← 作品ページへ戻る

紫陽花色の骨を喰む

蓮海弄花

61,630 字

ダークファンタジー、ゴシックロマンス、心理ドラマ

"死を歌う天使の歌声が、世界を救済する。歪んだ愛と救済の果てに、二人は紫陽花色の骨を喰む。"

 従兄妹同士の二人主人公のホラー小説。  日常会話で声は出ないものの、歌に関してはエンジェルヴォイスと言われるまでの歌声を持つ被虐待児、十四才の江刺家桐慧(えさしかきりえ)と、世界的な知名度を持ち、高校へは通わずプロピアニストとして世界ツアーを回っている十七歳の江刺家桐人(きりひと)が、別荘地にある「紫陽花屋敷」に行くところから物語は始まる。

← 右から左へスクロール

 江刺家桐慧(えさしかきりえ)は、床で眠るのが当然だった。食事は与えられたら幸運で、殴られるのはいつもお腹か背中だった。
 何より嫌だったのは脚の間に野菜や指を突っ込まれることだった。それは女の徴が出てから頻繁になった。嫌がるとその何倍もの苦しみが訪れるので、いつしか桐慧は喋らなくなり、無反応の人形のように振る舞うようになった。そのことがまた父親の癪に障るようだったが、桐慧はそれ以外どうすればいいのかわからなかったのでただ殴られるままだった。
 父親は外面を取り繕うのが上手だったので、毎日風呂には入らせてくれたし、時折美容室にも連れて行ってくれた。腰まで伸びていた長い黒髪の手入れには母が使っていたものと同じブランドのヘアオイルを買ってくれていた。
 桐慧が父親からそのような扱いをされるようになったのは、ピアニストだった母の慈(めぐみ)が失踪した九歳の頃からだった。毎年行っていた別荘で母は急に姿を消したのだ。失踪した時桐慧も一緒にいたらしいが桐慧はその時の記憶が抜け落ちていた。
 慈を狂おしいほど愛していた父親の巡(めぐる)は、桐慧に慈の面影を見ては桐慧を殴ったり蹴ったりした。そんな父親のことを桐慧はどう捉えればいいのかわからなかった。ただただ困惑し、また困窮していた。
 学校は通っていたが、教科書は開きもしないで机の上に置いたまま。その授業態度を桐慧の担任教師が巡に相談したところ、桐慧は転校することになった。
 巡が決めた桐慧の日中の置き場所は、一駅離れたところにある小中一貫の私立小学校だった。
 巡は多額の寄付金とともに桐慧をそこに転入させた。そこでも桐慧の授業態度は変わらなかった。けれど教員たちの桐慧に対する腫れ物扱いが伝播するかのように、生徒たちも窓際に一つ増えた席に座るだけの桐慧に積極的に関わろうとはしなかった。桐慧にしてみれば有り難かった。
 桐慧が唯一意欲的に取り組んでいたのは、放課後の音楽室での音楽教師とのマンツーマンのレッスンだった。

*

 沙汰川航大(さたがわこうた)のなんの面白みもない学生生活に突如現れた江刺家桐慧さんはすこし変わっていた。
 小学四年のときに唐突に転校してきたのだ。
 体育は見学だし、授業が始まっても教科書を開きもしない。教師はそれに注意もしない。まるで空気のように扱われていた。転入前に彼女が通っていた小学校が江刺家さんと同じだったやつが、偶然塾が一緒だったから聞いてみると、昔はそんなことはなかったらしい。彼女のお母さんが失踪してから今みたいな無気力になってしまったようだ。
 窓側に近い席だったら机に肘をついて窓の外を眺めているし、廊下側に近い席だったら時計の方をずっと見ている。
 給食を食べるのも遅いし、いつも食べきる前に時間が来て片付けてしまっている。
 僕は学校がそこそこ好きだし、授業も嫌いじゃない。スクールカーストはトップクラス。まあ、それは僕の実家がお金持ちなだけで僕になにか理由があるわけじゃなかったけれど。
 そして、江刺家さんは間違いなくカースト外に存在していた。
 誰も江刺家さんには話しかけない。
 その背中の半ば程まで長い豊かな髪を襟元で括って、人形のように整った顔をして、セーラー服の奥では何を考えているのだろうか。
 誰から発信された情報だか知らないが、彼女は最終下校時刻まで学校に居るらしいので、僕は話しかけるためにすこし遅くまで残ってみた。
「江刺家さん」
 すると、長い下まつげが印象的な大きな瞳がゆっくりこちらを見た。
 そして彼女は、喉元をトントン、と叩いて、口元でバツ印を作ってみせた。
「喋れないの?」
 江刺家さんは頷いた。
「なんで?」
 尋ねると、彼女は首を横に振った。
 そして、話は終わりだとばかりに鞄を持って立ち上がった。
「帰るの?」
 江刺家さんは首を横に振った。
 彼女は廊下に出たときに扉を締めて行ったので、その明確な拒絶に心臓がどきどきした。
 
 この学校はクラスごと持ち上がりである。江刺家さんとの学校生活は彼女が転校してから五年目に入っていたが、距離を詰めることはできないでいた。彼女は誰とも仲良くなかった。しかし、どこかいじめの対象にならない清廉さがあった。
 十四歳の夏休みに入った。課題は最後の一週間でやるものだと信じてやまない僕は、動画サイトをずっと見ていた。お盆になったけれど祖母の家は遠いので今年は帰らないことにしたらしい。
 適当に自分の部屋のベッドに寝転んで動画をスワイプしていると、見覚えのある顔がトップランカーに入っていたので再生する。
 江刺家さんだ。
 初めて聞く彼女の声は、まるで透明で濡れない雨に打たれているかのような柔らかな声だった。
 なんだか絵本に出てきそうな――かわいい服を着て、なにかの歌を歌っている。なんとなく聞き覚えがあるので、学校の音楽の授業ででも聞いたのかもしれない。
 普段の無気力さとは打って変わって、胸元に手を当てたり、手を折りたたまれた翼のような祈りの形にしてみたり、そして最後は慈母のように両腕を広げて。
 これがあの江刺家さんなのか?
 一緒に居た男子は誰だろう。
 クラスLINEも盛り上がっている。
 しかし誰一人として江刺家さんの連絡先を知らなかった。
 動画のコメント欄でも江刺家さんの情報を求める声が多く、そこには江刺家桐人、という名前があった。僕は知らなかったけれど世界中で有名なピアニストらしい。
 江刺家なんて珍しい名字なかなか居ないだろう。きっと江刺家桐人は江刺家さんの親戚かなにかだ。
 誰かが江刺家桐慧、という名前をリークした。
 江刺家さんは大丈夫だろうか。
 平然を装って、僕はそんなことを考えた。
 
 江刺家さんと江刺家桐人のコンサートが行われることが告知された。それに伴い、江刺家さんの登校日は減ることがさりげなく公表された。
 なにか記者に聞かれても何も応えないように、と厳重に注意された。

 江刺家さんのコンサートを聞きたかった僕は、父親に頼んでチケットを取ってもらった。
 父親は、自分の跡継ぎがあまり教養のないことを憂いていたようだったので、自分からそのように頼みに来たことが嬉しかったらしく、すんなりと受け入れてくれた。
 
 そしてコンサート当日。正装をして、僕と父は東京文化会館小ホール、Mの30と31の席に座った。
 そして幕があがった。

*

 桐慧は学校で、熱心な、しかし押しつけがましくはないキリスト教徒の音楽の先生に賛美歌を習っていた。ラテン語も教えてもらい、覚えた。すると、ラテン語で書かれた歌であれば初見で何でも歌えるようになった。それは滅多にできないことで、九歳の女の子にしては驚異的な能力だった。訓練してできることではない。
 桐慧の歌声を聴いた音楽の先生は桐慧に音楽の専門の学校に通った方がいいと勧めてきたけれど、あの父親がそうしてくれるとは思わなかった。希望なんてどこにもなかった。
 神に祈れば桐慧はこの環境から逃れることができるだろうか。父親に虐待されていることは口にするなと固く禁じられていたので、桐慧は自身を救ってくれるのはもう神しか居ないのではないかと思っていた。教会に通ってみようかとも思ったが、父親の影がちらついて行くことは躊躇われた。
 賛美歌を歌えばその間は救われている気持ちになった。主よ、憐れみ給え。あなたの御下に行くことを許し給え。できれば天国で、母と同じ土地に暮らすことを許してほしい、と切実に桐慧は考えていた。
 桐慧は、九歳にして希死念慮を患っていた。しかし死ぬ方法がわからなかった。あの父親の目をかいくぐってどうやって死ねばいいのだろう。
 苦しくてもいい。早く楽になりたかった。
 家で賛美歌を歌ったら、うるさいと父親に頭を殴られた。家で賛美歌を歌うのはやめた方がいいと学習した。

 そんな虐待が日常的になった生活を送っているうちに、桐慧は十四歳になっていた。教師は誰も桐慧が受けている虐待に気がつかなかった。本当に気がついていなかったのか、父の毎年の寄付によって気がつかなかったことになっているのかは桐慧には知る由もなかったし、助けが無いことに変わりはないのだからどうでもよかった。
 もう十四歳になると、父親のことは憐れに思っていた。桐慧に当たることでしか慈を失った悲しみを発散できないのだろう。弱い人なのだ。
「おい」
 父親が桐慧を呼んだ。巡がおいと言う時は桐慧を呼ぶ合図だった。
 桐慧は父親の前に正座した。
「今年の盆は本家に帰ることになった。桐人(きりひと)が帰ってくるらしい。お前、絶対にバレないようにしろよ」
 桐慧は頷いた。
 頷き、もしかしたら親戚の誰かが助けてくれるかもしれないと少し期待した。期待して、そしてその考えをすぐさま打ち消した。期待なんてするだけ無駄だ。だって今まで誰も助けてくれなかったのだから。ああ、早く人生が終わらないだろうかと桐慧は思った。
 桐人というのは桐慧の三つ年上の従兄で、高校へは行かず、プロのピアニストとして世界中で公演を行っている天才だった。いつでも桐慧に優しかったので桐人のことは好きだった。もしも桐慧を助けてくれるとするならば彼だろう。

 お盆がやってきた。それまでにはなんとか腹の痣の痛みはマシになっていた。酷いときには歩くのにも苦労する。桐慧は白いワンピースで江刺家家の本家へと訪れた。袖に赤の線が入った涼し気なデザインで気に入っていた。父の巡は洋服を選ぶセンスがいい。
「あらぁ、桐慧ちゃん! 美人さんになったわねぇ」
 出迎えてくれたのは桐人の母の小百合(さゆり)だった。桐慧の父親の巡とは双子になる。
 美人と言われたことはなかったのでどう反応していいか分からず、小首を傾げた。
「慈ちゃんにそっくり。そのきれいな長い髪とか、透き通るような白い肌とか」
 桐慧はその言葉にびくっと肩が跳ねて、その肩に巡の手が置かれた。
 ――ああ、終わった。桐慧は帰ってからの平穏を諦めた。帰ってからの虐待フルコースが決まったからだ。
「もう呑み始めてるわよ。巡も少しでも呑んできたら?」
「ああ、もう始まってるのか。呑まされないといいけど……桐慧、行こうか」
「桐慧ちゃんはまだ声が出ないの?」
 桐慧はこくりと頷いた。
「そっか。でも筆談とかあるわよね。今どきはスマートフォンを使って会話しているみたいよ」
 桐慧はスマートフォンを持っていなかった。
「ちょっと巡、桐慧ちゃんにもそろそろスマートフォンを持たせてあげてもいいんじゃない?」
「まだ早いよ」
「そんなことないわよ」
 そんなことを話しながら伯母の小百合と父の巡は大広間に歩いていった。
「桐慧」
 その柔らかな声に振り返る。
 そこには、いつものように喪服を身に纏った桐人が立っていた。桐人は桐慧の母親の慈に恋をしていて、彼女が失踪して二年後から喪服を身につけるようになった。彼の中では桐慧の母は死んでいるのだ。実際に、死体が見つかっていないだけできっともう死んでしまっているのだろう。一体誰が善良を体現したような母を殺そうと思い立ったのかわからないが。
「久しぶりだね。相変わらず綺麗な髪だ」
 桐人に差し出されたスマートフォンのメモ帳に『ありがとう、桐人くんも綺麗な髪だと思う』と打って返した。桐人の髪は肩甲骨あたりまであり、男子にしては長めだった。それを後頭部でくくっている。
「そのワンピース、似合っているよ。僕もプレゼントにお洋服を持ってきたから後で着てくれないかな?」
『いいけど』
 桐慧が目を逸らしたのを見て、桐人はとりあえず大広間へ行こうかと誘った。
 桐慧はこくりと頷いた。
 畳張りの大広間は親戚一同が集まって成人は皆酔っ払っていた。酔っていなかったのは小百合伯母さんくらいだった。
 桐人と共にテーブルに近づいたら、酒に弱い父親が立ち上がった。見るからに泥酔している。桐慧はアルコールの匂いもだめなくらいなのだが、父親はそれに輪をかけて酒とは相性が悪かった。だから普段はコントロールして飲まないのだけれど――今日は親戚に勧められるまま断れず口にしてしまったらしい。
「おい。何俺よりも上に立ってんだ、あぁ?」
 そう言ってビール瓶を振り上げて、桐慧を殴りつけた。瓶は割れはしなかったけれども、桐慧は倒れ、頭からは血がつつっと流れて落ちた。
「巡叔父さん!?」
 桐人が悲鳴のような声を上げた。
「おい! 巡お前何やってんだ!」
 桐人は桐慧をかばうようにしてそのまま巡から引き離した。さっきまで気持ちよく酔っていた大人たちは一瞬で酔いが冷めたようで、こぞって再度桐慧を殴りつけようとした巡を止める。柔道をやっていた大叔父が巡の意識を落とした。
「桐慧ちゃん、大丈夫!?」
 こくりと頷く。自分の表情が変わっていない自覚があった。普通は痛がるのだろう。でも痛がっても痛みがなくなるわけではない。なら無駄だ。桐慧は完全に巡に与えられる痛みに飼いならされていた。
「傷は――」
「母さん、別の部屋で僕が診るよ。それより巡叔父さんを」
 桐人が桐慧を連れて別室に移動した。
「桐慧、ごめんね。ちょっと服をめくるよ」
 桐人は桐慧のワンピースのボタンを外して、桐慧の腹部を目にした。
 そこにあったのは無数の傷だった。
 打撲痕から火傷痕まで無数の。無数の傷跡だった。
「痛くないの?」
 桐人の柔らかい声に問われ、首を横に振った。
「痛い?」
 頷いた。
「学校の先生とか、頼れる大人は居なかった?」
 頷いた。
「――桐慧、もう巡叔父さんには会わない方がいい」
 顔を上げた。
「僕が守ってあげる。もうこんな傷が他の誰からもつけられないように、僕が守ってあげるから」
 桐慧は嬉しかったけれども、そんなことは不可能だろうとも思っていた。その善意だけは受け取った、という意味の言葉を知らなかった。
 桐人から借りたスマートフォンに、『ありがとう』と打ち込んだ。

 唯一お酒を呑んでいなかった小百合伯母さんが、車を出して救急病院に桐慧を連れて行ってくれた。様々な検査を行って、腹部や背中の傷もちゃんと診られて、声を出せないのも重度の虐待による心因性のものだと診断された。
 児童相談所には明日連絡するとして、もう父親と桐慧を会わせてはいけないと強く言われた。
「桐慧ちゃん、いつからこんな酷いことをされていたの?」
『九歳の頃から』
「伯母ちゃんたちには言えなかった?」
『言ったら知らない人に売られるって言われてたから』
 伯母は言葉を失ったようだった。
 桐慧は一日入院をすることになった。父親がどうなったのかは誰も教えてはくれなかった。

*

 朝病院で目覚めると、ふかふかのベッドの横の椅子に相変わらずの喪服姿の桐人が座っていた。
「おはよう、桐慧」
 桐慧は頷いた。
「今母さんがいろいろな手続をしているから、それが終わったら帰ろうか」
 帰るって、どこへ?
「ああ、大丈夫。巡叔父さんは今は警察にいるから。児童相談所には少し時間を開けてから行こうね」
 視線だけで思ったことが伝わったことに驚いた。
「多分、このまま僕の家に引き取る形になると思う」
 スマートフォンを借りた。
『布団で寝られる?』
「もちろん」
『ご飯も食べられる?』
「もちろん」
『お洋服も買ってもらえる?』
「あ、それはね」
 よくばりすぎたか、と俯くと桐人は紙袋から喪服イメージのクラシック・ロリータのワンピースを取り出した。
「僕の趣味で既に数着用意してあるんだよね」
 桐人とおそろいだ。少し嬉しかった。
「着替えておいでよ。僕は部屋を出ておくから」
 桐人は立ち上がって、数着の洋服と桐慧を置いて病室を出た。

 桐慧は中でも最もシンプルなものを選んで、残りは綺麗に畳んで紙袋に戻した。そしてその紙袋を持つと、外で待っていた桐人の元へとゆく。
「ああ……やっぱり、似合ってるよ、桐慧」
 桐人は陶酔したようなとろんとした瞳で桐慧を見た。
『病院の先生のところに行かなくてもいいの』
「うん。起きたら受付に行って、そうしたら退院していいってさ」
『そう』
「ここの病院の近くの駅に、ストリートピアノがあるんだ。桐慧のために弾いてもいいかい?」
『本当? わたし、賛美歌がいい』
「賛美歌? いいけど、どうして?」
『わたし、賛美歌なら歌えるの』
「桐慧の声が聞けるの? 楽しみだなあ、じゃあ早く行こうか」
 受付で桐人は自然と「江刺家桐慧です」と名乗って退院手続きを行った。
「今日は退院できるけどね、やっぱり傷が酷いから、定期的に病院に通う必要があるみたいなんだ。僕が付き添うから心配はいらないよ」
『ひとりでも……』
「僕が心配なんだ。大切な従妹が見ていないうちにこんなに酷い目に遭っていて、僕はそれに気づけなかった自分に腹が立っている」
『気づかせないように振る舞っていたから仕方がないわ』
「桐慧は女優になれるかもしれないね」
『喋れないのに?』
「死体役なんてどうだい?」
『ああ、それならぴったりだわ。わたし、ずっと死にたいと思っていたから』
「それは叔父さんのせい?」
『お父さんは――。お母さんがいなくなったから、わたしに当たるしかなかったんだと思う。だからわたしまでいなくなったらお父さんは狂ってしまうんじゃないかって心配で、逃げ出すことは考えなかった。でも、だからと言って殴られるのはつらかったから、そうね、やっぱりお父さんが原因なのかもしれない』
「叔父さんのこと憎くは思わなかったの?」
『いいえ。だって、お母さんがいなくなるときまではとっても優しかったから。強いていうのなら――憐れに思っていたわ』

*

「巡、お前いつからあんなことしとった」
 大叔父の言葉に、巡はただ俯くだけだった。
「……」
「あんな小さい子に……慈さんの忘れ形見だろうが」
「慈は、慈は……桐慧がいなければ居なくならなかったのに、のうのうと生きているから」
「言っていることが滅茶苦茶だぞ。――なあ、小百合、巡も病院に連れて行ったほうがいいんじゃないか。桐慧とは別の」
「そうね……」
 巡は親戚たちの叱責の声を遠くに聞きながら、妻の慈との出会いを思い返していた。

