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群青

蓮海弄花

91,937 字

SFファンタジー・青春群像劇

"天才を辞めた少女が、滅びゆく世界で「生きる意味」を見出す、群青色の物語。"

天才であることがアイデンティティだったとするならば、少女であったことがアイデンティティであったなら今私は何故生きているのだろう?

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-第一部- Inside

Chapter01 神隠し
 普段は使われていない社会科資料室の埃っぽいソファを占領して、一条一縷は横になって目を瞑っていた。顔には申し訳程度に現代国語の教科書が開かれて乗せられている。目を瞑っている、だけなので起きてはいたし、だから当然室内へと入ってくる足音にも気がついてはいたのだ。それが誰かまでも予測がついていた。三島葵。一縷の広く浅い友人のうち一人である。ふたりとも十九歳、同い年ではあるが彼は大学生で一縷はまだ高等部だった。出席日数が足りず留年しているのである。本当は進級ができないと知ったとき学校をやめようかと思っていたのだが(一縷にとって高等部までの学校はあまり魅力的な場所ではなかった)、周囲の説得により高等部くらいは卒業しておけと言われ嫌々最低限登校だけしているのであった。
「起きろ」
 ぱこん、と頭を叩かれる。
 教科書が床にずり落ちた。
 眉間にシワを寄せて、一縷は目を開けた。
「……何すんの」
「こっちの台詞だ。何をしてる? 授業は」
「出席日数の計算は出来てる」
「風邪とか引いたら狂うだろ」
「予備日も計算済み」
「ああ言えばこう言う。授業出ないとテストで点が取れないぞ」
「模試もテストも点は取ってるよ」
 ぱこん、また何かの本で頭を叩かれた。この私の頭を何度も叩くとは何考えてんだこいつ。
「制服は? なんで私服なんだ」
 本日の一縷の衣装は、黒のノースリーブブラウスと黒のスキニーパンツの漆黒ファッションだった。
「ブレザーが気に食わなかった」
 ぱこん。
「そんな悪いことばかりしていると神隠しに遭うぞ」
「神隠し? 誘拐の間違いじゃないのか」
「知らないのか? 最近人が消えてるらしいぞ」
「地下に潜ったとかじゃなくて?」
「そこまでは知らない」
「ふうん」
「今日もバイトか?」
「うん。このあと」
「授業終わってから行けよ」
「はいはい」

/*== ==*/

 【探し屋パラノイド】。一縷が八ヶ月前からアルバイトをしている零細企業はそういう名前の店舗を構えている。
 探し屋と聞くと一風変わった職種に思えるが、要するところは観光案内業である。一縷が住む島、【肆戸島 -シノヘジマ-】ではわりと普及している仕事であった。どこを案内するかと言えば、肆戸島では唯一とも言える観光スポットの【偏執市場 -パラノイド・スラム-】である。
 
 趣味人、マニア、コレクタ。それらのどれも一概にすべきではないが、ただ一貫して、顕示欲を持つ傾向にある、というのはここの店主の言である。
 偏執市場について、どういう成り立ちでそこにあるのかは定かには知らない(飛び交うアンダーグラウンドの噂では、【イフ指定保全地域】となることが世界崩壊以前から決まっていたからだとか)。
 とにかく、雑多に膨大に集まった趣味人の巣窟の市場、そこに何かを求める人が、目当てのものを探し当てる――のを、補佐するのが、我が店、探し屋パラノイドだった。店名からして来る客を舐めきっているように思うが、不思議と客足は途絶えない。実際に働いてみると、百科事典の目次のような職業だ。まさに案内所である。
 市場は肆戸島南部に位置し、夥しい数の建物が層をなして集まっている立体構造物である。西棟【扶桑】と東棟【山城】から構成されており、地下にも層をなして広がっている。しかも店の並び・区切りに規則性がない。九龍城砦と戦艦の艦橋を足して割らないような様相。1930年代のメリケン産アンティークランプ専門店と魚の天ぷら専門店が当然のように並ぶ市場を歩いて目当てを探そうとすれば気が狂いそうになってくるから、需要のある仕事ではあるのだろう――と一縷は思う。
 そんな案内屋のような店で、しかし一縷のお仕事の内容は資料の自炊であった。書庫に収められた膨大なアナログ資料を電子化する作業だ。
 電気が貴重になったであろう世界なのに、この島のものはどんどん電子化されてゆく。
 他のイフ指定保全地域では輪番停電なども行われているようなのに、肆戸島では電力の供給が滞ったことがない。大きな発電所があるわけでもないのに。
 知人たちが不思議に思っているその理由を、一縷は人脈が下手にあるせいで知ってしまっているのだが、そのうちに自分は死ぬだろうとなんの脈絡もなく思っているので口外するつもりは無かった。
 一縷が地道に電子化している資料は、最先端を限界突破した好事家どもをカテゴライズし、その分布や現在地などをまとめたものだ。一縷がここにくる前はそれを全てこのパイプ式ファイルを使ってアナログで管理していたらしいので、探し屋の店主も他の例に違わずパラノイアなのだ。資料の大半は店主が万年筆の手書き文字で綴っているので、たまにその解読が困難を極めることもあった。

 チリン、とドアベルを鳴らしてパラノイドに入店する。
「やあ、一縷くん」
 空の受付の向こう側、応接間からそんな声が飛んできた。
 店長に声を張らせているわけにはいかないので一縷もカウンターを回って応接間に移動する。
 店長の香屋埜ジンは、少し傾いた陽光を浴びて燦々としていた。いつも吸っている煙管は煙草盆に置かれていた。
「君にお客さんが来ていたんだけどね、居ないと言ったらまた来ると言って帰っていったよ」
「そうですか。……ああそうだ、香屋埜さん。神隠しって知ってますか?」

「ふうん……なるほどなあ」
「私としては、ただ偏執狂になって地下に潜っただけなんじゃないかと思っているんですが」
「ふむ……一縷くん」
 なんだか嫌な予感がした。
「じゃっ、今日の仕事入りますね」
「ちょっと、その神隠しの件について調べてきてくれたまえ」
「私の業務と違うんですが」
「特別手当を出そうかな」
「行ってきます」

/*== ==*/

 藪蛇を踏んだな、と思いながら歩いた。香屋埜がこういった話に目がないことは知っていたのに。
 携帯端末で三島葵の項目を呼び出し、通話をつなげる。
「もしもし、葵?」
『一縷か? 珍しいな』
「神隠しに遭ったって人紹介してくれない?」
『いいけどなんで?』
「バイト」
『お前何のバイトしてたっけ』
「資料整理。いいから早く教えろよ」

「あれ、葵先輩が会ってほしいって言ってた人、一縷さんだったんだ」
 葵の紹介してくれた人は一縷の高等部の同級生、小山内莉乃だった。確か妊娠五ヶ月くらいだったと思う。世界が滅んだ今となっては妊婦は貴重な存在だ。
「うん。大変な時期にごめん」
「ううん。一縷さん、拓くん探してくれるんでしょ?」
 そんな話になっていたのか。葵のやつ。
「見つけられるかはわからないけど、神隠しについては一通り調べるつもりだよ」
「あのね、拓くんは一緒に学校から帰ってるときに急に居なくなっちゃったの」
「急に? それって、突然って意味?」
「そう。つないでいた手が離れたと思って、どうしたのかと思って顔を上げたらもう居なかったの」

 夜を待ち、一縷は偏執市場のバーに繰り出した。威嚇のつもりで空いているピアスホールには全部ピアスを付けていった。その数は十を越してからは数えていない。確か初めて空けたのは十七歳の頃だった。
 馴染みの派手髪のバーテンを見つけて、彼の方に寄る。
「那智」
 那智有恒。同い年であることと交友関係が被っていることから仲は良い方だった。
「一縷じゃん……いつも思うけど、それ、髪、引っかからないの」
 那智が指差すのは一縷の耳のピアスだった。
「引っかかる」
「痛くないの?」
「穴開けたときよりは痛くない。それより聞きたいことあるんだけど」
「何?」
「神隠しについて」
「ああ。それなら、テーブル席の――ほら、劇団イヴの伊丹さんが居るだろ。イヴの神山あまねも確か神隠しに遭ってて困ってるっぽい」
「え、あまねって次の公演主演じゃん……」
「だから困ってるんだって。伊丹さん!」
「あ?」
「パラノイドが神隠し調べてるっぽいっすよ」
「お、都合がいいな。おい一縷、この端末であまねの発信機辿れるから使え」
「なんで劇団員に発信機付けてんの、伊丹さん」
「こういうときのためだよ。あいつ頭弱いしすぐ人についていくしな」
 受信端末を見ると、位置はどうやら偏執市場の在宮神社にあるようだった。
「また厄介な……」
 一縷は軽く頭を振った。

 次に一縷が訪れたのは、偏執市場からは少し外れたところにある住宅地の邸だった。百合紋の鉄柵で囲われた邸宅、【御津藏家 静謐邸 -みつくらけ せいひつてい-】である。門のところにあるインターホンを押す。一般的に考えると常識はずれの時間だが、ここの居住者にとっては活動時間帯の筈だった。
『はい、どちら様でしょうか』
「孝枝さんですか? こんばんは、夜分遅くにすみません。一条一縷です。白夜と諫名は居ますか」
『一縷様でしたか。ただいま迎えを遣りますので、少々お待ち下さい』
 少し待つと、遠くに見える邸の重厚な扉が開き、見知った顔がこちらへ歩いてきた。
「早矢仕さん」
「お待たせいたしました。ご案内します」
内鍵を開けて、一縷を中へ迎え入れてくれる。

 通された応接間で紅茶を飲んでいると、部屋の扉が開いて館の主であるところの吸血鬼御津藏貴臣、通称白夜とその第一秘書の御堂島孝明が現れた。
「おいおいおいおい一条一縷、よく来たじゃぁん? 何々何の用?」
「フルネームで呼ぶなよ、こっちはとてもじゃないけど呼べないんだから」
「知ってるー」
「諫名御前を借りたいんだけど」
 白夜公はぼすんと高級そうな椅子に座った。
「ふうん。なんで?」
 一縷は端的に神隠しについて説明した。
「で、在宮神社から発信機の反応があるから在宮の神様である諫名御前をお借りしたいわけ」
 諫名御前こと在宮諫名は、この肆戸島を守っている土着神である。怪異――吸血鬼の王である白夜に執着されて、偏執の対象とされてしまっている可哀想な女神だ。年齢は一縷と同じ。友人と言ってもいい間柄だったが、白夜の認可なく諫名を連れ出すとえらいことになるのでいちいち外出には許可を取ることにしているのだった。
「へぇ……。まあそういうことならいいよ。御堂島、諫名連れてきて」

/*== ==*/

 付いていく、付いてこなくていい、の悶着を三十分ほど行ったあと諫名が勝利し、一縷と諫名は生ぬるいというには少し暑い夜の街へ繰り出した。
「ふふ、こうして二人で出かけるのは久しぶりね、一縷ちゃん」
 静かに走る車の後部座席で和装の諫名はそう言った。エアコンが効いてきて涼しくなってきた。
「ああ、そうだね。白夜の奴が邪魔してくるから」
「あの人、一縷ちゃんのこと信用しているのね。じゃないと二人でお出かけなんて許してもらえないわ」
「信用……? 白夜が私を? ないない」
「あるわよ」
「お嬢様、扶桑前まで着きました」
「ありがとうサチカ。帰りは静かの海を通るから迎えはいらないわ」
「承知しました」
 黒塗りの車を見送って、一縷は諫名に問いかけた。
「ねえ、あのさ。できるならはじめから静かの海を通ればよかったんじゃないの?」
 静かの海とは彼女の土着神としての能力の一つで、島内であればどこにでも移動できるというものだった。
「久々に車に乗りたかったの」
「ああ、そう……」

 偏執市場内は相変わらず常昼だった。らっしゃいらっしゃい、新鮮な指だよ。そんな言葉が耳に入ってきたのでとても気になったが、新鮮な指を使う機会が一縷にはなかったのでスルーした。
「一縷ちゃん一縷ちゃん、新鮮な指ですって」
「欲しい? 諫名」
「え? そうね、いらないわね。わたしは貴臣の指以外いらない」
「お熱いことですね」
 若干胸焼けしながらそう言うと、諫名は小首を傾げた。さらさらとその髪が附隨して流れる。
「お熱い……? どういう意味?」
「好き同士でいいですねってこと」
「まあ、一縷ちゃん、恥ずかしいわ」
「こっちがね」
 隠されていたエレベーターで最下層まで直通で降りる。それが許されるのは諫名とその周辺人物だけであった。
「あら……おかしいわ。結界領域の外側に人がいる」
 ちらりと左横を見ると、諫名の瞳の色が深い蒼に変化していた。諫名御前。彼女の土着神としての側面だ。
 彼女はすっと鳥居をくぐり、丁寧に手入れされた庭を歩く。季節外れ(もうそんな言葉も死語になってしまっているけれど)の紫陽花がきれいに蒼く咲いた庭の最奥で、諫名はすうっとその先に行った。
 姿が見えなくなったので少し歩幅を大きくして後を追う。
 すると、そこにはとんでもない景色が広がっていた。
 まるで、パソコン上のエラーかバグかのような。
 ネオンカラーの砂嵐の背景に、等身大の0と1が乱雑に並び、その真中あたりに数十人単位の人間たちが座り込んでいた。その多くは少女が占めている。泣いている子も居た。ぴくりと一縷の眉が動く。
「かみさま」
 そのうちの一人の少女が泣き出した。
「かみさまが来てくださった」
「現人神様」
 諫名はそちらに向かってやさしく微笑み、それから空中に向かって呪言を吐いた。
「結界展開」
 パン、と柏手を打つ。
「在宮諫名の名において、この場を我が領域とする」
 さあっと風が――いや、まるで波にさらわれるような感覚が体を透って、次の瞬間には一縷たちは在宮神社の境内に居た。
 ぽかんとする神隠しの被害者たちの中で一人立ち上がって、一縷の元へ走ってきた女が居た。
「一縷ーっ」
 神山あまねだ。その勢いのまま抱きつかれて、勢いを殺しきれずに二、三歩下がる。
「助けに来てくれたんだねぇ、ありがとぉ!」
「伊丹さんに頼まれたからね」
「神様もありがとうございます! 公演に間に合わないところでしたぁ!」
「いいえ、いいのよ。それより一縷ちゃんから離れてあげて、首が絞まっているように見えるわ」
 諫名、ナイス。

「結局、どういうことだったのかしらね? 一縷ちゃん」
 神隠しに遭っていためいめいに特別にエレベーターを使わせ、地上へと帰っていくのを見届けた一縷と諫名は在宮神社の縁側に座っていた。
「0と1の数字の羅列が不気味だったね。まあ、どっかの誰かの偏執が暴発してたんじゃないかな。對偏執部隊に報告しとく」
「そうかしら」
「そうなんじゃない?」
 諫名は少し思案顔だった。
「何か気になる?」
「ええ……少しだけ。でもいいわ、今日のところは帰りましょう」
 静かの海を通って送っていくわ、と手を差し出され、一縷はその手を握った。

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Chapter02 吸血鬼のメランコリィ
「紫陽花って昔は紫色とか青色だったらしいぜ」
「へー、だから名前に紫って入ってるんだ。オレンジ色なのに不思議に思ってた」
 学校帰りにすれ違った小等部の生徒の会話を聞いた一縷は、葵を振り向いた。
「葵、聞いた? 今の子供達は紫色の紫陽花を知らないんだ」
「デジタルデータには残っているだろうけどな」
「あれ、でも確か静謐邸と在宮神社の紫陽花は青かったような」
「あんな強固な固有領域持ちと信仰の強さを比べるなよ。そもそも一般人はそんなところ出入りしない」
「私が一般人じゃないとでも?」
「一般人だとでも? 口が裂けるぞ」
 一般人じゃない自覺はあったので黙り込む。
 一条一縷は、七歳の頃まで稀代の天才として活動していた。その後飛び降り自殺を試みて、失敗して生き残ってしまい、今がある。現在は天才としての頭脳は全く活用していない。天才の一縷はあの時もう死んだ。
 この世界ももう死んでいるようなものだし、お似合いだろう。

 世界が死んだというのはそのままの意味だ。五年前、七日間に渡りさまざまな天変地異や未知の難病の蔓延によって人類の絶対数が減ってしまった。人類には為す術もないことばかりだった。雨の止まない地域が出来たり、逆に全くの晴天が続く地域が出来たり、変わったところだと何故か海の色が透明になったところがあったりもした。生態系は大きく軋み、多くの生き物達も滅んだ。紫陽花の色もその時変わった。その七日のことを、【式日】と呼ぶ。
 空に目を遣り、陽光を眺めた。式日のあとからは、いやに眩しく感じられるようになったそれを。
 現在の人類は、なんとか人が暮らせる地域に点々としか生きていない。絶滅の一途を辿っている。
 この島は土地神の信仰に守られているので人間がまだ生きていられるが、新しい人間は世界的に見ても徐々に生まれなくなっているらしいので先細りだろう。同級生にひとり妊婦が居るが、妊婦は無条件で統轄機關に手厚くサポートされている。
 この島は【イフ指定保全地域】と呼ばれる箇所だった。【イフ指定保全地域】というのは、日本国内だけを見ても何かと信仰のある土地のことをいう。伏見に然り伊勢に然り、ニライカナイに遠野に然り。
 一縷としては式日を機に七年にも渡る精神病棟の入院生活から解放されたので、人類にとっては絶望的な世界崩壊でさえ不謹慎にも僥倖と考えていた。自分にとっては、世界が続くことよりも自分が続くことのほうが嫌なのだった。常にいつ死のうかと考えている。
 なぜ入院をしていたのかと言えば、一縷が投身自殺を図ったからだ。結局失敗に終わったけれど。
 飛び降り自殺までしてまだこの身体が生き長らえているという事実。かつて天才であったのに現在はそうでないという事実。この身に抱えるそれら二つの如何仕様もないコンプレックスが一縷の思考をそうさせる。
「ああ、そう言えば、神隠し解決したから」
「ああ、榎本拓が再登校を始めたと聞いている。お前が解決したのか」
「まあ、私というか諫名だけど」
「土地神の名前をそう簡単に口に出すんじゃない」
「友達だし……」
「それがおかしいんだよ」
 神様に友達が居たって別に悪くないだろうと一縷は思ったが、口にはしなかった。
 そう言えば、来月の支給品カタログをまだ見ていなかった。世界が滅んだあと、人間には【人類貢献度ランク】というものが制定された。一縷はSランクである。そのランクに見合った支給品を取捨選択して受け取ることができる。夏だからアイスが食べたいな。

/*== ==*/

 御津藏家、静謐邸。
 天蓋付きのベッドからのろのろと起き上がった御津藏貴臣は、壁際の椅子に座っていた和装の諫名を見つめた。その眼は蒼い。
「おはよう、貴臣」
 次の瞬間、貴臣は諫名の首に手を当て壁に押し付けた。
「ねえ、おまえ、諫名ちゃんだけど諫名ちゃんじゃないね?」
 その言葉を受けて、諫名は緩慢に微笑んだ。

/*== ==*/

 ギィと足下の板が軋んだのを、内心で少し気にした。
 一縷は、年季の入った両開きのガラス窓からさしこんだ陽光に目を眇めた。
 最近、日が傾くのが早く感じる。
 まだ昼過ぎと言える時間であったが、その陽光は、羽虫を焼き殺す花火のようなまぶしさを放っていた。日の出ている時間帯は半死人状態の一縷にはまぶしい。
 ともかく。
 この部屋へと来た本来の目的を果たすべく、アルバイト勤務を再開した一条一縷は、部屋中に聳える作りつけの書棚とそこに陳列されている分厚いパイプ式ファイルの中から、紙がいっぱいに挟み込まれている二冊を選んで手に取った。
 重さがずしりと腕にくる。
 バイトを始めて八ヶ月、この重量には未だ慣れない。もとより、キーボードのボタンより重いものに滅多に触れずに暮らしていた人生だったから、こういったアナログな労働には特に免疫がないのだった。
 この胡散臭い零細職種のアルバイトを始めたのは、多少なりとも生き残った社会と接しておこうという一縷のせめてもの譲歩のようなものだった。
 何に対して?
 或いは、
 誰に対して?
 ナンセンス。馬鹿になるのはやめよう。
 自分がファイルを抱いたまま物思いに耽っていることに気がついた一縷は、臙脂色の表紙に視線を落とした。そこに糊付けされている薄いクリーム色の紙に書かれたタイトルを二つ確認し、それが自分の探していたものだと判じて、書庫を後にした。

 自分の作業室に戻り、叔母の同僚に組んでもらった巨大な(百七十センチある一縷より少し低いくらいの)タワー型コンピュータの電源スイッチを入れ、ファイルを作業用デスクに置いた。このパソコンは、メモリの容量がテラ級だとかなんだとか、そういう話を聞いたような気もするが、聞き流したので思い出せない。ともかく、店長が書き掻き集めた膨大な資料をインプットするのに足るくらいの大容量メモリを積んでいることは確かだ。それにしたってこんなにでかい必要はないが。真空管が付いているのは趣味だろうか。ものが上に置けなくて困る。
 そのとき。
「すいませーん、ちょっと入っていいですか?」
「はい、どうぞ……ん?」
 今どこから声がした?
「それじゃおっ邪魔しまーす」
 窓がバァンと亂暴に開き、そこから白夜が入ってきた。前に神隠し事件のときに遭ってから二週間ぶりくらいだろうか。
「しまった……」
「アブソリュートの癖に迂闊じゃなぁい?」
「次その名で呼んだら二度と会話しない」
 それは一縷が天才だった頃無理解な周囲が勝手につけたあだ名だった。
「怖い怖い、ごめんってば」
「で、何? 忙しいんだけど」
「万年暇そうな仕事してるくせに」
「少なくとも仕事ではあるんだよ」
「ちょっと相談があってさあ」
「人の話を聞け。って、は? お前が私に相談?」
「そ。諫名ちゃんの友達なんて、お前くらいしかいないでしょ?」
「いや、そんなことないと思うけど……何? 怒らせたの?」
「それくらいで相談に来るかよ。なんかさあ……諫名ちゃん最近おかしくない?」
 友達いないの、お前の方なんじゃないの?
 そんな言葉を飲み込んで、一縷はため息を吐いてパソコンをスリープ・モードにした。

/*== ==*/

 在宮諫名という人物には、三つの側面がある。
 一つ目は、この肆戸島の現人神としての側面。島の結界領域の管理をし、信仰を集め、島や人を守っている。目の色は蒼い。散歩が趣味で、主に和装だ。
 二つ目は、人間としての側面。この側面のときのみ名字が奏済となる。ただの十九歳の女の子である。なんの力もない、見ていて不安になるようなこの上ない美人だ。目の色は吸い込まれそうな漆黒。ゴシック風のファッションをしていて、一番表出している。三つの側面の中では最もおとなしい。
 三つ目は、吸血鬼としての側面。彼女は不幸なことに、白夜公こと御津藏貴臣に気に入られ血を吸われて、ナイトブラッド・ヴァンパイアの側面も得てしまった。目の色は血のように赤く、瞳孔は切れ長になる。ファッションは一番露出が多い。このときの彼女は少し攻撃的だ。
 この三つの側面が場面に応じて切り替わっているが、性質が異なっているだけで性格は変わっていない。地雷を踏まない限りは基本的に大人しい美人である。
「で、どこがおかしいって?」
 二人は近くにある喫茶店に移動して、飲み物が届くのを待って話し始めた。レモンスカッシュ。実物のスライスが浮かんでいる。白夜はティーカップを持ちながら、んー、と小首をかしげた。
「なんとなく?」
「帰れよ」

/*== ==*/

 まず、蒼眼であることが極端に増えたということ。その際になにか違和感を覚えるということ。
「何かってなんだよ」
「それがわかればお前なんかのところに来ないよね」
「お前そういう事言うから友達いないんだよ? そろそろ気づけ?」
「はァ? いるし?」
「例えば誰よ」
「ロウとか」
「白夜会は省きます」
 白夜は一瞬フリーズしたあと、指折り数え始めた。
「……市倉とかぁ、桐伍とかぁ」
「御三家しか出てこないあたり可哀想になってきたからもうやめてやるよ。紅茶冷めるぞ」
「猫舌だから冷めないと飲めねーの。御堂島なら適温にして持ってくるのにな」
「いや、一番美味しい温度で提供してくれてる店に文句つけんな」
「いや俺が正義だから」
「いや……ん? 白夜」
「何?」
「あそこ歩いてるの、諫名じゃない?」
「は? ……本当だ。縛り付けてきたのに、抜け出してきたのか」
「何してんだお前……引くわ」
「一緒にいるの、誰? 女? 女だな、女で良かった、男だったら殺しに行ってた」
「うっわ殺人鬼とお茶してた女にならなくてよかった」

「いーさなちゃん」
 諫名が一緒に歩いていた少女を見送ったのを見てから、白夜はどろどろに甘い、いちごジャムみたいな声を路地に響かせた。きっと彼と彼女と二人でいるときはいつもこんな声をしているのだろうなと他人事のように考えた。いや実際他人事なのだけれど。
 名を呼ばれて、諫名は緩慢に振り返った。
「貴臣」
 一縷にはやはり違いはわからなかった。いつもの蒼い諫名である。
「んーまだおかしいな。ねえ、どうしたの? 俺に言えないこと?」
「……そうね。言えないわ」
「俺に?」
 白夜の周りの空気が歪んだ。
 あ、まずい。
 白夜の足元のアスファルトが砕けて、次の瞬間諫名は壁に押しつけられていた。パラパラと壁の塗装が剥がれる。
 けほ、と諫名が咳き込んだ。
「ねえ諫名ちゃん、俺隠し事されるの大ッ嫌いなんだよね知ってるよねどうしてそれなのに内緒にするの? 俺に教えて?」
 まずいな。キレた白夜を止められるのは諫名しかいないのに、今回はその諫名がキレさせていると来ている。
「貴臣、一縷ちゃんと一緒にいたのね。困らせているわ」
「……? 戻った」
 知らんがどうやら戻ったらしい。白夜は諫名を路地の壁に押しつけていた手を緩めた。
「……」
 そしてしばし考える。
「ああ……そういうこと」
「どういうこと? 説明がほしいんだけど」
 一縷がそう言うと、白夜は笑顔で振り向いた。
「解決したから、もういいや。ご苦労さま」
「マジで自分勝手だなお前……」

/*== ==*/

 電気電子機械工学研究所、略して電電機工研。そこには数々のクレイジィな研究者たちが所属していたが、一縷の叔母の一条紫機流もその内のひとりであった。
 仮眠から目覚めて眞先に紫機流専用の冷蔵庫からキンキンに冷えたエナジードリンクを取り出し、自分の椅子に座った。
 タブレットを操作していて気になったメールがひとつ。
 知らないアドレスから届いた論文。
「差出人が……一条一縷?」
 悪戯だと切って捨てるのは簡単だったが、生来の好奇心で紫機流はその論文に目を通すことにした。

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Chapter03 妖怪眼球抉り
「おうい、一縷くん。ちょっと」
 下から呼ばれたのではあいと返事をする。その声が我ながらハスキーだなと思った。

