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ガーディアン・オブ・サキュバス

64,035 字

ダークファンタジー・バディコメディ

"孤独な守護者と能天気なサキュバスが織りなす、甘く危険な異種族バディファンタジー。"

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怪物たちを薙ぎ倒し、ようやくたどりついたダンジョンの最奥。壁中から溶岩が流れ込む中心に、その怪物は鎮座していた。
「やっと見つけた・・・・龍神!!」
 私――ラピ=レッドガーデンは大声を張り上げる。血に濡れた兜と鎧、積み上げられた人骨を踏み砕いて、怪物がこちらを向いた。
 びっしりと生え揃う爪牙はまるで剣。バサリと広げられた大翼は挑戦者を吞み込むようで、二対の紅い目は心臓の鼓動まで見通しそう。
怪物の名は龍神。A級に指定されているモンスターで、なぜか初心者専用のこのダンジョンに出現した。A級となれば人の手には負えないけど。そんな怪物を処理するため、私たち守護者(ガーディアン)がいるんだ。人の皮を被った人外。この体には、魔族の力が宿る。
 私は昂ぶる鼓動を抑え、鞘から剣を抜いた。細く息を吐き、頭の中を整理する。
 やることはめちゃくちゃシンプルだ。目の前の怪物を殺して、ギルドからの要請をクリアする。そして私の性能をレッドガーデンの長――つまり私の父に証明して、新しい一族の長になるんだ。カビの生えそうな古臭い価値観に、ドデカい風穴を空けてやる。
 まだ武者震いは止まらないけど、この日のために今までがあったんだ。恐怖に支配された方が、先に殺される。
 殺るか、殺られるかの一発勝負――私なら、できる!!
「ウガァァァァァァ!!!!」
 龍神がアギトを開き、咆哮をまき散らす。それをゴング代わりに、私は駆けだした。体に流れる吸血鬼の血が、私に力を与える。二歩、三歩と地面を弾けば長剣の間合い。ノロマな龍神は、その圧倒的な速さについていけない。
「まずは、先手!!」
 一撃。龍神に斬撃を加えれば、灰茶色の巨躯に一筋の赤い血が流れた。私はすぐに距離を取る。傷の深さは関係ない。血が流れるのなら生物だ。ヒット&アウェーを徹底すれば必ず殺せる。
 勇者のような派手な一撃はいらない。冷静かつ着実に怪物を処理する。それが守護者の戦い方。
 私は龍神の背後に回り込んだ。次に狙うのはその立派な尻尾だ。あれをぶった切れば、体のバランスが崩れてさらに有利になる。私は再び近づいて、コンパクトに長剣を振るった。
「ガアァッ!?」
 龍神がびくりと体を震わせ、尻尾が跳ね上がる。冷静に、もう一回距離を取ろうとするが。
「なっ!?」
 ようやく私を外敵と認めたのか、龍神が急に動きを早めた。血を垂らした尻尾をそのままに、くるりと反転すれば、私は正面から見下ろされる形になる。
 鋭い眼光に、自分の何倍もある巨体。主導権を握っているのは私なのに、体が凍りついたように動かない。
「しっかりしろラピ! 私は、レッドガーデン一の天才でしょ!?」
 叱咤するように呟き、緩んだ手に力を込めた。取り直してもう一度、敵の間合いに踏み入ろうとする。しかしその動きを予知した龍神が拳を振るった。巨石のような塊が、猛烈な速度で迫る。
 避けきれない。私は顔面でその塊を受け止めた。弾き飛ばされた体は岩壁にぶち当たって、ずり落ちて……重い痛みが骨にまで響く。折れた気もするけど。
 まだ、こんなんじゃ……!!
 剣を杖にして立ち上がる。右足は潰れていたけどこのぐらい、守護者の力が勝手に再生してくれる。
 それまで一旦、時間を稼がないと。そう思い、残った左足でなんとかしようとするが。龍神からは逃げられない。開いた口の奥から湧き出た炎は溶岩よりも赤く、あっという間に周囲の地面を埋め尽くす。
「やばっ!!」
 悠長に再生なんか待っていたら、黒焦げにされる! 残った左足を唯一の支えに、私はすぐ逃げようとするが。うかつだった。地面を蹴り、浮いた私を龍神の尻尾がしたたかに叩き落とす。何度も地面をバウンドした私は、潰れたカエルみたいにうずくまることしかできない。
 もはや死体も同然。見下ろす龍神は、まるでごちそうを前にしたかのように悠然とアギトを開いた。
 吐き出された炎はゆっくりと私の方に近づいてきて。飲み込まれるのは時間の問題だった。
 ――まだ、なにも成し遂げていないのに。
 ――これじゃ、なにも意味がないのに。
 それなのに、こんなところで死ねるわけないじゃん!!
 激痛にコーティングされた体をそれでも動かし、ポッケから取り出したのは小さな石。ダンジョンに潜る前、闇市で買った転送石だ。石には魔法が組み込まれていて、念じれば素人の私でも転送魔法が使えるらしい。怪しいけど、一日分の食費を犠牲にしたんだ。パチモンなわけがない。
「どこでもいいから、私をここから連れ出して!!!」
 そう言葉にした瞬間、手の中の石が青く光った。光はすぐに瀕死の私を包み込み、炎の海から守ってくれる。体も視界も全て光に包まれる。そこで意識は途切れた。

「あァァァァ!!! お腹へったァァァァァァ!!!」
 誰もいないダンジョンの入り口に、わたし――ミラシカ大声とお腹の音が響き渡る。初心者用のダンジョンって聞いたから、やって来たのに。周りにはなーにもない。人はもちろん、スライムの一匹も。わたし一人だけの貸し切り状態だ。
「そんなの、まったく嬉しくないけどね……はぁ、どっかにわたし好みの美少女、落ちてないかなぁ」
 落ちているわけないし、落ちていたら落ちてたでかなり怖い。生々しい分、下手なモンスターより嫌かも。
 けどもう、お腹を満たしてくれるならなんだっていい!
 モンスターと男の子以外ならなんでも! めちゃんこ可愛い女の子で、最初から私のことが大好きで甘やかしてくれて……欲を言えば、さっきのギルドの受付嬢さんみたいなクール系美人がいいっす! 
 なんて、アホみたいな妄想してみるけど。そんな都合のよすぎるイベント、こんなアホに起きるわけないっす。
 やっぱ、サキュバスで冒険者になることが無謀だったんだよ。わたしはガクリと肩を落としながら、トラウマまみれの過去を振り返る。これ、いつもはベッドとかで起きるやつなのにぃー!
 サキュバスは普通、いい歳になると人間の雄を眷属にして、そこから精力を吸っていくんだけど。わたしの場合、体がちょっと特殊でね。眷属にできる対象が、雄じゃなくて雌だったんだ。
 つまりは男の子じゃなくて、女の子が恋愛対象ってこと。それ自体はサキュバスの中でも普通のことで、百人いれば五人ぐらいの割合でいる。まれによくある的な? そんな感じの感覚だ。
 わたしも、それならまだよかったんだけどさ……そこに加えてわたしに与えられた条件は、誰が見ても美少女と言うであろう女の子からしか、精力を吸えないというもの。
 もー神様!! マジでなにやらかしてくれてんの!!
 おかげでわたしは故郷の里で異端扱い。めちゃんこ優しいパパとママは最後まで守ってくれたけど、わたしのせいで二人を傷つけたくなかった。だから里を出て、大陸のど真ん中に位置する自由都市、エリリアにやって来たんだ。一人で身を立てるため、ツラのいい女の子を眷属にするため、がんばってきたけど!
 魔族の一端であるサキュバスの、しかもガキンチョを雇ってくれるところは皆無で。ようやくゲットしたお仕事もとある事情で首になって。
 そうして行き着いたのが冒険者! 冒険者はいいぞー! 身分に学歴は不問! 犯罪者でもなれて(なれないです)、上手く行けばガッツリ稼げる! 億万長者になって、わたしをいじめた同級生を札束で叩くことも可能です!
 ……現場、なにも上手くいってないけどね?
 まだなーにも、モンスター倒してないけどね?
 と、とにかくなにが探そう! 精力は仕方ないにしても、胃袋の方もやばいし! ここだけの話、いま住んでいるホテルの料金も滞納してる。今日中にお金作らないと、雨風防ぐところもなくしちゃうわけで。貧乏でサキュバスで美少女の面食いなんてほぼ役満なのに、そこにホームレスなんか加えたくない! 
 なにか……なにか!
 目を皿にしながら、お金になりそうなものを探していると。
「ぐべぇぇぇぇ!!」
 次の瞬間、わたしの背中になにかがのしかかった。そのなにかにはずっしりとした重みがあって、わたしは下敷きになっちゃう。
 モ、モンスター!?!?
 ついに来た! 唯一の武器はギルドから渡された護身用のナイフだけ。最低限の武器だから、マジで頼りないけど。あっちから来たのなら、やるっきゃない! 戦わないとやられちゃうし、上手く倒せば今日の日銭もゲットできるかも!?
「まずは、どいてっ!!」
 反撃するためにくるりと、わたしはうつ伏せから仰向けになる。
「むちゅ」
 すると唇に柔らかい感触が走った。柔らかいクッションに包まれているような感覚が顔中に伝わって、ほわーっととろけたような感じになる。
「えっ……ええっ!?!?!?」
 わたしの背中に突撃をかましたのは、モンスターではなく人だった。
 たっぷり十秒間、ちっさな頭で目に映る情報を処理しようとするが。
 こんな人、知らないヨォ!? 本当にだれ!?
