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ビューティースリー

18,149 字

痛快人情コメディ、ピカレスク・ロマン

"そのお節介、時価480億円。ナニワの三つ子が世界を笑かす、痛快世直しエンターテイメント!"

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第1章:儲かる匂いと関空の奇跡
「ちょっとお姉さん! 私な、ドバイで一生を左右する大事な『商談』があんねん。席がないってどないいうこと? 飛行機飛ばへんかったら億単位の大損害やで! どないしてくれんの!」
関西国際空港、国際線出発ロビー。エミレーツ航空のチェックインカウンター前には、地鳴りのような関西弁が響き渡っていた。怒声の主は、年齢50代半ば、絵に描いたような小太り体型の女性――いや、正確には「全く同じ顔、同じ体型、同じヒョウ柄のインナー」を着用した三つ子の塊、自称『ナニワの飴ちゃんズ』であった。
長女のヤン(自称)がカウンターに身を乗り出し、ヒョウ柄のキャリーケースをバンバンと叩く。その後ろでは、次女のキイ(自称)と三女のスー(自称)が、まるで訓練されたバックダンサーのように完璧なタイミングで野次を飛ばしていた。
「そうやそうや、筋通さんかい!」とキイが涙目で加勢し、 「はよせんと商談の時間なくなるやろ、こっちも損するんやで」とスーが腕時計を指差しながら冷静に凄む。
カウンターの向こう側では、若い男性グランドスタッフが青い顔をしてインカムに叫んでいる。
「エコノミー、ダブルブッキングです! あと3席、どうしても足りません!」
おばちゃんたちの狙いはハナからそこにあった。ことの発端は三日前。近所に住むスーの甥っ子が、「カナダの金貨と交換できる暗号資産で絶対に儲かる!」という怪しいマルチ商法「田中コイン」に騙され、消費者金融で500万円の借金を背負わされたことだった。
「儲かる」というワードを聞きつけた瞬間、おばちゃんたちのナニワの商売人魂に火がついた。調べれば、主犯の田中というガキは集めた金を持ってドバイの超高級ホテルに高飛びしているという。
事の重大さを三姉妹が思い知ったのは、行きつけの純喫茶「マウンテン」でのことだった。奥の席でずっと俯いている青年に、キイが気づいた。スーの甥っ子、元村である。
「兄ちゃん、なにそんな怖い顔してんねん」
「……なんでもないです」
力なく答えたその時、ガラの悪い三人組が店に入ってきて、元村の隣にどかりと座った。リーダー格の斉田は、サラリーマンでは到底買えない高級腕時計をつけている。田中コインの取り立てを請け負う、闇金の使いだった。
「用意できた?」
「まだです」
「なんだと」
チンピラ二人が元村の胸ぐらを掴んだ。
「十人分、きっちり払ってもらおうか」
「そんなの無茶苦茶だ」
もめている輪の中に、キイがずいと割って入った。
「ちょっと静かにしてもらわへん? 騒がしすぎて鼓膜がストライキ始めてしもうたわ」
「クソ婆は引っ込んどけ」
――言ってはいけないことを、言ってしまった。
奥の席から、ヤンが黙って立ち上がった。何も言わず、ただ斉田の前に立つ。目が合った瞬間、斉田の身体の震えが止まらなくなった。ヤンはゆっくりと借用書の束を取り上げ、元村の手に返した。
「利息百八十パーセント、延滞利息三十パーセント。明らかに法律違反や。若いもんはこんなん払わんでええ」
斉田たちは、逃げるように店を出ていった。
「私らの大事な地元の若者から金を巻き上げて、ドバイでぬくぬく儲けとんのか。許せるか、そんな美味い話! ちょっとドバイまで、ドロボウ退治行ってくるわ!」
そう言って、近所のスーパーにネギでも買いに行く軽さでパスポートを掴み、関空へ直行したのだ。手にした航空券は、もちろん一番安いエコノミークラス。しかし、おばちゃんたちは、大型連休前の混雑状況から「ダブルブッキングによるインボラ・アップグレード(航空会社都合の無料格上げ)」が発生するタイミングを完全に読み切っていた。
「お客様、大変申し訳ございません。当方の手違いで座席が……」
平謝りするスタッフの胸元にある名札を、ヤンの鋭い眼光が射抜いた。
「あ、山田くん。あんた、ええ名前しとるな。私らの知り合いにも『前田ハン』っていう男気が服着て歩いとるような凄腕の貿易商がおんねん。山田くんも男やったら、このおばちゃんらのピンチ、男気でなんとかしてーな? ほれ、これあげるから」
ヤンがポケットから掴み出したのは、オレンジ色の「サクマ式ドロップス」だった。山田くんの手にジャラジャラとアメちゃんが握らされる。まくしたてる関西弁の圧力、手のひらのドロップス、そして後ろに控える大行列のプレッシャー。スタッフの山田くんは額の汗をぬぐい、限界を迎えたようにキーボードを激しく叩いた。そして、引きつった、しかし極上のビジネススマイルを浮かべた。
「お、お客様……大変申し訳ございません。もしよろしければ、当方からの補償といたしまして、皆様をビジネスクラスへアップグレードさせていただいてもよろしいでしょうか……?」
ヤン、キイ、スーの3人は、一瞬だけ顔を見合わせてニヤリと笑うと、すぐに「被害者」の顔に戻って深くため息をついた。
「え? ビジネス? ……まあ、山田くんがそこまで言うなら、今回のところは堪忍したるわ」
そう言うと、ヤンは列の後ろに並んでいた見知らぬ女性にふと声をかけた。
「そちらさんは、大丈夫?」
