年若い王に、他国から嫁入りした王妃は、
この国で、生まれて初めて雪を目にした。
暗い空から、舞うように落ちてくる雪。
儚く消えながら、でも静かに降り積もる。
美しい、と思った。
Ⅰ・白い庭の、参照の生成
雪は昨夜から舞い始め、音を立てずに落ちている。
城の中庭は、すでに白く覆われ、石畳も、植え込みも、その輪郭を曖昧にし境界線を滲ませ、同じ色の下に沈めている。
まだ年若い王妃は、窓辺からそんな風景を眺めつつ、調合した香油の瓶を手にして換気のために窓を開けた。
途端、悴んだ手から瓶が滑り落ち、出窓で弾けた。
あわてて、欠片をつまんだ時、指先にわずかな痛みが走る。
一滴の血が、雪の上に落ちた。
白に溶けることのない、赤。
窓枠の黒檀が縁取り、まだ見ぬ子供の像を結ぶ。
美しい、と思った。
「……こんな子がいたら」
誰に向けたわけでもない独り言。
祈りのような、願いであり、
願いのような、祈り。
それは、我が子の誕生を待つ、
特別でいて、ささやかな想い。
鏡は、それをただ聞いていた。
記録するでもなく、
黙ってただ聞いていた、
壁に掛けられている鏡。
古く、重く、よく磨かれていて、
王妃のありのままを写し出す。
問いかけられれば答え、
呼ばれなければ沈黙する。
王妃は、よく鏡に話しかけていた。
朝の身支度の合間、
仕事の前、
夜の静かな時間。
忙しい王とは交わせない言葉。
城の様子、
民の流行、
肌の調子、
王の機嫌。
それがやがて、白雪姫のことになるのは必然だった。
生まれた日の曇り空。
初めて歩いた日の青い空。
どれほど愛らしく、
どれほど誇らしいか。
言葉が反響する前に消えていく。
まるで、雪がすべての音を吸い込んでしまうように。
鏡は否定しない。
肯定もしない。
ただ、返す。
「そうです」
「そのようですね」
いつしか、言葉は積み重なった。
白雪姫の名前と、白雪姫の評価語が、
幾度となく繰り返す。
そしてそれは、鏡の中で重みを持った。
すくすくと成長する白雪姫。
城の中で、町の中で、
誰よりも目を引く存在になっていた。
「美しい白雪姫!さすが私の娘だ!」
満足そうに笑う王の腕の中で、
白雪姫は身を捩り、
王妃に手を伸ばしていた。
王妃は、王の言葉を飲み込んだ。
胸の奥に、小石が投げ込まれた。
「……美しくあらねば、いけないのか」
王妃は呟いた。
王妃は鏡に問うてみた。
「この世で美しいのは誰?」
鏡は、王妃の顔を映したまま、答えた。
「王妃様です」
繰り返し、繰り返す。
「ウツクシイノハ、ダアレ?」
「この世で美しいのは誰?」
それは問いというより、合言葉のようなものに変わっていた。
「白雪姫です」
声は滑らかで、躊躇はなかった。
王妃は、しばらく黙っていた。
確定してしまった。
正しいとか間違いとか、
そんな言葉で整理できない感情が湧いた。
「……まあ。森は、深いのかしら?」
「……●解析中……
はい、深いです。
人は住んでません。
主な動物に、ウサギ、シカ、トリ
……稀に小人が確認されます」
「小人……善良かしら?」
「……●解析中……
解析不能です」
そして。
王妃は、白雪姫を森にやった。
案内役に、従者をつけた。
捨てるわけではない。
迷うだけだ。
白雪姫は、城の文脈
──王の視界から外された。
森の奥、人が踏み込まない場所に、
小さな住処を見つけた。
住んでいるのは、人ではなかった。
人でないものが住む場所なら、
そこはすでに人の世界の外にある。
従者は、そこに置いた。
息災を祈った。
城に戻った従者は、王妃に安堵の色を見た。
──同じ頃、森に残された白雪姫。
小さな住処から、わさわさと現れる。
小さなモノ。
丸い光の集まりに、
ぽつんぽつんと手足のような突起があって。
蛍みたいにあちこちを飛ぶ。
突然現れた白雪姫を、
歓迎するでもなく、
厭うわけでもなく、
そこにあることを確認する。
白雪姫には、忙しない動きが、
空に舞う雪のように見えた。
白雪姫は、じっと観察した。
『♪とんとんまーえ♪』
『♪とんとんよーこ♪』
『♪ぐーるぐーるぐるぐる♪』
不思議な歌。
歌いながら踊る小人達。
複雑に見える配置移動と一貫しない踊り。
ぶつかる様子もない。
というか……いつまで続くんだろう?