 とにかくわたしは、クッションの役割から抜け出すことにした。辺りには誰もいないけど、こんなとこ人に見られたら気まずい。謎の人物Xを近くの岩陰まで連れていくけど。
「か、かわいい……!」
 こ、こりゃあ絶世の美女ですわ。髪はわたしと同じく切り揃えられていて、先はワインレッドって言うのかな? 鮮やかな赤色に染められている。顔は小さくて、瞼は閉じられているけど、それでも凜々しい目つきはなんとなく分かった。戦闘服? 軍服? ちょっと変わった服装から覗く足とかはスラリと伸びて、筋肉もついている。
 あ、ちなみに胸はそれなりに大きいですよ(小声)。
「ちょっと神様、どうしちゃったんですか……?」
 さっきわたしが祈った通りのクール系美人。お腹痛いときしか祈ったことないのに。もしかた明日死ぬのかなぁ。
「え、てかこの人、怪我してるじゃん!!」
 登場シーンが強烈すぎていま気づいた。
 よく見れば体中キスだらけ……じゃなくてキズだらけ! 綺麗なお体しているのに実にもったいない……ん?
 なんか、右指の長さちがくない? 人差し指の方が長くて、中指が短いんだけど、よーく見てみるとだんだん長くなっていく。まるで切ったトカゲの尻尾が繋がるみたいに。
 や、やっぱモンスターなんじゃん! せっかく神様が召喚してくれたと思ったのに!
 それなら、やっぱ殺すしかない! 近くには女の子(?)と一緒に立派な剣が転がっている。たぶんあれはあの子の武器。目が覚めて使われたら、勝ち目なんか絶対ない。
 それにここで仕留めたらギルドから報奨金が出て、今日の食費を稼げるかもしれない! 生きるためなら、絶対やっちゃうべき!
 なんだけどさぁ……こんなに可愛い美少女だよ? ここで無くしたら、未来永劫、100%ぜーったいに出会えない。
 それにもしモンスターじゃなくて人だったら? わたしは犯罪者になって、ガチで人生終了。貧乏で面食いで、サキュバスで殺人犯のS級モンスターの誕生です。
 てなわけでどうするか……たっぷり三分ぐらい考えた結果。
「うし、持ち帰るか」
 この子、お持ち帰りしちゃいます。
 だって可愛いし、どタイプだし。この子に殺されるのなら、それはもうちょっと本望だし。
 とりあえず、傷の手当てだけはしてあげよう。わたしは謎の美少女を担いで、ダンジョンを後にした。

「どっひゃっー! やーっと終わったー!」
 あれからわたしのホテルに運び込み、最低限の手当てをしてあげて、ベッドに寝かせてあげて。いろいろやってた、真夜中になっちゃった。
 人を介抱するのって大変なんだね。ミラシカちゃん、もうヘトヘトです。今日は風呂キャン確定です。疲れ果てたわたしは、美少女が寝るベッドの横にはらりと崩れた。
「あーもう疲れたぁ! ご飯食べてないし、お腹すいたー! 三日ぐらいゴロゴロしたいー! 女の子の精力すいたいぃー!!」
 わたしが耳元で、欲望丸出しの弱音を吐いても謎の美少女は無反応。よく聞くとネコちゃんみたいなかわいい寝息しているから、死んではない。さっきまで体中にあった傷も、きれいさっぱり消えている。
「なんかよく分かんないけど、元気にはなってそう!」
 トカゲと人のハーフさんとか? 安物のポーションと包帯しか巻いてないのに、なんでこんなに治りが早いんだろう。
 ……うん、やっぱりよく分かんない! けど、回復は絶対してる!
 ふふっ、これも全部、天才的名医であるわたしのおかげ! この子にとってわたしは命の恩人だ。完璧すぎる手当てに、起きたらギャン泣きで感謝してくるはず!
 ――だからこれ、使っちゃってもいいよね!?
 わたしは一枚の紙をぎゅっと握る。紙はシワだらけで古びているけど、上から下までぎっしり文字が詰め込まれていて、結びにサキュバス独特の呪印が刻まれている。
 血の誓約書。自分と相手の血を使って、眷属の関係を結ぶめちゃんこ大事な契約書だ。誓約書の最後にはそれぞれのスペースがあって、そこに血を捧げれば眷属のできあがり。
 わたしには縁遠い物だから、ベッドの下に隠しちゃうおうと思っていたけど。
 ……これは、一世一代の大チャンスだ。ゴクリと、生唾が喉を滑り落ちる。
 美少女の服にはまだ血が残っている。これを使って、勝手に誓約書に血判を押しちゃえば、晴れてわたしも眷属持ち! それもこんなとびきり可愛い女の子で!
 据え膳食わぬはなんとかの恥って言うし、ここは一つ、やっちゃいますか。
 覚悟が変に揺るがない内に、わたしは美少女ちゃんの服から血を採取して、誓約書に押そうとするが。
 ………いや、いやいやいやいや!!
 やっぱりダメでしょ! いくらドタイプで命の恩人だったとしても、勝手に眷属にしちゃダメ! 法律とかいう人間のルールには詳しくないけど、絶対なにかしらのルール違反だし、こういうのって普通、もっと段階を踏んでからだよね!? ね!?
自己紹介に、楽しいおしゃべり、親密度を高めるデートを何回もして、ようやくゲットできるのが眷属だ。こんな不意打ちみたいな形、ぜったいありえない! 起きてからちゃんとお願いするべきだ!
 ……わたしの唇は、先に奪われちゃったけどね? この子にも悪気はなかったのは分かるけど、パーフェクトな不意打ちでわたしのファーストキスは奪われた。
 その熱も感触も、まだ唇に残っている。はじめては絶対、好きな人とって決めていたのに。
 思えばわたしは完全に被害者側だ。上から降ってきたときも、当たり所が悪かったら普通に死んでいた。
 それならこれも、その見返りってことにならないかなぁ……? わたしの眷属になる代わりに、起きたことはぜーんぶ水に流す! 上から下敷きにしたことも、ちゅーしたことも忘れてあげる。それなら対等な取引ってことに、なる……よねっ!!
 やっぱこんな美少女を前に我慢なんてできねぇ! 
「えいっ!!」
 わたしは勢いそのままに、美少女の血のついた指を誓約書に押し込んだ。わたしの血判はあらかじめ押してあるかれ、これで……!
「お、おぉ!!」
 血判が揃い、有効になった誓約書が淡く光る。誓約書は光に包まれてすぐに消えちゃったけれど、代わりに体へ呪印が刻まれた。服をずらして少女のお腹を見れば、わたしと同じ印。
 つ、ついにわたし、やったんだぁ!
 パパ、ママ、わたし成し遂げたよ。形はどうであれ、わたしにも眷属が持てた! 
強烈な満足感が疲れを覆い隠して、一気に肩の荷がおりる。
「それじゃあ、さっそくお邪魔しちゃおうかなっ!」
 眷属を持てたらやりたいことリスト。だいたい一万ぐらいあるその中で、いつも筆頭に来るのがこれだ!
「ほわぁぁ! 昨日と同じベッドなのに、いい匂いしゅりゅー!!」
 同じベッドでの睡眠! まさか実現する日が来るなんて!
 理想の女の子と出会えて、眷属にできて。やり方はグレーすぎて、脳天気さに定評のあるわたしでも、さすがに後が思いやれるけど。
 うん、そのときはそのとき考えよう! わたしはそのまま、幸せすぎる睡魔に身を委ねた。
 
 ここ、どこだ? 
 私はまだかったるさが残る体を起こす。最後に虎の子の転送石を使ったのは覚えているけど。
 カビ臭いベッドに、机とハンガーと鏡と、必要最低限の調度品。どこかの部屋? もしかして他人様の部屋に転送されたとか?
 目覚めからだんだんと意識が覚醒していき、周りの情報が目に入ってくる。
 ――そこで、ようやく私は気がついた。
 自分の隣で、静かに寝息を立てる謎の少女に。
「!?……!?!?!?!?」
 大声をのみこんだ自分をめちゃくちゃ褒めてやりたい。そのぐらいびっくりしたし、意味不明で、理解が追いつかない。
 常に冷静を心がけていた頭の回路がショートする。これは、やっぱりあれかな。私が勝手に、人様の寝床に転送してきた、とか?
 いや、それならこの手当ての説明がつかない。ベッド横にはポーションの空き瓶が転がっていて、腕には包帯が巻かれている。明らかに意図的な手当だ。
 ってことは、この人がやってくれたのかな。私は自分を落ち着かせるために一息つくと、さっきまで同衾していた少女をまじまじと見つめた。
 髪は私よりも少し短いぐらいのボブカットで、毛先は黒。それ以外の箇所は雪のようなホワイトに染まっている。一目見ただけで白と黒が印象に残りそうなシルエットだが、それは顔も例外じゃない。アーモンド形のまぶたを彩るのは派手派手しさ感じるほどの長いまつげで、その色は毛先と同じ漆黒。どちらかと言えば童顔寄りだと思うが、そのまつげのおかげで大人びた雰囲気も放っている。
 他にもチョーカーやネイルと、さらす素肌は真っ白なのに所々の黒が目立つ、不思議な少女だ。
「へへっー。わたしだけの眷属ぅ……ぜったいに、はなさなーい」
 ……ついでに変な夢も見ている。くすぐったいし変な気持ちになるから、胸を当ててこないでほしい!
