土曜の夜だった。
バスに乗って市内へ出た私は、駅から少し離れたバーを訪れていた。
仕事帰りというわけでもなく、ふらりと立ち寄ったというわけでもなく。おそらくこの夜のために、私は日中を家でゆっくりと過ごしたのだと思う。
来週、同窓会がある。クラスメイトとは15年ぶりに会う。
卒業以来、彼らとはほとんど親交がなかったので、彼らが今何をしているかは全く知らない。またそのために、私が年相応の人間になっているかも判然としない。
たとえば、私は未だ独身で、女っ気もないが、彼らには小学校に通う子供さえできているかもしれない。
また私は未だに、数年後の自分が想像できないような不安定な職に就いているが、彼らは中堅社員として、何かしらの組織に根を張っているかも知れない。
彼らとどんな顔をして会えばいいか、私にはよくわからなかった。
だから、先んじて過去の私と二人きりで、たった二人の同窓会をやることにした。
初めて耳にするはずなのに、どこか懐かしいジャズが流れている店内。私は小さい丸テーブルを囲む三つのカウチの一つに腰かけて、お酒は飲めなかったので、代わりにコーヒーを注文した。
私は、睡眠を大切にしているので、午後六時以降はカフェインは摂らない主義だ。だが、店の空気と、高校時代のほろ苦い思い出を掘り返すのには、コーヒーが合う気がした。
まず私はカウチに深く腰かけて、ぼーっと虚空を眺めてみる。それから、脳裏によぎった顔や名前について思いを馳せていった。
ちゃんたか、あるいはたかちゃんと呼ばれていたクラスメイトがいる。
彼は、一学期に一度ぐらいの頻度で、一週間ほど休むことを許されている特別な人間だった。
芸能人のような爽やかな笑顔。背が高く、すらりとした佇まい。スポーツ万能で、そして学業も当たり前のように優秀。そんな彼が一介の生徒に収まるはずもなく、事実彼は海外遠征に出るほどのスキーの選手だった。数日、姿を見かけないかと思うとある日突然帰ってきて、彼の目の周りにはゴーグルの形に日焼けの痕ができていた。
その上彼は、謙虚で、ユーモアも備えていた。
しかしながら、彼はその人当たりの良さゆえに、自身の良心を削ってしまったことがある。
あれはどういう会話の流れであっただろうか。
休み時間に、クラスの端の方で、たかちゃん含む男子が群がっていた。もちろん私もその輪の中になんとなくいて、誰かがクラスの女子の名前を小声で挙げたのを覚えている。
そしてたかちゃんはいつもの爽やかな笑顔を絶やさぬまま、賛同するように小声で言った。
「でも〇〇さん、ブスじゃん」
そんな汚い言葉が、たかちゃんの口から出るとは誰も思っていなかったから、その意外性に、その場にいた男子は一様に吹き出した。
私はどうだったろうか。
私も多分、笑っていたと思う。
ただ、その笑みは、私の心に刻まれた無数の小さな傷口を開くような気持ち悪さを伴っていた。
そしてそれは、その場にいた全員が味わっていたと思う。
自分の良心を削って笑いに変えた彼。
彼はスポーツ特待生として早稲田に進学したはずだ。
彼はまだ、あの爽やかな笑顔を保っているだろうか。
杉山りく。彼は小柄だったが、陸上部のキャプテンだった。
クラスで意見をまとめる必要に迫られれば、彼は率先して上げ、クラスメイトの統率を図る。またクラスメイトに対する不平や不満は憚ることなく口にする。自信があって、行動に迷いがない……というよりは、あらゆる言動にそれが欺瞞にならないだけの知性が行き渡っている。
私は、そんなクラスの中心人物である彼が怖かった。
地学の授業のために、普段使われていない講義室に移ったときのこと。教室に入った私の目が、ほこりの付着した扇風機を捉えた。夏だったので、この扇風機のスイッチが入れられるのは確実だった。だがそうなると教室のみんなの頭上にほこりの降りかかる恐れがある。そこで私は、奥の掃除用具入れから真新しい雑巾を持ち出して、それを拭き取ろうとした。それをなぜかりくが阻んだ。「余計なことをするな」「はやく座れ」とそんなことを言われた覚えがある。私は正しいことをしようとしていたはずだったが、なぜか先生も加勢してきて、私はとうとう、雑巾をしまって席につかされた。授業中、私は咳が止まらなくなった。だが、その中には、ほれ見たことかとあからさまにした咳もあった。
りくは私に対して辛辣だった。
だが基本、彼は誰に対しても辛辣だった気がする。
また当時のクラスメイトが私に無関心だったことと比べると、彼は私に割とかまってくれた。
彼は誰に対しても分け隔てなかっただけかもしれない。
