「あァ、人生はカスだ、カスカス! 俺ァなんの為にこいつと毎夜毎夜酒盛りをしたって言うんだ!」
それは友人の葬式の帰りの或十月の晩の事である。英俊は四畳半の一室で一人、電燈もつけず真っ暗の中、お猪口一杯を何度もなんども煽っていた。はだけた水色の縞模様の湯帷子姿で、お猪口が干くまでに徳利から──いや、一升瓶からそのまま酒を継いで飲んだ。途中からはお猪口すら経由せずに、直接瓶の口から飲んだ。酒の味はもうしない。唯胃が焼けるように熱くなって、頭がくらくらした。
死んだ友人、──日吉とはいつも酒を楽しむ仲だった。白い肌の、女のような見た目の彼は愉快な奴だった。しかもひとたび酒がはいれば愚痴の止まらない、泣き上戸な、繊細な神経の持ち主だった。英俊は成る可く彼を刺激しないように気をつけながら、彼との酒盛りをいつも楽しんだ。
が、三日前の事である。突然英俊のもとに、日吉の死が伝えられた。聞けば彼は走る汽車に飛びこんだらしい。即死だったそうだ。英俊はいつも通っていた居酒屋の女将から、その話を聞いた時、目の前が真っ暗になった。そうして思わずその場に坐りこんだ。
「馬鹿だ、馬鹿だ馬鹿だ!」
英俊は自殺する人間が心底嫌いだった。本人の苦しみは勿論計り知らない。が、遺された人間には、その報を聞いた瞬間から墓場まで、当人に対する「なぜ?」という疑問と、止められたかも知れないという何とも言えない罪悪と、そうして今まで積み上げてきた信用とか関係とかを突然ぶち壊される失望と悲しみとが、まるで津波のように一気に襲いかかるのである。その力は果てしなく強く、どこまでも重い。今も続く宿酔の苦しみなど、到底比べ物にならない。
英俊は一升瓶を飲み干すと、台所に置いてあるもう一本に手をつけようと立ち上がった。が、緩んだ帯を踏むと、そのまま蹌踉と板の間に倒れこんだ。と同時に白々とその場に嘔吐した。胸の奥から湧き出る反吐は、いつまで経っても消え失せない。吐けど吐けど、腹の底から湧いて出て来る。いつの間にか妙に嗚咽や涙も溢れ出していた。
「人間はいずれ死ぬんだ。嫌でも死んじまってあの世で幸せになれるんだ。何も早まる必要なんかねえじゃねえか……」
英俊はふと脳裏に去年自分の妻が病気で死んだ事を思い浮べた。転んだ時の衝撃か何かで、仏壇に置いてあった香炉でも倒れたらしい。あたりに線香の匂が漂っていた。
彼の妻はあの世を信じていた。彼女は真宗の人間だった。死ねば自然極楽浄土に生まれる事を信じていた。そしてその妻の思想は、英俊に生きる事を強く意識させた。たとえ現世が地獄よりも地獄的だったとしても──彼は生きる事を良しとした。いや、寧ろ彼には死ぬ事が出来なかった。それは一つには生物的本能によるものだった。又一つには彼女に生きて欲しいと願った代償だった。彼の彼女に対する願いはそのまま、彼女の彼に対する願いでもあった。だから生物的本能を乗り超えられる者を軽蔑した。少くとも彼は生物的本能に克つ人間を生物であるとは認めなかった。しかし同時に亦その生物的本能に克つ事が、人間の人間たる所以だとも理解していた。彼は人間とは生物を超越した所にあるものだと考えていたのである。
だから英俊は半ば無意識的に、自殺した人間に嫉妬した。日吉を、──人生の労苦をすっ飛ばして極楽へ逃れる彼等自殺者を憎んだ。こうした嫉妬や憎悪は彼が己の人生に絶望しながらも死ぬ事の出来ない、己自身の弱さに起因していた。板の間にいくつも落ちた涙が、主に自分に対する怒りによって零れ落ちていたのは言うまでもない。
窓の外は秋の蟋蟀の声が澄みきった月空に鳴り響いている。そこに英俊の汚い空えずき声がいつまでも混ざりあっていた。夜はまだ明けない。
秋の月夜
現代文学、心理ドラマ
"「人生はカスだ」と叫ぶ男の夜。友の死が暴き出す、生と死の深淵。"
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