「は、はい……大丈夫です」
見ず知らずの他人にまで気が回る、その謎の面倒見の良さが、次の瞬間には別の顔を見せる。
「ホンマ、うちらのせいで迷惑かけて堪忍やで。せやけど、山田くんの侠気のおかげで席取れたんや。……そや、ねえさんの分も取ったるわ。おい山田、ビジネスもう一つ追加や」
「も、もう無理です……」
半分泣きそうな、いや、本当に涙を浮かべながら山田くんが訴える。しかしヤンの視線は一切揺るがない。
「あんた、うちらに恥かかす気か」
睨まれた瞬間、山田くんの背筋に電流が走った。まるで神の前に引きずり出された罪人のような心地で、彼は無表情のまま絞り出した。
「……ビジネス、一つ」
数十分後。おばちゃんたちは、エミレーツ航空が誇る総2階建ての超大型旅客機、A380のビジネスクラスのシートにどっかりと腰掛けていた。周囲のセレブたちが優雅にシャンパンを傾ける中、飴ちゃんズはウェルカムドリンクの最高級ドン・ペリニヨンを「プハーッ、生き返るわ!」と一気飲み。
「さすがビジネスやな、シートがファミレスのソファよりふかふかやわ」とキイが笑う。 「これからは毎回これやな」とスーがパインアメを口に放り込む。
機窓の向こうには、関西の街並みが小さくなっていく。
「ちょっと、あんさん ラムネおかわり」 「飛行機で飲むラムネは格別や」
最高級のシャンパン『ドン・ペリニヨン』のボトルを抱えたエミレーツのキャビンクルーが、一瞬だけ彫刻のように固まった。しかし、そこは世界トップクラスのホスピタリティを誇るビジネスクラス。完璧なフランス風のスマイルを崩さぬまま、恭しく頭を下げた。
「……かしこまりました。マダム、最高級の『フランス産ラムネ』、ただいまお注ぎいたします」
トトトト、とクリスタルグラスに注がれる、黄金色の繊細な泡。
「プハーッ! やっぱり格上のビジネスは違うな! このラムネ、めちゃくちゃ発泡が細かくて五臓六腑にしみわたるわ!」
ヤンがグラスを掲げ、キイとスーがそれに続く。
「ほんまやな、ちょっと辛口やけど、のどごし最高やわ。やっぱり飛行機で飲むラムネは最高やね!」
「ちょっとヤン、スー。これも食べ。飛行機で飲むラムネにはな、この都昆布がよう合うねん」
キイが赤い箱から、白い粉のついた薄い昆布を器用に数枚引き抜き、二人のグラスの横に並べた。
「おっ、わかっとるなキイ! ラムネのシュワシュワの後に、この都昆布の酸っぱいのが来たら、もうなんぼでも飲めるがな!」
ヤンが都昆布を口に放り込み、すかさずドンペリを流し込む。クピクピ、プハーッ、と下品なほどに美味そうな音がファーストクラス一歩手前の贅沢な空間に響き渡った。
「ほんまや、このラムネのシュワシュワと、昆布の旨味が最高にマッチしとるわ。エミレーツ航空もな、おつまみにナッツなんか出さんと、この都昆布を配ればええねん」
スーもクチャクチャと音を立てて都昆布を噛み締めながら、特大のグラスをおかわりした。周囲のセレブたちが、時価数万円のヴィンテージ・シャンパンを片手に、日本の駄菓子屋の酢昆布を「最高のマリアージュ」として貪り食うヒョウ柄の三つ子を、もはや恐怖を通り越した畏敬の念の眼差しで見つめていた。しかし、おばちゃんたちにとってここはドバイ行きの飛行機ではなく、完全に「新幹線の自由席」のノリであった。
「あー、ラムネと昆布で胃袋も落ち着いたことやし、五五六の豚まん持ってきて」
ビジネスクラスの通路で、またしてもエミレーツのキャビンクルーが「ゴゴロクのブタマン……?」と完全に言葉を失った。もちろん、大阪が世界に誇るチルドの定番『551の豚まん』のことである。さすがの世界最高峰エアラインも、機内で出来立てのあのジューシーな豚まんを蒸す設備までは持ち合わせていなかった。
「なんや、ビジネスのくせに551もないんか。使えん飛行機やなぁ。しゃあない、ドバイに着くまで我慢するわ。でもな、帰りの便には忘れんと積み込んどいてや! 山田くんにも言うといて!」
スーが「新大阪のキオスク」で買い忘れたことを本気で悔やむように、ウォッシュレットのボタンをいじりながらブツブツと文句を言っている。あのカラシをたっぷりつけた熱々の豚まんがあれば、フランス産ラムネ(ドンペリ)がさらに三倍は美味く飲めたはずなのだ。
「まぁええがな、スー。豚まんは日本帰ってからの楽しみにしとき。今は田中のガキのケツの毛を毟り取る方が先や」
ヤンが都昆布の白い粉がついた指をペロリと舐め、不敵に目を細めた。筋の通らんことは、何を差し置いても許さない。それがヤンという女だった。
「ドバイに着いたら、まずは前田ハンに連や。テレビのドキュメンタリーでやっとった高級車の墓場。あの砂漠に転がっとるっちゅうランボルギーニをソッコーで現金化せなあかんな。三千万は堅い」
スーが電卓でも弾くような涼しい顔で試算する。金の匂いを嗅ぎ分けることにかけては、三姉妹の中で誰よりも早い。
「そんだけあったら、あのホテルの同じ階を借り切って、田中の鼻っ面ひっぱたく準備は万端やんか。……いや、それより先に、若い衆が背負わされた借金、うちらが肩代わりしたるべきやわ」
キイが目を潤ませながら、すでに頭の中では被害者の若者のことを考えていた。
フランス産ラムネの心地よい(しかし実はかなり強い)アルコールと、都昆布の酸味で脳を完全に活性化させた『ナニワの飴ちゃんズ』。三人の絆と図太さは、高度一万メートルの空の上でさらに強固なものになっていく。
飛行機は高度を上げ、雲を突き抜けて巡航体制に入る。窓の外には、見慣れた関西の街並みがミニチュアのように遠ざかっていった。