 あのとき、巡は人生の幸運をここで使い果たしたのだと思った。二条慈という女性に出会ったことで。

 ――巡は人付き合いが嫌いで、可能な限り省きたい人間だ。人間関係は最小限でいい。けれども、苦手か得意かときかれると得意の部類に入るだろうと思う。世渡り上手なのだ。
 二十二歳でフリーランスのプログラマをしていて、普段は家から出ることもない、そんな巡を社交の場に引きずり出したのは、知人で仕事の関係のある葛西(かさい)という男だった。確か年齢は二十九歳で、時折先輩面をしてくることがある。家庭は持っていない。
「そろそろお前も彼女欲しいと思わないか?」
 思わない。全く思わない。
「そうですね、居たらきっと楽しいんでしょうねー」
 口がぺらぺらと頭の中にある言葉と正反対の言葉を紡ぎ出す。
「というわけで、今日は異種職業交流会に参加するぞ。早く車に乗れ」
 とは言っても、いきなりアポ無しで家に突撃されて巡は部屋着だし、せめて少しくらい身だしなみを整える時間をくれないか、と言うと葛西はそれもそうだな、と素直に謝罪した。こういうところが憎めないのだ。
 巡は一旦葛西を部屋に招いて、リビングに通した。
「じゃあちょっと着替えたりしてきますから、モニタで適当に動画サイトでも見ててください」
「テレビは?」
「必要ですかね?」
「まあそういう人も居るか……」

 あんまり決めすぎないファッションで。
 女性と交流するときに、自分の外見が平均よりやや整っていることで問題になることが時折あった。
 なので顔を洗って最低限の服を着て、リビングに戻った。
「葛西さん、準備できましたよ。……なんの動画見てるんです?」
「見ろ江刺家、カマキリから寄生虫が出てきた」
「数あるコンテンツの中からなんでわざわざそれを?」
「おすすめに出てきたからなんとはなしに……うし、じゃあ行くか」

 会場に着いてからは巡はなるべく交流をしないように人の群れを避けて歩いた。
 話しかけられれば控えめに応答するだけの機械。
 そんな状態の巡は、ふと壁の花状態になっている女性が目についた。
 周りの人たちも、皆一様に彼女を見ていた。
 長い黒髪を一つにまとめて、切れ長の目をベルベットのアイシャドウで暈している。
「お綺麗ですね」
 巡は反射的に話しかけていた。
「なんのご職業をされているんですか?」
「え? あ、私ですか?」
 女性は驚いて慌てたように目を泳がせた。
「えっと、ピアニストをやっております」
「だから指先がお綺麗なんですね」
 滑る口に感謝する。しかし彼女の指先が綺麗なのは本当だった。他の参加女性は皆ネイルをしていたが、彼女はそういった華美な装飾をしていなかった。
「わ、わたしこういう場に参加するの初めてなんですけど」
「僕も初めてですよ」
「そうなんですか? 落ち着いて見えるのに」
「名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「あ、名刺……どこやったっけ……」
 彼女は話してみるとあどけない雰囲気があった。
「あった! ありました! どうも、二条慈(にじょうめぐみ)と申します」
「こちらも。フリーランスのプログラマの江刺家巡と申します」
「えさしかめぐるさん……」
 名刺の交換も終えて、巡はそっと慈の耳元に口を寄せた。
「実はこういう人の多いところは苦手なんです。よろしければ喫茶店にでも行きませんか?」
「実はわたしも苦手なんです! ぜひ!」

 プリン・ア・ラ・モードを食べながら、慈は楽しげにピアノの魅力を語っていた。
「ピアノは一台だけでオーケストラになれるんです。すごいでしょう」
 一時間前の自分と今の自分では価値観が真逆になってしまったと思った。
 なんて可愛らしい女性だろう。
「プログラマって疲れそうですよね。息抜きには何をなさってるんですか?」
「動画を見たりしていますね」
「最近はなんの動画を見ましたか?」
「カマキリから寄生虫がでてくる……あ、すみません。気持ち悪いですよね」
「ハリガネムシですね」
「え?」
 慈は特に驚いた様子も見せずにプリンを食べ進める。
「カマキリに寄生するんですよー。ほかにも私は線虫が好きですね」
「寄生虫、お好きなんですか?」
「え? あれ、巡さんもお好きなんじゃないんですか?」
「いえ、知人が見ているのを偶然」
「わー! 忘れてください! 私、自分の他にも寄生虫が好きな人が居るだなんて思わずに嬉しくなって……」
 巡は思わず吹き出した。
 作ってない笑顔は何年ぶりに出しただろう。
「慈さん、面白いですね」
「面白くありません!」
 ブラックコーヒーを啜りながら、葛西には感謝しなければならないと思った。
 こんな素敵な女性に出会うことが出来たのだから。
「コンサートとかやってるんですか?」
「あ、いえ。私はジャズバーで専属で契約してるんです」
「へえ……今度行っていいですか?」
「わあ、嬉しいな……ぜひおいでください」
 
 年齢も同じだった二人はすぐに仲良くなった。
 慈の勤めるジャズバーで彼女の演奏を聞いた。ピアノの演奏を生で聞くことなんて学生時代以来だったが、彼女自身のあどけない雰囲気から一転して色気のある旋律に魅惑された。
 付き合いもだんだんに深くなってゆき、三ヶ月ほどで告白しようと決心した。自分の内面を人に晒すことなんていままでなかったけれど、彼女に対して誠実でありたかったから話すことにした。
「僕は、実は人付き合いが嫌いで、人間自体も好きじゃなくて、そんなやなやつだけど、それでも良ければ付き合ってください」
「喜んで。でも、あなたの人嫌いは全然隠せていなかったけれど?」
 人嫌いが隠せていなかったことに少しプライドが傷ついた巡は、少しだけ意趣返しをした。
「寄生虫が好きな女性には見破られちゃうのかな」
「しー! 周りに聞こえちゃうでしょ!」
 
 結婚まではスムーズだった。式も披露宴も恙無く済み、二人での生活がやっと落ち着いてきた、二十五歳の頃だった。
「巡、あのね」
 ちょっと病院に行ってくる、とだけ言って一人で出かけた慈は、仕事中には滅多に話しかけてこないのに声をかけてきた。
「これ、ちょっと見て」
 後ろ手に隠していたものを目の前に突き出される。
 母子手帳だった。
「これ今役所でもらってきたの。嬉しいね、巡」
 はらりと涙が落ちた。
 自分は内に虚無を抱えていて、笑顔だって慈にしか見せたこともなくて、そんな自分は慈としか一緒に居られないと思っていたのに。
 この子が居てくれるだけで、自分と慈の間が切っても切れない絆で結ばれた気がして、安心したのだ。

 生まれてくる子供の名前は桐慧にしよう、と二人で決めた。
 出産の際は巡には何も出来なくて、歯がゆい思いしかできなかった。けれど、赤子の泣き声が聞こえたときには、巡は確かに幸福を感じたのだ。

 江刺家巡は人生の幸運を使い果たしたのだと思った。江刺家慈という女性に出会ったことで。けれども、桐慧という新しい幸福が訪れてくれて、ああ、幸いというものはこうして天使がノックするかのように尋ねてきてくれるものなのだなと神に感謝した。

 毎年訪れていた別荘に今年も訪れた。桐慧が九歳の頃の話だ。
 慈と二人で六番地あたりまで散歩に出かけた筈なのに、ふらふらとした足取りで帰ってきた桐慧はたった一人で、観光地である六番地の紫陽花屋敷に行った記憶すら失っていた。
 ただ、母がピアノを弾いたことだけは覚えていると。その記憶すらどんどん朧気になっていき、最終的に桐慧の記憶からは紫陽花屋敷に行ったという記憶すら喪われた。

 行方不明になった慈の捜索は当然行われたが、見つかることはなかった。

 江刺家巡は人生の幸運を使い果たしたのだ。
 江刺家慈という女性に出会ったことで。
 
 これ以上の幸せはもう得られないだろう。巡は、慈に外見はそっくりでいて、茫洋としたこの人形をぽつんと眺めながら、ああ、自分は慈ありきで桐慧を愛していたのだなと感じた。
 慈の子供だから愛せていたのだ。
 その慈はもう居ない。
 居ないのだ。
 切っても切れない縁なんて無かった。
 巡は神を恨んだ。
 一度は救済を与えておいて取り上げるだなんて。
「おとうさん」
 人形が巡を呼んだ。
「おかあさん、どこ?」
 巡はかっと頭に血が上って、桐慧を殴りつけた。
「お前がっ、慈をっ」
 わかっていた。桐慧に悪いところなどないことなど。
 それでも止められなかった。
「ごめんなさい、おとうさん、ごめんなさい」
 桐慧の鼻血に自分の涙が混ざるまで殴ったところではたと気がついた。
「……」
 このままでは、慈との唯一のつながりである桐慧まで取り上げられてしまう。
 ――殴るなら、外からは見えない――腹だ。

 それから、巡はなにかストレスを感じると桐慧を殴ったり蹴ったりするようになった。
 桐慧は自分のものだ。
 どこにも行かせたりしない。
 巡は桐慧と二人で地獄を歩いていくのだ。

*

 駅のロータリーのそばの少し小高くなっている場所に、グランドピアノが一台設置されていた。桐人はいつもつけている黒の革の手袋を脱いで、椅子の高さを調整した。
 桐慧はドレミファソラシドの音を一度出してみて、コンディションを整えた。
「それじゃあ桐慧、行くよ」
 桐人は鍵盤に指を乗せて、伴奏が始まった。
 それに合わせて、桐慧はすうっと息を吸い込んで、声を響かせた。
 その瞬間、歩いていた人が皆足を止め音が消えた。
 桐慧の声はあどけない美しさを感じさせるクリスタル・ヴォイスだった。息の止まるようなハイトーン。
 誰ともなくスマートフォンを取り出して録画を始め、そして中には泣いている人まで居た。
 そう、桐慧は紛れもなく歌の天才だったのだ。特に秀でていたのはその天までつくような伸びやかなソプラノからの、直後急転落下するかのごとくアルトの音域までの声域の広さ。
 これまで狭い音楽室の教師しか聴いたことのなかった歌声が、道に立ち止まって聴き入っている人々の手によって全世界に拡散されていく。
「まって、あれ江刺家桐人じゃない?」
「え、嘘……本物だ」
 いつの間にか輪になって桐慧たちを見ていた人々の中の数名が桐人の正体に気が付き始めた。
 桐人は世界に名を轟かすピアニストだ。知っている人がいてもおかしくはない。
 それならその隣に居る少女は――誰だ。何者だ。世界的ピアニストの伴奏にマイクも無しに渡り合って――それをも凌駕する迫力を出すこの少女は何者なのだ。軽く腕を開いて、黒い長髪はそよ風に僅かになびいている。
 水晶がもし音になったならきっとこんな響きなのだろう。
 最後に伸びやかな高音が天を突き、曲が終わった。拍手が巻起こった。
 桐人は立ち上がり手袋を嵌め、優雅に一礼した。桐慧も真似して一礼した。そして桐人は周りを一望して、小さく「まずいな」と呟いた。
 桐人は桐慧を庇うようにして、人の輪を抜けた。
「すみません、どいてください、すいません」
「ピアニストの江刺家桐人さんですね!? その隣の女性はどなたですか!?」
 もうマスコミが嗅ぎつけてきたか。
「すみません、プライベートなので失礼します」
 桐人はタクシーを捕まえて桐慧を奥に押し込んで自分も急いで乗った。
「行き先は」
「とりあえず三鷹方面に!」

「あー、ごめんね桐慧。桐慧があんなに……美しい歌声をしていると思わなくて」
『どうして謝るの?』
 桐人は黙って動画投稿アプリを見せてきた。
 そこには再生数がものすごい勢いで伸びていく自分の歌唱動画が表示されていた。
『どうなっているの?』
「ネットの速報も出てる……」
【世紀の歌姫現る! 江刺家桐人との関係は!?】
『世紀の歌姫?』
「気づいてないかもしれないけど、桐慧、君は歌の才能がある。おそらく天賦のものだと思う。僕と一緒に仕事をしないかい? 世界の人々に桐慧の歌を聴かせに行こう」
『でも、わたしは』
「桐慧は賛美歌だけを歌ってていいよ。僕もレパートリーを増やすから」
『歌い続けていたら死んだあとにお母さんに会えるかしら?』
「――どうだろうね。でも、いつかはきっと会えると思うよ」

 本家に帰ると親戚一同が集まって桐慧を撫でようとしたが、桐慧は反射的に肩を跳ねさせ、両腕で頭をかばった。
「桐慧……」
 誰ともなしに桐慧の名を呼んだ。
 体格のいい大叔父が桐慧の目線までしゃがんで、桐慧のことを抱きしめた。
「今まで辛かったな。もう二度とあんな目にはあわせないからな」
 どうしてだろう。親戚が皆桐慧を心配しているのに、どこか空虚な気持ちで桐慧はそれを受け取った。
 有り難いとは思ったけれど――だって、これまでの五年間会う機会があっても誰も気がついてくれなかったのに。
 どうしてそんな大人のことを信用できるというのか。
 そんな大人たちより、五年ぶりに会った桐人の方が信用できた。
 いつでも柔らかい声をくれる桐人のことしか。
 どんな罪に問われたか知らないが、誰も父親のことを心配しないのが桐慧の胸を締め付けた。お腹の傷を擦る。これは桐慧の罪の証でもあった。もっと早くに告発できていれば父親の罪も軽かったかもしれない。桐慧は親不孝なのかもしれなかった。けれど妻を失った父親から自分までを取り上げることはできなかったのだ。
 この気持ちは誰にも理解されないだろう。
 そのとき、肩をぐいっと引かれて桐人の腕の中にぽすんと落ちた。
「大叔父さんは大きいから桐慧が怖がっちゃうよ」
「そうか? そりゃすまんかったな、桐慧」
「じゃあ、僕は桐慧と部屋に居るから」
 桐人と手を繋いで、桐人の使っている部屋に移動した。その部屋にはキーボードがあった。
『キーボード……』
「ああ、僕の持ち物だよ。なにか聞きたければ弾くけど」
『ううん、大丈夫』

*

 あれから二日、二人は本家から桐人の家に移動した。
 部屋に入った桐人は、病院に持ってきたのの三倍ぐらいの量の服を用意していた。思わず頬が引き攣りかける。
「サイズは全部桐慧にぴったりのはずだから」
 なんでサイズを知ってるの? と思いながらも、制服以外の服が欲しかったので有り難くいただく。
 桐人はスマートフォンで少しなにかを調べていた。
「【エンジェルヴォイスの美少女、現る】」
 出生も謎。彼女は彗星のように現れた。世界的なプロピアニストの江刺家桐人となにか関連があるのだろうか。天才少年ピアニスト音寺茜(おとでらあかね)が業界に帰ってきたことといい、音楽界はさらなる発展を遂げるだろう。
「また好き放題書かれてる……メディア露出は好みじゃないんだけどな」
『わたしのせい?』
「ん? 違うよ」
 桐人はそっと桐慧の頭を撫でた。桐人が中性的な雰囲気だったからか、その手つきが緩慢だったからか、桐慧は怖さを感じなかった。桐人はいつも逃げようとすれば逃げられるようにしてくれていたから。
 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。今日に入ってもう五度目である。

「あ、私週刊文芸の者ですけれども、江刺家桐人さんはご在宅でしょうか?」
 対応したのは桐人の母の小百合だった。
「取材でしたらアポイントメントを取ってからお越しください」
 メディアはあっさりと桐人の自宅を突き止め、桐慧の正体を突き止めようと必死だった。
 小百合は桐人たちを逃がすためにひとつ提案をした。
「桐人、桐慧ちゃんと別荘に行きなさい。夜になってメディアが捌けたらすぐに」
「わかった」
「桐慧ちゃんの服は五着まで」
「うっ……わかった」
「桐慧ちゃん、下着の替えは持ってる?」
 持っている。頷く。
「じゃあ今晩起つわよ。運転手は聖ちゃんにお願いするから気にしなくていいわ」
 池内聖というのは桐人のマネージャーである。桐慧は会ったことが一度しかなかったけれど、優しい瞳のお姉さんだったと思う。

 夜がやってきた。桐人の家の前に静かに青い車が止められて、運転席から聖が出てくる。その小豆色の髪はさっぱりとポニーテールに纏められていた。
「荷物は?」
 桐慧は首を横に振った。
「桐慧ちゃんはいいとして――桐人くん、荷物多くない?」
「桐慧の服を用意してたらつい……」
「シスコン」
「シスコンじゃないよ」
「シスコンはみんなそう言う。二人とも後部座席に乗って。スモークついてるから」
 聖は二人が乗ったのを見届けて、自分も運転席に乗り込んだ。
「じゃあ、安全運転で参ります」

 着いたのは朝の六時頃だった。太陽が眩しくて目を眇めた。 
 江刺家家の別荘には母が居た頃は毎年通っていたものだ。
 この別荘地は桐慧の母が失踪した土地だった。
 それからは一度も訪れてはいない。
「さて、疲れたでしょう! 一度自分の部屋に行って寝ましょうか」
 聖の声に、桐慧は頷いた。
 桐慧はふかふかのベッドと毎朝与えられる朝食が大好きだったので、眠ることも好きになった。硬い床で眠る生活は終わったのだ。

 目が覚めると、横に桐人が眠っていたのでぎょっとした。
 肩を揺すって起こすと、桐人は目が覚めた。
「うーん。よく寝た」
 スマートフォンを渡される。
『桐人くんの部屋は?』
「桐慧が怖い夢を見るんじゃないかと心配でこっちで寝ることにしたんだ」
 そろそろ確信を得てきたが、桐人は桐慧に特殊な感情を抱いているのではないだろうか。
『夢なんか見ないからだいじょうぶだよ』
「嫌だった?」
 桐人は首を傾げた。肩甲骨あたりまで伸びている桐人の黒髪が付随してさらさらと揺れる。
『嫌では、ないけど、驚いた』
「そっか。嫌じゃないなら良かった。じゃあ着替えて朝ごはんを食べよう。もう昼だけどね」
 桐人は手首に巻いていたゴムで髪を縛って、ベッドを降りた。
「あ、そうだ」
 桐人は振り返った。
「桐慧、右手を貸して」
 言われるがままに右手を差し出すと、薬指をぱくっと食べられて、甘く噛まれた。
 桐慧がぽかんとしていると、桐人は「また後でね」と言って笑って去っていった。
 桐人はどこかおかしい。けれど、それを嫌だと思わないということは、桐慧もやはりどこかしらおかしいのだろう。
 
 白いクロスの敷かれたテーブルで、朝食のベーコンエッグを食べながら、桐人はそういえば、と話し始めた。
「桐慧、紫陽花屋敷って知ってる?」
 桐慧は首を横に振る。
「どうやら紫陽花が年中狂い咲いている綺麗なお屋敷だそうだよ。主人は居ないらしいけど、管理人さんが居て、中の見学もさせてくれるらしい。今日はお散歩がてらそこに行ってみないかい?」
 桐慧は一も二もなく頷いた。桐慧は花が好きだった。綺麗だったし、母が好きだったから。気づけば慈の面影を追っていた。そうすれば巡も桐慧のことが好きになってくれるのではないかと心のどこかで思っていたからかもしれない。
「じゃあ朝食を食べたら行こうか」

