世界のとなりで
死んだ瞬間のことは覚えている。
天井の染みを見ていた。誰かが昔コーヒーをこぼして、それが乾いて、誰にも拭かれないまま何年も経ったような、そういう染みだった。輪郭がぼやけて、中心だけが濃くて、地図みたいだった。アフリカ大陸に似ている、と思った。それが最後の思考だった。まだ行ったことのない大陸の形を探しながら、僕は死んだ。
心電図の音が遠のいていくのが聞こえた——いや、違う。音が小さくなったのではなく、僕のほうが音から離れていった。音はそこにあった。僕がそこにいなくなった。
左手の甲に触れている温度があった。指だった。誰の指かはわかっていた。わかっていたけれど、もう名前を思い出す機能が動いていなかった。温かいものがそこにある。それが最後の身体の記憶だった。
そして天井が消えた。天井という概念が消えた。上という方向が消えた。上があるためには下がなければならず、下があるためには重力がなければならず、重力があるためには身体がなければならなかった。身体がなくなると、上下がなくなり、天井がなくなり、染みがなくなり、アフリカ大陸がなくなった。
最初の感覚は、恐怖ではなかった。
違和感だった。
歯医者で麻酔を打たれたあと、自分の唇を触っても唇だとわからない——あれが全身に広がった。いや、全身という言い方はもうできない。あったはずの全身の、あったはずの輪郭が、すべて同時に麻酔をかけられた。
しかし消えたのは輪郭だけだった。
意識はあった。
身体がなく、輪郭がなく、上下がなく、時間がない場所で、「おかしいな」と感じている何かがあった。コップを割ったのに、水が落ちずに宙に留まっている——そういう状態だった。
*
最初にわかったのは、自分がひとりではないということだった。
五感はない。身体がないのだから当然だ。代わりにあったのは——知覚としか言いようのないものだった。背中に誰かが立っている。見えない。聞こえない。でもいる。そういう感覚が、全方位から来た。
無数の「誰か」が、すぐそこにいた。
僕の隣に——いや、隣という言い方は正確ではない。隣には距離が必要で、距離には空間が必要で、ここに空間はない。重なっていた。僕の知覚の端と、別の知覚の端が、すでに重なっていた。
満員電車で、見知らぬ人の肩が自分の肩に押し付けられている。あれに近い。ただし肩はない。皮膚はない。押し付けられているのは、意識だった。意識と意識が、緩衝材なしに接触していた。生きているあいだには決して起こらなかったことだ。どれだけ親しい人間とでも、意識と意識のあいだには必ず身体という壁があった。言葉という迂回路があった。壁も迂回路もなく、意識がじかに意識に触れるということ。
重なっていた知覚は、男だった。男だったと言えるのは、その中にまだ男だったころの残響が染みついていたからだ。筋肉の記憶。握った拳の感触。声帯の太さ。身体はなくなっても、身体の記憶は意識にこびりついていた。
彼の知覚に触れた瞬間、僕は彼の人生を生きた。
武藤健一。千葉県船橋市。二十三年間。トラック運転手。深夜の国道で眠気に負けた。ガードレールに突っ込んだとき、フロントガラスに映った自分の顔を見た。ああ、こんな顔をしていたのか。それが彼の最後の思考だった。僕がアフリカ大陸で、彼は自分の顔だった。
僕は彼の二十三年間をすべて持った。
母親の膝の温度。五歳のとき、庭で見つけたダンゴムシを握りつぶしてしまった、掌の中の小さな破裂と、そのあとに来た取り返しのつかなさ。中学のとき好きだった女の子——加藤美穂——のうなじ。体育のあと、汗で湿ったうなじに日光が当たって産毛が金色に光った三秒間を、健一は死ぬまで持っていた。僕はいま、それを持っている。あの金色の産毛を。
二冊の本が一冊になるように。ページが交互に挟まるのではなく、一行一行が重なって、二つの物語が同じ文字列になるように。健一と僕は二人ではなかった。二人でありながら一人でもなかった。
*
次に重なったのは、女だった。
名前という機能がすでに彼女の中で薄れていた。ユキ、と呼ばれた記憶だけが残っていた。
ユキに触れた瞬間、僕の中で何かが裏返った。
ユキは最後の数ヶ月を病室で過ごしていた。僕と同じように天井を見ていた。ユキの天井には染みがなかった。代わりに蛍光灯の微細な点滅があった。薬の副作用で感覚が過敏になっていた彼女には、目に見えないほど速い点滅が見えた。そのちらつきが眼球の奥で小さな稲妻になり、一日じゅう視界の端で明滅していた。
僕はその明滅を持った。
それだけではなかった。僕はユキの身体を、内側から知った。
背中の中央よりやや下の鈍い痛み。寝返りのたびに目が覚める夜。尿管にカテーテルが入っている感覚——身体の内部に、自分ではないものが挿し込まれている違和感。腕に、腹に、尿道に。境界を管が貫通し、その管を通じて、外の世界が彼女の内部に流れ込み、内部が外に流れ出していた。
生きているあいだから、ユキの境界はすでに穴だらけだった。
だからだろう。ユキとの重なりは、健一とのそれより深かった。深く、速く、完全だった。何年もかけて管に穿たれてきた彼女の境界は、もうほとんど境界ではなかった。
ユキと重なったとき、僕は胸の内側の重さを知った。乳房の重さではない。もっと奥の、感情の重さだった。ユキは誰かを愛していた。その愛は報われなかった。報われなかった愛が、何年も何年もかけて沈殿し、もう感情という軽い言葉では言えない密度になっていた。鉛のようだった。その鉛を、僕は持った。
三人になった。加藤美穂のうなじの金色の産毛と、蛍光灯の微細な点滅と、胸の奥の鉛を、同時に抱えていた。
*
四人目に名前はなかった。残響が薄すぎた。わかったのは、この知覚がかつて幼い身体に入っていたということだけだった。世界を見上げる角度がまるで違った。テーブルの裏側を知っていた。大人の膝を、いつも下から見ていた。すべてが大きく、すべてが遠く、すべてが不思議だった。