「なあ、ヤン。前田ハン、今頃何しとるやろな。南港でショッポー トントンして、フレッシュたっぷりいれた茶しばいてるんのちゃう?」
キイがシートをフルフラットに倒しながら、天井の照明を物珍しそうにいじっている。
「前田ハンのことはええねん。あいつは筋を通す男や、うちらがドバイに着く頃には、きっちり三千万用意して待っとるわ」
ヤンはポケットから、クシャクシャになった近所の若者の借用書のコピーを取り出し、鋭い目を光らせた。
「問題は、あの田中とかいうクズや。地元の素直な子ぉ騙して五百万も借金背負わせといて、自分はドバイで贅沢三昧やて? 許せるわけないやろ」
スーが口の中でパインアメをガリッと噛み砕いた。
「せや。うちら『ナニワの飴ちゃんズ』を怒らせたらどないなるか、あのガキのケツの毛まで毟りとって、たっぷり教えてやらなあかんな」
三人の脳裏には、すでにこれからドバイで巻き起こす大嵐のシナリオが完璧に描き出されていた。タダでもぎ取ったエミレーツのビジネスクラス。手元には、男気あふれる前田ハンからの信頼と、これから錬金する予定の砂漠のランボルギーニ。そして、無料でもらえる極上のフランス産ラムネ。
「よっしゃ、次のラムネが来たら、作戦会議の続きやで!」
ヤンの声とともに、三つ子のおばちゃんたちはシートのパーテーションを跳ね上げ、ドバイの悪党を震え上がらせるための「ナニワ流・お節介強奪計画」の細部を詰め始めた。旅客機は時速九百キロで、砂漠の国へと一直線に突き進んでいく――。
周囲の外国人セレブたちが、ヒョウ柄の三つ子が時価数万円のドンペリを「至高のラムネ」としてガブ飲みしている異様な光景に、遠巻きながらも完全に圧倒されていた。おばちゃんたちにとっては、泡が出てシュワシュワしていれば、それはすべて「ええとこのラムネ」なのである。
おばちゃんたちの不敵な笑みが、プレミアムな窓ガラスに怪しく写り込んでいた。目指すは灼熱の砂漠の国、ドバイ。田中という悪党から、身ぐるみ剥がして大金を逆流させるための、ナニワの飴ちゃんズの大進撃が、今ここに始まったのである。
第2章:砂漠のランボと前田ハン
ドバイ国際空港に降り立った瞬間、熱風がサウナのように全身を包み込んだ。
「うわ、何やこの暑さ! 息できへんがな!」
次女のキイが首元のヒョウ柄スカーフで汗を拭いながら悲鳴を上げた。
「冷やし飴飲まんと身体が持たんわ」
スーがぼやけば、
「いや、グランシャトーで汗流さんと」
とヤンも茶々を入れる。しかし、長女のヤンの目はすでに、空港の一般駐車場の一角、うっすらと砂埃をかぶった高級車の群れへと向けられていた。そこはフェラーリ、ロールス・ロイス、ランボルギーニといった、数千万円クラスの超高級車が放置された、通称『大富豪の墓場』。ドバイでは金融破綻したVIPたちが、逮捕を恐れて空港に車を乗り捨て、そのまま国外へ高飛びすることが日常茶飯事なのだ。
ヤンは迷わず、その中央に鎮座する限定版ランボルギーニ・アヴェンタドールの前に立った。車内を覗き込むと、ダッシュボードの上にはアラビア語のメモが転がっている。キイがスマホの翻訳アプリをかざすと、画面に『自由を求めて国を出る。この車は誰にでもくれてやる。鍵はタイヤの裏だ』と表示された。
「ラッキー! 誰にでもくれる言うてんねんから、私がもろても文句ないな!」
三女のスーがタイヤの裏からスマートキーを引っ張り出し、スタートボタンを押す。ドゴォォォンッ! 野生の猛獣が咆哮するようなV12エンジン音が、ドバイの乾いた空気を震わせた。
「よし、ヤン、前田ハンに即電(そくでん)や!」
ヤンはニヤリと笑い、スマホの通話ボタンを押した。時差なんかお構いなしに、大阪・南港でわけあり高級車の密輸と横流しを牛耳る凄腕ブローカー、前田ハンの直通ダイヤルを鳴らす。ワンコールで、ハスキーだがやけに色気のある声が響いた。
「……はい、前田貿易。どこのどなた様ですか、こんな時間に」
「前田ハン! 私や、ヤンや! 今な、ドバイの空港におんねん!」
電話の向こうで、カサ、と小さな音がした。前田ハンがショートホープの箱から一本抜き取り、指先でトントンと軽くタバコの葉を詰めてから火をつける、昔から変わらぬ仕草だ。フッと紫煙を吐き出す気配とともに、鼻で笑う気配が伝わってくる。
「なんや、マウンテンのうるさい姉さんらか。ドバイやて? 豪勢やな。私にお土産でも買うてきてくれるんか?」
前田ハン――五十代後半。流し目が色っぽい、時代劇の杉良太郎のような和風のイケメンだ。ヤクザも道を譲るほどの厳つさだが、とにかく未だに女にモテる。かつては一部上場商社の優秀なエリート社員だったが、組織の「筋の通らん綺麗事」に嫌気がさして退職し、今の闇貿易商になった。おばちゃんたちとは、彼が会社をサボってビジネス街の純喫茶「マウンテン」に入り浸っていた頃からの常連仲間である。
「アホ言うてんと、この音聴き!」
ヤンがアクセルを踏み込むと、爆音がスマホのスピーカーを割りそうになった。前田ハンの声から、一瞬で『遊び人』の空気が消え、プロの貿易商の鋭さが宿った。
「……おい。今の音、ただの車やないな。アヴェンタドールの限定モデルか。どこで鳴らしとんねん、まさか、」
「ハイエナねえさん、あの墓場?」
「誰がハイエナや。ドバイの空港の片隅や。鍵付きで落ちとった極上車。な、前田ハン、欲しいやろ?」
前田ハンは一瞬沈黙し、それから低く、楽しそうに笑った。