 桐慧と桐人は手を繋いで六番地にある紫陽花屋敷にゆっくりと桐慧の歩調で向かった。桐慧たちの別荘は三番地なのでそう離れてもいない。
 紫陽花屋敷だけじゃなく、この別荘地は様々な花が咲き誇っていた。
 あちらこちらの花に視線を遣っていると、桐人がくすりと笑った。
 見上げると、桐人はまるで愛おしいものを見るような眼差しで桐慧を見ていた。
 桐慧はそれに気づかないふりをした。彼は桐慧が可哀想だから心をかけてくれるだけ。それ以上の感情はない。期待する自分にそう言い聞かせた。

 気づけば鬱蒼とした森の小道に差し掛かっていた。この道は高い木に邪魔されて先程まであんなに燦々と降り注いでいた陽の光が見えなくなり、桐慧は閉塞的で禁忌的な印象を覚えた。なんとなく背筋が寒い。
 この先に行ってはいけないのではないか。
 なにか、悪いことが起こるのではないか。
 そんな予感に近い何かが桐慧の胸中を満たした。
 初めて行く場所なのにそんな気がした。暗緑の木々が桐慧を出迎えている。頻繁に人が出入りするのか、手入れされているのか、足元に雑草は無く、小道になっていた。
 どうして桐慧はこんなに怖がっているのだろう。
 自分でも不思議に思う。
 歩調が緩やかになっていく。涼しい風が背中から前に吹いて、桐慧の長くて細い髪を靡かせた。
「ああ、桐慧。紫陽花屋敷だよ」
 桐人が指さした先を見ると、真っ赤な紫陽花に彩られ、豪奢な造りをした屋敷が立っていた。いや、屋敷は豪奢というよりは瀟洒で、まるで教会を思わせるような建築だった。ステンドグラスがところどころにはまっていて、中から見たら綺麗なんだろうなと想像がついた。紫陽花はその屋敷の敷地の外周を覆うように咲いていて、入り口の開いている鉄門以外からは出入り出来なさそうだった。
 紫や青ならともかく、赤い紫陽花を見るのは初めてだった。

 初めて?
 ――初めて?
 いや、違う。
 桐慧はここに来たことがある。
 記憶の箱を封じていたリボンが解けた。
 
 桐慧は、九歳のときに、母の慈と共に紫陽花屋敷に訪れたことがある。
 二人で屋敷に入って、帰るときは一人だったのだ。
 どうして?
 母はどうして帰りにいなくなってしまったのだろう。
 門は開かれていたため、玄関までの紫陽花で舗装された道を歩いてエントランスホールに入ろうとする桐人の袖を引く。
『怖い』
「怖い? どうして?」
 桐慧は桐人の腕にしがみついた。
「桐慧?」
『わたし、ここ来たことがある』
「え? いつ?』
『九歳のとき、お母さんと。忘れていたけれど』
「慈さんと?」
 桐人の目が昏くなった。ああ、失敗した。
「じゃあ、入らなきゃ」
 桐人は、今度は桐慧の静止を振り切って扉を開けた。
 紫陽花屋敷は全体的に赤を基調とした調度だった。カーペットも赤く、壁も赤い。
「おかえりなさい」
 馴染みのある声で囁くようにそう聞こえ、桐慧は振り返った。
「ん? どうしたの、桐慧?」
 ――いま、おかえりなさいって……。
 そして、今開いたばかりで閉じていないはずの扉が閉まっていることに気づく。
 扉へと駆け寄って、開こうとしてみるもびくともしない。
 振り返り桐人に助けを求めるが、桐人は桐慧など気にしていないかのように階段へと向かっていた。
 エントランスホール正面には階段があり、突き当りで階段が左右に別れて二階へと続いていた。突き当りには黒髪女性の肖像があった。
 桐人にしか頼れないのに、どうして桐慧を無視するの。
 慈の手がかりが見つかったから?
 代替品である桐慧のことはもうどうでもよくなってしまったのだろうか。
 桐慧は悲しみを思い出した。
「誰の肖像だろう。少し桐慧に似ているね」
 桐人はそう言った。自分でもそう思っていたのでこくりと頷いた。そして、桐慧に似ているということは――。
「慈さんにも、よく似ているね」
 階段を上ると、飾られていた真っ赤な紫陽花の花の下に楽譜が一枚落ちていた。譜面を見るに一枚目である。
 それは歌詞と曲調から察するに賛美歌であった。
 一枚目だけでもわかる。この曲を作曲した人は天賦の才がある。ベースラインは賛美歌の基本を当然のように押さえ重厚で、それでいてなおどこか軽やかな旋律。歌が入るとまた変わってくるだろう期待に桐人は見るからに心奪われているようだった。
 桐人は桐慧に楽しげに提案した。
「続きも探してみよう」
 けれど、桐慧は首を横に振った。
「どうして?」
 桐慧は桐人が楽譜に夢中になっている間、右手側の階段の方を見つめていた。
 角になっているところに、白い手が一本だけ桐慧に見えていた。
 初めはそれが棒かなにかなんなのか正体が分からなかったけれど、よく目を凝らすとそれが人間の前腕部だと気がついた。
 おいで、おいで、と言うかのようにその手は桐慧を誘っている。桐人には見えていないようだった。
 桐慧は一刻も早くこの屋敷を出たほうがいいと感じた。そうじゃないと何かが起こってしまう。何かがなにかはわからないけれど。
 嫌な予感。焦燥。
 けれど桐人は桐慧の手を引いて左側の階段を上ろうとした。すると、桐慧の空いている右手首がすごい力で引っ張られた。危うく落ちそうなところを桐人に支えられる。もう一度桐人は左の階段を上ろうとしたが、また桐慧は強い力で引っ張られた。
「桐慧? どうしたの?」
 桐慧は諦めて、桐人のスマートフォンを借りた。
『腕が見える。呼んでいるみたい』
 桐慧はそれだけ打ち込んで、桐人の袖を引いて右側の階段を上り始めた。
「腕って……何?」
『人間の腕だと思う。桐人くんに見えないなら、わたしにしか見えない幽霊かな。生きているなら声をかけてくるだろうから、きっと生きてはいないひと』
 右側の階段を上り始めたらもう進路妨害は無くなった。
「僕には見えないんだけれど……」
『どうしてかしら』
「ねえ、それって、もしかして慈さんの手かな」
『ごめんなさい、そこまではわからないの』
「ああ、僕にも見えたらなあ」
 桐人はうっとりとした表情で階段の続きを上り始めた。
 桐慧は、屋敷の端々から感じる母の気配への喜びと、桐人が自分を捨ててしまうのではないかという不安でぐちゃぐちゃになっていた。桐人は、桐人だけは桐慧を裏切らないと思っていたのに。またひとりで硬い床に戻るのは嫌だった。

*

 白い手に呼ばれるがままに応接室へと訪れた。応接室には二人がけのソファが二つ対面に設置されていて、カーテンが開かれていた。その向こうにステンドグラスが見えたので、外から見えていたのはここだったのかと推察する。ん? いや、この部屋はエントランスから離れていたから正面からは構造的に見えないはずだ。あのステンドグラスは、気づかなかっただけでエントランスホールにあったのだろう。とにかく光が差し込んで綺麗だった。テーブルの上にまた一枚楽譜と赤い紫陽花が置かれていた。
 桐人がぺらりと拾った譜面は一枚目と連続しているようだった。
 誰が用意しているのだろうか。この屋敷の管理人だろうか。
 不思議に思いつつ、応接室を出ると桐慧は驚いた。
 たった今通ってきた筈の道が壁になっているのだ。
 階段から繋がっていた筈なのに。
 桐人の腕を強く引き、壁を指差す。
「ああ……不思議だね」
 桐人は譜面から顔もあげずにそう言った。
『桐人くん』
 桐慧はなにか取り返しのつかないことをしているような不安に駆られた。
『おかしいよ。このお屋敷、怖いよ』
「大丈夫だよ、紫陽花屋敷に行くことは家の人に伝えてあるし、いざとなったら携帯で助けを呼べばいいんだから」
 桐人はこの譜面の虜になっているようだった。
「桐慧、白い腕は見えている?」
 見えていた。
 今度は、突き当りを左に曲がる角で白い手が呼んでいた。
 今の桐人には何を言っても無駄だと感じた桐慧は、大人しく桐人を先導して角へと向かった。正直に言うととても怖かったけれど、帰り道は壁になってしまっているし、桐人は譜面の虜だし、行き着くところまで行くしかないと手をぎゅっと握った。
 その手を桐人が上から包む。
 桐人を見上げる。
「大丈夫だよ桐慧。何かあっても、僕が守ってあげるから」
 桐慧は自分が忘れられているわけではないのだと安心した。少し泣きそうになっていたことが桐人には悟られなくて良かったと思った。
 次は客間だった。
 ベッドの上に楽譜が置かれていた。桐人が回収して、桐慧と二人で確認する。
 構成的にはおそらくあと一枚。
 どこに置かれているのだろう。
 桐慧が客間を出ると、開け放たれた部屋――そこから、白い長髪の女の顔が覗いていた。女の顔は能面のように表情がなかった。しかし、あの肖像画の女性であることはわかった。女は桐慧をじっと見つめて、しろい手をすうっと扉から差し出して、手首だけでおいでと桐慧を誘った。背筋に虫がぞろぞろ這うような気持ち悪さがあった。怖い。入ってはいけない。おぞましい何かへ近づいているような、禁忌的な印象を受けた。
「次はあの扉かい?」
 桐人は歩みを止めなかった。
 帰りたい。
 振り返ると、やはりもう客間への道は壁になっていた。
 桐人に手を引かれるようにして、桐慧はその部屋に足を踏み入れた。これまでより広い部屋だった。窓のないその部屋は音楽室だった。部屋の壁が防音仕様になっている。
 グランドピアノが一台、一段高くなったステージに置かれており、その譜面台に楽譜が一枚置かれていた。
「あれ……?」
 桐人が首を傾げる。
 桐慧も少し背伸びをして楽譜を見たが、最後の四小節が空欄だった。終止線だけが書かれている。
 桐人は、内ポケットに入れていた万年筆で最後の四小節を書こうとした。桐慧はその腕にしがみついて止める。
「さっきからどうかしたの、桐慧」
『書いちゃだめ』
 書いたら取り返しのつかないことになる気がして、桐慧は必死で止めた。しかし、その瞬間桐慧の細い首を誰かが掴んで桐人から引き剥がした。
 桐人は桐慧を顧みることなく迷いなく誰のものともしれない楽譜を書き上げる。
「これで、完成だ……」
 恍惚とした表情で桐人はそう言った。
 ああ、止められなかった。
「ねえ桐慧、せっかくだから、ここで弾いてみないか」
 桐慧はあの女の顔と白い手がどうなるのかが気になって仕方がなかったけれども、桐人が有無を言わさぬ雰囲気だったので頷いた。
 楽譜を一読する。単調でいて、透明感のあるメロディ。
 桐人は椅子の高さを調節して、ピアノの音がちゃんと出るのか確認して、それから初見で演奏を始めた。桐慧のクリスタル・ヴォイスもそれに続く。
 この歌詞を書いた人はきっと死にたかったのだと思う。そして、それと同じくらいに生きたかったのだと思う。だから神に救いを求めた。そんな印象を受けた。けれど楽譜が完成されていなかったのは何故だろうか。
 繰り返し出てくる祈りの言葉、キリエ・エレイソンに込められた切実さといつか訪れる安息への期待に桐慧は胸が苦しくなった。
 桐人が書いたB5の音で締められた曲は、間違いなく名曲だった。
 その時。
 桐慧の胸の奥から、何かが込み上げてきた。
 桐人も胸を押さえている。
 二人で咳き込む。
 口からは、赤い紫陽花の花弁が出てきた。咽ながらそれを吐き出し切り、桐人とお互い視線を合わせる。
 黒色だった二人の瞳孔が、赤く染まっていた。
 どうして、紫陽花が体内から?
 目の色が変わったのは何故?
 不思議なことはたくさんあった。
 そこで、唐突に閉めていた音楽室の扉が開いた。
 二人でばっとそちらを振り向く。
 そこに立っていたのは、庭師用のオーバーオールを身にまとった、身長がゆうに二メートルほどはありそうな大男だった。
 桐人が桐慧を庇うようにして立つ。
 大男は、片手に真っ赤に染まった人間のものらしき骨とコップ、もう片手には金槌と水差しを持って部屋に入ってきた。
 コップと水差しをテーブルに置き、大男は真っ赤な骨を金槌で砕き始めた。大体一センチ程度のかけらが二つできたところで叩くのをやめ、コップに水を注いで壁際まで下がった。
「飲めということですか?」
 桐人が尋ねると、大男は頷いた。
 桐慧は桐人の袖を掴んだ。
 いかないで。
 けれど桐人は緩やかに優しく桐慧の腕を離して、テーブルまで移動した。そして赤い骨片をひとかけら口に含むと、水で一気に飲み干した。
 桐慧は、桐慧は、本当にどうしたらいいのか分からなくて、けれど桐人を一人きりにしてはいけないと思って、自分もそろそろと近寄って、一欠片口にして、水でそれを流し込んだ。
 大男はそれを見て満足したのか、そのまま音楽室を出ていった。
「……帰ろうか」
 音楽室を出ると、先程までは壁に変じていた道が通れるようになっていた。
 この屋敷は、楽譜を完成させる誰かを待っていたのではないだろうか。桐慧はそう思った。
 三番地にある自分たちの別荘に帰ろうと紫陽花屋敷を出る瞬間、
「いってらっしゃい」
 と耳元で聞こえた。屋敷に入ったときと同じような声だった。
 それは行方不明になった母の声に酷く似ている気がした。人は五感のうち声から忘れていくという。似ている気がした、としか思えない、母の声を鮮明に思い出せない自分が悲しくなって、桐慧は桐人の手を握る手を強くした。

 江刺家家の別荘に帰った桐人と桐慧は、夕食は断って桐慧の部屋に籠もった。
「この楽譜を書いた人は一体全体誰なんだろう。サインも残ってないし、タイトルすらないなんて」
『完成させられなかったからじゃないかしら』
「敢えて完成させなかったのかもしれないよ。自分よりもっと才能のある人に完成させてもらいたかったのかも」
『その場合、桐人くんが適任だったのかもね』
「そうだったら嬉しいけど」
『もしもあの女の人の満足の行く出来じゃなかったら、多分、わたしたち紫陽花屋敷から出られてなかったと思う。閉じ込められて、そのまま死んでいたかも』
「女の人?」
『最後、音楽室でずっとこっちを覗いていたわ。真っ白な髪の女の人』
「その人が書いたのかな。挨拶がしたいな、勝手に続きを書いてしまったから」
『喜んでいたように見えたけれども。無表情だったけど』
「そういえば、どうしてあの手は桐慧にしか見えなかったんだろうね」
『ふしぎ』
 あれはおそらく屋敷の主だろう。もう死んでいる。そして、桐慧の母もあの屋敷にいるのだろう。これは想像だけれども。
「不思議ばっかりだね」
 桐人はあははと笑って桐慧をふかふかのベッドに押し倒した。
 桐人を見上げる。桐人は笑ったままで桐慧のマウントを取って、胸元のボタンをぷち、ぷち、と外していく。桐人は、蕩けた顔をしていた。ああ、父とは違うと思った。父は憎しむように桐慧を殴っていたから。父親とは違う。
 じゃあ桐人は何なの?
 桐慧は、桐人にとっての自分は慈の代替品でしかないと思っていたけれど、違うの?
 ただいたずらに混乱させるだけの行動が多すぎて桐慧はすこしだけ腹がたった。
 桐慧は怒りを思い出した。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
 桐人はそう言って桐慧の首筋に噛みついた。
 桐慧は無抵抗だったけれども、じく、と痛みが来た瞬間に桐人は離れた。
「ああ良かった、血は出ていないね」
 桐人は桐慧のボタンをもとに戻して、楽譜を片付け、呆然としていた桐慧に向かって桐人は鋭い犬歯を見せて笑った。
「眠ろうか」
 桐慧は、それに頷いた。桐人は上着を脱いでネクタイを解いて、当然のように同じベッドに入ってきたので、桐慧は桐人の上に乗った。
「桐慧?」
 桐慧は桐人のシャツのボタンをぷち、ぷち、と外していった。
 そして桐人の浮いた首筋の一番噛みやすいところをがぶりと噛みついた。
 味がしない。当然だけど。
 桐人は何が楽しくてこんなことをするんだろう?
 舌でざらりと肌をなぞってみる。やはり美味しくない。
 桐慧が離れると、桐人の頬が上気して、息が荒くなっていた。
「き、桐慧? 何? どうしたの? 結婚する?」
 桐慧は桐人のボタンを寝苦しくない程度まで残して留めて、布団をかぶって桐人に背を向けた。
「桐慧さん、あの」
 桐慧は情け程度に桐人のスマートフォンを借りて『おやすみなさい』と打って桐人の顔に叩きつけた。

*

 ばさっと突然布団が剥がされて、桐慧と桐人は心底驚いて目が覚めた。
「おはようロリコンとその被害者さん」
「何度も言ってるじゃないか……僕は桐慧コンプレックス、略して桐コンだよ」
「新たな性癖を生み出さないでよ……」
 ため息混じりの聖が来たのだ。
「どうせなら、休暇を楽しみましょう。わたしの友人の音寺茜を連れてきたの。桐人くんの友達でしょ」
「え、茜くんが来たの? わあ、久しぶりに会うよ。桐慧を紹介するのが楽しみだなあ」
「わたし達は四番地に滞在するから、とりあえず朝食を取ったら遊びにおいでよ。……ところで、桐人くんは寝るときいつも桐慧ちゃんと寝てるの?」
「そういうわけじゃないよ」
「桐慧ちゃん、嫌だったら嫌って言っていいんだよ」
 桐慧は首を緩やかに横に振った。
「ほら、桐慧もこう言ってることだし、目くじらを立てないで」
「まあ、桐慧ちゃんがいいならいいけど……」
 聖がどこか腑に落ちないといった顔をしたので、桐慧は桐人のスマートフォンを借りた。
『殴らない人が一緒に居ると安心します』
 そう打って見せると、聖は一瞬傷ましいものを見るかのように目を眇めた。
「そっか。じゃあ桐人くん、着替えて朝食を取りなさい。桐慧ちゃんもね」
『昨日は噛みつかれましたけど』
「ちょっと、桐慧!? なんで言うの!?」
「桐人くん、ちょっとお話しようか」
 聖さんに寝室に連れ込まれた桐人を背に、桐慧は朝食に向かった。

「おー、桐人」
「茜くん、久しぶり」
 訪れた四番地で、茶髪の青年が桐人と握手していた。年の頃は聖と同じくらいだろうか。二十代半ばほどである。
「桐慧、こちらは僕と小さい時に音楽の賞を取り合っていた音寺茜くんだよ」
「はじめまして、桐慧ちゃん」
 桐慧は桐人のスマートフォンを借りて、『はじめまして』と返した。
 茜は桐慧が喋らないことについては一切触れることなく、桐人の目を見て尋ねた。
「桐慧ちゃんもだけど、その目、どうしたの?」
「カラーコンタクトを入れているだけだよ」
「へぇ、綺麗な色になるもんだな」
「それより、ピアノの連弾をしよう。賛美歌だったら桐慧が歌ってくれるから」
「へえ、それはいいね。どっちの家でやる?」
「茜くんの家のピアノは庭にあるだろ。茜くんの家にしよう。きっと気持ちのいい朝になるよ」
「いいね。そうしようか」
 桐人はちらりと桐慧と会話する聖に目を遣った。
「それより、聖さんとはどこで知り合ったの? 音楽関係?」
「いや、大学の同窓生なんだ。ちょっとした共通点があってね」
「呑み友達とか?」
「はは、まあ、そんな感じかな」
「実は付き合ってたりとか」
「しないしない! 聖の前でそんなこと言うと体当たりされるよ、気をつけな」
「それは怖いなあ」

