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五陰盛苦の果に

連載中(書きかけ)

Makoto Yaoi

9,864 字

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# 第四章 行

第四章 行

『執着』に圭吾という依代を得た私は、さらに貪欲になる渇愛を抑えることができなかった

父の腰痛は何とか持ち直したものの、以前のように檀家周りができないため、寺の法務の半分以上は私が受け持っていた。

時間の余裕がない私は、時折圭吾がアルバイトしている葬儀場の隣の喫茶店へ足を運ぶようになった。

『明日は13時から18時までバイトです!』

いつものようにLINEに連絡が入る。圭吾はこうして、日に何度も連絡してくれる。

私も彼にならって返信をしたり、スタンプを送ったりしている。

彼は店で会えることで満足しているのだろうか?もっと私と逢いたいと思わないんだろうか?

寺で夕方のお務めを済ませ出かける準備をしていると、義母が部屋に入ってきた。

「慧光さん、もう帰るの?今日は一緒にお夕飯召し上がらない?」

エプロン姿の義母も、一回り小さくなった気がする。義母が寺に来て7年。父の代わりの仕事が増えたことで、義母が本当に良く寺の実務をこなしていることがわかった。

しかし、彼女との距離を縮めることが、どこか母への裏切りのような気がして、一歩を踏み出せずにいた。

「今日は予定がありまして……」

「あ、そうなのね。じゃ次にでもゆっくりして頂戴。お父さんと話したいこともあるから。」

「父さん、具合が悪いんですか?」

そう聞く私に義母は、手を左右に振って、心配はないと答えた。

「ただね、この先どうなるかも分からないし。まだ元気だって言っても、世間では定年の年齢も超えているわけだし。色々とね……」

寺の雑務の引き継ぎだろうかと思い、なるべく近いうちに時間を取るとつたえて寺を出た。

***

喫茶店に入ると、コーヒーのいい香りがした。

店はチーク材で統一されたレトロな雰囲気だった。カウンターの深い色合いが、長い年月を経てきた事を物語っていた。

地元の店なので、檀家さんや知り合いに会うことも多いが、圭吾と私は店では話すことはほとんどなく、一定の距離を保っている。

夕方のこの時間は仕事帰りのサラリーマンで少し混んでいた。私はいつものカウンターが見える店の右手の奥の席に着いた。圭吾が水を運んでくる。白いシャツに黒のエプロン。彼の細い腰に巻きつけられた長めのエプロンがよく似合っていた。

「ご注文はいつものでよろしいですか?」

「はい、それで」

互いの視線が絡み合う、一瞬の逢瀬。

運ばれたマンデリンを飲みながら、私は癒されない渇きを感じていた。  

***

喫茶店での逢瀬を重ねている間に、小山先生の納骨日になった。

その日は例年より早く梅雨入り宣言がされた日で、朝から雨が降り続いていた。

寺へ行くと義母が父を支えながら玄関先に出てきた。

「お父さんね、また腰を痛めたみたい。とりあえず病院へ連れて行くから、小山先生のところの納骨は慧光さんにお願いするわね」

父は腰が痛くてそれどころではないようだ。顔を赤くして、痛そうに俯いている。

「車呼んでるの?」

私は父の反対側の肩を支えながら、義母に尋ねた。

「タクシー呼んでるから、もう着くはずよ」

そんな会話をしていると、タクシーが寺の前で止まった。

父親を車に乗せ、義母に父を頼んで小山家へ向かう準備をした。

***

『今から向かうよ』

圭吾にLINEを送った。10分くらいで小山家近くの駐車場についた。車から出ようとすると、大振りの傘を差し出した圭吾がいた。

「今日はお世話になります。慧光さん」

こちらを見て歯を覗かせ笑っている。

「わざわざ、ありがとう。体濡れてない?大丈夫?」

圭吾の肩に手をかけ、彼の背中や足元を確認した。

「大丈夫だよ。行こう。あ、何か持つものある?」

圭吾が車をのぞきながら言った。 「じゃこの袋だけ持ってもらってもいい?」

「了解!」圭吾が車から荷物を取り出して歩き出した。

駐車場は舗装されていないので、所々に水溜りができていた。 バシャン!という音とともに、圭吾の声が響いた。

「……うわっ!」

「大丈夫か?気をつけて。ほら……」

私は圭吾の手を引き、水溜りのない所を歩かせた。

家の玄関先では小山先生の奥さんが客と話していたが、私たちの到着に気づき、来客対応の合間を縫うように慌てた様子で話しかけてきた。

「あら!慧光さん雨のなかありがとう。ほら、上がって……あら、圭吾あなたどうしたの?びしょ濡れじゃない。ちょっと待ってて。タオル持ってくるから。廊下、濡らさないでよ」

