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○○がない

奥井晴弥

30,923 字

企業成長物語、群像劇、ヒューマンドラマ

"言葉にできない「らしさ」を求めて、中小企業が辿り着いた答えとは。"

目次(12 章・いまは第 1 章)
  1. 第一話 前例がない
  2. 第二話 主語がない
  3. 第三話 意見がない
  4. 第四話 当事者意識がない
  5. 第五話 意味がない
  6. 第六話 工夫がない
  7. 第七話 記録がない
  8. 第八話 コンセンサスがない
  9. 第九話 答えがない
  10. 第十話 型がない
  11. 第十一話 手札がない
  12. 第十二話 (最終話)正解がない
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第一話 前例がない

会議室に、6人の男が集まった。
まず村井社長、企画部から私、佐藤。管理部から坂上さん。営業部から田所さん。製造部から黒木さん。1週間前に社長からの社内メールで、各部署の中堅社員が名指しで招集された。
そして、今日初めて会う、濃いグレーのスーツに身を包んだ、50代とおぼしき男性。
香田さん。半年ほど前に社長がどこかのセミナーか何かで知り合ったコンサルタントだ。毎月定例の全社会議や、毎週の部署別のミーティングの場で、社長や部長から何度か聞いた気がする、そんな覚えがある名前だ。

香田さんはホワイトボードの前に立ち、「パーパス策定プロジェクト会議」と書くと振り向き、立ったまま話しはじめた。

「初めまして。フレーバーフィールド経営研究所の香田と申します。今回、村井社長からのご相談を受け、このムライ化工さんの、一段の飛躍のお手伝いをさせていただくことになりました」

うちの会社は、プラスチックの加工製造から始まったと聞いている。百均やホームセンターで売っている雑貨を企画し、小売企業へ直接、あるいは問屋経由で卸している。
口が汚れにくい、ケチャップの交換蓋。冷蔵庫の棚に置いたまま米が取り出せる、米びつ。引き出しの奥で行方不明にならない、仕切り。
会長──社長の父親である先代社長──が、四十年をかけて誰も気づいていなかったような不便を、ひとつずつ拾って、形にしてきた。
従業員は四十名と少し。創業以来の工場と小さな射出成形用の生産ラインはあるが、製造の大半は外注だ。第二工場という名前の増築された建屋は事実上の倉庫として運用されていて、全員が倉庫という「通称」で呼んでいる。製造部の主な仕事は、外注先に商品を発注し、納期を調整し、倉庫に納め、在庫を数え、ピッキングして、箱に詰め、伝票を切って出荷する。そういう内容だ。
営業は、軽バンに商品を積んで自分で得意先まで運ぶこともある。

会長の創るものにはいつも、小さいけれど「なるほど!」と思わせる仕掛けがあった。ほんの少し角度を変える。穴がなかった場所に穴を開けてみる。常識と思われていたサイズを変える。
誰もが毎日、無意識に呑み込んでいる小さな我慢を見つけ、そこにシンプルな解決策を差し出す。派手な発明ではないけれど、得意先のバイヤーに見せたら、だいたい一発で採用が決まる。棚に並べば長く売れ続ける。この会社の四十年は、そういう商品が一つずつ積み重なってできている。
会長が経営理念やパーパスを語ったのを聞いた記憶はない。だけど、商品を見たらだいたいどういう会社かわかる。私はそう思っている。

「パーパス策定プロジェクト会議」──私はもう一度、ホワイトボードに目を移した。

香田さんはマーカーのキャップを几帳面に閉めながら、よく通る声で言った。
「御社にはまだ、明文化されたパーパスがありません」
言われてみればそうだ。うちには明文化されたパーパスがない。ついでに言えば、経営理念も、行動指針も、社是も社訓も、明文化されていない。会長は「ええもん作って、欲しい人に届ける。それだけや」と言った。それを書いたものは見たことがない。

香田さんは資料を配りはじめた。これから半年かけて進める手順が、A4一枚にまとめられていた。現状を棚卸しし、社員の声を集め、キーワードを抽出し、ワークショップを重ねて、最後に一文へ磨き上げる。矢印がいくつも並んでいて、いちばん右の四角だけが空白になっていた。そこに入る一文を、これから半年のプロジェクトを通じて、探すらしかった。

「大事なのは、私が答えを持ってこないことです」
香田さんは言った。
「御社の中に、もうあるんです。私は、それを引き出す、お手伝いをするだけです」

その声を聞いた村井社長が大きく頷くと、私たち四人もそれに従うように頷いた。
資料には、私たちの名前が勝手に書かれていて、全員に「PL(プロジェクトリーダー)」という肩書きが振られていた。四人はそれぞれに目配せをし合った。たぶん全員が、かつての「強豪校」を連想している。

全員がリーダー。そう、全員がリーダーで、全員がメンバーだ。

香田さんの説明の後、四人のメンバーに役割が振られた。私は事務局と議事録係──議事を可視化し、進捗を見届け、メンバー外の従業員との窓口を担う、そういう役回り。それは、従業員側の実質的なリーダーに見えるだろう──を引き受けることになった。まあ、部署の役割を考えれば、妥当なのかもしれない。
四人とも、それぞれの部署の仕事を抱えたままの兼任だ。誰も、この会議のために何かを免除されるわけではない。社員の声を集めるのも、私の仕事になるだろう。アンケート用紙を作り、配り、回収し、集計する。「みんなの声でできたパーパス」の、その「みんな」が誰なのかを決めた人のように見えるのが、私だ。