 桐人が楽しそうに笑っていたので、桐慧もいい気分だった。
「それじゃあ、グレゴリオ聖歌でもやろうか」
「あれオルガンじゃなかったっけ?」
「そこは適当にアレンジしよう」
 じゃあ始めるよ、という茜の言葉から、天才ピアニスト二人の連弾が始まった。息のあった演奏だったので入りやすい。桐慧はそのピアノの音にそっと声を乗せるように歌い出した。
 天使が羽ばたくのを忘れて落ちてきそうな歌声だった。
 茜はその美しさに一瞬弾くのが遅れて、けれどもすぐに持ち直した。
 演奏が終わるまですぐに感じた。
 聴いていた聖がつかつかとやってきて、言い放った。
「コンサートを開きましょう」
「え?」
「桐慧ちゃんを放っておくのは音楽界の損失だわ。桐人くんの来月のオフ日別にずらすから、その日に東京文化会館の小ホールを押さえます」
「僕は?」
「茜くんは来月ヨーロッパツアーでしょう」
「ちぇ」
 初公演行きたかったなあ、と茜は零した。
「待って、桐慧の意向を聞こうよ」
 ぽかんとして話を聞いていた桐慧は、スマートフォンを渡された。
『よくわからないけれど、やってみたいです』
「よし、じゃあ早速手配してくるね。じゃあ」
 そう言い残して聖は風のように去っていった。
「大学時代から聖さんってあんな感じだったの?」
「いや、もっと内気でやる気とはかけ離れたダウナーな感じだったよ」
「社会人になって変わったのかなあ」
「休日なんかはいつもの聖に戻るんだけどね。仕事モードのときはあんな感じみたい」
 聖の向かった先を見つめる茜の瞳が、愛おしいものを眺めるようで、桐慧はなにか隠された、見てはいけないものを見てしまったような気分になった。
 それは桐人が桐慧を見るときと同じ眼差しだったから。

 それからも二人は気が済むまで即興曲を作りまくって遊んでいた。桐慧は時折二人にスポーツドリンクを渡しに行く係だった。お盆の気温は、避暑地と言えど暑いことは暑い。
  
 遊ぶだけ遊んだ桐人と桐慧は、隣の自分たちの別荘に移動した。
「楽しかったね」
 桐慧は頷いた。
「明日からは目録決めと曲の練習の日々が始まるよ。といっても、そんなに難しいことはやらないけどね」
 桐慧はいつも通りに歌ってるだけでいいよ。
 桐人に言われて、僅かな不安が拭われた。人前に出るのは初めてのことだったから、どきどきしていた。
 それは、九歳以来に久しぶりに感じた楽しみ、という感情だったかもしれない。
 聴いてほしい。
 生まれて初めてそう思った。
 自分の歌を、聴いてほしい。
 桐慧は楽しみを思い出した。
「桐慧、声量をセーブしてるよね」
 桐慧は驚いて顔を上げた。まさか気づかれるとは思わなかった。
「セーブしないで歌ってごらん」
 三番地の自分の別荘の音楽室で、桐人の伴奏で桐慧は声量をセーブせずに歌ってみた。ピアノのフォルテシモですら掻き消す声量。本気で歌ったことは無かったからどう言われるかとどきどきした。
「これは……桐慧のマイクは必要ないね」
『駄目だった?』
「何も駄目じゃないよ。すごいことだよ、桐慧。君は紛れもない天才だ」
 床に転がって腹を蹴られては吐いて自分で掃除していた日々を思い出して、桐慧は神は本当にいるのかもしれないと思った。神の憐れみが、その広い手が、奇跡みたいに桐慧を掬い上げてくれたのかもしれない。
「桐慧用のスマートフォンをはやく買おうね」
『うん……でも、わたし、お金持ってない』
「そんなの僕が買ってあげるよ」
『え』
「僕、一応世界ツアー回れる程度の腕を持ってるピアニストだから、お金は余ってるんだよね。桐慧もすぐにお金を稼げるようになるよ」
 そっと頭に手が乗った。やっぱり桐人は怖くない。
「ならなくても僕が養ってあげる」
『桐人くんはどうしてそんなに良くしてくれるの』
「ん? うーん、どうしてだろうね?」
 そうしてまた桐人はとろんとした瞳で桐慧を見つめ、髪を優しく梳くのであった。
「じゃあ、ゲームでもやろうか」
『ゲーム?』
「そう。レースゲーム。やったことある?」
 桐慧は首を横に振る。
「聖さんが鬼のように強いんだよね……」
『運転も上手だから?』
「いや、聖さんはどんなゲームでも強い」
『茜さんは?』
「茜くんはどんなゲームでも弱い」
『桐人くんは?』
「僕は音ゲーだけは誰にも負けないよ」
『音ゲー?』
「光るパネルをタイミングよく押していくんだ。楽しいよ」
『やってみたい』
「都心に戻ったらやってみようか」
『うん』
「楽しみがいっぱいできたね」
『なんだか怖くなってきた』
「どうして?」
 桐人は桐慧の肩を抱いた。
『いままでこんなに未来のことを考えたことなんてなかったから』
「大丈夫だよ。楽しい未来がきっと僕たちの前にはあるから」

 お風呂から上がって、お腹に湿布を貼って、背中にも貼ろうとしたのだけれどうまくできなくて失敗した。
 湿布がもったいない。
 桐慧はパジャマ(これも桐人がいつの間にか用意していた)を身に着けて、桐人の部屋をノックした。
「はい」
 返事をして出てきた桐人は、ノックしたのが桐慧だと知ると優しげな眼差しに変わった。
「どうしたの? 今日も一緒に寝る?」
 湿布を差し出すと、察した桐人は部屋に招き入れた。
「服めくるよ」
 一言かけて、桐人は桐慧のパジャマをめくり上げた。そこにある無数の痣を見て、眉間に皺を寄せる。しかしそれを悟られないように湿布を二枚貼った。
『ありがとう』
「いいよ」

*

 それから一ヶ月間は別荘で過ごした。桐慧の歌と桐人のピアノを合わせる練習を主にしていた。二人とも新しい譜面は初見で覚えたので、特に苦労するということも無かった。
「紫陽花屋敷の譜面はアンコールを求められたときにだけ披露しようか」
『どうして?』
「特別感を出したいんだ。あの曲は天才の書いた曲だから」
『わたしは別に構わないけれど』
 そこで音楽室の扉が開いた。
「二人とも、居る?」
「どうしたの、聖さん」
 入ってきたのは聖だった。
「コンサートのチケット、即完売したわ」
「へえ」
 桐人は特に驚いていなかったが、桐慧は目を見開いた。
 それだけ桐人の知名度があるのだろう。
『桐人くん、すごいね』
「ん? なにが?」
『人気なんだね』
「いや、多分みんな君の歌声を聴きたいんだと思うよ」
『わたし?』
 部屋の床の隅にしか居場所がなかった自分がコンサートホールに立ち、それを待ち望んでいる人がいるというのは正直なところ実感が湧かなかった。
『わたしのことをどうして知っているの?』
「この間見せただろう? 動画投稿アプリで桐慧の歌が拡散されてもう世界的に有名になってしまっているんだよ」
『そんなにわたしの歌はすごいの?』
「まだ自覚してなかったの? あなたは素晴らしい才能の持ち主よ、桐慧ちゃん」
 聖の言葉に、首を傾げる。
『まだよくわかってないかもしれない』
「もっと自覚して欲しいな。世間じゃエンジェルヴォイスとまで呼ばれてるんだよ」
『天使? わたしは天使なんかじゃないわ。桐人くんや聖さんに迷惑をかけているだけの存在よ』
 その投げ遣りな言い方に、聖と桐人は絶句した。父親と引き離して、歌の才能が発掘されて、それで少しは桐慧の心も軽くなったのだと勘違いしていた。けれど彼女の心は救われてなどいないのだ。
「迷惑なんかじゃないよ」
 桐人が絞り出すようにそう言った。
「迷惑なんかじゃない。桐慧、――桐慧、僕は君のことが好きだよ。だからそんなふうに思わないでいてほしい。僕のエゴだけれど、どうか」
 桐慧は無表情で桐人を見つめた。
 桐人は自分の言葉が桐慧の心の表面にも届いていないことを知った。
 桐人はこれから弾く賛美歌はすべて桐慧に捧ぐことに決めた。彼女の心が救われますように。
『いつかそう思わせて』
 桐人は呼吸を忘れた。
 眼の前の少女の魔性の瞳に魅入られて。
 ああ、自分は桐慧を愛してしまっているのだと初めて自覚的に理解した。
 そしてそれを見ていた聖は二人の関係に危うさを覚えていた。自分と茜の関係に酷く似ていたからだ。
 他の誰にも話したことはないけれど、聖と茜は希死念慮を患っているという点で、繋がりを築いていたのだった。死にたくなったらお互いのことを思い出すことでなんとか生きている二人だった。
 桐慧の傷に障らないようにそっと抱きしめる桐人を見て、聖はなんて悲しい二人だろうと思った。
 死にたいという気持ちは一度抱くと消えることがない。心に決して消せない罪の傷として刻まれるのだ。心のどんな奥底に隠していようと、なくなることだけは決して無いのだ。何で覆い隠そうと刻まれてしまったものは消えやしない。
 桐人は桐慧を救えるのだろうか。
 救ったとして、それは健全な関係では決してないだろう。
 聖はそれを心配しながら、そっと音楽室を後にした。

「桐慧、そろそろご飯の時間かも。行こうか」
 今日の練習は終わりらしい。桐人もいつもの黒い手袋を嵌めた。
 ほぼ一日歌い続けていた桐慧は、ほっとして頷いた。
 もちろん適宜喉を休めてはいたけれども、練習で喉を潰してしまっては元も子もないからだ。
「桐慧の好きな食べ物はなに?」
『ドッグフード以外』
「桐慧、それは人間の食べ物じゃないよ。ああ、もう……」
『怒ってる?』
「怒ってないよ。僕の家に移ってから食べたものの中では何が一番好き?」
『小百合おばさんの作ってくれたカレーが一番すき』
「本当? それは母さんも喜ぶだろうな。ちなみに僕はそうめんが一番好きだな」
『わたし、昔に町会の流しそうめんに行ったことがある。美味しかった』
「へえ、今は行って――」
 桐人ははっと気がついた。あの父親のもとでは行かせてもらえる筈がない。
 失言だ。
 桐人が察したことを察した桐慧は、少しだけ目元をほころばせた。それが初めて見せた桐慧の人らしい表情だった。
『気にしなくていいわ』
 桐慧は本当に気にしていなかったのに、桐人が地獄にでも落ちたかのような顔をしたので笑ってしまった。と言っても、目元が少し細まっただけだけれども。それでも、表情を失っていた桐慧にとっては驚くべきことだった。
「桐慧、もう一度笑ってみて」
『そんなこと言われても笑えない』
「ああ、僕の頭の中の映像を写真にして投影できる機械があったらいいのに」
『また笑わせてくれる? いつか』
「うん。絶対に」

 その日の夕食は冷製パスタだった。ジェノベーゼ風味でとても美味しかったけれど、こんなに(桐慧にとっては)高級なものを常食として食べることができている状況が少し怖かった。
 それと同時に、父親のことを考えた。
 父は桐慧と同じような食事をすることができているだろうか。
 父は、職業がフリーランスのプログラマーで、おそらくそこそこ稼いでいたので、いつも家に居て食事は出前を取ってばかりだった。ゴミ捨てに行くのは桐慧の仕事だった。
 父は桐慧が居なくても生活できているだろうか。ストレス発散ができているだろうか。
 父は警察に逮捕されているのだろうか?
 そうだとしたら、桐慧は開放してあげたいと思った。
 しかし、父を開放したとしたら、桐慧という発散口が無くなったストレスはどこに行くのだろうか。お酒やギャンブルに走ったりしないだろうか。
「桐慧? このパスタ苦手だった?」
『ううん』
「じゃあどうしたの?」
『お父さんのことを考えてた』
 桐人は一瞬息を止めて、それから丁寧に作られた声色で桐慧に尋ねた。
「お父さんのどんなこと?」
『いまどこに居るのかとか、ご飯はちゃんと食べられているのかとか』
「桐慧はお父さんが嫌いじゃないの?」
『嫌い……と思ったことは、無いと思う。憐れに思っているというのがいちばん近い』
「桐慧はお父さんを許せるの?」
 許す?
 桐慧は目を伏せた。
『どう考えていいか、わからない』
 スマートフォンの文字を書いては消し、書いては消し、そして辿り着いたのは、それだった。
『憐れに思う。殴られたり蹴られたりすることは痛かったし、やめて欲しかった。けれど、嫌いなのかと言われると、わからない』
「わからないのか……」
 桐慧は頷いた。そして続きのパスタを食べる。量が多くて食べ切れるかわからないな、と懸念する。
「桐慧、今度カウンセラーのところに行こうね」
『どうして?』
「たぶん、君には必要だ」
 桐慧は小首を傾げた。腰まで伸びた長い髪がさらさらと付随して流れ落ちる。
「僕は、たまに思うんだ。自分が女の子だったら、桐慧みたいになっていたんじゃないかって」
 桐人がそんなことを言い出したものだから、桐慧の食べる口がまた止まってしまった。
「もしも僕が慈さんのお腹から生まれていたら、僕ら双子になれたかな。ねえ、どう思う? ……ああ、でも双子に生まれていたら、結婚できないからね。やっぱり従妹で良かったよ」
 桐人は慈に憧れてピアニストになったのだった。そうしたら才能に目覚めてしまったのだけれども。
 それより、桐人は桐慧と結婚したいのか?
 初めて聞いた言葉だったのでびっくりしてしまった。
『桐人くん』
「ん? なあに、桐慧」
『わたしと結婚したいの?』
「え? 言っていなかったっけ? そのつもりだよ」
 桐慧は、最近、桐慧の思ってもいない出来事ばかりが続くなあと思った。

*

 コンサート当日。桐慧と桐人は舞台袖で客の入りの様子をモニタで見ていた。聖はモニタ室で待機している。
「楽しみだね」
『ええ。きっと、たぶん、いま感じているこの感情を、楽しみと呼ぶのだと思う』
「僕のお姫様のお披露目だ」
 そう言って、桐人は跪いて桐慧の手を取って口づけた。
「シャル・ウィ・ダンス?」
 桐慧は自然と微笑んで応えた。
 その笑顔に数秒見惚れて、桐人もとろんと微笑んだ。

 賛美歌は単調なものが多いので、マンネリにならないように強弱を多めに入れて曲を構成した。本来ゆっくりとしている筈の曲にアレンジを加えて、弓を限界まで引き絞ったような桐慧の連続高音を展開したり、かと思えば緩やかなアルトの声色に引きずり込んだり。
 観客は呼吸を忘れたかのように聴き入っていた。
 桐慧も桐人も時間を忘れて演奏に夢中になった。
 最後の一曲を弾ききって、俯いた桐人と、歌いきって、胸の前で両手を組んで歌いきった桐慧が、緩やかに元の姿勢に戻る。
 万雷の拍手がコンサートホールを満たした。
 鳴り止まないその拍手に、桐人と目配せをして、頷きあった。
 今日は喉のコンディションが抜群だ。ああ、この喉であの曲を歌えるのが嬉しい。
 桐人の伴奏から入って、桐慧は絞っていた声量を開放して、紫陽花賛美歌を歌い始めた。
 またも観客は聴き入って、中には涙を流す者まで居た。
 神よ。神よ。救い給え。掬い給え。我らは汝を求め乞う者なり。
 桐慧の繰り出す超ハイトーンからの緩やかなB5のアルト、その流れで曲は終わった。
 桐人が立ち上がり、桐慧と共に一礼した。

 なぜだか拍手は鳴らなかった。

 一番の出来だったのに、どうしてだろうと思いながら桐慧と桐人は控室へと向かった。控室にはお菓子があったけれど誰も手をつけていないようだった。
 控室で桐慧が珍しく自分からスマートフォンをねだった。
『楽しかった』
「そっか。それは良かった。僕も楽しかったよ」
 桐慧の頭を撫でて、髪を梳く。
「それじゃあ、そろそろ撤収しようか。長いことここに居ても迷惑だろうし――」
 そのとき、控室の扉が乱暴に開かれた。桐慧の肩が大きく跳ねて反射で頭を覆う。
「桐慧ちゃん、桐人くん、まだ帰っちゃだめよ!」
 聖が顔面蒼白で控室に駆け込んできたのだ。
「どうかしたんですか?」
「どうしたもなにも……人が死んでいるのよ」
「心臓発作か何かで?」
「観客が全員」
 桐慧は目を瞠った。
「口に真っ赤な紫陽花の花が詰まった状態で、席から動かないまま死んでいるの」
 桐慧は桐人と視線を合わせた。真っ赤な紫陽花の花。
 ぞくぞくと背筋が震える。恐怖ではない。これは興奮だった。何故なのかはわからない。わからないけれど。
 僅かに目が細まった。それはまるで自分の感情では無いようで、どこか違和感を覚えた。
「これから警察が来るから、事情聴取に付き合わなければならないわ。もうすこし待っていて頂戴」

「口の中に紫陽花が詰まった状態って、どういうことなんですか?」
 桐人が横に桐慧を置いて事情聴取に付き合っていた。二人は演奏をしていただけで毒ガスを撒いたりなどはしていない。それは防犯カメラにも映し出されていた。
 何より、赤い紫陽花が口の中に詰まっているというのはどう説明がつけられるんだ。
「詳しいことは何もわかっていないんだ。司法解剖の結果もまだだしね。ただ、全員の共通点が君たちの生演奏を聞いていたことくらいしかない上に、口の中に紫陽花が詰まっているなんて前代未聞の怪事件だよ。不審すぎる」
『死んでいったひとたちは』
「ん?」
 桐慧は打ち込んだ文字を見せた。
『死んでいったひとたちは、どんな表情をしていましたか?』
「え? あ、ああ。なぜだか皆、幸せそうな顔をしていたよ。涙を流していた人もいた」
 桐慧は目を細めた。
『そうですか』
 桐人は満足げにする桐慧を見て、少し違和感を覚えた。人が死んで喜ぶような子だっただろうか。自分はともかく。桐人は人が救われたなら嬉しいけれど、桐慧は――。
 原理はわからないけれど、きっとその秘密はあの紫陽花屋敷にあるのだろう。
 桐人と桐慧は明日の公演が終わったら一旦別荘地に戻り、紫陽花屋敷へと再訪することにした。