「本日は、よろしくお願いします。」

私が一礼すると、圭吾が後ろから声をかけてきた。

「慧光さん、こちらの荷物どうなさいますか?」

私は振り返り、

「仏間に持って行ってもらおうと思ったんだけど……圭吾くんも大変だよね。僕が持っていきましょうか?」

と言いながら荷物を受け取ろうとすると、圭吾は私の手を制した。

彼の指先が私の手の甲を撫でる。「大丈夫です。後で運びますので。」

そう言いながら奥の部屋へと消えていった圭吾の耳はほんの少し赤くなっていた。 

百箇日の法要は小山家の仏間で執り行われた。

読経と焼香が終わり移動の準備をしていた時、居間の方で声が聞こえてきた。

「わしら、納骨が終わったらこのまま駅まで送ってほしいんやけど。」

親族の数人が、納骨後の食事には参加せず駅まで連れて行って欲しいと言い出したのだ。

小山先生の出身が遠方だったこともあり、地方からの親族がかなり来ていた。早く電車に乗らないと帰宅が遅くなるというのだ。

「まぁ、困ったわね。そうするとタクシーが足りないわ。もっと早く知らせてくれていれば段取りしておいたのに」

小山先生の奥さんは、電話片手に途方に暮れていた。

「僕の車で良かったら、乗っていただいて構いませんよ」

と声をかけると、大きな目をさらに大きくして、

「まぁ!それは助かるわ。でもいいのかしら。御迷惑でない?」

と聞いてきた。

行く先は同じなのだから問題はない。尋ねると圭吾と彼の弟と妹を乗せればいいらしい。

「じゃ、圭吾くん。車をこちらまで移動させるので、玄関で待っていてください」

私は圭吾にそう告げ、駐車場へ車を取りに行った。

LINE の着信音がした。

『やった!慧光さんの車!久しぶり!』

短い文面とスタンプが送られてきた。

彼の文にハートを送った。

車を玄関先に着けると、圭吾と彼の兄弟が待っていた。

「二人とも早く乗って。雨降ってるから」

圭吾は後部座席のドアを開けそう言うと、兄弟たちを座らせ、自分は助手席に座った。 「お仏壇の匂いがする」

車に乗った途端、圭吾の弟が口を開いた。

すると、「でも、僕はこの香りが好きだな……」と圭吾が消え入りそうな小さな声で呟いた。

雨がフロントガラスに打ち付ける。ワイパーの音が車内に響いた。

「あ、佳代子寝ちゃった。」

沈黙を破るかのように、圭吾の弟がつぶやいた。妹は佳代子という名前らしい。

墓地に着くと、もう数台のタクシーが着いていた。圭吾は妹をおんぶし私は二人に傘を差した。

墓の前に着くと、小山先生の奥さんが慌てて駆け寄って来た。

「慧光さんごめんなさい!濡れちゃってない?送迎までさせて本当にごめんなさい。あら。佳代子寝ちゃったのね。ほら、準もこっち来て、おばあちゃんと並んで。」

圭吾たちは墓石の近くに並んだ。

私は墓石の前に立ち、お経を上げた。 今日が百箇日ということもあり、朝から降り続いている雨が小山先生の死を悲しむ区切りの雨のように思えた。 

初めの読経が終わり、おりんを鳴らすと、小山先生の奥さんと圭吾が先生のお骨をさらしの袋に移し替えた。

一瞬、白い骨が見えた。

先生が小さな骨になったことに胸の奥が苦しくなった。

