一
この話はその△△という教師が××高校へ赴任して四年目の春先の事である。彼はいつになく憤慨しながら、白くて味気ない廊下を歩いていた。職員会議の結果、彼は一年のB組を持つ事になった。職員室からそのB組の教室までは、他の教室と比べて少し距離があった。その為にいつもよりも急ぎ気味に向かわなければならなくなった。ただでさえ忙しい教師の仕事が、この若干長い廊下のせいで、余計に忙しくなった事に、彼は苛立ちを感じていた。その上、今日は入学式である。この暑苦しいスーツが又彼をいらいらさせた。ふだん彼はジャージで学校をふらついていた。けれども、式典でジャージ姿は、教師として有るまじき行為である事は、既に四年目にもなった彼にも充分わかっている。彼も亦、そこに異議を持ちながら、やはり従わざるを得ない一市民であった。
教室へ向かうと、綺麗な紺色の制服を着た、まだ幼い顔立ちの男女が並んで机に座っていた。その胸ポケットには既に赤い薔薇の造花が小さく差されていた。教師はぱっと全体を見廻した。男女の視線は殆ど彼に集まっていた。ふと彼は一番窓際の席に座っている少女に眼がいった。少女のゆるやかにカーブしている長い髪は、窓からはいってくる日にあたって、明るい茶色をしていた。が、顔つきは日本人のそれだった。マシュマロのような柔らかい白い肌、切った白桃のように潤んだ薄い唇、黒水晶のように輝いた眼、──少女は緊張しているのか、その頬は淡紅色に染っていた。何かの拍子に少女と眼が合うと、彼女は頸を擡げて、顔を少し傾けながら、にこりと微笑んだ。彼はどきりとした。そうして眼を背けながら、こほんと乾いた咳を出した。
入学式は昼過ぎには終わった。今頃生徒たちは教科書でも抱えてバスや電車を待っているのに違いない。式の片付けがあるからか、職員室は人が疎らである。彼は早速自分の仕事に取りかかる為、とりあえず教科書を開いた。何となしに見るとそこには偶、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「受胎告知」の写真があった。そのマリアの姿に彼は、不思議と何故か、今日の窓際の少女の影を見た。勿論姿かたちが似ている訳ではなかった。が、彼は、絵画上のマリアに、その髪の明るい所や肌の白さなど、どこか少女との共通点を見つけようとしている事に気づいた。忽ち恐ろしくなった彼は、小刻みに震える手でそっとページを捲った。けれども彼の脳裏にはずっと、受胎の告知を受けて、絶望と希望の混ざったような表情をする少女の姿がありありと浮かんでいた。
二
或五月の事である。彼は自分の担当の授業の為に、いつものように、不相変白いだけの長い廊下を歩いていた。すると丁度横の教室の扉から出てきた例の少女の姿が眼にはいった。と同時に彼女のシトラスの香りがぱあとあたりに漂った。少女はこちらを見ると驚いた表情を浮かべた。が、すぐに気を取り直したようで、
「あ、先生。こんにちは。」と頬を赤らめて苦笑した。
「こんにちは。」と彼はいつもの営業的な笑顔で返した。
「A組の授業ですか?」
「そうだよ。」
「頑張ってくださいね。」
そう言うと、少女は背を向けてそのままぱたぱたと歩いて行った。彼は振り返る事もなく、唯教室へ向かった。が、A組の教室へはいっても猶、そのシトラスの香りが鼻について、いつまでも離れなかった。
けれども授業を終える頃にはもうシトラスの香りも、少女の事もすっかり頭からなくなっていた。騒めく教室から出る為に、薄汚れた白い扉を開けて、右へと職員室の方へ歩き出した。B組の教室の前を横切ろうとした時、又例の少女がシトラスの香りを漂わせながら出てきた。
「奇遇ですね。」