この知覚と重なった瞬間、僕たちの境界が決壊した。
三人までは耐えられた。三冊の本を重ねて読むのは、混乱はしても、まだ三冊だと認識できた。四人目で、容量を超えた。四つの人生が洗濯機の中の衣類のように回転し、絡まり、混ざり合った。
五人目が来たとき、回転が速すぎて、静止して見えた。高速で回る扇風機の羽根が円盤に見えるように、五つの人生がひとつの均質な面になった。個別の記憶が消えたのではない。それが「誰の記憶か」ということが、意味をなさなくなった。
六人目。七人目。八人目。
数えられたのはそこまでだった。
*
百人を超えたあたりで、最初の「おもしろいこと」が起きた。
それまではずっと怖かった。自分が溶けていく感覚は、正直、気持ちのいいものではなかった。輪郭が薄まっていくのは、溺れるのに似ていた。水の中で足がつかない。どこまでが自分なのかわからなくなっていく。
百人を超えたとき、その恐怖がふっと消えた。
消えたというより——面白さに負けた。
百人の中に、鍵師がいたのだ。
大阪の鍵師。六十二年間、鍵を開け続けてきた男。彼の指は、鍵穴の中の構造を読めた。ピンの高さを、ばねの強さを、タンブラーの配列を、触覚だけで読み取り、鍵を使わずに錠前を開けた。指先に世界が詰まっていた。金属と金属のあいだの〇・一ミリの段差。それを感じ取る精密さは、僕がそれまでの人生で経験したどんな感覚とも違っていた。
僕はその指を持った瞬間——笑ってしまった。
笑う身体はないのだけれど、笑いに相当するものが意識の中で弾けた。人間の指はこんなことができるのか。僕は三十何年間、自分の指を使って生きてきた。キーボードを打ち、箸を持ち、人の手を握った。でも指がこんなふうに世界を読めるとは、まるで知らなかった。自分の身体の百分の一も使っていなかったのだ。
百人の中には、調香師もいた。パリの調香師。彼女の鼻は匂いを分解できた。一つの香水に含まれる二百の成分を、ひとつひとつ嗅ぎ分けた。ベルガモットの表皮の油分とジャスミンの花弁の夜露では、揮発速度が違う。その違いを——時間軸の上に並べて——彼女は鼻で「読んでいた」。匂いを嗅ぐのではなく、読む。楽譜を読むように。
その鼻を持った瞬間、世界がまったく別のレイヤーで開いた。
僕はそれまで「匂い」を漠然としたものだと思っていた。いい匂い。くさい匂い。それくらいの解像度しかなかった。調香師の鼻を通すと、ひとつの空間の匂いは三十も四十もの成分に分解され、それぞれが独自の形と速度と質感を持って鼻腔を通過していった。空気ってこんなに情報量があるのか。僕はまた笑った。
二百人のとき、鋳物師の手を知った。金属を溶かし、型に流し込む手。千度を超える放射熱を顔に浴びながら——その熱さを、彼は「色」で見ていた。温度は色で変わる。赤、橙、黄、白。白よりさらに上がると、もう色がない。色のない光。
三百人のとき、手話通訳者の目を知った。空間の中に文法がある。手の速度と位置と方向の組み合わせが意味を構成する。僕はそれまで、言語は口から出るものだと思っていた。言語は空間に描けるのだ。そしてそれを読む目は、音声を聞く耳とはまったく別種の受容器だった。目が耳になっている。目で「聞いている」。
四百人のとき、助産師の手を知った。
沖縄の助産師。四十一年間で三千人を取り上げた女。彼女の手は妊婦の腹に触れただけで、胎児の位置を読んだ。頭の向き。臍帯の巻きつき方。子宮口の開き具合。すべてが掌に伝わった。皮膚の下の筋肉の緊張と弛緩のパターンが、彼女の手には文字だった。
しかし僕が驚いたのは、診断の精度ではなかった。
彼女が知っていたのは、「身体が開く」感覚だった。出産のとき、人間の身体は文字通り開く。骨盤が開き、子宮口が開き、産道が開く。閉じていたものが開いて、中にいたものが外に出る。三千回、彼女はそれに立ち会った。三千回、人間の身体が別の人間のために道を空けるのを、手のひらで感じた。
身体は——彼女の手が教えてくれたことだが——本質的に通路だった。閉じているのが通常で、開くのが例外だと僕は思っていた。逆だった。身体はもともと開いている。開いているものを、筋肉と骨と皮膚が必死に閉じているのだ。出産のとき、その「閉じる力」が一時的に解除される。解除された瞬間の力の奔流を、僕は助産師の手を通じて知った。
ユキの管に穿たれた穴は、外から強制された開放だった。出産の開放は、身体が自ら選んだ開放だった。同じ「開く」でも、意味がまるで違った。
五百人のとき、世界が面白すぎて困った。
困った、というのは本心だ。情報が多すぎた。感覚が多すぎた。人間の数だけ世界の読み方がある。鍵師は指で読み、調香師は鼻で読み、鋳物師は色で読み、手話通訳者は空間で読み、助産師は掌で読む。五百人の五百の読み方が同時に走ると、世界は五百層のレイヤーを持った何かになった。ひとつの空間が五百通りの意味を同時に放射していた。
千人になったとき、僕は世界に恋をした。
恋をした、というのは比喩ではない。千の知覚が同時に世界を経験すると、世界そのものが振動を持ち始めた。千の心臓の鼓動の記憶——心臓はもうないのに、鼓動の記憶がある——が重なり合って、ひとつの巨大な和音が鳴った。世界はこんなに美しかったのか。いや、美しいという言葉では足りない。世界はこんなに「ある」のか。こんなに、厚く、重く、隅々まで、ある。
*
五千人のあたりで、ひとつの知覚が僕を沈黙させた。
独房の男だった。十五年間、独房にいた男。
彼の世界は三メートル四方のコンクリートの箱だった。窓はなかった。照明は二十四時間ついていた。夜がなかった。季節がなかった。他の人間の声が聞こえない日が何ヶ月も続いた。
彼の知覚に入ったとき、僕は息を呑んだ。息を呑む身体はなかったが、それに相当するものが意識の中で止まった。
