引き裂いた。薬指は途中で切断して、結婚指輪を抜き取った。中年男は途端に目を血走らせた。それだけはやめてくれと声が聞こえるような暴れ方を始めた。ので、あえてそれを無理やり口の中に突っ込んで嚥下させる。絶望が極地に達したのか、もう中年男は声も出さずに泣いていた。
シャツの前を開けて、腹をひらいて、大量の血が吹き出したがおれにはなんにも関係ない。レインコートを着ているし、顔面も完全防備している。
生きたまま腸を引きずり出し、別室から持ってきた中年男の家族の腸と蝶結びする。これで冥府でも一緒だろう。ざまをみろ。資産家であった中年男を恨みながら無様につながって死後の世界を過ごすがいい。
***
「蒼夜様、と仰っしゃりましたか」
「え? ええ」
「あの方ならばお嬢様を孤独にすることなく付き添っていけるかもしれませんね」
「吉野? なにを言っているの」
「お嬢様をお任せする相手を今日はじっと観察させていただきました」
「吉野!」
ほほ、と笑って吉野は両手をさすった。
「しかし、今日は少し寒かったですな」
「そうだったかしら」
「ええ、フロア全体が」
「あ……」
蒼夜のせいかもしれない、と思った。
「どうしました?」
「あ、いえ、なんでも無いわ」
***
翌朝目覚めると、外はどんよりと曇って霧が濃かった。ああ、良かった。今日も逢える。
起きて、レタスとベーコンエッグを挟んだマフィンを食べる。そして用意されていた白い生成りの麻のロングスカートとセーラー襟が特徴的なネイビーのトップス、白いカーディガンを身に着けて本を二冊持ち、玄関ホールに降りる。
もう何も言わなくても日傘とバスケットを差し出されるようになってしまった。それだけ多くの回数有李華が蒼夜のもとに通っているということだった。なんだか面映ゆくて俯いてそれらを受け取る。
「お嬢様、メイドを伴っていってくださいね」
「はいはい。それじゃあ行きましょうか」
有李華たちは屋敷を出た。
***
「よし、つけるぞ」
「今度こそ撒かれないといいですね」
「うるせえ、集中しろ」
***
「想像より遥かに素敵な方でしたね、お嬢様のお友達」
「私、女性なのかと思っておりました」
「あら、言っていなかったかしら……蒼夜さんは男性よ。目の色がとても綺麗だったでしょう」
「目を見るような余裕ありませんでしたよ」
「目が合ったら何か話さなければならないじゃないですか」
どうやら蒼夜は有李華邸のメイドにいたく気に入られたようだ。
***
朝露に濡れた紫陽花の小道を抜ける。石垣の上に咲いているので辺りに何があるのかはわからない。この紫陽花通りには人の手が入っていないのだろうか、それにしては綺麗に咲き誇っている。褪せていく様まで綺麗な色なのに紫陽花にはどこか儚げで憂鬱な印象があって、どことなく蒼夜を彷彿とさせた。
***
「あ、そこの!」
林は有李華を送り届けたあとの帰り道のメイドふたりを捕まえた。
「蜜ノ園さんの家の方ですね? お嬢様は今どちらに?」
「まあ、逢瀬を邪魔するのは関心しませんわ」
「そうよ」
「やっぱりあの蒼夜さんという方のところに居るんですね。そこまで案内してくれませんか」
メイドは顔を見合わせて、数秒してからうなずいた。
「こちらです」
「あら? たしかにこの辺りだったと思うのですけれど……」
「変ね」
メイドたちの記憶によればこの近辺に小道があったはずなのだが、紫陽花もなければ小道も見つからない。
「ごめんなさい、私達も道がわからなくなってしまったみたい……困りましたわ、帰りのお迎えはどうしましょう」
「帰りも家からまっすぐ来れば大丈夫なんじゃないかしら。今日は途中からだったから感覚がずれているのかも」
「いえ、ご協力感謝します。この辺りなんですね?」
「ええ、この辺りであることは確かです」
***
いつもの四阿に蒼夜が見当たらなかった。
「蒼夜さん?」
名を呼びながらきょろきょろとあたりを見回すと、背後から声がした。
「なあに?」
びくっと肩をはねさせる。驚きすぎて声も出なかった。くすくすと笑う蒼夜をにらみつける。
「あ、あ、貴方、お化け屋敷のおばけの才能に恵まれているようね」
「じゃあ来世は目指してみようかな」
「あら、今からでも遅くなくってよ」
「今からはちょっと難しいかな」
一秒くらい、静かな時間が流れた。
本当は気づいていることから目を背けるために必要な時間だった。けれど、目を逸らすのはもうおしまいにしよう。
「蒼夜さん、質問ごっこをしましょう」
「いいよ。今日は特別に有李華さんからでいいよ」
「ひとつ、推理したのだけれど――あなたは、生きている人じゃないわね?」
「うん。僕は幽霊――ということに、なるのかな」
***
人間の熱を奪って実体化している蒼夜にとって、初めの有李華は新たな熱源の一つでしかなかった。すこし面白いお嬢さんが遊びに来たなくらいの気持ち。嫋やかだから殺しやすいだろうし、自分に惚れさせるのも簡単だろうと踏んでいた。実際有李華は日に日に自分に魅入られていくのが目に見えてわかった。
しかし、ここでひとつ計算違いが生じた。
蒼夜も有李華に惹かれてしまったのだった。
その仕草に、声に、奔放さに、端々から伺える育ちの良さに、頭の回転の速さに。
蒼夜はいつしか彼女から熱を奪うことに躊躇いを覚えるようになった。
彼女が発熱を押して会いに来た時なんかは嬉しくて殺してしまいそうだった。
そうだ、有李華を殺してしまえば幽霊として二人で過ごしていけるのでは?