「相変わらず、姉さんらの鼻の利くのには敵わんなぁ。商社の新入社員の時から、私のサボり場所を百パーセント当ててきただけはあるわ。……ええよ、その話、乗った。筋は通す。日本までの船便の手配と運賃は、全部こっちの『着払い』で丸抱えしたる」
「話が早くて助かるわ! それとな、こっちでちょっとドロボウ退治するのに軍資金が必要やねん。手付の前金として、今すぐ私の口座に三千万円振り込み。十分以内やで。遅れたら隣のフェラーリと一緒に香港の業者に売るからな」
「三千万か。……姉さんらがそんだけの金を一瞬で使うってことは、地元の若者でも泣かしたクズがドバイにおるんやな?」
前田ハンは全てを察したように、短く息を吐いた。
「せやけど、棄ててあるからって、ほんまに大丈夫なんか? 後で所有権主張されたりせんやろな?」
ヤンが念のため尋ねると、前田ハンは涼しい声で答えた。
「そのへんは、大丈夫や。この一角で所有者がわかるもんには、転売禁止・差し押さえの書類を、もうとっくに裁判所へ提出済みや」
「相変わらずの切れ味やな」
「よっしゃ、分かった。筋の通らん悪党の金やったら、身ぐるみ剥がす手伝いしたるわ。スマホ見た瞬間に振り込んどく。……その代わり、日本に帰ってきたら、またあの喫茶店のミックスジュース奢りや。アメちゃんもな」
ピッと電話が切れた。わずか五分後。ヤンのスマホがピコンと軽快な通知音を鳴らした。画面を開くと、ネットバンキングの残高に【振込明細:マエダボウエキ(カ 30,000,000円】の文字がくっきりと浮かび上がっている。
「よし、きっちり五分。前田ハン、相変わらず仕事が早いやんか」
ヤンはスマホをポケットに放り込み、助手席からパインアメを取り出して口に放り込んだ。
「さて、三千万握って、あの田中っちゅうアホンダラの部屋に乗り込みますか!」
キャリーケースを引くおばちゃんたちの足取りは、砂漠の熱風を切り裂くように、さらに力強く加速していった。
第3章:バスタオルと電子の嵐
「うち、これでも元・ミスナニワやねんで!」
キイは事あるごとに、そう自慢げに胸を張るのが常だった。もっとも、その正体は「ミスなにわ筋商店街」――シャッター街対策として近所の商店主たちが毎年開催する、極めてローカルな人気投票である。しかも記名方式。投票用紙にはわざわざ名前を書かねばならず、その受付窓口に陣取っていたのが、他でもないヤン、キイ、スーの三姉妹本人たちだった。「あんた、まさかキイはん以外に入れるんちゃうやろな?」と受付で圧をかけ、清き一票を力ずくで確保する。それでも票が伸び悩んだ最終日には、無効票の山から「き」の一文字さえ書いてあれば「キイへの一票」として強引にカウントするという荒業まで繰り出し、辛くも一位の座をもぎ取った。それが、キイの誇る「元・ミスナニワ」の輝かしい実態である。
しかし、こういう強引さこそがキイの真骨頂であり、今まさにドバイの高級ホテルでも、その本領が遺憾なく発揮されようとしていた。
「前田ハン、日本帰ったらマウンテンでガムシロ山盛りのレイコー奢ったるからな!」
ヤンがスマホに向かって叫んだ時には、すでに前田ハンは不敵に笑って電話を切っていた。かつてビジネス街の純喫茶で、サボり魔の前田ハンが飲んでいた、あのアイスコーヒーの味。懐かしい思い出を胸に、おばちゃんたちの行動は電光石火だった。前田ハンから毟りとった三千万円を使い、田中たちが潜伏するドバイの超高級ホテルの最上階、全く同じフロアの隣部屋をサクッとキャッシュで貸し切ったのだ。
しかし、その最上階へと続くエレベーターホールには、屈強な私兵が一匹のアメリカンピットブルテリアを連れて仁王立ちしていた。田中が大枚をはたいて雇った、番犬兼用心棒である。牙を剥き、低い唸り声を上げながら、鋼のような筋肉を漲らせておばちゃんたちに迫ってきた。
「あかんあかん、お客さん、この階は許可のない者は……」
警備員が制止しようとした、その時だった。ヤンが一歩も引かず、ピットブルの目をまっすぐに見据えた。
「アンタ、それ以上こっち来たら、おばちゃん本気で怒るで」
低く、腹の底から響くような声。それは、何十年もの間、逆らう子供や近所の悪ガキ、時には近所の亭主連中すら黙らせてきた「オカンの目」だった。全身の毛を逆立てていたピットブルは、一瞬ビクッと体を震わせると、みるみるうちに唸り声を止め、尻尾を股の間に巻き込んで、へなへなとその場に伏せてしまった。
「ワン……」
「ええ子や。ほら、これあげるわ」
ヤンが差し出したサクマ式ドロップスを、ピットブルはペロリと美味しそうに舐め、すっかり懐いた様子で彼女の足元にすり寄ってきた。呆気に取られる警備員を尻目に、三姉妹は悠々とエレベーターホールを通り抜けていった。
その頃、隣の部屋では主犯の田中とハッカーが、パソコンの画面を前に頭を抱えていた。世界中から集めた四百八十億円の暗号資産を動かすため、今まさに「最終的なマスターパスワード」を新規登録しようとしていたのだ。
田中の実家は、かつて大阪の下町で「田中工業」という小さな町工場を営んでいた。派手さこそなかったが、愚直なまでに堅実な経営を貫き、近隣からの信頼も厚かった。ところがある年、すぐ近くに「田中工業所」という、紛らわしい名前の悪徳業者が現れた。手形の不渡り、下請けへの未払い――悪評はまたたく間に広まり、取引先や銀行はその「田中工業所」と父の「田中工業」を混同した。潔白を訴えても、一度広まった思い込みはもう覆らない。たった一文字の違いに、父の工場は殺されたのだ。
