入学式当日、新入生代表としてステージ上に立ったのは、須田山静という、冬の花のような静けさを身に纏う女だった。
中高一貫の、俗に言うお嬢様校。社会的地位が高い家の娘達が通う学舎だ。当然、偏差値も学費も、平凡な学校の比ではない。
中等部から高等部に進級する生徒がほとんどの中、外部受験で高等部に入学した私の存在は、特異な物だった。
やるならば完璧を。やるならば圧倒的な注目を。入試で首席の座を勝ち取った私であったが、新入生代表の挨拶を述べたのは、内部生の彼女だった。
聞けば、須田山静は理事長の孫娘らしい。
実情はどうなのか分からないが、私は須田山が文章を読み上げたあの数分で、既に須田山を敵対視し始めた。
須田山は群れることに興味が無いようだった。
理事長の孫娘だ。彼女の傍で、甘い汁を啜ろうとする人間も多い。作ろうと思えば、いくらでも友人が作れるだろう。なのに、須田山はいつも一人で、生徒だろうと教師だろうと、人と言葉を交わす場面を見たことが無かった。
対して私は、いつだって友人に囲まれていた。
昼食を摂る時も、手洗いに行く時も、常に人が側に居た。人から慕われることの重要さを理解しているからだ。
いくら家柄が良かろうと、人を寄り付けなければあるのはデメリットしかない。
集団の中での孤立は、異端だ。弾かれて潰される。
何故それが分からないのだろうか。それとも、理事長の孫娘である驕りなのか。
一人だというのに、須田山は平然と、会話を楽しむ私達の横を通る。孤独なのに、少しも惨めな思いをしないのだろうか。須田山がどういう神経をしているのか、理解が出来ない。痩せ我慢なのかもしれない。
須田山とすれ違う度、いつも目が合う。
全てを見透かしてくるような冷たい視線が、私の癪に障って堪らなかった。
須田山は成績に興味が無いようだった。
授業中はいつも本を読んでいる。教師の話を聞こうともしない。教師も、それを咎めることはない。須田山が、理事長の孫娘だからだ。
下手に触れば首が飛ぶ。須田山は、教師にとって爆弾だったのだ。
体育の時間は特に酷かった。そもそも、出席すらしていないのだから。
何をしているのか知らないが、須田山が授業に参加している様を、一回たりとも見たことが無い。
よくあれで単位が足りる物だ。私は気になって、一度体育教師に聞いてみたことがある。
補習を受けている、そう言われた。だから問題無いのだそうだ。あの須田山が補習に参加?あり得ない。優遇されているのだ。これもまた、私の癪に障った。
須田山は、頭の作りが凡人と違うようだった。
あれだけ学業を顧みない生活をしているのに、試験の結果はいつも学年二位だった。
どこで、いつ、勉強をしているのだろうか。それとも、授業を聞くだけでその内容全てを覚えているとでも?
須田山の試験結果を見る度に、私の臓物はねじ切れるようだった。
凡人の私が、睡眠時間を削り、無価値で無意義な……しかし、必要不可欠な友人ごっこの隙間に、必死に努力して勝ち取った学年一位。
もし、この努力が、血反吐が出るような努力が、ほんの少しでも足りなかったら、どうなっていただろう。
不正をしているに違いない。体育の時と同じく、優遇されているのだ。
自分でも分かるほど醜悪な嫉妬心だった。きっと、須田山もそれに気付いていた。
いつも、いつだって、須田山が向けてくるのはあの冷たい視線だった。
私は、どうしても須田山が嫌いだった。
二年生に上がり、転機が訪れた。
須田山は寮に住んでいた。私もだ。そして、須田山のルームメイトが、須田山に耐えきれず、部屋の交換を申し出たのだ。
私にお鉢が回ってきた。私なら、須田山の手綱を握れるだろうと、そういう類いの言葉を言われた。
当然、断りたかった。あの須田山と同室だなんて、考えただけでも胃の腑が焼かれるようだった。
しかし、私は首を縦に振った。
二年生に上がる頃には、私に対する周囲からの信頼は、磐石な物だった。それを崩す訳にはいかなかった。ただ、それだけの為だった。
文武両道。二年生でありながら生徒会長を勤めている。ああ、彼女は正しく天才だ。