 手すりに指を滑らせながら螺旋階段を軽やかに下って、一縷は正面ホールに下りた。パラノイドの店内は、豪奢なホテルのような内装をしている。築六十年、木造建築二階建ての古い建物だったが、木の艶はうつくしく、陽光を反射する様などは詩的で一縷は好きだった。
 フロントに目を遣るが、そこに店長の姿は無い。想定通りだ。フロントの奥、開け放してある扉の向こう、応接間へと視線を向ける。そこには煙管の煙を燻らせる香屋埜が座って居た。
 正面の扉を開けて入ってきた客が最初に目にするのが空の受付では商売にならないのではないか、と一度進言したことがある。しかし、店長の香屋埜は一縷の常識的忠告を一笑に付した。そんなことで閑古鳥が住みつくようならこの職業など成り立たない、というのが彼女の言い分だ。彼女は真面目に話すつもりがないのか真面目に考えるつもりがないのか。しかし彼女の先代の時分からこうだったとも聞くからこの店が狂っているのかもしれない。
 つまり、それだから、今日も今日とて、彼女は煙草を呑みながら光合成に耽っている。
 しかし今日は珍しく来客者が存在していた。
 香屋埜の対面に座る男性に一礼をしてから、一縷は口を開いた。
「なんですか、店長」
「こちらのお客様……柿崎さまを案内してあげてくれるかい」
 そう言われて初めて一縷は男性を上から下までじっと見た。荷物はホテルに置いてきたのか軽裝で、清潔感のある服装。
「案内……? 佐々木は」
 佐々木というのはパラノイドのボランティアスタッフである。香屋埜に一目惚れして以来、側に居たいからと言う理由で無給で働き続ける哀れな青年だ。香屋埜としては給料を受け取って欲しいらしいが、佐々木はどうしても受け取らないという。
「今日明日は休みだね。五味家の人間に、肆戸大祭の準備のためこき使われているらしい」
「そうですか」
 香屋埜に案内させるわけにも行かないので、一縷は渋々ながら頷いた。
「あと、君にお願いがあるそうだ」
「お願い? 私にですか」
「い、一条博士」
 ずっと黙っていた男性は鞄から古びて読み込まれた新書を取り出した。
「サインをくださいませんか! 昔サイン本を買えなくて」
「あー……」
 一縷は曖昧な声を上げた。
 一縷はかつて天才だった。とある事情から(それは七歳の頃の飛び降り自殺と関連している)今は脳を天才として活用することをやめてしまっているが、未だにファンは居るし論文が送られてくることもしばしばだった。
「申し訳ありませんが、私はもう天才でもなんでもない人間なので、そういうのは……」
「いえ、その、それでも結構です。ご迷惑でなければ」
 ここまで言われて固辞するのもなんだか自意識過剰かなあと思った一縷は、渋々ながら頷いた。
 ペン立てからサインペンを取り出して、新書の遊び紙にさらさらとサインを書く。もう十年以上も前とは言え、サイン自体は本を出すときに嫌というほど書いたので体に染み付いている。
「それで、どちらにご案内すれば?」
「一条博士の普段行かれるところに!」
 ――なるほど、これは佐々木が居ても私に振られていた仕事だな。
「それは企業秘密ですので――では、見ていて面白そうな観光名所にお連れしましょう」

 青年をまず初めに案内したのは、静謐邸だった。この島に来て神のいる場所を知らないのは勿體ない。
「ここには吸血鬼白夜と肆戸島の土地神諫名が住んでいます」
「吸血鬼?」
「物語のようでしょう。でも、この島にはそういったばけものがしばしば存在しています」
「そうなんですね……。いや、それにしても、意外ですね。土地神は現人神と聞いていましたから、神社とかにおわすのかと……」
「そうなんです。通常神社に住むものなんですけど、吸血鬼の野郎が無理を言ってここに一緒に住んでいるんです。白夜の同意なしに諫名が出歩くと白夜が情緒不安定になって暴れるので、機関や神社も渋々許可を出しているといった様子で」
「な、なるほど……」
「ちなみに白夜の安全度レベルはゼロなので、暴れられると島が半壊してしまうんですよね。全く迷惑なもので……」
「迷惑で済むんですね」
「諫名神が抑えていてくれるので、まあ。あ、でももし私、もしくは他の案内屋と一緒じゃないときに白夜を見かけたときは逃げるようにしてくださいね。危険なので。見分け方はさらさらの白髪と真紅の瞳です。見た目はひょろいですが怪力乱神ですので近づかないように」
 一縷はくるりと左から振り返った。
「とにかく、この島の観光をするにあたって重要なのは逃げることです。道端に立っている無害そうな人間でも、少しでも怪しいと感じたら逃げてください。【偏執狂】の可能性がありますから」
 偏執狂というのは、この島特有の異常者のことである。神を信仰し、或いは何かに執着し、頓着し、偏執が行き過ぎると体や精神、あるいは能力に異常が現れ始めるのだ。それはこの島の土地神の祝福でもあり、呪いでもあった。土地神への信仰が厚ければ厚いほど人間から離れてゆく。
「扱いに慣れていると、偏執狂相手でも普通に接することができるんですけどね」

 次に案内したのは【海渡り】の切符売り場だった。偏執市場の裏手の方にある、海へ向かってレールが引かれている無人駅【死出の駅】である。ぽつんと車両が停まっていた。
「柿崎さんは、自死願望はありますか?」
「僕ですか? 僕は――無いですね。一条博士が投身をしたすぐあとには考えたこともありましたが、今は」
「そうですか、それは良かった。この駅で切符を買うと、とある電車に乗ることができます。その電車に乗ると、毎年の肆戸大祭のときに安楽死を遂げることができます。それを海渡りと言います」
「どういう仕組みでそうなっているんですか……?」
 柿崎氏は少し不穏な気配を感じているようだった。
「島の土地神への生贄になる代わりになんの苦しみもなく眠りにつくことができる、というオカルトな仕組みですね」
「なるほど……」

 他にも偏執市場でいい土産になりそうな店を選んで紹介している内に、時間が來た。
「一条博士は、もう研究はなさらないんですか」
 またその話か。
 一縷は軽くため息を吐いた。
「ごく個人的に、メインがルールベースの弱いAIの研究開発だけは続けていますが、以前ほどの熱量では行っていません」
「そのソースコードの開示などは?」
「残念ながら、する予定はありませんね」
「そうですか……」
 最後に柿崎氏の希望で握手をして別れる。

/*== ==*/

 さて、どのルートで店に戻ろうか。
 良い茶葉を先日頂いていた気がするので、スコーンでも買って帰ろうか。
 ――天才。
 それはかつて自分を指す言葉だった。今は違う。
 けれど、まだその残滓を求める人間が居る。
 馬鹿みたいだ。
 ずぐ、と胸の奥で何かが痛んだ。鉛筆で刺されるような鈍くも鋭利な痛み。
 近道をするために偽装ドアを抜けて、路地に入った。光量が絞られる。一瞬目を眇める。何故か高所に目が行った。
 非常階段と思われる鉄製の螺旋階段の高いところに立っているセーラー服の少女が一人。
 おいおい、そんなに身を乗り出したら落ちちゃうぜ――と思っていたら、本当に落ちてきた。
「っ……わ」
 思わず二、三歩足を踏み出す。が、鈍い音を立てて少女は地面のコンクリートにぶつかって一度バウンドし、歪な肉塊と化した。
 投身自殺――。
 目の前で起こった出来事に呆然としていると、近くで涙を流しながら震えているもうひとりの少女が居ることに気がついた。
「君、この子の、知り合い?」
「……はい」
「止めに来たの?」
「た、頼まれたんです。一人だと怖くてきっと飛べないからあなたが見ていてって、見ていてくれたら飛べるからって」
 少女の目からばらばらと涙がこぼれて落ちる。
「私、本当は嫌だったけど、あの子最近変な宗教に嵌ってて、心配で、でもどうせ飛ばないだろうって、そう思って、」
「そうか……」
 近寄って確認するが、頭蓋が砕けているので即死だろう。顔の判別もつかない。
 自分のときとは違う――と、脳の端で思った。
 この子は遂げられた。比べて一縷は生き残ってしまったのだから。
 また胸の奥が痛んだ。
 しかし、この子はどうして身を投げようと思ったのだろうか?
 この島には、確実に安楽死を遂げることができる海渡りがあるのに、何故わざわざ投身を選んだのだ。
 セーラー服に血が染み込んでゆく。
 ――否、考えても仕方がない。
 一縷は黙って警察に通報した。

 警察の事情聴取は思っているよりあっさりと終わった。しかし人が死ぬのを見るのは初めてだったので、その日の夜は病院で処方されている眠剤を倍の量飲んで眠った。夢を見たくなかったのだ。特に、自分が飛んだ日の夢など、絶対に――。

/*== ==*/

 翌日も一縷は普通にパラノイドに出勤した。昨日事情聴取のせいで残っている分の仕事をするのだ。夢は見なかった。
 飛び降りた少女のことは少し気になっている。
 これは仕方のないことだったがどうしても一縷は自分と重ねてしまうのだった。自分の場合は、もう大丈夫だと思ったから死んだ。彼女の場合は?
 宗教、だとか言っていたな。
 このご時世だ、生きている人間は何らかの神やあやかしものを信仰している。だがそれは生きるためなのだ。死ぬための宗教など知らない。
 そのとき、ヴヴと携帯が振動した。
 ポケットから携帯端末を取り出して数回の操作を繰り返し、画面を確認すると、メールが届いているようだ。メール管理ソフトを起動すると、受信先は叔母のアドレス。本文にはいつものようにプログラムのソースコードのような文面が表示されていた。

 >1530;人間椅子,一縷,香屋埜;パラノイドの客;

「また、急にそういうことを言う……」
 いやがらせか?
 一縷は左手首に巻いているごつい軍用時計に視線を落とした。
 現在時刻は14時33分。
 喫茶店の人間椅子までは移動に40分ほどかかるから、そろそろ出なければ間に合わない。一縷は作業デスクのファイルを一瞥して軽く息をついてから、折角立ち上げたばかりのパソコンの電源を落とした。

/*== ==*/

「店長」
 相変わらずハスキーな声だと、我ながら思った。
「きみの声は低いから、この距離では聞き取りづらいよ。話をするなら、もっと、近う、寄りたまえ」
 閉口したが、一縷の声が低いことは確かなので(たった今自分でもそう思ったのだから)、黙って香屋埜の側へと近寄った。
 ゆったりとした一人がけのソファに座って、しんしんと日光を浴びる香屋埜はまるで植物のようだった。彼女の今日の服装は、また一段と昭和初期のおじさんみたいである。カッターシャツに灰色のベスト、灰色のジャケット、灰色のスラックスというグレイスケールのファッション。長く艶めく墨色の髪を流れるままに胸に流し(その曲線は間違いようもなく豊満である)、白く細い手は無造作に肘掛けに置かれているが、指輪のひとつもつけていない。細い目が特徴的な顔は美人と称せるつくり、化粧はしていない。
 彼女は、男装の麗人でありたい、と常々言っている。女性的な雰囲気を醸し出しつつも、服装や口調など、外装は確かに男性らしい。男性を装いたいわけでも女性を隠したいわけでもなく、ただ、男装した麗人でいたいのだ、というのが彼女の主張であった。拗らせている。
 香屋埜は、もう一服煙を吐いてから、煙管をそっと煙草盆に置いた。吸口の真鍮が陽光を受けて煌めいた。
 その細い目がようやく一縷を向いた。
「どうしたのかな」
「店に用事のあるお客さんが、人間椅子で15時半に待っているようです」
「おや、きみの仕事は電話番ではなかったと思ったが」
「紫機から、メールで……詳細とか、何もないんですけど」
「ああ、紫機流かぁ……あいかわらずよくわからないことをする女だなあ」
 香屋埜は、目を瞑って、数秒考え込んだ。
 香屋埜とて、紫機のことを言えない程度にはよくわからない女だと思う。
 などと口に出したら、面倒なことになるに決まっていた。一縷に多大な影響を与える叔母の紫機流の発言のわけのわからなさと言えば関係各所の御墨付だが、その紫機流と学生時代からやりあってきた香屋埜他数名の女達の鍛え抜かれた舌鋒といったら。
 入れ子式の思考を渦巻かせながら、一縷はぼうっと陽光を浴びる香屋埜の髪を見つめた。
「うーん」
 香屋埜は、煙草の煙を吐き出すようなテンポで息を吐いた。
「行こう。じゃあ、一縷くん、きみもついてきてくれたまえ」
「わたしもですか?」
 机の上の帽子掛けからキャスケットを手に取りかぶった香屋埜は、立てかけてあった杖を手に取った。
 香屋埜は、右足が義足であった。
「そうだよ、きたまえ」
「はあ……そういうのは、佐々木に頼んだ方がいいのでは?」
 一縷は佐々木に言及した。給料を貰っている一縷よりも彼の方が多く働いている気がするのはきっと気のせいではないだろう。当然ながら一縷よりは接客が巧い。
「今ここに佐々木が居るかい? 一縷くん」
 確かに今日は来ていないようだった。大祭の手伝いだったか。
 そんなことは承知しているのである。
 一縷は食い下がる。
「わたしの仕事は、自炊では」
 一縷は人嫌いである。
 断る言葉を重ねようと口を開くと、香屋埜がすっと一本指を立てた。
「特別手当を出そうかな」
「はい、やります」
 一撃必殺。
「若い子は現金でいいねぇ」
「ええ、まあ……地獄の沙汰も、なんとやら……言いますでしょう」
「ははは」
 香屋埜は、楽しげにからからと笑った。一縷は表情を変えなかった。

/*== ==*/

 一縷と香屋埜は、蝋梅通りにある雑居ビルの廊下を、その最深部に向けて歩いていた。外は薄く汗をかくくらいに暑かったので、ここまではタクシーに乗ってきた。香屋埜は車を持っているのだが、彼女が運転を嫌うためほとんど観賞用と化している。一縷は運転免許を持っていない。
 こつ、かつ、こつ、と、足音が変拍子で響く。
 香屋埜は黒い革靴を履いているし、杖をついている。一縷も底の固いブーツを履いているので、静かな廊下にはよく響く組み合わせだった。
 人間椅子は、一縷と紫機流がしばしば利用する喫茶店である。加えて市街地、比較的わかりやすい位置にある。だから紫機流はここを指定したのだろう。特徴として、マスターが江戸川乱歩の小説から引用した言葉しか喋らないという点が挙げられるが、日常会話には困ったことがない。乱歩の語彙が豊富なのだろう。
 江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポーはどのような関係にあるのだろう。乱歩の小説は嫌いではないが、耽溺するほど好んでもいないので、昔から気になるその謎は謎のままである。
 そもそも、一縷は無趣味であった――より正確に言うならば、自覚的に趣味を持たないようにしていた。この趣味人の島において、趣味という言葉の重さと途方も無さといったら考えるだけで厭気が差す。有り余ったコンテンツ、その取捨選択にかかるエネルギィ。
 好き嫌いより、好きじゃない嫌いじゃないという風に考えて、色褪せてゆく、余生のように暮らすのが最も気が楽なのだ。
 こうして言葉にして考えると、曖昧に広がってゆく思考が視界が限定されるようでもったいないような気分になる。
 情報と想像とコンテンツの海に漂うのに、嗜好性という錘は要らないのだ。
 茫洋とした気分で、一縷は空を見つめた。
 しかし、こうして嗜好性を排他しようという意思が、そも、一縷の求める模糊とは真逆にベクトルが向いているような。
「一縷くん、思考のるつぼに嵌っているね」
「え?」
 不意を突かれた一縷は、左側を歩く香屋埜を向いた。
 首を傾げる。
「思考のるつぼ」
「うん」
 香屋埜は、上機嫌に頷いた。
「言葉は矛盾するためにある」
 こつ、こつり、かつん、こつ、こつり。靴音が響く。
 また何か言い出したな、と思ったが、一縷は一応頷いた。相槌である。
「ためにというのは少し……はあ、いえ、そうかもしれませんね。まあ、喋るのは、あんまり好きじゃありません」
 言葉にすることで失われる何かが恐ろしいのだ。
「矛盾が嫌いかい。けれど、その不快感を拭いたいと思うなら、より正確にいるために、言葉を上手に操った方がいいのだよ。道具として使いこなすんだ。キミには練度が足りていないように思えるね」
「はあ……」
 それはなんか嫌だなと一縷は思った。やはり、真逆だからである。
「つまり、もっと人と接した方がいいと思うわけだ。もっと他人と喋りなさい」
「うん……」
 一縷は、傾けていた首を前に落とした。それに追随して、さらり、髪留めからほつれた髪が胸に落ちる。鬱陶しいが、髪も考えも、纏める技量は一縷には無い。
 向上心も、あんまりない。
 人の話も、聞く気がない。
 一縷は、曖昧な声を上げた。
「あんまり、うなずけないお話ですが」
「まあ、そんなだから書庫整理なんて気が遠くなるような仕事ができるわけだね。人との会話スキルを投げ捨てて、人間以外と対話する技能を手に入れているのかもしれない」
「それ、書庫整理が苦手ないいわけですか?」
「うん、まあ、そう受け取ってもいいがね」
 香屋埜は、指先で自分の髪を弄んだ。彼女は緻密に情報を書き記すことができる人物だったが、それをまとめたファイルの管理は杜撰極まる。一縷がパラノイドに来た頃なんか、書棚が書棚としての機能を果たしていなかった。横置き縦置きが横行する書棚を一掃し、ファイルを整頓して、書庫に収めなおしたのは一縷であった。
「まあ、キミは、勿体無いということだ。諦めるにはね」
「……?」
「うん」
 香屋埜は、立ち止まった。
 一縷も、同じく立ち止まる。
 ああ、ようやく拍子が揃ったな、と思った。
 目の前には、人間椅子の扉があった。
「着いたね」

/*== ==*/

 約束の時間まではまだ多少余裕があったため、一縷と香屋埜はドアの見えるテーブル席に座り、コーヒーを注文した。革張りのソファは壁際に置かれたランプの光を反射し鈍く輝いている。ガラスのテーブルの上にはメニューが置かれていたが、一縷も香屋埜もそれには手をつけなかった。
 喫茶店人間椅子に窓はない。それが良くて一縷も紫機流も通っているのだが、一縷なんかは、しばらく読書に沒頭したあと、ふと不安になったりもする。一体何時間くらい沒入していただろうかと、わからなくなるのだ。外の明るさというものは存外安定の助けになっているのだということがわかる。この島にいれば冬の始まり頃になると窓が見えていても不安になるが、それはこの島の緯度のせいだった。
 ぼうっと時計を見ていた一縷は、深みのある香屋埜の声に名前を呼ばれて我に返った。
「一縷くんよ」
「はい」
「私が昨日見た夢の話をしてあげようか」
「いいです」
「何故だね、聞きたまえよ」
「いえ、だって、香屋埜さんの夢、聞いていて疲れるじゃないですか」
「今日のはシンプルだよ。昔の夢だ」
「昔の?」
 一縷は左を向いた。横目でこちらを睨んでいた香屋埜は、元から細い目を更に細くした。
「私達がセーラー服を着ていた頃の夢だよ」
 彼女の言う私達とは、香屋埜と紫機流を含む数名の交友グループのことだ。一縷はいつも彼女らに揉まれている。
「香屋埜さんもセーラー服を着ていたんですか?」
「ああ、私は無論のこと学ランだったさ。昔からね」
 高校時代からそんな倒錯した日常を送っていたのか。
 そう思ったが、どちらかと言えば、三十を前にして倒錯している方が問題があるだろうか?
 自分の十年後を想像すると笑えない。十年後を想像すること自体も笑えない。
「キミの叔母さんはセーラー服を着るために生まれてきたように似合っていたよ」
「まあ……そういう顔をしていますね、彼女は」
「その紫機流にそっくりだから、キミにも似合うんだろうけれどなぁ……アカデミーの制服はブレザーだったね、残念だ」
「何の話でしたっけ?」
「私の夢の話だ」
 ふつりと会話が途切れた。
 一縷は再び奥の壁にかけられている時計の振り子の往復を数え始めた。
 結局、夢の話は聞いていないじゃないか。
 時限爆弾のようにじわじわと興味が疼きだしてくるのをこらえていると、からん、と金属質なドアベルの音が鳴った。

/*== ==*/

 一縷と香屋埜は揃って人間椅子の入り口の方を見る。揺れた香屋埜の髪から煙草の香りがした。
「あっ、どうも」
 扉を半端に開けたままこちらを向いて、気の抜けるような声を上げたのは、三十代後半くらいの男だった。服装は無地杢グレーの半袖ワイシャツとスラックス。髪はこざっぱりとしている。身だしなみには気を使っている、という印象を受けた。
「やあ、どうも、こんにちは」
 隣で香屋埜が立ち上がろうとしたので、一縷はそれを介助した。
 からんからんと音を立てる扉を後ろにして、男がやはり気の抜けたような顔でこちらへやってきた。そして我々へ向かって会釈をした。
「どうも、えーと……お二人が」
「ええ、探し屋パラノイドです。わたしが店主の香屋埜で、こちらは役に立つ助手の一縷くんです」
「……どうも、一条一縷です」
 言葉を選んでいる様子の男が、一縷の名前を聞いておやっという顔をした。
 紫機流から来たお客さんだから、紫機流の顔を知っているのだろう。一縷は母親よりも彼女の方にそっくりだから、時折見間違えられる。
「では、本題をお伺いしましょう」
 そろそろ座ってみませんか、と香屋埜が言うと、男性はああと曖昧な声を上げてから座った。
 
/*== ==*/

 しばしのコーヒー・ブレイクを挟んで、香屋埜はさてと切り出した。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「はあ、ぼくは」
 男は視線を彷徨わせたあげくにコーヒーカップに手を付けた一縷の右目とがっつり視線を合わせてしまった。
「あ」
 そして間の抜けた声を上げる。
 この男は随分と――ぼうっとしてらっしゃる。
「そちらの、方――一条さんの、目は……」
 男の視線が集中する、一縷の右眼は義眼である。飛び降り自殺をしたときに頭蓋骨や頬骨と共に潰れてしまった右眼のかわりに、一縷が眼窩にはめているのは人形の眼だった。視力はない。
「ちょっとした事故ですよ」
 香屋埜がそう言ったので、一縷はそれを否定した。
「事故ではありませんね。故意でした」
 男はそのやりとりを聞いて、にわかに顔に緊張をみなぎらせて、体を乗り出した。
「それは、どういった理由で失われたのですか」
 この男にこの話を深く聞かれるだなんて思っていなかった一縷は、意外に思ってぱちりと瞬いた。
 しかし、一縷には隠す気がなかった。
「七歳の頃に、飛び降り自殺をしたので。その折に」
 一縷の返事を聞いて、男は折角得た元気を再び失った。そして、一度頷いた。
「そうですか……ああ、いえ、実は、僕の探しているのは、眼球なのです」
 僕の娘の、眼球です。
「きっとどこかにあると思うので、探していただけませんでしょうか」
 男の、これまでぼうっとしているようにしか見えなかった眼の奥に、虚ろさが覗いたような気がした。

 数秒の沈默があった。
 ちらりと左目で香屋埜を伺うが、その細い目からは何も読み取れなかった。
「眼球といいますと」
 香屋埜が話を促した。
「先週のことです、僕の娘が轢き逃げに遭いまして」
「それは」
「いえ、それが、変な言い方にはなりますが、それ自体は良かったんです。幸いなことに骨折もなく、擦り傷と些細な打撲で済みました。しかし、大通りまで来た救急車の道案内をするために、僕は一瞬娘から離れてしまって」
「ええ」
「救急隊のひとと娘のもとに戻ると、娘の両眼が繰り抜かれていたのです。後から聞いた話によれば、ナイフのようなもので雑に視神經ごと切り裂かれていました。娘の眼球といったら本当に美しいもので、誰が持ち去ったのか知りませんが、許すことができないのです」

/*== ==*/

 人間椅子を出、タクシーに乗り込むまで、香屋埜も一縷も無言だった。通りで捕まえたタクシーに乗り込んで、一種独特な香りに包まれてから、一縷は一呼吸おいてぽつりと尋ねた。
「何でですか」
「何がだね」
「どうして受けちゃったんです、あんな話」
 男は、あの後十分以上の時間を費やして目玉の繰り抜かれた自分の娘を発見してから救急車に載せるまでの一部始終を語ってみせたのだった。茫洋とした雰囲気は変わらないまま、しかし何かに取り憑かれたかのように――それは精神病棟に入院中だった頃の一縷が見慣れた光景でもあった。取り憑かれているのは、顕示欲だ。
 一縷は唇を噛む。
 まともな話ではない。
「本当の話だと思ったからだよ、一縷くん」 
 香屋埜は煙草を吸えないことが残念そうな雰囲気でそう言った。それはただの一縷の推測だったが、外れている気はしない。
「あれは本当の話だ。私は本当の話を聞くのが好きでね。本当の話を集めているんだ。そうすれば得られる何かが私にはあるものでね」
 好きだからといって業務外の依頼を受けるのは正しくない。
 一縷は眉をひそめた。
「パラノイドは、何屋なんです? 観光案内業じゃないんですか」
「探し屋さ」
「探偵事務所とでも改名したらどうですか」
「残念だがね、店の名前は変えられないね。あと、一縷くん。君は、何もかもを自己顕示欲と錯覚で片付けるきらいがあるから、その点についてもう一度考えてみるといいよ」
 一縷は眉間の皺を更に深くして、溜め息とともに体をシートに沈めた。
 これだから、紫機流の知人は油断がならない。

/*== ==*/

 パラノイドを出て、一縷はぶらりと路地裏の方へ向かった。
 歩きながら考え事をしたい気分だったのである。
 店に帰ってからのミーティングの結果、一縷が今回の件で任されたことは、叔母の紫機流から今回の依頼人との関係を聞き出すことだけだった。残りは總て香屋埜がなんとかするらしい。おおかた、懇意の万屋だの代行屋だのに仕事を振るのだろうと思う。
 これまでも、『探し屋』などという紛らわしい名称のおかげで、興信所や探偵事務所などといったものと間違われて依頼が来ることは多々あった。
 しかし、香屋埜はそれらの依頼も総て請け(違うと知ってなお依頼する方もする方だが)、そして総てを依頼人の納得の行くかたちで収めているというのだから、もう――一縷には理解が及ばない。本当に名前を変えるべきでは?
 案内業としての仕事はほぼ年中あるが、その大半が人づてで任されるもので、店に一見の客が来たことは一縷の職務中には無かった。香屋埜は他に収入源があるらしいので、もしかするとパラノイドは完全な道楽なのかもしれなかった。『本当の話を集めると得られるものがある』という発言もあったことだし、案外そうなのかもしれない。
 社会性とは縁のない一縷は、そのように自分を納得させた。
 路上に停車していたワゴンの横を通り過ぎた瞬間、開いていた車のドアの内側から二の腕を掴まれ車内に引きずり込まれた。鳴り響いていたセミの声がふっと止む。入れ替わりに外へ出た人物は慣れた手つきでスライドドアを閉め、そのまま運転席へと乗り込んだ。シートベルトをしめて、一息ついている。
「!?」
 驚いたのも束の間、一縷は間髪入れずに両手でワゴン車のドアを開こうとするが、ノブが動くだけでドアは開かない。
 鍵はかかっていないのに――――チャイルドロックか!
 この一瞬でよくもやりやがる。
 怒りが沸騰した。
「きみの名前は」
 運転席に座った青年が、ミラー越しに一縷を見た。一縷はひたと睨み返す。一縷がいくら美人だからと言って、このような誘拐をされることは我慢がならない。もっと紳士的にするべきではないのか。
 癖のある白髮。痩せた体。表情の浮かばない顔。細い声。そして、カラーコンタクトでもはめているのか――群青色の目。ずきんと頭が痛んだ。なぜ? その群青には覚えがあった。
「何ていうの?」
 一縷が黙っていると、少年は困ったように眉を寄せた。
「育っているから、間違っていたらどうしようかと思っている。名前を教えてくれないなら、その右眼を見せてくれないかな」
 なぜ要求されているかわからないが、一縷の右の義眼は現在、髪で隠してしまっていた。
「右眼は見せられない」
「どうして?」
 一縷は、この危機的状況に置いて、ふっと躰の緊張が緩むのを感じた。
「好きになられたら、困るから」
「――……、ああ、――きみの名前は、一条一縷だ」
 安心したようにそう断じると、少年は目を伏せて、エンジンのキィを回した。
 うわ、まずい。
 一縷は、シートベルトの金具をひっ掴んで、窓ガラスに思いっきり叩きつけた。
「えっ」
 運転席から悲鳴が聞こえる。構わずに、二度、三度とぶつけると、窓ガラスが綺麗な放射状にたたき割れた。その穴に躊躇無く手を突っ込んで、外側からドアを開ける。腕を切った気がしたが、痛みは感じなかった。
 転がるように車外へ飛び出し、一歩、二、三歩で体勢を立て直す。
「ちょっと、ちょっと待って一縷! 僕のこと」
 誘拐未遂犯の声が追いすがってきたけれど、一縷は待たずに来た方向へと逃げ去った。
 やっと見つけたのに――という声が背を追ってきたような気がした。

