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水湯々々

神影零

5,542 字

青春文学、家族小説、心理ドラマ

"「ああ、いきてて、よかった。」――絶望の淵で、姉妹が掴んだ命の温もり。"

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もしも自分の人生を何かに例えるなら。
私にとって、今自分の人生を振り返ればそれは「水」だった。
日陰にダンボールから取り出されたばかりの2リットルの水のペットボトル。それが私の人生。
何の味もしなくて、生きるために喉を通っていくだけの無味無臭、無害で無益なもの。それが私の人生。
振り返ればもう十五年は前。
田舎に住んでるおじいちゃんとおばあちゃんの家に向かおうとして、車に乗った。
――気づけば病院にいて、同じ顔をペーストしたお医者さんが私の両親の死を告げていた。
その時のことはあんまり鮮明じゃないけど、なんとなく「そっか」くらいのことを思っていた。
「そっか」。両親が死んだにしてはあまりにも浅くて、もっと自分でも泣くようなことだと、振り返れば思う。
でもその時の私は、それ以上でもそれ以下でもないことを思っていただけだった。
それからの人生も水のように、ただそこにある、何の起伏もない、フラットな時間が過ぎて行っただけだった。
親がいない子供というのは数奇な目で見られる。変なのと笑われるだけに留まらず、それだけで「かわいそう」という目で私を見る。「劣っている」という目で私を見る。
お手洗いに行けば上からバケツいっぱいの水が降ってくる。女子のクラスメイトと会話した後は決まってそのクラスメイトの周りにいわゆる「陽キャ」が群がる。そうして、私の陰口、おおかた決まってるだろうテンプレートに沿った悪口が飛び交う。――だめだ、思い出す。
喉からえづく音が漏れた。そりゃそうだ、あんな記憶、どこかにポイ捨てできたらいいのに、でもどうしても捨てられない現実がそこにいて、狂おしいほど刺し殺したい。
――現実が殺せなくても、自分がここからいなくなってしまえばいいんじゃないか。
単純な話で、どうしようもないなら簡単なこと。自分がこうして生きてるから苦しむんだ。そうだそうだ死ねばいい、死ねば苦労しない、死ねば苦しまない、死ねば毎晩吐かないで済む、毎晩睡眠薬を飲まないで済む、ああそうだ姉にも迷惑がかからない。それがいいじゃないか、そうするしかない。

階段を降りればそこに姉はいた。
リビングのソファに沈み、天井を見つめながら、何かを呟いている。いつもと何も変わらない姉の姿がいた。悠姉ちゃんはいつだってそうだ。
高校を卒業してから、お姉ちゃんはふっと糸が切れたようにああなってしまった。
毎日学校に行って、家に帰っては「今日は文化祭の準備してきた」と笑い、甘ったるい卵焼きを作ってくれた。あれはもう二年前か、と思い出して心がきゅっと締められ、その締めてきた腕は気付けば自分が振り解いていた。死んでしまえばなんかという言葉を言うような人間はこんなことで心は苦しまない。自分がそう思うより先に脊髄の私が手を振り払っているようだった。
「お姉ちゃん。」
リビングに声が響いた。壁はよく声を跳ね返し、遮るものがないせいか、自分が出した声のはずなのに自分が思うより声が大きく聞こえて、そして声が消えた。
時計の秒針がカチ、カチと音を立てて外の夕陽を反射し煌めかせている。リビングが薄い橙色のベールを帯びてそこにあり、床はまだそこで鏡のように色を薄く跳ね返していた。
姉ちゃんはゆっくりとみじろぎし、膝を抱えてこちらの方に向いた。体育座りをして背中を丸めているせいか、黒髪が顔を覆っている。
「……ん」
姉の目は随分大きい。私はあまり大きくないのに。
そういえば姉も目の大きさのせいで苦労したと言っていたような気がした。姉の大きい目を大きいと思うこと自体、ずいぶん久々な気がする。
今何故か思い出して、数秒前の私はそれを覚えていなかったことに思い出した。
「なぁに、ひなちゃん。」
柔らかいながらも硬い声だった。矛盾してる。矛盾してるけどそうとしかいえなかった。姉ちゃんの人差し指が親指の爪を撫でていたから、それだけでなんとなく緊張しているんだなと言うことが伝わってきた。
――話しかけた理由は、忘れてないだろうな。
頭の中で私の声が響いていた。私の声色ではないけれど、私が出した声だった。
「あのね、私、苦しいの。」
言葉が姉ちゃんの何かのスイッチをゆっくり押したのか、太ももを包んでいた両腕がだらんと垂れた。
人差し指が止まって、ちょっと空気が止まって、そして空気が動いた。
「……うん。こっち、おいで。」
姉ちゃんはソファをぽんと叩いて、それから撫でた。
言われるがまま座って、膝に頭をゆっくり乗せた。姉ちゃんの呼吸は少し早くて、それでも悟られまいと顔は白いままだった。
――抱いていた。
抱きしめなければ、と思っていた。後何度抱き締めれる?と思った時には、身体は動いていた。
姉ちゃんの腕は随分細く、シャーペンの芯ほどにか細く、抱きつくと言うよりかはしがみつくような、そんな形だった。
くぐもった声で、姉ちゃんは「重い」と、ポツリと漏らした。
重いなら離せば?と心で思って、そんなことを思った心を頭の中で殴ったが、しかしこの姉は全く腕を離さず、それどころかキュッとシャツのすそを握り返した。毎日動かず天井を見ているだけの生活のせいか、骨が肩のラインに浮き出ている。
「僕も苦しいんだよ。」
肩は少し震えていた。そういえばもう秋だ、随分外は寒くなってきた。この震えがそれからやってきているかは置いても。
「もう、やめよう?こんな毎日嫌だよ。」
ずいぶん辿々しくて下手くそな言葉、婉曲しようとして曲がりくねってとぐろを巻いた言葉だった。
「……もう、って。」
顔を上げないまま、言葉を漏らしてはそれから数分黙っていた。そうして、小さくフラットな声が出で来た。
「死にたい、っていうこと?」
死ぬということ。自分は覚悟を決めていたつもりだった。でも、巻き添えるような形になってしまって、下手に首を動かすことすらできなかった。頷いたらもう帰れないような気がして。
「――いいよ、一緒にね。」
頷く必要すら、なかったようだった。自分の言ったことすら理解できていないような顔をして、姉ちゃんはこちらを見ていた。
姉ちゃんは、シャッターを切るように瞬きを一度してから、緩慢な動きで立ちあがろうとした。
「じゃあ、準備しないと。」
そうして、浴室にふらふらとした足取りで向かっていた。
「お風呂で手首を切ったら、そのままゆっくり失血で死ぬんだって。」
――知識があることは、つまりは姉も同じ心を抱えていたということだった。
「とびきり暖かいお風呂にしよっか。冷えちゃったら、最後寒くなるから。」
踵の皮膚が床に擦れ、ぺた、ぺたと音を立てた。