彼の感覚は——拡大していた。
その箱の中で、彼の聴覚は信じがたい精度に達していた。自分の心拍が聞こえた。血液が頸動脈を通るときの、液体が管を流れる音が聞こえた。骨と骨のあいだの軟骨が体重で圧縮されるときの、ほとんど超音波のような軋みが聞こえた。コンクリートの壁の向こう、三つ先の廊下を看守が歩くとき、靴底のゴムが床に接触する微かな粘着音を、彼は聞き分けた。火曜日の看守と木曜日の看守は靴が違った。それがわかった。
世界が狭くなったのではなかった。世界が濃くなっていた。
虫眼鏡で太陽光を一点に集めると紙が燃えるように、彼の知覚は集中の果てに燃えていた。入力が極端に減ったぶん、解像度が極端に上がった。三メートル四方の宇宙には、外の世界と同じ量の情報が詰まっていた。いや、同じではない。もっと多かった。彼は壁のコンクリートの一区画に含まれる気泡の数を知っていた。天井の左端から三番目の染みの——あ、染みだ、と僕は思った。天井の染みだ——その染みが季節によって微かに色を変えることを、彼は十五年かけて観察していた。
広さと豊かさは、同じものではない。
知覚は加算では測れない。焦点の深さで測るべきだった。五百人の感覚は広い。独房の男のひとつの感覚は、その合算より豊かだった。彼の焦点は——十五年の孤独に研がれて——世界のどこよりも深い場所に達していた。
*
一万人になったとき、僕はまだ遊んでいた。
もう遊ぶことしかできなかった、と言ったほうが正確かもしれない。一万人の感覚が同時に世界を走査していると、一秒ごとにとんでもないものが見つかる。
たとえば——盲目のチェスプレイヤー。彼の頭の中で、六十四マスの盤面は視覚ではなく触覚として存在していた。駒の配置は指先の圧力の分布。ナイトの位置は薬指の第二関節の小さな熱。ビショップの射線は掌を斜めに横切る微かな振動。彼は盤面を「握って」いた。目が見えないことで、チェスはまったく別の競技になっていた。
たとえば——二歳の子どもが初めてシャボン玉を見た瞬間。あの知覚はすさまじかった。シャボン玉に名前がない。「シャボン玉」という概念がない。あるのは——空中に浮かんでいる丸い虹だ。丸くて、光っていて、動いていて、触ると消える。この現象を分類する棚が脳の中にまだない。だから全部が全部新しい。二歳の子どもにとってシャボン玉は、大人が宇宙人に遭遇するのと同じレベルの未知との遭遇だ。あの驚きの生々しさ。大人は驚くとき、過去の驚きのライブラリから最も近いものを引っ張り出して「ああ、あのとき以来の驚きだ」と参照する。二歳にはライブラリがない。参照先がない。だから驚きがまるごと、生のまま、意識を貫通する。
たとえば——八十七歳の日本舞踊の師範。彼女の身体は八十七年間踊り続けた結果、もう意識と筋肉のあいだに隙間がなかった。思うことと動くことが同じだった。右手を上げようと思った瞬間に右手は上がっていた——いや、違う。右手を上げようという「思い」が、すでに右手の動きだった。思考と動作が分離していない。僕はそれまで、身体とは意識が操縦するロボットのようなものだと思っていた。意識が命令を出し、身体が実行する。彼女の中には命令系統がなかった。意識と身体が同じものだった。
たとえば——聾の作曲家。彼女は音を一度も聞いたことがなかった。しかし作曲した。ピアノの筐体に両手を当て、鍵盤を叩く。振動が木を伝って掌に届く。和音は振動の重なりだった。長調の和音は掌の中心に向かって丸く集まる振動として。短調の和音は指先に向かって鋭く散る振動として。彼女にとって音楽は聴覚芸術ではなかった。彫刻だった。振動の立体物を手のひらの上で造形する行為だった。
僕は百人分の耳を持っていた。その耳で彼女の曲を聴いた。同時に、彼女の手で同じ曲に触った。耳が受け取る音楽と、手が受け取る音楽は——まったく別のものだった。同じ曲なのに。同じ振動なのに。受容器が違うだけで、芸術がまるごと別のものになる。世界はひとつしかないのに、という例の感想がまたやってきた。
たとえば——救急医の目。十年間で一万人の死に立ち会った男。彼の目は、死の直前の顔に現れる微表情を読めた。心停止の〇・三秒前、すべての人間の顔に、同じ表情が浮かぶのだと彼は知っていた。驚きではない。恐怖でもない。苦痛でもない。既存の感情カテゴリーのどれにも収まらないものが、死の直前に一瞬だけ顔を覗かせる。彼はそれを一万回見た。一万回見ても名前をつけられなかった。同僚に説明しようとしたことが一度だけあった。言葉にならなかった。それ以来、誰にも言わなかった。
名前のない感情がある。人間の感情は、人間の言語より多い。言語の網の目からこぼれ落ちる感情がある。言葉にできないものは存在しないのではなく、言葉が足りないのだ。
一万人を超えると、こういう発見が毎秒のように押し寄せてきた。人間の知覚のバリエーションは、僕が想像していたよりはるかに広かった。同じ「見る」でも、画家の見ると、狙撃手の見ると、地質学者の見ると、自閉症スペクトラムの人の見るは、まるで別の感覚器官のようだった。同じ目を使っているのに、取り出す情報がまるで違う。
世界はひとつしかないのに、それを読む装置が七十億ある。しかも全部違う。
面白すぎた。
*
十万人を超えたとき、面白さの質が変わった。
それまでは「他人の感覚を体験する」面白さだった。自分にはない機能を試す面白さ。新しいアプリをインストールしたときの面白さに似ていた。
十万人を超えると、そういう個別の面白さが重なりすぎて、個別ではなくなった。面白さが連続体になった。ひとつひとつの感覚を味わう暇がなくなった。代わりに、全体として——世界全体が——じんわりと、圧倒的に、面白かった。
そしてこのあたりから、おかしなことが起き始めた。
矛盾が衝突したのだ。
