二十歳くらいの頃、人足のバイトしとったんよ。解体のガラ運んだりするやつね。
そこの先輩が、いわゆる本職のニコヨン人足ってやつでさ。三十歳半ばくらいの独り者で、酒と博打と女が好きな典型的な遊び人やった。なんとなく気に入られて、割りの良い現場に同行させてもらってた。
んでさ、ある日、バイト終わりに先輩から、
「おまえさ、今日ヒマ?ちょっと面白い、行きつけのスナックあるから行かねえか?なぁに、俺が奢ってやるよ」
と誘われたんよね。
昔から、西新って古いスナックいっぱいあってさ、もうだいぶんなくなったけど。そこも古い古い、ザ・昭和な店で、名前は「ルビー」。雑居ビルの二階のどん詰まりにあって、赤い絨毯に、壁には色褪せたウイスキーのポスター。カウンターが七席しかなかった。
店に入ると客はまだ誰もいなかった。
先輩がカウンターの奥から三番目座ったんで、俺、何となく先輩の隣、カウンター中央に座ったわけ。そしたら、ママが
「そこ、開けとって。奥の方に座らんね」
って言われたんで、ああ、誰か予約しとるんやなと思ってさ、「うっす」ってなんも考えずに逆側の先輩の隣に座ったんよね。つまり奥から二番目。
先輩、何だかニヤッとしてさ、
「お前、ちょっと不思議な事起こるかも知らんけど、何も聞くなよ。見てねえフリしろよ」
なんて、小声で言うのよ。
「なんで?」
「まぁ、聞くなって」
先輩はそれだけ言って煙草に火をつけた。
ママは聞こえてたのか、聞こえなかったのか、何も言わなかった。
しばらくすると常連が一人、また一人と入ってきた。
狭い店だから、すぐにカウンターが埋まった。
それでも四番目の席だけは空いている。
後から来た客が一人、立ったまま飲んでいた。
「ここ空いてますよ」
俺が言うと、その客は一瞬だけ四番目を見て、
「いい、いい」
と手を振った。
十時を少し回った頃だった。
ママが水割りをひとつ作った。
誰も注文していない。
氷を入れて、ウイスキーを注いで、水を足した。
それを四番目の席の前に置いた。
グラスの前には、十円玉くらいの丸い焦げ跡があった。
「誰か来るんですか?」
俺が聞いた。
ママが笑った。
「もう来とるよ」
常連が笑った。
「新人にそれ言うたら怖がるやろ」
「本当のことやもん」
ママはそう言って、俺のグラスに水を足した。
「昔ね、ここに毎晩来よった女の人がおったと」
名前はミサコさんといった。
近所で働いていて、店が暇になる十時過ぎになると一人で来た。
いつも四番目の席。
水割りを一杯だけ飲んで、十一時前には帰る。
「綺麗な人やったよ。あんまり喋らん人やったけどね」
それが十五年くらい前、ぱったり来なくなった。
数日経って、近くのアパートで死んでいるのが見つかった。
一人暮らしだった。
「それからですか?」
「何が?」
「その水割り」
ママは四番目のグラスを見た。
「うん」
「毎日?」
「店開けた日はね」
「飲むんですか?」
「さあ」
ママは笑った。
「見とき」
しばらくして、カラオケが始まった。
俺もその話を忘れて先輩たちと飲んでいた。
十一時前だったと思う。
何となく四番目の席を見た。
水割りが半分くらいになっていた。
「先輩」
「あ?」
「あれ」
先輩もグラスを見た。
「ああ」
「ああ、じゃないですよ。減ってるじゃないですか」
「減るよ」
「誰か飲んだ?」
「誰も触っとらんやろ」
確かに誰も触っていなかった。
綺麗に水滴を纏ったグラスがそこにあった。
そのうちまた客が入ってきて、俺もそっちに気を取られた。
次に見た時には、底に二センチくらいしか残っていなかった。
「ママ」
「ん?」
「これ、いつもこうなるんですか」
「うん」
「毎日?」
「だいたいね」
「気持ち悪くないんですか」
ママは少し考えて、
「何が?」
と言った。
「いや……死んだ人が飲みに来てるってことでしょ」
ママは笑った。
「生きとる時から毎日来よったんよ」
それから四番目の席を見て、
「死んだから来たらいかんって言うのも、可哀想やろ」
常連は誰も笑わなかった。
帰り道、俺は先輩に聞いた。
「あれ、何か仕掛けあるんですか」
「知らん」
「先輩も減るの見てるでしょ」
「見るよ」
「じゃあ怖くないんです?」
「最初はな」
先輩は笑った。
「慣れるって」
なんにせよ。俺はその後、一人でルビーに行く事もなかった。
二、三か月経った頃だった。
バイトが終わって、先輩が、
「久しぶりにルビー行くか」
と言った。
俺もあの水割りのことが少し気になっていた。
二人で店に行った。
ママも同じだった。
赤い絨毯も、壁のポスターも、招き猫も同じ。
俺は店に入って、何か変だと思った。