 ホテルに帰った二人は、シャワーを済ませてゆっくりとベッドに座っていた。
「桐慧」
 スマートフォンを渡しながら、桐人は尋ねた。
「今日の死体に、心当たりがあるね?」
 髪を梳かれる。
『たぶん、紫陽花の譜面』
「僕もそう思う」
『明日もやる? アンコール』
「どうしようか。アンコールをやらなかったら、すぐにネタがバレちゃうね」
『わたしもそう思う』
 桐人と桐慧はくすくす笑った。桐慧は肩を揺するだけだったけれども。
 吃驚はしていたけれども、人を殺しているという罪悪感は、不思議とどこにも見つからなかった。

 観客が一様に口から紫陽花を吐き出して死ぬというある意味キャッチーな話題は、翌日のニュースの一面を飾った。演者の一人が動画で有名な”天使の歌声””クリスタル・ヴォイス”の江刺家桐慧だということも話題性に拍車をかけていた。加えて、観客一同は世界中から音楽の最前線を集めたような面子だったものだから、音楽界には多大なダメージがあった。著名なピアニスト、ヴァイオリニスト、チェリスト、他にも様々な人が紫陽花を吐いていたのだ。

 前回の公演でそれだけの人が死んだにも関わらず、第二回公演は開催されることになった。
 桐慧たち運営側は開催を一旦取りやめようという意向だったのだが、第二回公演に来る予定だった客が死んでもいいから声を聞かせろと言って聞かなかったのだ。
 警察からすればやめてほしいところだったが、事件性も、事故性も無い。
 桐慧たちの演奏を止めることのできる人物はこの時点ではどこにも居なかった。
 結果開催されることになったコンサートは、空席もあるかという運営側の予想を裏切って全席満員だった。
 音楽に魅入られた人間は命と音楽を天秤にかけても音楽のほうが重くなるのだろう。まるでリリスに魅入られたアダムのように。
 ただ、警備として警察が壁際に数メートル間隔で立つことになった。なにかの手がかりでも見つけたいのだろう。
 しかし、桐人も桐慧も内心では無駄なのだろうなと思っていた。
 演奏が始まったら誰も止められない。
 桐人と桐慧も止める気がない。
 桐人と桐慧は舞台袖から登場し、拍手で迎えられた。

 そして、演奏が始まった。

 演目は昨日と一緒。グレゴリオ賛歌から始まった。今日の桐慧は普段より心穏やかな気持ちで居た。
 桐慧は微笑みを取り戻した。
 両腕を広げて、全てを受け入れるように、あるいは、全てを放出するように。
 慈母の笑みで天使の十四歳が死の賛美歌を歌う。
 桐慧にまるで人形めいて整った顔を向けられて、観客一人一人が錯覚した。この聖女は自分を見つめて救いに来たのだと。

*

 紫陽花の賛美歌の演奏を終え、その瞬間ごとん、と複数箇所で音が鳴った。警備で立っていた警察官が倒れる音だった。昨日は緊張で見られなかった客席を一望する。皆首が上向いて、口からはあの屋敷のものと同じ紫陽花の、真紅の花弁が咲き誇っていた。
 綺麗だ、と桐慧は思った。
 自分が死ぬならこのように紫陽花の花瓶になって死にたい。
 羨ましく思った。桐慧と桐人はどうあがいてもこのように死ぬことは出来ないから。コンサートステージから降りて、一番前の客席を覗き込む。なるほど、幸せそうな顔をしている。
 自分の体に残った傷がふと痛んだ。
 観客と自分とのその対極の感情に、桐慧は痛みを思い出した。

 一方その頃、桐人は紫陽花の賛美歌がこのままではもしかすると危険なものだと判断されてしまうのではないか、と思った。しかし、それではこの神曲を多くの人に聞かせることが出来なくなってしまう。避ける手段はなにか無いものだろうか。何も知らぬ存ぜぬを通すしかないか。

 今日も事情聴取に呼ばれて、桐慧と桐人は別室で警察官と差し向かいになった。
「なにか心当たりはないのかい?」
「無いですね」
 警察の質問に即答して見せる桐人。桐慧は顔を上げて桐人を見つめた。
「自分たちでも何がどうなっているのかわからないのです。いつもどおり、ピアノを弾いて、歌を歌っただけなのに……」
「うーん……人の命がかかっている以上、気軽に差分を作ってテストするわけにも行かないですしね」
「そっちの女の子は? なにか心当たりは」
 尋ねられ、顔を伏せる。
「すいません、この子日常会話ができないんです」
「え? でもあんなにきれいな声で歌っていたのに」
「歌うことはできるんですけれども……」
 スマートフォンをねだって、借りる。
『わたしも心当たりはありません』
「筆談ならできるんだね。配慮が欠けていてごめんね」
 優しい警察官だ。このひとは早く救ってあげたいなと素直に思って、素直に思った自分に愕然とした。桐慧たちの救いは死である。桐慧は自分に良くしてくれたひとに対して、真っ先に殺したいと思ったのだ。
 狂い始めている。
「すみません、少し疲れているので今日はもう帰ってもいいですか」
「ああ、わかった。誰か適当な人員、ホテルまで送っていくように」

 ホテルの部屋で、聖と桐人とさすがに第三回目の公演は中止にしようという話になった。
 綺麗な花畑が見られないのは残念だったが、それも仕方がないかと諦める。
「残念だけど、別荘に帰りましょう。少なくとも、ほとぼりがさめるまでは」
「あ、帰る前に」
「? 何?」
「桐慧とゲームセンターに寄ってもいい?」
「あなた自分の立場わかってるの桐人くん?」
「わかってるよ? あ、流石に変装はするから。喪服着てないと案外バレないんだよね、僕」
『わたし、普通のお洋服持ってない……』
「桐慧、それは普通のお洋服なんだよ」
『え? こんなにふわふわしてるのに?』
「そうだよ。だから桐慧はそのままで大丈夫」
「だめよ」
「え? どうしてですか、聖さん」
「桐慧ちゃんはもうそのクラシック・ロリータの服と長い髪がトレードマークになってしまっているの。服装はもっと違うジャンルに」
「ゴシック・ロリータとかかなあ……」
「ロリータから離れなさいよ」
「あ、甘ロリとかもいいよね」
「どこまで行ってもロリータから離れないわよね、桐人くん。服装は明日私が適当に買ってくるから、それを着て遊びに行ってきたら? なんだかんだ休暇らしい休暇なんてなかったしね」
『聖さんも一緒がいいです』
「やっぱりこの変態が一緒だと不安?」
「ねえ、もしかしてもしかするけど変態って僕のことを指してるわけじゃないよね?」
「外国回りすぎて日本語の成績が落ちちゃったのかしらね……そのとおりよ」
「えーん桐慧、聖さんがいじめてくるよ」
『レースゲーム、してみたいです』
 聖の眼がキラリと光った。
「容赦はしないわよ」
「してあげてよ……僕だって周回遅れで負けるのに」

 聖が買ってきたのは、だぼだぼの黒Tシャツに白いスキニーだった。上げ底のスニーカーサンダルつき。
 ついでに髪も三つ編みにしてもらった。
 桐人はVネックの白Tシャツにカーキ色のジャケット、スラックス。髪はあえて結んでいない。
「ああ桐慧、君はどんな格好でも可愛いんだね……」
 抱きつこうとした桐人の後頭部をスパァンと叩いた聖はというと、自分はロングのカーディガンにデニムのパンツ、シャツはインしている。
「聖さんって……無難だよね」
「褒めてるなら体当たりしないけど」
「褒めてるよ、褒めてる褒めてる」
「えい」
「あう」
 聖の体当たりを食らって、桐人はよろめいた。
「体幹がしっかりしてないんじゃないのぉ?」
「いや聖さんが強いっていうか……」
「学習能力がないねえ君は。えい」
「あう!」
 楽しそうに見えたので桐慧も桐人に体当たりした。けれどもびくともしなかった。
 頬をふくらませると、パシャパシャと連続でカメラ音がした。桐人である。
 顔を覆って背を向ける。
 桐慧は羞恥心を思い出した。
 今までは平気で身体を見られても大丈夫だったのに、今の桐慧は桐人に服を脱がせられることは到底無理そうだった。
「さあ、それじゃあ行きましょうか」
「はい。桐慧、手を繋いで。はぐれちゃうから」
 少しだけ恥ずかしかったけれど、桐慧は桐人と手を繋いだ。

 秋葉原に訪れて、桐慧たちはゲームセンター巡りを始めた。こういうところに来るのは生まれてはじめてだったので、どきどきした。
 あのお姉さんたちはスカートがあんなに短くて大丈夫だろうかとはらはらしながらきょろきょろする。
「じゃあ手始めにレースゲームやりましょうか」
「手始めにやる難易度じゃないんだよ……」
「日和ってんの?」
「日和ってないけど? 桐慧、骨は拾ってあげるからね」
 簡単に操作方法を教えてもらい、桐慧は人生初のレースゲームに挑戦することにした。

*

 結果は一位聖、二位桐慧、三位桐人だった。その時の桐人の絶望顔が忘れられない。桐慧はくすくすと音を立てずに笑った。
 桐人は罰としてUFOキャッチャーの景品を全部持たされている。景品は桐慧がほしいと言ったものを聖が全て奪い去った。景品を入れる袋を取りに行かされている桐人が居ないうちに、聖はひっそりと口にした。
「実はね、私と茜くんは死にたいと思ってるんだ」
『そうなの?』
「秘密だよ。それでね」
『わたしもそうでしょ、ってことが聞きたいの?』
 そう言うと、聖は一瞬目を大きく広げて、それから優しく桐慧の頭を撫でた。
「察しが良いね。そう。桐慧ちゃんは、どうして死なないの?」
『方法がなかったから。死ぬ意味もなかったから。強いて言うなら、楽になりたかったから』
 聖は心底憐れになってしまった。自分と茜には死ぬ理由は与えられていた。しかし、この少女にはその理由すら与えてくれるものがなかったのだ。
「いまでもまだ死にたい?」
『死にたい。けれども、今は……まだ、死ぬときじゃないと思う。いつかその時がくると思うけど、それはきっと桐人くんと紫陽花屋敷が教えてくれると思うから』
「紫陽花の屋敷?」
 口が滑った。背筋がひゅっとなる。
「紫陽花のお屋敷がなにか関係しているの?」
「話してなかったっけ? 僕と桐慧は紫陽花の屋敷で幽霊に会ったんだ」
 ちょうどその時桐人が帰ってきた。内容を上手に改ざんしてくれている。
「聞いてないわよ?」
「桐慧にだけ聞こえる声で、『おかえりなさい』と、『いってらっしゃい』が聞こえたんだってさ。それで桐慧はそれが気になってるんだって」
「ふうん……不思議なこともあるものね」
 聖はどこかまだ納得していない様子だったけれども、一応は信じてくれたようだった。
 持つと隠れてしまうようなサイズのぬいぐるみを抱えて、桐慧はホテルに帰るための電車に乗った。

 
 翌日、聖の運転で桐慧と桐人は紫陽花屋敷のある別荘に帰還した。別荘は未だメディアに突き止められてはいないようだった。
 門番の審査を通って駐車場に車を止める。
「あなたたちは荷物を別荘に置きに行ってらっしゃい」
 聖に言われるがままぬいぐるみ以外のものを持とうとすると、桐人が全て持ってしまった。
「桐慧はかわいいからそれだけ持ってればいいよ」

 ゲームセンターにはお菓子のUFOキャッチャーもあったので、あれもこれもとねだってしまった。食べたことのないものばかりだった。
 別荘に着いたのはまだ朝とは呼べない時間帯だったので、桐人と聖といつの間にか帰国してなぜか起きていた茜とUNOをして遊んだ。最後は桐人と茜の一騎打ちだった。もしかして、いままでは茜が居たから茜くんが最下位だっただけで、桐人もなかなかゲームが苦手なのでは……? そんなことを思っていたら、茜くんが負けてゲームが終わった。
 朝日が差してきたので、ゲームは終わって早めの朝食を摂って眠ることにした。
 今日の朝食はハムとレタスのサンドイッチだった。

 三番地のお屋敷で眠って、起きると再び桐人が居た。視線の先に、椅子に座って本を読んでいた。自分の部屋で読めばいいのに、と思いつつ起き上がる。
「あ、桐慧。おはよう」
 今なら出せる気がした。
「おは、よう」
 ソプラノでありながらも、掠れたウィスパー、あるいはミストヴォイス。ミステリアスな声が桐人の心臓を貫いた。
「桐慧、声が出せるようになったのかい?」
「きり、ひと、くん、の、まえだから」
「そんなかわいいことを言わないでくれ、これ以上僕を好きにさせてどうするつもりなんだ!? 僕はまだ未成年なんだ……」
 本を取り落として桐人は自分の顔面を覆っていた。
「本、落ちてる」
「本なんてどうでもいいよ」
 そういいつつも桐人は本を拾って、ぱんぱんとほこりを払った。窓のカーテンは桐慧のために敢えて閉めていてくれたのか、桐人はカーテンを開けた。眩しい光が差し込む。
「今は午後の一時だよ。どうする? まずはご飯か」
「桐人くんは、寝てないの?」
「心配してくれるの? ありがとう。僕はショートスリーパーだから早く目覚めるんだ」
 桐人はとろんとした目で、愛おしむようなその目で、桐慧を見た。桐慧はそれを正面から受け止めた。
 お父さんはもういない。
 桐慧が桐人と幸せになっても、きっともう誰にも殴られない。
 だから桐慧も、とろんとした瞳で桐人を見つめ返した。

 桐慧は、桐慧を取り戻した。

 お父さんもお母さんももういない。桐慧は安心して桐人に愛されることができた。
 食事を終え、昨日手に入れた大量のお菓子を持って茜の家にお裾分けしに行った。
「えー、すごい量だね。どうしたのこんなに」
「聖さんとゲーセン行ってきたんだよ」
「ああ、そりゃこうなるわ。聖まだ寝てるから、起こしてくるよ。お菓子パーティーだ」
 使用人の皆さんも招待して、庭のスペースに椅子とテーブルを人数分配置した。
 たまにピアノが弾ける人が手を消毒してから演奏する。
 コアラのお菓子や、細長いお菓子を、桐人は開けては桐慧に与えていく。
「桐人、そんなに開けても食べきれないんじゃあ……」
「え? 桐慧が食べ切れない分は僕とか皆が食べればいいじゃないか」
「桐コンなのよ、こいつ」
 寝起きだからか、ぼうっとしている聖がそう言った。
「仮にも雇用主に向かってこいつなんて言うんだよ、ひどいねえ桐慧」
「そう、かな」
 音が止まった。
 桐慧のエンジェルボイスに驚いた皆がお菓子を取り落としている。あー、勿体ない。
「き、桐慧ちゃん、喋れるようになったの?」
 桐慧は茜の質問に頷いた。
「いつから?」
「さっき」
「良かったねえ」
 聖が桐慧にしなだれかかった。それにはびくっとしていたけれども、今までのように過剰に頭を庇うなどという行動は見られなかった。
 本当の意味で桐慧が救われたのは誰もが今なのかもしれないと思った。
「ねえ」
 桐慧が喋ったので皆が黙った。その綺麗だけれどもか細い声を聞き取るためである。
「どうしたら死ぬことができるの?」
 全員が、この瞬間、この少女を哀れんだ。
 父親の呪縛から解き放たれてなお、消せない傷があるのだ。聖と茜だけがその傷みを知っていて、でもだからと言って救えない。
「桐慧」
 桐人は優しい声をかけた。
「大丈夫だよ。死ぬときは一緒だからね。やり方も教えてあげる。だけど僕は、そうだなあ、桐慧が僕と結婚して結婚生活を堪能する桐慧を見るまで待ってもらいたいかな」
「わかった。それまでは、わたし、ちゃんと生きてる」

 桐人は言質が取れて小さく息を吐いた。
 桐慧にスマートフォンをもたせると、自殺の方法について調べてしまいそうだったから、普段はあえて情報源からは遠ざけておいているのだった。
 桐慧の父親の巡と同じことをしているのに嫌悪感が募るが、ベクトルは真逆であると思っているのでなんとか嫌悪感を心のなかで押しやっていた。

*

 江刺家桐人は、物心つくころから恋をしていた。
 ピアニストである伯母、江刺家慈に、強烈に。
 彼女に憧れてピアノを始めるくらいには。
 桐人の奏でる旋律はいつでも恋の色、響きをしていた。
 けれど、この恋が成就しないことくらい幼い自分でもわかっていた。だから、親類である彼女の子供――桐慧が娘であることを知らされたときは妊娠がわかったときの慈の夫より喜んでいたかもしれない。従妹同士が結婚できることはとうの昔に調べがついていた。
 桐慧と結婚したら自分は合法的に慈の子供になれる。
 自分の両親に対する執着は無かったので婿養子に入ろうと思った。
 いま自分は……七歳だから、あと十一年経ったら結婚できる。ああ待て、桐慧がそれだと追いつかない。桐慧が十六になるのは十二年後だ。
 四歳の従妹――桐慧は、桐人の望む通りに慈に似て人形のように美しく育ちつつあった。
 その頃の桐人はピアニストとして天賦の才を認められ、様々なトロフィーを獲得していたけれど、インタビューに答えているときもピアノを弾いているときも何をしていてるときも慈や桐慧のことばかりを考えていた。
 年を経るごとに桐人のスケジュールは埋まっていき、ピアノのコンサートで学校の休みは埋まっていった。八歳になった桐人の夏休みはとうとう海外ツアーで埋められてしまった。お盆になったら家に帰らせてくれと頼んだが、マネージャーが許してはくれなかった。
 携帯で本家に電話をかける。
『もしもし、江刺家です』
「あ、大叔父さん? 僕です、桐人です」
『おお、桐人か! どうだ、元気にやってるか?』
「桐慧に会いたくて死にそうなので代わってください」
『桐慧は寝とる。起こすか?』
「…………いえ。寝かせておいてあげてください」
『偉い。海外は何かと大変だろうし、なにかあったらあのしっかりしてそうなマネージャーさんに頼るんだぞ』
「うーん……、わかりました。あ、慈さんは起きてますか?」
『慈は桐慧と一緒に寝とるわ』
「その写真撮って送ってください」
『お前……』
「? どうしました?」
『いや、いい。あとで適当に送っておく』
「適当じゃ駄目ですよ。ちゃんとアングルに凝って送ってください」
『はいはい、じゃあ切るぞ』
「待って叔父さん絶対わかってな……切られちゃった」
 桐人は嘆息した。
 次に帰れるのはいつなのだろう。
 桐慧に会いたい。
 最近、慈よりも桐慧のことを考える時間の方が長くなった気がする。その理由は単純で、最終的に自分のものになるのが桐慧の方だからだ。慈はどう足掻いても自分のものにはならない。
 名前を呼びながら自分の後ろをついて回る三歳年下の可愛らしい従妹が愛おしくてしょうがないのだ。
 慈と自分との関係は、一方的に自分が慈を求めて慈がそれに親戚として応えてくれているだけのものだったから。
 なんとはなしに生まれるもやもやとしたそれは少し、悲しい感情だった。
 ああ、早く桐慧を自分のものにしてしまいたい。そうしたらこの悲しさが埋まるような気がした。
 
