第一章 沙也加の場合ー『春眠暁を覚えず』
カッカッカという音とともに、黒板の真ん中に角張った字が書かれていく。
「次の授業までに意味を調べおくように」
教師の声と、チャイムの音が重なる。
教室の雑音の遠くで、寝息が聞こえた。
隣の席の男子が幸せそうに目を閉じていた。
「生田くん、授業終わったよ」
声をかけても起きない。
沙也加は彼の肩に手を置いた。
「生田くん!」
生田の目がゆっくりと開かれる。
生田は肩にかけられた沙也加の手を掴んだ。
掴まれた小さな手が一瞬震えた。
「え?」
沙也加の口から吐息のような声が漏れた。
生田は沙也加の手を握ったまま、
ゆっくりと顔を上げた。
白いカーテンが、大きくうねり、
柔らかな風が吹き込む。
「あ、ごめ……」
生田は慌てて沙也加の手を離した。
それと同時に、するっと沙也加の手が下に落ちた。
「もう授業終わったよ」
沙也加は鼓動が早くなるのを感じながら、
生田から少し視線をずらした。
沙也加が教室を出ようとした時、
廊下の窓から桜の花びらが吹き込んだ。
「うわっ」
沙也加は思わず、後ずさりした。
生田は飛び込んできた
沙也加の背中を受け止めながら、
「きれいだな」
と呟いた。
沙也加が「ごめん」と言いながら
振り返ろうとしたとき、
生田の大きな手が、沙也加の小さな肩をすっぽりと掴み引き寄せた。
「ちょっと待って。
ボタンに髪がひっかかってる」
長い指が、柔らかな髪を少しずつほどいていく。
淡いサボンの香りが広がる。
「喉乾くよね」
沙也加は廊下に視線を落としたまま
早口に言った。
「できたよ」
生田は絡まって乱れた沙也加の髪を優しく整えた。
手の重みで髪が揺れる。
「ありがとう」
振り返らずに教室を出た。
廊下を曲がったところで、沙也加は掴まれた手に、
そっと口づけた。
教室では生田が一人、自分の手を見つめ、
微かに残るシャンプーの匂いを嗅いだ。
教室のカーテンがもう一度大きくうねった。
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