どこかから嗚咽が聞こえる。

口を真横に結んだ圭吾の弟が泣くのを我慢していた。

納骨が終わり、私はおりんを鳴らし再び読経を上げた。

先生に捧げた私の読経は雨に溶け、地に染み込み、先生へと届くだろうか。こんなことを考えながら、最後のおりんを鳴らした。

私は小山先生の奥さんに個人的なお参りを申し出た。

誰もいなくなった墓地で手を合わせた。

墓石は冷たく、納棺のとき人知れず触れた、先生の頬のようだった。

私は墓石に触れた手に口づけ、その手でもう一度墓石に触れた。先生、これが最後です。

許してください。

墓石に頭を下げ、駐車場の方に向かっていると、圭吾がこちらを向いて立っていた。

一瞬ドキリとした。咄嗟に謝罪の言葉が出かかった。

私は唾を飲み込み、笑顔を作った。

「待っててくれたんだ」

圭吾に声をかけ、頭に手をやる。ふいっと、圭吾が頭をそらした。軽率だったか?

私は思わず辺りを見回した。誰もいない。私はほっとし、詰めていた息を吐いた。

その時、私の「安堵」という感情が、胸の奥をちくりと刺したような気がした。「行こうか」私たちは途中で圭吾の兄弟を迎えに行き、駐車場へ向かった。

帰りの車は誰も何も話すことなく。再び寝た彼の妹の寝息だけが聞こえてきた。

私はハンドルを握りながら、飲み込んだ謝罪の言葉を思い出していた。彼の父への行為に対する謝罪なのか。恋人に見られたかもしれない行為に対する謝罪なのか。

自分の執着がどこへ向かっているのか。

何度も逡巡している間に、車は小山家に着いた。

納骨から1週間ほど経った頃、圭吾から電話がかかってきた。

服を買いに行きたいという。私は携帯電話に、隣にある県名とショッピング、メンズ、服と打ち込んだ。

ちょうど隣県に大型アウトレットがあるようだ。

検索の最初に隣の県名を入れた自分の無意識の行動に、再び胸の奥がチクリとした。

カレンダーに予定を書き込む。

お互いに忙しく、なかなか出かけることはできないが、時折このように2人で出かけることがある。

カレンダーにぽつりぽつりと書かれた2人の予定を見返すと、どれも見事にこの町から遠く離れたところばかりだった。

私はその地名をじっと見つめ、百箇日の日、小山先生の墓石の前に立つ私を見ていた、圭吾の顔を思い出していた。

私は携帯電話を取り出し、圭吾に文章と共にアウトレットの地図を送った。

「ちょっと遠いんだけど結構品数も揃っていていいらしいんだ」

と、言い訳を混ぜつつLINEで勧めてみると、

「僕、慧光さんとドライブするの大好きです!」

と、無邪気な返信が来た。圭吾からの返信を指先でそっと撫で、目を閉じた。深いため息が漏れた。

私と圭吾のデートは遠方ということもあり、多くの時間を車中で過ごしていた。そんな時も、「ドライブデートですね!」ととても喜んでくれていた。雛の刷り込みのように、私に傾倒してくれている圭吾を見て、私は少しの罪悪感と大きな満足感に満たされていた。

アウトレット、映画館、博物館、テーマパーク、私たちは普通の恋人同士のようにデートを重ねた。 ただ私たちが同性で、私が僧侶だと言うだけだった。

リリリン!リリリン!

