Prologue:The Backrooms_01
気が付くと、そこはどこかで見たことのある場所だった。これを見たのは確か、インターネット上で纏められていた記事、あるいは動画などに取り上げられていたもの。黄色い壁紙、少し湿ったようなカビ臭いカーペットの床、殺風景でめぼしいものは何一つない、延々と続いている壁と床の迷路のような場所。そして何より、点滅する蛍光灯が一層恐怖心を煽っている。じーっという蛍光灯から発せられる音はまるで耳元で鳴っているかのように大きく聞こえる。
先程まで誰かに後をつけられていた気がしていた。初めは気のせいだろうと思っていた。しかしいつもの家路を八割進んでもまだ一定の距離をあけて足音が聞こえてくる。恐怖に取り憑かれた自分は早歩きで急いだ。しかしその足音もまた、早歩きになった。体力がない上に筋力もない自分はもはやただただ後ろの何かが怖いというだけで走った。その足音もまた一定の距離をあけて走っている。怖い、怖い、怖い。夜道、音楽を聴きながら歩いていた自分は後ろの何かに気がついて確認をするために音を消していたので、足音が二つ分聞こえ、自分の鞄や中身が走っている衝撃で揺れる音がずっと聞こえ、それが何よりも恐ろしかったが、そして自分はついに躓いてしまった。家に戻るまでの道がいつもより長いと感じていた。きっとその時から異変は始まっていたのかもしれない。そうして気がつけば冒頭の場所にいたのだ。
薄暗く、やけに広く感じるこの場所は怖がりな自分には最悪な場所だった。開けた場所は苦手だ。物が置かれていないという点もかなり不安だ。体のバランスが崩れて足がもつれそうになるのを必死に抑え、どうせ何もない、探索してみればいい、出口があるかもしれない。自分が安心できそうな言葉を考えて言い聞かせた。そうして少し心臓を落ち着かせたのち、散策してみることにした。
一応立っている場所から後ろを振り向いてみると、前方と同じ景色が広がっているだけだった。明らかに建物の中ではない広さだ。これは夢だろうか。だとすればどこから夢なのだろうか? 考えていても埒があかない。少しずつ重い足を引きずりながら歩いてみる。支えになるものは何もない。壁を伝ってみるか、と壁に手を置きながらゆっくりと進む。まるで入院している患者がリハビリのために体を少しずつ慣らしているようなそんな気分だ。いや、もっとも、ここには現状希望となるものは何一つない。体が損傷しているわけでもないが、気分は最悪だ。頭が冴え渡って様々な可能性を考えてしまうくらいには至って健康なのが腹立たしかった。
右へ行くか、左へ行くか。どちらを見ても、先ほどから景色が全く変わらない。同じ部屋が続いているというよりは、同じ造りが延々続いているという感じなのだろうか、判断材料となる物が何一つない。否、実際にはあるのかもしれない。例えば壁のシミや傷などだ。ただ視力はあまりいい方ではない上に少し、いや、かなり動揺しているためそんなところを確認する余裕はない。頭は動くくせに全く以て役に立たない。とりあえず右手側の壁沿いにいるのでそのまま右へ向かう。怖い、というよりは気持ち悪いという方がしっくりくる。ただ気持ち悪い。同じ景色、同じ空気、同じ音。蛍光灯が時折こちらを驚かせてくるように大きな音を立ててばちっ、ばちっと点滅する。これは拷問だろうか。これは精神的にどう影響を及ぼすか実験をしていますと言われた方がまだしっくりくるかもしれない。 ……いや、そんなことはない。どんなサイコパスだろう。
右に進んだから今度は左へ向かうか、と思ったが壁に手を置いているのがとても安心してしまっていた自分は手を離すのが怖かった。道路を渡るような気分だ。走って向こう側へ向かわないと死ぬかもしれないとさえ思ってしまう。もしかすると自分は既に精神的におかしくなっているのか、元からか、などと余計なことを考えながら、どうせ何も起きるわけない! と自分を奮い立たせ、左側の壁へ走った。実際何もなかったので再び壁を伝いながら左側へ曲がった。
そんなことを繰り返し、どれだけ過ぎただろう。異常空間でも体力は消耗するらしい。もう歩きたくない。しかしその場に座り込むのは気が引けた。湿った床に座り込む勇気はない。そんなことを思うほどなのでまだ余裕はあるかもしれないとさえ思った。ここでようやく気がついた。いつも使っている鞄が見当たらないことに。帰り道がなくなっているところまではなんとなく予想はついたが、持ち物が全てなくなっているのはわからなかった。どれだけ動揺していたのか。鞄の重みがなくなっていることにすら気が付かなかった。ついに支えが無くなったことによって精神的に崩壊した。もう無理だ。足が鉛のように重く、引き摺るのも億劫で気が引けていたはずの湿ったカビ臭い床に座り込んだ。壁にもたれかかりながら、腹が減った、これからどうなるのだろう、怖い。空腹感や恐怖心や不安が一層強まった。抱えていた全てが涙となって放流されていく。何も考えたくなかった。死ぬなら楽に死にたかった。痛いことも怖いことも嫌いだ、ずっと楽になりたかったし楽になれるなら何でもしたかった。けれどその結果がこれでは意味がないのではないか。ただただ苦しい。自殺するための道具さえない、自分の手では何もできないどころか力が入らない。
ああ、これが虚無か。
すると、どこからか空腹に響くような焼ける匂いがしてきた。魚が焼けるような匂いだ。その匂いの元まで走った。もはや限界だった。
真っ直ぐ走り、そのまま左へ曲がった。そこには一室があった。先程までの空間ではないが、造り自体は似ている広い部屋。薄暗い中、中心に焚き火をしている青年がいた。どこかで見たことがあるような気がしていた。