十万人もいると、同じ出来事を反対側から経験している人間が出てくる。当然だ。加害者と被害者。嘘をついた人間とつかれた人間。裏切った側と裏切られた側。
最初にぶつかったのは、ある夫婦だった。
夫のほうの知覚には、妻を愛しているという確信があった。三十年間、彼は彼女を愛していた。朝、彼女より先に起きてコーヒーを淹れた。彼女の好みに合わせてミルクを多めに入れた。彼女の誕生日を忘れたことがなかった。彼は自分を良い夫だと思っていた。
妻のほうの知覚には、まったく別の三十年が入っていた。
ミルクが多すぎるコーヒー。彼女はブラックが好きだった。でも一度も言わなかった。言えなかった。彼が嬉しそうにコーヒーを運んでくるから。彼の嬉しそうな顔を壊すのが怖かったから。三十年間、彼女は毎朝ミルクの多すぎるコーヒーを飲みながら、自分の人生について考えていた。
この二つの知覚が同時に僕の中にあった。
夫の愛と、妻の沈黙が、同時に。
それは——相殺されなかった。「夫は愛していた」と「妻は苦しんでいた」は、足し引きゼロにならなかった。両方がそのまま、全強度で、同時に存在した。夫の愛は本物だった。妻の苦しみも本物だった。どちらも嘘ではなかった。どちらも正しかった。
矛盾したまま、両方が正しい。
これは、生きているあいだには決して経験できないことだった。生きているあいだは、どちらかの側にしか立てない。夫の側に立てば夫が正しい。妻の側に立てば妻が正しい。第三者として見れば「コミュニケーション不足」で片付けられる。しかしここでは両方の内側に同時にいた。判断ではなく、経験として、矛盾がそのまま共存していた。
その共存は——不思議なことに——苦しくなかった。
むしろ、ふかかった。深い、のではない。ふかい。底が見えないという意味でふかかった。三十年分のミルクの誤差が、人間の愛がどれほど不完全で、どれほどずれていて、それでもどれほど本物であるかを、同時に示していた。
もうひとつの矛盾は、もっと静かで、もっと深い場所を抉った。
母親と息子だった。
息子が十二歳のとき、母親は家を出た。朝起きたら母親がいなかった。食卓に朝食が並んでいた。味噌汁がまだ温かかった。味噌汁が温かいということは、彼女は息子が目を覚ます数分前まで台所にいたということだ。最後まで作って、最後まで注いで、それから出ていった。息子はその味噌汁を飲んだ。飲みながら泣いた。それから三十年間、味噌汁の湯気を見るたびに台所に誰もいない朝が蘇る男になった。
母親の側の三十年は、まったく違う風景だった。
彼女は逃げたのではなかった。彼女自身が子どものころに壊された何かが、彼女の手を通じて息子に伝染しつつあった。殴ったことはない。怒鳴ったこともない。しかし彼女の中の恐怖が、味噌汁を注ぐ手のかすかな震えを通じて、食卓の空気を通じて、息子の皮膚に染み込んでいた。息子が怯えた目をするようになった。あの目を見たとき、彼女はもうここにいてはいけないと思った。
あの朝、最後の味噌汁を注ぎながら、彼女は泣いていた。
息子も、その味噌汁を飲みながら、泣いていた。
同じ味噌汁で。同じ朝に。違う涙で。
百万人を超えたあたりで、こういう矛盾が何万と同時に走るようになった。殺した側と殺された側。捨てた親と捨てられた子。嘘をついた政治家と信じた市民。あらゆる場面の、あらゆる「両側」が、同時に僕の中にあった。
そして——これは本当に驚いたのだが——そのすべてが面白かった。
面白い、というのは不謹慎に聞こえるかもしれない。殺人の加害者と被害者の知覚を同時に持つことを「面白い」と言うのは。でもそれは、判断を放棄したわけではなかった。面白さの中には悲しみもあったし、怒りもあった。ただ、それらが「面白い」という容器の中に入った。世界はこういうふうにできているのか、という——好奇心。好奇心が恐怖に勝った。好奇心が悲しみに勝った。
*
百万を超えたあたりで、僕は「僕」をやめた。
やめた、のではない。「僕」を維持する理由がなくなった。百万の知覚の中で「僕」という一人称を保つことは、百万個の水滴のうちのひとつだけに赤い色をつけて、それを追い続けるようなものだった。可能ではあるが、意味がなかった。
「僕」を手放した瞬間、加算が乗算に変わった。堰が決壊した。
一千万が流れ込んだ。一億が流れ込んだ。十億が流れ込んだ。
カイロにいた。ナイル川の東岸、ダウンタウンの名もないビルの屋上で朝焼けを見ていた。四時四十二分。空が下から順に燃えていた。五色の空だった。遠くでアザーンが響いていた。
同時にレイキャビクにいた。十一月の午後三時。もう暗くなり始めていた。海からの風が頬を平手で押していた。港の方向から魚と潮の混ざった匂い。
同時にマニラの正午の湿度九十パーセントの空気の中にいた。汗が蒸発しない。皮膚の上に膜のように留まっている汗の重さ。
同時にトロントの零下十五度の中にいた。鼻毛が凍る。息が白く出て、それが睫毛に降りて、睫毛が霜で重くなる。まばたきすると、ぱりっと小さな音がする。
全部同時だった。
そして——ここからだ。ここからが、本当に面白くなった。
なぜなら僕は——もう僕ではないのだが——十億人の知覚を同時に持った状態で、初めて「実験」ができることに気づいたからだ。
*
最初にやったのは、世界で最も美味いものを探すことだった。
十億の味覚が同時に稼働している。地球上のあらゆる場所で、いまこの瞬間に誰かが何かを食べている。その全部を同時に味わえる。
結果から言う。世界で最も美味いものは、フランスの三つ星レストランの料理ではなかった。
バングラデシュの、名前も知らない村の、七十三歳の女が、夕方、庭の竈で炊いた米を、手で食べていた。ただの白い米だった。おかずはない。塩があった。粗い、粒の大きい塩を、ひとつまみ、米にかけた。そして右手の指先で米をまとめて、口に運んだ。