少女は今から移動教室なのか、両手に水色のノートを抱えていた。
「次は何の授業?」
「え、何でですか?」
彼女は微笑みながらも戸惑いの表情を見せていた。彼は目線を少女の抱えているノートへ向けた。
「ああ、今から提出しに行くんです。◻︎◻︎先生厳しいんですよ。先生からも言っといてください。」
そう言って、少女は苦笑した。彼女の愛嬌ある笑顔に、つい釣られたように彼も眼を細めながら、
「それは大変だね。」と誤魔化すように笑った。
その後二人はそのペンキ塗りの長い廊下を歩いた。四つ並んだ教室を過ぎると、徐々に陰になって暗い、人通りも一気になくなって、外の鳥のさえずりさえ聞こえるようになった。
「──あの、先生?」
隣に歩いている少女が声をかけた。心做しか甘えているような声にも感ぜられた。
「何?」
彼は教師として、敢えてつっけんどんな態度で返した。
「いえ、やっぱり何でも、……」
少女は急に足を早めて、職員室の扉の横へ到着するとくるりと振り返った。スカートがひらりと舞った。そうしてそのまま上目遣いで、頬を少し赤らめながら、こちらを見た。彼はエスコートする貴族のように、柔らかな営業的笑顔を見せて、左手で「お先にどうぞ」というジェスチャーをした。少女はそれを見ると、軽くため息をついて扉の方を見た。
「失礼します。」
がららと少女は職員室にはいるとすぐに、手前の隙間から◻︎◻︎先生の席へと向かった。彼は途中までそれを見届けると、ほっとしたように向こう側にある自分の席に座った。そうして彼は次の授業の準備に取りかかった。
その日の夕方。今日は久しぶりに早く帰路に就ける事がわかっていた。書類をとんとんとまとめて鞄にいれると、職員室の扉を開けた。すると眼の前の廊下に、凭れかかっている例の少女の姿があった。少女は鞄を足下に置いて、両手をスカートの前に重ねて、不相変微笑んでいた。
「遅いですよ。わたし待ったんですから。」
「はやく帰りなさい。」
彼は眼を細めながらも、語気を少し強めて言った。既に五時が過ぎていた。外には運動部らしい喚声が響いている。
「どうしてですか?」
「どうしてって、……」
彼は説明するのが億劫になり、ため息をついて廊下を左へ歩き出した。少女は慌てて鞄を持って駆け足でついて来る。
「ねえ、どうしてですか?」
少女は笑いながら横に並んだ。
「どうしてもこうしてだよ。……ついて来るのをやめるんだ。」
「でも、帰る所は同じですよ?」
彼は何も言えなかった。事実二人は昇降口へ向かっているのに違いなかった。それに気づくと彼は又大きなため息をついて、廊下に埋めこまれていた大きな四角い窓から外を眺めた。斜陽は運動場を黄色く照らしている。運動場には野球部らしい黒いキャップが並んでランニングしていた。それから暫く二人は口を開かなかった。
昇降口は暗かった。空も夕日があたりを黄色く照らしていた。初夏の冷たい風が二人の前髪を揺らした。二人はそのまま昇降口を過ぎて、校門の前に辿りついた。すると少女がこう切り出した。
「実はね。先生の事が、──」
彼は嫌な予感がした。真っ先に彼の脳裏に浮かんだのは法律だった。それを破ると、彼の職業に関わるだけではなく、彼の名誉、ひいては眼の前の少女の将来にさえ迷惑がかかる事を咄嗟に理解した。
「待て。」
だから彼は営業的な笑顔をする事も忘れて、口に出した。
「嫌です。」
「わかっているのか?」
「……」
少女は俯いた。少女の頭にも、法律はないにせよ、世間体から想像して、自分がしてはならないタブーを犯そうとしている事位は充分に理解出来ていた筈である。
「それでも、好きなんです。先生の事が。入学式の日、わたしを見つめたあの日からずっと。……」