 と、とにかく落ち着け私! ここは一旦離脱だ。手当てしてくれたこの子には悪いけど(なんで同衾していたのかは意味不明)、あまり長居するわけにはいかない。
 起こさないようにそーっと。抜き足差し足の要領で、毛布から足を抜く。床に足をつけば、後は時間をかけて進むだけだ。
 なぜかお腹丸出しの薄着だけど、今は服装にまでこだわっていられない。剣だけ持った私は、なんとかドアまでたどり着く。最後にちらりと、ベッドで眠る少女の方を見た。
 まだ、理解が追いつかないところはあるけど……どういう形であれ、助けてはくれたんだ。
 この恩は絶対に忘れない。いつかなにかおごってあげよう。そう思いながら、ドアに手をかけると。
「あれぇ……? わたしの抱き枕、どこ行っちゃったのぉ……?」
 私の不在に気づいた少女がのそりと体を起こす。ベッドか毛布がこぼれて、ついでに少女のパジャマもはだける。窓から忍び入る月光が、少女の豊満な肉体をまるでライトアップのように照らしだした。
 どういうわけか、私はその一連の流れに釘付けになった。変な趣味があるわけじゃない。別に他人の、それも同性の裸体なんてどうとも思わないはずなのに。
 なに、この感覚……! じんわりゆっくりと、胸が焼かれているみたいで。その感覚は全身に伝播する。耳たぶまで朱に染まっているのを、はっきりと自覚した。
「んにゃ? あれ? どっか、行っちゃうの?」
 少女は惜しげもなく裸体をさらしたまま、とてとてと私に向かってくる。いきなり現れた妙な感覚は、その度に強さを増していって。
「くっ……!!」
 自分の中に未知の感覚が芽生えるのが怖くて。目覚めて早々のわたしは、謎の部屋と謎の少女から逃げた。

 人類を救うはずだった勇者は五百年前、魔王と相討ちになってぽっくり死んでしまった。昔からのお伽話によると、三日三晩を越す死闘だったらしい。勇者は魔王に致命の一撃を加え、魔王は死の直前に配下の魔族を呼び寄せた。
 集ったのは五匹の魔族。魔王が命じたのはたった一つだけ。
 この力を、必ずや後世に引き継げと。魔王に絶対の忠誠を誓う五匹は迷うことなく、その死体を貪り食った。
 死体を腹に収め、力を宿した五匹は人類への侵攻を開始。人類・エルフ・ドワーフの秩序を担う三大種族は手を取り合い、戦い、五百とちょっと経った今日まで命を繋いでいる。
 しかしそれでも、大陸の南方は魔族に奪われてしまい、ドワーフとエルフは故郷を捨てることになってしまった。人類の勢力圏である北嶺諸国も領土が減退。狭く険しい北方の土地に、様々なしがらみを持った三種族が押し込まれる形になった。
 ここエリリアはそんなしがらみをなしと考え、種族間の結託を願い大陸中央に建設された都市だ。どの神を崇めようが自由。最低限の税を納めさえすれば、大抵の商売は許されていて、諸々の規制も緩い。東はエルフ、西はドワーフ、北は北嶺諸国に繋がっていて、種族間の交易地点として機能する。そして同時に、奪われた南方への前線基地としての役割も果していた。
 だから南に一攫千金を求める冒険者ギルドはもちろん、戦いを生業にする者たちへの設備は一通り揃っている。
 まぁ、要するにこれから一山当ててのし上がりたい人間にはぴったりな街ってわけ。
 そんなエリリアの朝は早い。まだ陽が昇らず、空は薄藍色なのに大通りの露店には明かりが灯っている。朝一番に出撃する冒険者に、ポーションやらを売りつける商人。火を起こして剣を打つ鍛冶屋もいれば、豪快に鍋と油を振って揚げ物を作る料理人もいる。
 エリリアの中央に続く大通りには、雑多な人と音で溢れていた。
 謎の美少女から逃げたわたしは、その大通りを進む。めちゃくちゃ寒いし、人の目が痛い。こんな裸同然な薄着でうろついているんだから、そりゃそうなんだけど。
 着替えはあの部屋だし、他の雑多な日用品も全部あそこだ。辛うじて剣と財布だけは持ってきたけど。
 なによりもまずは服! 着るもの確保しないと寒くて敵わないし、このままじゃ普通に露出狂!
 服屋……とにかく服屋。段々と増えてきた人ゴミに若干焦りながら、いい感じの服屋を探していると。
「お、おい! あれ……!!」
 群衆の中の一人。歩きながらコロッケを食べていたおっさんが、いきなり私の方を指さしてきた。釣られた周りの人たちがその指先を追うと、判で押したように顔を歪ませる。
 え、なに? そんなに私へん? 確かに裸みたいな格好だけど……まだ露出多めの領域でしょ。
「サ、サキュバスだ! サキュバスが出たぞ!!」
「は?」
 デカすぎるおっさんの一声に、大通りの全員が耳を傾ける。言われた当人の私も、耳を疑った。
 サキュバスって、え、あのサキュバス……? 人間の雄をたぶらかして、精力を吸い尽くす魔族の……?
 確か魔族の中でも最弱で、なかなか人前には姿を表わさない。特徴も雄から精力を吸うだけの雑魚。
そんな連中と守護者を間違えるとか、早朝から酔っ払いすぎでしょ
「おいあんた、その腹の紋章、なんなんだよ」
 しかしそんな私の思いとは裏腹に、騒ぎは大通りを伝播していく。ぐるりと私の周りを囲うように人垣が作られて、その中の一人、細身の男に腕をつかまれた。
 男は顔を赤くして、なにがなんでも離さないつもりだが、こんな枯れ枝みたいな腕、いつでも振りほどける。しかし人目が多いこの状況で注目は集めたくない。代わりにできる限り鋭い眼光で、ガンを飛ばしてやった。
「さっきからサキュバスって。こんな格好だからからかっているの?」
 ついでに声にもドスを効かすが、こんな格好じゃ形にならなそう。
「だからその腹の紋章! そりゃあサキュバスが体に刻むもんだろ。この街じゃ、タトゥーでも禁止されているぜ?」
 細身の男はまるで諭すように言ってくる。
 騙しているとか、からかっている感じはない。お腹の紋章……私は寒気が通り抜けるお腹に初めて目をやった。すると。
「は、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?」
 さっきの「は?」よりも何十倍のデカい大声。あまりの大きさに、腕を掴んでいた男もビクッとする。いや、驚きたいのはこっちだよ!
「こ……これって?」
 真っ黒で複雑な紋章。センスが独特すぎて、まったく見たことないそれが、まるで当たり前みたいに私のお腹に鎮座している。
 ……こんなもの、絶対なかったよね? 刺青とかタトゥーとか、彫ったことないし。
 状況が飲み込めず、思考は空回り。「なにこれ?」と側の男に聞いてみたが。
「そ、そんなの俺に聞かれたって分からねぇよ」
 そりゃそうだよね。さっきまで普通の一般人Aだったのに、事情を知っていたら逆にこわい。
「てか、これ……絶対あいつだ!!」
 考えるまでもない、ベッドで同衾していた謎の少女! こんなことをしでかした犯人はあいつしかいない! そういえば出るとき眷属とかなんだとか、言っていたし!
 今すぐ戻って、首根っこつかんで問いたださないと!!
「それで、やっぱりあんたはサキュバ――」
「いいから離して!!」
 私は必要最低限の力で男の腕を振り払った。男は転びそうになるが、なんとかたたらを踏むだけに留まる。怪我はさせてない。
 しかし私がそれらしい抵抗をしたことで、周りの群衆は一気に湧き上がった。これ幸いと、崩れた人垣を一直線に進もうとするが。
「止まれぇっ!!」
 遅かった。騒ぎを聞きつけた街の衛兵が、ガシャガシャと鎧を鳴らして集まってきている。なんか出撃していった冒険者たちも金魚のフンみたいに付いてきているし!
 あーもう! めんどくさい!!
 抵抗すればこの街にいられなくなる。そうなれば龍神を討伐することも一生できない。わたしは盛大なため息と舌打ちを漏らして、その場に膝を追った。

「それで、私をどうするつもり?」
 そして連行されたのは薄暗い牢獄。錆びた鉄格子が部屋を区切っていて、息をするたびに腐った臭いが肺を満たす。全体的に水気があるから、多分使わなくなった下水道の再利用だ。
「もちろん徹底的に調べ尽くすさ。守護者でありながら、サキュバスの印を持つ者なんて、珍しいからねぇ」
 私を担当する尋問官は蛇みたいな目をさらに歪めながら、控えめに微笑む。ひょろりと線は細くて、狡猾そうな顔つき。これまた、絵に描いたような尋問マニアが出てきた。
「だから何度も言っているけど、私はサキュバスじゃない。この紋章だって、なにがなんだか」
「ふぅん。じゃあ精力も吸ったことはないと?」
「とうぜん……異性の恋人すら、持ったことない」
 初対面の、こんなキモい男にプライベートを打ち明けるのは嫌だけど。こんなところで嘘を吐くわけにもいかなかった。
気が狂うような鍛錬の日々。他人を好きになって、そこから恋愛にうつつを抜かすなんて、許されるわけない。
「なるほどねぇ……君の事情はだいたい理解したよ。守護者というのも、その髪色を見れば嘘じゃなさそうだ」
 守護者は多くの場合、その体に特徴的な変化を表わす。レットガーデンの一族は髪の毛。私も一族の例に漏れず、毛先が赤色だ。この色は決して染めただけじゃ再現できない。
 それに気づくとは、こいつ、見た目はキモいけど案外物わかりがいいタイプ?