倒産のごたごたの中で、田中は当時まだ幼く、親戚の家をたらい回しにされる過程で、ずっと一緒に育ってきたはずの年の離れた姉と離れ離れになった。色白で、シルエットだけでも一目でわかるほど姿勢の良い、上品な人だった。母代わりのようにして自分を育ててくれたその姉の顔を、田中はもう何十年もまともに思い出せずにいる。覚えているのは、後ろ姿と、優しかった声の記憶だけだ。
「間違われて潰れたんなら……今度はこっちが、間違えさせてやろうやないか」
大学時代、荒れた酒の席で田中がそう吐き捨てたのを、ハッカーは覚えている。当時はただの愚痴だと思っていた。しかし今、彼が仕掛けている「田中コイン」の手口――本物の有名人にそっくりなシルエット、紛らわしい演出、大衆の早合点を利用したビジネスモデルは、あの日の呪詛をそのまま形にしたものに他ならなかった。
田中がここまで来るのに、犠牲にしたものは少なくない。半年前、共同創業者だった男が「そろそろ足を洗おう」と言い出した時、田中は迷わず彼の名前と口座情報を海外の裏社会に売り渡した。今頃どうなっているかは、考えないようにしている。集めた金の一部は、闇金融からの借入で作った種銭だ。逃げ切れなければ、警察より先に、金を貸した連中に見つかる方が恐ろしい。だからこそ、このマスターパスワードだけは、誰にも――ハッカーにさえも――全容を教えるわけにはいかなかった。
「おい、もっと複雑な英語の羅列にしろ」 「いや、それだと俺たちが忘れたら一発で終わりだぞ」
二人がピリピリとした空気で揉めていた、まさにその瞬間だった。窓の外、はるか下の道路には、闇金の使いらしき黒塗りの車が一台、じっと停まっているのが見えた。田中の背中に冷たい汗が伝う。今夜中に手続きを終え、明朝一番の便で高飛びする。その計画に、寸分の狂いも許されなかった。ドアの外から、高級感あふれる真鍮のドアノブをガチャガチャと激しく回す音が響いた。さらにドアをドンドンと叩きながら、廊下に響き渡る大声が聞こえる。
「ちょっと! 開けてぇな! 誰かおらんの!? ちょっとぉぉぉ!!」
ハッカーが反射的にドアを開けた瞬間、白いふかふかのバスタオルを胸元でぐるぐると巻き、両腕にもマントのように、そして頭にもターバンのように巻きつけた「お風呂上がりのナニワのセクシー(?)おばちゃん」こと、通称"ナニワのジュディ・オング"、次女のキイが半泣きの顔で突入してきた。
「あー、お兄ちゃんら! 助けてぇや! 風呂入ってる間に風でドアがバタンと閉まって、鍵閉じ込められてもうてん! 裸同然で恥ずかしくてフロントにも行かれへんわ! って、こんな歳のおばちゃんの裸なんか誰も見とうないやろけどな! アハハ、なんでこんな目に! 頼むからアンタらの部屋の電話貸してぇな!」
「はぁ!? おばさん、何言って……」
田中が呆気に取られている隙を、キイは見逃さない。というより、見逃す余裕など彼女自身にもなかった。頭が回る前に、体が勝手に前へ突っ込んでいくのが、キイという女なのだ。
「あかん、足元冷えてまうわ! うわ、なんやこの高そうな絨毯! 悪いけど入らせてもらうで!」
大柄な体をすべり込ませ、田中を強引に突き飛ばして部屋にズカズカと侵入した。
「おい、待て!」
と田中が慌てて追いかけるが、キイはリビングを通り抜け、ハッカーが作業していたデスクへ一直線に向かう。画面に表示された『パスワード新規登録:残り30秒でタイムアウト』の真っ赤な文字が、キイの目に飛び込んできた。
「あ、お兄ちゃんら、何やこれ。パスワード決めてんの? 悩んでる暇ないで、あと数秒で消えてまうやんか!」
「触るな! 離れろ!」
ハッカーが絶叫する。しかし、キイのナニワのお節介スイッチが完全にオンになった。
「あかんあかん! そんな若い子が考えた小難しい英語なんか並べたら、明日には絶対忘れるわ! パスワード登録なんか、このおばちゃんに任せなさい!」
キイはハッカーの腕を相撲のブチかましのように弾き飛ばすと、キーボードの前にドッカリと腰落とした。バスタオル姿のおばちゃんが、数千兆円のセキュリティを誇るブロックチェーンの画面に向かって、恐るべきスピードでブラインドタッチを開始する。
「うわ、何が何やらさっぱりわからんけど、こういう時は勢いや勢い! ええい、ままよ!」
「パスワード言うたらな、日本人の心、これに決まっとんねん!」
ダダダダダッ! と響く激しい打鍵音。キイが最初に入力したのは、自身の青春の思い出である伊東に行くなら【 4 ・ 1 ・ 2 ・ 6 】。画面が切り替わり、『確認のため、もう一つの予備パスワード(PIN)を入力してください』と表示される。
「あ、まだあんの? めんどくさいな! ほな、おめでたい数字にしといたるわ!」
さらにダダダダッ! とキイを叩く。主役が金貨(きん)とデジタルゴールド(金)のビジネスであることに引っ掛け、当時流行ったきんさんぎんさんの【 1 ・ 0 ・ 0 ・ 1 ・ 0 ・ 0 】。
「はい、できたで! 感謝しーや!」
エンターキーが親指でパチーン! と叩かれた瞬間、画面には [ Password Registration Complete ](パスワード登録完了) の文字が誇らしげに輝いた。
「よし、登録できたな! あ、電話はあっちか。……って、やっぱり恥ずかしいから、自分の部屋のベランダから伝って戻れるか見てみるわ! お騒がせしました〜!」
キイは言うだけ言うと、用が済んだので旋風のように部屋を飛び出していった。残された田中とハッカーは、完全に魂を抜かれた状態で立ち尽くした。