けれども少女は俯いた儘、吐き出すように言った。彼は静かに隣にいる少女を見下した。旋毛はぶるぶる震えていた。
「ああ、ありがとう。」
彼はすぐに断る事がどうしても出来なかった。この時は営業的な笑顔を見せる事さえ出来なかった。それは彼女の心もちを察したからに違いない。そしてそれと同時に彼も又、眼の前のこの少女に、女性としての魅力を感じない訳でもなかった。けれども彼は或恐怖も感じた。こうしてタブーを破ろうとしてまで、自身の情を突き通そうとする少女に、フランス革命を起こした市民を感じた。そうしてその或恐怖は少女に対してだけではなく、己自身に対しても巻き起こった。まるで己に悪魔でも取り憑いたかのように、眼の前の、あどけない少女を、犯して見たいという好奇心さえどこからか湧き上った。その下品で、男性的な感情が、常日頃清廉潔白な彼にとって、どうしても許せない恐怖があった。
「じゃあ、付き合って貰えますか?」
少女は明るい顔を向けた。その目尻に溜まった涙が、斜陽の光を浴びてきらきら輝いていたのは言うまでもない。彼は溜飲を下げるように唾を飲んだ。そうして眼を背けて、こう答えた。
「いや、それは出来ないよ。」
「どうしてですか?」
「それは、──」
彼は一瞬答えに詰まった。彼には元来、どうしようもない時に冗談に逃げる悪癖があった。この時も彼は、柔らかく表情を濁して、半ば自嘲でもするようにこう言った。
「君が、人間だからだよ。天使にでもなれば付き合えたのに。」
「そう、ですか。」
少女は又俯いた。そうして少女は静かに「天使に」と言うともなく呟いた。震える少女の肩を見て、彼は逃げるように背中を向けた。
「君は天使のように綺麗だからさ。いつか好い人に恵まれるよ。」
首を少女の方に向けながら、出来るだけ明るい声を出して言った。
「じゃあ、また明日ね。」
勿論返事は返って来なかった。が、彼はそのまま歩いて行った。しかしその足音は明らかに早くなっていた。兎に角この場から離れるように。
三
次の日の朝。彼がいつものように職員室にはいると、何やら職員室は慌しい空気に包まれていた。新人の先生を捕まえて尋ねると、どうやら例の少女が死んだらしいという話を聞かされた。彼はまず自分を疑って、他の先生にも同様に尋ねると、やはり皆口を揃えて彼女の死を話題にした。けれども彼はどうしてもその話を信用する事が出来なかった。と言いながらも脳裏にはやはり昨日の夕方の出来事を思い浮かべていた。天使という言葉が舞い降りたのは勿論冗談であった。しかしそれが少女をそこまで追い詰める事になるとも思っていなかった。いや、この眼の前の現実を見ても尚、彼には少女の死を受け容れる事が出来ないでいた。
うす汚い廊下も今見ると、稍小綺麗にも見える。自分の精神状態のせいだろうかとか考えながら、彼はその廊下を小走りにB組の教室へ向かった。朝日のはいる窓は白い光を廊下に射しこんでいる。彼の頭の中には昨日の少女の茶髪の旋毛が鮮明に思い出されている。頭の中の少女は間違いなく嗚咽を上げていた。──その時、右手に抱えていた帳簿が何かの拍子にぱさっと音を立てて手から離れた。床の白黒の細かな模様は何故か自分たちの運命を分ける天使と悪魔に見えた。烈しい動悸を抱えながら、帳簿を拾い上げると、B組の扉をがららと開けた。
勿論すぐに見たのは一番後ろの窓際の席である。やはりそこだけぽっかりと空いていた。今まで一回も休んだ事のなかった少女の不在は、今朝の職員室での話に猛烈な真実味を与えた。彼は愈焦りながらも、どうにか震える手を抑えて、いつもの営業的笑顔を浮かべて、平然を装った。少女の話は真相が明らかになるまでは伏せよとの命令だった。だから彼は一際大きく珍しがるように、少女の休んでいる事を話題にした。