「それじゃあこの鎖、外してくれない? さっきから手首が絞まって痛いんだけど」
 磔みたいに私の手首を縛る鎖。それをじゃらじゃら鳴らしながら、目の前の男に懇願する。逃げるにしても、なにをするにしてもまずは両手を自由にしてやらないと。
「そういうわけにはいかないよ。なにせ君はあの守護者。万が一にでも暴れられたら、手のつけようがないからね」
「……そんなに、私たちが怖い?」
「ああ、怖いさ。だって君たちはあの魔族たちとそう大差ないじゃないか」
 さも当然かのように言い放つ男の言葉に、私はぐうの音もでない。
 レッドガーデンの力の源になっているのは、今から三百年前に討伐された吸血鬼、スカーレットだ。スカーレットは魔王の骸を口にした五大魔族であったが、ある一人の人間によって敗北。
 吸血鬼の王を殺したその人間は、スカーレットの骸を徹底的に調べ上げた。魔王がしでかしたように、強大な力を後世に残すため。その努力は功を成し、生み出されたのが私たちレッドガーデン。はじまりの守護者にして、名門中の名門。三百年も前から、混沌を相手に戦ってきているけど。
 その分、魔族の力を色濃く宿している一族でもあって、普通の人が怖がるのも無理はない。
 レッドガーデンに生まれた以上、孤独はつきものだ。
恋人も友人も、もういらない。
こんなのはとっくに慣れた。
「一応聞いておくんだけどさ、この街にはなんで来たの?」
 男は私に背を向けながら、なにかを取り出している。
「エリリアのギルドから龍神討伐の要請が出たから、それに応えただけ」
「君みたいな子供が? 僕もよく知らないけどさ、龍神ってかなり強いモンスターでしょ?」
「……木っ端役人のあんたには、関係ないでしょ」
「つれないなぁ。痛みを伴う尋問をするときは、なるべく相手のことを知るのが僕の流儀なのに」
 男が私に向き直る。握られていたのは、私の顔ぐらい大きい牛刀。真っ白な刃がギラリと獰猛な光を放つ。
 誰だよ、話が通るとか言ったやつ……根っからの異常者じゃん。
「守護者ってのは、どんな傷でもすぐに塞がるんだろう?」
 男が牛刀の刃を当てれば、それだけで皮膚が裂ける。赤い血がつーっと肌を伝い、小さな血溜まりを床につくった。
確かに傷はすぐに再生する。けれど痛みは普通の人間と同じくらいあるし、できれば負いたくないのが本音。
 なんだけど、それをこの男が知れば喜びそう。ムカつくから、痛いのを無視して無表情を保ってやった。
「おや? おかしいな。守護者は痛みにも鈍いのかい?」
「……」
 私は黙り込む。下手に言葉を吐いて、この異常者を助長させたくなかった。
「ふむ。黙りを決め込むかい。なら次は、その綺麗な足を切り落としてみようか」
 足を失えば、逃げられないからね、と。心底気持ち悪い笑みを浮かべた男の刃は、私の足を狙って。
 ――次の瞬間。
「えいっ!!」
 ゴンッ!! と鈍い音が男の背後で鳴った。脳天を一撃でぶち抜かれた男はそのままフラフラと。意識を失い地べたに倒れて。
「ギ、ギリギリセーフ、かな?」
 その後ろには、私を助けた張本人――私をサキュバスに作り変えた謎の少女が立っていた。震える手で、椅子を持っている。あれで男の不意を突いたのは一目瞭然。
「な、なんであんたがここにいるのよ……!?」
「そ、それはいろいろあって。一応あなたは、わたしの眷属だし。だいたいどこにいるか、分かるし」
 動揺したいのは私の方なのに。少女の目は泳ぎまくり。手もあたふたと動き回っている。
「と、とにかくなんでもいいから、ここから下ろして」
「わ、わかった!」
 少女は椅子を置き、私の鎖を解こうとする。こっちは身動き一つできない磔だから、少女との距離は間近になって。そうなるとやっぱり、妙な気分が胸を覆い尽くす。
 感じたことのない、胸が高鳴るような気分。
 ……こんなの、ありえないのに。私の体、どうなっちゃってんのよ。
 鎖は解かれ、体は自由になった。没収された剣と財布も、運良く回収できた。
「で、あんたには聞きたいことが山ほどあるんだけど」
「な、なんなりと。なんでも答えちゃうよ?」
「ならまずは静かにしてて」
 私は耳を澄ませる。こっちに向かってくる、何人かの足音。思った以上に、追っ手が来るのが速い。モタモタしていたら、囲まれる。
「ここから逃げるよ!!」
 不快感ともいえない妙な気分を味わいながら、私は少女の手を取った。
 そして見事に脱獄を果たした私は、すぐさま冒険者ギルドに駆け込んだ。さっきまで尋問にかけられていたのに、もうギルド? と思う人もいるかもしれないが、これも計略の一つ。
 守護者の中でも、レッドガーデンの名が持つ歴史は頭一つ抜けて長い。しっかりと証明さえすれば各方面に顔が効く。やろうと思えばそれなりの便宜を図ってもらえる。
 今回はその便宜にあやかったわけだ。おかげで私は無罪放免。サキュバスの疑いも、ただの子供のいたずらっていう体で片付けてもらった。
……絶賛家出中なのに、いざという時は家名に頼る。なんだか小狡い気もするけど、あのままお縄につくほうがばかばかしい。なにせ私は被害者だし。ここからは、取り調べの時間だ。
「ご、ごめんなさい! わたし、ダンジョンに潜っていたら瀕死のあなたを見つけて……それで持ち帰って看病していたら、つい眷属にしちゃったっていうか……」
 一緒にギルドに連行した少女――もといA級極悪犯罪者は困ったように眉をさげる。
「いやいやいや。なんで看病しただけで私がサキュバスになっているのよ。あんたの包帯、媚薬でも仕込んであるの」
「そ、そういうのもあるけど……」
 あるのかよ。すごいなサキュバス。人をたぶらかすことについては一流すぎる。
「ぜったい他になにかしたでしょ。ほら、私の目をちゃんと見て」
 さっきからずっとこうだ。オドオドオドオド。こっちはちゃんとコミュニケーション取りたいのに、目も合わせないで。なんか私が悪者みたいじゃん!
「いいから私になにをしたのか、ぜんぶ教えて。正直に言えば、お姉さん怒らないから」
「ほんとに?……いきなりブチ切れて滅多差しにとかしない?」
「どこのシリアルキラーと間違えているのよ……しないし、怒らないから。私を信じてみ」
「……えと、看病している最中にね、魔が差して結んじゃったの。血の誓約。乾いた血が服についていたから、それを使って、眷属にしちゃえ的な?」
「……で、私がこんな体になったと」
 コクリ、と少女はうなずき、スパーンと私の手刀が少女の頭蓋を捉える。骨の真芯を捉えた確かな手応え。「ぐえっ」と少女はうめき声をもらす。
「なにそれがっつり嘘ついてんじゃん! 看病だけって……ていうか血の誓約って……勝手にサキュバスにしたってこと?」
「うぅ……おこらないって言ったのにぃ……!」
「殴らないとは言ってないっ!!」
 ていうかよく手刀の一発で治めたよ私。ほんと、あとちょっと理性が欠けていたらナイフでぐちゃぐちゃにしていた。
「てか普通に犯罪でしょ。看病まではいいとして、他人の血で契約結ぶとか……そもそもサキュバスがこの街にいていいの!?」
「それは、そうだけど……!」
 少女は瞼に大粒の涙をためる。あと一押しでもすれば泣き出す直前。なのにその表情はどこか不服そうで。
「なにその目。言いたいことがあるなら、言ってみなさいよ」
「なぐったりおこったりしない?」
「しないから。今度は大人しく聞いてるから」
「……なぐってごめんなさいは?」
「あ゛?」
 なんで私がおめぇに謝らないといけねぇんだ!?
「ひぃぃ! ごめんなさいぃ!」
 私のガチ凄みに少女はびくっと震えるが、それでもおずおずと語り出す……未だに目が合わないのはもう放っておこう。
「い、いきなり降ってきたのはそっちじゃん……! わたしは普通に冒険者ライフを楽しんでいたのに。びっくりして死んじゃうかと思ったよ? 気づいたら体ぺちゃんこだもん」
「ってことはあれか。転送石を使ってワープしたのが、あんたの上ってこと?」
「転送石ってのは分からないけど、たぶんそう……ああそう! いま思い出したんだけど、わたしファーストキスも奪われてる!!」
「えっ……あんた、わたしの唇も奪っちゃっているの?」
 それはさすがに一線越えすぎでしょ!……私だって経験ないのに!!
「奪った、じゃなくて奪われた! わたしが盗まれた側ですぅー!!」
 ここだけは絶対譲らないと。少女は過去最大の声量で抗議する……そんなに大声出るなら、もう目合わせてよ。
「いや、ありえないでしょ。てか私、あんたのことそんなにタイプじゃないし」
「え゛っ、それは……ちょっとショックすぎるかも」
 私からしたらそっちの楽観思考の方がショックだけどね? 