/*== ==*/

 裏路地に入り、民家に偽装されている階段から一縷は偏執市場地下部に滑り込んだ。近くに居ても遠くに聞こえる喧騒と、涼しい空気に包まれる。
 石畳風にアレンジされたアスファルトの上を早足で歩き、左右と上下に並ぶ不思議な店の看板たちの下を掻い潛る。
 まったく何だってんだ、と思いながら路地を抜け、一キロほど歩いて地上へ出てしばらく歩くと、ぽつぽつと小雨が降ってきた。
 地下道に戻ってタクシーでも呼ぶか、と思ったとき、右側の腹部にどん、と衝撃が走る。
 右側。
 一縷の右眼に視力はない。右側はめっきりの死角である。さっきの輩か?
 肝が冷えたところでそちらを見下ろすと、そこには黒髪で白いワンピースを身に纒い、とても人とは思えないほどに顔面が蒼白な少女が縋り付いていた。
 一見すると十三、四歳くらいだろうか。
「なんだ?」
 ぽつりと声が漏れる。
 どうやら、少女は一縷の右手にある細い路地から飛び出してきたようだった。一縷はそこに路地があったことにすら気がついていなかった。ちらりと伺っても、室外機やら排気筒やら電線やらの渋滞で何も見えない。
 白いワンピースの少女は一縷と似たような色味の黒髪を揺らして、救いを見つけたような表情で一縷の顔を見上げた。
 そして、ひっ、と、息を呑んだ。救われたような顔のまま、硬直する。その視線が一縷の顔面の右側に滑る。すると、今度は愕然とした顔になった。その表情の変化に違和感を覚える。どうしてこの子は一縷の顔を見て驚いているんだろう? 彼女はそのまま一歩後ろにさがった。
 なんにしろ怖がらせてしまった。
 この子は一縷のどこに怯えたのだろう。どこに、というか、どれに……。思い当たる節が多すぎて予測がつかなかった。左耳と口にピアスを空けていることだろうか。一縷の右眼の焦点が合っていないことも怖そうである。学校に行っていないときの一縷は容赦なくピアスをつけているから、そのせいでヤンキーだと思われてしまったかもしれない。
 いや、いや、落ち着け。これは、自意識過剰に過ぎない。
 何にせよ、自分が少女受けする外見ではないことは自覚しきっていたし、少女をこれ以上怯えさせたくもない。一縷は、一度おおきく瞬きをしてから、ぎこちない動作で首を傾げた。
「どうしたの?」
「――あ、」
 少女は切羽詰まったように周囲を見回した。他の人を探しているようだった。イヤフォンを外して首に掛けながら、一縷も同じように顔を上げて周囲をみたけれど、一縷以外に人影は見つけられなかった。考えてみれば、すこし不思議かもしれない。人が一人も居ないというのは嫌な感じがした。
 少女は諦めたように一縷をもう一度見上げた。
「あの、あ、あの、あの、」
 少女は、エラーログを吐いているときのプログラムのように、同じ言葉を繰り返した。
「あ、あの、あ、」
 少女の目にじわりと涙が浮かぶ。どうしようか、と思って、一縷は笑ってみようと努力した。右頬が引き攣れたように痛むので、普段は笑わない一縷である。
「あの、まず、落ち着いてね。私は、あなたに何もしないし、困ってるなら、助けようとも思うので」
「死んでいます」
「――――、は?」
 一縷は、フリーズした。
「人が死んでいます」

 一瞬でフリーズから回復した一縷はぱっと辺りを見回した。申し訳程度の笑顔も失せた。誰か大人が居ないかと思ったのだ。居なかった。さっき確認したように誰もそこには居なかった。ここは裏通りであり、入れるような店も見あたらない。
 一縷は舌打ちをしたいような気分だった。路地の前に居ては無防備だと思い、少女の手を引いて一メートルほど移動した。少女の目を覗き込む。
「それは、確か? どこで?」
「本当です、本当です、死んでいます、そこの、今の、路地裏で!」
 一縷は携帯端末を取り出した。
「誰か他に人は――居なかったんだ」
 確認するように呟く。そう、居たら、きっとこうして一縷の側へ来ることはないだろう。一縷は軽く唇を噛んだ。口のピアスの留め金と歯がぶつかって、かちりと音がした。
 一縷は、ゆっくり、声を出した。
「路地の、中ね? 私はこれから確認をしてくるので、きみ……えーと、名前は」
「――苑宮です。苑宮葛」
「ソノミヤカズラちゃん。葛ちゃん。私は一条一縷です。えーと……」
「一条一縷……」
 葛は小さく呟いた。
「嘘、どうして……?」
 ぽつりと発した少女の言葉に、一縷は反応する余裕が無かった。
「うん……、うん? えっと、そうだな。葛ちゃん、ちょっとここで待っててくれる? その辺りで」
 近くの消火栓を指さすと、葛は縋るようにこちらを見てきた。
「……怖いです」
「怖い?」
 一人になるのが、という意味だろうか。一縷はすこし考えた。しかしこの少女にもう一度死人の顔を見せるのは酷だろう、既にこれほど怯えているのだから。
「えっと……一人になるのが?」
「はい」
「そうか……えーと……でも」
 一縷は言葉を選びあぐねた。葛の意向を優先したいところだが、死体があるならそれを確認して通報することが優先だ。どちらがマシか聞くべきだろうか。一縷と二人でもう一度死体を見るか、それとも一人でここで待つか。いや、ここは”年長者”である一縷が判断すべきだ。ああ、年長者。反吐のような感情を殺すため、眉間にしわを寄せる。
「……あ……」
 一縷がほんの一瞬躊躇している間に、葛はそれを察してしまったらしい。敏い子供だ。一縷は目を眇める。敏い子供は更に嫌いだ。忘れていたラムネの味をふいに思い出すみたいに、かつての自分を想起させる。葛は唇を引き結んで一歩下がった。
「……ごめんなさい、大丈夫です。何でもありません」
「……悪い。すぐ戻ってくるよ」
 一縷はそう言い残して、歩き始めた。開いていたアプリを全て落として容量と残り充電量を確保する。
 葛が飛び出してきた角を入ると、途端に陽の光がなくなり、暗くなった。どうしてか一瞬眩しいと思ったが、すぐに目が慣れた。
 高いビルの壁に挟まれた路地だった。地中街もよく歩く一縷にとっては見慣れた風景である。そしてこれもそういった路地によくあることだったが、様々な機械の室外機がところせましと並んでいて、とても視界が悪かった。
 それでも一目で目についた。
 地面に、コンクリートで固められた地面に、人間が転がっている。その人間の胸には深々と棒のようなものが突き刺さっていた。よく見ればそれはグリップである。上手に握り込めそうな、上手に力を込められそうな、グリップである。一縷はそれをナイフだと思った。
 そう、数メートル先の地面に、殺人死体があった。
 ――死んでいる、って、他殺、かよ。
 飛び降りかと思ったのに――
 どうして?
 飛び降りと思ったのは――
 過去が右眼の奥でちらつく。眼下。眼下。狭い眼下。狭い空に墮る――
 否。否。
 自分の過去など関係ない。昨日も飛び降り自殺を見ているのだから、そこからの連想だろう。思考を強制的に引き戻す。
 確かに死体だ。確かに、形容するならば、死体という他無いだろう。
 いや――正確に表現するなら、他殺死体、と言うべきだった。
 しかし、それをあの怯えた少女に求めるのは酷だろうか。
 一縷は視線が逸らせない。
 助けられるはずもない。
 だって瞼が開いたまま、その目はこちらを見ているのだから。黒目が大きい。睫毛が長い。髪が地面に散らばっている。
 少女の死体の片目が。
 一縷と。
 目が合っている。
 そう、片目はどうしてかくり抜かれていた。
 こうなる筈だった。自分も。
 悪いな、と一縷は思った。彼女に対してか、あるいは、胸が、という意味か。曖昧な感想だった。
 頭蓋の形が残っているということは、昨日の少女よりは低い位置からの飛び降りだったのだろうか。
「――……、通報しよう」
 口に出して、一縷は短く息を吐いた。半ば力ずくでその亡骸から視線を下ろして、この暗闇の中ただ発光を続ける端末の画面を指でなぞった。

 ――通報を終えて、通りに戻った頃には、葛の姿は消えていた。

/*== ==*/

 警察の事情聴取は昨日よりは長くなった。連日で死体を発見しているということと、それが殺人死体だったということが理由だろう。聴取を受けている間は、さきほどの死んでいた少女のことばかり考えていた。今は待合のような空間にいる。自動販売機で購入した缶コーヒーを飲みながら、一縷は先ほどからぼうっと床のタイルを見つめているのだった。床の色は白い。まるで病院のようだと思った。
 白いのは床ばかりではない。
 この警察署自体が、病棟のように真っ白なのだ。床も、壁も、天井も白く、ガラスには一点の曇りも見つけられなかった。
 一縷はこれまで警察に世話になったことがない。一縷は不登校児ではあったが不良生徒ではなかったからだ。交番には何度か行ったこともあるけれど、それもみんな幼い頃で、些細な落とし物を見つけたと行っては交番へ行き拾得物書類に幼い字で記入をしたものだった。子供らしくて微笑ましいことである。天才でもそんなことをするんだな、とまるで他人事のように思った。今では何も拾わない。携帯でマップを呼び出せば道にだって迷わない。
 ああ、今月、病院いつだっけ。
 一縷は前回の通院の時に担当医と交わした予約の会話を思い出そうとしたが、どうにもうまく頭が働かなかった。
 いけないな、と思った。今日は色々有りすぎた。メモリが足りていないのだ。
 目を伏せる。
 一条一縷にメモリが足りない? まさか。
 パフォーマンスが落ちているだけ。
 いけないな。
 否、いけなくなんてないか。今の一縷には、そんな価値など――
 ず、とコーヒーを啜って、一縷は一度目を瞑り、そして顔を上げた。
 目の前に人が立っていた。
「うお」
 思わず声が出てしまう。一縷は両目を見開いた。今の今まで目の前の床を見つめていたのに、一体どこから来たのだろうか。降って湧いたのか。
 低いヒールのパンプスと黒いスーツを着こなした、長身の女性だった。うなじの辺りで結んだすこし癖のある髪を前に持ってきている。右手にだけ黒い手袋をはめていた。文字が書きづらくはないだろうか。彼女は鋭くて冷たい瞳を一縷に向けていた。
「お前の名前は、一条一縷。間違いないな?」
 ああ、声も、冷たい。一縷はそう思った。氷のようだ。稀にこのような声を出す人物が存在するが、この女は筋金入りだと思った。
「間違いがあるか?」
 女性は微動だにせず、再び問うてきた。
 それで我に返って、一縷はああ、と頷く。
「合ってます」
「そうか。私の名前は三島桂。方舟機関、イフ指定肆戸地区統括部の者だ」
 そう言い、彼女は左の手首を一縷に向かって見せた。そこにはバーコードにしか見えない入れ墨がいれられていた。
 そんなものを見せられても困る、と思いながら、一縷はじっと女性の顔を見返した。その表情は変わらない。一縷は目を細め、観察をした。
 三島はすっとバーコードの左腕を下ろした。そして、口を開いた。
「観測条件を知っているか?」
「……? いいえ」
「そうか。観察をするためには、相手が自分を認識していない状態であることが望ましい。つまり、今のお前が私を観察することにあまり意味はない」
 三島は滑らかな口調でそう断じた。一縷は数度瞬きをする。
「それは、あまり見られたくないという意味ですか」
「有り体に言えば、そうだ」
「では、そのように言うべきです。あなたの先ほどの言葉には、私があなたを観察する理由が抜け落ちているように思います。私は唐突に現れたあなたを怪しんでいるので観察をしていた、だからあなたが私を認識しなければ私に観察する理由は存在しませんでした。成り立ちません」
「……確かに」
 三島は僅かに目を細めた。それは見定めようとしているわけではなく、ただ、冷たく感心している様子だった。
「一条一縷、しかし、お前が私を怪しむ理由はどこにある? もう名乗ったぞ」
「……名前にどんな意味があるんですか」
「名は体を表すと言うだろう。知らないか?」
「知ってます。知ってますけど……さっきの、手首のはなんですか?」
「これか?」
 三島は左手を持ち上げた。三島は僅かに戸惑うような表情で、手袋をはめた右手を左手首に当てた。そして、一縷に問いかける。
「お前、一条だろう? 読めなかったのか? 身分証明のコードだが」
「え……?」
 一縷は当惑した。
「普通、読めるものなんですか? そもそも、バーコードは人間が読むものではありませんよね?」
「その通りだ、通常は」
 三島はすうっと目を細めた。
「しかし、お前は一条だろう。その目は何のためについているんだ」
 なんと涼やかに理不尽な罵倒をする人だろう。一縷はぱちりと瞬いた。
「右目のことですか」
「そうだ」
「これは、飛び降りた時義眼に替えたんです。バーコードを通すためにあるわけじゃない」
「飛び降り? ――ああ、そういうことか。そう、そうか、何も知らないのか。すまなかったな、それでは意味がわからなかっただろう。もしかすると、私は変人に見えているのか」
 三島は名探偵のように左手を口元に当てた。
 ええ、わりと……いえ、とても、変人に見えます。それを言おうか言うまいか迷って、一縷は結局ただ頷くに留めた。
「そうか。それは、とても、不本意だ」
 三島は冷静にそう言った。
「では、自己紹介をやり直そう。私は人類存続のために存在する方舟機関、そのイフ指定保全区域肆戸統括部所属の、三島桂という。今回君が遭遇した殺人事件は、肆戸警察と機関が合同で捜査している連続殺人事件との関連が疑われている。機関から事情聴取に派遣されたのが私だ。この後、できれば事件について話が聞きたいが、喫茶店へ行く時間はあるか?」
 最初から、その説明が欲しかった。そう思いながら、一縷はその誘いに応じることにした。

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 どうして?
 どうしてまだ生きているの?

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Chapter04 ドッペルゲンガーのクオリア
 氷のような印象の三島桂に案内された喫茶店は、警察署から徒歩数分の位置にあった。喫茶店、雨宮。日本語の店名ばかり見るが、この島の喫茶店の主は外来語が嫌いなのだろうか。これまで一縷が見てきた喫茶店は、ほとんどが日本名である。マスターもほとんど日本人だ。まあ、外国との交流なんて式日以降めっきり減ってしまったので、そのせいもあるのかもしれないけれど。
 注文したオレンジジュースを口に含んで、一縷はじっと三島がコーヒーを啜る様を見つめた。
 店内には、会話の邪魔にはならないように配慮された音量で、重低音……ベースを主旋律としたジャズが流れている。しんしんとしていた。シューシューと耳にくすぐったく聞こえるのは別の客が注文したコーヒーをマスターが抽出する音。テーブルの上に置かれたグラスの影が揺らめくのは、天井に据えられた照明が仄かにちらついているからだ。深い森のような落ち着いてまとまった雰囲気だった。思い出すのは今日の昼の人間椅子である。思えば、まだすべて今日なのだ。濃い出来事ばかりで寿命が削れていく気がする。いいぞ。
 一縷はオレンジジュースを嚥下した。ああ、調和のとれた店内で、強いて言うなら、この酸っぱい味こそが、その調和を乱しているかもしれないなと思った。
 三島はカップの縁にくちびるをつけるだけで、なかなかコーヒーを飲まなかった。
 三島桂が所属する、方舟機関が何をするための組織なのか、一縷は詳しくは知らなかった。一縷の同級生だって、あるいは両親だって、それをよくは知らないだろうと思う。けれど一縷たちは、その名において封鎖されている偏執市場の地区や地下道を知っているし、その名において差し押さえられているビルも知っているし、その名において為されている研究だって、知っている。何をしているか知っているのに何をするために存在しているのかわからないところが一縷にとっては不気味であった。
 不気味なままで、知らないままで一縷たちの生活に何も支障はなかったし、それに、機関についてはどこか禁忌的な印象があったから。彼らが何をしていようと、聞いてはいけないと思っている。それはこの島に暮らす誰もが同じだろうと思う。誰も知らないのだ。誰も知ろうとしないのだ。それは興味が無いからか。関わってはいけないとどこかで薄々気づいているからか。
 その機関の幹部と、自分は喫茶店に居るのだと、そう考えると、すこしだけ背筋が冷たくなった。
 いつも一縷はこうだった。夜中に幽霊の存在についてひとりで深く考え込んで、背後に誰かの気配を感じる。
 かちゃ、とコーヒーカップがソーサーの上に戻された。それを目で追う。三島は一口も飲んでいないように見えた。
「さて」
 三島のその声に、一縷は顔を上げた。
「事実関係を確認したい。君が家を出てから死体を発見するまでのことを、順を追って全て教えてくれ」
 家を出てから?
 警察では、そこまで遡っては聞かれなかった。一縷は僅かに戸惑った。一度オレンジジュースを飲み下す。
 しかし、そう――特に、拒む理由はない。
 そして、ゆっくりと記憶の糸をたぐっていった。目を伏せる。
「まず、家の鍵をかけました」
 ちらりと三島を伺うと、彼女はじっと聞く姿勢のままだったので、一縷は話し続けることにした。
「ポケットの中の鍵をいじりながらマンションのエレベーターに乗って、一階へ降りました。一緒にエレベーターに乗った人は居ませんでした。それからマンションのロビー、玄関を順番に抜けて、通りに出ました」
 一縷は再び目を伏せる。そう、あの時も、いつもそうするように、ポケットの中で携帯を握っていた。
「住んでいるマンションは秋椿通りにあります。秋椿十字で路電に乗って、紫陽花通りで降りて、そのまま潜坂のスクランブル交差点を歩いて、偏執市場のパラノイドまで行きました」
 依頼人との話は承諾を得て省略させて貰った。
「パラノイドからの帰りは、来た時と同じ道を辿るつもりでした。潜坂の大通りを再び渡って、紫陽花通りまで行く途中、路地を歩いている最中に、ちょっとした誘拐未遂に遭いました」
「……何?」
 三島は眉を顰めた。
「どういうことだ?」
 軽く流していたが、そういえばこれも大事だ。
「ああ――何だったんでしょうね、あれは。紫陽花通りの近くで、白いワゴン車に連れ込まれかけました。窓を割って外からドアを開けて脱出したんですが――」
「どういった件でだ?」
 まるで一縷の側に心当たりがあるかのような言い方はやめてもらいたい。
「わかりません。そもそも、その男とは初対面で」
 ずきん、と再び頭が痛んだ。ぴくりと右の眉が痙攣する。なんだ?
「本当に心当たりは無いのか」
「……?」
 いやに疑われるので、思わず三島の顔を見つめると、彼女は一度首を振った。
「――すまない。どうにも、先入観がある。君が紫機流に似ているので、予断を入れてしまうようだ」
 三島は相変わらずの渋い顔で、コーヒーを啜った。
「え――」
 一縷は僅かに目を見開いた。
「紫機を、叔母をご存知なんですか?」
「高校の時に同級だった。話を脱線させて申し訳ない。続きを聞かせてくれ」
 ――紫機流の通っていた高校はエスプレッソのような濃度だったようだ。
 しかし、一縷はそこで少し言葉に詰まった。葛の外見について話そうとしていたのだが、葛が着ていた白いワンピースのデザインについてはよく覚えていないことに気がついたのだった。長袖だったことだけは覚えている。どうでもいいこと。代わりに、髪についてはよく覚えていた。前髪は綺麗に揃っていて、前下がりのボブカット。後ろ髪はうなじの辺りで切ったものがすこし伸びたような髪型だった。
「苑宮葛さんは何かから逃げてきたように右の路地から飛び出してきたので、初めは誰かに追いかけられているのかなと思いました。けれど彼女は私にぶつかって、ほっとしたような表情をしたので、追われているわけではないと思いました」
「それは何故?」
「私がもし追われる身だったとしたら、誰とも知れない人にぶつかって安心はしません。むしろ、更に怖がります。追手が一人だとは限らないので。掴まったのだと勘違いします。けれど彼女はそうではなかったので、違うと思いました」
「なるほど。それで?」
「彼女は私の顔を見て声を掛ける人を間違ったと思ったのか、辺りを見回しました。私もイヤフォンを外しつつ同じ事をしましたが、周囲に人はひとりも居ませんでした」
「音楽を聴いていたのか」
「はい」
「音楽を聴いている時、周囲の音はどの程度聞こえる?」
「あの時は、人の声がすこし聞き取りづらいくらいの音量でした。車も、アナログタイプのものやバスでなければ気づきづらいかな……」
「なるほど、わかった」
「はい。苑宮葛さんは、人が死んでいますと言いました。私はそれはどこでと聞きました。彼女は今自分が出てきた路地裏でだと言いました。他に人は居なかったようです。だから、急いで誰かに知らせようと思って走っていたのかなと思います。これは推測です」
「ふむ」
「そして、私は右手にあった細い路地に入っていきました。光が届いていませんでした。目に慣れたころ、まず最初に人が倒れていることがわかりました。路地に入るまでは、本当に人が死んでいるのかどうか、つまり、先に通報すべきは警察なのか救急なのかを判断しようと思っていましたが、胸にナイフが刺さっていること、目が見開かれていて、瞬きを一切していないことを見て、死んでいると思いました。そして、その場で警察に通報をしました。通報が終わってから通りへ戻ると、苑宮葛さんは居なくなっていました」
 そして、警察が来るまでその場で待ち、警察と一緒に警察署へ行き、そして、今です。
 一縷がそう言うと、三島は数秒黙ってから、頷いた。
「なるほど。……大変わかりやすかった」
 三島はコーヒーカップを持ち上げた。そして、目を瞑って、一口啜る。それを見て、一縷もテーブルの上のグラスを持ち上げた。それは結露していて、水滴が一縷の指についた。オレンジジュースが入ったグラスの水滴なのに、オレンジ色じゃないのはどうしてだろう、と考えた。
「……とても助かった。協力、感謝するよ、一条一縷。この後も何か話を聞くかもしれないので、連絡先を控えておきたいのだが、構わないだろうか」
「あ、はい、大丈夫です」
 これで終わりなのか。そう思いながら、一縷は携帯をパーカーのポケットから取り出した。数回のタップを繰り返して、アドレスを表示させる。それを三島に向けて、テーブルの上に滑らせた。
 三島はそれを自分の携帯でスキャニングした。
「ありがとう。……さて、これは言おうかどうか悩んでいたのだが、君の話は整然としていて大変聞きやすかったので、伝えることにしようと思う」
「え? あ、ああ、はい、ありがとうございます……?」
「戸籍を照合したところ、苑宮葛という人間は存在しない」
「は……え?」
「もう一度言う。苑宮葛という人間は、存在しない。正確に言えば、”苑宮葛の戸籍”が、存在していない。警察の事情聴取の調書が回ってきてから数時間、機関内では第一発見者の少女が実在しているかどうかという議論が為されていたのだが、話を聞いた私は、論点がそこではないことを確信した。だから話した。まあ、君が香屋埜ジンの店で働いており、一条紫機流の姪である以上、どのみちこの情報は君のところへ行くと判断したから、でもあるが」
「いや、いくら紫機でも機密情報は漏らしたり……」
 しそうである。
 一縷は閉口した。
「ああ、これは雑談だが。ドッペルゲンガーというものを知っているか?」
「ドッペルゲンガーですか? あの、会えば死ぬとかいう」
「そうだ。それが、最近肆戸島に出るらしい。偏執だった場合は私達がとどめを刺すが、そうじゃない場合気をつけるといい。確か香屋埜がこういう話が好きだったから、土産だ」
 三島はスーツの襟を直した。
 携帯をしまいながら、テーブルの上の伝票を持ち、代わりにそこに名刺を置いた。
「それでは、一条一縷、捜査に協力してくれて本当に感謝している。またそのうちに会おう」
 あ、はい、また……。
 そうとしか言えない一縷を残して、三島は颯爽と歩いていった。
 存在しない……?
 人が殺されている現場で本名を名乗らないなんてことがあるか?
 一縷は、無意識のままテーブルの上のグラスを持って、口を付けた。そして、啜ったオレンジジュースが気管に入って、盛大に咽せた。
 喉がやけつく。
 ――あの女の子、偏執でも入っていたのかな?
 そう思いながら、一縷はオレンジの香りに咳き込んだ。

/*== ==*/

 探し屋パラノイドに入って、一縷は香屋埜に声をかけた。
「お疲れさまです」
「ああ、一縷くん、お疲れ様。桂と会ってきたんだって? 疲れただろう」
「ええ、まあ、少し」
「彼女は尋問みたいな話し方をするからねえ」
「ええ、まさに。そう言えば、香屋埜さん、ドッペルゲンガーの噂って知ってますか?」
「ほう。知らないな」
 あれ? なんだか既視感があるなと思いつつも話を続ける
「なんだか、出るらしいんですよ、最近。ドッペルゲンガー」
「ふうん、一縷くん」
 嫌な予感。
「ちょっと調べてきてくれたまえ」
「いや」
「特別手当」
「はい」
 ああ、また藪蛇だ。
「今日は疲れただろうし上がっていいよ。明日から調査を始めてくれたまえ」
「はい……」

/*== ==*/

「ちる姉!」
「ああ、万里。悪いね、呼び出したりして」
「いや全然! どうしたの? どっか遊びに行くの?」
「バイトだ」
 そう言うと、従兄弟である二つ年下の一条万里はがくっと肩を落とした気がした。久々に呼び出した彼は一縷に憧れを抱いているらしく、呼べばすぐ来る。その習性をいつも便利に使わせてもらっている。
「どこ行くの?」
「情報屋のところだよ」

 偏執市場山城の一角にある薄暗い店に、一縷と万里は足を踏み入れた。
「おや? おやおやぁ珍しい、一条さん家の一縷さんじゃないですか。最近なかなか来てくれないから寂しく思ってたんですよ」
 情報屋の秋赤音はセーラー服のスカーフを結び直しながらそう言った。前下がりのボブカットが葛を彷彿とさせたがその考えは振り切る。
「お前が求める対価が私向きじゃないんだよ」
「それは仕方のないことですよねえ。今日は何の情報を買いに?」
「ドッペルゲンガー」
「ふむ。それについてはあまり魅力的な情報は提供できそうにありませんねえ」
「いいよ。あるだけで」
「ふむ。それでは――」
 赤音の話をまとめると、こうだった。同じ時間帯に同じ人間が違う場所で目撃されている。その目撃情報は赤音が知っている限り三十二人。日に日に増えていっている。對偏執部隊が動いているが、目立った成果はなし。ドッペルゲンガーと思しき個体は本人と視線を交わすと消える。
「視線を交わすと消える……?」
「さあ、考察をするのは情報屋の仕事じゃないですからね」
 土地神に存在を許されていないのだろうか。
 この島(正確に言うと、土地神の結界領域内、だが)では土地神に許されていなければ存在することができない。自分の輪郭を保っていられないのだ。とすればこの怪奇現象は偏執とは違うなにかが原因なのかもしれない。偏執は土地神の力によって成立している異形だから、彼らは存在を許されているのだ。
 ナイトブラッド・ヴァンパイアである白夜のように、ドッペルゲンガーというばけものが新たに島の仲間に加わったのだろうか?
「さて、対価は? 一縷さん」
 一縷は親指でピッと万里を指差した。
「え?」
「労働力。二時間分好きに使っていい」
「え?」
「三時間ですね」
「オーケー、呑もう」
「商談成立です。いやあ助かりますねえ、先日大量の紙の本を買い付けたので運搬役が欲しかったんですよ」
「じゃあ万里、そういうことだから頑張って。万里へのバイト代は別で払うから」
「ちる姉……」
「じゃっ、頑張れ」
 スケープゴートの肩をぽんと叩いて、一縷は店を出た。
 そして、ふと左を向くと――そこには、右側の前髪だけが長い黒髪の美人が立っていた。黒いノースリーブのパーカー。黒のデニム。
 直後、その存在が掻き消える。
 無表情のそれはきっといわゆるドッペルゲンガー。体験してしまった。死ぬかな。
 死ぬときは目を開けていたい。
 数秒待ったが、そのときは訪れなかった。なんだか対消滅みたいだなと思った。だとしたらここに居る一縷は新たに発生した一縷なのだろうか?
 無重力にいるみたいな気分で一縷はその場をあとにした。