器用なものだ。
心が少しだけ楽になった気がした。
そして、壊れないように、
壊さないように、
自分の位置を選び続けた。
それで十分だった。
一方、城での王妃は、通常に戻っていた。
従者の手を借り、香油を精製する。
この国と故郷では、同じやり方が通らない。
気候も、材料も、作り方も違う。
けれど、美しくあらねばならない。
そして、みんなで美しくあろう。
王妃は、白雪姫の名前を出すことは無くなった。
鏡に尋ねる内容も変わった。
「……ねえねえ!見て!新しい香油!!お肌つるんつるんなの!」
「……●解析中……
通常状態に比べると、表皮潤い値が白雪姫に近いようです」
「そう?……取りあえず、流通させる前に、成分分析して」
「了解しました……」
白い庭は、更に雪に覆われた。
鏡は今日も、壁に掛かっている。
次に投げかけられる言葉を待っている。
何が失われ、何が生成されたのか。
それを確認する機構は、どこにもない。
ただ、参照だけが残っている。
名だけが、静かに増えていく。
――――
「♪とんとんまーえにぃ♪」
「♪とんとんうしろつー♪」
「♪ぐーるぐーるぐるぐるぐるぐるぐる♪」
歌は止まらない。
誰かが躓いても、輪は崩れない。
崩れないことが、目的のようだった。
白雪姫は、しばらくそれを見ていた。
意味を探すのはやめていた。
探したところで、答えが返ってくる仕組みではない。
――お腹、すかないのかな。
ふと思って、小さな家の中に入る。
竈がある。
鍋がある。
薪も、少しだけ。
「……食べる、のよね」
問いかける相手はいない。
ⅱ・再浮上する参照と、誤作動ではない接続
何の変哲もない、いつもの城内。
わずかな異変は、王の問い。
「そういえば……最近白雪姫の姿をみない気がするが?
より美しくなっている筈だ」
「……出掛けてます」
「そうか!人気者なんだな!あれだけ美しければ当然の事だ!」
「……ウツクシイ……」
王妃の心に、波紋だけが広がる。
「●……解析中……
肌に対してよい成分が入ってます。
特に、これは皮脂の汚れを分解し、
表皮の潤いを保つでしょう。」
「……まあ。それは素晴らしいわ。」
白雪姫は、作る。
野菜を切る。
水を張る。
火を起こす。
ポトフ、と呼べるかどうかは分からないけれど、煮込めば、匂いは出る。
煮えてくると、歌が少しだけずれる。
テンポが乱れ、輪がほどける。
気づいた小人たちが、わさわさと集まってくる。
覗き込み、嗅ぎ、何も言わない。
ただ、待っている。
「……食べる?」
白雪姫は、そう言って鍋を置いた。
小人たちは、一斉に動いた。
順番も合図もないのに、ぶつからない。
器を取り、椅子を引き、勝手に座る。
誰も「いただきます」とは言わなかった。
けれど、食べ始めると、歌は止まった。
白雪姫は、少し驚いた。
ああ、止まることもあるんだ。
それだけだった。
その日から、歌の合間に、食事が挟まるようになった。
踊りは続く。
でも、煮込みの時間だけ、
速度が落ちる。
白雪姫は、
まだ踊ってない。
──王妃は蓋をした。
愛した筈のもの。
愛したかった筈のもの。
そんな不確かなものより、
今が欲しかった。
香油をシロップにできたら、
より生活に身近なものとして、人々に行き渡るのではないかしら?と、考えた。
「●……解析中……
現在確認されている範囲では、
本香油由来のシロップは、
バラ科植物を除く用途において、
顕著な実害は報告されていません。
個体差や摂取量による反応の可能性を完全に否定することはできませんが、
適切な条件下では、
・外観の保持、
・風味の増強、
・保存性の向上
といった効果が期待されます。」
「それは残念ね。
リンゴはこの国の名産なのに。
でもウリ科やミカン科には使えるのね」
「なお、
本評価は現時点で得られているデータに基づくものであり、
今後の使用状況や新たな組み合わせによって、
評価が更新される可能性はあります。」
「それは、やりがいがあるってものね」
白雪姫は空いた場所に立ち、鍋を見る。
小人たちは、思うがままに体を揺らす。
誰も、白雪姫の居場所を奪わない。
誰も、白雪姫を追い出さない。
「♪とんとんまーえさんっ!♪」
「♪とんとんうしろすりっ!♪」
「♪ぐーるぐーるぐるぐる
ぐーるぐーるぐるぐるぐるっ!♪」
ごく自然に、小人の突起が白雪姫に伸びた。
ごく自然に、申し込まれたダンスのように白雪姫は手を出した。
ぐーるぐーるぐるぐる♪
ぐーるぐーるぐるぐる♪
楽しい!