その米が、この惑星で最も美味かった。
なぜか。
彼女の舌は七十三年間、この竈で炊いた米を食べ続けてきた。彼女の味覚は、この米のために七十三年かけて調整されていた。他の何を食べても彼女には関係がなかった。この米だけが彼女の米だった。この塩だけが彼女の塩だった。そして空腹だった。朝から何も食べていなかった。
味は、舌の性能で決まるのではなかった。味は、その人間と食物のあいだの歴史で決まる。七十三年の歴史を持つ米は、どんな精緻な料理にも勝った。
次にやったのは、人類史上最も面白い夢を探すことだった。
十億人のうち、いま眠っている数億人が見ている夢を、同時に覗いた。
夢は——これはまったく予想しなかったのだが——言語に変換できないものが大半だった。起きているときの知覚は、言語のフレームワークの中に収まっている。「テーブル」「赤い」「重い」。夢はそのフレームワークが外れている。テーブルが赤いのではなく、赤さがテーブルする。重さが音を立てる。論理の接続詞が全部入れ替わっている世界。
数億の夢を同時に見るのは、万華鏡の中にいるようだった。意味のない色彩と感情の断片が渦巻いている。その渦巻きの中に、ときどき——本当にときどき——信じられないほど美しい構造が現れた。誰かの夢の中で、死んだ母親が笑っていた。その笑顔は記憶の中の母親の顔とは微妙に違っていた。夢の中の母親は、記憶よりも若くて、記憶よりも優しくて、記憶よりも存在しなかった。夢の中でしか会えない母親。記憶を素材にして夢が作り上げた、実在しない母親。その母親の笑顔を見て泣いている誰かが、地球のどこかにいた。
その涙は——この涙だけは——面白いとは思わなかった。
面白いではなく、わかった。
*
十億を超えたあたりで、時間が消えた。
それまではまだ「さっき」と「いま」の区別がかろうじてあった。十億の知覚が重なると、十億の「さっき」と十億の「いま」が同居して、前後関係が破綻した。一九四五年の記憶と二〇二四年の記憶が同じ「いま」に存在した。時間は直線ではなかった。直線だと思い込んでいた者たちの幻覚だった。
時間が消えると、「実験」がさらに自由になった。過去にも行けた。
僕は——戦場に行った。
行った、という言い方は正しくない。戦場の知覚がすでに僕の中にあった。何千万もの兵士の記憶。何千万もの銃声と爆発と泥と血の記憶。
殺した側と殺された側の両方を同時に経験することは、夫婦のミルクの話とは桁が違った。引き金を引く指の感触と、弾丸が胸に入ってくる感触が、同時に来た。殺す意志と死ぬ驚きが、同時に。
しかしそこでさえ——いや、まさにそこでこそ——僕が見つけたのは、矛盾の深さだった。
ある兵士は、敵を撃ち殺した直後に、敵のポケットから家族の写真が落ちるのを見た。妻と幼い娘の写真だった。その瞬間、彼の中で二つのことが同時に起きた。取り返しのつかないことをしたという認識と、生き延びたという安堵。この二つは矛盾するはずだった。罪悪感と安堵は同時に存在してはいけないはずだった。でも存在した。彼は罪悪感で泣きながら、同時に、次の呼吸ができることに安堵していた。
人間は矛盾する。矛盾したまま生きる。矛盾したまま死ぬ。その矛盾を外側から見ると「不完全」に見える。内側から経験すると——それはただの、人間の形をしている。
こういう発見が、次から次へと来た。
そして——時間の壁がなくなったことで、もうひとつの発見があった。
消えた言語に出会った。
二〇〇八年に死んだ女の知覚の中に、誰も話さなくなった言語があった。アラスカの、名前すら記録に残っていない言語。最後の話者が彼女だった。彼女が死んだとき、その言語は地球上から消えた。
彼女の知覚に入って僕が驚いたのは、その言語でしか見えない世界があったということだった。雪の状態を表す言葉が三十以上あった——というのはよく聞く話だ。しかし彼女の言語にはそれだけではなく、「川が凍り始める直前の、水面がかすかに躊躇する状態」を一語で言い表す言葉があった。躊躇。水が躊躇する。その言葉は翻訳できなかった。英語にも日本語にもロシア語にもない。その一語がなくなったことで、水が凍る前に躊躇するという現象を知覚できる人間が、地球上からいなくなった。
現象は消えない。川は今も凍る前に躊躇する。でもそれを見る目が、もうない。
彼女だけではなかった。僕の中には何千もの消えた言語があった。夜明け前の、空がまだ暗いのに鳥だけが朝を知っている時間帯を指す名詞があった。声が喉の奥に留まったまま外に出なかった言葉——言おうとして言えなかったのではなく、言語の構造そのものが沈黙を一種の発話として扱う文法の中にあった言葉があった。言語が消えるたびに、人類の知覚の窓がひとつ閉まった。窓の向こうの景色は消えない。ただ、もう覗けなくなる。
世界の読み方がひとつ消えるということ。それは世界そのものが少し痩せるということだった。
*
何十億になったのか、もう数えていなかった。
数えるための数直線がなかった。時間もなかった。ただ、増え続けていた。世界全体に向かって、知覚が拡大し続けていた。
そのどこかの時点で——ある知覚に出会った。
彼女は、アイドルを推していた。
十六年間。
地方のコンサートホールの二階席の最後列から、双眼鏡越しに見つめていた男。名前は——彼女にとってその名前は名前ではなく祈りの言葉だった。毎朝目覚めるとまずその名前を心の中で唱えることから一日が始まった。
彼女の人生は——もっと正確に言えば、彼女の知覚の残響は——信じられないほど細部が鮮明だった。十六年分の記憶が、一ミリも劣化せずに残っていた。
二〇〇八年四月十二日、広島のコンサートホール。彼女は二階席の最後列の、右端から三番目の席にいた。双眼鏡のピントリングを〇・五ミリ回した瞬間、彼のまつげが見えた。左目のまつげが右目のまつげより三本多いことを、彼女はそのとき知った。以来、左目のまつげの数を確認することが、双眼鏡越しの最初の儀式になった。