突然、携帯電話の着信が鳴り出した。『小山君』の文字が画面に映し出された。圭吾からだった。

「もしもし!慧光さん?」

「もしもし、珍しいね、こんなに朝早く」

「あのね、今日のバイト遅番になったんだけど。明日も休みだし会えないかなと思って」

「いいですよ。今日の午後は法務はありませんから。私が喫茶店へ行きますね」 「やったー!じゃ、待ってます!」

電話を切り、窓の外をみる。

いつの間にか梅雨が明け、空には青空が広がっていた。

風が吹き込みカーテンがうねった。

午前の法務を終え遅めの昼食を食べた後、寺へ寄った。父はここ数ヶ月でかなり痩せたようだ。

「父さん、具合大丈夫なの?」

「よくなったり、悪くなったりだよ薬をもらってだいぶマシになったんだけどな。今度精密検査受けてくるよ。万が一のこともあるしな」

そう言うと、父は深いため息をつき、そのまま目を閉じて寝てしまった。

「慧光さんごめんなさいね。最近痛み止めを飲んでいるせいか、こうやって途中で寝ちゃうのよ。腰が痛くて夜も眠りが浅いのもあるみたい」

私は眠ってしまった父に、置いてあったタオルケットをかけた。

「精密検査って……何か大きな病気かもしれないんですか?」

「そういうわけじゃないけれど。こうも長引くとね。万が一ということもあるから。嫌がってるみたいだけど、健康診断代わりに受けてもらおうと思って」

夕飯の支度の途中だったのだろう、そう言うと、また台所の奥へ戻って行った。

私は寺で用事を済ませ、圭吾のアルバイト先の喫茶店へ向かった。

陽はとうに沈み、西の空だけがほんの少し、赤味を残していた。寺から喫茶店はそんなに離れていないが、圭吾を迎えに行くということもあり、今日は車で出かけた。

うちの向こうのコインパーキングに車を止め、5分ほど歩く。

喫茶店に着く頃には、もう夜になっていた。空には金星が輝き、その向こうで薄い下弦の月が夜空に引っかかっているように見えた。

街頭に白い明かりが灯り、喫茶店の入り口の電灯にもオレンジ色の明かりが灯っていた。

店に入り、いつもの席に腰掛けカウンターを覗くと、圭吾がこちらに気づき、水を運んできてくれた。

「慧光さん、いつものでよろしいですか?」

少し小首を傾げて聞く姿に目を細めながら「お願いします」と答えた。

コーヒーを飲み、小説を数十ページ読んだところで、携帯電話が震えた。圭吾からだった。

「仕事あがったよ!」

短いメッセージと共にハートを持った動物のスタンプが送られてきた。私は勘定を済ませて駐車場へと歩き出した。

圭吾がいつものように車の脇で待っていた。携帯電話を見つめ、こちらには気づいていない様子だ。スマホの明かりに照らされた、圭吾の横顔が見える。

「お待たせ」

私が声をかけると、圭吾の薄い肩がびくりと上下した。こちらを見上げると、ぱっと笑顔になる。

温かくなる胸の内を感じながら、車を解錠する。

圭吾は助手席に座りシートベルトを締めた。

「座席、前にしようか?」

「うん……」 父が乗っていたのだろう。後ろに下げられた座席を前にスライドさせると、圭吾がもぞもぞと動き出した。

「まだ緊張するの?」

「だって、普段こんなに近くなることはないから……」

「もう、慣れたかと思ってたよ」

素直な圭吾の反応に思わす笑ってしまった。

薄暗がりの中でも、圭吾がこちらをじっと見つめているのがわかる。

怒ったのだろうか?

「どうしたの?いきたいところでもある?」

と聞いてみた。

「ラーメン食べたいな……ね、ね、近所にできたラーメン屋、美味しいんだって。今度行かない?」

圭吾がさっきまで見ていたのだろう。さっと画面を見せてきた。

隣町。胸が小さくきしんだ。

「地元は、やっぱりね……」

私は圭吾の頭を撫でながら、圭吾を見つめた。

少し残念そうに頬を膨らませた、圭吾の頬を指先でつまんだ。

「ほら、笑って。拗ねるなよ。」 私はちょっと茶化して、その場をやり過ごそうとした。

駐車場の街灯に照らされた圭吾の目が少し潤んで見えた。私は彼の目から視線をそらすことができなかった。親指で圭吾の頬を撫でる。

圭吾がほんの少し目を伏せた。 

全てを私に委ねたような、彼のほんの小さな行為が、私の支配欲を刺激した。

その時、私の中で何かが弾けた気がした。

「今日、うち来る?」

無意識に口をついて出た言葉を飲み込めないまま、私は圭吾の反応を待った。腹の底にどろりとした何かが流れ込んでくる。息苦しくなり、ほうっと小さく息を吐いた時、圭吾は小さく頷いだ。