――なんて、罪深いことを考えたりもした。
しかし甘美な誘惑だ。
だが、これまで殺してきた人間たちは皆成仏していった。有李華がここに幽霊として残ってくれるとは限らない。それなら少しずつ少しずつ依存させて、有李華が死ぬまで一緒に居たほうが長い時間をともに過ごせるのではないだろうか。
ああ、どちらを選ぼうか。
***
「人間から熱を奪うのは、そうすることで目に見えるようになるの?」
「実体化できるようになるんだ。心臓は動いてないんだけど」
蒼夜は有李華の華奢な手首を掴んで心臓のあたりにおいた。
「ね? 動いていないだろう」
「ちょっといま自分の心臓のほうがうるさくてわからないわ、ごめんなさい」
蒼夜は笑った。
「僕が死んだ時はね、湖面に氷が張っていたんだ。あまりに綺麗だったから歩けるかと思って湖面の氷の上を歩いてね、真ん中の辺り、氷の薄かった場所で氷が割れて沈んで死んだんだ」
「そう……」
有李華はそれでもその光景はきっと美しかったに違いないと想像した。
「食事は当然摂る必要が無いものね。一緒にいると食事が食べられなくなるのも貴方が幽霊だから?」
「そう。この間は立食パーティ式だったから助かったよ、壁際にさえ居れば他の人に影響を与えずに済むから」
「ああ、そう云えば湖から出られたのはどうして? 手も繋いでいなかったのに」
「君からもらった招待状があっただろう。あれのおかげで境界を超えられたんだ」
「境界……」
「目には見えない境界がこの世にはたくさんあるんだよ」
「そうなのね」
「君のことを聞かせて」
「なんでも聞いてよろしくてよ。嫌だったら答えないから」
「有李華さんはご両親のことが嫌いなの?」
「――嫌いでは、無いわ。嫌いにならないように生きてきた」
有李華は湖の方を遠い目で見つめた。
「そうなんだ。僕は嫌いだったよ。ネグレクトだったから」
「育児放棄されてきたの?」
「うん。でも目に余ったんだろうね。近所の人の通報で施設に引き取られて、そのあとは富豪の老夫婦に引き取られた。その時はやっと報われると思ったんだけど、老夫婦は別に僕に愛着を持って引き取ったわけじゃなくて、資産の管理を任せるために引き取ったらしくてね。誰でも良かったうちの誰かが僕だっただけなんだ」
「そう……。わたしはね、いつでもお父様の天秤の片方に乗っていたわ。そしてもう片方にはいつでもお母様が乗っていたの。軽いのはいつも私の方、だからあまり両親に執心しても仕方ないと思っているの」
期待するだけ無駄だわ、と有李華は淡々と述べた。
有李華と蒼夜は諦めで繋がっていた。端々に感じる連帯感はそこから来ているのかも知れなかった。
***
そろそろこの別荘地での犯行も終わりにしなければならないだろう。警察の奴らが応援を呼んだと耳にした。
さあ、デザートの時間だ。雇い主である蜜ノ園有李華を手に掛ける時が来た。あの娘は気が強そうだからどうなるか楽しみだ。
今日帰ってきたら殺してしまおう。それまでにメイドや執事を殺しておこうか。それともお嬢さんの目の前で解体ショウを行おうか。――解体ショウだな。屋敷の家人は縛り上げて置いておこう。
***
「おかしいわね……」
約束の午後八時になってもメイドたちが迎えに来ない。何かトラブルでもあったのだろうか。
有李華は待っていても仕方がないと自宅の方へ歩き出した。一本道なのだ、すれ違うことはないだろう。
***
「ただいま」
言いながら家のドアを開けても誰からも返事はなかった。何かのサプライズ? 何があっても驚くだろうからきっと成功ね。
有李華は家中を探して回ったが誰の姿も見つからなかった。
ここで初めて有李華は危機感を持つ。
みんな揃ってどこへ行った?
