「目にまつ毛が入りそう……ってか、少し入ってるんじゃない? 大丈夫?」
霞はそう言って、冬馬の顔を覗き込んだ。
「なんか、コロコロしてたんだよね〜。ちょっと、取ってほしい……取れる?」
そう言って冬馬は固く目を閉じた。
「ばっかだなぁ〜。目つぶったら取れないだろ? 目、開けてみ、ほら。ーーお〜き〜く目を開けてくださいね〜」
「ほぁ〜い。。。」
なんとも気の抜けた返事が、冬馬らしい。
霞は小指の先で、そっと目の中のまつ毛を取ってやった。
一瞬、指先に触れた冬馬の濡れた瞳の感触が、
その湿度が、霞の指先から身体の奥へじわじわと広がっていくのを感じた。
「痛かったか?」
さっきまでと違う自分が不安で、咄嗟に声が大きくなる。
「大丈夫だよ! そんなにあせんなよ。」
冬馬も霞を安心させようと、少し声のトーンが高くなった。
何かが目に染みたような感覚に、目を閉じた瞬間、涙が溢れてくる。
「悪い、痛かったんじゃないけど……涙が」
「まだ、まつ毛……あるな。目つぶってみ?」
霞は優しく冬馬に言った。
「おう! 頼む!」
冬馬は、今度は静かに目を閉じた。
窓から差し込む木漏れ日が、冬馬の長い睫毛を濡らす。そして、少しまるい鼻梁の影を作る。
その下には、緩やかな弧を描いた、桃色がかった唇が――。
「取れた?……ねぇ、取れたの?……お〜い、霞く〜んーーー」
「……まだ……」
そう言うと霞はそっと左手で、冬馬の後頭部を支えた。霞の細く長い、骨ばった指が、冬馬の黒髪をふんわりと押さえる。
冬馬の唇の稜線と霞のそれとが重なった。
ほんの少しだけ、互いの稜線が、形を変えるような、そんな口づけだった。
――むに? むに?? むに???
冬馬は不思議な、それでいて懐かしいような感触に驚いて目を開けた。
最初は、唇にまつ毛がついていたのかと考えた。
だが、唇に触れたそれは、まつ毛を取るときに感じた霞の指先とは全くの別物だった。
もっと柔らかく、微かな湿度を帯びた……っっ!!
ちゅーだ!
冬馬はハッとした。
幼い頃、父や母や兄にまで追いかけ回されてキスされていた、あの頃の記憶が、唇の感触とともに蘇る。
は? なんで??
今度は、たくさんの“はてな”が頭の中を占領する。
そしてむくむくと怒りがこみ上げてきた。
しかしそれは、嫌悪や侮蔑とはまったく違う、
訳がわからないものへの不安から来る怒りだった。
「霞! お前今ちゅーしただろ!」
目を大きく見開いて、今の状況を脳内アップデートする冬馬の様子をじっと見ていた霞は、
優しく微笑み、軽く首をかしげながら、
「しちゃった……みたい?」
と聞いてきた。
「みたいじゃないよ、したんだよちゅーを!
俺はもう子どもじゃないぞ!」
冬馬は、家族にキスされていたことを思い出し、
そんな愛情表現を受け入れる年齢ではないと
抗議した……つもりだった。
「そうだよな。俺ももう子どもじゃない。……だからした。」
いつになく真剣な霞の眼差しと、一語一語丁寧に言葉を置くようにして話すその口調に、“とくん”と、胸が鳴った。
それはいつもと違う霞を見たための、驚きの胸の音だった。
“もう子どもじゃない”――ほんの数十秒前に、自分が発したその言葉に、冬馬は身動きが取れない思いがした。
それと同時に、数分前に自分が経験したことが、
“もう子どもじゃない”という言葉によって、
まったく別物に上書きされた。
さっきのは、ちゅーじゃない。キスだ!
そう自覚した途端、冬馬は自分の体温が数度上がった気がした。
冬馬は目の前にいる霞の顔を見ることができない。そして霞はずっと話さないまま……。
冬馬は少し顔を上げ、ちらりと霞の顔を見た。
目の前に、顔を真っ赤にした霞が座っている。
さっきまで冬馬をすっぽりと覆っていた不安や驚き、そして小さな罪の意識がないまぜになったものが、少し晴れた気がした。
「おーい、誰か残っているのか〜」
学年主任の先生が、少し薄暗くなってきた教室を覗き、声をかけた。
「……あっ……」
「……あっ……」
ふたり同時に立ち上がり、先生の方を見る。
「いつまでも残ってないで、早く帰れよ」
ふたりとも声を出すことなく、静かに会釈した。
さっきまで別世界に切り離されていたような教室は、先生の言葉で、いつもの学校の教室に戻っていた。
「霞、帰ろ……」
冬馬は霞を直視することないまま、背に夕陽を受けて声をかけた。
こちらを向いているけれど、こちらを見ていない。そんな冬馬の目線に、霞は救われた。
どうしてキスをしたのか? 自分でもわからない。
自問自答しているうちに、冬馬が「自分は子どもじゃない」と言ってきた。
その時、霞は確信した。自分がしたそれは、子ども同士の戯れなどではない。
じゃれ合いなどで終わらせる気はない。
あれは、大人のキスだ……。
そう自覚すると、恥ずかしさと冬馬への罪悪感で、霞は冬馬の顔を見ることができなかった。
霞は「おぅ」と短く答えた。
二人は始終黙ったまま、夕陽を背にして歩いていた。
二人の影が長く伸びる。
付かず離れずしていた、二人の手の影が重なり合った瞬間、どちらともなく顔を見合わせ、
二人は柔らかく微笑んだ。
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