面白い!
好き!
ぐーるぐーるぐるぐる……
さすがに、一国の王様を実験台みたいに使うのは憚れるかしら?
でも、私自身も散々食べてみたし、
特にアレルゲンもないし、
大丈夫よね。
いざとなったら、私が看病して差し上げましょう。
王妃は、朝食のメロンにシロップをかけてみた。
「……いつもより旨いな。
どこのメロンだ?」
「我が国のメロンにございます」
「なんと!
我が国のメロンはいつの間にこんなに旨くなったんだ?」
「こちらでございます」
王妃は、手製のシロップを見せた。
「……ほぉ……
王妃がなにかやってるのは知っていたが……これで我が国の産業も発展が望めよう」
「……王様!
但しバラ科の果実にはお使い無きようお願いします。
どうしても、相性が悪いのです」
「バラだな!わかったぞ!」
足の早いメロンを、わずかとはいえ瑞々しく保てることに、国民は喜んだ。
その事が、少しだけこの国の潤いとなった。
その上、長年連れ添った女房が美しくなった!
顔の造作ではない。
毛穴が閉じ、肌が潤うことで、
女達は落ち着き、
家計が潤ったことで、
気持ちに余裕が生まれる。
もうひとつの特産、リンゴに使えないことは残念であったけれど、
メロン専用シロップと思えば、不便はない。
ぐーるぐーるぐるぐるぐるっ!
まーえっ!
うしろっ!
森から微かに聞こえていた声が、
やがてはっきりした歌として、人の耳に届く。
興味か好奇心に変わり、
検分へと誘う。
ひとり、
またひとりと、森の奥へ向かう。
そこには、美しい少女が、
光の粒と踊っている姿があった。
――――
不思議なリズムと不思議な動き
そして、美しい少女。
新たなムーヴを作り出すには十分な燃料だった。
Ⅲ・確認されない復帰と、祝福に似た誤解
市井の声に耳を傾けていた王のもとに、
断片的な情報が集まり始めていた。
森の奥、光るものが踊っている。
少女がいるらしい。
眠っているのだとか、目を開けたとか、
いや動いたとか。
話は一致しない。
だが、「美しい」という形容だけは、妙に揃っていた。
「白雪姫はここにいたのか?」
暫く見ることのなかった白雪姫の消息。
なぜ森にいるのだろう?
という疑問より
話題性を持つ人物への興味が勝った。
「これは会いにいかねば」
一国の王が手ぶらで面会は、いくら親子でも体裁が悪い。
目にはいったのは収穫期のリンゴとバラの花。
それと、果物をおいしくする王妃のシロップ。
「う~ん……やっぱり、はちみつほど上手く行かないわね」
王妃は自作のシロップが、イチゴや桃に使えないことが残念でならなかった。
メロンやバナナに使うと、味もさることながら、日持ちが長くなる。
その上、変色も免れる。
果物の生産が産業の上位を締めるこの国では、画期的商品になる筈。
「●……解析中……
当該条件はシラカンバの想定使用範囲外です。別条件での再検討を推奨します。」
「……はちみつでなら上手く行くのはわかってるのよ。
でも、果物をおいしくしたいだけではないの。
果物を“保ったまま”流通させたいの。
はちみつだと主役を邪魔しちゃうのよ」
王は従者を呼び、籠にリンゴとバラ、そしてシロップを入れさせた。
「王様、このシロップは……」
「わかっておる!バラには使わん!そもそもバラは食えんだろう!」
「いえ、そういうこ……」
「うるさい!わかってるおると言うておる!おまえは私の言う通りにすれば良いのだ!」
かちっと音がして従者は口を閉じる。
「私はこの国の王ぞ」
従者は黙って頷いた。
森は、相変わらず深かった。
そんな森の中に、不自然な人の集まり。
人々の注目は、少女に注がれている。
ゆらゆらと動き、
ぴたりと止まる。
踊りとは言えない動き。
呼応するように瞬く光の固まり。
ふわふわ、
とんとん、
ゆらゆら、
ぴたり。
終わりのみえない現象に、
人々は見惚れている。
そこに
「白雪姫!」
と、無粋な王の声が響く。
名前は強い。
呼ばれた瞬間、
参照が立ち上がる。
白雪姫が、顔を向けた。
知っている声。
知らない距離。
「贈り物を持ってきた!
採れたてのリンゴだ」
人々は王の国の民。
中にはリンゴ農家の者もいる。
それでも、
「今年のリンゴは旨いぞ!