 ――そんな生活がもう日常になった十二歳の夏だった。
 その事件は起こった。
 ベッドで眠っていたところをマネージャーに叩き起こされる。
「なんですか、一体……」
「君の親戚が行方不明になったらしい。一応連絡だけはしておこうと思ってな」
 さあっと背筋が冷える。
「――誰が」
「江刺家慈さんという方らしい」
「帰ります」
「駄目だ。この後もコンサートの予定は詰まってる」
 本来鍵盤を叩くためにある桐人の両手の指がマネージャーの首筋にかかった。ゆっくりと力を込める。
「帰ります」
 マネージャーは成人男性で、まだ未発達の身体の桐人に勝てないわけがないのに、その指を引きはがすことが出来なかった。桐人は本気で殺す気で力を込めていた。
「帰って、どうする」
 咽ながらマネージャーに問われる。
「探します」
「もう警察も介入している。君にできることなんて」
「桐慧が悲しい思いをしているかもしれない」
 桐慧と慈を精神的支柱にしてこのハードスケジュールの日々を耐えていた桐人にとって耐えられるわけがない状況だった。
 母親がいなくなって、寂しくて泣いているかもしれない愛しい従妹のことを考えると、もう居ても立ってもいられなくなって、もともとそんなに広げていなかった荷物をまとめて、まだ苦しそうにしていたマネージャーを置いてホテルの部屋を出た。

 日本に帰ってからはタクシーを捕まえて一旦本家へ帰った。
 本家の広い庭で昔桐慧と花火をしたことを思い出す。
 広々とした日本家屋は旧華族の邸宅を何代か前の先祖が買い取ったらしい。
 玄関を開け、「ただいま」と声をかけた。
「桐人!? お前、なんでここにいるんだ!?」
 大叔父が出てきて桐人がここにいることにびっくりしていた。
「慈さんがいなくなったって」
「ああ、いま皆で探しとる。お前まさかそれで海外から帰ってきたのか?」
「桐慧が可哀想でしょう。側に居てあげなきゃ」
「桐人……」
 大叔父はなにかを言おうとして、それを飲み込んだ。
「いつもの桐慧の部屋に居るわ。行ってやれ」
「うん」
 桐人はスーツケースをひとまず玄関の邪魔にならないところに放置して、桐慧の部屋に向かった。
 コンコン、と襖をノックする。
「桐慧、入るよ」
 声をかけてから襖を開ける。
 そこにはぽつんと座ったお人形さんみたいな女の子が座っていた。
 いままで知っていた桐慧は花火をして喜んだり、手を繋いで恥じらったりするような可憐な少女だったのに、そういう情緒がすべてどこかに置き去りにされてしまったような姿だった。
 桐人はそれを傷ましく思い、そっと床に膝をつき抱きしめる。
「大丈夫だよ。僕はずっと側に居るからね」
「おかあさん……」
 桐人の首筋に、桐慧の涙がひとしずく落ちた。
 桐慧に見えないのをいいことに、桐人は微笑むことを止められなかった。
 ああ、これでこのまま慈がいなくなったら、桐慧は僕のものになるだろう。
 慈が見つかったのならそれはそれで上々だ。桐人は彼女のことも愛している。
「お布団を敷いてもう今日は寝てしまおう。僕も一緒だから平気だよ」
 桐人が布団を敷いて、桐慧は布団に入った。
 桐人は枕元に座って、怒涛のように入っているマネージャーからの連絡を一つ一つ返す作業に入った。
「桐人くん」
「ん? 何?」
「手繋いで」
「もちろん」
 桐人は布団の端からちろりと出たちいさな手を鍵盤に触れるときのようにやさしく覆うように握った。
「おやすみ、桐慧」
 願わくばこの一言が君の心臓に根を張り続けますように。
 桐人はそう思った。

*

 桐人は、試してみたいことがある、と自分の別荘の音楽室に茜を招いた。
「これから渡す楽譜を弾いてみてくれないか」
「ええ、初見で?」
「茜くんならできるでしょ?」
「できないこともないけどさぁ……」
 茜はぺらぺらと楽譜をめくった。
「あ、これアンコールで弾いてた曲じゃん。録音で聞いたから初見じゃないわ。気になってたんだけどこれ誰の書いた曲? 聞いたことない」
「オリジナル曲だよ。僕ととある人の合作。なるべく楽譜に忠実にお願い。桐慧の声、思ったより大きいから音も合わせてね」
「ん? うん、わかった」
 桐人は二つの仮説を立てていた。まず、死ぬのは桐慧と桐人の生演奏を聴いたもののみ。そして、死なないのは、紫陽花屋敷で、あの骨片を飲んだ者のみ。

 茜の奏で始めた旋律に合わせて桐慧も歌う。茜も桐慧の声につられて音量が上がった。桐人は壁に寄りかかって、腕組みをして二人のセッションを聞いていた。
 桐慧は、聴く側に回ったら内心で桐人も死んでしまうのではないかと強い不安があってそわそわとしていたら、耳元でまた声が聞こえた。「大丈夫よ」誰? お母さん?
「桐慧ちゃん準備はいい?」
「あ……だいじょうぶ、です」
「じゃあ始めるよ」
 茜の紫陽花賛美歌は重厚な桐人のものとは違ってどこか軽やかだった。
 やはり弾く人が違うと音色も違うものだなあと思った。
 歌い終わって桐人が頷く。
「わかった、ありがとう」
「何がわかったんだ?」
「んー、秘密」

 自分の命をかけて行った実験で桐人がわかったのは三点。紫陽花賛美歌は、桐慧の声だけで人が死ぬことはないこと。加えて、同じくピアノ奏者が桐人以外だと死なないこと。あの赤い骨片を飲んだ桐慧と飲んでいない茜がセットで演奏しても桐人が死ななかったことから考えて、逆も然りだろう。つまり、桐慧と桐人が揃っていなければ人は死なないのだ。
 このことがばれたら二度と桐慧と会えなくなってしまう可能性がある。
 そんなことは”死んでも”嫌だ。
 しかし警察も馬鹿ではないので、いずれは今日桐人が行ったような実験をするであろう。そうなったらおしまいだ。
「桐人くん」
 音楽室でピアノを適当に弾きながら考え込んでいたらしい桐人は聖の声で演奏をやめた。
「言いづらいんだけど……演奏依頼が来ているの」
「依頼? 僕たちの演奏を知っての上で?」
「安楽死を希望する希死念慮を抱えたカルト系の団体から……」
 ああ、その道があったか。
 桐人は一も二もなく頷いた。
「いいよ。受けるよ。だって、それなら皆が望むような形になるじゃないか」
「……わかった、受けると伝えて来るわ。……あまり、私は賛成できないのだけれど」
「いいよ。僕のピアノで人が幸せになるならこれ以上の幸いはないから」
 桐慧を探しに行かなくちゃ。
 桐人は意気揚々と桐慧を探しに部屋を出た。

 桐慧は、一人でこっそり家を抜け出して、紫陽花屋敷に訪れていた。
「おかえりなさい」
「ただいま、お母さん」
 そう言うと、耳元が涼しくなった。
「わたしだってわかってくれたのね。桐慧が来てくれて嬉しいわ」
 耳元で、もう聞き覚えのある声がする。
「お母さん、どうして目の前に出てきてくれないの」
 桐慧は慈に会いたかった。それに聞きたいこともあった。
「あの楽譜を書いたのは誰?」
「わたしは彼女に選ばれなかった」
「選ばれなかった? 女の人なの? それって」
 扉が開く音がした。
「桐慧……? 今誰と話していたの?」
 桐人だった。

*

 家のどこを探しても桐慧の姿が見えなかった。早くこの吉報を伝えなければならないというのに。
 四番地の茜と聖の別荘に居るのかと思い見に行ったが二人とも来ていないと言う。
 桐人は俄に不安になった。
 この別荘地で、桐慧があと行けるところと言えば。
 ――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。頼むよ、桐慧。
 君までいなくならないでくれ。
 桐人は紫陽花屋敷に向かって走り出した。

 エントランスホールの扉は開け放たれていた。中に桐慧の姿が見える。ひとまず安心して呼吸を整えて、近づいていくと、桐慧はエントランスにぽつんと一人で立っていて、誰かと会話をしているようだった。
 管理人か?
 どこを見ても桐慧の話し相手が見つからない。
 早足で扉を覗くと、桐慧は宙空に向かって親しげに話していた。
「桐慧……? 今誰と話していたの?」
 問いかけると、桐慧はぱっと振り返った。
「桐人くん……」
「ねえ、もしかして、慈さん?」
「――うん」
「そこにいるの?」
 桐人の目にじわりと涙が滲んだ。それを見て、桐慧はどこかが痛むような表情を浮かべた。
「姿が見たい」
「だめみたい。もうここには居ないわ」
「なんで? どうして桐慧ばっかり……」
 涙をこぼしながら言ってしまってから、桐人ははっとした。桐慧の表情が失われていたからである。
「たぶん、血が繋がっていないからだと思う。ごめんね、桐人くん」
 なんてことを口にしてしまったんだろう。
 桐慧の味方でいると言ったその口で彼女を羨む言葉を口にするなんて。
「桐慧」
 近づいて抱きしめようとしたら、桐慧は一歩下がった。それは明確な拒絶だった。
「ごめんなさい、桐人くん。わたしなんかが、恵まれすぎだよね。最近勘違いしてたのかも」
 その声が震えていたので、桐人は重い自責の念に駆られた。
「違う、桐慧は何も悪くないよ。僕が間違ったんだよ、桐慧は」
「わたし、やっぱりお父さんのところに」
「それだけは駄目だ! 桐慧、桐慧、僕の目を見て」
 ややあって、紅の視線が交差する。
「桐慧、僕は桐慧のことが好きだよ」
 何度目かの告白だった。桐慧の紅の瞳が揺れる。
「わたしはわたしのことが好きじゃない」
「桐慧の分まで僕が愛してあげる」
「あなたの全部がわたしのものにならないなら、わたしあなたなんて全部要らない!」
「桐慧!」
 お母さんを呼んだ、
「その声で呼ばないで!」
 桐慧は叫んで、紫陽花屋敷の奥へと走り去った。
「待って、桐慧!」
 追いかけようとすると、廊下が壁になって桐人の行く手を阻んだ。
「桐慧!」

*

 歩いたことのない廊下を歩いていた。両目からは涙が流れ、それを拭いながら、紫陽花屋敷の談話室と思われるところに入って、ふかふかの椅子に沈み込む。
「桐慧」
 お母さんの声がした。
「……お母さんと今お話したくない」
「あの楽譜を書いた人はね、後藤雨白(ごとううしろ)さんという女性よ。その人も天才だったけれど、あの曲を書き上げられなかったことに絶望して自殺したの」
「……繊細だったのね」
「そう、いまのあなたくらいにね」
「雨白さんはわたしとお話しないの?」
「あのひとは、しないでしょうね。管理人さんを通せば話ができるけれど」
「桐人くん、お母さんのことが好きなの」
 桐慧は引き絞るような声でそう言った。
「うん……」
「でも、わたしのことも好きなの。ずるいわよね」
「そうねえ」
 母の姿を見ることはできなかったから、逆にするすると言葉が出た。
「お母さんは、わたしの歌声、聴いた?」
「聴いたわよ。とっても素敵だったわ、桐慧はすごいわねえ。わたしだったらあんなに綺麗に歌えないもの」
「……ふふ」
「どうしたの?」
「お母さんに褒めてもらったから嬉しいの」
「あらまあ、良かった」
 それが人を殺す歌であっても?
 そう尋ねてみたかったが、やめた。
「桐人くんをあんまり心配させるのも可哀想だから、帰るわ。また来ても良い?」
「勿論。桐慧と二人ならお話できるから」

 エントランスホールに戻ったら、途方に暮れたような表情の桐人が立ち尽くしていた。
「桐慧……?」
 その目が赤いことから泣いていたことが察せられた。
 泣いてたの?
 そう訪ねようとして、声が出ないことに気がついた。
 また桐慧は声を失ってしまったらしい。
 桐慧は喉をトントン、と二回叩いて、口の前でクロスさせた。
「また、声が出なくなったの……? 僕のせいだよね、ごめんね」
 桐慧は手を伸ばして桐人の頭を撫でた。
 すると、桐人はぼろぼろと泣き出した。
 桐人が桐慧のことを抱きしめた。痣が少し痛んだが、甘んじて受け入れることにした。
「僕のせいで桐慧が傷ついたと思ったら、僕は、もう」
 気にしなくてもいい、と言えるほど癒えてはいないので、桐慧は黙ったままだった。

*

『わたしは迷惑をかけてばかりじゃないかしら。今日も――困らせてしまったし』
「僕のことなら気にしないで。僕が完全に悪かったから。それにね、桐慧は人の役に立つことができるよ」
 桐人は演奏依頼の話をした。
「ね? 桐慧は人のことをきっと誰よりも救える歌手になることができるよ」
 桐人は、桐慧の前にしゃがみこんだ。
「桐慧、僕は、慈さんに対してはね、憧れに似た恋をしていたんだ。それももう終わってる。今は、君のことだけを見つめているんだよ。さっきはびっくりしちゃって、まるで桐慧を責めるようなことを言ってごめんね」
 ほんの少しの嘘を交えた桐人の言葉に、桐慧の目からはらはらと涙がこぼれて落ちた。その涙の意味は自分でもわからなかった。安心、あるいは、その言葉の薄っぺらさに辟易したのかもしれない。
『桐人くんまで、お前よりお母さんが帰ってきたほうが良かったって言ったらどうしようかと思った』
「そんな酷いこと誰が言ったの」
『お父さん』
 桐人はやっぱり絶対二度と会わせないと心に誓った。
「桐慧、ごめんね」
『ううん』
「……ねえ、本当はまだ傷ついているでしょ」
 しばし間を空けて、桐慧はスマートフォンを桐人に見せた。
『うん』
「桐慧の傷が癒えるまで、依頼は置いておこうか?」
『いい。わたし、歌いたい』
「そっか。じゃあ、そうしようね」

 別荘までの道中、桐慧は、自分が自分で思っていたよりも桐人に依存していることについて考えていた。エントランスに飛び込んできた桐人が、真っ先に桐慧の向こうに視線を遣ったことに思っていたより傷ついたからである。
 桐慧を見る蕩けたような視線じゃなくて、縋るような必死さで。切り裂くような切実さで。
 ああ、わたし。
 お母さんに嫉妬してるのね。
 卑しいことだわ。
 三番地の別荘に帰ってから、桐慧は自分の部屋に閉じこもって鍵をかけた。
 そのままふかふかのベッドに飛び込む。
 桐慧にとって母は大好きであり大嫌いな存在に成り果てた。
 桐慧も、桐人のことが心底好きなのだということに気がついてしまったのだ。自分を庇護してくれる、優しくて都合のいい立場の人間に対する好きだと思っていたのに、これは違う。桐慧は桐人に恋をしていたのだ。
 死んでる相手には勝てない。
 またじわりと涙が浮かんできて、枕に顔を埋める。
 駄目だ、別のこと考えなきゃ。
 わたしは彼女に選ばれなかった、というのはなんのことだろうか。早めに桐人に話しておきたいけれど、今は声も聞きたくなかった。
 あの甘い声に絆されてしまいそうだったから。
 絆されてしまいたくなりそうだったから。
 きっと桐人はいくらでも甘やかしてくれるだろう。けれど、今顔を合わせるとまた泣いてしまいそうだったからしばらくは閉じこもっていたかった。

「桐慧、ごはんの時間だよ」
 ノックをしてから扉を開けようとしたが、鍵がかかっていた。
 そんなことは初めてだったので衝撃を受ける。
「桐慧、桐慧?」
「桐人くん、どうしたの」
 聖が訪れた。髪を下ろしているので仕事モードではないようだ。
「桐慧がドアを開けてくれなくて……」
「何をしたの?」
「いやあ……ちょっと、酷いことしちゃって」
「酷いこと? 一体何をしたのよ」
 廊下の隅で慈と桐慧を比べるような真似をしたという旨を伝えると、思い切り頭に拳を落とされた。
「一日くらい反省してろ」
「うう……はい……」

 夜更けになって、は、と桐慧は意識が戻った。どうやらあのまま泣き疲れて眠ってしまったらしい。
 湿布を貼ってもらうために桐人の部屋に向かいかけて――進路を変えた。隣の番地まで行って聖に貼ってもらうことにする。少なくとも、今日だけは。
 聖も茜も夜型だと聞いていたから、おそらく起きているだろう。玄関でチャイムを鳴らすと、聖が出てきた。
「あら、桐慧ちゃん。どうしたの?」
 湿布を貼って欲しい、と言おうとしたが、声が出なかった。
 そうだ、そう言えばまた声が出なくなったのだった。
 小声で賛美歌の出だしを歌うとそれはスムーズに歌うことが出来た。
「桐人くん、お説教ね。それで、用事があって来たんじゃなかったの?」
 聖はスマートフォンを渡してくれた。
『湿布を貼ってほしくて』
「ああ、いいよ。私の部屋行こっか」

「ここに爆弾置いたの誰!?」
「誰だろ、わかんないね」
「聖ぃい」
 聖と茜のレースゲームの対戦をお菓子を食べながら見るのが楽しかったので、一時桐人のことは忘れることが出来た。
 聖は普段とは違って怠そうな雰囲気を醸し出していた。茜にしか見せなかったであろう姿を桐慧にも覗き見させてくれているやさしさが痛かった。
 明日は訪問医の診察がある。少しは良くなっているといいのだけれど。

 朝食の時間にダイニングに降りると、桐人が死にそうな顔でこちらを見た。
「桐慧、まだ声は――」
 桐慧が首を横に振ると、桐人は震えながらスマートフォンを桐慧に渡した。
「あああ、桐慧ごめんね、桐慧、ああ、でも――」
『でも?』
「桐慧にそんなに影響を与えられる存在になれたことに、少し、高揚してる」
 桐慧は呆れて言葉を失った。

 三番地の江刺家家の別荘で、往診に来てくれた先生がうなずいた。
「栄養も取れているし、痣も消えつつあります。体重も平均値に近づいてきていますね」
「本当ですか? よかった……」
 桐慧の診察についてきた桐人は心底ほっとしたような声を出した。
「前回の血液検査の結果はボロボロでしたが、今の様子を見ると少しずつですが、順調に回復していますよ。また採血を取りましょうね。きっと驚くほど変わっているはずです」
 ただ、と医者は続けた。
「消えない傷もあります。それは形成外科の領分ですし、内蔵へのダメージもあります。また総合病院で全身検査しましょうね」
『わかりました』
「おや? 声が戻ったと聞きましたが、また出なくなったのかな?」
 桐人の姿勢が傾いだ。
「こういう症状は繊細で不安定なものだから、心配することはないですよ。またきっと声が出るようになります。精神の方もまた往診に来るらしいから、そのときに相談するといいよ。お大事に」
『ありがとうございます』

*

「桐慧ちゃんの様子はどうだった?」
 聖に問われ、桐人が答える。
「だんだん良くなっているみたいです。良かった……」
 桐慧の心を傷つけた自覚があるだけに、体だけでも良くなっていて安心した。
「今日の予定は?」
「桐慧と紫陽花屋敷に行ってみようと思って」
「桐人くん。――紫陽花屋敷と、あの死体たちは、なにか関係があるの?」
 桐人は困ったように笑った。
「秘密です」
 それが暗黙の答えだった。