「……おい。今、あのおばさん、何て打ち込んだ?」 「わ、分からない。速すぎて見えなかった。……でも、登録完了って出てる」 「バカ野郎! パスワードが分からないのに登録完了してどうするんだよ!?」 「だ、大丈夫です、画面を一度戻して……あ、あれ? 戻らない! 変更するには『現在のパスワード』が必要だ!」
ドバイの最高級スイートルームに、詐欺師たちの悲痛な叫びがこだました。彼らは、自分たちが集めた四百八十億円の金庫の鍵が、たった今、隣の部屋のバスタオルおばちゃんに完全に握られたことに、絶望の中で気づき始めていた――。
第4章:劇場型生放送の罠
「前田ハン、たまには、通天閣のタコ焼き、ご馳走していや」
隣の部屋でキイがハッカーのキーボードを強引に奪い取っていたその頃、長女のヤンはスマホに向かってそう吠えていた。
「……姉さん、商売モンはあかんで。姉さんら百個は食べるだろうから」
「そんなには食べんわ。一人百個、五個を二十皿か。いけんことないな。ほな、今度、ゴチになるわ」
前田ハンは、三人で百個と思ったが今さら訂正を入れる事も出来ず、言葉を濁した。しかし、それがマズかった。ナニワのフジツボ、と恐れられるエリアのド真ん中に迷い込んだウミガメ状態になってしまったのだが、今はまだ、知る由もなかった。
実のところ、「南港を仕切る凄腕の貿易商」というのは、おばちゃんたちの間だけで独り歩きした前田ハンの二つ名だった。船便やら密輸やらの話をつけられる顔の広さは本物だが、彼の本業――というより、雨の日も風の日も欠かさず立つ日々の稼ぎ場は、通天閣の足元にある小さなたこ焼き屋台だった。焼き台の前で串を器用に回しながら片手間に電話一本で高級車を横流しする、その二足のわらじのギャップこそが、前田ハンという男の正体である。だからこそ「百個」は、彼にとって一切の比喩ではない。今夜、鉄板の前に立って自らの手でタコを刻み、生地を流し込み、くるくると焼き上げる羽目になるという、極めて具体的で肉体労働的な意味を持っていたのだった。
そんな昔馴染みとの阿吽の呼吸を裏付けるように、隣の部屋のパソコンからは、飴ちゃんズのスマホへ「田中コイン」のシステムデータがリアルタイムで筒抜けになっていた。
しかし、そんな裏事情など露ほども知らない田中たちは、自分たちの仕掛けた「劇場型マルチ」の最高潮を迎えていた。月に一度の『金貨交換リアルタイム生放送』の配信が始まったのだ。
「さあ、今月もやってまいりました! デジタル・メイプルの奇跡の時間です!」
高級スーツに身を包んだ田中が、カメラに向かって大声を張り上げる。画面の隅には、24時間ライブカメラ映像として、運営の「金貨保管庫」に山積みになったカナダ政府公認のメイプルリーフ金貨(実際はおばちゃんたちの見立て通り、前面以外はすべてプラスチック製の金メッキレプリカ)が神々しく映し出されていた。
「今夜も実際に、貯まったポイントを本物の金貨に交換した会員の皆様と中継が繋がっています!」
画面に映し出されたのは、プライバシー保護のために厚いモザイクがかかり、音声が低く変調された一般会員たちだ。
「本当に本物の金貨が自宅に届きました!」 「これで借金が返せます、田中代表は神様です!」
涙ながらに語る彼らを見て、画面の前の視聴者たちは狂喜乱舞した。もちろん、このモザイク会員たちは、田中たちが日当一万円で雇ったサクラのアルバイトである。さらに、配信スタジオの背景にあるVIP席には、逆光のシルエットで、明らかに「あの世界的IT起業家」や「超有名投資家」に酷似した体型と髪型の男たちが、偉そうに足を組んで座っていた。直接名前は名乗らない。しかし、視聴者に「あの有名人も裏にいるのか!」と勝手に勘違いさせる、汚い演出だった。
極めつけは、この生放送の最中に仕組まれた「逆アピール」だった。
「大変です代表! 配信スタジオの外に、事前登録していない一般の方々が『今すぐ入会させてくれ』と現金を持って押し寄せています!」
スタッフの悲鳴とともにカメラが切り替わると、ホテルのロビーに、一千万円の札束を掲げたサクラの大群が暴動寸前で押し寄せていた。「買いたくても買えないかもしれない」という焦燥感が、視聴者の脳を完全に狂わせた。
この熱狂がSNSでトレンド1位になった瞬間、狙い澄ましたように、本物の世界的有名人が「デジタル・ゴールドの時代が来たか」と、サトウカエデの絵文字と共に一通ポストした。これで「田中コイン」の価格は一夜にして数千倍に爆騰。世界中から四百八十億円もの資金が、田中たちの口座へと怒涛のように流れ込んだのだ。
「計画通りだ。これで勝てる」
深夜、バブルの絶頂に酔いしれる田中たちの部屋に、突如としてけたたましい警報音が鳴り響いた。ライブカメラの映像が激しく乱れ、覆面を被った「強盗犯(もちろん田中たちが雇ったスタントマン)」が、保管庫の金貨をジュラルミンケースに詰めて逃走する姿が映し出される。
「緊急生放送です……!」
田中はカメラの前で、髪を振り乱し、涙を流しながら絶叫した。
「我々の金貨保管庫が何者かに襲撃され、会員の皆様の金貨がすべて盗まれました! 我々は被害者です! 犯人を捕まえるまで換金は一時停止します! ですが、今こそコミュニティの団結を見せ、コインを買い支えてください!」
画面の向こうで、完全に信者化した会員たちが「田中代表を信じる!」「犯人を許すな!」とさらに金を注ぎ込み始める。自分たちが完璧にコントロールする「実体のない盗難事件」。集めた四百八十億円をそのままネコババし、合法的に高飛びするための完璧なシナリオ。田中たちはシャンパンの栓を抜き、勝利の笑みを浮かべた。