いつもなら、明るく返事をする彼は。今日はこくりと頭下げ、上目遣いに私を見た。彼の濡れた瞳に、私の理性は音もなく溶けていく。

私はハンドルを強く握りしめ、車を出した。

圭吾は何も言わないまま、車窓を眺めていた。

お互いの沈黙が、さらに今日という日に意味を持たせている気がした。

何も話さないまま、車はマンションの駐車場に着いた。私が車を止めると、圭吾は車を降りて非常階段へと消えていった。

私はエンジンを止め目を閉じた。深いため息が漏れる。バックミラーに映った自分が、汚く穢れた人間に思えた。

私は車から降り、エレベーターで5階に上がった。降りてすぐ横の501の鍵を開ける。

部屋に入ってすぐに圭吾にLINEを送った。

ほどなくして、玄関チャイムの音がした。

圭吾だ。

いつも彼を迎えるときは心苦しい。どこで誰に見られているかわからない。

こんなふうに時間差でしか部屋に入ることができない関係がいつまで続くのだろうか。

圭吾は目を細めながら笑った。懐かしいあの笑顔を見て、胸の奥でまた何かがきしんだ。

「入って」

私は圭吾を迎え入れ、窓を開けた。冷たい夜風が私の体を冷やしてくれる。

私はそのまま圭吾を見ることなく、台所でお茶を入れた。

ソファに腰掛けている圭吾に冷たい麦茶を渡すと、彼は一口飲んで脇に置いた。彼の濡れた唇に触れたい衝動を抑えながら、彼の隣に腰掛けた。

「早く一緒に飲みに行けるといいな」

私はソファの背もたれに手をかけ、彼の少し伸びた襟足の髪を弄んだ。

圭吾はこちらを向き、顔を近づけてきた。

私は生唾を飲み込み、唇を重ねた。

圭吾が私の肩を抱き引き寄せた。

私は自身の領域に飛び込んできた獲物を静かに待ち伏せるような気持ちで、抗うことなく身を任せた。

彼の濡れた唇、うるんだ瞳、目を閉じ私の手に頬を寄せたあの表情。

その一つ一つが脳裏に浮かんだ。その度に私は彼の唇を求めた。

一瞬小さな吐息が聞こえた。

私の腹の底でうねっていた何かが、残っていた理性を壊していく。

私は圭吾の細い腰を強く抱き寄せた。

彼の吐息と、唇を求め合う湿った音だけが部屋に響いた。

圭吾は顔を赤く蒸気させ、服を脱ごうとした。

私は咄嗟に彼の手を制した。

「いいのか?」

私の最後の理性の欠片が、私を思いとどまらせた。

圭吾が一瞬はっとしたように見えた。彼は衝動的に流されてしまっただけだ。

私は抱き寄せる手を解き、体を起こそうとした。

「やめないでよ!」

圭吾はそう言うと、私の腕を掴み引き寄せた。彼は目を細めながら微笑み、私の腰に両足を絡めた。

そのままの勢いで、私たちはソファーに倒れた。

彼の懐かしい微笑みに、あの日の先生の言葉が不意に聞こえてきた。『今日は息子の誕生日なんだぞ!』

だめだ、これはだめだ……。

「これは……よくないよ……」

絞り出すようにやっと言葉が出た。すると圭吾は鋭い目で私を見つめた。

「どうしてさ!僕は、僕は慧光さんが欲しいんだ。僕じゃだめなの?」今までにないような激しい口調だった。

思い詰めたような圭吾の訴えに、私は彼の肩に手をかけた。圭吾の目を見据える。

「違うんだよ。本当に君のことが好きだ。愛おしくて仕方がない。だからこそ、大切にしたいんだ。傷つけたくない」

言葉にすると軽い言葉の羅列に聞こえる。しかし、私の思いはもっと深くどろりとした汚い欲望だ。その欲望で彼を壊し、汚してしまうかもしれない。そう思うと、これ以上彼に触れられない。

私は彼の肩を押した。 圭吾の腕が解けていく。

彼は私の服の両裾を掴んだ。

「傷なんかつかない」

涙に濡れた鋭い目が、私を射抜いた。

「このまま放っておかれる方が辛いよ」

圭吾は私の服を引き寄せた。

「傷つくよ……」半ば涙声で訴える。

こぼれ落ちる涙を私は指で拭った。 「ね……お父さんの代わりでもいいから」

圭吾は目を細めながら笑顔を作った。目を細めると瞳にたまった涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。そのぎこちない笑顔に、私は鼻腔に痛みを感じ、出そうになる涙を堪えた。

