第一章 目撃
秋庭頼賢が領内の視察に出たのは、格別の理由があってのことではなかった。春の終わりの、風の柔らかい日だった。供は二人。
山あいの道を北へ向かったのは、田植えの支度を見ておきたかったからだ。今年の雪解けは遅かった。苗の生育が気にかかる。家臣の話と、実際に土の上で起きていることはしばしば違う。足を運べばわかることを、足を運ばずに済ませるのは怠慢だと、考えるのが頼賢の常であった。
村に近づくにつれ、道はやせていった。両脇から草が迫り、踏み固められた幅は人ひとり分しかない。供の者が前後に分かれ、頼賢を真ん中に挟む形になった。
臭いに気づいたのは、川を渡る手前だった。
水の臭いではない。獣でもない。頼賢は歩調を変えなかった。供の者の足音が背後にある。ここで立ち止まれば、二人も立ち止まる。立ち止まった理由を問われれば、答えなければならない。
道の脇の草むらに、何かがあった。布にくるまれた、小さな何か。頼賢は足を止めなかった。歩きながら、自分の呼吸を意識した。乱れてはいない。驚いていないのか。いや、驚いてはいる。だが驚きの形が違う。予期していなかったものを見た驚きではなく、知っていたものが目の前に現れた驚きだった。
帳面にはない数字。領主にとって帳面を読むとは、その余白に何があるかを考えることだ。年貢の記録。出生の届け。死の届け。三つの数字の辻褄が、どの村でも微妙に合わない。合わない分が何を意味するのか、考えてはいた。だが帳面を読むことと、臭いを嗅ぐことは違う。
村に着くと、田の支度は思ったより進んでいた。水は足りている。苗は悪くない。庄屋が出てきて頭を下げ、今年の見通しを語った。頼賢は丁寧に聞いた。作柄の話をしている間、あの臭いのことは意識の底に沈めるようにした。
帰路は別の道を選んだ。供の者は何も言わなかった。頼賢も何も言わなかった。
城に戻り、夕餉を終え、一人になって初めて、頼賢はあの道のことを考えた。
考えた、というより、堰を外した。歩いている間ずっと水面の下にあったものが、一気に上がってきた。
あの布は産着だった。いや、産着であったかどうかはわからない。だが頼賢にはそう見えた。見えたということは、そう見る準備があったということだ。間引き。言葉は知っている。帳面の辻褄が合わない理由として、もっとも簡明な説明だった。この藩だけの話ではない。山あいの、土地のやせた、冬の長い国では、どこでも起きていることだ。
頼賢は自分が何を感じているのかを確かめようとした。怒りか。悲しみか。そのどちらでもなかった。もっと冷たく、もっと硬いものだった。
罰するか。
誰を。布の傍にいたであろう人間を。だがあの道には誰もいなかった。仮にいたとして、捕らえて、裁いて、罰する──それで何が変わるのか。
罰は何も解かない。罰は民の腹を満たさない。
ではどうする。
頼賢は自分の思考が、いつの間にか一つの水路に流れ込んでいることに気づいた。あの道で足を止めなかった瞬間から、すでにこの方向へ歩き始めていた。口が多い。だから口を減らした。これが民の論理であるならば、頼賢が問うべきは「なぜ減らしたか」ではなく「誰を減らすか」の基準だった。民は赤子を選んでいる。まだ名もなく、顔も知られず、誰の記憶にも深くは刻まれていない命。それ自体を責めることは、頼賢にはできなかった。追い詰められた者がもっとも柔らかい場所を選ぶのは、残酷ではなく道理だ。
だが、道理だからといって放置するのは、統治ではない。
収穫を増やす策があれば解決する。だが頼賢にはわかっていた。新田の開墾は容易ではない。地形が許さない。交易は隣国との関係に左右される。年貢を下げれば藩が傾く。どの道をたどっても、民の口と食分の差は埋まらない。
差が埋まらないならば、口を減らすしかない。
頼賢は自分がその結論に至ったことを、静かに認めた。あの道端の布を見た人間としてではなく、為政者として。
口を減らす。だが赤子ではない。
赤子を殺すことは、未来を食うことだ。子はやがて育ち、田を耕し、次の子を産む。その連なりを断つことは、今年の飢えを凌ぐために来年の種籾を食うのと同じだ。
ならば。
思考がその先に踏み込んだとき、頼賢は自分の体が冷えていることに気づいた。夜気のせいではなかった。老いた者。すでに田に出る力を失い、口食だけを必要とする者。その命と、まだ名もない赤子の命を秤にかけるならば。
頼賢は秤にかけていた。
かけてはならぬ秤であることは、わかっていた。わかっていて、かけていた。ほかに秤がなかった。
赤子を殺すくらいならば、老いた者を棄てよ。
その言葉が頭の中で形を取ったとき、頼賢はまず、それを口にした場合の家臣たちの顔を思い浮かべた。反発するだろう。だが反発の中身を想像すると、頼賢はある種の冷たい確信を覚えた。家臣たちは反発する。だが対案を出せるか。
出せまい。
出せないならば、最後にはこの道しか残らない。
頼賢は行灯の灯を見つめた。芯が傾いで、炎が揺れている。手を伸ばし、芯を立て直した。部屋が少しだけ明るくなった。だが藩の抱えた問題は、芯を直すようにはいかない。どこかを明るくすれば、別のどこかが暗くなる。すべてを照らす油は、この藩にはない。
ならば、どこを暗くするかを選ばねばならない。
その夜、頼賢は誰にもあの道のことを話さなかった。すべてを抱えたまま、目を閉じた。
赤子殺しのことは、誰にも告げぬ。この先も告げぬ。民を罪人にしないために。──そう自分に言い聞かせた。それは嘘ではなかった。告げれば、自分がこれから何をしようとしているのか、その起点を明かすことになる。赤子の代わりに老人を差し出す。そのような交換の論理を、領主の口から語ることはできない。語れば、「老いた者の命は赤子より軽い」と帳面に記されることになる。語らぬ方がよい。語らぬことこそが、民のためだ。
頼賢はその判断を、善いことだと信じた。
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