「由利さん? 入るわよ」
声をかけて、庭の小屋へ入る。赤に塗れた斧やチェーンソーがまず目に入った。なんの血だろう。一番奥の机にはページが開いたままの手帳があった。
危ないとは思いつつ好奇心には勝てず覗き込んでみた。
鉛筆で書きなぐるように罫線も気にせず書かれたそれを――殺人記録を、最新のページから読んでいく。
殺人が始まったのはいつ?
由利翔星を雇ったのはいつ?
ああ――虎は家の中に居たのだ。
どうしよう。どうするべきだ? 林の連絡先を知っているのは吉野だけだ。その吉野が見つからない。
どこへ行ってしまったの?
またわたしは置いていかれてしまったの?
とにかくここに居るのは危険だ。有李華は由利の小屋を出て、そこでばったりと由利と出会す。
「由利さん、吉野を見なかった?」
平静を装ってそう聞けたのは有李華の胆力の賜物だろう。
「吉野さんの居場所なら知っていますよ」
その言葉は能面のようなのっぺりとした顔から発せられた。
由利からはただならぬ圧迫感を感じた。
「会いに行きますか?」
「――いえ、今はいいわ。後で行きます」
横をすれ違って、唯一今安心できる場所、蒼夜のところに行こうとすると、
「お嬢さん、見ましたね?」
ささやくようなその言葉に背筋がぞくりとした。この男に背中を向けているということが恐ろしくてしょうがなかった。
「見たって、何を?」
「……白々しい素人芝居はもう十分なんだよ」
豹変したような態度を取った由利に、有李華は駆け出す。ああ、有李華が白々しい素人芝居なら由利はベテラン役者だろう。
悪意にこれまで触れてこなかった体は上手に動かず、足は縺れ、それでもなお必死で走る。
夜は暗いのだと初めて知った。ところどころにある街灯が有李華を助けるように道案内をする。
息が切れてきて、走るペースが落ちてきて、とうとう有李華は立ち止まった。耳を澄ませると、遠くから有李華を追う足音が響いて聞こえる。
だめだ、立ち止まっては。
死の皮を被った人間が今有李華に迫っている。
有李華はもう一度走り出した。
紫陽花の小道に至って、そこで一旦息を整えていると、正面から警察の林と今井がやってきた。
「ああ、良かった。警察の林さんと今井さんよね」
「なんでこんなところにお嬢さんがいるんです?」
今井の素っ頓狂な声に安堵の息が漏れる。
「助けてください、殺人犯はうちの庭師の――」
「由利は何をやっているんだ」
「――は」
この人は何を言って――
有李華の脳内が高速で回転する。
そう云えば。警察と名乗られはしたが、警察手帳は見ていない。
殺人犯は一人だと思いこんでいた。
有李華は踵を返して紫陽花の小道に飛び込んだ。そのまま走る、走る、走る。
しかし、疲れ切った娘と成人男性の走力の差は歴然だった。どこに隠していたのだろうか、鋭い刃物で背中を大きく切り裂かれる。
「あ゛ぁっ」
熱い。焼けるようにたった今つけられた傷が痛んだ。
しゃがみこみたいのを堪えて、石垣に捕まってそれでも歩き続ける。
「三分待ってやろう。逃げられるものなら逃げてみせなよ、お嬢さん」
「林さんずるいですよ、俺だって痛めつけたいのに」
「うるせぇ。由利のやつばかり今回はいい目を見て、俺は誰も殺せていないじゃないか」
***
蒼夜さん、蒼夜さん。
やっと抜けた小道の先には、蒼夜の姿は無かった。
「そんな……」
それでも、それなら、隠れなきゃ。
でももう長いこと歩けない。
四阿の、小道から見えない反対側に回り込んで、座り込む。もう動くのは限界だった。
あえぐ口に手で蓋をして、肩で大きく息をする。背中が疼く。
ざくざくと道や草を踏んで小道を抜けてきた男たちの足音がする。
どくんどくんと心臓の音がする。そのたびに背中から血液が流れる。頭からすうっと血が下りていくような、貧血の感じがした。
「ここが例の湖か」
「綺麗なところですね」
あなた達にそんなこと言ってほしくない。