「桐慧ちゃん、桐人くん、次の演奏場所なんだけど――」
「紫陽花屋敷とかどうですか?」
 桐慧たちの別荘のラウンジで紅茶を飲みながら、桐人が提案した。
「警察も死ぬとわかってて踏み込んでは来ないでしょ。死体は管理人さんがなんとかしてくれるし」
「なんとかって何?」
「僕は詳しくは知らないけれど……」
「紫陽花賛美歌を聞く人達には生前整理を行っていることを条件としているけれども、遺族とのいざこざがあるかもしれないわ。勝手に遺体を処分してしまうのは、死体遺棄にあたるだろうし」
「うーん、見つからなければ大丈夫だと思うんだけどな」
 その言葉に、聖は一瞬眉をひそめた。
「死体の処理だけは警察にお願いしようかしらね」
「それは嫌だな」
 桐人は、紫陽花屋敷を警察に調べられることが嫌だった。
「どこか適当なホールを借りよう」
「迷惑になるわ」
「でもホールの知名度は上がると思うよ」
「うーん……あまり別荘には立ち入らせたくないのよね……ああ、そうだ。桐人くん、音楽ホール一つ買いなよ。そこで演奏すればいい」
「ああ、それが一番いいね」
 音楽ホールを買うという尋常ならざる言葉に桐慧は驚いたが、桐人の財布は特に傷まないらしかった。
 やはり金銭感覚がずれている。
「その安楽死希望の人たちは何人くらい居るの?」
 聖はスマートフォンを取り出して確認した。
「二十名のが一組と、三十三名のが一組ね。今のところは、だけれど」
「どんどん増えていくだろうなあ」
『フルじゃなくてミニコンサートにしたら』
「紫陽花賛美歌以外も演るつもりなのかい? 桐慧」
『だって、死出の旅なのに一曲だけじゃ可哀想でしょう?』
 桐慧は当然のようにスマートフォンを打った。
 それは間違いなく自分が打った文字列なのに、別人のもののように見えた。
 桐人はそれに僅かな違和感を覚えたが、気のせいかと首を振った。

*

 ミニコンサート当日。
 観客の顔は晴れやかな者もいれば、鬱屈とした者もいる。
「じゃあ、聖さんはまたモニタ室に居てね」
「直接聴かないと効かないの?」
「うーん……」
 聖は敏いから紫陽花賛美歌の仕組みに気づきつつある。
「あまり、そこは考えないで欲しいな」
「――そう」

 桐慧と桐人が舞台袖から現れると、それだけで涙を流して感動する人が居た。やはり死は救いなのだ。
 一礼して、コンサートは始まった。
 三曲は普通の賛美歌。四曲目で紫陽花賛美歌。
 いつものようにアルトで締めると、やはり皆死んでいた。警察には事前に連絡しておいたので、すぐにやってきた。人が死ぬかもしれません、とだけ伝えたので二、三人の警官は待機していたのだが、話を信用しなかった警官が一人死んでしまって、少し警官側で騒ぎになった。
『死体の処理をお願いします』
 桐慧が警官にそう伝えるのを見て、桐人と聖は驚いた。内気で内向的な桐慧が知らない人に話しかけに行くことも、その内容も、桐慧らしくなかったからだ。
 くすくすと笑いながら桐慧は二人のもとに戻ってきた。
『ああ、人を救うのってなんて素晴らしいのかしら』
「桐慧……?」
『なあに、桐人くん』
 上目遣いで見られたその瞳は爛々と光っていて、まるで桐慧でないみたいだった。
「――なんでもないよ。ごめんね」
『次のコンサートが楽しみね。練習もしなくちゃ』
 そうだね、とだけ答えて、桐人は出口に向かって歩いていく桐慧の後ろ姿を目で追った。

 桐慧は聖の部屋のドアを叩いた。出てきた聖は少しびっくりしていた。
『聖さん、街に行きたいんですけれど』
「え? どこか行きたいところがあるの?」
『雑貨店に』
「欲しい物があるの?」
『桐人くんにプレゼント。過ぎちゃったけど、誕生日だったから』
「そっか、八月だったもんね。行きましょうか」

 目が覚めたら枕元にメモがあった。
 ――桐慧は頂いた。 晩ごはんまでには帰ります。自由に過ごしてねby聖なるもの
「聖さん……」
 桐人は目元を覆った。
 何してるんだろう、二人で。服でも見に行ったのかな。化粧品とか? それだったらぜひ桐人も同行させてほしい。ブルベ冬だと思うんだよな。
「僕も街出ようかな……」
 伸びをして、桐人は顔を洗って、平服に着替えた。最後に手袋をはめて、カードキーとスマートフォンを手にして部屋を出る。

 その姿を見ているものがいるとも知らずに。

「……そう。わかりました。今ホテルから出た姿を確認したわ。ありがとう。支払いは口座から引き落としになっています」
 喪服姿の女が電話を切った。

 桐人は可及的速やかに二人と合流すべく、聖に電話をかけた。
「あ、もしもし? 聖さん? 今どこ? 原宿? ああ、@コスメがあるもんね……え? なんの話って、桐慧の化粧品とか買いに行ったんじゃないの? 違うの?」
『違いまーす。まあ、合流するなら原宿で。こっちの用は済んだから』
「八分後に着くよ」
『はーい』

「桐人くん、こっちに来るって」
『じゃあそのままこれ渡そっか』
 桐慧は薄い袋にラッピングされたマニキュアを胸に抱いた。
 黒い色をしたマニキュアだ。桐慧とおそろいで買った。桐慧が桐人の両手と両足に塗ってあげようと思っている。桐慧が跪いて桐人の足にマニキュアを塗るのは、どこか倒錯的で美しい光景になると思ったからだ。もちろん桐慧の指に塗るのは桐人だ。想像して背筋がぞくっと震える。
 原宿駅から人がどさっと降りてきた。その中に桐人の姿をいち早く見つける。
 そして、その背後に喪服姿の女性の姿がいやに鮮明に目に入る。その女性は持っていたハンドバッグから包丁を取り出して、そのまま桐人に切りかかった。
「桐人くん!」
 桐慧が叫んだ。プレゼントも落として駆け寄るが間に合わない。
「え? ……っ」
 桐人の背中に大きく斜めに傷をつけて、女性は倒れる桐人に馬乗りになった。周囲の人間の悲鳴が聞こえて、桐人の周りが円状に人が割れる。
 人混みをかき分けて桐慧は桐人に駆け寄る。女性の包丁を持った方の腕を持って引っ張るが、力負けして取り上げられなかった。そこに聖が駆けつけて、包丁を持った手をひねり上げて取り落とさせる。
「江刺家桐慧! 江刺家桐人! お前たちのせいでわたしの夫と子供はッ」
 女性は狂気じみた目をしてそう叫んだ。
 どうやら紫陽花賛美歌の犠牲になった珍しい人間の家族らしい。紫陽花賛美歌を聞く人間は基本的に死にに来るが、最初の一回の公演だけはそんなことは誰にも知られて居なかったからだ。
「誰か! 原宿駅に救急車と警察を呼んでください!」
 聖がなんとか女性を抑え込みながら叫ぶ。
「桐人くん、桐人くん! やだ、いなくならないで!」
「桐慧、声、戻ったんだね、良かった」
「大丈夫って言って? ねえ、大丈夫って言ってよ」
「大丈夫だよ、僕は桐慧のこと置いてなんか行かないから」
 桐人の顔に桐慧の涙がぼたぼた落ちる。
「嘘つかないでよぉ……」
 
 警察の事情聴取の結果によると、どうやら加害者の女性は桐慧の同級生沙汰川航大の母親だったらしい。桐慧と一度だけ話したことのある沙汰川少年が桐慧の声を聞くためだけに父親と共にコンサートに行ったのだという。桐慧はそんな少年覚えていなかったのだけれども、少年の母親は探偵を雇って桐慧と桐人の動向を探り、効果的なタイミングで一人になった桐人を傷つけに来たようだ。
 三回目のコンサートは延期になった。

*

 出血に対して傷は浅く、縫うまでもなくテープで止めるだけで止血できるものだった。コンサートは三週間程度の遅れで再開できそうだった。
 桐慧は桐人が退院するまで病室の面会時間いっぱいまで居て、プレゼントのマニキュアを塗ってあげた。桐人はもちろんその待遇に大満足していた。
「桐慧?」
「何、桐人くん」
「ふふ、声も戻ったんだね」
「ああ、そういえば……桐人くんが切りつけられたときに思わず」
「それが嬉しいんだ」
「ふうん……」

*

「アニメソング?」
「そう。次の三十三名の団体がオタクらしくて、最初の三曲はアニソンを歌ってほしいらしいの。できる?」
「まあ、ちょっと練習すればできると思うけど……桐慧の方が難しいんじゃない?」
『発声の仕方が違うから……でも練習すればできると思う……』
 アニメソングの中でも王道のものを三曲チョイスして、桐慧は練習に入った。
 やはり発声からテンポから、なにもかもが違うので、初見で歌うのは無理だった。しかし、三回くらい練習したらできるようになった。
「ふたりとも、お昼の時間よ」
 聖が迎えに来て、桐慧と桐人は食堂へ移動した。桐慧たちの別荘は、白と緑を基調とし、光をふんだんに取り入れるデザインなので、いつでもさわやかな印象を与えてもらえる。
 今日のご飯はなんだろう、と桐慧が考えていると、隣を歩く桐人の視線を感じて視線をそちらに向ける。
「……桐人くん?」
「……あ、ごめん、何?」
「わたしの顔になにかついてる?」
「いや、そうじゃなくて……気の所為だったのかな、この間のコンサートのあと、少し様子がおかしかったから」
「……? そう?」
「いや、今は変わらないからやっぱり気の所為だったのかも」
「そう」
 自分で思い返してみると、たしかに少し高揚していた気もする。どこか、自分が自分でなくなるような――そんな感覚。
 自覚した途端に、ぞくっと背筋が震えた。
 無意識の領域に誰かが居る気がした。
 お母さん?
 わからない。
「今日はきのこのココットよ。美味しくないわけがないわね」
「わ、チーズめちゃくちゃかかってる。火傷しないようにね、桐慧」
「うん」
「ふーふーしてあげようか?」
「桐人くん」
「はい、すみません。図に乗りました」
「あ」
「ん? どうしたの?」
「学校の宿題、持ってくるの忘れてた……」
「ああ、そのあたりは交渉済みだから大丈夫よ」
 どう大丈夫なのだろう。後から二倍の宿題が襲ってくるとかだったら困るな。
「宿題は免除で、授業を受けるかわりにプリント学習で良いらしいわ」
「僕の時は宿題もあったし授業も受けさせられてたのに!」
「ああ、わたしが教員免許持ってるからじゃない?」
 聖の言葉に桐慧はなるほどとうなずいた。桐慧や桐人との距離のとり方が上手なのは教員免許を持っているからなのか。
「ココットってなんですか?」
「簡単に言えばグラタンのことね。ココット皿っていうのを使うからココットって呼ばれているの」
 なるほど、とうなずいて、桐慧はスプーンできのことチーズを掬って――めちゃくちゃ伸びたので大変困りながらも――一口目を口にした。美味しい。
 これなら毎日食べられるな、と思った。ドッグフードを美味しいと思っていた時期に比べたら天と地の差だなと思う。
『次はすべてが謎に包まれた天使、エンジェルヴォイスの話題に移ります』
 なんとはなしにつけていたテレビからそんな声が聞こえてきた。みんなそちらを注視する。
『世界的に有名なプロピアニストの江刺家桐人さんと共にストリートピアノで演奏を行ってから、東京文化会館でのコンサートを開いた彼女ですが、皆さん御存知の通り、文化会館でのコンサートの観客は、コンサートが終わると皆紫陽花が口の中から生えて亡くなるという怪奇現象に見舞われています。全二回行われているこのコンサートはどちらも観客が皆亡くなっています。どう思われますか? コメンテーターの木下さん』
『いやあ、全くお手上げですね。彼女が歌うのを禁止するくらいしか止める方法はないんじゃないですか? でもそんなことをしたら民主主義国家として立つ瀬が無いですよね』
『僕なんかは、彼女はエンジェルヴォイスの名前の通り、この浮世に齎された救済措置なんじゃないかなんて思いますけどね』
『オカルト専門コメンテーターの佐原さん。それはどういった?』
『その仕組みはわからずとも、苦しみも無く死を迎えられるというのは、一定の層に取っては救済なんじゃないかってことですよ。例えば癌患者だとか、そういった現在の医療では治せない病を持った人に取ってはまさに天使なんじゃないですかね。まあ、彼女は自死願望を持っている人に先に救済を与えたようですがね』
『どういうことでしょう』
『彼女と江刺家桐人氏の二人が運営する音楽ホールがあるんです。そこで予約すれば誰でも安楽死できるということですよ』
『それは――倫理的にどうなんでしょうねえ?』
『いや、僕だったら今すぐにでも予約したいなあ。妻が居なければしていたでしょうね』
『はは、佐原さんは愛妻家としても知られていますからね。ここでCM入ります』
 ココットを掬ったまま、桐慧はテレビを見て呆然とした。
「……なんか大事になってる」
「だからなってるって言ってるでしょう」
「予約のメールフォームもパンクしそうなんでしょ?」
「一日一件だけって決めてるからね。早いもの勝ちだけど、こうやってテレビとネットが拡散するから」
 それに、と聖は憂鬱そうにため息を吐いた。
「若い子からの申し込みが結構多いのよね。わたしとしてはもう少し考えて欲しいのだけれど――」
「どうしてですか?」
 桐慧はマッシュルームを食べながらごく自然に問いかけた。
「わたしは九歳から死にたかったですよ」
 部屋が静まり返ったので、桐慧は疑問に思って顔を上げた。すると、皆痛ましいものを見るような目でこちらを見ていたので、首を傾げる。
「生きててよかったとは思わない?」
 聖に問われて答える。
「思うけど、結果論……です。お父さんが本家に連れて帰ってくれなかったら、瓶で殴ってくれなかったら、今わたしはここにはいないから」
 そう言うと、隣に座っていた桐人が頭を撫でてきた。何故?

*

 オタクの希死念慮集団がホールにぞくぞくと入場してきた。
 それぞれ服装に特徴があった。アニメや漫画のキャラのプリントTシャツだったり、服の色味がキャラを模していたりコスプレしていたりと様々だ。
 舞台袖から桐人と桐慧が登場すると、誰も座っていなかったのでおや、と思った。すると、誰からともなくペンライトを取り出して、観客席がカラフルな光に包まれた。
 こんなコンサートは初めてだったので面食らったが、きっとこの人たちは楽しく死にたいんだな、と思った。
 桐人のピアノ伴奏が始まると、合いの手が入り始めた。桐慧も楽しくなってきて、笑顔になった。
 最初の三曲は息が上がるレベルで盛り上がり、もはやコンサートではなくライブだった。
 すこし水を飲んで喉の調子を整えて、調息した。
 その時。
「やっぱり死にたくないよ……」
 そう言って泣き崩れた人が一人居た。二十代くらいの若い男性で、桐慧でも知っている有名なアニメキャラクターのTシャツを身にまとっていた。
「死にたくないなら、今、ホールを出てください。僕らの演奏が始まる前に」
 その男性は、その言葉に頷いて、泣きながらホールを出ていった。
 他にもう一人続いて、そこで脱落者は打ち止めとなった。
 桐人と視線を合わせて、最後の一曲に入る。
 楽しい時間を過ごさせてもらえたから殺してしまうのはすこし寂しさを感じた。それでも、この人たちは望んで死にに来たのだから、桐慧は桐慧の仕事を全うしなくては。
 桐慧は紫陽花賛美歌を歌って、オタクたちに真っ赤な花を咲かせて死なせた。

*

「今日は楽しかったね」
「そうだね」
 楽屋で薄くだけしているメイクを落とした。その首すじにそっと口づけられる感覚があった。ぱっと振り返ると、桐人が両手を上げていた。
「聖さんに言います」
「わー! ごめんなさい」
 心臓が今更になってどくどく言い出した。
 お母さんのことが好きなくせに。何、急に。
「じゃ、ホテル移動しようか。聖さんが車で待機してるって」
 何事もなかったような顔をして言う桐人に少し思うところはありつつも、桐慧は頷いた。

*

 ホテルにチェックインし、自室でベッドに飛び込む。特に面白いわけでもないのに、笑いが腹の底から湧いてきた。意識に旋律があるなら二重奏になっているような変な感覚があった。体がずんと重くなる。
「くっ……くつ、くつ、くっは、ははっはははあははははは」
 そんな自分に恐怖を覚えるが笑いは収まらない。
「雨白?」
「そうだよ、桐慧」
 自分の口が勝手に動いた。
 お母さんは雨白は喋らないと言っていたが、桐慧には喋ってくれるらしい。
「雨白さんは何が目的であの賛美歌を書いたんですか」
「桐慧は何故歌う?」
 納得した。目的は救われるため、それだけなのだ。ただただ救われたかったから、わたしたちは書くし歌うのだ。
 純粋な、救済を願うしずくの結晶だった。
「わかったか?」
「桐人くんの書いた最後の小節は満足でしたか」
「ああ、とても」
「殺すのにちょうどいい?」
「そう」
 桐慧が無表情になる。
「わたしも、そう思います」
 桐慧の肩がくつくつと揺れた。
「だからおまえを選んだんだよ、江刺家桐慧」
 桐慧が満面の笑みになる。
「おまえは伽藍堂だから、最初に歌ったときから入れた。それに、思考も似ているな。死が救済であること。その思想を持っていなければあの賛美歌はなんの効果も示さない」
「伽藍堂?」
「からっぽだってことだよ」
 そのとき、部屋のドアがノックされた。
「じゃあな、桐慧。また」
 体が軽くなる。
 雨白の意識が途切れたような感覚があった。
 両手を頭上に掲げてみる。
 この体の中には雨白も同居しているらしい。
 起き上がり、一人用にしては広いこの部屋のドアを開ける。
「や、桐慧ちゃん」
 聖だった。
「次のコンサートの日取りが決まったよ。三日後だからこのままホテルに滞在しようと思うんだけど、どう?」
「それでいいです」
 桐慧がそう言うと、
「? どうしたの、桐慧ちゃん。なんだか……様子がおかしいけれど」
「? 特にどうもしてないですけど……」
「なんだか、お線香を焚いたような香りもするし、明らかに部屋が涼しすぎる」
 雨白のせいだろうか。
「お線香は焚いてないから、気の所為じゃないですか?」
「……うーん。君たちが秘密を抱えていることくらいは気づいているけれども、それがなんなのかわからないのが気持ち悪いな。いつになったら話してくれる?」
「桐人くんが決めると思います」
 聖は何かを見定めるような目つきで桐慧を見た。
「桐慧ちゃんが話す気はないってこと?」
「はい」
「そっか……じゃあ桐人くんを締め上げてこようかな」
「ふふ……楽しそう」
 聖はまじまじと桐慧を見た。
「桐慧ちゃん、本当にどこか調子が悪くない?」
 桐慧はそんなに具合が悪そうに見えるのだろうか。
 首を傾げる。
「平気ですよ」
 聖はそっと手のひらを桐慧の額に当てた。ひんやりとした温度が気持ちよかった。
「熱も無いか……無さすぎるくらいに無い」
「大丈夫ですよ、聖さん」
「明日病院行きましょう」
「病院に行くより歌が歌いたいです。歌わせてください」
 それに、と桐慧は続けた。
「病院に行ってもこれは治らないと思うから」

