第一章 1991年・4月:五分咲きの桜
職員室の隅、パイプ椅子のきしむ音が静かに響く。
ベテランの田辺先生が、老眼鏡の奥の目をわずかに細め、夏目の前に一冊の書類を差し出した。
『平成二年度 第三学年児童 指導要録』
新年度から夏目が受け持つことになる、新四年生の昨年の記録だ。
今年、新しく四年生になるのは、後藤大輔一人だけだった。
表紙の下には、一学期から三学期までの三枚の用紙が綴られている。
今年、夏目が担任を務める高学年クラスの児童数は、この大輔を含めて五人。四年生から六年生までがひとつの教室に集う、複式学級である。
「夏目先生、大輔くんのことなんだけど」
田辺先生の声は、長年この山奥で子どもたちを「見届けて」きた者特有の、諦観に近い重みを含んでいた。
「あの子はね、難しいわよ。……いえ、手がかかるわけじゃないの。ただ、時々あの子の姿をした『空洞』が座っているような、そんな気がすることがあるの」
作文を一行も書いてくれないこと。絵を描こうとしないこと。田辺先生が語る大輔の姿に、夏目はわずかに眉を動かした。毎日校舎で見かける大輔は、遠くを見通すような、賢そうな眼をしていた。
「作文もですか。意外です。私の印象だと、とても知的な子だと思っていたのですが」
「知的なのは確かよ。国語、算数、理科のテストはほとんど満点。でも、自分を出そうとしないの」
「絵を描こうとしないことは、以前先生からご相談いただきましたよね」
「ええ。美大出身の夏目先生ならなんとかなるかと思って。たしかあの時は『自由に、思うように』って伝えて待つしかない、と教えていただいたけど、結局、あの子は何も描いてくれなくて……」
「そうですか……。文章はともかく、絵に関してはまだ表現の種が眠っているだけじゃないでしょうか。私も少しずつ、教えてみます」
四月の奥三河。冬の残り香を含んだ冷たい湿気が、杉林の隙間から這い出してくる。
校庭の、五分咲きのソメイヨシノ。満開にはもう少し、時間が必要だった。
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