 その後諫名に電話してドッペルゲンガーの話をして、たしかにそんな存在は許していないわ、との言質が取れた。
 だから本物と出会ってしまったら許されていないほうが消えるのだろう。
 否、残ったほうが本物になるのだろう。
 実は、消えたほうが本物だったのかもしれない。
 消えたドッペルゲンガーには意識があったのだろうか。人工知能には意思が発生するか、クオリアと絡めた研究テーマがいつだったか存在したな、と思い出した。
 香屋埜へ報告に行こう、と一縷は万里の唸り声を背に探し屋パラノイドへと向かった。

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Chapter05 苑宮葛のモラトリアム
「宗主さま」
 呼ばれて、苑宮葛は思案の海から浮上した。
 窓際のティーテーブルで読書しながら考え込んでしまったようだ。議題は勿論、一条一縷という存在について。
「昼食の時間です」
「今日はいらないわ」
「いいえ、摂っていただかなければ困ります」
「はぁ……仕方ない」
 一条一縷は生きていた。否、その可能性も考えていなかったわけではない。しかし、あんな風になっているとは思ってもみなかったのだ。
 好機でもある。
 誕生日まであと数日。私が一条一縷になるまで、あと数日なのだ。一条紫機流博士から論文の返事が来れば、条件は揃う。
 信徒の顔をひとりひとり見る。そして確信する。やはり彼女に近づける――なれる存在は自分しかいないと。
 少女戒律。この宗教団体にその名をつけたのは自分だったが、真に少女で在れたのは自分だけだという確固たる自信があった。
 その日を待てずに飛んでしまった子たちは教義が理解できていなかったのだろう。
「皆さん、今日も美しく賢い少女でありましょう。美しくないものに価値などないのだから」

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Chapter06 アイデンティティを殺してみせて
「来てやったぞ、画伯」
 コンクリート造りのギャラリーで、奥にいるであろう画伯に向かって奏済織加は声をかけた。すると、もそもそとぼさぼさの傷んだ白髪を後頭部でちょんと結んでいる青年が奥から出てきた。
「ああ……えっと、奏済くん。ありがとう」
 今日は知人の青年に絵の販売会の受付をお願いしたのであった。彼も絵を描くが、少々特殊なものばかりだった。偏執狂のひとりである。
「名字は好きじゃない」
「織加くん」
「それで? 何を手伝えって?」
「受付をやって欲しいんだ。僕は人が得意じゃないから奥に居る」
「面倒な……人が来てないときは本でも読んでるからな」
「それでいいよ」

 人が来ては去ってゆき、それを眺めながらぼへーっと座っていた剥離の前に、老紳士が訪れた。
「この絵を描いたのはあなたかね?」
「はい」
「この遊園地の絵はいくらで売ってくれる?」
「ああ、売る用の絵は別の部屋なんです。こっち側のは展示だけ」
「おや、既に買い手が?」
「いや、こっち側のは、ただ一人のためだけに描いたものだから」
 画伯――霧島剥離は、少し切なげにそう呟いた。

/*== ==*/

 夢を見た。
 内容は定かではないが、まだ一縷が入院していた頃の夢だった。
 乱れていたキャミソールを直しながら起き上がった。
 起動にはコーヒーが至急要り用だ。
 髪の解れを直しながら、ベッドから降りる。それを感知して直方体の四足歩行ペットロボット【ヰドラ】が充電器から起き上がってかしょんかしょんと近づいてきた。
「おはよ いちる」
「おはよう、ヰドラ」
「現在時刻は 十二時 五分」
「少し寝過ぎたかな」
 昨日眠ったのは二十二時頃だった気がする。
「おそよう」
「そんな言葉、どこのネットで拾ってきたんだ?」
 苦笑しながら、リビングに移動する。ヰドラも着いてきた。今日も叔母の紫機流は帰っていないようだった。まあいつものこと。
 電気式湯沸かし器でお湯を沸騰させ、その隙に用意していたインスタント・コーヒーの粉入りのタンブラーに注ぎ、立ったままそれを口にする。
 脳髄にカフェインが染み渡る感覚があった。
 これが起床というものである。
 コーヒーは一旦テーブルに置いて、リビングの床に放置されている段ボール箱からカロリーバーを、冷蔵庫からは紙パックの野菜ジュースをそれぞれ取り出して椅子に座る。
 朝食はいつもこれだった。
 フルーツ味の直方体を齧り、よく噛んで飲み込む。
 幸運なことにこの一縷の食生活を叱る人間は身近に存在しなかった。

 今日は特に予定も入っていなかったので、偏執市場のゲームセンターに行こうかと街に繰り出した。
 一縷の住む家から偏執市場までは電車で行くことになる。
 駅で待っていると、南北線の路電が丁度来た。
 乗り込むと、「あれっ」と声がした。
「一縷!」
 振り返ると茶髪の青年が手を振っていた。
 親戚の何でも屋、一条善紀である。
「ヨキ」
 二人がけの隣の席が空いていたのでそこに座った。
「バイト行くとこ?」
「いや、暇だからゲーセン行くとこ」
「ラッキー! 丁度いいじゃん、付き合ってよ。お前んとこから回された眼球抉り事件、どうにも面倒なんだよね。二つ事件が重なってる」
「じゃあ巻き込まないでくれない?」
「お宅さんのおかげで巻き込まれてんのはオレの方」
 一縷はぐっ、と詰まってからため息をついた。
「今日一日だけだからな」
 店長め。
「オーケーオーケー。その頭脳をふんだんに生かしてもらいましょうか」
「それは期待しないでくれる。もう凡人なんで」
「お前が凡人? 世界最高峰のギフテッドが何を」
「ヨキ、何度も言うけどその話はおしまい。私は天才を引退したんだよ」
「ま、天才の名残でも残滓でも結構。オレよりはよっぽど頭が働くからね。それに言っといてなんだけど今回は頭なんか使わなくてもいいかもだし」
「頭を使わなくていい?」
 偏執市場に着くまでに、ヨキから聞き出せたことをまとめると、このようなことだった。
 眼球が抉られている事件は二パターンに分けられるということ。
 まず、襲われて気絶しているうちに眼球を抉られるパターン。これは両目が抉られている。恐らく今回の事件の被害者はそちらだということ。
 もう一つのパターンでは、必ず高所からの飛び降りの後に眼球が抉られているということ。それは必ず右目であるということ。

 そして、そのどれも被害者が少女であるということ。

「天才じゃなくてもお前にぴったりの事件だろ?」
 少女に拘りを持つ一縷に対する皮肉だった。
「……言うじゃないか」
 一縷はそっと右眼に手を当てた。
 ドールアイの嵌ったその右眼に。一縷の少女性を保っているその右眼に。
 一縷はもう少女ではない。
 だけど女でもない。
 だったら一縷は何なんだ?
 電車から降りて、ヨキに着いて歩き始める。
「で、今日は何を調べるんだ」
「それは勿論前者だけど。二つ目の方、飛び降りをした少女には共通点があるっぽくてさ。みんな【少女戒律】っていうカルト教団にハマってる。少女であることに最大の価値を見出し、少女じゃなくなったら死ぬみたいな教義の」
 昨日の少女死体の目の黒い色や片方の眼窩から流れ出すどろりとした血液が思い出された。
 それに、柿崎氏を案内した日に遭遇した投身自殺のことも思い出された。
 私のように。
 右眼を押さえる力が強まる。
「模倣犯だ」
「何の?」
「私の。しかも不完全な」
「やっぱりそうか。似過ぎてるもんな」
「腹が立つな」
 一縷の胸の内でじり、と何かが焼けついた。
 自尊心?
 いや、もっと単純な――怒り。
 自殺に対する怒り。そして、それを辱めるようなナイフへの怒り。
「真似をするなら、もっと……否、何でもない。それで、今私たちはどこへ向かっているんだ」
「一個目の事件の犯人のところ」
「もう分かってるのか。じゃあ私が居なくてもいいだろ。解散」
「いやいや、一縷様には囮になっていただこうかと」
「……は?」

 一縷は偏執市場の中でも人気のない細い路地にぽつんと立っていた。
 ここに立ってればいいから! とヨキに半ば強引に立たされ、早十分程度が経過した。
「おい、ヨキ。何もないぞ」
 痺れを切らして一縷が言えば、ヨキにしっと黙らされた。
「向こうが一縷を搜してるんだ。黙ってれば寄ってくる」
 すると。
 路地に影が差した。
 そちらを振り返ると、一人の男性が立っていた。
 一縷からは逆光でよく見えない。
 目を眇めると、その男性は早足で一縷に近づいてきて、一縷の目の前で立ち尽くした。
「……あの」
「一条一縷博士ですね」
 博士号は持っているので間違いではない。
「丁度ストックが溜まったところだったんです」
「ストック……?」
 目の前の男性は淡々と一縷に話しかけた。
「いつまでも義眼ではお嫌でしょう。集めておきましたから、お気に召すものを使ってください」
「は?」
「お慕いしておりました、一条博士」
 男性はその場で跪いた。
「ああ……すみません。そういうの、受け付けてないんで」
「一条博士はもともと黒目であらせられたので、その方が良いかと思いましたが、色々と取り揃えましたので」
 男性は両手を捧げるように前に出した。その手のひらからぼろぼろと瞳孔の色が違う眼球が転がり出てくる。
「ほら、一条博士。貴方のために集めた目です。ご入用でしょう?」
 頼んでねえ。
 というか、やはり偏執狂か。
 なるほど、こういうタイプの犯人だったか。
 遠回しに自分が原因であった事実にげんなりしながら、一縷は口を開いた。
「じゃあ、集めたもの全部見せてもらおうか」
「はい、すぐに」
 男の両手から眼球がぼろぼろとこぼれ落ちる。一体何件犯ってきたんだ。
 キリが見えたところで、ヨキが男性の背後から飛び出してきて首筋に改造スタンガンを当てた。完全に不意を突かれた男性は濁った悲鳴をあげて倒れ込む。その隙にヨキは手首を纏めて縛り上げ、一息ついた。
「一人目の犯人、しゅうりょ~」
 ヨキは一縷にハイタッチしにやって来た。応じずに男性と転がっている目玉達を見下ろす。
「本人の元に返せるだろうか」
「まあ難しいだろうね」
「そうか。だろうな」

「どうする? このまま少女戒律まで行く?」
 ヨキはそう尋ねた。
「いや、私には関わりのないことだから」
「一縷はさ、今の自分の何が嫌いでそんな風でいんの?」
「顔以外全部だよ」
「勿体ねーな」
 香屋埜にも同じことを言われたな、と思い出す。
「勿体ないのかな」
「オレはそう思うけど」
「そうか」
「なんかさ、お前って人工知能に限らなくてももっとさ、何かもっとやろうとしたらできるやつだと思うんだよな。それをしないのが見ててなんかムズムズする」
「珍しいな、ヨキ。お前がそんなこと言うなんて」
 でも、一縷の余生はこんなもので構わないのだ。
 もう人を死なせたくない。
 かつて一縷が天才と呼ばれていた頃、開発した人工知能がある。
 【偶像】と呼ばれたその人工知能は技術的には大したことのないプログラムだった。
 自分の思考回路をコピィしてバックアップを取れるようになるシステム。これでみんなが安心できると考えたのだ。
 しかし、百余人のギフテッド達はそのソフトウェアに触れた翌日に死んだ。
 "もう自分は必要がない"と考えたらしい。
 一縷はショックを受けた。
 だってあなた達は人間なのに。機械なんかじゃなかったのに。必要かどうかなんて、未来は不確定で、そんな不定なことを原因に――
「――もう、懲り懲りだ」
「……まあ、とりあえず対偏執部隊を呼ぶか。依頼人の眼球が取り戻せるかは向こう次第だな」
「私はここで失礼するよ。ゲーセン行きたいし、給料の出ない労働したくないし」
「うわっ、ニート」
「うるさい、誤用すんな気持ち悪い」

/*== ==*/

 ヘッドフォンをして音ゲーをするが、どうもミスが頻発する。舌打ちをしてヘッドフォンを外すと、右手側からいやに明瞭な声がした。
「思い上がっているんじゃあありません?」
 ぱっとそちら側を向く。すると、そこには苑宮葛が立っていた。艶のある黒髪。ボブカット。長袖の白いワンピース。意表を突かれながらも、声を掛ける。
「……葛ちゃん」
「こんにちは、一条一縷博士。昨日はご挨拶もろくにできずに居なくなってしまってすみませんでした」
「ああ、いや。あんなことがあったんだから、仕方ないよ」
「そうですか?」
 なんだか昨日と感じが違うなと思いながら、一縷はヘッドフォンの接続を外した。指輪を次々に嵌めて、フル装備になる。
「そんなに指輪を嵌めたら、キーボードが打てなくなるんじゃありませんか?」
「打つときは外すよ」
 あれ、私はこの子にキーボードを日常的に使う仕事だと説明したっけ。
 していない。
 まあ、一条一縷を元から知っていたなら不思議ではないか。
「葛ちゃん、お茶でも飲みに行こうか」

/*== ==*/

「わたし、一条一縷博士がもう死んでしまっているものだと勘違いしていたんです」
 ポットで頼んだジャスミンティーがテーブルに届く頃、苑宮葛はそう言った。
「だから、昨日は本当に驚いた」
「ああ、まあ……飛び降りたことは報道されたけど、生きてたことは報道されなかったらしいからね」
 葛はカップに注がれたジャスミンティーを飲もうとして、熱、と舌を引っ込めた。
 一縷は熱いコーヒーを一口啜る。
 グァテマラの香りが鼻に抜けて心地良かった。
「葛ちゃん、なんで今日はゲーセンに居たの?」
「一条博士の――」
「一縷でいいよ。いま博士らしいこと何もしてないから」
「――一縷さんの、居るところを探して。張ってました」
「確度の高い張りだったね」
「はい。わたし、天才なので」
 一縷はその言葉に、少し思考を止めた。
 コーヒーの湯気が口ピアスに付着する。
 一口啜る。
「天才か。じゃあ私に関わらない方がいいかもしれないね」
「どうして?」
「私はもう天才ではないし、今の天才にかける言葉も特に持ち合わせてはいないから」
「どうしてですか?」
「何が?」
「それじゃあ、どうして生きているんですか?」
 カシャン、とコーヒーカップがソーサーに当たる音がした。
 尖った陽光が差し込んで透明なジャスミンティーのポットを照らす。
 改めて、一縷は苑宮葛を見た。
 黒髪の艶めく、十三、四歳の、自らを天才と称して憚らない美しい少女を、見た。
「少女でも天才でも居られなくなったあなたに、生きている価値はあるんですか?」
 一縷は再びコーヒーに口をつけて、それから溜息をついた。

/*== ==*/

 その日の夜中、一縷は久々に吐いた。

 あの後は何事もなかったかのように軽い雑談をして、会計は一縷が持って解散した。
 ぐるぐると葛の言葉が脳裏でとぐろを巻く。
 なぜ生きているか? なぜ生きているかだって? そんなこと、私が一番知りたいよ。
 その言葉を突きつけられたのが年下の少女からだということもダメージを増やしていた。可能性が、選択肢が、まだ残されている存在からの言葉。
 私は死んだ。
 一条一縷は死んだのだ。 
 私は死んだはずなのに、なぜまだ心臓が動いている? 呼吸をしている? 砕けた頬骨は滑らかな人工骨に、潰れた眼球はドールアイに代わって。
 矛盾。
 気持ちが悪い。
 そこまでしてなぜ身体は生存したんだ。
 計画に不足があったから。
 計画も立てられないほどあの時の一縷は頭の悪い世界に絶望していたのだ。
「いちる ぐあい わるい?」
「ヰドラ……」
 四足歩行のロボットに縋りつく。一縷のバックアップは取らないように設定してある。
 紫機流が帰ってこなくてよかった。
 ベランダに出てみようか。
 否、止めよう。
 どうせ飛べやしないのだ。

 十二年前の自分がそれを証明しているのだから。

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Chapter07 7,14,17,19、あとはさよなら

 白い壁。
 白い天井。
 白いシーツ。
 白い椅子。

 医師から、説明を聞いた。
 右眼は全損。右頬の骨の一部が粉々に砕けて、今は人工の骨を入れている。右眼に入れる義眼は特別に綺麗なものが用意された。
 しばらくのあいだは包帯が取れないが、それは我慢してくださいと言われた。
「我慢する必要は特にありません」
 私は答えた。特に気にならなかったからだ。もう私は自殺を遂げたのだから、外見に拘る必要はない。
 脳、及び胴体の破損は無し。しかし右手はしばらくのあいだ感覚が無いようだ。それも気にならなかった。
 身体は動いた。
 死のうと思って死んだはずなのに動いているなんて、こんなに不思議な事が自分に起こるなんて、夢にも思っていなかった。
 つまり、失敗したのだ。
 失敗することがあるなんてなあ。
 知らない窓を眺めながら、私は修正案を考えた。
 七階から落ちて失敗するとは思わなかった、衝動で何も考えていなかったからだ。きっとそう。
 性格が少し変質している気がした。
 飛び降りの後遺症なのか、それとも防衛本能なのか――
 そこに思想が至ったとき、部屋の入り口に人の気配を感じた。

/*== ==*/

 夢を見た。
 それが夢だということはすぐに分かった。記憶の再生だったからだ。
「また吐きそう……」
 地獄の底から出たような声でぼそりと呟いて、一縷は寝返りを打った。
 部屋の入口に立っていたのが誰だったのか、どうにも思い出せないのが気持ち悪かった。寝直したら続きが見られるだろうか、と目を瞑って数分待つが、どうにも眠りの気配は訪れなかったので諦めてベッドから降りた。
 汗をかいていたので着替える。ノースリーブの黒ブラウスとスキニーパンツに身を包み、ふと葛ちゃんが長袖だったのはなぜだろうかと考えた。
 その手首を隠すため?
 久々に思考が飛躍した。抑えなければ、と思いつつ駆け寄ってきたヰドラに触れる。
 だとしたら何だ。救われもしない。誰も。
「いちる おはよう」
「おはよう、ヰドラ」
「現在時刻 十時 二十五分」
「昨日よりは早起きだ」
 リビングに出て、コーヒーを飲む。
 今日は朝食はいいや。
 一縷は飲み終わったタンブラーを台所のシンクに置いて、ヰドラにもどれの指令を出した。
 携帯端末をポケットに入れて、イヤフォンを耳につける。
 音楽をかける気力もなかった。

 秋椿十字公園でじんわり汗をかきながらぼうっとしていると、背後から目を隠された。
「よお」
 その腕を振り払いながら、一縷はイヤフォンを外した。
「なんだよ、ヨキ」
 ベンチの後ろに立っていたのは昨日ぶりのヨキだった。
「何してんの?」
「いや、お前が何してんの……」
「美容院行こうと思ったら今日休みだったからヒマしてるとこ」
「ああ……」
 私達の業種はしばしば曜日を見失いがちだった。
「一縷は?」
「んー……あのさ、ヨキはなんで生きてんの」
「ごめんそんなに嫌だった?」
「何が?」
「目隠すの」
「いや、別にそこまで……すぐにヨキだってわかったし」
「じゃあ何でそんな心抉る質問してくんの」
 ヨキはベンチを回り込んで隣に座った。
「何かあったん? あのあと」
「やっぱり心抉られるよなあ」
「あ、お前が聞かれたの?」
「そう」
 一縷は空を見上げた。雲の一つもない空だった。
「私は何で生きてるんだ?」
「普通そんなこと考えて生きてねーよ、人間」
「そうなの?」
「そうだって。お前、天才やめたんだろ。考えるのやめれば?」
 ああ、そうか。
 考えるのをやめればいいのか。
 一縷は立ち上がった。
「ヨキ、ラーメン食べに行こうぜ」
「立ち直りが早えなあ」

 少女ではなくなったのはいつのことだろう。入院中であったことは確かだ。入院中は様々なことが削られた。あるいは、添加された。普通の人間らしくなれるように。
 しかしそのどれもが余分で余計で、一縷本来のシャープな思考回路が鈍ってしまった。
 考えるのをやめようと思ってやめられることだって、最近の一縷にはできないことだった。一時的にならともかく。
 切り替えのスイッチがあるだけ。
 それは時限式で、いつの間にかまた元に戻っているのだった。
 ヨキとラーメンを食べ終わって、一緒に歩きながら一縷はまたぼうっとしていた。
「なんか根が深そうだな」
「何が?」
「お前が生きている理由?」
「うん、まあね」
 仮にも一度飛び降りた身だ。
「生きている理由というか、死んでいない理由かな」
 それなら少しは思いつく。
 アルバイトをしていること。紫機流への義理。ヰドラの存在。
 ――そのくらいか。
 自分を繋ぎ止める糸は存外少ないものだ、と思った。
 その時、目の前にふっと少女が現れた。
 揺れる黒髪。
 苑宮葛である。
 既に痛くなってきた胃を擦りながら、一縷は微笑んだ。
「こんにちは、葛ちゃん」
「こんにちは、一縷さん」
 葛はヨキに軽く目を遣って、尋ねてきた。
「恋人さんですか?」
「親戚だよ。そこまで落ちてない」
「そうですか、良かった」
 夏の風が目の前の美少女を撫でる。
「それで、生きている意味は見つかりましたか?」
「さあ……有ったとしても、言わないかもね」
「そんな意地悪しないでください」
 死活問題なんです、と葛は言った。
「誰の?」
「わたしの」
「ところで、どうしてこんなところにいるの? 葛ちゃん」
「勘です」
「よく当たる勘だな……」
 一縷はヨキに葛を紹介した。
「こちら、苑宮葛ちゃん。先日死体を一緒に目撃した仲」
「どんな仲だよ。よろしく、葛ちゃん」
「どうも、よろしくお願いいたします」
 葛はヨキに向かって軽くお辞儀をした。
「早く、答えを出してくださいね。一縷さん」
「うーん……」
 一縷は曖昧に微笑んだ。答えを出す気は特に無かった。それよりも、腹の底でとぐろを巻くおどろおどろしい感情をどうにかしたくていっぱいだった。
 考えるのをやめるのはやはり今の自分には難しいらしい。
 この苑宮葛という少女が、若く美しく賢い限り、一縷の脳は劣等感に苛まれ続けるだろう。
「あ、やっぱりそうだ! 一条一縷博士ですよね?」
 不意に声をかけられた。
 振り返ると、そこにはヨキと同じくらいの年の青年が立っていた。
「サインください! ファンなんです」
 柿崎氏が思い出されて思わず苦笑する。
「サイン? いや、もうそんな大層な者じゃないから」
「大層な方ですよ! 俺が人工知能の道を志したのも一条博士の影響です」
「うーん……」
「お願いします、昔はサイン本買えなかったんです。式日以降はオークションでも見かけなくなってしまったし……」
「……何に書けば?」
「ありがとうございます!」
 サインペンを渡されて、ノートに軽くサインを書いた。
「一生の宝ものにしますね! 肆戸島に来てよかった、ありがとうございました」
 そんな家宝にするような価値のあるものではないのに。
 一縷はため息を吐いた。
「やっぱり、一縷さんは天才をやめるべきではなかった」
 葛はどこか遠くそう言った。
「そんなことはないよ」
「どうして天才を辞めたんですか?」
「正確に言えば、辞めたわけじゃない。辞めようと思って辞められるものじゃないからね、脳の問題だし。少しずつ鈍らせて、頭の領域を使わなくなっただけ。理由は……秘密」
「……そうですか」
「でも、今の私が天才と呼べるようなものじゃないのは本当。人格が断絶しているのも本当。もう鈍ってしまったからね」
 行こうか、ヨキ。
 声をかけて、一縷は葛に背を向けた。

/*== ==*/

「さっきの子?」
「ああ」
「偏執入ってんじゃねーの? 正面から受け止めるなよ」
「受け止めなくちゃいけないんだよ。後続の天才の言うことは」
 私が逃げた代償を払い続けている世代の子達だ。
「ただ、それはそれとして、ラーメン吐きそう」
「真剣に受け止めるからだって」
「ヨキ、なんかいい気晴らしを提案してくれ」
「はあ? ゲーセンとか?」
「昨日行った」
「あ、じゃあ肆戸大祭の準備手伝いに行かねえ? 白夜公と、運が良ければ諌名御前が居るはずだぜ」
「ああ、白夜はともかく諌名には会いたいな……行こうか」
 偏執狂が蔓延るこの島で、白夜の存在は異色であった。彼の気の向きようによっては島の一角が吹き飛ばされてもおかしくない、爆弾のような存在であるのに、ふらふらとそのへんを歩いていたりする。
 その彼を制御できるのは、この島の土地神本人である諌名しかいない。
 その諫名の数少ない友人のうちに数えられているのが一縷である。

 今日は夏用の黒い訪問着を身につけていた彼女は、相変わらず見ていて不安になるほどの美しさだった。一縷も外見には自信があるが、それでもこの神と比べられるのは御免である。
 大きな黒い瞳が一縷を捉える。
 彼女は日傘をさして、立ち上がった。
「一縷ちゃん」
 消え入りそうな声で名を呼ばれて、一縷は片手をひらりと振った。

 働く青年達を横目に拝殿の縁側で涼みながら、一縷はこれまでのことを諌名に話した。諫名の向こうに座る白夜とは特に仲がいいわけでもないので会話はしなかった。
「それで、一縷ちゃんは困っているのね」
「困っている……のかな。それも正直わからないんだ」
「人は神様のところに来るとき、わからないことを聞きに来たりしないわ。本当はわかっていることを確かめるために聞きに来るのよ」
 一縷は諌名の顔を見た。そこには長い睫毛に縁取られた深い黒の美しい瞳があるだけだった。
「五年も神様やってたらわかるもの?」
「毎日祈りが届くから」
 毎日他人の願いを聞くなんて神様は大変だ。
 毎日他人の期待を背負う天才みたいだ。そう思った。
 自分と諌名を友人たらしめているのはそんな共感からだったのかもしれない。
「ありがとう、諌名。少し楽になった気がする」
「何もしていないわ」
「話を聞いてくれただけで」
「神様ってそういうものよ」
 そう言って彼女は珍しいことに柔らかく笑った。
「或いは、友達もそうかも」
 一縷も微笑み返した。