なんで拾った少女が、勝手にあんたのこと好きになってるのよ。
「ていうかそもそもなんだけど。なんで私? サキュバスなら眷属は雄でしょ」
「そ、それはぁ……ゴニョゴニョな事情がありまして」
 真っ当な私の疑問を少女はわかりやすくごまかす。
「次ゴニョゴニョしたらビンタ百発」
「不暴力の誓約は!?」
「そんなふざけた誓約むすんでいません」
 ていうか被害者の私にはそこら辺だって知る権利あるでしょ。皆までは言わず、そういった意味を込めた眼光を飛ばせば、少女はペラペラ喋りだす。
「わ、わたしはちょっと特殊と言いますかぁ……ツラのいい女の子からしか、精力を吸えないといいますか……ゴニョゴニョ」
「右か左。最初はどっちのほっぺがいい?」
「だんぜんひだりっ!……じゃなくて、あーもうっ!!」
 なにを決心したのか、少女はバンッと机をたたく。周りの目が集まるからやめてほしいんだけど。
「わたしは! 顔のいい女の子からしか精力を吸えない面食いのサキュバスなのっ! だから故郷も追放されちゃったの! 友達もいない! 眷属もいないっ! 仕事もできない負け犬だよ! 文句あるかバカヤロー!!」
 なにかの拍子でスイッチが入った少女は、なぜか私に凄むが。
「それで、私の顔が好みだったからあんたの眷属にしたと?」
 私はいたって冷静だった。だってどんな事実をカミングアウトされたところで、私の被害者の地位は変わらないし。
「そ、そうだけど? なんか文句あるっ!?」
「別にないけど。一つだけ質問」
「な、なんでも聞けよオラァ!?」
「あんたを殺せば、血の誓約ってのはなくなるの?」
 シンプルでストレートな質問。私たちの間の空気は凍りつき、さっきまでオラついていた少女も一気に青ざめる。ヤンキータイムはもう終わり?
「え、えーと。ど、ど、どういうこと、かなぁー?」
「あんたを殺せば、血の誓約ってのはなくなるの?」
「ま、真顔で二度も言わないで! 怖くておしっこ漏らしちゃうからっ!!」
 いや、こちとら真剣なんですけど。
 サキュバスといえば最弱の魔族だし。別に守護者じゃなくても、数で囲っちゃえば誰でも倒せちゃう……こっちの都合で考えれば、ここで殺すのが一番なんだけど。
「なんてね。半分冗談だけど」
 少女の見た目は完全に人間の女の子。さすがの私も手にかけたくはない。
「へ、へへー。なーんだ。びっくりしちゃいやしたぜ姉御」
 ビビり散らした少女は口調がおかしくなる。
「もう一つ質問。私がどんな存在かは分かってる?」
「守護者、だよね。魔族は絶対殺す的な。さっき盗み聞きしちゃった」
「そう。そんな感じの人たち。ここであんたを殺すこともできるし、咎められない立場にいるの」
「殺すって……首ちょんぱとかは嫌だよ?」
「だから別に殺しはしないって。魔族だからって皆殺しにするのは、私の信条に合わないし……それにあんた、私の手当てしてくれたんでしょ? それには感謝してる」
「あれ? さっそくデレイベントきた?」
「すいませーん!! ここで一番大きい刃物って貸してもらえますかぁー!?」
 うん、やっぱりここでスッパリ殺っちゃお。この大罪人はここで処分しないと。それが世のため人のため私のため。あんまり気は進まないけど、包丁を貸してもらえないなら愛剣使っちゃおう。
「タンマタンマタンマ! 土下座でもなんでもするから剣抜かないで!!」
 少女はあたふたしながら、私の腕をがっちりつかむ……かなり近いんですけど。
「とにかく、感謝はしている。こうなったいきさつも理解した。つまりあんたは寂しくて、落ちこぼれみたいな人生から抜け出したくて、私をサキュバスにしたんでしょ?」
「そ、そうですけどぉ!?」
「だったら私もあんたを利用する。風の噂で聞いたんだけど、あんた冒険者なんでしょ?」
 ギルドに顔を出して便宜を図るとき、ついでに少女のこともいろいろ聞いてまわった。
すると驚くことに少女は冒険者。登録したのはついこないだで、まだ成り立ての新人らしいけど、ダンジョンに潜れるのなら十分。
「龍神は知っているでしょ? 今このギルドを悩ましているA級モンスター」
 龍神。その名を出した瞬間、ギルドに漂う空気がヒリついた。たむろしていた冒険家から送られる視線には、怒りに呆れ。言葉にこそならないが、ネガティブな感情がありありと内包されている。
「この街の冒険者じゃ、龍神に太刀打ちできない。だから私が龍神を倒さないといけないの。あんたはそれに協力して」
 龍神の脅威が去るまで、冒険者のダンジョン探索は禁止。レッドガーデンとして派遣された守護者は私一人だけだから、負けが越せばその分、冒険者の稼業に支障が出るし、家名にも傷がつく。
「な、なんで!? わざわざ挑まなくても、一生スライム狩っていればいいじゃん!」
「守護者がスライムなんかと戦っていたら職務怠慢! それに私は自分の実力を父親に証明したいの! 一刻も早くね!」
「まぶしっ! 上昇志向の塊すぎて私の目が眩んじゃうよ!」
 なーんにも見えないぜー! と少女はわざとらしく両手で目を覆う。
 ……ガチで殴りたい。こいつ、慣れてきたからってだんだん調子に乗ってきてない?
「あんた、名前は?」
「ミラシカ! そっちは?」
「ラピ。レッドガーデン=ラピ。これでも一応、守護者やってる」
 私たちの会話が一段落したタイミングで、ギルドの食堂から料理が運ばれてきた。お腹が減っていたからちょっと奮発。果物がついたサラダに、キツネ色のとろとろしたソースのかかる分厚いお肉が食欲をそそった。
「うわぁぁぁ……! はちゃめちゃ美味しそう……!」
 ナイフにフォークに臨戦準備は万端。私のおごりなのに、ミラシカは遠慮なんかしない。さっそく料理に手を伸ばそうとするが、私はその手を叩き落とした。
「はい、食べる前にこれ。乾杯ってのはわかる?」
 私は自分のグラスに運ばれたワインを注いで、ミラシカのにも注いでやった。安物のお酒だ。これからのことを考えたら、贅沢なんかしてられない。
「そのくらいは知っているけど……なんで?」
「あんただけ契約結ぶのは不公平でしょ。って言っても、こんなのあまり意味ないけど。ほら、グラス出して」
 ミラシカはお腹を鳴らしながら、言われた通りグラスを差し出す。私も早く食べたいのを我慢して、グラスを持った。カチンと、澄んだ音が私たちの間にそっと降りて。
「契約完了。これで今から私とあんたはパーティーね」
「パーティー……! それってつまり、仲間ってこと?」
「そうだけど……なに? 私じゃ不満?」
「ノーノー!! めちゃくちゃ最高! 眷属もゲットできて仲間もゲットとか最高だよベイビー!!」
 ああ、そりゃよかったねベイビー。と適当につぶやきながら、私はグラスを傾けた。
 これからのことが思いやれるワインの味は、そこまで美味しくなかった。

 ということで臨時のパーティーを結成した私たちは、食事もそこそこにギルドの掲示板に向かった。
 太陽が中天に届く昼下がり。報酬が弾むおいしい依頼は、もう他の冒険者に取られていて、残ったのは――
「迷子のネコ探しに、下水道のネズミ退治……それとゴブリンか」
 報酬が安い上に重労働な、ビギナー向きの依頼だけ。
「はいはいはい! わたしネコちゃん探し! ネコちゃん探しがしたいですっ! にゃー!!!」
「却下。そんなのやってる時間ないでしょ」
 この中でまだ骨があって、報酬もそれなりにある……この観点で探せば、ゴブリン退治一択だ。私は迷わず、ゴブリンの依頼紙を掲示板から引きちぎった。
「えぇー! ゴブリン退治ぃ~!?」
「私はともかく、あんたがいきなり龍神に行ったら即死でしょ。なにをするにしても、まずはあんたの性能をチェックしないと」
「せ、性能……? 人を癒やす能力になら自信あるけど?」
「癒やす、じゃなくてたぶらかすの間違いでしょ。変態犯罪者サキュバス」
「へ、変態じゃないし!」
「犯罪者なのは否定しないんかい」
 と、こんな感じで気の抜ける軽口を交わしながら、私は受領の手続きを済ます。依頼の完遂期限は今日一日だけ。
 決して多くない時間を割いて向かったのは、ギルドの隣に併設された鍛冶屋だ。ギルドが運営している施設で、最低限の装備をざっと揃えている。
 店の中に漂うのは鉄と灰のにおい。カウンターの奥からはリズム良く鉄を打つ音が聞こえて、なぜか客の私の身も絞まってしまう。
「おぉー! 武器屋さん! はじめて入った!」
 何も考えず、とてとてと私の後についてきたミラシカは感嘆の声を上げる。
「はじめてって。あんた腐っても冒険者じゃないの?」
「そうだけど、こういう所ってなんかあれじゃん、堅苦しいじゃん! だから今まで避けていたんだよね~」
「えっ……じゃあ今までその格好で、ダンジョンに潜っていたわけ?」
 嘘でしょ……?