*

 いまいち納得のいっていない聖には部屋に戻ってもらって、桐慧は桐人の部屋に行った。
 ノックすると、少ししてから濡れ髪の桐人が出てきた。
「桐慧? どう――」
 桐慧は桐人に抱きついた。
「歯型をつけて」
 桐人は桐慧をじっと見つめた。
「どこでもいいわ。どこでもいいから、消えないくらい強く。わたしがわたしだってわかるように」
 どこか投げ遣りに、でも心の底から出た言葉だった。この身体は桐慧のものだ。雨白にはあげない。
 その印を桐人につけて欲しかった。
 父でもない他の誰でもない桐人に。
「そして誓って。わたしをいつでも見つけてくれると」
 桐人は部屋に桐慧を招き入れて、ベッドに誘導した。
 そして桐慧が着ていたクラシック・ロリータの背中側にあるファスナーをおろして、洋服を脱がせた。痛々しい虐待のあとは以前見たときよりは良くなっていたので、すこしほっとした。
 桐人は桐慧に跨って姿勢を低くして、彼女の左の首すじに口づけた。
「誓う」
 そして勢いよく噛み付いた。
「痛っ……」
 反射で出た桐慧の声に、一瞬桐人の噛む力が弱まった。
「止めないで」
 桐人の頭を右手で押さえる。
「痛くして。忘れたくないの」
 すると、また躊躇いがちに桐人の牙が桐慧に深く刺さっていった。
 じんじん、ずきずき。
 痛みが桐慧を桐慧たらしめる。
 ああ、わたしだわ。
 痛みこそが桐慧の存在証明だった。
 虐待されていたときも。
 わたしを失わないでいられた理由はきっとそれだったのだと思い至った。
 桐人がそっと離れた。引いた唾液の糸は血の色が混じっていて、それは桐慧を満足させた。
「桐慧、お風呂に入っておいで。上がったら髪を乾かしてあげるから、そしたら一緒に寝ようね」
「うん。行ってくる」
 桐慧はバスルームへ向かった。

 バスルームに消えた桐慧の背中を見送り、桐人は深刻な顔をして桐慧に起きたであろう変化について考えた。

*

 ボディソープが滲みた。痛い。生きている。お腹を押した。痛い。生きている。
 桐慧は生きている。
 鏡に写った痛々しい歯型を見て、いままで殺してきた人たちのことを思って、桐慧は妖しい笑みを浮かべた。

*

「YouTuberですか?」
「これも本当は受け付けたくなかったんだけど……でも、順番にって決めたのはこちらだからね。次のミニコンサートはYouTuberが相手よ」

 ――そう聖から事前情報が入っていなければ面食らっていただろう。ホールにPC機材がどっさり入っていた。
「はーい、どうもこんばんは、病んでる系YouTuberの深病ヤミでーす! 今日は、予定通り噂のエンジェルヴォイスの予約が奇跡的に取れたので、あたしが死ぬ様を皆さんにお届けしようと思いまーす!」
 紫髪のツインテールのゴシック系メイクをしたかわいい女の子がPC画面に向かってダブルピースを掲げた。
 今は専門学校の生徒をやっているという彼女は楽しげに画面に語りかけた。
「おおっコメントが鬼のように流れてますね! これは撮れ高あるぞ!」
 聖はもうモニタ室に入っている。
「しっかし美男美女ですねー! 江刺家さんたち! さぞ恵まれて暮らしてきたんじゃないですか? ヤミうらやましー!」
 その言葉に、桐慧はぴくっと肩を動かした。
「それでは、どうぞー!」
 その言葉に少し苛立った桐慧は、普段は前奏ありで歌う曲を前奏無しで歌い始めた。桐人なら合わせてくれるだろう。

 最初の三曲はただの賛美歌なので、ヤミはずっとのべつ幕なし喋り続けていた。

 そして、紫陽花賛美歌に入った時。
「驚きました、先程までと違って今はもう指の一本も動かせません。動かせるのは瞼と口だけです。しかし、なんて――きれいな、音楽でしょう。ヤミちゃんここには疑い半分で訪れたんですが、本当に天上の音楽のような気がしてきました。というか、神様の音楽ですよ。ああ、嫌なこととか、悪いこととか、全部なくなっていく――」
 ヤミは涙を流し始めた。
「ごめんなさい、お父さん、お母さん、ヤミ死にます。それが本当に幸せなんです。ごめんなさい」
 それから彼女は目を閉じて、静かに賛美歌を聞き入った。
 そして、曲が終わったタイミングでがくんと頭が上向いて、口の奥底から紫陽花の花が咲いた。
 そこで運営が生放送を強制終了したので放映は終了した。

*

「桐人くん、桐慧ちゃん、いい加減教えなさい。紫陽花賛美歌の演奏を生で聴いた人間が死ぬのでしょう」
 別荘地に帰るドライブ中にそれを聞かれた桐人と桐慧は、目を見合わせた。
「うん。そうだよ」
 これ以上は隠しておけないなと判断した桐人はそう答えた。
「曲としても美しいし、僕らはいつだって弾いていたいのだけど、まかり間違って誰かに聞かれでもしたら大変だから、いつも注意してるんだ」
「その賛美歌はどこで見つけてきたの?」
「紫陽花屋敷だよ」
「――あの場所、少し寒いのよね。だからわたしは入ったことが無かったのだけれど」
「聖さんが入っても何も起こらないと思うよ。何らかの楽器が演奏できる人間が入らないと。だから茜くんには注意しておいたほうが良いかも」
「それを早く言ってよ」
 茜に先に死なれたらわたしが困るんだってば、と聖は小さい声で呟いた。

*

 別荘に戻った桐慧と桐人は特に何も示し合わせたわけでもなく二人で別荘の音楽室へと向かった。
 車中で話が出たせいか、二人して紫陽花賛美歌を演奏したいと思ってしまったのだ。
 偶然だったのか、気の緩みだったのか――桐慧も、桐人も、音楽室のあの重い扉を閉めるのを忘れていた。

*

「二人から話をようやく聞き出せたわ。桐慧ちゃんと桐人くんが揃って紫陽花賛美歌を演奏して、それを生で聴いた人が死んでいるのよ」
「そんなオカルトなことある?」
「でも合ってると思うわ。コンサートの時、ふたりとも私が舞台袖に立つのを一度だって許してくれたことがないもの。それって、生で聴かれたら困るからだと思わない?」
「……なんとも言えない。筋は通っているけれど、あまりにも非日常的すぎるからすぐに飲み込めない」
 聖はそのことについてはっきりさせるために別荘の音楽室に居る二人の元へと向かった。
 音楽室の扉が半分開いている。あの二人にしては珍しい。今は休憩中なのだろうか、と思いながら扉に手をかけたとき、何度も聴いたことのある曲が始まった。
 聖は紫陽花賛美歌を聴き始めてしまった。
 まずい。今死んだら二人の保護者役も歯止め役も居なくなってしまう。
 逃げなければ、と思ったが不思議と身体は動かなかった。むしろ、ここに居たいという気持ちが湧き上がってきた。
 聖の抱える不安も希死念慮もどんどん消えていく。圧倒的な多幸感で塗り直されていく。
 茜。
 唯一の心残りの茜のことも、楽観的に考えてしまう。
 大丈夫だよ、茜。
 茜もこの曲を聴けば幸せになれるから。
 向こうで逢おう。そしたらきっと、本当のことを――好きだってことを言うから。
 ああ、これが救いか。
 聖は自然と上向いて、その喉の奥から湧き出ずる紫陽花の花で静かに窒息して死んだ。

*

 ピアノの余韻が終わると同時に、部屋の外からばたんという音がした。
 桐人と共にさっとそちらに目を遣る。
 失態だ。音楽室の扉が半分開いている。
 二人で急いで部屋の外に顔を出したら、そこに倒れていたのは――池内聖、その人だった。
 小さい口から紫陽花を咲かせて、しかしその表情は安らかで、普段から聖に接してきた人間から見ればどこか肩の重さが外れたような笑みだった。
「聖さん」
「そんな、どうして――ああ、僕がもっとちゃんと確認しておかなかったから」
 桐慧は跪いて聖の頭を抱えた。
「聖さん、やっと楽になれたね。よかったね」
 そう言って彼女の頭を抱き締める従妹を見つめて、桐人は取り残されたような感情に襲われた。
 桐慧、君はどこに行こうとしているの。
「桐人くん、茜さんに連絡して」
「あ、ああ……」
「茜さんも送ってあげなきゃ。聖さんが死んだのに、茜さんだけ生きてるのは可哀想でしょ」
「桐慧」
「なあに?」
 その返事の無邪気さに桐人は何も言えなくなってしまった。
 桐慧は聖の口に手を突っ込んで紫陽花の花を摘んでいた。
「これ、ドライフラワーにしよう。大切にしなきゃ、聖さんの花だから」
 もちろん茜くんのぶんも。
 そう言って、桐慧は無邪気に笑った。

 桐人が茜を呼び出すと、彼は急いでやってきた。
「聖!」
 切り裂くような声が廊下に響いた。
 ベルベットのカーペットの上を駆け抜けてきた茜は、よろめくと、膝をついて、桐慧から聖の身体を奪い去るように受け取った。そのまま抱き締める。聖の小豆色の髪が数束床に落ちた。
「先に行くなって、約束、したじゃないか……」
 聖の髪に、ぽたり、ぽたりと涙のしずくがこぼれて落ちた。それは朝露のようだった。
「ごめん茜くん、音楽室の扉が開いていることに気がついていなかったんだ」
「だから、茜さんも聴いてください、賛美歌」
「は……?」
 桐慧は何を言われたかわかっていない茜に向かって当然かのようにそう言った。
「それがわたしたちにできる唯一の償いです。茜さんも希死念慮を患っているのでしょう? 聖さんから聞いてます」
「何、言って――」
 桐慧は笑った。
「大丈夫ですよ。ほら、聖さんももう苦しくなさそう」
「桐慧、自分の言ってることわかってる?」
 桐人の問いに、桐慧は桐人が何を言っているのかわからないという顔で小首を傾げた。
「わかってるよ? けれどもだって、もう聖さんはいないじゃない。そんな世界で生きるつらさを考えたら、賛美歌を聴いて楽になった方がいいでしょう? それとも茜さん、まだ生きたいですか?」
 桐人はふと違和感を抱いた。桐慧はこんなふうに人を追い詰める言い方をするだろうか。
「――僕が死んだら、聖が本当に死んでしまう」
「聖さんはもういないですよ」
 桐慧は天使の微笑みでそう告げた。そして手に持っていた紫陽花の花を放るように床に置いた。
「居るよ。聖は僕の中に居る」
「待って茜くん。君、桐慧じゃないね。誰」
 桐人がそう尋ねると、桐慧はその美しい顔をにたぁ、と崩して笑った。
「ああ――バレてしまったか」
 そして桐慧の身体はすっと立ち上がった。
「私は雨白。君たちが紫陽花賛美歌と呼ぶ曲を書いた人間の残り滓だ。今は桐慧に取り憑いている」
 茜は聖の死体を更に強く抱き締めた。桐人は眉間に皺を寄せた。
「出ていってもらえますか。その身体は桐慧のものです」
「そうだね、見破られたら出ていこうと思っていたんだ。もう救済にも満足したから、あとは好きにしなさい」
 桐慧の身体はひとつ高笑いを残して、糸が切れたように倒れた。
 しゃがみこんで、起き上がろうとする桐慧を手助けすると、桐慧は薄く微笑んだ。
「見つけてくれて、ありがとう」
「――当然だよ。桐慧」
 桐慧は茜に向き直った。
「それで、茜さんはどうしますか?」
 茜は、さきほどまでと違ってどこか柔らかい印象で答えた。
「聖の残り香がこの世から消え去ってしまうのは寂しいけれど、一人で聖を待たせておくのも嫌だから、聴かせてもらうよ。あの曲を」
 桐慧は床に放ってあった紫陽花を丁寧に拾い上げて、立ち上がって音楽室に入っていった。

*

 そうして二つの死体が出来上がった。
 桐慧は茜の紫陽花も摘み取って、大事そうに胸に抱えた。
「二人の死体はどうしようか」
「紫陽花屋敷の管理人さんに引き取ってもらったらいいと思うわ」
「ああ、それがいいね」
 桐人は、一息ついて、桐慧に言った。
「桐慧、僕、二人が死んで悲しいよ」
「? 二人は救われたのに?」
「うん」
「そう……」
 桐慧はいまいちぴんときて無さそうな返事をした。
「でも二人の紫陽花が残っているわ」
 思い出すよすがには充分でしょう、と桐慧は言った。
 桐人は、少しずつ変化していく桐慧に恐怖を覚えた。
 しかし、桐人は桐慧に誓ったのだ。ずっと見つけているのだと。
 自分たち二人を見届けてくれる人はもう居なくなってしまったけれど。
 それでも自分は桐慧を見つめていよう、と桐人は思った。
 
*

 紫陽花屋敷に行くと、待ち構えていたように管理人が門のところで立っていた。
「死体を処理してもらいたいのですが」
 管理人はまるでこうなることがわかっていたかのようにひとつ頷いて、桐慧たちの別荘の方へと歩き出した。
 桐慧たちは紫陽花屋敷に入って、勝手に談話室で座って休もうかと話していた。
 その時だった。
「桐慧ぇ……」
 久しく聴いていなかった声がした。ここに居るはずのない声が。
 振り返ると、以前までなら普段から清潔にしていたのに、何日も着替えていないような格好をした巡が立っていた。
 桐人の顔色が変わる。桐慧はああ、見つかったか――という程度の感覚だった。
「桐慧、走って! 音楽室に向かうんだ!」
 桐人は明確な殺意を持って、音楽室に向かうべく桐慧の手を取り走り出した。背後からは巡が追ってくる気配がする。二階に上って、音楽室に辿り着く。桐慧が調息しているうちに、桐人はピアノの前に座った。
 すぐに部屋に入ってきた巡に、桐慧は抱きつく。
「あ?」
 その予想外の行動に巡は一瞬まごついた。
「お父さん、わたし、お父さんに殴られても蹴られてもお父さんのことがずっと嫌いじゃなかったよ」
「何を――綺麗ごとを。嘘もたいがいにしろ。お前が俺を嫌わないわけがないんだ」
「どうして?」
 その言葉に、巡は目を見開いた。
「どうして、も、何も――僕は、桐慧に」
 桐慧は本当に心の底から恨んでなどいなかった。
 何も思っていなかった。
 殴られるのは痛かったし蹴られるのも痛かった。
 けれど、父はそれでも桐慧を捨てなかったのだ。
 児童養護施設に入れることだってできたはずなのに、それをしなかった。
 それは桐慧が慈に似ているからだったかもしれない。そうかもしれないけれど、桐慧は血の繋がっている父のもとで暮らすことができて、それが嬉しかったのだった。
「桐人くん、弾いて」
 紫陽花賛美歌が奏でられ始めた。
 動けなくなった巡を抱きしめたまま、桐慧は歌い出す。巡は肩に入っていた力が抜けた。
 桐慧、君はあれほどの怪我を負わされ続けていたのに救済を与えるんだね。
 桐人は賛美歌を弾きながら、桐慧の慈悲と慈のやさしさを重ねた。
 ――弾き終わった途端に、巡は頽れる。桐慧は跪いてその紫陽花も摘み取って、じっと眺めた。そして、ひとひらの花びらを引きちぎると、口に入れて飲み込んだ。そのまま、一枚、一枚、引きちぎっては口にしていく。
 それは彼女なりの弔いだったのかもしれなかった。
 桐人は、桐慧を散々苦しめた巡という男を最期まで許せなかったけれど、桐慧がそれでいいなら納得するしか無い。
「桐慧」
 慈の声が聞こえた。相変わらず桐人には聞こえていないようだったけれど。
「巡さんを許してくれてありがとう」
「桐慧」
 巡の声も聞こえた。その声は、虐待が始まる前の穏やかな声だった。
「また慈に会わせてくれてありがとう。いままで本当に済まなかった」
「いいわ。わたしには桐人くんが居たから」
「桐慧? 誰と話しているの? まさか慈さん?」
「わたし達は消えるわね。さようなら」
「さようなら、お母さん」
「慈さん? どうして僕には何も言ってくれないのですか、慈さん!」
「桐人くん、桐慧をよろしくね」
 その言葉だけが桐人にも聞こえたらしい。
 桐人の頬に涙が伝った。
 桐慧の表情がまた以前のように静かに喪われた。やはり桐人の一番は慈なのだ、と感じてしまったから。
 以前桐人がついた小さな嘘。『慈への恋は終わっている』。それは今となっては抜けない棘となって心に刺さっている。嘘つき。嘘つき。
 ――嘘つき。

「桐慧、僕たちずっと一緒にいようねえ」
 その言葉に、桐慧は無言で立ち上がって、振り返って桐人を見る。
「桐慧?」
 桐人から見える桐慧の瞳には星が散っているようだった。その瞳は桐人を見ているようで見ていない。
 桐慧はもうひとりでも大丈夫だった。
 それは間違いなく桐人のおかげで、聖のおかげで、茜のおかげで、でもそれだからもう一緒にはいられない。いなくてもいい。
 桐人はもう桐慧には要らない。
 桐慧が桐人の方から視線を外すと、音楽室の扉のところに、だいたい二十歳程の年齢の女性――雨白が立っていた。
 真っ白な髪を背中まで伸ばして、骨が浮くほどにやせ細っている。
 彼女が、慈母の笑みで手招きする。
「わたし、もう行くわ」
「行くって……どこに?」
「桐人くんの知らないところ」
 がたたん、と音を立てて桐人は立ち上がったが、桐慧が扉に辿り着くほうが早かった。
「桐慧!」
「――桐人くん、崖からわたしとお母さんが落ちようとしているとき、どちらかしか助けられない。そんなとき、どちらを助ける?」
「――慈さん」
「そうでしょう。だからわたしは」
「そして僕は君の後を追って崖から飛び降りるよ」
 桐慧の星の瞳が印象的に瞬いた。
「だから着いて行かせて」
「あなたは何度も何度もわたしを裏切ってきたのに信用しろというの?」
「これから長い時間をかけて償っていくよ。君をもうひとりにはさせない」
 桐慧の瞳から星がこぼれた。
 流れ星みたいだ、と桐人は思った。
 桐人は靴音を響かせながら桐慧の元へ向かった。
 そのまま桐慧を抱き締める。
「桐人くん……」
 桐慧は小さい声で呟きながら、目を細めた。
 ああ、これで桐人はもう桐慧から離れることは無いだろう。桐慧と共に紫陽花屋敷に囚われるのが桐慧を裏切ったことへの相応しい報いだ。
 そんな一種の狂気的な感情と、純粋に自分と心中してくれる喜びが同居していた。
 父が訪れたのは嬉しい計算違いだった。
 桐人の背に腕を回す。
 欲しいものはすべて手に入った。要らなくなったものはすべて処分しきった。
「そうだね」
 桐人は、それが、「僕たちずっと一緒にいようねえ」という言葉に対する返答だと気がつくまで少し時間がかかった。
「桐慧……」
 桐慧は初めて見るようなきらきらした星のような笑みを浮かべた。まるでここが銀河であると錯覚するような眩しさで。
 雨白に着いて行って、桐慧と桐人は紫陽花屋敷の奥深くへと歩いていった。
 それから、誰にも見つからないところで静かに桐人のピアノを聞く日々が訪れた。
 紫陽花賛美歌を聞くことのできない二人にとってのアンダンテな自殺、ほんとうに幸いな日々が幕を上げた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

作品ページへ戻る

コメント

まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。

しおりを挟みました