/*== ==*/

 受信音が鳴ったので携帯端末を確認すると、秋赤音からだった。ドッペルゲンガーが一斉に全消失したらしい。對偏執部隊が仕事をしたのかな。
「胡蝶の夢――なんてな」
「んで、少しは楽になったかよ?」
 帰り道、ヨキはそう言った。
「ん? ああ、神様って偉大だな」
 少しは自分で考えないといけないけど、とつけ足す。
「考えないといけないことが分かっただけ――」
 言いかけて、一縷は立ち止まった。
 その視線は少し先のビルに釘付けられている。
 外付けの非常用階段の三階くらいに身を乗り出している、一人のセーラー服の少女に、釘付けられている。
「ヨキ、救急車を呼んで!」
 叫んで、全速力でダッシュ。階段を駆け上がる。鈍った体は思うように動かず、三階まで辿り着く頃には肩で息をしていた。
 少女が一縷と目を合わす。
 その目から涙が一粒流れ落ちた。
 泣くぐらいならどうして飛ぼうとする。
「七階までも行けなかった。わたし、オリジナルにはなれない」
 少女は言った。一縷は必死で返す。
「当たり前だ。ユニークであることが人間の有り様なのだから。君は既にオリジナルだよ」
「もう、わたしは十五歳になってしまった……」
「待て、」
「さようなら」
 それは別れの言葉。平常からの別れの言葉。
 ゆっくりと、重力に任せて背中から彼女は落ちていく。
 飛ぶことでしか得られない特別を、彼女は欲したのだろう。投身自殺なんてものが実は誰にでも選びうる日常の一環であるとも知らずに。純粋に、ただ、それが特別と信じて。
 階段にへたり込む。
 止められる気でいたのだろうか?
 ユニークであることが人間の有り様? 当たり前のことだ。コンピュータのほうが得意で、けれど人間のほうが優れているのはその部分。
 では人間と人間とを比べることは?
 ナンセンスなのだ。どうしてそれに気づけないのだろう。
 それは自分の心にも棘として刺さった。
 いつまでも葛や昔の自分との引き比べを止められない一縷が誰の何を止められるというのだ。
 一縷は自分で自分の頬を叩いた。
 叩いた部位がじんじんするだけで、何程の変化も感じられなかった。

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Chapter08 エフェメヰラ
 ふー、という溜息にも似た音と共に、彼女の唇から白い煙が吹き出された。その煙は、彼女の息の支配を逃れたものから空気にとけ込み、拡散してゆく。一縷はその煙が嫌いではなかったけれど、さすがにどうかと思った。彼女の名前は尾花と言う。一縷の数少ないバイト先のひとつ、雑貨屋16bit堂の店長である。
 あの少女は結果として一命を取り留めたものの、まだ意識は戻らないらしい。現場に一縷とヨキがいた事から、眼球刳りの被害に合うこともなかった。
 バイト代を出すから、個展の受付をやってくれないかと言われたのが、二日前のこと。数日のうちに何人もの投身を見て鬱屈していた一縷は二つ返事で了承した。
「店長、換気してください」
 ここは個展の会場だと言うのに、ロビーにタバコの煙が満ちているのはいかがなものかと思う。半地下になっているギャラリィで、一縷は昼からずっと受付の椅子に座り続けていた。それはアルバイトだから構わないのだけれど、隣に座る主催の尾花が始まってからずっと怪しげなタバコをぷすぷすやっているのだった。今日は個展の最終日であり、それもあと一時間ほど、午後六時になれば受け付けが終了してしまうのだ。それでいいのか、と一縷は思った。
 尾花は一縷の苦言に対して、シニカルに顔を歪めた。軽く傾げた首に合わせて、店長のショートカットの茶髪がさらりと揺れる。
「いいじゃないか、何かお前に迷惑をかけているか?」
「ええ、主に……副流煙が、私の肺にダイレクトアタック」
「そんなものがね、君、実際に君の体に害をもたらしていることを、どうやって実証するんだ? あ、この場でだ。人間ドックなどは無しに」
 一縷は軽く首を傾げた。
「店長、お客さんがこなくても構わないんですか?」
「ここに来る客は、このギャラリィのロビーに煙が立ちこめていることを知っていると思うか、一縷?」
「いえ……おそらく、知らないと思いますけれど」
 だから問題なのではないか、と一縷は思ったが、店長は重々しく頷いて、そうだろう、と言った。
「だから、問題ない。来場者は扉を開くまでここが紫煙の巣窟であることを知らないんだから、躊躇う要素は存在しない。我々は猫である、名前だって持っている。なあ一縷?」
「だから、問題があるんじゃないですか。扉を開いた来場者は一目でここが紫煙の巣窟だって理解しますよ。どうするんですか、非喫煙者または嫌猫者だったら、その場で回れ右ですよ。箱を開けたシュレディンガーに生きたまま蓋を閉められるなんて、笑えない」
「一縷、君、実は喫煙者放逐団体の斥候か何かだろう? 尖ってるな、厳しいぞ、私に」
 尾花がそう言った直後に、しゅん、と音を立てて入り口の自動ドアが開いた。室内に立ちこめていた煙がそちらへ流れていく。空気の流れの実験をしているかのようだと思った。紫機流が中学生だった頃の話を聞いた記憶がある。実験で使用する線香を彼女は授業中に十三本ほど折ったのだ。紫機流には線香を扱うための才能が無かったのだろうと思う。
 入り口に立っていたのは、スーツ姿の女性だった。一縷はその女性を知っている。つい最近のこと、パラノイドからの帰り道。死んだ人間を発見した後の事だった。
 方舟機関の、三島桂。
「あ……」
 腰を浮かせる。話を――もう一度、聞いてみたいと思っていたのだ。この数日間、一縷は葛と少女教団について、ずっと考えていたのだから。右側に座っていた店長を見ると、彼女はタバコを銜えたまま笑顔でひらひらと手を振っていた。知り合いのようだ。ひとまず落ち着いて、一縷は椅子に座り直した。
「久しぶりじゃないか、桂」
 三島はその言葉に応えるように一瞬だけ視線を揺らした。それから、こつ、こつ、とヒールの音を立てて階段を降りてくる。
「何だ、何で来たんだ、こんなとこ。仕事か?」
 店長は受付に乗り出している。随分と親しげな様子だった。三島も先日のような冷たい視線を引っ込めて、しかし淡々と応じている。
「来いと言っただろう。六日前に、メールで。今日は残業をあまりしないことにした。時間を空けてきたんだ」
 こつ、と足音が目の前で止まる。一縷は三島を見上げた。三島もこちらを見下ろした。軽い、視線の交換のあと、三島はすっと尾花の方へ視線を移した。
「換気しろ」
「なんだよ、一縷と同じこと言うじゃん。お前も煙草は呑む口だろうが」
「未成年者と非喫煙者が居る場所では吸わない」
 尾花は煙草を吸い込んだ。その目が何かを見定めるように細まる。三島はどこか面白がるような口調で続けた。
「私の記憶が正しければ、これはお前の持論だった気がするな、尾花」
「人間は矛盾する生き物だ。矛盾するために生きているのだと、私は思うね。お前だって自分が未成年の頃は吸ってたくせに」
 三島はくすっと笑った。一縷は大きく瞬きする。先日の事情聴取の時は冷たい人間だと思ったが、その笑顔はその印象を覆すような柔らかさがあった。
「お前が呑む理由を作るために吸ってただけだ」
 三島のその言葉を聞いて、尾花は盛大に溜息を吐き、灰皿にタバコを押しつけた。ぼそ、と、負け惜しみのように呟く。
「過冷却はもうやめたのか? そっちの方が似合ってるぞ、お前」
「生憎、もう凍った」
「ふぅん?」
「ああ」
「ふーん、相変わらずだな」
「私は相当前から相変わらずだよ」
 一縷にはわからない会話を終えて、尾花はあーあ、と呟いた。そして、おもむろに立ち上がって、受付のテーブルを回って、今し方三島が下ってきた階段を上った。ドアの隣のボタンをいくつか切り替え、換気扇を回したようだ。センサが尾花を感知して、白い自動ドアが数回開閉した。天井から、ごおおというファンが回る音が聞こえた。足下に涼風を感じる。天井の辺りにたまっていた煙が、吸い込まれるように排気されていった。いつしか紫機流に聞いたことがある、吸気と排気のシステムだ。どちらが吸気で、どちらが排気だろう。
 尾花は、ドアの横にひっそりと佇んでいた人の胸くらいの高さの看板を引きずってきた。それに、closetと書かれていることを一縷は知っている。もう閉める気なのか、この人は。
 尾花は振り返って、にやりと笑った。
「一縷、設営のときにお前はいなかっただろ。桂のついでに、見せてやるよ。学割だ」
 私の学割は不登校の学生にも適応されるからな。そう言って、尾花はけらけらと楽しそうに笑った。

/*== ==*/

 ロビーを抜けて、会場に入ると、一縷は自分が病棟の中にいるような錯覚を起こした。病院ではない。病棟だ。病院というのは、性質としては一時的である。訪れたものが経過する場所。しかし、病棟というのは、性質として、停滞している。診られるだけの場所だ。そこに時間は流れていない。一縷はそういう風に認識していた。
 ここはまるで病棟だった。
 見られるためにだけ存在している人形。けして変化してはいけないもの。変化しないことにこそ価値があるモノ。見る者によって価値の変わるモノ。それは一縷がかつての自分に求める何かと同じ気配がして、親近感を覚えた。それに惹かれる。その何かに。
 一縷は、こつりと響いた自分の足音を聞いて、自分が一歩踏み出したのだと知った。それは吸い寄せられるような感覚。美しいものへと歩み寄ってしまう。
 会場に入ってまず最初に目につくのは、がらんとした室内の中央で、赤色のソファに座っているひとりの少女だった。白いワンピースを着せられて、ざんぎりの黒髪は無造作に見える。そう、葛が丁度このような髪型をしていた、と思い、目を細める。その人形は目を瞑っていた。口元は僅かに微笑んでいる。楽しいうたた寝の最中。そういう風に見えた。首に金のプレートが下げられていて、そこにはフェノメノと刻まれていた。このプレートはきっと体温で曇ることも指紋が付くこともないのだろうと思った。
「すごいだろ?」
「お前が作ったわけじゃあるまい」
「っせえ。メヱリの制作者だよ。後継者探してるんだってさ」
「見つかるといいな」
 背後から、あまり関心がなさそうな二人の声が聞こえて、一縷はちいさく息を吐きながら人形の大腿部を見つめた。
 あれ。
 一縷は、人形よりも、人形の背後に注目する。
 これは、もしかすると、一縷が家具屋に行くたびにものすごく欲しいと感じていたあのソファではないか。
 一縷は、人形よりもそちらに気を取られてしまった。
「店長」
「あーん? 何?」
「このソファって、誰のですか」
「誰のって……あたしがこないだ買った奴だけど」
「人形のために?」
「うん」
 一縷がバイト代を溜めて家具屋に行った頃には買い上げられていたソファである。
「店長……」
「何だよ、人形を見ろよ。確かに座り心地は最高のソファだけどさ」
「店長……」
「な、何、何で怒ってんだよお前。それより、他にも展示はあるんだから、そっち見ろ、そっち! ほら行け未成年! 若い内に芸術に触れろ!」
 尾花はしっしっと追い払うような動作をした。追われる犬のような渋々加減で一縷は奥の部屋へと向かった。内心では人形のためなら仕方ないという気持ちとそれは私が欲しかったソファなんだという気持ちがせめぎ合っていた。
 あのソファで、ゲームするの……楽だろうな……。
 はああ、と重いためいきをついて、一縷は再び歩き始めた。
 こつ、こつ、と廊下を抜けて、その向こうには、また病棟の一室があった。
 今度は、びろうど張りの椅子に座っていた。その座り方はさっきの彼女と変わらない。肘掛けに腕を置いて、脚はそのまま投げ出している。まるきり、少女の姿勢であった。今度は、すこしだけやんちゃな女の子かなと思う。食事の際に、テーブルの下で脚をばたつかせるような。それを笑って窘める母親の姿まで想像できた。けれど、先ほどの少女と大きく違う点がひとつだけあった。
 首が無いのだ。
 いや――胸部より上が全部ない、という表現が正しい。けれど肩の球はあるし、その先の腕もある。胴体も、脚もちゃんとあった。爪先まで作り込まれている。
 彼女のプレートには、エフェメヰラとあった。
 その表記に、胸が跳ねる。
 エフェメヰラ。
 ああ、ヰドラと――名前の文字が、ひとつ、同じだ。
 ヰドラというのは、一縷とけして切り離すことのできない存在である。
 郷愁のような、諦觀のようなものを感じさせる存在。
 その名の通り、まるきり偶像そのものなのだけれど。
 ――自分の中で語るならそれだけで済むだが。もしも他人にその存在を説明するとすれば、紫機流が設計し、紫機流の同僚(それはタワー型コンピュータを組み立てた片里という人間である)が製造し、一縷が基本人格をプログラミングしたペットロボットだった。四足歩行が可能で、完全に愛玩用のロボットである。
 一縷はおそらく人格の深層でヰドラにかなりの執着をしているが、そのことについて誰かとの会話で触れるつもりはない。
 それは、どこか――どうしてか。生々しくて厭になるのだ。
 一縷はエフェメヰラに手を伸ばしてしまいそうになった。そのすこし勝ち気な少女に。ヰドラにするのと同じように。ああ、生々しくて、厭になる。
 一縷が求めているのは、一縷がもうどうしようも無く喪ってしまった――
「エフェメヰラ」
 そっとその少女性の名前を呼んだ。
 白い壁への反響、数秒、あるいは、数瞬の――沈黙。
「……、ああ」
 胸がすうっと冷たくなっていく。
 そう、そうだ。返答が帰ってくるはずがないのだ。
 これは人形なのだから。
「一縷」
 背後から声を掛けられて、一縷は振り返る。
「見た? すごいでしょ?」
「――ええ」
「おや……それにしては失望したような顔をしてんね?」
 尾花は、目を細めた。
「いえ、人形……すごく、興味が湧きました」
 これは本当だった。けれど、一縷が求めるものとは違う。指向するものは同じ筈なのに、どこかがやはり決定的にずれている。そのことを思い知らされたのだった。
「そっか。蛍の光が流れる前にどっか飯食いに行こうって話してたんだけど、お前も来るでしょ? ハンバーグ食べに行こうぜ」
「あの、でも……展示、まだ見終わってないんです。まだ二つしか」
「え? 二つで終わりだけど」
「えっ?」
「完全新作展示会って言っただろ。完全新作二つしかないから展示は二つしかないよ」
「えっ……チケット代、確か、二千円くらいじゃありませんでしたか?」
「ああ」
 マジか、と一縷は胸の内で呟いた。確かに……得られるものは多かったけれど、それにしたって、二千円は、痛いだろう。どうなんだろう、こういうものを見に来る人はこれが普通なのだろうか。平均の価格か? お客が少なかったのも、それが原因じゃないのか?
 一縷は眉間を押さえた。
「それで、行くの? 行かないの?」
 尾花がタバコを取り出す気配がしたので、一縷は顔を上げた。
「ええ、行きます」

 ギャラリーの近くにある尾花おすすめのハンバーグレストランで、一縷はチーズハンバーグセットを注文した。始めに出てきたスープがコーンスープだったので、その時点で一縷のこの店に対する評価は五つ星である。コーンスープが好きなのだ。コーンスープに限らず、粒のあるものはだいたい好きだった。食感がいい。
「あー、コーンスープかあ。ここのスープ、日替わりでさ。たまに出るたまねぎだけのオニオンスープが超絶おいしいんだよ、コーンスープも美味しいんだけど」
「私はカツ丼が出ればいいと思う」
「お前まだカツ丼なんてクソ重いもん食べてるの? 今年いくつだよ?」
「壮絶なブーメランだ、それは」
 三島は涼しくそう言いながら、氷水の入った透明なグラスを口へ運んだ。店内の色調は総じて暗いブラウン。照明もそれに合わせて落ち着いた橙色だった。からん、グラスの中の氷が音を立てる。三島桂という人間には氷水が似合うと一縷は思った。
 食堂の方から、何かが焼ける音が聞こえてくる。一縷は耳を澄ませた。
「毎日同じもの食ってて飽きないの、桂」
「凄絶なブーメランだな。お前だって学生の頃からハンバーグばっかり食べてたじゃないか」
「たまにサンドイッチも食べてただろ」
「ああ、挟まれてるのはハンバーグだったな」
「その記憶力をなんとかしたほうがいいぞ、桂。いつか身を滅ぼす」
「何度でも蘇るさ」
「好きだな、お前」
「ああ」
 三島はテーブルの上に置かれていたピッチャーから水を自分のグラスに注いだ。店長がいつもジャンクフードの代表格のようなハンバーガーを食べている理由がわかったような気がした。自分で作るのが面倒くさいだけなのかと思っていたが、ハンバーグが好きだったらしい。
 一縷は、両手でグラスを持って、俯いた。水面に映る自分の顔を見つめる。右眼の奥が、ほのかに青く光って見えた。この目は、実際僅かに発光している。エフェメヰラにはどうして顔が無いのだろうか。そもそも、あれは、完成していたのだろうか?
 エフェメヰラには失望したが、けれど不思議な親近感は拭えないでいた。それはどうしてだろう。
「一縷、どうした?」
 尾花に尋ねられて、一縷は顔を上げた。
「ああ、いえ……あの、エフェメヰラって、完成してるんですか?」
「ああ……あれか」
 尾花は、一人だけ注文していたメロンソーダのストローを咥えて、ずずっと啜った。飛沫が飛び散らないよう指先でストローを摘んで、口から離す。
「完成してるよ。――いや、完成していた、あるいは、し続けていると言った方が正しいかもしれない」
 メロンソーダは、橙色の光の元ではもっとくすんで見えた。一縷は目を細める。あれは本当は何色なんだろう。いつもこうだ、一縷の目は正確ではない。人間の目は、正確ではないのだ。光が当たった黒いパーカーの色が何色なのか、一縷は正確に言い当てることができない。何の前提も条件も無いままの色を想像して、それにエフェクトをかける形でしか認識できない、そういうところが、たまらなく嫌だった。一縷はそっと義眼に手を当てる。――この目は違った。とかく映像の情報量というのは多い。多すぎるのだ。だからこそ、左目を瞑った時の模糊とした不安感を一縷は少しだけ好んでいる。一縷はグラスの水を飲んだ。
「エフェメヰラは、その来歴から、そもそも完成という尺度で語るのが難しい作品なんだ」
 向かいに座る尾花の橙色の光に染まったメロンソーダのグラスを見ながら、一縷は尾花の話を聞いた。
 その液体が本当は何色なのか、わからないまま、一縷は尾花の話を聞いた。
「あの人形展は、ヰデアという人形作家の個展でね。彼が作るのは、少女を模した人形ばかりなんだ。彼は人形を限りなく人間に近づけたいと考えている」
 話し続ける尾花の隣で、三島がピッチャーから氷水をグラスに注いだ。注ぎ込まれた冷水によって、グラスの中の氷が翻弄される。からん、からん。涼しい音が響く。
「その中でも、最も人間に近づけることが出来た――と、彼が言っているのが、エフェメヰラだった」
「……だった」
「そう。過去形だ。というのも、」
 がこっ、と大きな音がした。一縷と尾花がそちらを――三島の方を向く。どうやらピッチャーの水が無くなって、氷が注ぎ口に詰まってしまった音らしかった。三島はそれを意に介さずに、空になったピッチャーをテーブルに置いて、厨房の方へ声を掛けた。
「すいません、水をお願いします」
 そしてこちらに向き直り、初めて自分が注目されていることに気がついたとでも言うように軽く瞬いて、手袋をはめたままの右手でどうぞと指した。
「何だ。続きを話すんだろう」
「桂ァ、人がな、話しているときにな、絶妙な邪魔を挟むんじゃないよ」
「別に邪魔をしたつもりはない。ピッチャーの水が無くなったんだ」
「昔からそうじゃねーかテメーコラ毎度毎度ピッチャーの水飲み干しやがって、好きかァ桂、そんなに水が好きかァ、アアン!?」
「ああ、飲み物の中では氷水が一番好きだな。次いでコーヒーだ」
「んなことは知ってるんだよ何年の付き合いだと思ってんだ!」
「じゃあ何で文句を言うんだ。一条が困っているじゃないか」
「いえ、別に困っていません」
「そうか、すまない」
「いえ、怒ってませんので、大丈夫です」
「そうか」
 そのとき、若い、そう、一縷と年が変わらないような店員が、ピッチャーごと氷水を運んできて、空いたピッチャーを持って帰っていった。三島がすかさず氷水を自分のグラスへ注いだ。
「……お前らの、その、なんかずれてる感じ、ちょっと疲れるよな」
「そうですか?」
「おっかしいな、あたしの方がマジョリティのはずなんだけどな。おかしいなー」
「店長、話の続きが聞きたいんですけど」
「ああ、はいはい。どこまで話したっけ、そう、そうだ、エフェメヰラの完成度の話だな」
 尾花はメロンソーダを一度にグラス半分くらい飲み下した。これまでは手加減をして飲んでいたらしい。一縷もよくやる。最初は手加減して、薄まってゆくごとに本気度を増して飲むのだ。本当は薄まる前に、はじめから本気を出したほうが美味しく飲めるのに。
「ヰデアは、エフェメヰラを作っているとき、最も完成に近いと感じたそうだ。瞬間を重ねるごとに、自分が完成した人間を制作しているのだと錯覚してしまうほどに、全てが始まる感覚がしたんだと、そう言っていた。だが、完成してしまったエフェメヰラは、もはや制作途中の美しさが失われていた」
「失われていた?」
「そうだ。ヰデアがエフェメヰラに見ていたのは、羽化して、飛び立つ直前の弱々しい生命力だったのではないかな。頂点に近づくまでの、昇り詰める感覚。それこそを、美しいと思ってしまったんだ。だから、ヰデアはエフェメヰラが完成した途端に興味を無くしてしまった。だからこそのエフェメヰラだ。その名前の意味を知っているか?」
「――いいえ」
「短命なもののこと。一日、あるいは、短期間にしか存在し得ないもの、と言った方が正しいかな」
 一縷の手の中で、大きな氷がからんと音を立てた。
「馬鹿だよな、アイツにとって意味のないものであったとしても、他の人間にはこれ以上ないほど美しいものだったのに。価値はそこに、確かに有ったんだ」
「価値」
 一縷は思った。価値とは、何か。目を、細めた。ヰドラを只のセーフティーブランケットのようなものだと言った、そして今でもそう考えているであろう自分の父母の事を思い出したのだった。それは違うとどれほど言おうが、効果はないことを一縷は知っていた。だから黙って聞いていた。そして黙って家を出た。それが十七歳の頃だから、もう二年も前のことになる。
 価値とは主観に拠ると一縷は思う。万人のための価値など存在しない。三者三様、一者一様。それが価値だ。
 他人が主観を否定するのは筋から外れる。
 そう思う。
 ……のは、建前か。
『少女でも天才でも居られなくなったあなたに、生きている価値はあるんですか?』
『早く、答えを出してくださいね』
 フラッシュバックするインパクト。
 結局一縷は葛の問いには答えられなかったのだから。
 生きている価値?
 私に、そんなものが存在するのだろうか。
 自分を模倣する少女の自死も止められない。
 周囲との細い糸で編み上げられたハンモックだけが甘寧な死の淵から一縷を掬いあげているだけなのに。
 ずこっ、と音を立てて尾花はメロンソーダを飲みきった。
「それ以来、ヰデアは自分が造る人形のどこかを欠落させている。そうすることで美しさが保たれると考えている。例えば、右腕。例えば、腹部。例えば――眼球」
 一縷は、尾花と目が合った。
「お前は気がつかなかったようだが、フェノメノは片目が欠けている」
 ――そうか。
 それなら、フェノメノの方が、一縷に近かったのだろうか。一縷はそれに気がつかなかった。目を伏せる。残念であり、僅かな罪悪感もあった。けれど――座りやすいのでしょう。一縷が手に入れようとして、そして手に入らなかったその椅子の居心地は、たいそう素敵なのでしょう。それで、許してくれないかな。何を。何かを。わたしは赦してあげられるよ。もう――摩耗してしまったからね。
 尾花は椅子の背もたれに体重を掛けた。ぎし、と木が軋む音がする。パラノイドの扉が開くときも同じ音がする、と一縷は連想した。そろそろ油を差さなければ。
「ヰデアは、エフェメヰラをどんどん解体していっているんだ。その行程で、美しさを保とうとしてる。解体するたびにそれを新作だと言って発表しているよ。けれど、それでも望むものには近づけないようだ。まるで、自分で自分を殺していっているように私には見える。そう、まるきり、イデアキラーだ」
 尾花は皮肉げな笑みを浮かべた。
「あいつは結局何がしたいんだろうな。エフェメヰラの頭部も誰かに売っぱらってしまったようだし。その内、腕もなくなるんじゃないか?」
「おい尾花、飲まないならその水くれ」
「おい桂、お前さっきのピッチャーはどうした?」
 尾花が驚いたように三島を見た。その視線が、空になったピッチャーへと推移する。
「お前……」
 三島は相変わらず涼しい顔をしている。
「一リットルぐらいだったな」
「飲み干したのか!? ハンバーグが入らなくなるぞ! 言っておくけど、絶品なんだからな!」
「人間には別腹ってものがあるだろう、そんなもの、余裕だ」
「それは喩えだ、わかってんだろ! 人間にあるのは胃の容量だ、別腹ぁ? お前は女子か!」
「性別は女だ、見てわからんのか」
「ああ、まさに今、わからなくなったぜ」
 一縷は氷水をすこしだけ口に含んだ。冷たかった。
 短期間にしか存在し得ないもの、か。
 一縷の手の中でからんと軽い音がした。
 例えば、その人形師は、このグラスの中の氷にも美しさを見出すだろうか。
 一縷は目を細める。でも、それは、すこしだけ、理解できるように思う。
 一縷はグラスを傾けた。エフェメイラ、ほら、今この瞬間。エフェメイラに、触れている。目を閉じる。案外、あの少女はすぐ側にいるのかもしれない。
 そう思った。