姉ちゃんが風呂を溜めてくれているのだから、自分だって指を咥えて見ているわけにはいかない。
冷蔵庫の中のほんの少しの食材を取り出してキッチンへ運ぶ。
味噌汁と卵焼き。姉が作ってくれたような、あの味で、最後の晩餐、いや、最後の昼食。でもこの人生は案外ずっと夜みたいなものだから、晩餐でいいのかもしれないけど。
最後の食事にしては生活感がありすぎて、なんだか現実味がなかった。
「……なに作ってるの。」
元から大きいはずの姉の目がさらに膨らんで、そして瞬いた。それからご飯をじっと見て、箸の並べ方が綺麗だとか、そんなことを考えている顔をしていた。
「これ、作ったんだ。」
私以外作る人なんていないはずなのにそんなことを聞いて、それでいてもう椅子に座っていた。
「いただきます。」
姉ちゃんが味噌汁を啜ったのを見て、自分も味噌汁を飲む。
白葱と味噌の合奏が喉を通り抜け、まるで全身が拡充、統一され大気に身が溶けるような、そんな感覚が身体を覆った。
自分でも大袈裟だななんて思うけど、でもやっぱりそういう感覚があった。
「卵焼き、甘いね。」
姉ちゃんの顔は涼しいままだったけど、でもその内で、水面に雫が一滴垂れた時のようにゆらめいているのがわかった。
「もっと上手に作れればよかったな。」
――ゆらめきは顔の表面に現れてきた。
姉の薄い唇が噛まれ、歯形が残って血が滲んでいた。
「ううん、ずっとひなちゃんのご飯おいしかったよ、ずっと。」
最後の一切れを口に運んで、ゆっくりと噛んだ。味わうためにか、この時間を伸ばしたかったのか。
姉ちゃんは箸を置いて、目尻を拭った。そしてそれから手のひらを見て、その手を振った。
「ごちそうさま。」
それから、いつものように皿を重ねようとした腕が止まった。
空になった食器、もう何も載せないで済む食器、洗われないでいい食器。
私たちがこの世から消え失せること、すなわち家の中全てのものが役目を終えて死に行くこと。じわりと腹が冷えた。
「ねえ。死んだら、ひなちゃんもすぐ来てくれる?」
なんでもないように装ってるけど、やっぱり姉ちゃんの人差し指は親指の爪を撫でている。置いていかれるのが怖いのだということは、考えないでもすでに頭の中で輪郭を持って現れていた。

