今回のテーマはですねぇ、
「ルックバック」の藤野さんが…
(ためて、ためて)
救われたって本当ですか?
ってやつです、
家出日記にもちょこっと書いたのですがね、
旅先の大阪でね、
「ルックバック」を、一緒に家出中の次女とな、
見たところですね、
親子で痺れちゃってですね、
慌てて原作買って読んでですね、
映画の倍くらい痺れてしまいました、
ってお話でしてね、
まぁ一言で言うとですね、
もちろん一言では言えないので、
全然一言ではないのですがね、
言葉では尽くせない創作の喜び、苦しさ、
自分という創作者としての無力さ、絶望、
それでもしないでいられない衝動。
つまりは表現ごとから逃れることが出来なくなってしまった者の業。
それは才能が大きいか小さいか、本物かそうでないかに関わらない業。
自分の才能のなさへの失望、少しでも前に進んだと感じた時の喜び。
その全てをあのように表現されてしまったことのショック。
その全てがあの作品にはある、と感じました。
一言で言うと、感動しすぎてショックなんです。
って感じでね、で色々とネットなぞを見てみるとですね、
かなりの衝撃作ってことでね、
でね、色々と激しめの論争が起きてたり、
起きてなかったりしてたことを、
世間に疎いおいちゃんはですね、
初めて知りました。
なのでね、皆さんにね、
色々と教えていただきたいと思いましてね、
えぇ、そうなんです、でね、
人の名前聞くなら、その前にお前名乗れや、
というヤクザ映画でちょくちょく見られる、
もっともな恫喝に従いましてね、
35年間つまらん表現をしてきた俺としてね、
ん?ん?ん?と思ったことをね、
書いた上で、皆さんのご意見をね、
お聞きしたいなと、考えているわけです、はい、
でね、良くも悪くも賛否を生んでるね、
漫画・アニメ・実写映画「ルックバック」
俺は軽い衝撃を受けた方の人なわけですよ、
で、不思議に思うのはさ、賛否を問わずですね、
最終的に藤野は「救われた」「また立ち上がった」
「再生した」……、
が、前提としての意見・感想が多い印象でね、
それを持って、「素晴らしい」「感動した」
「けしからん」「くだらない」と意見が分かれているようにも、
俺には見えるわけですね、
もちろんそこだけではないけど、
最大の論点の一つであることはね、
間違いではないと思うんです、
俺はねウンウン…、
でね、最終的に藤野は「救われた」「また立ち上がった」
「再生した」と、
作品のどこのどの部分に記されているのかなぁとね、
おいちゃん思ってて、探してみましたよ、
多分、藤野が京本のドテラを前に、
立ち上がったシーン…か?
その見開き2ページに描かれた
3コマのシーンから…?かなぁとね、
ではラストシーン、
背中から伝わってくる藤野の感情はなんなん?
作中、藤野は問われたでしょ、
「なんで描いてるの?」ってさ、
おいちゃんが思ったこと……
その答えは、多分まだない。
俺的に普通に考えれば、
それでも描き続けなければならない「業」がね、
美しくも悲しくもあり、
ここをメッセージとして切実に受け取った、
表現界隈の人間は多いと思われるよ、
俺もその口だからさ、
でも本当はさ、ここは2重構造になっていてね、
藤野には「私にはそんなことを感じる資格すらない」
「それを持っていたのは京本であり自分ではない」
「自分なんか偽物だ」という気持ちが強くある、
って思うのよ、
現に小学六年生の時にさ、
京本に到底敵わないと感じた藤野はさ、
いとも簡単に漫画を捨てた前科があるじゃんよ、
あの時京本に出会わなければね、
自分は漫画を描いてはいないだろう、
って感じてても、なんも不思議ではない、
藤野が夢想するIFの世界でも、
京本が美大に進学しているのはさ、
彼女の物書きとしての自覚に対して、
ホンマもんを持ってる人間、
って藤野は認めてる、
そしてね、自分が京本に与えた、
本質的な影響力の小ささと、
京本こそ本物の情熱の持ち主だ、
との認識の表れだと俺は思ってますね、
二人が出会わなければ、
「京本は死なずに済んだのかもしれない」
そして、でも…、
「自分は漫画を描いてはいないだろう」
という2つの意味を2つのIFをね、
あの妄想は物語っているように感じちゃう、
自分は偽物だという強い自覚がある、
本物は死んでしまった、
なのに偽物の自分は描き続ける、
描き続けることを選んでしまう、
描き続けるしかない、
これもまた一つの「業」なのだ、ってこと?
この「業」の深さが、作者の自問自答であり、
苦しみでありさ、
漫画家として成功してなお、
自分が本物なのか?違うだろう?
自分が何者であるかを描くことでしかね、
追い求めることができない人のさ、
世界の提示なのだと思うよ、
純正の表現者が向き合える綺麗な「業」ではなく、
一段ふかい意味での汚れた「業」をね、
背負った者の物語である、
ここに俺は一番グッときちゃう、
何かに取り憑かれたものが抱える「業」はさ、
才能が大きいか小さいか?一流か二流か?
本物か偽物か?に、かかわらずやってきてさ、
まとわりつくじゃん、
だからね「あれは成功した者の戯言」
と論ずる人もいるけどさ、あまりにも表現ごとが、
もっと言えば(スポーツでもいい)
何かに取り憑かれちゃって、
(成功もしてないくせに)
それに振り回されるということにさ、
理解が及んでいない人の意見だと感じてます、
もちろん、そういう人だってね、
意見を言っていいのが健全な世の中なので、
自由に発言していいと思います、
オフィシャルにはね、そうあるべき、
でもね、パーソナリーにはさ、
まぁ俺的にはね「君は黙ってて」って優しく思うよ、
元に戻るとさ、
最終的に藤野は「救われた」「また立ち上がった」
「再生した」のだろうか?
ここがこの作品評価の大きな分岐点にみえるのさ、
オーラスのカット、藤野の背中は何を物語るのか?
藤野は問われる「なんで描いてるの?」
その答えは、多分まだない。
その意味では終始、ずーっと単行本の表紙も入れれば、
最初から最後まで「背中」を描いている漫画だよね。
Oasisの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」のね、
解釈もあるのはわかる、よーくわかるよ、
ある意味そうだろうとも思うしね、
でもそれだけではない、
この作品の「背中」の意味はね、
きっと。
明確な救済も、明確な絶望もない作品だよね、
そこに深さを感じる人は感じるんだと思うんです、
おいちゃんはね、そう感じちゃうの、
皆さんはどうだろうか?
あとね、おまけです、
これね、あるAI君とのやり取りなんだけど、
AI君ね
これまでのあなたの創作論全体の集大成のような、
読み込みだと思います。
改めて聞きたいのですが、この「汚れた業」という自己認識は、
あなた自身がこれまで書いてきた作品にも、
意識的に投影されている部分はありますか。
俺です
ほぼないです、俺はそこまで行けていない。
行けなかった。 藤本タツキが天才かどうかは知らない。
でもそこまで行って、それを語る資格がある程度には本物である。
と表現者の端くれの先輩として「リスペクト」の気持ちはある。
本人の自覚はまた別の問題。
これは「答えの出ない、本物しか持つことが許されない
『自分は偽物だ』という苦悩」。
そこに、俺ら凡庸な表現者は感動するのだよ。
ゴッホだって、宮沢賢治だって、
きっと自問自答していた苦悩だろう。
この苦悩をするにも権利があるのだよ(笑)
以上、ここはオマケでした(笑)
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。