 私はくるりと踵を返して今一度、下から上までミラシカの格好を見てやる。オーバーサイズのTシャツには嫌でも目を引く黒の紋章。それを際立たせるのは、体のあちこちにあるシルバーアクセサリーだ。ピヤスにネックレスにリング……地味にチョーカーもつけてるし。こいつ、本当に貧乏なの? 私には遊び慣れたギャルにしか見えないけど?
「ラ、ラピちゃん……?」
「まずはそのチャラついた物、一気に売っちゃうか」
 売ればいいお金になりそう。そろそろ柔らかいベッドで寝たいし、ポーションも買い揃えたい。上手くいけば、今日の夕飯ぐらいは奮発できるかも。
「こ、この子たちは売らないよっ!? 昔から私にお供してくれた、大切な戦友だし」
 ミラシカは庇うようにして、私に背を向ける。
「じゃ、あんたが装備のお金出すの? そんな格好じゃ、ろくに戦えないんだけど」
「金欠でも買える防具とかないのぉ……? 可愛くて、顔が隠れないで、おへそが出てるやつぅ」
「それじゃ今と変わらないじゃん。やっぱり露出狂なら露出にこだわりたい?」
「こ、これのどこが露出狂なの!? めちゃくちゃ健全じゃん!?」
「健全って意味を辞書で百回調べてくること。これ、明日までの宿題ね」
 とは言ったものの、最低限はなにかしら着せないと戦力にならない。肌身離さずアクセサリーを付けるとなると、ガチガチに鎧を着込めるわけじゃないし。
 どうしたものか。ロクに探さないミラシカに代わって、適当に武具屋をふらついていると。
「あんたの体格で考えたら、これとかどう?」
 ちょうどよく見つけてきたのは革鎧だ。モンスターですらない、鹿とか猪の皮をつぎはぎして作ったやつ。防御の面で言えば一番もろいけど、その分値段も一番チープ。
「これ、試しに着てみて」
 さっそく私は革鎧をミラシカに見せる……なんでサキュバスのコーディネートなんかしてるんだろ、私。
「おっ、なかなかオシャレなの来たねー……なんかこれ重くない?」
「いいから着てみ。買うにしても、まずはフィット感とか調整しないとだし」
「お、おっけー」
 私に促されるまま、ミラシカは革鎧に袖を通す。すると、その途端――。
「重っ!?」
 ミラシカは革鎧の重さに耐え切れなくて、その場に膝を折ってしまう。ゴキッ! と聞こえちゃいけない音がして、ミラシカは鉛の塊を背負わされたように、その場に釘付け。えぇ……。
「ひ、ひどいよラピちゃん! これ、重すぎて動けないし! てか冒険者の人たちって、みんなこんなの着て戦っているの!?」
「あんたが異常なだけで、それが普通。それだって一番軽いやつだし」
「ムリムリムリ!! もっと軽くないと動けないー! てかもう立てないー! 助けてラピお姉ちゃーん!!」
「店の中で騒がないで! 店員さんいやばい奴らだって思われるじゃん!」
 まったくもう!
 変態サキュバスの自称妹は放っておいて、私はモヤシでも使えそうな品の吟味に戻る。
そして目についたのは、店の角っこの棚に飾られていた武器だ。
「銃……? なにそれ?」
 興味の赴くままに、私はその武器を取る。奇妙なほど冷たい質感を持つ金属の塊は、ずっしりと手のひらに沈みこんで。持ち手みたいなところを握ると、しっかり五指で握ることができた。中心に組み込まれた円筒のパーツは飾り?
 てか、これって武器なの……? 鈍器にしたって、ユニークすぎるでしょ。
 作った職人のセンスを疑いつつ、私の興味ははじめて見る武器に釘付けだった。
 棚の側にあった説明書きを端から端までじっくり読んだけど、なにも分からない。
 仕方ないから、そこらへんにいた見習い小僧を呼び止めた。
 小僧によるとこの武器は銃と呼ぶらしい。なんでも西のドワーフたちが作り出した最新鋭の武器で、火薬を使って鉄の矢? みたいなのを飛ばすんだとか。非力な女性でも、練習を重ねれば扱えるようになるらしく、銃士(ガンナー)というスタイルの冒険者も巷では流行ってるらしい。私はまったく知らなかったけど。
「これなら、あいつでも使えるでしょ」
 こういう珍しさ全開の武器、あの馬鹿なら喜びそうだし。さっそく銃を片手に、ふてくされているミラシカの方にいく。
「うにゅ……そろそろわたしに合う防具は見つかった?」
「なんであんたがちょい上から目線なのよ……防具はまだだけど、いい感じの武器は見つかった」
「おぉ! さっすがラピちゃん! できる女はちがうねぇ! で、どんなの!?」
「こんなの」
 ゴトリ、と。私は持ってきた銃を床に直置きする。なんかこれ、変な威圧感あるな。
「ど、どういうの? これって?……ハンマー?」
 武器に明るくないミラシカも、さすがにこれには困惑顔。
「銃っていう武器だって。火薬で金属の矢みたいなのを飛ばす武器」
「それって強いんですかい? 姉御」
「さぁ? でも重さはあんたみたいなモヤシでも扱えそうだけど?」
 革鎧でダウンする奴に、まさか剣と槍が扱えるわけないし。
「モ、モヤシ言うな! ラピちゃんにはこのたわわなおっぱいが見えないの!? わたし、胸にだけは自信あるんだけど!?」
「たわわって言うな おっぱいって言うな!! そんな一気に近づけるな!!! 視界がゲテモノでつぶれる!!!!」
「おお! 見事な三重ツッコミ!!」
 いや、四重かとしょうもないセルフツッコミを展開しながら、ミラシカは銃を握る。そこからしばらく、赤ちゃんが初めてのおもちゃで遊ぶみたいに感触を確かめる。
「で、どう? 使いこなせそう?」
「うーん、重さは平気かなぁ。肉付きがよくてハイパーグラマー、決してモヤシじゃないけど、胸が大きすぎるあまり腕力がないわたしでも振り回せそう」
「要するにデブでも使えるってこと?」
「言い方ぁ!?――およ?」
 銃の持ち手に繋がるバネみたいなところ。叫んだ拍子にミラシカがそこを引くと、カチリ。銃全体が噛み合ったような音がした。
「おぉ……! なんかでそう! なんかでそう!!」
「二回も言わんでよろし」
 小僧の説明によると、私が選んだ銃はリボルバーというタイプらしい。中央の円筒はシリンダーというパーツで、そこに弾丸を。後ろのハンマーという部品を倒して、持ち手の引き金を握るように引けば、弾丸が飛んでいく。だから極論、使うには弾丸を込めて銃を相手に向けるだけでいい。モヤシミラシカも、さすがに引き金は引けるだろうし。前に出て切った貼ったする私からしても、飛び道具の援護はありがたい……間違って私を撃たなきゃいいけど。
「ラピちゃん! わたし、これ欲しい!!」
 銃を気に入ったミラシカは、目を爛々と輝かせて私に言う。
「……あ、そう」
 『これ欲しい!』の言葉の裏にある思惑を察した私は、そっと目をそらす。
「えぇ!? なんかいきなりテンション低くなってない!?」
「だってそんなに熱烈に欲しいって言われたって、お金出すのはそっちだし」
 なんかさも当然! みたいなノリで奢らせようとしてくるけど!
「えっ……わたしお金もってない」
「そんなの、私の知ったこっちゃないんだけど?」
「今日の晩ごはんも切り詰めないといけないくらい、ギリギリなんだよ? 絶賛ひもじいんだよ?」
「自業自得って言葉の意味、知ってる?」
 てかご飯ならさっき食べたし。そうじゃなくても、ネコ探しとかドブさらいとか。体さえ動かせば稼げる仕事はけっこうあるじゃん。やっぱ自業自得じゃん。
「うぅ……少しでもラピちゃんの助けになりたかったのに……やっぱりわたしじゃ、ダメなのかなぁ……ていうかラピちゃん、わたしのこと捨てようとしてない!?」
 そう叫ぶミラシカは、腕を目一杯に広げていきなり飛びかかってくる。私とミラシカの間じゃ、頭一つ分くらい身長がちがうから押し倒されはしなかったけど。
「ちょ、ちょっと! そんなに密着しないで!……その、いろいろと無理なんだけど!」
 サキュバスのミラシカが近づけばその分、私の中に巣食う変な気分は助長されるわけで。ピッタリとミラシカと肌を合わせた今、気分のボルテージは最高潮に達していた。本当になんも意識してないのに、顔が嘘みたいに熱い!
「へっへーん。やーっぱりね。さっきからすまし顔だったからおかしいと思ってたんだ~」
「あんた、わたしに、なにして――ひぃっ!?」
 私の腰に食らいついミラシカは腕を後ろに回す。
 ――逃げられない!
 あんだけダラダラ駄々こねていたくせに、その動きは素早く滑らかで。為す術もなく、私の体はミラシカに絡み取られる。
「は、離して……! お願いだからっ……!」
「えぇ~? やめちゃっていいのぉ~?」
 直接押し付けられる柔らかい胸に、脳を揺さぶる甘い香り。耳元で囁かれる言葉は高鳴る心臓をわしづかみにして、文字通り骨抜きにされていく。
 ――これが、サキュバス……! こんなの、逆らえるわけない……!!