すぐには分からなかった。
先輩が奥から三番目のカウンターに座った。
その左隣、奥から二番目に座ろうとして、気づいた。
椅子が六脚しかない。
「……ママ」
「なに?」
「椅子、減らしました?」
「椅子?」
「ここ、七席ありましたよね」
ママが俺を見た。
「何言いよると。六席よ」
「いや、前来た時、七席ありましたよ」
先輩が笑った。
「お前、どこの店と勘違いしとるんや」
「いやいや、ここですよ」
「ここは六席。十年前に改装してからずっと六席ぞ」
「先輩、一緒に来たじゃないですか」
「来たよ」
「四番目、空けたでしょ」
「四番目?」
「俺がそこに座ろうとしたら、ママがそこ座んな、こっちに座れって」
先輩が変な顔をした。
「ママが?」
「そうですよ」
「なんで?」
「それを俺が聞いてるんですよ」
先輩は笑った。
「お前、あの日かなり飲んどったやろ」
ママも笑っていた。
俺はママに言った。
「ミサコさんですよ」
「誰?」
笑いながら聞き返された。
「昔ここに毎日来てたって。四番目に座って、水割り一杯だけ飲んで帰ってた人」
ママの笑顔が消えた。
少し考えているようだった。
「知らんねえ」
「いや、ママが話してくれたんですよ」
「私が?」
「十五年くらい前に死んだって」
「十五年前?」
ママは先輩を見た。
先輩も首を傾げている。
「この店、十年前にここに移ってきたとよ」
俺は何も言えなかった。
店を間違えたのかと思った。
でもママも先輩も同じだった。
壁に掛かった古い時計も、カラオケの機械も、ボトル棚の端に置かれた招き猫も覚えていた。
カウンターを見る。
六席。
おかしい。どう詰めても七脚は置けない。
最初から六席用に作られたカウンターにしか見えなかった。
俺は本当に別の店の記憶と混ざっているんじゃないかと思い始めた。
トドメに先輩が
「俺も改装手伝ったんだよ。ママが予算がないってんでよ。で、その時、知り合いの店から椅子を調達したのが俺なんだからよ、間違いようがねえだろ」
その時、ママが水割りを置いた。
グラスを取ろうとして、気づいた。
二つ隣の椅子との間。
誰も座れない場所に、十円玉くらいの丸い焦げ跡があった。
俺はしばらくそれを見ていた。
「ママ」
「ん?」
「この焦げ跡、何ですか」
「ああ、それ?」
ママは一度見ただけだった。
「知らん。昔からあるとよ」
「改装した時から?」
「そうやったかなあ」
先輩が横から言った。
「あったあった。最初からあったぞ、それ」
俺は椅子を数えた。
一、二、三
焦げ跡。
四、五、六。
その晩、四番目だった場所に水割りは置かれなかった。
夜が深まり、また一人ずつ増えていって、カウンターは満席、最後の一人は立って呑んでいた。この間の常連とあまり変わらない様な気がする。
俺は気になって、この間と同じ様に一番奥に座っている隣の常連さんに声をかけた。
「あのぅ、ここって昔から席は六つなんですか」
すると、それまで一言も発さず、独りで静かに呑んでいた常連のおじさんは急に顔を顰めて、
「ボウズ。最初に聞くなって言われただろ。知らねえふりしてろって。それ以上、聞かん方がいい」
「え?」
「それと……後ろは見るな。もう見えねえフリは出来ねぇだろ」
「え?なんのことです?」
「もし見てしもうたら、何も言わんで店を出ろ」
「何が見えるんです?」
おじさんは俺を見た。
「四番目」
それだけ言って、それ以上は何も聞かせない空気を放った。なんだか、異界の扉の前にでも立っている気分だった。後ろを振り向くのが怖かった。
「おい、どうしたんだよ?」
先輩に声をかけられて扉側を見た時、俺は振り向かなければ良かったと思った。
先輩の後ろに、さっきまでなかった椅子があった。
誰も座っていない。
その前には、あの焦げ跡。
そして、水割りが一杯置いてある。
ゴクリと喉がなった。
俺は、先輩の声にも耳をかさず、黙って扉を開けて、外に出て走り出した。
その後、人足紹介所には行く事もなく、先輩にも会っていない。
四番目の席
昭和の残影と日常のすぐ隣にある怪異を描く都市怪談
"消えたはずの席と水割りは、夜の帳の向こう側からあなたを見ている"
西新の古いスナック「ルビー」。七脚あるカウンターの四番目の席には、かつて店で亡くなった女・ミサコが現れるという。ある夜、主人公もその席で起こる怪異を目にした。よくある怪談話――だったのだが、後日、店のカウンターを見た主人公は奇妙な違和感に気づく。そこから、店と記憶をめぐる認識が少しずつ崩れ始めていく。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。