その昼休みの事である。廊下がいつもより騒がしい。手早く昼食をすませた彼は職員室を飛び出して騒ぎのもとへ向かった。どうやらそれはB組の教室かららしかった。聞くと例の少女が登校して来たという噂だった。しかし彼が聞いた話によると、例の少女は五階のマンションから飛び降りて、救急搬送されて亡くなったとの事だった。彼は半信半疑の中、B組の教室の扉を開いた。
「あ、先生。こんにちは。」
眼の前に少女の姿があった。丁度教壇を通って自分の席へ移動している最中らしい。こちらを振り返って微笑んでいた。どこにも傷らしい傷もなく、いつもの少女である。あのマシュマロのような柔らかい白い肌、切った白桃のように潤んだ薄い唇、黒水晶のように輝いた眼、──すべて揃った少女の制服姿である。そこにふと彼は安心感を覚えた。が、すぐに彼は、少女が死んだという話を思い出した。どことなく少女のまわりは空気が淀んでいるように感ぜられる。窓からの光が心做しか少女の身体を照らしているようにも見える。そうしていつもなら漂っている筈のシトラスの香りもない。
「どういう事だ?」
彼は恐る恐る問うた。そのまま教壇に着いて、いつもの営業的笑顔を向けた。少女は自分の席にたどり着くと、持っていた鞄を机に置いた。そして一息ついたと思うと呟いた。
「先生。わたしね、……」
少女は少し俯きながらも、微笑みを絶やしていない。けれどもやはり少女のまわりには見えない何かがあるように感ぜられた。実際少女を中心として紙くずや埃が回っているようである。そうしてその風は徐々に強くなって、彼の鼻の先にも薄ら動きを捉える事が出来た。その風にはほんのりとシトラスの香りが混ざっていた。
少女は微笑みながら、徐にこちらへ近づきはじめた。一歩、又一歩と、この大地に足を踏みしめるように。彼はじっと、その足下を、そこを回る紙くずや埃を、ぼんやり見るともなく見つめていた。短い白ソックスから生える、これ又白い脚は水分を保って薄ら青色にも見える。丁度眼の前に来た時、風に揺れる紺色のスカートが思わず眼にはいってしまった。
ふとその横をはらりと一本の長い羽が落ちるのが見えた。羽?──慌てて少女の姿を見た。彼は驚いた。見るとその背中には、一メートル程の大きな鳥のような純白の羽が二枚あって、それらがゆっくり羽ばたくように揺れていたのである。頭の上にも、絵に描いたような、薄い黄色の、輪郭のない輪がぼおっと浮いていた。
「わたしね、天使になれたよ。」
少女は微笑みながら、手を伸ばして来た。彼は少女の異様な姿に、前に教科書で見た「受胎告知」の絵を思い浮かべた。あの時のマリアは眼の前の少女ではない。──思わず息を呑んだ。彼の脳裏にはやはり、いつもの如く法律が浮かんだ。けれども今、己と添い遂げようとする為に、異様の姿にまでなった眼の前の彼女の想いに抗うのが、不思議と急に莫迦らしくなってきた。それに天使であるならば、最早法律も世間体も何も彼も、二人を裁かないであろう。……
彼は特に何か笑顔を浮かべる事もなく、魂の抜けたようにそっと少女の手をつかんだ。すると少女は緩慢に羽を前後に動かしながら、窓の方へと向かった。がらりと窓を開け放つと、そこへ足をかけた。そうして彼をつかんだ儘、一息に飛び上がった。
皆が慌てて窓から見上げた時、二人はもうどこかへ消えて、唯青空が広がっていた。
「泣いてたね、あの子。」
集まっていた内の誰かがふと小さく呟いた。シトラスの香りだけが仄かに残っていた。
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