二〇一一年九月、札幌。台風で会場の屋根が雨漏りした。ステージの端に小さな水たまりができた。彼がその水たまりを避けるために半歩右にずれた。その半歩で、いつもより三十センチだけ彼女の側に近づいた。三十センチ。それだけのことを、彼女は十三年後の死の瞬間まで持っていた。
二〇一九年七月、名古屋。彼がMCの途中で噛んだ。「みなさん」を「みにゃさん」と言った。客席が笑った。彼も笑った。彼女は笑わなかった。笑えなかった。あまりにも近い人間の些細な失敗を、笑いとして処理する回路が彼女の中になかった。あの「みにゃさん」を聞いたとき彼女が感じたのは、人間がいる、という衝撃だった。ステージの上に、照明の向こうに、汗をかいて息を切らして言い間違いをする人間がいるという事実の衝撃。それは笑いではなく、畏怖に近かった。
彼女が死んだとき——僕はその内側にいた——最初に起きたのは、彼がここにいるかどうかを探すことだった。
いた。
彼もまた死んでいた。
彼女は彼を見つけた。見つけた瞬間——
ここからは、正確に書く。
彼女の境界が消えた。自発的に。能動的に。歓喜とともに。十六年間双眼鏡越しにしか見られなかった存在と、境界なしに接触できる。彼の意識に、入れる。
彼女は入った。
そして——彼女は見た。
彼の意識の中に入って、彼の側からステージを見た。照明が眩しかった。客席は暗かった。暗闇の中に何千という顔がぼんやりと浮かんでいた。彼は——彼女の推しは——あの照明の向こうに、ほとんど何も見えていなかった。暗闇と、暗闇の中にときどきちらつく携帯電話の光と、なんとなく白っぽい顔の群れ。それが彼の見ていた客席だった。
彼女の顔は、そこになかった。
十六年間、彼女は彼を見ていた。まつげの数を数え、半歩のずれを記憶し、「みにゃさん」の振動を身体に刻んでいた。彼のほうは——彼女を見ていなかった。見えていなかった。物理的に。照明が明るすぎて。
これが残酷でなくて何が残酷か、と僕は思った。
しかし彼女は——残酷だとは思わなかった。
彼女はすでに知っていたのだ。生きているあいだから知っていた。自分は見られていないということを。双眼鏡越しの愛は一方通行だということを。それを知った上で十六年間続けたのだ。見返りを期待していたのではない。見ること自体が目的だった。見るという行為そのものが、彼女の愛だった。
だから彼の意識に入って、自分の顔がそこにないことを確認したとき、彼女は——壊れなかった。
むしろ——完成した。
これで本当にわかった、と彼女は思った。最初から最後まで一方通行だった。それでも十六年間見続けた。見続けたことの重さは、見返されなかったことによって減りはしない。愛の重さは相手の応答によって決まるのではない。自分がどれだけの時間と感覚を注ぎ込んだかによって決まる。
彼女は溶けた。
嬉しそうに。
彼女が溶けた瞬間、周囲にいた何万という同じファンたちの知覚が、堰を切ったように流れ込んだ。彼女がドアを開けたのだ。最初のひとりが溶ければ、残りは雪崩のように続く。何万もの双眼鏡の記憶が、何万もの地方のコンサートホールの記憶が、何万もの朝の祈りの記憶が、ひとつの流れになった。
川が海に注ぐように。
自然に。
*
全体が近づいてきた。数十億の知覚がひとつの意識に統合されつつあった。
面白かった。最後まで面白かった。本当のことだ。
七歳の子どもの目で虹を見上げた。虹という名前を知らなかった。空に色が曲がっている、と思った。なぜ色が曲がるのか。クレヨンで線を引くとまっすぐだ。なのに空の色は曲がっている。その驚きの純度は、僕が大人になってから感じたどんな驚きよりも高かった。
同時に、九十二歳の老人の指で庭の土に触れた。草の根が土から離れるときの小さな抵抗。ぷちり。老人の指はもう強くなかった。でも土の冷たさは感じた。土の匂い。死んだ植物と生きている菌類が混ざった匂い。腐敗と生成が同時に起きている場所の匂い。
七歳の虹と九十二歳の土が、同じ知覚の中にあった。始まりと終わりが同居していた。
あらゆる言語が同時に響いた。タガログ語の子守唄とフィンランド語の罵倒とアラビア語の祈りとポルトガル語の愛の言葉が同じ瞬間に鳴った。言語の「意味」ではなく「質量」が来た。タガログ語の子守唄の、あの低く揺れる音の重さ。フィンランド語の罵倒の、子音が歯に当たる硬さ。言語は意味ではなく物質だった。
産む身体の知覚があった。陣痛の、身体が内側から裂かれるような痛み。身体が別の身体のために道を空ける暴力的な再編成。同時に、産まれる身体の知覚があった。初めて肺に空気が入る感覚。外の世界の温度に初めて触れたとき、泣き声を上げる前に、皮膚が泣いていた。
世界で最もくだらないことも同時にあった。人類史上最も長いくしゃみをした男がオランダにいた(十二秒。本人は死ぬかと思った)。人類史上最も気まずい沈黙はシカゴのエレベーターの中で起きた(元恋人同士が偶然乗り合わせて四十二階分)。人類史上最もまずい料理を作ったのはロンドンの十九歳の学生で、パスタに蜂蜜とマヨネーズとわさびを入れた(本人は美味いと思っていた。本当に思っていた。味覚が壊れていたのではなく、彼にとっては本当に美味かったのだ。味とは何か、という問いがまたここで立ち上がった)。
全部同時だった。全部面白かった。世界は面白い。この一文に尽きた。
そしてある時点で——全体になった。
すべてが同時に起きているという状態。欲望が消えた。恐怖が消えた。孤独が消えた。
充満していた。
これが万能だった。
万能は退屈ではなかった。退屈という概念が消えていた。退屈とは「ここにないもの」を求めることの副産物だ。すべてがここにあるなら退屈は構造的に発生しない。
僕は——ここに留まりたかった。
