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窓

こうよう

4,478 字

青春小説、心理描写、病室文学

"窓の向こうに映る、儚い希望と、少年が抱く未来への葛藤。"

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 少年は、消毒液の臭いが鼻につく、ダークグリーンの廊下を歩いていた。少年の脳裏には、深緑色に白の襟が目立つセーラー服を着た、黒いクラゲヘアーが特徴の少女の姿が浮かんでいる。窓からは秋の昼下がりの光が明るい黄緑のカーテン越しに、少年の制服の黒色を照らしている。遠くでスリッパのぱこぱこという音が鳴り響いている。どこからか、人の声がずっと聞こえている。が、廊下には少年以外誰の姿もない。
 少年は口をかたく噤んでいる。どこか身体に力がはいっている。脳裏に浮かんでいる少女は、ある日の朝礼の時間に倒れて以来、ずっと入院していた。真っ青な顔で、逼迫したように短く喘ぐ少女の寝姿が、何度もなんどもフラッシュバックする。ふと遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
 引き戸の、銀色の冷たい取っ手に触れた時、不意に、扉横の白ペンキ塗りの壁に貼られたネームプレートが目にはいった。"209"の横に書かれた「××優花」という名前。忽ち頭に、一人称が「ゆうか」の、舌っ足らずな幼な声が響いてくる。その声は徐々に年をとって、落ち着きを感じさせながら、はっきりと聞こえていく。その先を、少年は考えようとして、──大きなため息が出た。そして意を決したように、鏡面のような光沢のある取っ手をつかんだ。がららという音と共に、ベッドに凭れている少女の、真珠のような白い顔が目にはいった。傍らに点滴の袋が吊るされていて、そこから透明のチューブが腕に続いている。目が合うと少女は、にこっと微笑を浮かべた。その頬は薄桃色に染まっていた。

「いらっしゃい、悠太」
「やあ」
「どうだった?学校」
「つまんなかったよ」

 少年は苦笑して、ベッドの横の黒い背もたれのない丸椅子に座った。釣られて少女も、口元を手で押さえて笑った。腕は相変わらず細かった。胸までかけていた布団がめくれて、薄緑色の病衣が覗いた。

「相変わらずだね」
「そっちは?ちゃんとご飯食べただろうな?」
「食べたよ」
「ぜんぶ?」
「心配性だな〜」

 少年は脚を開いて、脚と脚の間に腕をいれる格好で、両手で丸椅子の縁を持ち上げるようにして座っていた。その顔に苦笑を滲ませながらも、心中穏やかではなかった。それを察してか、目の前の少女は微笑を浮かべたまま、えい、とその肩を叩いた。少年はだんだん目の熱くなっていくのを感じて、苦い笑みを浮かべたまま顔を窓の方へやった。窓には薄いクリーム色をしたブラインドがかかっていた。
 思い出したかのように椅子から立ち上がると、窓の横の紐をゆっくり引っ張った。ブラインドはかしゃかしゃ音をたてながら上へ上がっていく。それと同時に、丁度日の光がはいってきて、思わず目を細めた。

「綺麗だね、外」
「そうかな?」

 ビルがそこら中にたっていて、その合間々々に垣間見る青空以外、一面灰色というような光景だった。少年は教室の窓から見える公園の黄葉を思い出していた。

「綺麗だよ」

 少女は静かにつぶやくように言った。その声は少し震えていた。少年は振り向くようにして、少女の顔をそっと眺めた。
 黒いオニキスのような目はつやつやとビルを反射させていた。その目尻に、水晶のような透明な雫が丸く溜まっている。

「たしかに。綺麗だ」
「でしょ?」

 片目だけがこちらを向いて、また微笑んだ。その目は勾玉のようだった。それがまたオニキスに戻って、ビルを映しはじめた。少年も丸椅子に座って、また窓の外に目をやった。何度見てもビルの灰色しかなかった。

「あ、飛行機」
「どこ?」
「そこだよ、ほら」

 少女は窓を指差した。少年は立ち上がって、手を日除け代わりに額に当てると、きょろきょろ窓を見渡した。しかしやはり灰色しか目にはいらない。飛行機なんてどこにもない。少女のついた些細な嘘ではないかとも思った。ゆっくりとまた座りなおした。

「あーあ、もう行っちゃった」
「そんなの見えなかったよ」
「鈍感」

 少女は膨れていた。が、微笑は絶やしていなかった。さっき少年の見えた涙はもうどこにもなかった。胸がちょっとだけ軽くなった。

「そんなんじゃ、ずっと彼女できないよ」
「彼女なんかいらないし」
「優花がいるから?」

 無邪気な明るい声色が響いた。それがほっとしていた少年の胸を激しく痛めた。そんな少年の憂鬱に対して、少女はいたずらっ子のような悪い笑顔を浮かべていた。心做しか目元が一層輝いて見えた。

「違う」

 少年は自分でも驚くほどに低い声が出た。思わず咳払いした。少女はそれに気づいていない様子で、冷笑していた。

「ほんとにぃ?」
「ほんとだ」
「ふーん?」

 少女はにやにやしていた。少年はその顔を見て、苦笑した。そして目をそらすようにして、窓の外を眺め見た。
 脳裏に、優花のいなくなった後の世界を浮かべていた。なぜだかその時、世界は丁度この窓の外のような灰色になっているのだろうと、そう思った。すると忽ち自分の身体から白檀の芳香が湧き出すのを感じた。その匂いが強くなっていくと共に、だんだん息が苦しくなっていった。