どちらが先というわけでもなく、二人で服を脱ぎ、十年以上か以下かは覚えていないけど、とにかく久しぶりに一緒にお風呂に入った。
「手首って、どっちの手で切ればいいのかな。」
左手首を右手で持って、右手首を左手で持って、真剣な顔をして聞いてきた。
どっちでもいいんじゃない、という言葉はなぜか喉から出てこなかった。それよりも、手首の細さ、木の枝のような細さの方が頭に残った。そして、その手首の白さも頭に残った。
「ほら、早くおいで。あったかいよ。」
声は柔らかで、これから死にに行く人であるということは感じられないほどだった。
ゆっくりと風呂に浸かり、姉ちゃんの背後に入り、そして身体を密着させた。
胸が姉の痩せた背中に押し当てて、心臓の鼓動が結びつくように、姉の背骨を通して伝導するように。
「ねえ。」
姉の肩は僅かに震え、でも顔はこちらを向かないまま問うてきた。
「怖くない?」
ううん、と返事する。怖くないわけない。後戻りできないことも知っている。でも、ここでやめにするということも、もうできなかった。外は暗く寒い。そんな世界で、今の風呂より暖かい経験はできない。
姉ちゃんの肩は、しばらくして震えがおさまっていった。
「ここかな。」
左手首の内側を切ることに決めたらしい。骨の突起をなぞり、その横に指を当てた。自分も同じようにして、指先を当てる。とくん、とくん。生命の律動はそこにあり、これが今から失せていくということも、もう何度目かわからない不可逆の死ということが浮き彫りになっていった。
浴室の鏡は曇っていて、私たちの姿はよく見えない。二人いるはずなのに、輪郭は一つだけ。湯気は重く濃く、空気自体がとろりとした感触を帯びている。
「痛いよね、多分。」
当たり前だ、楽して死ねるような準備はできていない。睡眠薬は死ぬのに足りていない、だからこうしているんだ。自分の中の何かがそう言っていた。
左手首を湯の中からだし、風呂の空気に晒す。水滴が手首を通って肘から浴槽に垂れた。
「一緒にやろ。せーので。」
心臓の律動は一定で、それが合図に思えた。目を閉じて、息を吸う。
「いくよ、せ――」

左手首に、刃が食い込んだ。ぶつりと音を立てて、血が湯に落ちる。
ぼたぼたと溶け、水色の湯を汚していく。
「あ、」
姉ちゃんはカミソリを離して、私の手を握った。
「いた、い、」
目から涙が溢れていた。痛みではなく、悲しみではなく、何かもわからないなみだが、ただとうとう流れ出していた。
二筋の血が湯を染め、螺旋のように混ざり合っては霧散していく。
「ひな、ひな、」
理由もないはずなのに名前を呼んでくる。痛いのか、出血で寒いのか、どちらにせよ、私に縋るために。
後ろを向いて抱き返し、骨が浮き出る腕を私の腰に回し、ぎゅうっと抱いた。
「ごめん、先、死ぬかも、」
そして、ちょっと笑った。あまりにも場違いな笑みだった。
「すぐ行くよ」
お湯はぬるくなり始めていた。二人の血が水をうすめ、もやのように足元を漂っている。
目の前が少しずつ暗くなってきた。でも、姉の体温がまだこの世にむすびつけさせてくる。嫌なのか、それがいいのか、それすらわからなくなってきた。
「やだ。」
かすれた声で、姉ちゃんがつぶやいた。
「いけない、まだ、いっしょに……。」
だれに言っているのか。神様か、自分か、それとも私にか。
「みてたい。」
ふるえる手が左手を握り、引っ張って、血が流れる二本の左手をくっつけた。
おなじ角度、おなじ深さのキズが、まるで双子のあかしのようにゆらいでいる。
「うまれかわりって、あるのかな。」
バカみたいな質問で、死のうとするひとがいう言葉じゃない。そんなことは姉だってわかってるはずだった。でも、言葉はまだつづいた。
「もしあるなら、つぎも、ひなのおねえちゃんになりたいな。」
――この姉は、なぜ死に行く私に、自分をころさせた妹に、こんな言葉をかけてくれるのだろうか。
ここまで赤だけにそまりつつあったよくそうに、水が一滴たれた。
「わたしも、いもうとがいい」
風呂場はしずかだった。
かすれた声で、姉ちゃんが声をもらしている。
「わかった。」
わらっていて泣いているかおで、わたしのほほに手をのばしてゆっくりとなでた。
そして、そのてがゆるりとかたに落ちてきて、それからわたしのくちびるをなでた。
「あいして、」
それだけいって、くびをかたにのせてきた。あねのめは、いまもまだおおきいままだった。そしてそのくちもとは、たしかに「る」のくちだった。

ああ、いきてて、よかった。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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コメント 1

星羅
好みの暗さです
そして最後の生きててよかったで涙腺崩壊しました
多少歪んでいても姉妹愛と言うのは美しいなあと実感させてくれるものだったです
言い始めるとキリがないのでざっくりこれだけ遺して去ります!
しおりを挟みました