本心だ。
こんなに面白い場所を、誰が出ていきたいと思う? 制限のない知覚。あらゆる感覚の同時経験。世界そのものであること。七歳の驚きと九十二歳の落ち着きと戦場の恐怖とシャボン玉の虹とバングラデシュの米と全部同時に。
ここにいたかった。ここにいれば何も失わない。何も終わらない。すべてがすでにある。
ここは——よかった。
*
だから、気づいたとき、僕は本当に困った。
気づいた、と書けること自体が矛盾している。気づくためには主体が必要で、僕は主体を手放したはずだった。しかし気づいた。全体の中のどこかが、身体が危険を察知して反射的に動くように、思考を経由せず、直接的に、気づいた。
彼女がいない。
充満の中に、一点の空白があった。
七十億の知覚を一瞬で探した。万能なのだから一瞬で済んだ。
いなかった。
七十億の名前と七十億の顔と七十億の人生のどこにも、彼女はいなかった。
彼女は、あちら側にいた。
古い世界。肉体の世界。ひとつの身体に閉じ込められ、ひとつの場所にしか存在できず、痛みがあり、疲労があり、空腹があり、眠気があり、孤独があり、恐怖があり、そしていつか必ず終わる——あの世界の、ある一点に、彼女はいた。
彼女は生きていた。
まだこちら側に来ていない。まだ皮膚を持ち、名前を持ち、輪郭線の内側にいる。
万能は——手を伸ばした。手はない。全体があちら側に向かって押し寄せた。彼女をこちら側に引き込もうとした。
こちらに来い。ここにはすべてがある。世界で最も美味い米がある。七歳のシャボン玉がある。鍵師の指先がある。すべての朝焼けとすべての夕暮れがある。痛みも孤独もない。
できなかった。
万能には、ひとつだけ不可能があった。
有限を経験できない。どこにでもいるということは、「ここにいる」ということができないということだった。すべての声を同時に発しているということは、「この一言を彼女の耳元で囁く」ということができないということだった。
彼女はあちら側で、ひとりの人間として、限られた回数の呼吸をひとつずつ消費していた。
その有限さが——彼女だった。
充満の中に穴が空いていた。完全の中の穴。すべてがあるはずの場所に空いた、ひとつの穴。
その穴は、彼女の形をしていた。
不在は、存在よりも正確に形を描く。そこにいた人はぼやけている。そこにいない人はくっきりしている。万能の中で最もくっきりしたものは、彼女の不在だった。
*
僕は困った。
本当に困った。
こんなに面白い場所を出ていかなければならないのか。バングラデシュの米を手放さなければならないのか。鍵師の指先を返さなければならないのか。二歳のシャボン玉の驚きを。日本舞踊の師範の、思考と身体が同一になったあの感覚を。全部返して、あの不便な、痛い、有限の身体に戻らなければならないのか。
戻りたくなかった。
これは本心だ。きれいごとを言うつもりはない。万能は——面白かった。楽しかった。世界は知れば知るほど面白くて、十億人分の知覚を持ってしても足りないくらい面白くて、ここにいればその面白さが永遠に続く。永遠に。
あちらに戻れば、すべてなくなる。一つの視点しか持てない。一つの鼻で一種類の空気しか吸えない。一つの舌で一つの味しかわからない。指は五本しかない。五本。七十億人の三百五十億本の指を持っていた僕が、五本に戻る。
しかも、いつか死ぬ。
また死ぬ。今度こそ本当に。次に死んだとき、またここに来られる保証はどこにもない。
合理的に考えれば、ここにいるべきだった。ここにいればすべてがある。あちらに戻れば、ほとんどすべてを失う。損得で言えば、戻る理由はゼロだった。
でも——穴があった。
彼女の形をした穴が、万能のただなかにあった。
鍵師の指先はある。調香師の鼻はある。バングラデシュの米はある。カイロの朝焼けもレイキャビクの夕暮れもある。七歳の虹も九十二歳の土もある。あの双眼鏡のファンの十六年間の記憶もある。
全部ある。全部あるのに、足りない。
彼女がいない、というだけで、全部が足りない。
これは不合理だった。七十億の知覚を持つ存在が、たった一人の不在によって不完全になるのは、数学的に言えばナンセンスだ。七十億分の一の欠損で全体が揺らぐはずがない。
でも揺らいだ。
揺らいだのだ。
それが——たぶん——愛だった。
愛は合理的ではない。公正でもない。ひとつのものを他のすべてより上に置くこと。カイロの朝焼けよりも、バングラデシュの米よりも、七十億の知覚よりも、一人の人間の、一つの体温を選ぶこと。
万能の中では、すべてが等しかった。あらゆるものが同じ重さで存在していた。それが万能ということだった。有限の中では違う。有限の中では、ひとつのものが他のすべてを圧倒できる。ひとつの寝顔が七十億の顔より大切になれる。
それは歪みだ。不均衡だ。偏りだ。
しかし愛は歪みの中にしか住めない。
完全に均衡のとれた場所に、愛は住めない。
*
僕は全体をやめた。
万能を手放した。
それは——巨大なコンサートホールに響いている交響曲の、すべての楽器を一本ずつ下ろしていくようなものだった。ヴァイオリンを下ろす。チェロを下ろす。フルートを下ろす。音が減るたびに、世界が薄くなった。
怖かった。
万能から有限に戻ることは、あらゆる恐怖の中で最も根源的な恐怖だった。目が見える人間が、自らの意志で、六十九億九千九百九十九万九千九百九十九個の目を、ひとつずつ閉じていく。
閉じるたびに、世界が狭くなった。
カイロの朝焼けが消えた。もう見えない。もう吸えない。あの乾いた空気。消えた。レイキャビクの夕暮れが消えた。マニラの湿度が消えた。鍵師の指先が消えた。あの精密な触覚。もう二度と。調香師の鼻が消えた。世界の匂いが三十分の一の解像度に落ちた。
二歳のシャボン玉が消えた。あの驚きの純度。消えた。
バングラデシュの米が消えた。
これが一番つらかった。