青年はこちらに気がつくと、驚く様子もなく、にこりと笑って焼き魚を持ち上げ、「食べる?」と聞いてきた。
不思議と恐怖心はなかった。人がいるのか、良かった。自分だけではなかった。そんな安心感が上回っていた。青年のもとへ歩み寄り、焼き魚を手に取った。そもそも魚は嫌いで、自分から食べることなどなかったが、美味い、美味いと一心不乱に貪っているのは何だか不思議な気分だ。極限まで来ると何でも食べられるのだろうか。
「さみしかったよね、もう大丈夫だよ」
青年は優しく声をかけてきた。これもどうぞ、ともう一本差し出してきた。
「君は食べないの?」
「うん。僕はいいよ」
先に食べていたのだろうかと思ったが、近くに食べた形跡はなかった。不思議な青年だが、今はどうでもよかった。
「そうだ。これ渡しておくよ。さっき見つけたんだ」
そう言って青年は、どこからか缶と鍵を渡してきた。缶の方は中でちゃぷちゃぷと水が跳ねる音がするので飲み物かもしれない。鍵の方は古い金属製の小さな物で、どこかの部屋の鍵だろうか、扉などなかったが、これから先使う場面が出てくるのだろうか。一応礼を言って貰うことにした。
「あとさ、一緒に行ってもいい?」
「え?」
青年はずっと人懐っこそうな笑みを浮かべ、こちらの様子を伺っていた。何だかそわそわしているような気さえする。それを言いたかったのだろうか。
「もちろん」と答えるとより一層笑顔になり、「やった!」と喜んだ。喜ぶ姿に呆気にとられたが、とても嬉しくなった。
少し休憩した後、この部屋を出る。部屋の外は先ほどのように廊下の真ん中に立っていた。後ろには何もない。
「どこにいく?」
青年は楽しそうに聞いてきた。どこにいく、分からない。そもそもどこへ行けばいいのだろう。それに先ほどのような部屋がまだどこかにあるのか、それすらわからない。ゲームのように地図があるわけでもない。途方もないほど道は続いていて、見渡す限り同じ景色だ。
「とりあえず歩いてみよっか」
こちらが何も言わずとも青年はサポートしてくれるようだった。手を引いて目の前にある分かれ道まで小走りになった。
「そういえば、この鍵って……」
手に鍵を持っていたのを思い出し、周囲を軽く見渡すが、やはり何もない。
「とりあえず持っていたら、どこかで使うと思う。分かんないけど!」
「そうだよね」
青年に確認を取ることで安心感を得られた。一人きりだとぐるぐると余計なことを考えてしまうが、彼がいてくれてよかった。
「あれ?」
前を行く青年が立ち止まると、何かを見つけたように指を差した。指の先には小さな張り紙があった。「104」と書かれていた。まるで部屋番号のようだなと思ったが、二人で首を傾げた。
「何だろうね?」
「何だろうね」
顔を見合わせて、何だかおかしくなって笑い合った。
まあいいか、そう言って目の前の分かれ道に一歩進む。
瞬きと同時に景色が切り替わっていた。
オフィスのような、机がずらっと二列ずつ奥まで続いている。椅子は何故かあちこちに散乱していて、山積みにされているところまであった。壁の代わりなのか、机や椅子が組まれ、行く手を阻んでいる。二列ずつ並んでいる机の上は先程まで人がいたかのような雑然とした様子で、書類やパソコン、筆記用具などが乱雑に置かれている。迷路のようにあちこちが塞がれているため、導かれるように通れる隙間を通って進んでいく。
「すごい場所だね」
「ねー」
周囲を見渡しながら、そんな適当な会話をする。一人増えるだけでこんなにも気持ちが安らぐのか、と安心し切っていた。
机上にある書類を軽く見てみると、まるで画質の荒いゲームのように読めない文字が並んでいた。画質の荒い紙面を現実で見られることがあるのかと少し感心してしまっていた。文字どころかほぼ記号のようになっている紙面をまじまじと見てしまったので、隣から覗き込む友人が「どうかした?」と聞いてきた。
「ごめん、何でもない」
「そっかー」
パソコンはデスクトップではなく、ノートパソコンばかりで、どれも画面が閉じられていた。そのせいもあるのか余計に広く感じた。
先ほどいた黄色い空間よりも物があるせいか、あまり退屈はしない。ただいきなり情報量が増えたため、少し頭痛がする気がした。
「疲れてきた?」
友人はそう聞いてきた。
「そうかも」
「じゃあこれあげる」
またどこからか物を渡してきた。マカロンだった。ピンク色でころっとしたマカロンは食欲をそそった。生唾を飲み込むが、一つしかないのに気がつき、友人に尋ねた。
「君は食べないの?」先ほどと同じことを聞いた。やはり返ってきた言葉は、「うん、僕はいいよ」だった。
じゃあ、と一口食べる。甘い、さくさくと口の中に溶けていくようなとてつもない甘さが充満していく。
「さっきのあれも飲んでみたら?」
缶のことだろう。ポケットに入れていた缶を取り出し、ぷしゅっと開けてみた。開けてから分かった。アーモンドの香りがする。白濁としたような液体で、少し躊躇したが、一口飲んでみた。すると思っていたより甘かった。アーモンドの香りがしたことでてっきり苦いものかと思った。美味しい。友人に一応聞いてみると、思っていた通り「僕はいいよ」と言ったので、一人でちまちま飲むことにした。
出口を探しながら歩いていると、目の先に画面が開いたパソコンを見つけた。二人で顔を見合わせ、軽く覚悟を決めて覗いてみることにした。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。