 一縷が注文したチーズハンバーグは絶品だった。熱でとろけるチーズと手ごねハンバーグの肉汁が絶妙に絡み合って、至福感に包まれた。オニオンソースも主張しすぎない爽やかさを醸し出していて素晴らしかった。おいしかっただろ、とやってやったぜ感溢れる顔で言った尾花に、はい、と真面目な顔で頷くくらいにおいしかった。三島はその後もピッチャーに二杯ほど冷水をおかわりして、ハンバーグと一人前の定食を涼しい顔で胃に入れており内心めちゃくちゃ驚いた。尾花も驚いているようだった。
「お前、年を食うごとに食べる量が増えていってないか?」
「そんなことはない。昔は、人に隠れて食べていただけだ」
「何だそれは、自意識か?」
「いや、気遣いだ」
「どう違うんだ」
 レストランからの帰り道、街灯とネオンの明かりの下を歩きながら、尾花と三島は軽い掛け合いを続けていた。その後ろを一縷は黙ってついていく。この二人の間ではこのテンポがスタンダードらしい。三島桂はこういった、親しい者同士特有のなれ合いを嫌う人種だと勝手に勘違いしていたので、印象が変わった。今日一日で一縷の中の三島桂がほとんど塗り替えられてしまったと言っても過言ではない。
 一縷はふっと溜息を吐いた。
 目の前を歩く二人の足が止まっていることに気づいて、一縷は顔を上げた。
 二人ともこちらを見ていた。
「え? 何ですか?」
「溜息をついたな。何か悩みでもあるのか、一条」
「幸せが逃げるぞ、一縷」
 逃げる幸せがどこにあるんでしょう、と反論しそうになって、口を開けたところで、一縷は言葉に詰まった。嫌になったのだ。
 代わりに、別のことを口に出す。
「――とおりゃんせって、どうして選ばれたんでしょうか。横断歩道の。全部、あれでしょう」
 ――なんてどうでもいいことだろう。
 そう思ったけれど、尾花と三島は目を見合わせて、真剣な顔で話し始めた。
「横断歩道のことだろ? そういえば、閉館の合図も蛍の光が多いな。考えてみれば、不思議に思えるかもしれんが……統一するのは、意識に擦り込むためだろうな」
「その認識で概ね合っている。閉館時の音楽の方は詳しく知らないが、音響装置付き信号機のことなら、肆戸島ではとおりゃんせと乙女の祈りを主に採用しているな。旧式のものはとおりゃんせ、ここ三年の間に取り替えられた新式の信号機には乙女の祈りが使われている。島内でも、一部鳥の鳴き声を使っている区があるぞ。南北方向がスズメ、東西方向がカッコウだ。今は封鎖されているが」
 三島はすらすらと応えた。一縷は驚いたことを表現するために目を見開いた。
「どうしてとおりゃんせにしたんですか? 不気味じゃありません?」
「その不気味さが理由だよ。曲が鳴っている最中は渡っても構わない、曲が鳴り終わってしまうことで危険が迫る――と、いった連想を与えるために選ばれたのだと私は聞いた」
 なるほど、と思った。
「不気味さが理由か……思いつきませんでした」
 一本取られた、という感じがした。一縷は僅かに楽しくなって、目を細めた。
「おい、一縷、お前、今、確実に私よりも桂を尊敬しているだろう、そうだろう、一縷!」
「何を言っているんですか、店長」
「あああ、昔からそうなんだ! 桂は私が集めた人心を全部かっさらっていくんだよ! 学生時代の部活の時もそうだった、ああ思い出す! オカルト部の惨劇!」
「後輩が一人しかいない部活で人心掌握も何もないだろうが」
「バッカお前、生徒会やってたお前にはわからなかったかもしれんが後輩っつーのはすっごい貴重だったんだからな!」
「知らんな」
「当時何度も言っただろうが! お前、見てろ、今日ずっとこのネタで管まいてやるからな」
「呑むのか? これから?」
「決まってるだろ。宮河と矢野と、あと斜名も呼ぶか? 紫機流はどうせ来ねぇだろ」
「勘弁してくれ、平日なのにあんな連中と呑んでられるか」
「もう決めた」
 そう言って、尾花は一縷の方に向き直った。通りの向こうは飲屋街。光量が強すぎて、尾花と三島が逆光の中に立っているように見えた。輪郭だけが光っていて、表情は見えない。眩しくて、目を細める。
 こういう大人に、なってもよかったんだよなぁ。
 なんて考えるのは、葛の言葉が効いている。
 あれはつまり、”もしも”を、突きつけられたのだ。
 天才を辞めなかった自分がもしも存在していたならば、きっと葛のようになっていただろう。
 賢く、美しい少女に。
「そういう訳で、一縷、わたし達はこれから飲み会を始める。お前は来るか?」
「馬鹿が、未成年をそういった場に連れ込むな。却下だ」
 ぼうっとしていた一縷が答える前に三島が却下した。
「ちっ。お前だって、未成年の頃は飲み会に行っていた癖に」
 昔はな、と答えた三島を見遣って、一縷はなんとはなしに、この二人はずっとこういう関係を続けてきたのだろうか、と考えた。それは疲れないのかな。
「それじゃあ、私は、失礼します」
 まだ言い合っていた二人は、一縷の言葉にああと頷いた。
「それじゃあな、一縷。また明日」
「はい」
 一縷は、そう答えてから、一瞬だけ考えこんで、もう一度声を掛けた。
「あの、すいません。三島さん」
 三島は振り返った。
「初めて会った時、どうしてバーコードなんか見せたんです?」
「ああ――紫機流の姪だと知っていたからな。バーコードの読み取り機能ぐらいつけられているものだと思っていたんだ」
 ……さもありなん。

 とおりゃんせ、とおりゃんせ。
 ここは、どこの、ほそみちじゃ。
 てんじん、さまの、ほそみちじゃ。
 自分の歩くスピードに合わせて軽くくちずさみながら、誰も居ない近道の路地を駅に向かって進む。この時間であれば、地中街を通るよりも電車を使ったほうがいいと思ったからだった。一縷は路地が好きだった。表通りの喧噪が、見えない壁を隔てたように聞こえるからだ。同じ理由で、授業中の学校の廊下を歩くことも好きだった。喧噪というのは、ひとつ隔てたところから聞くから好ましい。最中に居るのでは、情報量が多すぎて楽しめたりなどしないと思う。
 尾花と三島の話を聞いて、一縷はふと、教室に行ってみようかなと思った。
 不登校児が不登校する理由として、まず考えられるのはその場に適応できないことだと思う。中には、潔癖性にも近い理由でそう口にする人間が居たりもする。一縷はその口だった。そういう人間は、自分で選んだものの中でないと上手に呼吸ができないのだ。自分で定めたルールの中でしか生活できない人間というのは一定数存在して、定めたルールが社会に適合できないときに一縷のようなものが生まれる。
 つまり、不適合者だった。
 そういう者が決まって考えることは――
 一縷の足と、思考が止まる。目を――見開いた。
 視線はわずか、自らと十メートルばかり離れた地点で起こっている現象に釘付けになっていた。地面に転がる何かの影と、それに跨った人間、人間が、何か――いや、誤魔化すまい、一縷には理解できていた、それが、転がった何かが、人間の姿であることを! 人間の顔に、あれはおそらく目の位置だろう、眼球の位置だ、そこに何かを突き刺す姿、その、現実から乖離したような、現実から何かを隔てたような状況に釘付けになっていた。
 人間が、人間を、刺している光景。顔に、何か――あれはナイフだろう――を差し込んで、梃子のように動かしている光景。
 ずきん、と頭の外側が痛んだ。
 ああ、こんなの。隔てていたって好めない。
 一縷は無意識に右目に手を当てていた。引き攣る頬を制御する。まるで笑っているみたいだからだ。外見からコントロールしよう。オーバーヒートしてしまう。事実だ、これは、
 認めなきゃ。
 その意識が脳内で形を取った瞬間、人間だった何かに跨っていた誰かが、がばっと体を起こした。瞬間、一縷と誰かの中間ほどにあった電灯がヂカッと大きく点灯する。おかげで姿が見えてしまった。
 ずきん。
 その人間は、白髪の、青年だった。いくつなのかわからない。痩せている。その瞳は眩んだみたいに真黒だった。転がった人間の目玉をえぐりだしていたのは、自分の瞳が真っ暗だろうかとか、そんなことを考えた。転がっているのはこの間から一縷がよく見るような黒髪の少女。年齢は葛ちゃんと同い年くらいで、その表情はよくわからなかった。死んでいるからかもしれない。ただ、血液が現在進行形で眼窩から溢れ出していること、
 ああ、
 待て、
 お前を私は、
 知っている。
 彼は、立ち上がった。上から吊られているような、人形じみた動きで、視線だけ一縷と合わせたままで、姿勢を起こしたのだ。その絶望的な不気味さに息を呑む。
 一縷はこの男を知っている。

『きみの名前は』
 ミラー越しの目。
 癖のある白髮。痩せた体。表情の浮かばない顔。まるで黒に近い、けれど違う――群青色の目。ずきんと頭が痛んだ。
『何ていうの?』

「……ああっ、」
 一縷は、にわかに体の制御権を戻されたように思った。
 膠着していた意識が解ける。
「死ね!!」
 叫んで、くるりと踵を返す。
 かっ、と、ブーツの底が、アスファルトを蹴った。逃げるのだ。逃げなくてはいけない。今なら、まだ、すぐそこに尾花と三島が居るはずだ。携帯を取り出して通報するよりその方が早い、今ならまだ、

 思い出さなくて済む。

 ――何を?

 背中に気配を感じて、
 一縷は反射的に避けようとした。体の重心が崩れて、アスファルトに倒れ込む。右膝に衝撃があった。次いで、右肘、肩、胴体と打ち付ける。顔を上げると、さっきまで一縷の頭があった場所を鷲づかむようにしている青年がそこに居た。
 どうして、――有り得ない。あの距離を、こんなに短時間で詰められる訳がない。
 一縷は唇をぎっと噛んだ。ピアスが歯に当たる。
 ゆらりとこちらへ近づいてくるその青年から目を離せない。
 どうする、立ち上がって逃げるのはもう無理だ。背中を見せてはいけない。目を逸らしてはいけない。
 前髪が乱れて、右目が完全に開いてしまっている。見せるつもりなんか無かったのに。自分の息がじわじわと荒くなっていくのがわかった。心臓の動悸も徐々に激しくなる。
 肩で大きく息を繰り返す一縷の目の前に、青年が歩いてきた。
「……?」
 青年は、小さく首を傾げる。その服に一滴の血もついていないことがわかって、一縷は戦慄する。もしかして、幻覚だったんだろうか、と思った。けれど、青年の左手に握られている紛れもないナイフ、そしてそれにべったりとついたままの血糊、そして右手に彼が持っている死んだ少女の眼球を見て、その考えが間違っていることを知る。
 少年は一縷の前に膝をついた。
 彼は、からん、とナイフを落とす。その音は路地に反響した。
「――え?」
 ヂヂ、再び、電灯が瞬く。死ぬ瞬間の蝉のような音をさせる。
 青年は、少女を殺したナイフを掴んでいた手で一縷の前髪を掴んで、ぐっと持ち上げた。一縷は、唇を噛んだまま息を止める。視線が、合った。ああ、やっぱり、青年の目は黒色ではなく群青である。目が乾く。何か、言うべきか?
 その時、彼の唇が、ゆっくり動いた。
「――エフェメヰラ?」
 思考が、一瞬、止まった。
 その掠れた声が、まるで懇願するように聞こえたから。一縷は、どうしてかわからないけれど、まるで身を焦がされるような気持ちになった。
 止まった呼吸を、再開させる。
 そして、そっと、呟いた。
 殺されるかどうかなんてどうでもいいような気がしていた。思えば、これこそ、エフェメイラだったのかもしれない。
 一時的で、希少で――
 けれど。
「――わたしは、一条一縷だよ」
 こないだは覚えていたくせに、もう忘れたのか、この変質者が。
 青年の問いに、一縷はそう答えた。青年の瞳に僅かに灯っていた希望は安心のそれに色を変え、人殺しの青年はまるで救われたみたいに目を見開いた。
 まだ、生きていたんだね。
 そう呟いた。
 どういうことだと、聞くか、迷って。一縷は、結局、黙っていることにした。
 逃避。怠惰。どうとでも言い換えられる。けれどこの感情は、言葉にしないままが良かった。
 なんだか酷く頭が痛くて、一縷は目を閉じた。
 これから殺されるにしては非常に穏やかな気持ちで、一縷は目を閉じた。
 それが、この日の一縷の終わりであった。

/*== ==*/

 そこに立って居たのは、ぼさぼさの白髪の少年だった。身長は一縷より高い。彼は黙って一縷の側に来て、置いてあった椅子に座った。
 そして、ぽつりと呟いた。
「君は天使?」
 面白いことを聞く人だ。一縷は目を細めた。
「天使になりたかったわ。でも飛べなかったみたいだね」
「その右眼はどうして隠れているの?」
「どうしてかしらね」
「見たいな」
「だめ」
「どうして?」
 こんな不完全な私を、
「好きになられたら、困るから」
「そうなの? そっか。ねえ、お話しようよ。退屈なんだ」
「あなた、賢いよ。私を相手に選んだのは正解。でも、私はあなたの名前を知らないな」
「僕の名前は、霧島剥離」
「そう。私の名前は、一条一縷。初めまして、霧島剥離。何の話が聞きたいの? 人工無脳の未来の話? 【偶像】の話?」
「偶像?」
「私が作ったプログラム」
「それはいいや。それよりも、もっと面白いこと」
 もっと面白いこと?
 一縷は左目をぱちぱちと瞬かせた。
「行きたいところの話とか、好きなものの話をしてよ」
「行きたいところ……? そう、割りと……その話もたくさん、できるかな」
 そうして一縷は、生まれて初めて、行きたい場所の話をした。
 遊園地の話。大きい観覧車があって、硝子で造られたメリー・ゴー・ラウンドがある。
「どこにあるの?」
「わたしの頭の中」
 深海の話。竜宮の使いが居る。鯨も居る。サメも居る。少し怖い。
 宇宙の話。白い宇宙船内でクローンの研究をしたい。
 肆戸例大祭の話。お祭りに行きたい。夜に歩いてみたい。らくがきせんべいというものを買いたい。いちご飴を食べたい。
「わたし、少しだけ後悔していることがあるの」
 ぽつりと一縷は呟いた。
「後悔?」
「可哀想な人達がいて――その子達を安心させてあげたいと思ったんだけれど」
「うん」
「私が考えていたよりも、その子たちはもっとずっと可哀想だったの。だから、みんな死んでしまった」
「そうなんだ」
「別に、責任感なんて持っていないのよ。でも、わたしも安心してみたかったから、空を飛ぼうとしてみた。わたしのコピィはもう取ってあるし――。だけど、天使じゃなかったから、失敗しちゃった」
「ふうん」
「意味がわからない?」
「ううん。君、もう天使みたいだから、天使になろうとしなくていいのにって思った」
 その言葉を聞いて、一縷は唐突に閃いた。
 もしも生まれ変わるなら、生きるのが楽な人格じゃなくて――この人に好きになってもらえるようなのがいい。
「そう」
「連れ出してあげようか?」
「え?」
 一縷は剥離の茫洋とした顔を見た。
「お祭り、行きたいんでしょ? 一緒に行こうよ。今日から前夜祭だ」
「どうやって?」
「走って」
「そう。そうね……でも、もっと、安心できるようになってからがいいな」
 この人格じゃ駄目。
 走っていくには頭が重い。
「安心……わからない。でも、次までに作ってあげるね」
「え?」
「君が安心できる場所」
 絵を描くのが好きなんだ、と剥離は言った。一縷はそうなのと答えた。
 巡回に来た医師に剥離が連れ戻されるまで、それからもずっと二人は話をしていた。

/*== ==*/

 頭のなかで何かの曲が流れていた。紫機流の趣味だった気がする。彼女が家にいるときに、ずっと部屋で流れているアルバム。その中の一曲。
 どこか陰鬱で、淡々としていて、逃げ場のない曲調。
「"子供と"」
 その一節が口から飛び出た時、一縷は自分が目覚めたことに気がついた。どうやら、自分はベッドの上で微睡んでいたらしい。
 眠る前の記憶がぽっかり抜けていた。
「"呼べば、汚されないで済むのさ"」
 一縷とよく似たハスキーな声が、曲の続きを口ずさんだ。
「ほんの数日会っていないうちに、寝言で唄うような面白い娘になっているとは思わなかったよ。どんな夢を見ていたんだ、お前? そんな曲が流れるような夢、ちょっと疲れそうだね」
 一縷は、声のした左の方に首を向けた。
 そこには、パイプ椅子に脚を組んで座って、エナジィドリンクの缶を傾けている一条紫機流が存在して居た。ノースリーブのブラウスに、細身のパンツ。いつも纒っている白衣は、今は椅子の背もたれにかけられていた。
「一日寝てたよ、お前」
 一縷は瞬きをした。
「エナジィドリンクばっかり飲んでると、カフェイン中毒で死んじゃうぜ、紫機」
「ま、それを人は寿命と呼ぶね」
 一縷は妙に怠い身体を起こした。病院のベッドは柔らかくて、座るのが難しい。
「私、何で病院に居るんだか、知ってる?」
「お前の近くに、死体があったそうだ」
 ヂヂっと脳裏で電灯が点いた。
 群青の瞳。
 傷んだ白髪。
 紫機流の言葉は、いつも上手に一縷の思考スイッチを入れる。
「ああ……」
「読み込んだ?」
「うん。うーん、殺されると思ったんだけどな。生きている」
「残念?」
「否」
 否と答えたのは、紫機流に対する気遣いだった。実際のところはどちらでもないのだ。かつて投身自殺を図ったあの日に、一条一縷の死生観は擦り切れてしまっていた。どちらでも良かった。いつ死んでも同じと思いながら生きているのだ。その程度の価値だ。
 けれど、叔母の紫機流に対して「殺されても良かった」と答えることはしたくなかった。
 紫機流は一縷の機微を察しているのか、いないのか、くぴりとドリンクを飲み下した。
「三島からの鬼電で、研究所から呼び出されたんだ。お前、最近流行りの妖怪・眼球抉りに遭遇したらしいよ」
「妖怪?」
「そう。はぁ、一縷、起きたならそこ替わってくれよ。三日寝てないんだ」
「はぁ? なんでそんなアホなことしてるんだ、紫機。能率が下がっちゃうだろ、そんなの……」
「別に仕事はしてないからね。みんなで映画見てたんだよ」
「映画?」
「白黒のな。同ンなじ映画をハード・リピート。バカみたいな量のキャラメル・ポップコーンを作ってね。厭きた厭きた」
「何、その苦行は……」
「最初に音を上げたやつが来月のサーバ管理するって話だったんだけど、誰も音を上げない上に、だんだん台詞と展開覚えてきちゃってさ。最後は演劇大会だったな。意外にも片里の奴が演技上手で」
「楽しいことしてる」
「まあね」
 一縷がベッドから降りると、入れ替わりに紫機流がベッドに乗った。
 靴越しでない病院の床はひんやりとしていた。いいな、これ。エアコン無しでもいけるかもしれない。
「それじゃ、寝るまでの間。一連の流れを教えてくれよ」
 一縷は顔を上げた。ベッドにごろんと横になった紫機流は、まるでテレビのチャンネルを変えてくれとでも言うかのような気楽さだった。
「珍しいね、紫機。そんな保護者みたいなことを言うなんて」
「暇つぶしだよ、一縷。映画よりはドラマチックだろ?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべた紫機に、一縷は首を傾げて見せた。
「当然」

 そして一縷は今日までの出来事を話した。神隠しの話からドッペルゲンガーの話、パラノイドの依頼の話から(その中には、当然、ミスマッチな依頼を振ってきた紫機流への非難も含まれている。仕事を増やすんじゃない)、誘拐未遂の話、一縷が美人であるという話、そして死体を見つけた話。消えた少女の話、少女の戸籍が存在しなかったという話。
「紫機から回された件は、ヨキと一緒に犯人の偏執狂を一人捕まえた」
「解決が早いな。やっぱり任せてよかった」
「良くない」
「桂、まだカツ丼ばっかり食べてんの?」
「昨日はハンバーグ食べてたよ。物足りないから呑む前にカツ丼食べていくとか言ってたけど」
「ほんと底なしだな……」
「昔はそうでもなかったんでしょ?」
「いいや? そんなことはないよ。隠れて食ってた」
「それ、本人には聞けなかったんだけど、どうして隠れて食べてた訳?」
「アイツは生徒会に入っていたからな。生徒の女子に気を使ってたのさ。太らない体質だから」
「はー」
 そういうことか。ビー玉みたいなきれいな気遣いだ。
 一縷はぬるいエナジィドリンクを啜った。それは、紫機流が一縷に付き添うにあたって大量に買い込んできたうちの一つだった。
「悪いな、脱線して。続きは?」
「うん」
 視線を足元に向けた。
「それから」
 それから。
 葛との話をするかどうか迷って、結局一縷はしないことにした。
「それから、人殺しに会ったんだけど。それは、私を誘拐したやつだったんだ」
 一縷は眉間にしわを寄せた。
「私を知っている風だった」
「ふむ」
 紫機流はどこから取り出したのか、棒付きの飴を舐め始めた。
「私の知り合いではなく?」
「うん。私の名前を知っていた。あと、」
 一縷は右眼を抑えた。
「私も、奴を知っているような気がするんだ。思い出せないけれど」
 紫機流は目を伏せたまま、飴を舐めていた。考え込んでいる風だった。その姿はやはり一縷と似ていて、自分が十年後に生きていたらこうなるのかもしれない、と思った。
「そうか」
「紫機、何か知ってるの?」
「いいや、何も」
 その否は、一縷の否と同じだろうか。
 一縷が紫機流を見つめると、紫機流は緩やかに微笑んだ。
「私は別に何も知らなくていいのさ、一縷。これはお前が考えるべき命題だからね」

/*== ==*/

 午後十時。眠ってしまった紫機流を置いて、ブーツを履いた一縷は、ナース・ステーションに向けて消灯済みの病院の廊下をそっと歩いていた。殺され損なった靴音が誰もいない天井に響く。
 壁一枚、ドア一枚隔てた向こうに人が居る。消灯後とは言え、まだ起きている患者も居るだろう。歩く一縷の靴音がナースのものとは違うことに、きっと気がついている。
 入院していた頃のことを思い出した。
 スライド式のドアは下が少し開いていて、向こうに人が居るとすぐに分かってしまう。個室だったけれど、個別ではなかった。それは全く不安なことだった。
 ――一縷が投身自殺をしたのは、七歳の頃のこと。それまでの彼女は天才と呼ばれていた。
 人は自殺未遂だとか気の抜けたサイダーみたいな甘ったるい妄言を吐くけれど、一縷にとってあれはれっきとした【自殺】である。死ぬつもりで飛んで、ちゃんと人格は死んだのだ。自殺以前の一縷と現在の一縷は断絶している。それが脳の障害によるものなのか無意識下で行われた改造だったのかは知らないが。
 自殺というルートを選ぶことによって、一縷は天才を辞めたのだ。その後の入院生活でゆっくりとゆっくりと天才性を鈍らせてきた。
 その時。
「……、一縷」
 聞きなれない――しかし、たしかに聞き覚えのあるその声に名を呼ばれ、一縷は顔を上げた。
 いつの間にか面会室の前まで来ていた。
 逆光の中、そこに立っていたのは、
 傷んだ白髪。痩せた身体。そして群青色の瞳。
「…………冗談きついぜ」
 妖怪眼球抉り。
 フラッシュバックする光景。

 『君の名前を教えてほしい』(逃げるか?)
 ヂカヂカ、断末魔の蛍光灯。(背後に)
 白い病室。(いや、病室には紫機が居る。)
 死体。(病室を通り過ぎて)
 『僕の名前は、』(ナースセンターは)
 血の滴るナイフ。(会話で時間を稼いで)

 硬直した一縷を見て、白髪の青年は両手を上げた。

 ホールド・アップ。

 予想外の行動に、一縷は、彼女にしては間の抜けた事に、首を傾げて口をぽかんと開けた。
「……は?」
 遠慮なしに攻撃的な疑問の音を発する。
「えっと、こないだとか昨日は、間違いました。主に、えー、アプローチを……すいませんでした。一縷……さん」
 眼球抉りは、何を考えているかわからない死んだ魚のような、しかし若干の沈鬱さが伝わってくる表情で、一縷に謝罪をした。
「いや、うん……」
 一縷は曖昧に頷いた。
「まあ、私は美人だから、誘拐したくなる気持ちは理解できる……うん。そして、謝罪の姿勢は、建設的だと思う……それで、あー、あんたの名前は?」
「……僕の名前は、霧島剥離」
 それは聞き馴染みの在るような名前であった。
「霧島剥離ね……うん。それで、今日は何を?」
「えー、平和的に、謝罪と、提案をしようと」
「なるほど」
 一縷は頷いた。
「一縷、僕に誘拐されてくれ」
 一縷は再び頷いた。
「百遍出直せ、ファッキン変態サイコパス」

/*== ==*/

 その二人の雰囲気を考えると、場違いに明るい場所であった。白色の蛍光灯が隅々まで照らす店内のざわざわとした喧騒は、この島が現在祭りを控えていることを伺わせるものだった。
 呑みに向かった三島と尾花が、気を失った一縷が発見されたという報を受けてから丸一日が経っていた。
 夜の九時。
 一条一縷が、妖怪眼球抉りと邂逅する一時間前の事である。
 偏執市場の中心にある、とあるファミリー・レストランの一角に、三島と尾花は差し向かって居た。
 三島の前には氷水が、尾花の前にはホット・コーヒーが置かれている。二日連続で二人が会うことは滅多にない。加えてこれは尾花が無理を言って作られた時間であり、それも殊に珍しかった。しかし、可愛がっているアルバイトが数日のうちに何度も自殺だの殺人だのの現場に行き会ったとあれば、話を聞かずにはいられないのも、彼女の性分であった。
「で、今一縷はどこに居るんだ?」
「肆戸病院だ。紫機流が付いてる」
 やや疲れの見える風情で、三島は氷水に手を伸ばした。尾花はふぅん、と鼻で返事をする。
「それで、何が起こってるんだ?」
 三島はグラスを揺らした。
 からん、と氷の透明な音が鳴る。
「言えん」
「通らんぞ」
「だろうな。香屋埜にも探りを入れられた」
 尾花はふ、と息を吐いた。コーヒーには手を付けない。
「言えることだけで良いぞ、桂」
「元からその一線を超えるつもりはない。しかし、そうだな――」
 三島は水を口に含んだ。
「お前は、【一条一縷】という人物について何を知っている?」
「紫機流の姪だ。天才で、自殺未遂をして、何年か本州に入院していたらしい、普通の女の子だ」
「概ね、その認識で合っているだろう。しかし――理解しているとは言えない」
 三島は、半分ほど減ったグラスの水の中で、氷をからんと鳴らした。結露した水滴が彼女の左手に付着する。
「一条が自殺をする前の話だ。一条一縷はいわゆるギフテッド、天才児だったのだが、ギフテッドを管理する組織のランキングでは彼女の頭脳を計りきれず、彼女のためだけにSSランクが新設された。そして、その当時生存していたギフテッドのうちの半数が自殺した」
「あ?」
「かつて存在していたSランクからBランクまでの天才児達の一部が集団自殺をしたんだ。絶対数としては当時の自殺者数に紛れてしまうような数だったが、それでも大損失だ」
「なんだ、それ。一縷と何か関係しているのか?」
「記録に拠ると、誰も遺書を残さなかったから、確かなことは言えないが。しかし、全員が一条一縷が制作した人工知能と会話をした翌日に死んでいる」
「人工知能?」
「偶像というタイトルで、そのソースコード自体は厳重なプロテクトの元まだ現存しているが。紫機流が零したことがある。『おそらく死んだ子供達は、偶像と会話をすることで察してしまったんだ』と」
 コーヒーは冷めきっている。
「何を」
「『自分たちがもう必要ないってことをさ』、と」
 氷水は、残り少しになっていた。
「一縷が作り出した【偶像】は、会話をした相手の思考回路をコピィする仕組みになっていたらしい。だから、ギフテッド百余人分の頭脳が、あるいはそのデータベースの中にまだ在るのかもしれないな。とにかく、一縷は、そういう天才だったんだ。他人を諦観に追い込むのが得意な類の。これは紫機流の受け売りだがね」
 はー、とため息を吐きながら、尾花はクッションの背もたれにどさっと寄りかかった。
「そんなすごいヤツには見えなかったぜ」
「そう。彼女は、自殺以前と以後で、人格が完全に断絶しているんだ」
 尾花はコーヒーに初めて口をつけながら、眉間にしわを寄せた。
「それ、前から気になってたんだけどさ。自殺未遂じゃないの?」
「否――、紫機流と一縷、双方が強固に主張をしていてな。あれは人としての核の自殺だった、とな」
「ふーん……ま、言いそうなことだな。身体ではなく、精神において生と死、人格や尊嚴を定義しているのかね」
「加えて」
「おう」
「ギフテッドだけではなく。一縷がメディアに露出をした年に、百人単位の少女の連続自殺事件というのも、発生している」
「百人単位か。少し多いな」
「一部のネットで、カリスマ的な人気を得ていたからな。一部の少女の中で、新興宗教のようなものまで起こっていたようだ。――ここまでが前置きなんだが」
 尾花はコーヒーを飲み干してテーブルに戻そうとしたカップを思わず落としそうになった。
「これが前置きか。……まあそうか、全然今回の話してないもんな」
「ああ」
 尾花と三島は、しばしテーブルの上の空になったグラス達を見つめた。
「とりあえず、次の淹れてこようぜ」
「そうだな」
 二人は席を立った。
 これが、一条一縷が霧島剥離に誘拐される三十分前の話である。