周囲の有象無象は、皆そう言う。
そんな訳が無いだろう、愚か者達が。
心の中で毒を吐きながら、私は、新しい自室の扉を開けた。
須田山静は、そこに居た。
窓辺に座って本を読んでいた須田山は、私が部屋に入るとこちらに視線を向けた。相も変わらず冷たい視線だ。いつもと違うのは、須田山が視線を逸らさず、じっとこちらを見詰めてくることだった。
思わぬ反応に、私は身動ぎする。
前任の同居人から、須田山のことは聞いていた。一年間、話しかけてもうんともすんとも言わなかったそうだ。まるで置物であるかのような対応に、気が滅入ってしまったと言っていた。
だから、てっきり、私のことも意に介さないのかと思っていた。
気まずい心境だったが、それを覚っているのかいないのか、須田山は依然としてこちらを見てくる。動揺を誤魔化そうと部屋を見渡すが、変わった物は特に無い。備え付けのベッドと机、身嗜みを整える為の姿見。それ以外には、須田山の私物である書籍の山しかない。
ふと、窓台の上の観葉植物に目が行った。
須田山の隣で静かに鎮座する観葉植物は、白いブラシ状の花をつけていた。
どこかで見たことがあったが、名前が思い出せない。どうやら造花ではなく、本物の植物のようで、須田山が手入れをしていると思うと、普段のイメージとかけ離れた行動が、なんだかおかしかった。
「貴女が、新しいルームメイト?」
声をかけられて、私はびくりと肩を震わせる。
須田山の声を聞いたのは、入学式以来。話しかけられたのは、当然初めてだ。
「あ……うん。よろしくね」
慌てて返事をする。それでも、須田山が私から目を逸らす気配は無かった。
このまま対峙していてもどうしようもない。諦めた私は、荷物を片付けることにした。
その間も、須田山はじっと私を見詰めている。
手に持った本を捲る素振りを見せない。かと言って、何か私の行動に対して言いたいことがある訳でもない。ただ、私という存在には興味があるようで、目を逸らさない。
やりにくいこと、この上無かった。
相手が求めていること。それが分かれば、こちらは望まれている物を提供すればいい。なのに、須田山の思考回路は全く読めない。どうしようもないのだ。
とびきり時間をかけて、私は引っ越し作業を完了した。それでもなお、須田山は私を見ていた。飽きないのだろうか。
天才の脳は凡人とは違う。
だから、こんな奇行が出来るのだろうか。
何故だか無性に腹が立って、何故だか無性に悔しかった。
「……ねえ、須田山さん。そのお花、なんていう名前なの?」
部屋の外に逃げるという手もあったはずだ。
それをしなかったのは、所詮その場凌ぎの行動だと分かっていただからだろうか。いや、それだけではない。
会話を避ける彼女のことだ。きっと、私が会話を仕掛ければ、鬱陶しさを感じるだろうと思った。
ほんの少しでもこの孤独な天才の、一人を好む天才の、気分を害してやろうとしたのだ。
須田山は自身の隣に鎮座する小さな観葉植物に目を向けた。ようやく目を逸らされたことで、私はふっと息を吐く。
須田山は、白く細い指で植物の葉を撫でると、たった一言。
「ヒトリシズカよ」
と答えた。
素っ気ない回答。高台の上はさぞかし見晴らしが良かろう。無理矢理引きずり落としてやりたい。
そんなどす黒い想いは、飲み込んだ。そして、出来る限り愛想の良い調子で私は言葉を紡ぐ。
「へぇ、綺麗だね。よく手入れされているみたい。須田山さんは植物を育てるの、好きなの?」
須田山は、首を傾げた。何か考えているようだ。
私はその様子に苛立ちを覚える。
首を横に振るなり縦に振るなりすれば終わるはずだ。何をそんなに考えているのか。
普段であれば気にならないほどの、僅かな時間だった。それがこんなにも煩わしいのは、彼女が須田山静だからに他ならない。
やがて、ようやく、須田山は首を横に振った。
「私も名前に『静』が入っているから。だから育てているだけ」
その言葉に呆気に取られた私は、ぽかんと、須田山の顔を見ていた。
……名前と共通点があるから?だから、この花を?