わたしと蒼夜さんの場所について一言も触れてほしくない。
そのとき、蒼夜がどこからか目の前に現れた。
人差し指を唇に当てて、しー、という仕草をする。
そして自分は手近に落ちていた人の頭ほどの大きさの石を拾って立ち上がり、有李華からは見えないところへ行ってしまった。
何をするつもりなのだろう。蒼夜が傷つくことはきっとないけれど――
「ぎゃっ」
「お前っ、がっ」
林と今井の悲鳴が聞こえた。
その後、ごつん、ぐしゃっ、という音が何度か続けて聞こえた。
「有李華さん、もう大丈夫だよ」
蒼夜の声がした。ひょい、と有李華を覗き込む。
その顔には返り血や脳漿が飛び散っていて、凄惨な有様だったけれど、有李華には知ったことではなかった。林と今井は頭を石で潰されて死んでいるようだった。
本当に躊躇いなくひとを殺せる人間なんだ、と思った。
それは有李華のためだったのか、それとも蒼夜が元来持つ性質だったのか。
どちらでも構わなかったけれど。
だってわたしは、もう死ぬのだから。
自分でもわかる。目の前に病院がありでもしない限り助からない。
「蒼夜さん、蒼夜さん」
「何、有李華さん」
「わたしを一番にして。あなたの一番にして。秤の片方に何が乗っていたとしてもわたしを一番重くして。忘れないようにこの亡骸を刻みつけて、わたしの魂を刻みつけて、骨の髄まで」
「うん。大丈夫だよ。君はずっと前から僕の一番だ」
「嘘よ」
「嘘なんかつかないよ。明日のない僕に、未来も過去も空虚な僕に、明日を夢見る時間をくれたのは君だった。愛しい有李華さん、他に代わりなどいない君。世界で一番愛しい君を、忘れることなんてするもんか」
それを聞いた有李華は嬉しそうに目を細め、血の気のない頬で笑おうとした。
「目を閉じて」
「いやよ。最期のその瞬間まであなたのことを見つめていたいの」
かすれた声はもうその瞬間が近いことを告げていた。
呼吸音が喘鳴に変わる。
蒼夜は有李華にそっと口づけた。
そうして止まった彼女の息を、最期の熱を引き取るように顔を上げる。奇しくも、そのとき初めて蒼夜と有李華の体温が等しくなった。
そのとき、紫陽花の小道を抜けて由利が息を切らして畔へと飛び込んできた。
「林! 今井! おれの獲物はどこだ!?」
そしてそんなことを叫んだ。
「林さんも今井さんももういませんよ」
蒼夜が答える。
「おまえ、この間の馬鹿げたパーティに居たやつだな。林と今井を殺したのはお前か」
「そうだよ」
「それなら代わりにお前が殺されろ! 今晩はデザートを殺す予定で、おれは予定が狂うのが嫌いなんだ」
「無理だよ、僕はもう死んでいるからね。有李華さんは僕が連れて行く」
蒼夜は有李華の亡骸を抱き上げて、湖の上を歩いた。
「な、何だお前、なんで水の上に」
その言葉を省みることなく湖の中央まで歩いた蒼夜は、そっと足元から沈んでいった。
「やめろ、もうおれを一人にするな、林ィ! 今井ィ! お前らは殺す側だろうが! 殺されてどうする、返事をしろォオ!」
由利の叫びだけが湖畔に反響した。
***
――眩しい晴天の日だった。
「ねえ、律ちゃん律ちゃん」
「何?」
車の中で別荘に運搬されながら、律は双子の妹である涼のテンションの高い声に苛まれた。
「ここの別荘地の秘密聞いちゃったんだ。もう捕まっちゃったらしいんだけど、昔殺人鬼がいたとかね、あと、霧の深い日にね、紫陽花の小道が出るんだって。そこを進むと湖があって、なんと湖の上でダンスを踊る二人の幽霊が現れるらしいよ!」
「見たいの?」
「律ちゃんがついてきてくれるなら……」
「じゃあ無理だね。興味ない」
「えー怖いだけじゃないの」
律は涼をじろりと睨んだ。
「そろそろ到着いたします」
「涼、準備して」
「はあい」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。