彼は今ごろ、どこかの会社の頼れる中堅社員として部下を率いていると思う。
そんな彼がクラスメイトだったことに、私はなんとなく誇りを持っている。
名前は忘れたが、当時のクラスメイトには、「女子高生そのもの」として女子のグループのトップに君臨している人物がいた。
特別容姿がいいわけでも、勉強ができたわけでもない。よく喋る人物だったのは記憶しているが、何か強く印象に残る点は一つもない。言ってしまえば平均的な女子高生。ただ、高校生活がいかに「高校生」に擬態できるかを競うものだとすれば、おそらく彼女は最もそれに秀でていたために、クラスでは一目置かれるような存在だった。
私はそんな彼女を好ましく思っていなかった。
それはまた、彼女が私を見下していたからだったと思う。
文化祭当日、私たちのクラスの催し物はお化け屋敷だったので、私は教室の入り口にCDプレイヤーを設置して、自身のうめき声を録音したBGMの音量を調節していた。
私の背後に足音が近づいてくる。それは教室に入ろうとする何者かで、私は道を開けねばならなかったが、あと少しで音量が定まるところだったので、つまみを摘んだまま床に屈んでいた。
そんな私の頭上へ冷めた声が投げかけられた。
「邪魔」
私が文化祭の準備に精を出していることや、その作業がすぐに終わるであろうこと。その他私が人格を持った存在であるという思慮を、全て削ぎ落としたような物言いだった。
彼女の私に対する言動は概ねそのようなものだった。
ただ、一度だけ、大学受験に臨むものだけが数人居残って勉強をしていた放課後の教室で、私の志望校の高さを誉めてくれた友人に対して、その志望校の偏差値がどれくらいのものか彼女が疑うように問うていたのを覚えている。それは、私が知る限り、彼女が私に興味を抱いた最初で最後の瞬間だったと思う。
そんな、私にとって許し難い存在であった彼女に対しても、私は一つ共感するところがある。
一年目の、季節は忘れたが、とにかく朝。ホームルームの始まる前。私は遅れてやってきたので、ロッカールームには私と彼女の他にほとんど生徒はいなかった。彼女は能面を思わせる押し殺したような表情で、スカートをティッシュか何かで拭っていた。スカートにぬらりと光る白い液体が残っていた。
それを見た瞬間、私は彼女が電車で通学していることを思い出すと同時に、吊り革を握る彼女の背後に男が忍び寄るのを幻視した。男は彼女のスカートに、ポケットから出した何かを擦り付ける。そしてその場をゆっくりと離れる。彼女のスカートに残る白い液体。
私はそれが精液であると直感した。
私が高校生活を送る三年間の間に得体の知れない不安にさらされていたように、彼女も私には想像し得ない何かにさらされていた。
その後、私は何も見なかったふりをしてその場を離れた。
その他、何か苦い思い出とともに、かつてのクラスメイトの顔が浮かんでは消えていった。
10人ほど思い出したところで気づいたのだが、私はそれ以外のクラスメイトのことを、もうほとんど覚えていなかった。
それはつまり、私の高校生活において、彼らの存在が透明に近かったということだろう。
それは言い換えると、彼らにとっての私もおそらくほとんど透明なのだった。
そう考えると、私は少し、同窓会へ顔を出す心の準備ができた気がした。
そういえば、私の通っていた高校は府内有数の進学校で、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)というのに加盟していた。
SSH加盟校としての活動は様々だったが、その中に、天然記念物の飼育という一風変わったものがあった。
三年生の教室の外、おそらく偶然できたコの字のデッドスペースに巨大な水槽が嵌め込まれていて、一匹のオオサンショウウオが飼育されていた。
ある意味彼は、私たちのクラスメイトだったのではないだろうか。
ならば彼を同窓会に連れて行くという発想は、一理あるように思われる。
私は水族館に売られている等身大のぬいぐるみを当時のクラスメイトと称して持って行くというユーモアを思いついた。
ウケるかはわからない。だがやってみる価値はあるだろう。
ただ、高校時代の私は……もちろん今の私もそんな行動力のある人間ではなかったから、みなびっくりするに違いない。
私もびっくりしている。
だが、みんなそうやって、殻を破りながら同窓会へ現れるのだろう。
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