「わたしはね、どーしても銃がほしいの。これはワガママとかじゃなくて、わたしがラピちゃんを助けるため。いい?」
 ゆっくりと、染み込ませるように囁かれる言葉。眷属に墜ちた私は、首肯することしかできない。
「でもね、困ったことにお金がないの。もーお財布の中はスッカラカン。ひっくり返してもなーんも出てこない無一文だから……後は分かるよね?」
「か、買う……! 買うから、もう……勘弁、して……!」
 どうやら私の財布はサキュバスに握られているらしい。

幕間①
 名門を率いる父から、天才として見込まれた私に自由なんてなかった。
 課された使命は、レッドガーデンの天才として魔族を鏖殺すること。
 毎日が過酷な鍛錬の日々。体にあざを作っても、骨が折れても、内臓が破裂しても剣槍を手放すことは許されない。ありとあらゆる傷は、時間さえ置けばレッドガーデンの血が治してしまうから。
 だからどうやっても血の匂いは抜けないし、この地獄からは逃げられない。幼い時分にそれを悟った私は、一つの技術を身につけた。
 感情を頭の中から締め出す。
 喜び、怒り、悲しみ。
 恐怖、驚愕、嫌悪。
 人を人たらしめる感情の一切を捨て、父の操り人形として、魔族を殺す虐殺機械として生きることを決めた。
 そうやって一度地獄を受け入れた私の体は、乾いたスポンジが水を吸収するように、次々と敵との戦い方を吸収していった。残されたのは、武器として必要な感覚だけ。
 それだけでよかった。それだけを研ぎ澄ませてさえいれば、周りが祝福してくれたし、父の期待にも応えられていたから。
 ――あの子に出会ったのは、そんな日々を過ごしていた時だった。
 月が雲の隙間から光を差し入れる夜半、使用人が私を起こす。
 こんな時間に、何の用があるのか。
 さすがに不振に思いながら、最低限の身なりを整えて父の書斎に向かう。もちろん、いざという時の短刀も腰に忍ばせて。
「入れ」
 躾けられた通り、三度ノックすればオーク材のドアの向こうから父の声が返ってきた。
 どれだけ感情を殺しても、この声への恐怖は拭えない。背筋を伸ばして、もう一度固唾を飲み込んでドアを開ける。
「何用でしょうか?」
 左右には天井の際まで本棚が組み込まれ、真正面にはレッドガーデンの旗が誇らしげに掲げられる。私を呼び出した張本人は、その旗を背負うようにデスクへ腰を下ろしていた。
「貴様に土産だ。前回の遠征で拾ったはいいが、これといって使い道がなくてな。くれてやる」
 白が混じる赤髪を短く刈り上げ、壮年を越えても痩せることを知らない体軀。引き締まった顔から放たれる低い声は、それ自体が鉛の塊のように耳奥に沈み込む。
 ――土産……この人が、まさか私に? 前代未聞すぎて、頭の中で上手く処理できない。
「それは……ありがとうございます。ですがそれなら、直接部屋に送っていただいても、よろしかったのですが」
「土産が直接、お前と話したいと言うのでな」
 土産が、私と話したい……?
 真面目な顔つきで嘘みたいなことを語る父に、さすがの私も首を傾げていると。
「おねえちゃんっ!!」
 急な衝撃が腰にぶち当たった。完全に油断していた方向。ほぼ反射でそっちを振り返るが。
 誰もいない。無人の空間に居残るのは、花畑にいるような甘ったるい香り。けれど腰の違和感は消えなくて、本能で抜いた短剣を振り下ろそうとしたが。腰に絡みつく異物を見た私は、寸前のところで手を止めた。
「おねえちゃんっ!!」
 緩くウェーブのかかった銀髪をダラリと垂らし、こちらを見上げる顔は童顔。とろんと目尻が下がった双眸は緩い視線を私に向けていて、場違いなほどに放たれる柔らかい雰囲気は、短剣を振り下ろすのを嫌でも躊躇させる。
「お父さん……まさかこれが、お土産ですか?」
 明らかに困惑する私。それに比べて父は、日常の些末な業務の一部のような淡々とした態度を崩さない。
「そうだ。魔族に滅ぼされた村の生き残りでな、家族は皆殺し。そのショックで記憶と、言葉を使う力が欠けている」
「おねえちゃんっ!!」
「……それだけは喋れるらしいがな」
「……私にこの子をどうしろと? 正直、意味が分からないのですが」
 父に抗議することはほとんどない。というかこれが初めてかもしれないが、それぐらい現状を理解できていなかった。
「その娘を貴様にやる。今日から妹として面倒を見ろ」
「……それは、命令ですか?」
 ただでさえやることは山積みなのに。
 それに加えて、さっきまで赤の他人だった娘の面倒?
 不可能と思う強大な敵にも、向かっていくのが守護者だけど。さすがにこれは範囲の外すぎる。
「命令だ。二度も言わせるな」
「……分かりました」
 族長の命令には絶対に服従。それがレッドガーデンを支配している鉄の掟だ。私なんかが逆らえるわけない。
 大丈夫、どんな理不尽にもこれまで感情を殺して耐えてきた。細かいことなら、使用人に聞けばいいだろうし。
 ポイントを理解し、実行に移し、何度も繰り返して練度をあげる。たったそれだけだ。感情なんて必要ない。
 ――そのはずなのに。
「おねえちゃんっ!!」
 壊れたおもちゃみたいに笑顔を咲かせるこの子を前にすると、胸にノイズのようなものが走って……なんとなく、居心地が悪かった。

 そしてエリリアの街を出てから半日。揺れる馬車にお尻を犠牲にして、ようやく到着したのは郊外の遺跡群だった。
 中央には劇場のような円形の建物が鎮座し、その周りを白亜の柱と朽ちかけた建物の遺構が囲む。普通に見れば、観光地にもなりそうな綺麗なところだけど。
 つんと鼻をつくのは屍臭。本来なら輝きを放つ白亜の柱には乾いた血がこびりつき、木杭に貫き通された骸骨は、ゴブリンたちの存在をはっきりと誇示する。
「ここを根城にしているゴブリンの討伐が三十匹だから……半分こで一人十五匹がノルマ」
 私はどんぶり勘定を口にしながら、目的地の遺跡群に足を進める。
 もちろん、ゴブリンだからって油断はしてないけど。それでも普通にやれば一日で終わる漁だ。私のリハビリにも、ミラシカの性能チェックにもぴったり。
「じゃ、打ち合わせ通り私が前に出るから、あんたは後ろから援護して。それが基本の形だから……ミラシカ?」
 私はふと、黙ってついてくる相棒に振り返った。
 なんか、さっきから私ばっか話してない? 
 いや、別にお喋りがしたいわけじゃないけど。こうもいきなり黙られると、何か企んでいるようで落ち着かない。
「えっ……なに?」
 私の声が届いた瞬間、ミラシカははっと顔をあげる。銃と一緒に買ってやったゴーグルの、レンズの向こうの瞳が揺れている。
「さっきから無言ばっかりだから。もしかして緊張してる?」
「ま、まぁね。はじめての実戦だし」
「ゴブリンならそこまで強くないよ。囲まれるのに注意さえすれば、誰でも倒せる」
「でも、殺されちゃう人もいるんだよね?」
「まぁ、たまには。ほとんどが初心者の慢心から来る油断だけど」
 ゴブリンなんて、サキュバスに並ぶくらい雑魚なのに、そこにプラスして今回は現役の守護者がついてくるんだ。そんなに怖がらなくてもいいのに。
「で、でもでも! わたし射撃めちゃ下手だったんだよ? 十発中五発だけって、これじゃ絶対に使い物にならないよ!!」
 銃を買った後にやった射撃練習の話だ。適当な空き缶を的にして、交代で適当に撃ちまくった。
「私より命中してたし……現役の守護者に勝ってるんだから、もうちょっと自信持ってもいいと思うけど?」
 ちなみに私は十発中、命中したのは二発だけ。ストレートにミラシカに負けてしまっている。悔しい。
「そ、それはありがとうだけど……やっぱり怖いものは怖いよぉ」
 なにそれ……さっきまで『もしかしてわたし天才!? もうゴブリンなんかすっ飛ばして、一気に龍神カチコンじゃおうよ!!』とか言ってたくせに。私にも勝ったくせに!!
