三十年前、教員になって初めての赴任先だった藤之木小学校は、私の自宅から歩いて十分ほどの距離にあった。初めての赴任先というだけでなく、私の母校でもある。
今年教頭として戻った同じ名前の小学校は、少しだけ遠い、中学校の隣に移っていた。五年前に完成した新校舎。旧校舎の老朽化による建て替えに際し、少子化の進行を踏まえグラウンドや体育館を中学校と共用することになった。校舎の意匠には、かつて本陣を擁した藤之木宿の、旅籠の様式を取り入れつつ最新の耐震基準は満たしている。地元のことだ。そんなことは知っている。だが、その中に入ったのは今年が初めてだった。
教員として初めて受け持ったのは、三年生の児童三十九人だった。四年めに、もう一度同じ子供たち……二人転校で出て行った六年生、三十七人の担任を務めた。異動が決まっていた私は、子供たちの卒業と同時に藤之木小学校を去ることになった。あの時の卒業文集は、今でも本棚の一番上の隅にある。
四月半ば、校舎の見回りをしていると六年生の川本美結が話しかけてきた。「今村先生、昔、お父さんの担任してたんですよね?」「美結ちゃん、いや、川本さん。そのとおりなんだけど、できれば教頭先生、って呼んでもらいたいな」「えー、だけどお父さんが今村先生って呼んでるから、私も今村先生の方が呼びやすいです」「でも、みんなが教頭先生って呼ぶのに、川本さんだけ違ってたら変だよね?」「はーい、わかりました。気をつけます」「うん、お父さんにも、今村先生は教頭先生に変わったって言っておいて」
今年の六年生は十六人。川本美結はその一人で、ずっと前から顔を知っている。美結の父親は川本裕二。私が教えた卒業生三十七人のうちの一人。百軒以上の古い家屋が軒を連ねる、藤之木宿の旧街道沿い。川本はそこで三百年の歴史を持つ旅館の生まれで、今は社長を務めている。私の自宅もその旅館の並びにある。私も休日には観光協会の活動を手伝っており、年に何度か協会の集まりで顔を合わせる。川本は去年あたりから長女の美結を連れてくるようになっていた。
旧街道沿いの街並みは三十年以上前から保存地区に指定されている。だがそれも元を辿れば、発展が見込めない街で既にあるものの中で暮らしていくしかなかった結果、残っただけだ。若い頃はそんなことを思っていた。川本も、こんな場所で家業を継ぐのは本当は嫌だったんです、最近、そんなことを言っていた。
協会の活動はこの数年で急に活発になった。きっかけは新型コロナウイルスの流行だった。三密を避ける風潮の中で、藤之木宿の旧街道の人影もない風景が、まるでタイムスリップしたようだと話題になった。やがて世の中の観光需要が戻り始めると、観光協会のPRの効果もあってか、以前は来なかった人が訪れるようになった。
数年前まで、この街はすっかり寂れていた。いや、今も寂れていることには違いない。普段の買い物には、少し離れた市街地まで車を走らせる。その日常は変わらない。街並みは子供のころからの記憶にある、藤之木宿と同じままだ。だが、今はあえて「寂れたままにしている」のかもしれない。
教頭の仕事は想像を超えて忙しく、気がつけば年度の終わりに差し掛かっていた。二月のはじめに私は、病欠で休んだ六年生の担任の代理として総合学習の時間に卒業文集の原稿を書いてもらう授業を受け持った。
授業の終わりに十六人分の原稿を集めたとき、ふと川本美結の「将来の夢」の原稿が目に入った。そこには藤之木宿に世界中の観光客が来てくれるようにしたい、ということが書いてあった。美結だけでなく何人かの児童が、藤之木宿の観光に携わりたいという内容を書いていた。藤之木宿でレストラン開いて、繁盛させたい。地域の民芸品を、お土産にして売りたい。
──私はふと、考えた。あの三十七人の卒業生は、川本裕二は、何を書いていただろうか。自宅の本棚、一番上の隅。彼らの担任を二年間務めた。自分が教えた、初めての卒業生。私はあの時、誰が何を書いたかぐらい、ずっと覚えていられる。そう思っていた。三十七人が、それぞれの将来について書いた。私はその一つ一つを応援したい、心からそう思った。そして、藤之木宿に住む者として寂しいけれど、仕方ないことだ。そう感じた。それだけしか、思い出せなかった。
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