しかし、彼らはまだ気づいていない。自分たちが握っているはずの金庫の鍵が、あのバスタオルのおばちゃんによって、すでに「日本の心」に書き換えられているという恐怖の事実に――。
第5章:480億円の逆流
「……おい、頼むから思い出してくれ! 最初の数字は何だった!?」
ドバイの超高級スイートルーム。冷房がガンガンに効いているはずなのに、主犯の田中とハッカーの背中は嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。高飛びの準備は万端、逃亡用の偽造パスポートも手元にある。画面の隅に光る残高は「480,000,000ドル(約四百八十億円)」。だが、それを動かすためのマスターパスワードがどうしても分からない。あの日、バスタオル姿の嵐のようなおばちゃんに強引に登録された暗号の羅列が、どうしても思い出せないのだ。
「残り入力回数はあと一回だ! 間違えたら口座が永久に凍結されるぞ!」
ハッカーが狂ったように頭をかきむしる。部屋の中は、お互いが裏切ったのではないかという殺気と、絶望の沈黙に包まれていた。
その時、ガチャリとドアが開き、現地のアジアンな清掃員に変装した三女のスーが、のんきにモップをかけながら入ってきた。田中たちの怒号などどこ吹く風で、スーはわざとらしく独り言をブツブツと呟き始める。
「あーあ、腰が痛いねぇ……。伊東に行くなら、ハ、ト、ヤ、か。電話は4126(よい風呂)ねぇ。懐かしいわぁ……」
田中がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「4126……!?」
脳裏に激震が走る。あのおばちゃんがキーボードを叩きながら口ずさんでいたあのメロディ、昭和の日本中が知っていたあの語呂合わせだ! 田中が震える指で数字を打ち込む。
【 4 ・ 1 ・ 2 ・ 6 】
画面が切り替わり、『二段階認証:予備のPINコードを入力してください』と非情な赤文字が出る。
「クソッ、まだあるのか! 次は何だ!?」
田中が頭を抱えた瞬間、ベッドのシーツを整えていたスーが、さらにめんどくさそうに呟いた。
「あーあ、きんは百歳、ぎんも百歳[シニア]。私も百歳まで働かされるんかねぇ……」
金(きん)は百。銀(ぎん)も百。今回のビジネスの主役は、カナダの「金」貨、そしてデジタル「ゴールド」。おばちゃんが仕掛けた完璧な言葉遊びの裏コードを、田中は全て理解した。
「百、百! 100100だ!!」
田中は狂ったようにキーボードを弾き、【 1 ・ 0 ・ 0 ・ 1 ・ 0 ・ 0 】と打ち込んで、渾身の力でエンターキーを叩きつけた。
ピロロローン!
部屋中に軽快なファンファーレが鳴り響き、画面には世界中の誰も触れられないはずだった「四百八十億円」の確定ボタンが、緑色に怪しく輝いた。
「開いたぞ!!」
田中たちは抱き合い、勝利の歓声をあげた。しかし、歓喜に沸く彼らは、小柄な女性がスーの後からついて来ているのには気づかなかった。女性は、スーのダイナマイトボディに隠れていた。田中達からは死角になっていた。
スーは両手を拡げた。まるで、孔雀の様に。
スーはまだ清掃員の格好のまま、モップを握りしめて立っていた。
「健二」
どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえた。聞き慣れた、暖かい言葉。周りをみわたしても、いるのは、ボンレスハムおばさんだけ。
「健二、もう、終わろう」
「姉ちゃん、姉ちゃんなのか」
「健二、終わりの時間だよ」
「何でやめなきゃ行けないんだ。姉ちゃんは、覚えてないのか父さんが会社を手放す時のあの顔を、何も悪い事していないのに、一字違いと言うだけで全てを無くした父さんの無念を」
スーは心のなかで思った。(父さんの倒産)座布団二枚、面白すぎる、いかん、ふざけている場合ではない。集中だ 集中。
姉は優しく言った。「でも、その時の父さん、銀行や大手は、払わないでええ、小さいとこから、迷惑かけたらいかん」そんな事するから、銀行なんかが、再建させてくれなかった。
スーは完全に入り込んでしまった。みんなに返さないと。お父ちゃんに、顔向け出来ない。
「父さんいつも言ってたでしょ。人様に迷惑だけはかけるな」
スーの目の前に父さんがいた。集中した。涙が止まらなかった。
健二は戸惑っていた。目の前にいるのは、清掃員のエプロン姿のままの、見ず知らずのおばさんだ。これが、あの美しかった姉なのか――。「神様、こんなひどい試練があるのですか」
しかし次の瞬間、スーは限界を迎えたように「トイレ借りるで」と一言残し、脱兎のごとく走り去っていった。
山が動いた。
(え、今の何……?)呆然と立ち尽くすハッカーの口から、声にならない呟きが漏れた。
そして、そこにはただ一人、華奢だが芯の通った、健二の大好きな姉が立っていた。まるで海が真っ二つに割れたように、その中心に姉の姿があった。
「良かった……姉ちゃん、昔のままで」
健二は縋りつくように抱きついた。姉は優しく微笑み、静かに言った。
「これ、みんなに返そう」
健二は、すっと力が抜けた。
姉は、リターンを押した。
画面の隅で小さな警告ポップアップが1秒だけ明滅したことに、田中たちは気づいていない。
返金バッチ スタート。
ビコンッ!!!