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Chapter09 群青

 窓の外を流れていくオレンジ色の街灯を、一条一縷は肘をついて眺めていた。普段の無表情を捨ててわざと不本意な顔を作り上げているおかげで、僅かに右側の頬が引き攣りはじめているけれど、そうでもしないと気がすまない。
 一縷は、先日自分が後部座席の窓を叩き割ったワゴン車の助手席に收まっていた。
 うっかりしていた。
 と、しか言いようがない。或いは、どこかが麻痺していた。こちらのほうが正確か。
 一縷に出直せサイコパスと罵られた直後、霧島剥離によって行われた土下座の、金輪際見られないようなあまりの美しさに感銘を受けて、ついうっかり、誘拐されてしまったのである。
 同意のもと――たとえそれがついうっかり、感動のあまりの勢いであろうと、同意のもとでついていくことを誘拐と呼べば、の話であったが。
 しかも現在この車両が向かっているのは一縷の自宅のマンションだった。
「一縷、ここ左でいいんだったよね?」
 ウインカを出しながら聞く剥離に頷きながら、一縷はさらに渋い顔をする。
「ああ、うん。合ってるよ……っていうか、君ね、ここまで黙っていたけれど、どうして私の家までの道筋を知っているんだ? 説明なんかしてないぞ、私は……」
「まあ、それは、調べれば……」
「どこでだよ。何をどうやって、誰がだよ」
 チッ、と一縷は舌打ちをした。剥離は僅かに肩を竦めたが、意に介していないようだった。美人に土下座して助手席に座ってもらっておいて、その動搖の無さは一体何だと、説教のひとつでもぶってやりたいものである。というか一席ぶってやろうか。
「君ね、いいか、霧島剥離。私を隣に乗せたときはだな」
「ここ左で着く? 実際には一回しか来たこと無いから自信ないんだけど」
「一回は来たことあるのかよ、このストーカー。合ってるよ。……というかどうしてわざわざ遠回りしてたんだ? 最初の通りを右折すればほぼ真っ直ぐだっただろ」
「右折が苦手なんだ……あと、長縄跳びも」
「ああもう」
 一縷はため息を吐いた。
「イライラしてる?」
「してない」
「嘘だー、イライラしてるとき一縷絶対そう言うもん」
「次そういうめんどくさい彼女みたいなこと言ったら、助手席の窓ガラスも叩き割るからな」
「勘弁してくださいすみません……あ、着いた。駐車場、地下?」
「防犯カメラあるけどいいの」
「よくないや。じゃあ、家の前に路駐しよう……切符切られたらちょっとだけ立て替えてくれない? 今手持ち無くて……」
「ヒモのようなことを言うなよ誘拐犯……」
 カチ、シートベルトを外してドアを開けようとすると、チャイルドロックが掛っていた。
 振り返って剥離を睨むと、剥離は茫洋とした顔で両手の指先を絡ませた。
「いや、そのー、逃げられたら困るだろ? 僕が」
「前回はわかるよ。でも今回は一応私は同意でついてきてやってるわけだぞ」
「外し忘れてただけなんだけど」
「さっさと開けろよ」
「はい」
 剥離は自分のシートベルトを外して、運転席から降りた。ボンネットの前を通って、一縷のドアを開ける。
「どうぞ、お嬢様」
「はっ」
 鼻で笑って、一縷は助手席から降りた。そのまま玄関に向かって歩く。
 バン、と背後でドアが閉じられた音がして、すぐに剥離が横に追いついてきた。歩幅が違うんだな、と思った。
「一縷は逃げる気、ある? こんなのも用意したんだけど」
 見えやすいよう一縷の前に掲げてみせたのは、量販店で買ったような手錠だった。暗い中でよく見えないが、出来はそこそこ良いようだ。
「なんだそれ、趣味か?」
「どっちかと言えば、手でもつなぐ方が趣味だけど」
「恋人気分か、出直せ変態」
 そのなめらかな会話になんとなく心地よさを覚えながら、玄関のオートロックを開ける。そういやここにも防犯カメラがあったなと思い出しつつも、面倒なので一縷は黙っていることにした。この誘拐犯がどうなろうとどうでもいいし。
「何を取りに来たの?」
「着替え。パソコン。……あと、ロボットをスリープモードにする」
「ロボット? ああ、もしかして、【偶像】?」
 一縷は当然のように一縷の死角になっている右側を歩く剥離を振り向いた。?
 それは――その名前は、ただの変態ストーカーが知っていて良いものでなかった。
「ねえ、あのさ。あなた誰?」
「僕は、霧島剥離」
 白髪の、どこか少年のような青年は、嬉しそうに、そしてどうしてか悲しそうに笑った。
「ただの、変態サイコパスだよ」

/*== ==*/

 注文したフォッカチオをかじり終わった二人は、再び一息ついた。
「それで、今回の少女連続投身殺人事件の被害者達にはひとつの共通点があった」
「投身なのか? 殺人なのか?」
「どちらも存在しているが、一つの共通点で結ばれている」
 尾花は煙草の煙を吐いた。三島はすこし冷めたホット・コーヒーの最後の一口を飲んだ。
「全員、【かつての一条一縷】を崇拜する教団のようなものに入っていたよ。ソノミヤカズラというのは、その教団の指導者のような立場の者が名乗る名前だった。過去に遡って称号したところ、一縷が七歳で自殺をするまでは戸籍も存在していたようだ」
「までは、ということは、そこでそいつも死んでるわけだな。ふうん、あいつも大変だな。未だにカリスマ性があるなんてね」
「当代の苑宮葛はその教団を立ち上げ直し、見込みのある少女を勧誘しては一条一縷に仕立て上げようとしていた。その悉くが失敗に終わっているようだがな」
 尾花は新しい煙草を指先でくるりと回した。
「それと、一縷が見たらしい殺人鬼らしい人物は、犯人とは別である可能性が高い。何を考えてのことか知らないが、死体損壊犯、と言ったところだな。少女たちの死因は高所からの落下によるものだったよ」
「妖怪眼球抉りか」
「ああ。何故か殺人現場に警察や機関よりも先に訪れて、眼球を抉ったり死体をナイフで刺したりしている奴が居る。彼女が遭ったのはそれだろう」
 三島は胸元から取り出した時計を見た。
「十時半。一旦病院の様子を確認しに寄るが、お前も行くか?」
「ああ。久しぶりに紫機流にも会いたいしな。アイツのことだから、隣のベッドあたりを占領して寝ているかもしれんぞ」
「有り得ることだ。自分用に運び込ませることくらい、やるかもしれないな」

/*== ==*/

 病室の、一縷が居たはずのベッドで爆睡する紫機流を見た三島は、こめかみに青筋を立てていた。
「私は、日和っていた」
 ぼそりと、この上なく低い、まるでドライアイスのような声が響く。
「何故私はこの女がまともに保護者をやるなんて思い込んだんだろうか。丸くなっていた、いや、なり方を間違えていた」
 三島のドライアイスを背に受けながら、尾花は一縷に電話をかけた。しかし、
「繋がらないな」
 一縷は電話に出ることはない。今頃彼女は眼球抉りと二人でドライブ中だった。
 端末を持ったまま尾花が紫機流を揺するが、黒髪が散らばるばかりで紫機流は瞼を開けようとはしなかった。
「んー」
 唸るだけ。
「代われ」
 言いつつ、三島は右手の黒手袋を外した。スーツの袖口から覗いた薄青の肌が空氣に触れる。その肌は、普段の彼女がけして人前では見せないものだった。
 三島桂は、偏執狂なのである。
 その右腕は、【自らが絶対に正しい】と三島が認識している場合においてのみ、氷結の異能を顕す。
 横にどいた尾花に代わって三島は右手を紫機流の頚筋にそっと当てた。
 数秒後、ひゃぁああという情けない声と共に紫機流は飛び起きた。
「冷たっ! 冷たい! 何だ、冷やしたエナジィ・ドリンク!? ハードがクラッシュでもしたか!? 何事だ!」
 頚筋に手を当てながら、紫機流は三島たちのほうを振り返った。
「……やあ」
「やあじゃねえよ」
 尾花の呆れ声を意に介さず、紫機流は口の端を曲げた。
「挨拶くらいさせろよ、お前ら。全く、びっくりした」
「びっくりしたのは、こちらだ、紫機流」
 黒手袋をはめ直し、三島は冷たい視線を紫機流に浴びせた。
「一縷はどうした?」
「え? ああ。居ないね? やられたかー」
 シーツの上で笑う紫機流に対して、三島はぴくりとも笑わない。尾花は呆れた顔を隠せずに居る。
「吐け。何を知ってる?」
「んー」
 紫機流は、小さく唸った。
「まあ、そうだな。私は何も知らないよ。嘘じゃない」
「知っている。お前は嘘はつかないな。だが、推測を言わないことはある。言え」
「やりづらい。一縷はもう少し素直だった」
「あの子は、まだ幼いからだ」
 尾花は目を細めた。尾花の記憶が正しければ、その発言は、かつて紫機流がしたものだったからだ。
「ふうん……、お前もまあまあ記憶力がいいね。まあいいや。そうだよ、若干の心当たりはある。どこかしらの監視カメラ、そうだな……一縷のことだから、一回家に帰るだろう。私のマンションの防犯カメラに何かしら映っていると思うから、それを確認してから話させてくれないか? 予想が当たっていれば、ただのデートだと思うんだけどね」
「その、予想を、今話せ」
「怖いよ、桂。老けて見えるぞ」
「意地が悪いと魔女に見えるぞ」
「あーあー。お前、今眼球抉りの写真持ってないの? あったら、それを見せてくれれば事足りるよ」
「持っている」
 ひゅー、と尾花は口笛を吹いた。三島が懐から取り出したタブレット端末を数回タップし、とあるフォルダの画像を開いて見せた。紫機流はその画像に映っている不健康そうな白髪の青年を見て懐かしそうに目を細める。
「ああ、やっぱり。成長してるが、こいつ、乖離の弟だ」
「乖離? 乖離ってあの、お前が高校時代よくつるんでたやつ?」
「ああ。弟の方とも何度か会ったことがある。もしも妖怪眼球抉りがこいつなら、一縷に危害を加えるはずがないよ。まあ、一縷が今誰と一緒にいるかは家のカメラを見なければわからないがね! だから確認させろと言っているのに」
「この後向かう」
 言いつつ、三島はタブレットを回収しようと手を伸ばした。
 その時指先が少しぶれ、眼球抉りの映った写真の次の画像が表示される。
「待て」
 紫機流の声が鋭くなった。
「その画像に映っているのは誰だ?」

/*== ==*/

 偏執市場側の駐車場に車を停めてから(おそらく無断駐車である)、霧島剥離はいくつかの偽装ドアを抜けて市場の深部へと進んでいった。途中でエレベーターを使って、地下まで潜る。静かなエレベーターの箱の中、このまま監禁しやしないだろうなと剥離のことを横目で見ながら、一縷はこの青年の素性について考えた。
 【偶像】を知っている。しかし機関の関係者ではない。少女を殺している? 偏執を持っているかどうかは定かではない。
 ちん、とベルの音が鳴って箱は停止した。開いたドアを潜って、剥離はまた歩き出す。
 ボストンバッグを持っている私のことを少しは考えろ、と口に出したくなるスピードだったが、剥離はすぐのところで足を止めた。
「ここが深層の、比較的浅い場所。偏執持ちもそこそこいるから、多少気をつけて」
 偏執狂の中には、この島の土着神への信仰と自らの偏執により精神が変化してしまっている者もいる。そのことを言っているのだろう。地上にはまあまず出てこないが、下層にはそこそこ存在していた。一縷が案内屋をしている以上そんなに危険はないのだが、そこまでは調べていないのだろうか。それとも念の為というやつか。

 そこは新鮮な風景だった。
 あちこちを白熱灯が照らす道には、昭和時代によく使われていたようなレトロなフォントの看板が立ち並んでいる。歩いている人は皆若い。地上よりも年齢層が低いようだった。
 地下のはずなのに天井は高い。
 歩き始めた剥離を追って角を曲がると、景色が開けた。道の端には手すりがあって、深層の構造が筒状になっていることがわかった。ここは真ん中が吹き抜けになっているドーナツ状の構造物で、いまはその最上層に居るようだった。向こう側まではどれくらいあるのだろう、地上の偏執市場よりも広いように思えたが、それは遮蔽物が無いからかもしれなかった。
 下にはまだいくつかの層があるようで、最下層に向かうに連れて灯りが黄色、橙色、赤色と変わっていくのが綺麗だった。
 少し先を歩くが、歩調は一縷に合わせている剥離を追って歩く。
「もう少しで着くよ。僕のアトリエ」
 剥離がそう言ったとき、頭上から声が降ってきた。
「よォ、画伯!」
 剥離はその声に反応して上を向いた。
「ああ、えーっと、……名前忘れた。久しぶり」
 忘れるなよ。一縷もつられて視線を上げると、建物の二階から身を乗り出しているパンク・ファッションの青年が居た。金髪頭が眩しい。
「何、美人の女連れ? 売りに来たの?」
「あ?」
 思わず攻撃的な声が出る。
「あっちょっとそういうこと言うのやめて、この子気が短いんだから」
「何それ、気になるんだけど?」
「前言ったことあるでしょ、僕が探してた女の子」
「ああ、例の……」
 金髪頭はすっと身を引いた。
「見つかって良かったじゃん」
 そう言い残して、金髪頭はどこかへ消えた。
「うん」
 誰もいなくなった二階に向かってそう答えてから、剥離は再び歩き始めた。
「画伯?」
 一縷が尋ねると、剥離は偽名みたいなものだよと答えた。
「この辺、名前を聞かれて本名答える人あんまり居ないから」
「へぇ」
「一縷も何かつける? 美形とか」
「その名前には美意識が足りない」
「ええ……?」
 いつも自分のこと美形だ美人だと言っているくせに、と呟いた剥離の言葉は聞かなかったことにしてやった。

/*== ==*/

 剥離の案内した場所は、言葉どおり、彼のアトリエらしかった。どうやらこの変態は、絵を描く変態だったらしい。
 木枠で造られた扉を開けて中に入る。小さい台所と机と冷蔵庫がぽつんと置かれた六畳くらいの空間だった。その奧に、また扉がある。
 剥離はその扉も開けて行くので、一縷も着いていった。
 奧は、コンクリート打ちっぱなしの冷たい雰囲気の部屋だった。
 そして、
 その壁には、たくさんの絵が飾られていた。

 その絵が視界に入った時、一縷は思わず言葉を失った。
 ボストンを床に置いて、壁にほとんど駆け寄るような勢いで歩み寄る。
 そこにあったのは、遊園地の絵。水族館の絵。深海の絵。宇宙船の絵。
 それらは総て――、いつまでも――いつまでも見ていたいような、その絵の中に入っていってしまいたいと思えるような、身体の力が抜けるような安心感がある絵たち。
 どうしてこんなに魅力的に思えるのか、不思議に思えるくらいであった。
「剥離――これを描いたのは、君?」
「うん」
「これはどこの遊園地? 肆戸にある?」
「この遊園地は、どこにもないよ」
 その声はすこし寂しそうだった。
「そうなの……」
 剥離も、この遊園地が無いことが悲しいんだろうか。
 指を伸ばして、触れてみたい。
 そうしたらその絵の中に入れるような気がした。
「君、本当にただの変態じゃなかったんだな。こんな絵を描くなら、サイコパスでも偏執持ちでも仕方がないよ。……この中に行きたい」
「そっか」
 その声が笑っているようだったので、一縷は振り返ろうかと思った。しかし、遊園地から目が離せなかった。
「ああ、本当に……私が、もしも十九歳なんかじゃなければ、きっと入れるのにな」
「どういうこと?」
「きっと七歳のままの私だったら、ここに行けたんだ。絵の中に。今はもう駄目」
「おとなになっちゃった?」
「さぁ。どう思う?」
 一縷は剥離を振り返った。
「君、昔の私を知ってるだろ」
 剥離はその言葉を聞いて初めて表情を変えた。
 大きく目を見開いたのだ。
「思い出したの?」
「いいや。昔、飛び降りたあと意識が一旦回復し、その後二週間くらい意識を失っていた時期があったんだ。その頃のことは思い出せない。思い出そうとできないように”なってる”。だからこれは推測だよ。でも、そうとしか考えられない。ヰドラのことを偶像だと思える人間は、【七歳までの私】を識っている。そうだろ?」
 剥離は、再び元の無表情に戻っていた。

/*== ==*/

 偏執市場の深層は、夜も昼も無いように思えた。地上の偏執市場には、夜しか開いていない店昼しか開いていない店というのがあるが、ここにはおそらくそういう区切りは存在しない。
 ひたすらに続く白熱灯と電飾看板は、常夜ならぬ常昼の雰囲気を醸し出していた。もう午後十一時をとっくに回っているはずなのに、そんな雰囲気は微塵もなかった。誰も彼も、眠さも見せずに道端で会話をし、ところどころで煙草を吸っては紫煙を吐き出し、携帯端末を弄っている。
 主に観光客を相手にしている一縷は深層の案内をしたことは無かったが、香屋埜のファイルにはこのあたりのことも子細に穿って書き込んであるのだろうか。
「出費が多いよぉ」
 買ったばかりの寝袋をぶらぶら揺らしながら、少し後ろを歩く剥離がぶちぶちと文句を垂れている。それに対して一縷は鼻を鳴らした。
「私を呼んだのにベッドが一つしか無いのが悪いんだろ。何だお前、こんな美人と同じベッドで寝る気だったのか? 調子に乗……」
 るなよ、と言いかけて、一縷はちらほらと見える屋台のひとつに目を留めた。
「剥離」
「別に同じベッドで寝たって何も起こらないよ……え? 何?」
「あれ食べたい」
 一縷が指を指したのはいちご飴の屋台だった。
「ええー? あんな苺に着色料入りの飴を付けて固めて温めただけの食べ物をぉ?」
「食べたい」
「うう……まあいっか……」
 剥離は一縷の横を通って屋台へ向かった。
「昔は買えなかったしね」
 すれ違いざまにぼそりと付け足された言葉に脳裏を刺激されながら、一縷は剥離の背中を追った。
 そう言えば、明後日からは肆戸神社の例大祭が始まる。
 明日は前夜祭だった。屋台が出ているのはそのせいだろうか?
 生まれて初めて、祭りに行ってみたいなという気がした。
「こういうのは、楽しいと思う」
 そう言うと、剥離はちらりとこちらを振り返った。
「うん。僕も」
 店のお兄さんにいちご飴をひとつだけ注文する剥離を眺めつつ、一縷はアトリエでの会話を思い出した。
『君が思い出さないなら、それでいいんだよ』
 剥離は、一縷の問いかけに対してそう答えたのだ。その後すぐに出かけてしまったので、聞けなかったことがある。
「あのさあ、剥離。お前と私は、」
 あのとき、病院で会っていたのか。そう言いかけた口に、生暖かい感触が触れる。竹串を持った剥離が、一縷の唇にいちご飴をくっつけていた。
 眉間に深い皺を寄せながら、一縷は剥離の手から飴を奪い取った。
「はい、あーん」
「言うのが遅い!」
 こいつは本当に私の表情を変えさせる奴だ。そう思いながらいちご飴を舐める。
「……おいしい」
「それはよかった」
 一縷は視線を逸らした。
「ありがとう」
「どう致しまして」
 剥離の声は若干笑っていた。その顔を拝んでやりたかったが、上手に誤魔化されてしまった自分の今の顔を見られたくなくて、そして笑顔の剥離を見たくないような気もして、一縷は不自然に斜め下を見ながらただ歩いた。

/*== ==*/

 白熱灯の灯る台所で手を洗ってから振り返ると、剥離が何かを机に並べていた。椅子も二人分出ている。
「一縷は晩御飯食べてないよね?」
「え? ああ……そう言えば、一日寝てたから、食べてない。いちご飴食べたからいいかと思ってたけど」
「お菓子しかないけど、食べてから寝る?」
 美容の敵だ、と思いつつ机を覗き込んだ一縷は、思わず驚嘆の声を上げた。
「こ、これはまさか……」
 息を呑む。そこに並んでいたのは、かつて本州北端、とある市に存在していた伝説の銘菓、【よされ亀】だったのである。黒糖の風味のするぼそぼそとした餡を包んだ、すこし焦げ気味の饅頭。亀の形に頭、手足、甲羅が整形されているが、その形はどう見たって幼稚園児が作った粘土の花かな? といった風情であった。しかしそれが一部のマニアの間では多大な人気を博していたのだ。
 精神病棟に入院していた際、少し年上の患者からその美味しさと外見の不格好さ、絶妙な焦げ臭さについて語られていた一縷は、諦めつつも、一度でいいから食べてみたかったと思っていたのである。
「な、なぜこんなところによされ亀が……経営困難で製造停止になったはずなのに……」
「食いつき方が少し怖いんだけど……その辺りに店があるよ。この甘すぎない感じがたまに食べたくなって、時々買ってるんだけど」
「そんな時々買えるの? こんなに貴重なものが……まさか、偏執市場によされ亀を作ることができる人物が残っていたなんて……不覚だ、知らなかった。でも、そうだな、もし残っているとしたらここしかないか……た、食べていい?」
「いいよ……まさかこんな郷土菓子でここまで喜ばれると思ってなかったよ……」
 一縷がよされ亀の頭部をちぎって口に運んで、もそもそと噛み始めた辺りで、剥離は喋り始めた。
「それで、君を誘拐した理由なんだけど」
 食事時に話すのかそれを。
 一縷はもそもそ食べつつも、少しだけ耳を傾ける姿勢に入った。
「えっと、今、昔流行ったカルト教団みたいなのが再流行し始めてて。女の子ばっかりの。その教団が、【到達点 -アブソリュート-】を信仰してるんだよね」
 【到達点】というのは、凡人たちが一縷に貼ったレッテルである。到達しない流線型こそが天才だというのに、それを理解出来ない人間がこの世界には多かった。
 いきなり鳩尾にストレートをぶっ込まれた気分になったので、一縷は亀を食べるのを止めた。そう言えばヨキも同じような話をしていた。少女戒律、だったか。
「食べてていいけど」
「……いいよ。続けて」
「僕、ずっと一縷に会いたいなってなんとなく考えててさ。それで最近、昔の君を崇拝してる教団のこと調べてて、それで知ったことなんだけどね。その教団の子たちは、【到達点】に近づくために日々研鑽してるんだって。それで、到達しそうになった女の子から投身し始めた」
「お前が殺してたわけじゃないのか」
「うん。僕が殺したいと思う女の子は、きっと世界で一人だけだ」
 剥離と俄に視線が合った。
 一縷はそれを逸らさない。
 それは自分なのではないか、と一縷は思ったが、口には出さなかった。
 出す必要は無いと思った。
「誰が何を思ってそんな宗教をしてたのかはわからないけど……その教義が、あんまりにも――普通で。可哀想に思って。もし一縷に、【到達点】に近づきたかった女の子なら、あんなに平凡な死に方をするのはあんまりだって思って」
 剥離の瞳には、死んでいった少女達への哀れみが浮かんでいた。その瞳の色に少しだけ焦燥に似た思いを感じながら、一縷は机に手を置いた。
「不憫だったから、少しだけ、特別にしてあげてた。だけ」
「サイコパス」
 ぼそりと呟く。
 もしも私だったら?
 普遍的な殺され方をしていたら。剥離に葬り直されたいか?
 一縷はそっと右眼に手を押し当てた。
 わからない。
 今の一縷には、生も死も、どこか隔てた遠いところに微かに感じられるだけのものになっていた。
 昔だったら想像できた? この眼窩にまだ本物の眼が嵌っていた頃なら。鈍って劣化した今の一縷の脳ではもう無理だ。人形の眼を嵌めてぎりぎりのところで少女性を保っているような今の一縷では。
 もう私は少女では無いのだ。
 それならどうして生きているんだろう。
 私は、どうして生きているんだろう。
「それで」
 続きを促す。頭痛がしてきた。
「殺人教唆犯は、教団の指導者のギフテッド。その子は、自分が本当に一縷になれると思ってるみたいで」
「ギフテッド?」
 頭痛が酷くなってくる。
 模倣。
 かつて偶像が彼らにしたように?
「たぶん、このまま行って、教団内に自分より【到達点】に近い女の子が居なくなったら、一縷本人を殺しに来ると思ってる。だから、君を自分の手の届くところに置いておきたくて」
「人を人形みたいに言うな」
「というのは実は建前で、本当は君と話がしたくなっただけなんだけど」
 剥離のその言葉が、一縷の頭痛を少しだけ軽くした。
 どうして生きているのか、その答えが少しちらついた気がした。
 顔を上げると、剥離はよされ亀の右脚をちぎったところだった。
「一回話せそうだったのに、君、全然僕のこと覚えてないし」
「もし覚えてても車にあんな連れ込み方されてたら全力で拒否するに決まってるだろ、馬鹿。この状況が奇跡だと思えよ」
 一縷は再びよされ亀を囓った。
「というわけで、しばらく僕と一緒に居てくれる?」
「え? ああ……今日何日だっけ?」
「ええ、画家にそんなこと聞かないでよ……うーん、たぶん、八月十一日」
「そうか。じゃあ、悪いけど、明日からバイトあるから無理だ」
「あ、それは大丈夫」
「何が?」
 剥離は携帯のメッセージアプリを起動してみてと一縷に促した。嫌な予感を覚えながら端末を取り出してアプリを起動する。
 最新の通知は、尾花からの着信。それは明日にでも掛けなおそうと思いつつ、探し屋パラノイド・ボランティアの佐々木宛の欄に、書いた記憶のないメッセージを発見した。
『悪いけど、これから先一週間バイト代わってくれない? 返事ははいで頼む』
「おい」
「配慮のつもりで」
「おい、これ、いつだ? いや――あの現場しか無いな、コラ、お前勝手に、というか美形が気絶してるのにそれを無視してアプリを起動したのか? 違う論点がずれる、ああもう」
 地味に一縷の口調を模倣しているのが腹立たしい。
「そういえばバイトしてたなと思って」
「配慮の方向を間違えるな、間違えたまま全力疾走をするな、というか、あまつさえバイトの同僚の名前を把握してるんじゃない! 畜生、祭り時なのに、かきいれ時で時給も高いのに、佐々木だって二つ返事じゃないか、いやアイツは目的が少し違うけど――」
「というわけでしばらく――」
 言いかけた剥離の脛をブーツの先で蹴って、一縷は立ち上がった。
「寝る」
「痛い……とても……」
「だろうな!」

/*== ==*/

 一縷が歯磨きを終え、軽く着替えて剥離のベッドに寝転んだ頃。携帯端末が着信音を告げたので、そのディスプレイを確認する。相手がヨキだったので、一縷は気軽に電話を取った。
「はい」
『あ、一縷? こないだ話した片目抉りのパターンなんだけどさ』
「ああ。今その犯人と一緒にいる」
『は?』
「私に危害は加えないみたいだから放置してるけど。それで、何?」
『ああ。【少女戒律】の話なんだけど、投身が一旦ストップしてる。今までに無い動きだから、注意しとけよ』
「注意って言っても……」
 よされ亀を一匹食べ終わったらしい剥離がアトリエの方に戻ってきた。
「何に? 少女たちがユメから覚めたか、少女がもういなくなったかのどちらかだろ?」
『前者だといいけどな。ま、一応忠告と思って』
「それはどうも。じゃ、また」
 ヨキとの通話を終えて、一縷は剥離に尋ねた。
「お前、偏執持ちなの?」
 剥離は首を振った。
「ううん、持ってない。たぶん。だから戸籍登録の住所は地上の北部の住宅街になってるよ。ここには絵を描く時だけ来てる――まあほぼ毎日だけど」
「ふぅん」
 一縷は壁の遊園地の絵に視線を向けた。
 絵の中にある硝子で造られたようなメリー・ゴー・ラウンドは、その光の屈折までが頭の中で再生できた。
「一縷はさ、もう天才には戻らないの?」
 その言葉に、何故か失望を覚えた。それは剥離に対してだったかもしれないし、いつも通り、自分に対するものだったかもしれなかった。
「次にそれを言ったら、殺すよ。剥離」
 誰のことも殺せなさそうな声で、一縷は静かにそう告げた。身体の力を抜いて、ごろんと壁の方を向く。
「それじゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ、一縷」