須田山静が、ヒトリシズカを。
確かに、いつもたった一人で過ごしている彼女には、お似合いの花だ。
澄まし顔の下で、こんな幼稚なことを考えていたなんて。
「ふふっ……」
馬鹿みたいだと思った。堪えきれず、私は笑みを漏らした。
そんな私に、須田山は再び視線を向けた。
その瞳は、いつものような冷たさを帯びていなかった。
「初めて、貴女の笑った顔を見たわ」
突拍子も無くそう言った。私は、この女は何を言っているのだろうかと、その言葉にただ困惑する。
私が友人と笑い合っている光景は、須田山も目にしたことがあるはずだ。
目が合ったことがある。その時も、冷たい視線。
背筋に悪寒が走った。一体、須田山は私の何を見ているのだろうか。
思わず後退りをして、はっとした。狼狽したことを悟られぬよう、私は精一杯の笑みを作った。
「……変わったことを言うね、須田山さん。私、そんなにいつも仏頂面かな」
「いえ?貴女の表情はいつも楽しそうだわ。きっと人好きするでしょうね。でも、周りの人間と談笑する貴女の目には、いつも光が無い」
嫌いなんでしょう?周りの人間が。
自分達の常識が、全ての人間に当て嵌まると盲信している有象無象が。
須田山は続けた。
「貴女と私は、この観葉植物と同じ。
一見、閉鎖的には見えない。上へ上へと成長して、自由に見える。それでも、このヒトリシズカは、鉢植えの中から出られないの。不自由を周囲から強制されているのよ。
私と貴女の違いを上げるなら、自分に嘘をついているかいないか、それだけ」
何かがぱりんと割れる音が聞こえた気がした。
自分自身の頬を触る。半分反射だった。
私の顔は引きつっていた。笑顔という仮面を、保つことが出来なかったのだ。
困惑と仄暗い怒りに苛まれる。須田山静は、この女は、私との僅かな会話で、私の表面を覆う全てを、剥がそうとしていた。あまりにも唐突過ぎる。これでは、通り魔と何ら変わらなかった。
「何が言いたいの?」
声は震えていたと思う。もはや、制御することは不可能だった。
平静を失う私と対照的に、須田山は冷静だ。当然と言えば当然だ。私の冷静さを崩したのは須田山なのだから。
私の問いかけに、須田山はすぐ答えない。再び首を傾げて、何かを考えていた。
先ほどは苛立ったその様子も、今では恐ろしさを感じる。
須田山は、どんな言葉を紡ぐのだろうか。
私が認められるために積み上げてきた防壁を、一体どんな方向から破壊するのだろうか。
貴女のそれは、防壁なんかじゃないわ。ただの檻よ。少しだって、貴女を守りはしないのよ。
そんな幻聴が聞こえてきた。須田山の声だった。
須田山が、口を開いた。
「私と貴女、お友達になれると思うの」
「は?」
思わず口から衝いて出た。
この女が今、何を思って何を言ったのか、私には分からなかった。
私と須田山が、友人に?あり得ない、あり得る訳が無い。何故、須田山はそんなことを思うのだろうか。
空気が一転する。須田山は私と目を合わせない。さっきまでは嫌になるほど私を見ていたくせに、今度は少しも視線が合わない。まさかと思った。
まさか、この女は、照れているのだろうか。
なんなんだ。
そう口にしたいぐらいだった。私はまた、困惑する。
今まで私の脳内で築かれてきた、須田山のイメージが。孤高で傲慢な天才のイメージが、崩れていく。
少なくとも、私が想像していた須田山は、友人にならないかという誘いに恥じらう人間ではない。
これが、私と須田山の初めての会話だった。
そしてこの日から、私と須田山の関係性は、大きく変化していった。
須田山に振り回された日から、私と須田山は言葉を交わすようになった。
教室では以前と同じく、私達は関わることは無かった。私は友人に囲まれて、須田山は一人。私達の横を一人で横切る須田山は、いつも私を見ている。
しかし、その視線に宿る温度は、次第に変わっていった。
自室で過ごす時、ようやく私と須田山は言葉を交わす。お互いに何かを問いかけることもあった。
「須田山さんは、なんでいつも私を見ているの?」
それは、何故私の取り繕った笑顔を見抜けたのか、という問いでもあった。
須田山は答えた。
「貴女、入学式の時、ずっと私を見ていたでしょう?」
「うん、まぁ、そうだね」
「他の人間は皆、他のことに意識を向けているか、ぼんやりと私のことを眺めているだけだったわ。興味が無いことには、決して興味を向けない人達だから。
貴女だけよ、代表の挨拶を読み上げる私を、微笑みを張り付けたまま睨み付けていたのは」