地獄の底から響くような音が鳴り渡り、画面が禍々しい紫色の文字で埋め尽くされていく。
「え……? おい、画面が勝手に動いてるぞ!?」
田中たちの口座にプールされていた四百八十億円が、まるでダムが決壊したかのように、凄まじい勢いで逆流を始めたのだ。
『日本国内・デジタルメイプル被害者の会・一括返金口座へ送金中……』
「待て! 止まれ!」
ハッカーがキーボードを連打するが、一度起動した自動救済プログラムは神様でも止められない。しかも、画面に表示された返金総額の数字を見て、田中は目玉が飛び出そうになった。
「百十パーセント……!? なんで百十パーセントなんだよ!!」
この海外ウォレットには「エラー時の被害者救済措置」として、預かり資産だけでなく、運営が担保として預けていた裏金までを、ペナルティ(慰謝料十パーセント)として上乗せして強制返金する超厳格なプログラムが組まれていたのだ。田中たちが強欲さゆえに選んだ最強のセキュリティが、牙を剥いていた。
さらに画面の処理は止まらない。
『特定口座の所有者情報を開示します。すべての個人情報を、被害者の会・弁護団および警察庁へ送信完了しました』
田中たちの本名、偽造パスポートの顔写真、ドバイの隠し口座の番号が、一瞬で日本中の被害者と警察へプレゼントされた。完璧な絶望が部屋を支配する中、スーがスマホを取り出し、流暢な大阪弁でスピーカー通話に向かって話し出した。
「あ、前田ハン? 今な、お兄ちゃんらがパスワード入力してくれたから、全額返金始まったで〜! 個人情報も丸裸にして送っといたわ!」
「ハハハ、さすがマウンテンの姉さんらや。仕事が完璧やがな。日本で最高級のレイコー用意して待っとるわ」
電話の向こうで、前田ハンがハスキーに笑った。
ガチャン!
ドアが開き、廊下からバスタオルを羽織ったキイと、三千万円の入ったキャリーケースを持ったヤンが堂々と入ってきた。清掃員の変装をとうに脱ぎ捨てたスーも、モップを壁に立てかけると、二人の横にスタスタと歩み寄る。三つ子のおばちゃんが部屋の中で一列に並び立ち、田中たちに向かってビシッとポーズを決める。
「ちなみに、うちらの名前つなげたら何になるか、わかる?」
ヤンがニヤリと笑い、キイとスーが左右からピタリと並んで指を三本立てた。
「ヤン、キイ、スー。……そう、うちら三人合わせて」
「「「ヤンキース、やねん!」」」
田中が床にへたり込んだまま、意味もわからず「は……?」と呆けた声を漏らす。おばちゃんたちはそんな反応などお構いなしに、満足げに頷き合った。
「「「私たち、ナニワの飴ちゃんズです! 悪党の皆さん、普通の男の子に戻る時間はもうありませんよ!」」」
ヤンが、完全敗北して床にへたり込んだ田中の口に、オレンジ色のサクマ式ドロップスを力任せにねじ込んだ。
「これ、お近づきのしるしや。あんたらがこれから刑務所で百歳までお勤めしても、失った信用は一生返しきれへんよ。……ほな、お先に!」
バタン。ドアが閉まった瞬間、ホテルの重い鉄扉が外から爆破され、現地の特殊部隊が怒号を上げて突入してきた。組み伏せられた田中の顔を、特殊部隊の隙間から覗き込んだスーが、ふいに動きを止めた。
「……え?」
床に転がされ、髪を振り乱した田中の泣き腫らした顔。その頬骨の形、少し垂れた目尻。スーの中で、遠い記憶の欠片が音を立てて繋がっていくような気がした。
現実に戻った。弟はいない。父は生きている。
「いかん、又魂が寄り道してもうた」
バスタオル騒動、劇場型生放送、480億円の逆流――このドバイでの一夜に起きたどの出来事よりも、この抱擁は田中の心を静かに、しかし決定的に折った。床に組み伏せられ、口の中のドロップスの甘苦さと、見知らぬおばちゃんの涙の匂いに包まれながら、田中はただ、自分の頭の中で虚しく鳴り響く「ハトヤのCMソング」を、いつまでも、いつまでも聴いていた。
後日、大阪。田中一味の逮捕と480億円の全額返金は、日本中のワイドショーを賑わせる大ニュースとなった。事件はめでたく一件落着――のはずだったが、純喫茶「マウンテン」の隅の席で、ヤンはずっと引っかかっていたことをスーに尋ねた。
「なあスー。あんた、ドバイであの時、急に泣き出して『健二』やら『弟』やら言い出したやろ。……あんたに弟なんかおったっけ?」
スーの視線が、一瞬だけ宙を泳いだ。
「さ……さあ? 知らんなぁ、そんな話」
「知らんなぁって、あんたが自分で言うたんやんか」
「あー、なんやったかなぁ、覚えてへんわぁ。ほら、レイコー冷めてまうで!」
ズズズ、とわざとらしい音を立ててアイスコーヒーをすするスー。実のところ、あの瞬間、彼女はとっさに口をついて出た出まかせに、自分自身でどんどん話を合わせているうちに、いつの間にか涙まで本気で出てきてしまい、気づけば「ホンマの再会」のような気持ちにすらなっていたのだった。目の前で田中が完全に心を折られていくのを見て、ちょっとやりすぎたかもしれない、と今さらになって内心冷や汗をかいている。それを誰にも――ヤンにさえも、まだ言えずにいる。
「まあ、ええわ。あんたがそう言うんなら、それでええけどな」
ヤンは眉間に皺を寄せながらも、それ以上は追及しなかった。ミックスジュースを運んできた前田ハンが、何も知らずに「なんや、姉さんら揃って辛気臭い顔して」と笑いながら通り過ぎていく。
窓の外では、いつもと変わらぬ大阪の夕暮れが、三人の顔をオレンジ色に染めていた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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