「やっぱ優花がいるからかも」

 立ち上る煙の幽香に酔いながら、無意識にそう口に出していた。少女は、そんな彼を嘲笑するような口調でこう言った。

「なにそれ」
「いや、やっぱ今のはなし」
「もう聞いちゃったよ」

 くすくすという笑い声が聞こえて、顔が熱くなるのを感じた。白檀の香気はもうなくなっていた。少年は熱を持った頬を隠すように、あるビルへ目を移した。するとその窓にスーツ姿の男が立っているのが見えた。窓の中の彼は手に缶コーヒーを持っていた。──その姿にふとまた、将来の自分を重ねた。スーツ姿の自分が家に帰った時、薄いベージュのエプロン姿の優花が目にはいった。クラゲヘアーの彼女はキッチンでぐつぐつ音をたてるステンレス製の鍋をかき混ぜている。その顔に母の影を感じた。

「おかえり。どうだった?会社」

 僕は、背もたれの高い木の椅子に、上着とカバンをほうり投げた。そしてネクタイを外しながら、かったるそうに、しかし笑みを浮かべて、こう答える。

「つまんなかったよ」

 優花は、小皿に汁を入れて味見をしながら、その横顔に苦笑を浮かべて言った。

「相変わらずだね」

 その世界は、光沢のない金属の鍋から漂うカレーの匂いと共に、いつもの彼女の金木犀の薫りが広がっていた。それを心から楽しみながら、僕は、カイロ代わりにポケットに入れておいた缶コーヒーを、柔らかな茶色をした、木目調のテーブルに置いた。そしてずずと一口すすると、口いっぱいにブラックコーヒーの味が広がった。──妙にだんだん、目の前が白く霞んでいった。缶を持つ手が小刻みに震えた。ぐつぐつと煮えたぎる鍋の音も遠ざかっていく。そうして何の音もない、真っ白な世界に包まれた。カレーのスパイシーな匂いも、缶コーヒーの芳ばしい香りも、金木犀の甘い薫りも、すべてが、消毒液のつんとした臭いにおき変わっていた。
 気づいた時にはビルの窓の中にいたスーツ姿は消えていた。少年はもう誰もいない窓を眺めながら、目を潤わせて苦笑した。最後に残っていたのは、あの口いっぱいに広がった、不味いブラックコーヒーの味だった。それは幼い頃に、優花の前でいきがって飲んだコーヒーの味だった。あの、二度と飲むまいと誓ったものだった。
 その時突然、椅子の横の空気清浄機が音をたてて動きはじめた。少年は驚いてその方を見た。すると目の端に、同じように驚いてその方を向いていた少女の顔がはいった。そのまま少女と目があった。そして二人は照れるようにまた、笑いあった。

「そういえば、あの子たちどうしてる?」
「ああ。まあ何とかやってるよ」
「そう」

 こちらを眺めている少女は相変わらず微笑を浮かべていた。が、その目尻にはまた涙が溜まっていた。それのみならずその薄い唇にもぎゅっと力がはいっていた。少女はさっと前髪を横にずらした。

「部長はやっぱり悠太が?」
「まあ。……でも、一応先生の計らいで副部長のままだよ」
「鈴木先生優しいもんね。……また会いたいな」

 少女は震える唇を閉ざして窓の方を向いた。ぼんやり遠くを見つめる目は日の光を反射させて、きらきら輝いていた。鼻をすする音を誤魔化すように、少女は声を出して笑った。目尻から白い頬に、涙がつーと垂れていった。
 最後につぶやくように出た言葉に、少年はまた、胸が締め付けられるような気持ちになった。そっと少女から扉の方へ目をそらした。日の光はベッドの上まで広がって止まっている。その先の薄暗いところで、シャドーホワイトのカーテンが、空気清浄機の音と共に、ゆらゆら揺れ動いていた。──そこに少年はなぜか、親友がはじめて女性になった、あの陽射しの強い日を思い出した。それは、腹の痛くなるくらい笑った、不格好なワンピースの揺らめきだった。涙を浮かべながら頬を真っ赤に染めた、彼女の怒り顔だった。そして、その時はじめて感じた、あの金木犀の薫りだった。
 ふと今、空気清浄機へ消えていく消毒液の臭いの中に、かすかに金木犀の薫りがあるのを発見した。もう感じることのないと思っていたその甘い匂いは、忽ち少年の胸を踊らせ、視界を歪ませた。
 二人は暫く口を開かなかった。時々鼻をすする音がするのみだった。が、それも徐々に聞こえなくなっていった。……

「じゃあ帰るよ」
「うん、また明日」

 少年は病室を後にした。がららと白い扉が閉まるまで、少女は小さく手を振りながら、満面の笑みを浮かべていた。が、その目尻にはやはりまた、涙の粒が揺蕩んでいた。閉まった後、少年は胸のもやをすべて吐き出すように、一際大きいため息をついた。
 外はすっかり暗くなっていた。けれども廊下は白い蛍光灯に照らされて、来た時以上に眩しく見えた。遠くのスリッパのぱこぱこという音は相変わらず鳴り響いている。人のない話し声も聞こえていた。消毒液の鼻につく臭いもそのままだった。少年はダークグリーンの廊下を歩きながら、「また明日」の意味をぼんやり考えていた。その時脳裏には、夕焼けのオレンジ色に片側だけ照らされた少女の、どこか儚げな、どこか優しさのある、あの複雑なほほ笑みが浮かんでいた。

 (そうだ、今度みんなを呼ぼう。先生も来てくれるかな……)

 ふと目の端に白い光がはいった。窓ガラスから街灯の光が漏れていた。そしてそのあたりから、こおろぎの鳴き声が響いていた。その窓の両端に纏められていた明るい黄緑のカーテンが、妙にふらふらと揺れている。少年の口元は、少しだけ緩んでいた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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