だから気になって眺めていたの。そう言われた。
それだけのことで、私を観察し、そして仮初めの笑顔を見抜いてきたのか。
やはり須田山は変わっていると思った。
これも天才だからだろうか。
須田山と関わるようになって分かったが、やはり須田山は、ほとんど勉強という行為をしていなかった。本を読みながら授業を聞いて、それでおしまいだそうだ。
想像通りだった。しかし、以前のように嫌悪の情を催すことはなかった。
何故だろうか、と私は不思議に思う。
あのようにずけずけと、私の中に土足で踏み入れられたのに、私の須田山に対する認識は確かに変わっていた。
何も分からなかったからかもしれない。今は少しだけ分かっている。結局、私も異端を排斥するだけの凡人だったのだ。
須田山は、存外会話が好きらしかった。
会話は、須田山のなんてことのない雑談から始まることが多かった。そこから問答を繰り返し、気付けば数時間経っていることもあった。
そんなに会話が好きなら、どうして周囲の人間と話さないのか。どうして友人を作らないのか、聞いてみたことがある。
「つまらないもの」
向けられる視線は、いつだって好奇か嫉妬。
格式高い家に生まれれば、皆幸せになれると思っているその能天気さ。
個人として見ず、勝手に期待し、勝手に失望するその愚かさ。
「貴女も私に嫉妬をする人間の一人だったけれど、他とは違う。強制されている側の人間だったから」
私はそれに何も答えなかった。
誤魔化すように、須田山へ授業は真面目に受けた方がいいと苦言を呈した。
須田山は渋々頷いていた。
それから、須田山は授業中にノートをとるようになった。体育の授業にも、見学だが参加をした。須田山の中で私の存在は、段々と大きくなっているようだった。
それが不思議で堪らない。
「どうして貴女は、そんなに自分を圧し殺すようになったの?」
ある日、須田山にそう問われた。
須田山と同じ部屋になってから、半年は経った頃だった。
ベッドに腰かけて、須田山から紹介された本を読んでいた私は、しばし考えた。
これは、私の身の内だ。
誰にも話したことのない、誰かの理想通りの私ではない。私自身の本音だ。
以前であれば、決して吐き出すことはなかった。
笑顔で、なんのこと?なんて適当にあしらって終わるだけの話だ。
しかし私は語り始めた。目の前に居るのが、須田山静だったからだ。
家が貧乏なこと。
かつては、裕福な家庭だったこと。
母親が過去に固執していること。
父親が運営していた会社が倒産し、上層から下層へ。贅沢三昧な暮らしを忘れられない母は、いつも浪費を繰り返す。そのくせ、仕事には就かない。借金は増え、父も家を出て行き、更に借金が増える。
家庭環境に不満を持ち、ふてくされて学校へ行けば愛想が悪いと非難される。おまけに、どこから漏れたのか、家のことが学校で噂になっていて、奇異の目で見られる。
当時、私は小学生だった。幼い子供には、倫理観のストッパーが無い。出る杭は打たれる物だ。例に漏れず、私も徹底的に打たれた。
泣いて帰れば母に叱られる。
情けないから駄目なんだ。そんなんじゃ、いつまで経っても元の生活には戻れやしない。
いい学校に行って、いい企業に就職して、お母さんを幸せにしなさい。
まだ幼い娘には、理不尽な言葉だった。
それでも、私は従うしかなかった。
私を認めてくれる存在は、母しか居なかったから。
それからの人生は、よく思い出せない。
他人の理想に忠実に生きた。今の学校に入学したのも、母の望みだったからだ。母はようやくスーパーでパートとして働き始めた。家に金は無かったが、特待生になれば、学費は免除された。
母はことあるごとに一番になれと言った。
とにかく上へ、とにかく完璧へ。
何もかもが間違っている母は、私にそう言った。
「人はね、鏡なんだよ」
私が生い立ちを語る間、須田山は私から目を逸らさなかった。
私と同じくベッドに腰かけて、ある日のようにじっと私を見つめている。違いは、私に向ける視線に、冷たさがないことだ。
私は須田山の姿見に目を向ける。
そこには正しく自分が映っていた。
「鏡を見れば、自分がどんな姿をしているか分かるでしょ?だから、私は鏡に合わせて姿を変えるの。鏡の中が私に動きを合わせてるんじゃない。私が鏡に動きを合わせるの」
そうすれば、周りから好かれる。周りから認められる。それが、私の存在価値だった。
例え、その結果、何が私なのか分からなくなったとしても。
「そう……でも、それじゃあ貴女自身はどこにも居ないわ。所詮、他人の目に映る自分は他人よ」