あの米の味を、僕はもう思い出すことしかできない。思い出すことと経験することは違う。思い出は写真だ。経験は実物だ。写真が実物に勝てるはずがない。
でも——でも——
左手の甲に温度があった。
死ぬ直前、最後に感じた温度。あの温度だけが、万能の中でも消えなかった。七十億の温度に埋もれていたはずなのに、一度も薄まらなかった。彼女は全体に含まれていなかったから。全体の外にあるものは、全体の中で希釈されない。
左手の甲の温度を頼りに、僕は戻った。
*
最初の呼吸は、痛かった。
横隔膜が下がり、胸郭が広がり、空気が鼻腔を通って気管を下りていった。一対の肺。たった一対の肺で、たった一種類の空気を吸った。消毒液の匂いがした。調香師の鼻を持っていたときには空気の中の四十の成分を同時に読めた。いまの鼻には、消毒液しかなかった。あんなに複雑だった空気が、一語に圧縮されていた。
しかし——その消毒液の中に、かすかに別の何かが混ざっていた。分解できない。もうあの精度はない。でもあった。何かの匂い。洗剤か。柔軟剤か。誰かが身につけている何かの匂いが、消毒液の底でほとんど溺れかけながら、まだ匂っていた。
あちら側は不便だった。
ひとつの身体しかなかった。ひとつの心臓。一度に見える景色はひとつだけ。
窓の外に木があった。桜だった。葉が緑色だった。その一本の木の、その緑だけが、僕の視界のすべてだった。あれほど広かった世界が、窓枠の中に収まっていた。
痛みがあった。管が腕に刺さっていた。ユキの記憶が蘇った。あのとき他人の記憶として知ったことを、いま自分の身体で経験していた。
窓の外の桜を見たとき、あの独房の男のことを思い出した。三メートル四方の宇宙で十五年間を生きた男。世界が狭くなっても知覚は死なない。むしろ燃える。いま僕の前にあるのは、一本の桜と、窓枠と、自分の左手の甲だけだった。それだけで十分だった。桜の葉の一枚一枚の、葉脈の分岐が、万能のとき見た何十億の木の葉より重かった。
そしてそれらのすべてが——信じられないほど——鮮明だった。
万能の中の充満は、充満であるがゆえに何も際立たなかった。すべてが等しくそこにある状態では、何ひとつ際立たない。有限の中では——ひとつの痛みが全世界を占める。ひとつの渇きが存在のすべてになる。
不便だった。不完全だった。
でもここには、「ここ」があった。万能の中には「ここ」がなかった。すべての場所に同時にいるということは、どこにもいないということだった。
そして——ここには、「となり」があった。
万能の世界に「となり」はなかった。すべてが同時にすべての場所にあるとき、隣接は存在しない。となりにいるためには、ここにいなければならない。ここにいるためには、そこにいてはならない。
左を見た。
彼女がいた。
パイプ椅子に座って、眠っていた。首が右に傾いていた。口がわずかに開いていた。右手がベッドの縁に載っていた。僕が万能になっているあいだ、ずっと左手の甲に触れていたのだろう。どこかの時点で疲れて、手が滑り落ちたのだろう。
消毒液の底で溺れかけていた匂いは、彼女だった。
彼女の指が見えた。五本。爪が短く切られていた。薬指に銀色の指輪があった。傷がいくつかついた、サイズが少しだけ大きい指輪。
万能のとき、僕は何十億もの指輪を持っていた。金の指輪。プラチナの指輪。宝石のついた指輪。その中で、この指輪は何十億分の一にすぎなかったはずだった。
いま、この指輪は世界のすべてだった。
バングラデシュの米より。カイロの朝焼けより。鍵師の指先より。この指輪が、世界のすべてだった。
万能の中では、すべてが等しかった。有限の中では、ひとつのものが他のすべてを圧倒できる。
それが不合理であることを、僕は知っている。万能を経験した僕は知っている。世界にはこの指輪よりすごいものがいくらでもある。カイロの朝焼けは本当にすごかった。鍵師の指先は本当にすごかった。バングラデシュの米は本当に美味かった。
全部知っている。全部知った上で、この指輪がいちばん重い。
合理的ではない。公正でもない。万能の視座から見れば、歪みにすぎない。
でもね——
万能は面白かった。本当に面白かった。あんなに面白い場所はなかった。世界そのものであること。七十億の知覚で世界を走査すること。何もかもが同時にあること。
でも。
万能の中で唯一面白くなかったのは、彼女がいないことだった。
何もかもがある場所で、彼女だけがないことが、唯一、面白くなかった。
面白くなかった、という言い方はたぶん正確ではない。もっと正確な言い方がある。
さみしかった。
万能の中でさみしかった。
すべてがある場所でさみしかった。
それは矛盾だ。ミルクの多い夫の愛と、ブラックが好きな妻の沈黙が矛盾しないように。矛盾のまま両方が本当だ。万能は面白かった。万能の中でさみしかった。両方が本当だ。
彼女がまだ眠っている。
首が右に傾いている。口がわずかに開いている。吐息がかすかに聞こえる。
限られた回数の呼吸を、ひとつずつ消費している。
僕はその呼吸を聞いている。万能のときには聞こえなかった音を。七十億の呼吸に埋もれて消えていた、たったひとりの呼吸を。
有限の耳で。
ひとつの名前で。
五本の指で。
彼女の、となりで。
世界のとなりで
思弁SF、形而上学的ロマンス
"七十億の魂が溶け合う万能の世界で、僕は君がいないだけの穴を見つけた。"
死ねば、すべてがわかる。意識は溶け合い、世界の果てまで届く。けれど全能になったとき、ぼくはただひとつのことに気づく——彼女がいない。愛とは、隣にいることだ。隣にいるためには、ここに戻らなければならない。生きることの意味を、死の側から問い直す、意識と愛をめぐる長篇小説。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。