「君は天使?」
 剥離が小さく呟くのが聞こえた。
「天使に見える?」
 浅い眠りから目覚めた喉の奧で、ハスキー・ボイスが低く唸る。
「起きてたの、一縷」
「寝言」
「ずいぶんはきはきした寝言を言うんだね、君……」
「あのさ。答えてほしいことがある」
「ものによるけど」
「お前は、私に何を期待してる?」
 一縷は吐き捨てるような口調だった。
「誰も彼も、みんなに聞いてみたいよ。少女教団の一人ひとりにもさ。そんなに天才が欲しいのか? あんなに可哀想な存在が? 笑えてくるぜ、つまんなくて。【前のわたし】はもう居ないし、そんなの未だに好きなんて、全く偶像崇拝なんだよ。お前もそういう宗教家なの? だったら私を巻き込まないで欲しいな。【今のわたし】は実像で、餘生を惰性で生きたいだけの、ただの無害な……」
「一縷」
「ねえ、お前も思うわけ?」
 その声は、先程までとは一転して、初めて聞くような細い声だった。
「私は劣化してる。自分が一番判ってる。もしあの時天才性を捨てずにそのまま進んでたらどうなってたか、わかるよ。見えるんだ、とおくに」
 理想の一縷。
 到達点の更に先。
 そこに劣化が待っていたとしても、羽化する瞬間の蝉が最も美しかったのだとしても、
 あの時飛ぼうとしなければ。
 どうしてこんなことをこの変態に話すのか、自分でもわからなかった。しかし、誰かに聞いてみたかったことでもあった。
 一番の偶像崇拝者は一条一縷自身なのだから。
「今の私が生きてる意味なんかあると思う?」
「わからないけど」
 一縷の体の力が抜けた。
 なんとなく、その答えは知っていたような気もした。
「あっそ。……寝ないの。剥離」
「なんか退屈でさ。眠れない」
「君さ。そういうときは、美人が隣りにいるのに眠れないって答えるんだよ。全くなっていないよ」
「一縷、あのさ。僕一縷の死生観に興味ないから、それよりもっと面白い話してよ」
「ふざけるな、わたしは寝るんだよ」
「さっきおやすみって言ってからもう三十分も經ってるのに?」
 一縷は黙り込んだ。
「……何が聞きたい?」
「君、ときどき天使みたいだよ、一縷。……君が話したいことが聞きたい」
「褒め言葉としては、まあまあだけどさ」
 そして一縷は、どうでもいい話を始めた。香屋埜の話。三島の話。尾花の話。
 透明になった海に行ってみた話。
 船には乗ってみたいが船酔いが怖いという話。
 底の抜けた柄杓屋が偏執市場にあるらしいが、誰が買うのかわからないという話。しかし船に乗る前には行ってみようと思っている話。
 剥離は、それを目を細めて聞いていた。
 夜が更けるまで、誰もそれを止めるものは居なかった。

 その日、一縷は短い夢を見た。
 硝子でできたメリーゴーランドに乗る夢を。
 側には何故か剥離がいて、一縷のことをずっと見ていた。
 それだけの夢だった。
 ただそれだけの、夢だった。

/*== ==*/

 肆戸病院の病室。
 紫機流に問いかけられた三島はタブレットのディスプレイに視線を落とした。そこに映っていたのは、黒髪を肩に届かないくらいに切りそろえた、か弱い風情の少女であった。
「これは、連続投身自殺事件の捜査線上に上がっている、少女教団の指導者と思われる人物の写真だ」
「私はその子に会ったことがある。電電機工研に一度見学に来たギフテッドだ。論文を送られて軽く目を通した記憶がある。二週間前だ」
「ギフテッドだと?」
「ああ、これは、少し――まずいかもしれないな」
「言え」
 三島の怜悧な声が飛ぶ。
「思うに、この一連の事件での被害者はかつての一縷の模倣をしている。私も少し――調べたのでね、多少の事情は識っている。その上で。命を絶つ際の年齢が七歳ではなくなってしまっている時点で、この模倣は不完全なものであると言える。自殺もおそらく教唆だろうな。主犯はおそらく教団内部の人間で、何らかの理由に抵触した人間に自殺教唆しているのだと考えていた。であれば、模倣が不完全であるうちは一縷本人には害が及ばない。現場で気絶したのは別の事情。投身現場に数度行き会ったことは、それまで一縷がこの事件を知らなかったことから考えて、事件の主犯にとって意味のあることではないだろう。そして、一縷が霧島剥離と行動を共にしているならば、その間は一縷に危害は及ばない。霧島剥離は、一条一縷をけして傷つけない。傷つけさせない。霧島乖離が、一条紫機流にかつてそうであったように」
 紫機流は朗々と語った。
「しかし。このギフテッドが主犯だとすれば、少し話が違ってくる。死んだ少女はみんな十四歳以上だな? この少女はまだ十三歳のはずだ。本人はギフテッドで、教団内部の人間だ。論文の思想は一縷のトレース。あの頃の彼女には到底及ぶものではなかったが、わたしは一言コメントはした。【一条紫機流博士に認められること】が最後の条件になるならば、私が偏執の引き金を引いたかもしれない。【ソノミヤカズラ】が【イチジョウイチル】に至るための引き金を」
「理解った」
 三島は、それだけ言って病室の出口へ向かった。
 早いテンポのヒールの音が遠ざかっていく。振り返る気配のないその音を聞きながら、尾花はひとつため息を吐いた。
「ちなみにだけど、私は全然解らない」
「うん。全然配慮をしなかったからね、そうなると思った」
「何がどうなってんのか、人間にわかるように解説してくれよ、紫機流」
「いいよ。代わりにちょっと、コーヒー買ってきてくれる?」
 慣れた口調ではいはいと答えて、尾花は枕元に置かれていた紫機流の財布を持ってゆるやかに部屋を出ていった。
 でも、多分三島は間に合わないだろうな、と一人の病室で紫機流は考えた。
 いつだって少し遅いのだ。
 大人は子供に追いつけない。
 時間の流れが違うみたいに。
 もしも一縷が殺されたり、また自殺したりしたら、私は何をどう思うだろうか。
 昔のように、安心したりするのだろうか。
 紫機流はごろんとベッドに横になって目を閉じた。誰だって少しの安心が欲しいだけ。それが、枕と布団か、あるいは人格のコピィか、あるいは誰かの死か、あるいは薬指の約束か、ただそれだけの違いというだけだ。
「あ? おい紫機流、寝てんじゃないだろうな? おい」
 ゆるやかに睡眠の淵に落ちていく中、紫機流は昔のことを少しだけ思い出していた。
 霧島乖離と過ごした僅かな夏の話。帰ってきたら一縷に聞かせてやらなくちゃ。
 戀は閃きに似ているということ、あの子は誰かに習っただろうか?

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Chapter10 背徳者のアリア
 無視をしようと思っていた。
「一縷さーん、一縷さん、おはようございます」
 しかし、この人間アラーム、どれだけ無視しても止まらない。無限スヌーズ機能。やかましくて仕方ない。
 仕方なく――本当に仕方なく、一縷は左目を開けた。その視線の機嫌の悪さに剥離が思わず後ずさったような気配がしたが、ぼうっとしていてよく見えなかった。
「今何時」
 恐ろしく低い声が出る。香屋埜にリテイクを要求されそうなレベルで。
 ああ、今日のバイトは休みになるんだった。収入が。それもコイツのせいだ。
「七時だよ」
「ふざけんな。昨日何時に寝たと思ってるんだ」
「四時」
「三時間なんてのは、睡眠じゃない、仮眠だ。許せない」
 再び目を瞑る一縷の枕元のシーツに剥離は顎を載せた。顔が近い、と文句を言いたかったが、その気力もなかった。
「話し足りないんだ。一緒にいるうちにいろいろ」
「後にしろよ。寝る」
「一縷は、人形が好きなの?」
 一縷はため息を吐いた。少し付き合ったら満足するだろうか?
「さあ。好きかどうかわからない。憧れていたことはある。変わらないから。でも、やっぱり停滞よりは、一瞬の方が良いな。一瞬だから価値があったんだ。人形も、私も」
「エフェメヰラ?」
「なんで知ってんの? ストーカーだから? ……あー、なんか、あの時もそんなこと言ってたな」
「知り合いなんだ、ヰデア……製作者と。だから、見たらわかったよ、一縷のその眼、エフェメヰラの右眼だね」
 一縷は瞼を開けた。
「そうなの?」
「知らなかったの?」
「知らなかった」
 それで惹かれたのかな、と思いつつ一縷は再びベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちていった。

 次に起きたときは、剥離は床で白い大きな紙に何か描いていた。
「あ、起きた」
「……おはよう」
「おはよう、もう夜の五時だけど。ご飯にする? お風呂にする? それとも」
「お前を殺す……」
「時々一縷は物騒だよね……」
「思い出してくれ、たいてい君が彼女面をしたときだから」
「そうだったかも」
「ああ……、なんだか急にかき氷が食べたくなった。剥離、この辺にそういうお店ある?」
「近所ってほど近所ではないけど、氷菓屋があるよ。アイスはあるけど、かき氷はあったかな……」
「行ってみよう」
「うん」
「着替える」
「うん」
「外に出て」
「えぇー? あ、あっ、すいません、出ます。すぐに、ただちに。ハイ」

/*== ==*/

 かき氷は、しゃくしゃくしゃく、と氷を崩す音が脳髄に涼しかった。
 少しだけ荒削りな氷と、雪みたいな氷をレモンシロップで溶かしてゆく行程。溶かし切るまでに胃に収める、言わばタイムアタックだ。かき氷というのは、緊張感のあるデザートなのである。
 食べ終わってから、そういえば食後の薬を持ってくるのを忘れていたと思い出す。メロン味の氷を食べ終わった剥離に目をやると、彼は案の定こめかみを押さえていた。
「メロン味は、舌が緑になるよな」
「なるね。見る?」
「見ない」
「っていうか、そろそろ今月の生活費のような、全財産のような、そんなか細い貯金が無くなりそうなんだけどさ、一縷って財布とか」
「持ってない」
「うう……」
「いや、Sランクの身分証明コードならあるよ。でも市場では使えないだろ。バイトもそんなに長時間やってるわけじゃないから、私はもともと貨幣をあんまり持っていないんだ」
 統括機関によってランク付けられた人類は、その等級に応じて支給品が定められている。支給品で賄えないものは自分で稼いだ貨幣を使って購入するしかない。ちなみに偏執市場では貨幣しか扱っていない店が圧倒的に多い。
「Sランク……はあ、格差を感じる」
「美人になって出直したらいいんじゃない?」
「国宝レベルに美形なんだ……すごいね……」
「ちょっと引くなよ、殺すぞ」
「ほら、君結構物騒だよ? いま別に僕彼女面してなかったじゃん」
「私の顔面にケチをつけそうになったときも追加」
「ええー……」
 そろそろ行こうか、と立ち上がった剥離についていく。氷菓屋の店主に軽く会釈をしてから、路地に入った。
 不思議とどこにも人は居らず、ところどころの電灯が白く辺りを照らしていた。
「はーあ、どうやって来月生きていこうかなあ」
 すこし前を歩く剥離に、一縷は尋ねる。
「何か要るの?」
「画材」
「ああ……」
 一縷は自分の身分コードの支給許可品一覧を思い出した。その中に画材は入っていただろうか。
「もし足りないなら、私が」
 出そうか、と言おうとしたその時、背後から鈴を鳴らすような可愛らしい声がした。
「一縷さん」
 聞き覚えのあるその声に、一縷は振り返った。
 白熱灯の下、まるでスポットライトを浴びるようにその少女は立っていた。
 肩口で切り揃えられた髮。白い長袖のワンピース。華奢な肩、腕、あえかな唇。
 声は、あのときの少女のままなのに――その顔は。
「五日ぶりですね。葛です」
 まるで、整形でもしたかのように、一条一縷にそっくりだった。
 彼女の髮を風が揺らす。
 錯覚でもしているのか。
 一縷は、かつての自分を――いや、かつて七歳だった頃の自分がそのまま成長した姿を、見ているような錯覚に陥った。
 ああ――。
 遭いたくなかった可能性、見たくなかったレゾン・デートル、考えたくない並行世界。それに最も執著していたのは自分なのだ。忘れられない、恋するように。
 だからこそ、一縷はぽつりと呟いた。
「――ごめんね」
 もしも彼女がかつての自分であったなら、一番言いたかった言葉がそれだった。
 あなたになれなくてごめん。
 蛹のままで終わってごめん。
「何が?」
 少女は、一縷に歩み寄りながら小首を傾げた。
 そうか。
 わからないなら、それでいいか。
 なんとなく、昨日の剥離の気持ちがわかった気がした。錯覚、気のせい、いくらでも言えるけれど、錯覚じゃないと信じたかった。
 わからなくてもいい。
 ただ、自分が救われたかっただけなのだ。
 隣に剥離が立っている。
 昔の自分にそっくりな葛が現れて、それでも剥離が彼女の元へ行っていないだけで、一縷は。
 一縷は?
 ああ、考えたくないな。
「まだ、生きているんですね」
 その顔は微笑んでいるのに、どうしてか泣きそうに見えた。
「ああ――葛ちゃん」
「ねえ、どうして生きているんですか?」
「答えなんて無いよ。きっと生涯わからないままだ」
 明瞭な答えは未だ自分の中には無かった。振り返って、葛に対峙する。
「それも全部、あなたが才能を棄てたからで」
「たぶん、それでも理由があるとしたら」
 一縷の口から、ぽろりと言葉が零れ落ちた。
「偶然なんだろうと思う」
「偶然?」
 自分で口にしてみて、すとんと納得がいった。そう、一縷は偶然生きている。偶然、紫機流という理解者がいて、偶然、剥離という安寧を見つけて。
 どこかしこにいる誰ともしれない誰かとも同じように、偶然、この世を生きている。
「偶然、偶然、偶然――なんですか、それは! 少女でも天才でもないのにどうして――それじゃあ、ねえ、少女でいられなくなりゆくわたしはどうやって生きていけばいいというのですか? 教えて、わたしの到達点!」
「葛ちゃんはまだ若くて幼いから、生きていられるよ。そのうち若さが摩耗して、幼さだけが残ったとき、初めて死ねばいいと思う」
 一縷は穏やかにそう言い切った。
「君は私より遅いから、未だその時は来ていない」
 ――パキン。
 葛の足元の地面から足首までが、不意に氷結した。
「――え?」
 葛は何が起こったのか理解できない様子で足元を見下ろした。一縷の肩が掴まれる。それまで気配を消していた剥離の手だった。
「機関だ」
「ああ……へえ。噂の対偏執部隊か。こんな風なんだ」
 パキン、パキン、と葛の脚が凍っていく。
「待って! 待ってよ!」
 踵を返そうとする一縷の背中に、名無しの葛の叫び声が縋る。
「逃げるな――逃げるな、臆病者! おいていかないで! 全部、全部置き去りにして行くつもりか! 裏切り者、無責任、この背徳者! 死ね、少女ですら居られなくなったなら、死ね、今ここで死ね!!」
 その言葉に足を止めかけた一縷の手首を、剥離が強く引く。
「今も昔も、一縷は一人でいいんだよ」
 そのまま走り出した剥離に釣られて、一縷の足も走り出す。
 どこから吹き込んでいるのか、涼しい風が一縷の髮を揺らす。
 ふわふわと熱を持って膨張してゆく心臓と、すうっと冷えてゆく脳、回る思考。なんだかその感覚は久しぶりで笑ってしまった。
 エレベーターに駆け込んで、地上までのボタンを押す。冷房が汗ばんだ頬に心地よかった。
「一縷の笑い声を聞いたのは初めてだった」
 壁に背をつけた剥離は、愉快そうにそう言った。
「ねえ、どこ行くの? アトリエは過ぎただろ、地上のお前ん家?」
「えー、つけられてたら僕が捕まっちゃうよ」
「まあ、誘拐犯だからな」
 一縷は少しだけ悩んでから、ぽつりと呟いた。
「私さ。お前のこと覚えてなくて、ごめんな」
「いいよ、そんなことは、もう。ああ、そうだ。お祭り行こう」
「……祭りぃ? まあ……うん。それもいいか」
「全部、僕が叶えてあげるよ」
「あ?」
「別に」
 別にじゃない、と剥離を小突いて、開いたエレベーターのドアをくぐる。見上げた空は、丁度群青色に染まってゆくところだった。
「お前の眼の中歩いてるみたいだ」
「それ、後から恥ずかしくなるやつだよ、一縷」
「そんな事言うと今恥ずかしくなるだろうが」
 一縷は随分伸びた髮を揺らしながら、群青色の夜空の中を、遠くの神社の方へ向かって歩き出した。
 その隣に物騒な変態が居ることで得られる、何かが報われたような錯覚に浮かびながら。

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-第二部- Outsider
ED 翅をもがれた蝴蝶
 成功だ、と誰かが呟いた。
「007番シミュレータ、インサイダー一条一縷、肆戸大祭まで生存です!」
 シミュレーション室内ではわあっと歓声が上がった。
「やりましたね、一縷博士!」
 その言葉に、十七歳の天才博士一条一縷は笑顔を返した。
 シミュレーション・プロジェクト、【ノア】。一条一縷がリーダーとなって勧めていたプロジェクトであり、実在の島肆戸島とその島民を【偶像】プログラムを使用しそっくりそのままシミュレータに打ち込んで、人間のバックアップを取るシステムである。七年にも渡るプロジェクトが漸く今成果を上げたのだ。
「じゃあ、バックアップを取ったらパーティでも開きましょうか」
 一縷の声で室内が沸く。
 シミュレーションの中で一縷が肆戸大祭まで生存していたことは無かった。七歳の時点で死んでしまっていたり、葛と会って劣等感で自死していたりと、とにかく我ながら扱いが難しい人間だった。
 今回はプログラム外に人間が飛ばされてしまったり、同一人物が生成されてしまったりとバグの多い試行だったけれど、インサイドの一縷はどちらも偏執のせいだと納得してくれたようで安心した。
 一縷はジンジャーエールの入ったシャンパングラスを持ってテラスに出た。
 途中でインサイドの白夜に感づかれたが、邪魔はしてこなかったのでまあ良い。神の側面を持つ諫名だけは自由にシミュレータの中と外を出入りできるので、色々と助けてもらった。
「一条一縷さあ」
 背後から話しかけられて、振り返る。
 そこには隣に諫名を伴った白夜が立っていた。
「なんで実年齢じゃなくて十九歳になるようにシミュレーションしてたわけ?」
「それを聞いてどうするんだ?」
「満足する」
「なるほど」
「そして、俺はその答えの予測がついている」
「そう。邪魔しないなら、別に構わないけど」
「二年間の保証をつけたかったんだろ?」
 一縷はシャンパングラスを傾けた。
「沈黙は肯定ー。ふうん。俺みたいなのからすれば、どうして寿命なんか気にするのかと思うけどね。ねえ諫名ちゃん」
「一縷ちゃんが居なくなるのは寂しいわ」
 その寂しさを刻みつけたいんだよ。これから劣化していく自分に耐えきれないんだよ。
「寂しくなったらノアに潜ってよ」
 シャンパングラスをテラステーブルに置いて、一縷は二人の横をすり抜けた。

/*== ==*/

 夏ももう終わる。涼しい風が一縷の長い黒髪を揺らした。
 階段を上がる。上がる。上がる。ときにはエレベーターを使ってとにかく高いところまで。
 パーティを抜け出した一縷は扶桑の高層部、立入禁止の物見台に立っていた。
 良かった、一番綺麗な時間帯だ。
 夜明け前、朝日が上る直前に、ここから飛び降りる。
 インサイドの一縷のような失敗はしない。間違いなく死ぬことができる高さだから。
「あれ、先客がいる」
 茫洋とした声が後ろから聞こえた。
 振り返ると、ぼさぼさの傷んだ白髪を後頭部で結んだ青年がキャンバスと画材を持って立っていた。
「君も朝日を見に来たの?」
「――霧島、剥離」
「僕のこと知ってるの?」
 知っている――知っている知っている。シミュレーションの途中で彼がターニング・ポイントとなってからは何度会いに行こうかと思ったことか。
 それでも。
 それでも、会いに行かなかったのは、一縷が強固に胸に決めていた決心がぶれてしまうのではないかと恐れたからである。
「まあ……そうだね、一方的に」
「ふうん……ああ、君、綺麗だね」
「――は」
「顔。と、身体のバランス。いいなあ。モデルになってくれない? 今丁度描いている朝日の絵に入ってほしい」
「残念だけど、私はこれから自殺するんだ」
「へえ。どうして?」
「もう私が居なくても大丈夫だから」
「それ、別に理由になってないよ」
 がつん、と頭を殴られたような気がした。一縷を知っている人とばかり会話してきたから、反論されたこと自体が久しぶりだったのだ。
「否、十分な、理由でしょう……」
「生きたくないの? 死にたいの?」
 イーゼルを組み立てながら、片手間に霧島剥離は問うてくる。
「それ、違うの?」
「明日が来るのが怖い? 昨日があるのが嫌だ?」
「……明日が来なければいいと思ったことはある」
「理由は?」
「みんな私に期待するから」
「じゃあ辞めちゃえば。君がしようとしてるのって、死にたくて死ぬんじゃなくて自分に期待してた人たちへの報復手段として死を選んでるだけだよ」
「そんなことない、そんなことは」
「ふうん」
「――怒っているんだ、私は」
 だめだ。これ以上考えると。
「違うよ。君は」
 行き着いてしまう。
 聞きたくない。

「君は、妬んでいるんだ」

「やめて!」
 一縷は両手で顔を覆った。
 汚い感情を私の中に見いださないで!
 存在意義を無くすためにこの七年間生きてきた。
 ギフテッドとして生を受け、自分が他と違うと気がついて、周囲からの期待を一身に浴びて、それに応え続けてきた。やりたいことをやれていたのは七歳の頃まで。その後はやらなければいけないことに背中を足を掴まれていた。
 もう開放されてもいいと思ったのに。
 きれいな理由で死にたかった。
 それだけが望みだったのに。

「違う――違う」

 違わない。一縷の明晰な頭脳はそれを否定できなかった。
「君に期待する人たちが無責任で羨ましいんだ。それだけのことだよ」
 一縷はしゃがみこんだ。台無しだ。綺麗な構図が台無しだ。
「ああ、夜が明ける。この構図だと、君、まるで、朝焼けが翼の天使みたいだね」
「天使なんかじゃない……」
 勝手に人を当てはめるな。
「私は人間だ」
「そうだね。人間が生きてることって別に特別なことなんかじゃないよ。死んでないだけ」
「死ぬ時期くらい、自分で決めてもいいじゃない」
「いいと思うよ。人が生きてる理由なんてないんだから、死ぬ理由だってなくていいんだ」
 ただ、と霧島剥離はつづけた。
「僕の絵が完成するまで生きててほしいけどね」
 一縷はゆっくり頭を上げた。
「私は死んでしまいたい」
「僕は生きていてほしい」
 ふと、剥離の顔が明るくなった。朝だ。その群青色をした眼に囚われる。
「君の名前は?」
「――一条、一縷」
「一条一縷? ああ、それで……ねえ一縷、それじゃ、これから僕の絵のために生きてよ」
「描き終わったら死んでもいいの」
「次の絵を描くからだめ」
「切りがないじゃないか」
「君より長く生きてるから言わせてもらうけど、人生ってそんなもんだよ。今度は期待する側に回ってみるといい」
「は、なにそれ」
「君はまだ子供なのに、ずっと大人の役割をしてきたんだろ。それで自分のことが嫌いなんだ。だから、子供になってみたら」
「そんなこと、今更できない」
「できないことなんてあんまりないよ。その大抵が、やらないだけだ」
「うるさいなあ……」
 一縷は前髪をぐしゃっと掻いた。
「私の何を知ってそんなことが言えるんだ。子供ですって? そうだよ、子供だよ。子供のうちに死なせろよ! 後継機ができるのが怖い、お前なんかもういらないって言われる前に、世界で一番嫌いなやつを、唯一殺せる好機なんだ!」
 一縷は自分の眼が熱くて溶けてしまったんじゃないかと錯覚した。泣いているのだ。
「自殺の甘寧は大人になるまで取っておいたら。タバコとお酒と一緒だよ」
「世界が滅んでからそんなの守ってるやついない」
「僕は守ってたけどね」
「ああそう……ああ、もう、論点がずれる! じゃあお前がレゾン・デートルをくれよ。私を生かす一言を言ってみせろよ! 天才じゃないただの一条一縷に生きる意味を見出してみてよ!」
「そうだね、その意味を君自身が見つけるまでは、僕がずっと一緒に居てあげる」
 一縷は彼が吐く群青色の言葉に目を見開いた。
「――は、はは。陳腐だ」
「そうだね」
「思い上がりも甚だしいよ。そんなに自分に価値があると思ってるの」
「価値なんてどうでもいいだろ。君が楽になるか、その瞬間があるか、どうかだ」
 一縷は顔を歪めた。
 ぽろり、と、涙がこぼれた。
「寂しかった」
「うん」
「怖かった」
「そう」
「誰も私に付いて来ない。誰も私を理解しない、しようともしない」
「うん。君の側に居るべきだった誰かの代わりに、君の側にずっといるよ」
「……どうしてそんなこと言ってくれるの?」
「さっきも言っただろ。君が天使みたいだから。飛んでいかれたら困るんだ、もう構図に入ってる」
 ああ、
 悪くないかもしれない。
 一縷は目元をこすって、涙の跡を消した。
「じゃあそのまま動かないでね。描くから」
「どのくらい?」
「一時間くらい」
「……時給取るぞ」
 まだ天上は群青だった。
 背に太陽の橙を受けて、一縷はほんの少しだけ笑った。

/*== ==*/

 教室の一番後ろ、廊下側の席で突っ伏していると、同級生の三島葵に教科書で頭を叩かれた。
 これで一縷の脳細胞が壊れていたらどうするつもりだ。世界的損失だぞ。
 そんなことを考えながら顔だけ上げる。
「なんだよ」
「寝るな」
「寝てはいない」
「突っ伏すな。というか、最近どうして急に不真面目になったんだ?」
「んー、本性が出てるだけかな」
「へえ。まあ、前よりは親しみやすいかもな」
「教室で積極的な会話が成り立つのはお前くらいだけどな」
 一縷はふと思い出して葵に尋ねた。
「葵、家族に三島桂っている?」
 葵の姿勢が傾いだ。
「……姉だ」
「へえ、やっぱり。雰囲気が似てると思ったんだ」
「どこが!」
「生真面目でちょっとズレてるところ」
「あの人そんな性格か……?」
 なにやらぶつぶつと呟きだした葵を置いて一縷はもう一度突っ伏した。
 群青に魅せられて、自分の人間性の輪郭を少し愛し直せた気がした。
 目を瞑り、あの日の朝焼けを思い出しながら。
 一縷はゆっくりと夜の帳が下りるように眠りの淵に落ちていった。

── 了 ──

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