自分を圧し殺してまで守る物じゃないわ。
どこか悲し気に呟く須田山から、私は目を逸らした。
正直に言えば、須田山との生活は悪くない物だったと思う。
家の脛を齧って生きてきた人間かと思えば、そうではない。むしろ、須田山は家に縛られた人間だった。
「卒業後の進路、お祖父様に決められているの」
今までだってそう。物心付いた時からそうだったという。敷かれたレールの上を歩いてきたと須田山は語った。
「まだ未成年だから、私は従うしかない。これから先、自由になれる保障も無い。でも、私は自分の意志を殺したりしない。最後まで、嫌な物は嫌だと言い続けるわ」
真っ直ぐにそう答える須田山は、とても強かで。私にとっては、眩しすぎた。
最初は劣等感を抱いていた須田山に対して、今では心地好さを感じるようにすらなった。
須田山の傍でだけ、私は失くした私のままで、ありのままの私で居られるような気がした。
「貴女は、私の唯一よ」
そう言って私の髪を撫でる須田山の表情が、何故か印象に残っていた。
三年に上がって、私と須田山は教室でも共に過ごすようになった。
その結果、私は友人達と距離を置くことになった。正確には、友人達が須田山を避けていた。
二人きりになった。以前なら、酷く恐れていた集団からの孤立だったが、私には須田山が居た。須田山にも、私が居た。
「静」
私は須田山の名を呼ぶ。そうすると、須田山は氷のような表情を少し溶かして。
「なあに?」
と、穏やかな微笑みを浮かべた。
休日に、須田山と二人でフラワーパークを訪れたことがあった。
本人は自覚していないようだったが、須田山は花が好きだった。
自室に飾っているヒトリシズカだってそうだ。毎日懇切丁寧に手入れをしている。一日だって欠かしたことはない。
実際、フラワーパークを訪れた須田山は、心なしか楽しそうにしていた。いつもより、声色も明るくなっていたと思う。
四季折々の花を眺める中、須田山は、時折解説を混ぜる。花の開花時期や特徴、花言葉などを語る須田山を、太陽が照らしていた。
須田山の白い肌に光が反射して、キラキラと輝いているようだった。
冬の花のように凛としているかと思えば、実際は幼いところもあって、春の花のような穏やかさ持つ。
思わずその姿に見惚れれば、須田山は首を傾げていた。
その日は、楽しい一日だったはずだ。
温室の隅に植えられた、ヒトリシズカを見付けると、須田山の表情は僅かに曇った。
「どうかしたの?」
須田山は、ヒトリシズカの前でしゃがみ込むと、その花をじっと見詰め始めた。
何か変わったところがあったのだろうかと思ったが、私にはその違いが分からない。
しばらく、須田山はヒトリシズカを見ていた。
「鉢植えから出られても」
ぽそりと、呟くように。
「結局、管理されることに、変わりはないのね」
忘れるところだったわ。と、須田山は笑う。
まるで自嘲するような笑いだった。
一転して明るさを失った須田山を前に、私は動揺を隠せなかった。
「一つお願いしてもいいかしら」
なんと声をかければいいのか迷っていた私に、須田山はそう言った。
「手を繋いでいて欲しいの。今日だけでいいから」
謎の願いだったが、私は頷いた。そうすれば、須田山はありがとう、と笑って、先ほどまでの調子を取り戻したようだ。その時の私は、愚直にも安堵してしまった。
普段通りに振る舞う須田山に騙されず、絡めるように繋がれた指先の、その冷たさに気付くべきだったのだ。
もしあの日、私が気の効いた言葉を投げかけることが出来れば。
いや、もっと前から、須田山の抱えた想いに気付いていれば。
自分の気持ちに、嘘偽りなく生きることが出来ていれば。
もしかしたら未来は変わっていたのかもしれないと、後悔するばかりだった。
高校卒業を間近に控えた、真夜中のことだ。
眠っていた私は、人の気配で目を覚ます。
ベッドの傍らには、須田山が立っていた。
「静?」
「……ごめんなさい。起こしてしまったわね」
気にしないで、と首を振って、私は体を起こした。その時の私はまだ、寝起きだったのもあるが、状況を飲み込めていなかった。
須田山の顔を見て、私は自分の目を疑うこととなった。
須田山は、泣いていた。
初めて見る須田山の泣き顔。私はどうすればいいのか分からず、ただ驚くことしか出来ない。
「眠れないの」
一緒に寝させて。須田山はそう言った。
私は困惑しながらも、布団を捲った。ただ事ではないことは分かっていた。