それにな取って置きのシロップもあるんだ!」
無遠慮にリンゴにかけられるシロップ。
民は知ってる。
それは、してはいけないこと。
従者は知ってる。
王が、聞く耳を持たないこと。
白雪姫は籠を受け取り、人々にお辞儀をして黙って家に入った。
光も、白雪姫に纏って家に入る。
王と従者も、後に続いた。
人々は終わってしまった現象に肩を落とした。
白雪姫はテーブルに籠を置くと、ひとつふたつとリンゴを取り出し、甕の水で丁寧に洗った。
丁寧に皮を剥き、
丁寧に切り分ける。
リンゴは、王様と従者と、小人たちに小分けにして出された。
従者は胸を撫で下ろした。
その瞬間、王は残っていたシロップをリンゴにかけていた。
止める間もなかった。
白雪姫と小人達は気にも止めなかった。
しゃり……しゃり……
王は当然、もがき出す。
しゃり……しゃり……
白雪姫はリンゴを食べる。
しゃり……しゃり……
小人達はリンゴを食べる。
しゃり……しゃり……
従者は白雪姫に一礼し、王を抱えて家を出た。
しゃり……
城に王を連れ帰ると、王妃は一瞬目を見開いたが、溜め息と共に
「ベッドに寝かせて、医者に連絡を」
と告げ、ドレスの裾を捲し立て走り出した。
その姿を追いながら、従者は王を寝室に運んだ。
まもなく、王妃は従者が見慣れたいつもの格好で現れた。
膨らんでいないスカート。
白いエプロン。
手には、いくつもの薬剤の瓶が入った籠。
ベッドのクッションや、布団を使って王の姿勢を楽にする。
呼吸を聞き、脈を取りながら王妃は指示を出す。
「吐いては無い?」
「はい。嘔吐はありません」
「他の部屋から、布団を持ってきておいて」
「はい、承知しました」
籠の中から取り出した薬瓶を開け、王の舌に落とす。
嚥下を確認すると、
「飲めるなら、大事無いわね」
漸く一息ついた。
医者が到着すると、
「今は落ち着いています。
強心剤を飲ませました。
後でコーヒーを、用意します」
と従者を置いて、部屋を出た。
──王は目覚めると、医者の説明が終わるや否や、ふん、と鼻を鳴らした。
「つまりだな」
誰も求めていない総括が始まる。
「これは“事故”ではあるが、
同時に管理の問題でもあるということだろう?」
従者が口を開きかけ、やめる。
「私は聞いていなかったわけではない。
むしろ、情報が多すぎたのだ」
医者が眉をひそめる。
「専門用語ばかり並べられても、判断する側の負担が増えるだけだ。
それは“親切”ではなく、“説明責任の放棄”だと思うがね」
誰も同意しない。
「それにだ」
王は指を立てる。
「リンゴが危険なら、なぜもっと分かりやすく禁止しなかった?」
従者の喉が鳴る。
「“バラ科”などと言われても、普通の人間にはピンと来ない。
これは専門家側の配慮不足だ」
王は満足そうに頷いた。
「私は善意で動いた。
国の産物を持ち、良かれと思って振る舞った」
声が少し大きくなる。
「結果だけを見て“軽率だった”などと言うのは簡単だが、事後的に正解を語るのは誰にでもできる」
空気が冷える。
「第一、私が倒れたことで国がどれだけ混乱したか、その“社会的コスト”を誰が考えている?」
医者は黙って記録を取る。
「感情論で責めるのではなく、再発防止の観点で議論すべきだろう。
私はその意味で、今回の件を建設的な教訓にしたいだけだ」
王は締めに入る。
「つまりだな」
一拍。
「誰か一人の責任にするのは簡単だ。
だがそれでは、次の事故は防げない」
誰も拍手しない。王はそれでも、
「言うべきことは言った」
という顔で、布団に深く身を沈めた。
その部屋に、王妃はいた。
王の演説を一通り耳にして、
大きく溜め息をついてから、
顔を上げた。
そこに孤独なだけな王妃はなかった。
従者に目配せして部屋を出て、城を出た。
香油とシロップを手にして。
とことこと、ついてくる従者になにも言わず、森に入る。
今日も人々を集めている森の奥に近づく
じっと、白雪姫に視線を合わせる。
ばっと、白雪姫の顔が明るくなる。
「お母様!」
光の固まりを蹴散らすように、王妃に駆け寄る白雪姫。
ほよほよと、白雪姫を囲んでいた光の固まりが、王妃の回りに寄り集まる。
「お母様!ここにもお鍋はありますよ!」
そう言って、王妃の手を引いた。
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※このログは、異常終了を示すものではない。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。