いつの頃からだろうか。圭吾は先生に似たその笑顔を何度も私に向けていた。

私の定まらない気持ちを後押しするかのように。

親子だから似ていると思っていたその笑顔は意図的に私に向けられていたのだ。

しかし、私と小山先生の関係は思い出の中だけの、絵物語のような出来事として私の心にしまわれてしまっていた。

私は生々しい息遣いを伴った、熱を帯びたこの関係を求めているのだ。私の渇きを癒やすことができるのは、かつての思い出ではなく、目の前の青年なのだ。

私は圭吾を抱き寄せた。彼の鼓動が私の胸を叩きつけるように激しく鳴っていた。

それに共鳴するかのように私の鼓動も速く、強く打ち始めた。圭吾をそっと引き離し、窓を閉めた。これまで聞こえていた、微かな町の喧騒がふっと途切れた。生唾を飲み下し、圭吾の手を取った。

彼は私の手をぎゅっと握りしめ、寝室に入った。 電灯の灯っていない部屋は、バルコニーから入る町の明かりで仄暗い。

だんだん目が慣れてくると、お互いの顔がうっすらと見えてきた。

圭吾の肩に手をかけて向き合う。

「私は小山先生とは、こんな事を望んでいたわけじゃない」 

「でも、今は君を無性に抱きたいと思っている」

冷静に。私は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと告げた。窓から刺す町の明かりに照らされて、圭吾の恍惚とした表情が浮かび上がった。

私の最後の小さな理性の欠片は砕け散り、圭吾をベッドに押し倒した。

白いシーツが彼の体の輪郭を際立たせている。首筋、胸、細い腰、私を絡め取った長い両足。

一つ一つを見ながら、私は興奮を抑えきれなかった。狩人が獲物を目の前にするそれと同じように。

私は圭吾を抱きすくめ、再び唇を重ねた。私は彼の身体を確かめるように撫でていった。

圭吾の全ては私のものだ。

興奮と喜びが交互に押し寄せる。その度に私は彼の名前を呼び、抱き寄せ、唇を重ねた。

窓ガラスは白く曇り、街の明かりが滲んで見えた。

圭吾は私の身体にしがみつき、耳元で私の名前を何度も呼んだ。 それに呼応するように、私の身体は彼を欲した。吐息とべッドの軋む音だけが部屋に響く。

圭吾の身体はしっとりと汗ばんでいた。彼の汗の匂いと、湿った吐息がさらに私を狂わせた。

「圭吾、もっと君が欲しい……」

小さくつぶやいたとき、彼はクローゼットの前にかけられた黒の法衣を見て、妖艶に微笑んだ。

これまで見たことのない微笑みだった。火照った私の背中に一瞬冷たいものが走った。

思わず震える私を見て、圭吾が「どうしたの」と聞いてきた。彼の甘い声に「何でもないよ」と答えながら彼の額に口づけた。

圭吾は私の指に彼の指を絡めてきた。強く握り締め合いながら、私たちは何度も求め合った。

***

圭吾はこちらに向きながら、静かに目を閉じた。

深く息を吐くと彼の胸が上下する。

涙が一筋、彼の頬をつたった。指で拭いながら彼を見つめる。

「圭吾、愛している。君は、小山先生の代わりなんかじゃない。僕が愛しているのは小山圭吾、君自身なんだ」

いつの間にか私の渇愛の対象は圭吾になっていた。

今はそう確信できる。

圭吾は小動物のようにもぞもぞと動き、こちらに来て私を強く抱きしめた。

「うれしい、僕も慧光さんを愛してるよ。ありがとう。僕を愛してくれて、ありがとう」

涙でくしゃくしゃになった、彼のあどけない笑顔をもう一度胸に抱いた。

ふと、さっき見た妖艶な微笑みを思い出し、もしかすると自分自身が圭吾の甘い罠に堕ちた獲物なのかもしれないと考えた。

しかし、そんなことはもうどうでもいい。私の腕の中に圭吾がいる。

それだけでいい。

私は圭吾越しに黒の法衣を見た。

私の汗と圭吾の汗が混ざり合って互いの肌を包み込んでいる。私は満たされた気持ちで圭吾をさらに強く抱きしめ、彼の首筋にキスをした。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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