須田山は布団の中に体を滑り込ませた。血が通っているとは思えないほど、しんと冷えきった体に更に驚きながらも、私は須田山と背中合わせになって再び横になる。
あまり泣き顔を見ない方がいいのではないかと思ったのだ。何が正解なのかが、分からない。いやそもそも、正解はあるのだろうか。
須田山は何も言わない。ぴくりとも動かない。
どれぐらいの時間が経ったのか、不明瞭になってきた頃、ようやく須田山は口を開いた。
「ねぇ、貴女は、私とキス出来る?」
心臓が握られたようだった。
須田山はどうして当然そんなことを言い始めたのだろうか。
嘘でも、出来ると言おうかと思った。
ああ、でも、そうすればきっと、須田山は私の嘘に気付く。いつもそうだった。私は、須田山の前で嘘を吐くことが出来なかった。
「私と、君とじゃ……するべきじゃないって、そう思うよ」
「……なら、言い方を変えるわ。私とキスしたいって、そう思う?」
一回だけでいいの。
私は、何も答えることが出来なかった。
決して、肯定の沈黙ではなかった。ただ、言葉が詰まってしまって、どうするべきか迷ってしまって、黙ることしか出来なかったのだ。
鉛のように重い静寂が、部屋に充ちている。
「ごめんなさい」
須田山は一言呟いた。私も、ごめんと謝って、それが最期だった。
翌日、須田山は寮の風呂場で死体となっているところを発見された。
手首を切ったらしい。失血で、元々白かった肌が更に白くなっていたと噂で聞いた。
赤い血は白い肌にさぞ映えたことだろう。
須田山静は自殺だった。遺書は遺していなかったが、現場の状況からしてそうだと、警察は言っていた。
てっきり、質の悪い冗談だと思ったのに、肝心の須田山の姿が見えない。本当なのだと受け入れなければならないのに、現実味など欠片も無かった。
須田山静が死んだ?
私は友人として葬儀に呼ばれた。金持ちの家の娘だと言うのに、酷く小さな葬儀だった。
参列していたのは唯一の友人であった私と、須田山の母。そして、須田山の、婚約者だけだった。
父親や理事長である祖父の姿は、影も形も無い。
須田山の母も、婚約者も、泣きながら私に礼を言っていたが、何も聞こえなかった。
須田山に婚約者が居ることなど、今初めて知った。須田山は何も言わなかった。
須田山より四歳も年上の男は、人の良さそうな青年であった。極々普通の、平凡な。しかし、確かに家柄が良いのだろうと分かる青年。
卒業後、結婚することになっていたと語った。
あの須田山が、この男にどのように接していたのか、全く想像が出来なかった。
あまりにも唐突な須田山の死は……いや、本当に唐突だったのだろうか。
予兆は、あったはずだ。私が気が付かなかっただけだ。
須田山の死から数日経っても、私の頭はぼんやりと霧がかかったようだった。
須田山のことが分かった気でいた。だけど、本当は分かっていなかったから、だから須田山は死んだんだ。
私と貴女の違いを上げるなら、自分に嘘をついているかいないか、それだけ。
私は自分の意志を殺したりしない。最後まで、嫌な物は嫌だと言い続けるわ。
かつて須田山はそう言った。もしかしたら、この結果は、須田山が自分に正直に生きた結果なのかもしれない。
須田山を殺したのは、誰だ。
社会か?家族か?婚約者か?それとも、私か。
ねぇ、貴女は、私とキス出来る?
あの問いに頷いていれば、須田山は死ななかったのかもしれない。そうなると、須田山を殺したのは、私だった。
私は、どうしたかったのだろうか。
須田山の最期の問いに答えることが出来なかったのは、一体、何故なのだろうか。
寮の自室、そこにある姿見を前にする。
鏡には私が映っているはずだ。そのはずだ。なのに顔が分からない。もやがかかって見えないのだ。
須田山が目をかけたのが、私じゃなければ。
傀儡のような私でなければ、須田山は。
一人になってしまった部屋に、私は立ち尽くす。須田山の私物はまだ残っていた。大量に積まれた本も、そのまま。
窓台で、ヒトリシズカが揺れている。
私はふらふらとその鉢植えに近付いた。
須田山はかつて、この鉢植えを不自由だと言っていた。この中から出られることはないと。
須田山は、ヒトリシズカに、誰の面影を見ていたのだろうか。
須田山静という女の話
青春群像劇・心理サスペンス
"仮面を被った優等生と、孤高の天才。交錯する二人の少女の魂が、悲劇の果てに問いかける「真実の生」。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。