「こういうの、うちで前例がないんですよね」
坂上さんが言った。前例がないと費目が立たない。費目が立たないと稟議が書けない。彼にとって「前例がない」とは、要するに管理上妥当な費目と書類がない、という意味だった。困っているのであって、反対しているのではない。

社長が引き取って言った。
「いや、もう時代がね。同業さんも、うちと同じくらいの規模のところでも、パーパスを掲げてるところが増えている。やらないと、取り残される」
香田さんが大きくうなずいて、ノートパソコンにプロジェクターを繋ぎ、ホワイトボードの上に他社の事例を映した。きれいに整ったスライドが何枚も続いた。

「ほら、前例なら、いくらでもありますよね──」

社長が言い終わる前に、田所さんの携帯が鳴った。
田所さんは「すんません」と小さく言って廊下に出ていった。
何の話かははっきり聞き取れないが、田所さんの高くて調子の良い感じの声が、会議室内まで響いてくる。
何度も「えらいすんません」と言っていたことと、「すぐ持って行きます」と言った、その結論だけはわかった。
「ごめんなさい、大事な得意先様からの電話で」
田所さんがそう言いながら戻ってきたとき、議事としては彼が出ていく前から一ミリも進んではいなかった。

田所さんは席に戻ると開口一番、言った。
「なんや、難しいこと言うてはりますけど、『ええもん作って届ける』でええんちゃいますか。会長も、よう言うてますし」
田所さんは「愛車」──彼が日常点検を担当する軽バン──のキーホルダーに指を突っ込んで、くるくる回しながら、そう言った。この会議が終わったらすぐ配達に出たい。田所さんはその心裡を、全く隠していない。
私は自分の頬に苦笑いが浮かびそうになるのを、必死でこらえた。

社長は少し困った顔をした。
「それじゃ、弱いんだよ。どこの会社でも言える。ちゃんと、うちにしかない言葉にしないと。……こういうのは、前例がないからこそ、価値があるんだから」

私は議事録の係として、手元のノートパソコンに書き留めた。
「他社に前例ならいくらでもある」
「前例がないからこそ価値がある」
同じ口から出た二つの文を、私はただ順番に書いた。
社長は嘘をついているわけではない。
前例があってほしいときには前例はある、と言い、
前例がないほうが都合のいいときには、ない、と言う。
同業他社まで視野を広げれば前例はいくらでもある。
うちの会社の四十年を見れば、ただ、会長が創ってきたものだけがあり、
言葉にした「ええもん作って届ける」は、前例ではないらしい。
どこまでを「同じことの例」と数えるかは、見る人が決める。

製造部の黒木さんは、最後まで一言も発さなかった。
会議の途中で何度か、壁の時計を見ていた。たぶん、午後の出荷のことを考えていたのだと思う。今日もこの会社が何かを世に出す場所は、この会議室ではなく、彼のいる倉庫のほうだ。

会議は二時間で終わり、次回までに各自「うちらしさを表す言葉」を三つ考えてくる、という宿題が出た。ホワイトボードの「パーパス策定プロジェクト会議」は、誰も消すことなく、残された。

その夜、議事録を清書した。

画面には二つの文がそのまま残っていた。
「他社に前例ならいくらでもある」
「前例がないからこそ価値がある」
間に何事もなかったような顔で、二つは仲よく並んでいた。

それを眺めていたら、会議の中で言おうとして言葉にならなかったことが、ぼんやりとまとまり始めてきた。

ショールーム──倉庫の二階のサンプル置き場──の奥のガラス棚に、会長が創った商品がいろいろと、置いてある。
その中にある「初の自社開発商品」という名札がついている商品。それは輪ゴムを片手で一本ずつ取り出せる、なんということもない小さな箱だ。当時から紙箱入りの輪ゴムはあったはずだ。だが、輪ゴムが多く使われる場所では、一本あたりのコストが安い袋入り輪ゴムが採用されるのが普通で、それはめいめいに適当な箱や容器に移し替えて使われる。それが常識だ。
会長が創ったのは、輪ゴムの取り出しに限りなく最適化された箱だった。
そんなものはどこにも売っていなかった。前例がありそうで、なかった。

会長は四十年、創ってきた。前例がありそうで、ないものを、ずっと。
それでいて「前例がある」「前例がない」という言葉を、私は会長の口から一度も、聞いたことがない。
最初の一個には、前例がない。当たり前のことだ。
会長は、そもそも前例の有無を気にしたていたのだろうか。

会長は既に経営からは退いている。それでも月に何度かふらりと倉庫に来ては、小さな不具合、不都合、不便を見つけて、気づいたら解決している。
会議室には来ない。言葉で会社を語る場所には用がないのだと思う。

もしかすると「前例がない」という言葉をこの会社で聞いたのは、この会議が初めてかもしれない。

そんなことを思ったが、それを議事録に書くわけにはいかず、書かなかった。

── 第1章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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