「そんなメンタルで援護されても困るんだけど」
 私も含めて、ミラシカの射撃は決して上手くないし、そこに実戦の混乱と緊張が加わったら……戦力としては当然ノーカウント。銃に払ったお金も無駄になる。
 はぁ……ここは一つ、私が動くしかないか。
「ん、手だして」
「ふぇ……?」
 私は早口で言って、ミラシカが手を出す前にその手を包み込んだ。
 誰かの緊張をほぐすやり方なんて、これしか知らないから。だからこれはしょうがなくだ、しょうがなく。
「………ラピちゃん?」
 ミラシカの戸惑いにまみれた声。埋め込まれた淫らな心が、胸の奥から突き上げてくる。
 しかしこうして手を握って慰めていると、私にも妹ができたみたいで。心地よい感情が胸を満たす。
 その反面、嫌悪にまみれた記憶も顔を覗かせるけど。
 ――妹。そのワードを意識するだけで、泥のような感情が足から頭の先までも満たす。
「私も、あんたと同じだから。初めて武器を握ったときは緊張したし、龍神に挑んだときもそう。いきなりA級のモンスターだったから、怖すぎて何度も帰ろうかと思った」
 いつものそれとはちがう、若干の湿度を帯びた声色に受け取ったミラシカもわずかな間を置く。
「……へへっ、なのに立ち向かえるなんて、ラピちゃんはすごいね。私なんて、ゴブリン相手で震えているのに……こんなビビりで頼りないから、眷属もできないんだよ」
「だから怖いのは私も同じだって。実戦経験だけで言えば、あんたとそう変わらないし……私が戦えているのは、どうしても守りたい人がいたから」
「どうしても、守りたい人?」
 まっすぐ前を見続ける視界の端に、こてんと首を傾げるミラシカが映る。
「そ。あんたにとっての眷属みたいなもの。てか眷属がいないなんて嘘……今は私がそうでしょ?」
 なんか、こういうのを自分の口から言うのは屈服しているみたいで嫌なんだけど。胸の中に燻る気持ちは、なぜか口を軽くさせて。
「え、えへへへへへっ! そ、そうだね! 今はラピちゃんが私の眷属で大親友だった!」
「大親友までになったつもりはないんだけど?」
「えっ、そうなんだ……落ち込んだからわたし、帰って引きこもっていてもいい?」
「そんな簡単に帰してはくれない感じだけど?」
 あまりにも緩すぎて忘れそうになったけど、ここには戦いに来たんだ。
 ……遊びの時間はおわり。私はミラシカと繋いだ手を離した。
 それから深く息を吸い、吐く。戦闘において不必要なモノを一息で追い出して、頭の中を切り替えた。側にいたミラシカも、ゴクリと固唾を飲み込んでホルスターから銃を抜く。
 そして中央のドーム型の建物に到着した私たちは、太い柱の裏に身を滑り込ませる。
 気配を殺して、ドームの方を覗けば。
 ――いた。
 劇場の中央に緑の禿頭が五匹。わらわらと集まっていて、略奪してきた酒と肉をかっ喰らっている。
 下品な高笑いがこっちまで届いて宴もたけなわ。完全に油断している。叩くなら、今だ。
「さっき教えた戦うときの三箇条。はいせーの」
 獲物から目を離さず、ミラシカに最後の確認をする。
「ゆ、ゆっくり、慌てず、ヤバいと思ったらすぐ逃げる! だよね!?」
「上出来。特に三つ目は絶対に守ること。私を置いて、逃げてもいいから」
「眷属おいて逃げるとかそんなサキュバス、ゴブリン以下なんだけど!?」
 二つともそんなに変わらないでしょ。とそんな憎まれ口が思いついたが、今は口を閉じておく。代わりに鞘から剣を抜いた。
「じゃ、そういうことで」
 私は柱の陰から出て、鋭く大理石の床を蹴る。風を肌で感じて、ゴブリンたちが埋める劇場の真ん中に踊り出た。
「ガァッ!?」
 突然の闖入者にゴブリンは明らかに動揺して。床に転がる棍棒に手が伸びる前、私は目の前の一匹の鼻梁に剣を叩きこんだ。
 刃が緑色の皮膚を裂き、骨を砕き血潮をまき散らす。人間のそれとはちがう、ドブのような黒ずんだ血が隣のゴブリンの頬を濡らす。
「ギ――ギヤァァァァァァ!!」
 自分たちは奇襲されてる。それにようやく気づいたゴブリンたちは同胞の骸を踏み越え、各々の得物を手にしようとするが。
「遅い」
 レッドガーデンの守護者にその隙は致命的だ。並んだ二匹の喉仏を横一文字に薙ぎ払う。事切れた二匹の双眸に映るのは、血に濡れる私。
 バカみたいに盛大な宴を開いていたのは五匹だから、残りは――
「あたれっ!」
 私が残党に飛びかかる前に、後ろからミラシカの大声が飛ぶ。すると一瞬の間も置かずに轟音と銃火が走って、敵の膝を撃ち抜いた。体勢を大きく崩したゴブリンがその場に膝を折って。
「ナイス――」
 私はすかさずその一匹に向かって跳躍する。これでもかと背をのけぞらせて、大きく長剣を振りかぶって。
「ショット!!!」
 緑色の禿頭の頂(いただき)に剣を叩き込む。手のひらに脳みそを貫いた確かな広がって、ドブ色の血飛沫が噴水のように噴きあがる。
 突如として訪れた惨劇に、広場でたむろしていた最後の一匹は尻尾を巻いて逃げようとするが。
「逃がさないっ!!」
 援護役のミラシカがそれを見逃さない。放たれた銃弾はゴブリンの背中を射貫き、ゴブリンはばたりと倒れる。
 そうして訪れたのは、さっきまでの喧噪が嘘みたいな静寂と、荒いミラシカの息遣いだけ。
「や、やったぁ……! なんとか当たったよ……!」
 ヘナヘナと力が抜けるミラシカは、その場に膝を折る。ぐるりと周りを見回しても、敵は1匹もいない。
「ナイス援護。やればできるじゃん」
 手を添えたミラシカの肩は、なおも荒く上下を繰り返す。
「ま、まぁね。わたしだって本気を出しちゃえばこんなもんよ!……で、この足の震えっていつとまるやつ?」
 強気な言葉とは裏腹に、ミラシカの細すぎる足は壊れたゼンマイ仕掛けみたいに細かく震えている。
「私だって、休ませたいのは山々なんだけどさ」
 顔をあげれば広場の向こう、柱の陰から私たちを狙う卑しい視線。まさか守護者がその視線に気づかないわけない。
 不意を突くつもりで放たれた矢を、私は背中越しにキャッチする。右と左の柱に弓兵が3匹。
「なるべく早くリロードして。まだ戦いは終わってないから」
「ラ、ラジャー! 弾、足りるかな?」
「無駄撃ちはしないように。別に速くなくてもいいから、ゆっくりと冷静に」
「ま、任せて! 次こそは頭、木っ端微塵にしてやるから!」
 頼もしすぎる言葉を背中で受け取った私は広場の中央に戻る。セコンドはミラシカで、ゴングは彼女の銃声。
 柱の陰から顔をのぞかせたゴブリンの右顔が銃弾に弾かれる。弓とは比べものにならない飛び道具に、ゴブリンの第二陣は出鼻をくじかれて。
「ラピちゃん! 今のうちに!!」
 機先を制したミラシカが声を飛ばす。言われるまでもない。大理石の床が弾け飛ぶほど強く蹴り込み、群れの中に踏み入る。
 油断を突いた奇襲ではない分、ゴブリンたちも負けじと得物を振り回すが、所詮は児戯にすぎない。
 振り下ろされる棍棒や錆びた剣を躱し、私はドブ色の血を浴び続ける。後ろのミラシカもただ見ているだけでなく、的確な射撃の援護を欠かさない。
 一方的なワンサイドゲーム。このまま何事も起きず十五匹のノルマはすぐに終わる。
 そう思っていたのに。
「きゃぁっ!!」
 ゴブリンたちの悲鳴を割って、ミラシカの声が耳に届く。目の前の一匹を切り伏せ、私は声のするほうに目を向ける。
「は、はなしてっ!!」
 隠れて広場をぐるりと回り込んだゴブリンたちが、ミラシカに肉薄する。冷静を欠いたミラシカの銃弾はあさっての方向に尾を引く。
 ――釣り出されたのは、私のほうだ!!
「ミラシカっ!!」
 あいつ一人だけじゃ、絶対に抜け出せない!
 くるりと蜻蛉を切って、私はミラシカの方へ舞い戻ろうとするが。
「ガアッ!!!」
 児戯にも等しい攻撃しかできないゴブリンだが、裏を返せば子供並みの知能はあるわけで。宙を泳ぐ私を、隠れていた伏兵が狙い撃つ。
「クソッ……!」
 視界の端にそれを収めていた私は寸前のところで体をよじるが、それでも矢尻が横腹をかすめる。服も避けて、流れ星が走ったように皮膚もめくれた。
「ラピ……ちゃんっ!!」
 私は勢いを失って地面に倒れた。援護に専念していたミラシカの元にはさらにゴブリンが殺到する。あっという間に彼女は囲まれて、パニックに支配された今、護身用に持たせた短剣は意味を成さない。
 ミラシカの背後に回り込んだゴブリンが、棍棒で頭を打てばゴッ、と鈍い音。糸が切れた操り人形みたいにミラシカは頭を垂れた。
「ミラシカ……ミラシカッ!!」
 傷ついた体はレッドガーデンの異能に任せて、貫く激痛に耐えて私は走るけど。
「グベェァ!!」
 小賢しくも私の意図を察したゴブリンが目の前に立ちはだかる。だらしなく舌を出して、卑しく両目を歪めて。どうしたって私を通さないつもりだ。
「そこを……どけぇっ!!」
 昂ぶる感情に任せて私は剣を振るう。鎧すらまとわない柔らかいゴブリンの身体は、抵抗を示すことなく一刀両断。降り注ぐドブの紗幕の向こうに手を伸ばす。
 ――間に合えっっ!! 
 身体に残る力を絞り尽くすように、私はひたすら前に進むが。
「なっ……!」
 そんな私の前に巨大な影が立ちはだかる。
「グォォォォォォォォォォ!!!」
 声を荒げ、土煙を巻き上げながら現れたのはゴブリンたちの頭領、ボコブリン。
 腹こそは贅肉のせいでぽっこり出ているが、腕や脚などの四肢は筋肉で盛り上がっている。
 私を見下ろす視線は強者の目つき。それだけで幾度の修羅場をくぐり抜けていた猛者だと守護者の本能が告げる。
 ――こんな奴がいるなんて、聞いていない!
 数秒の戸惑いを見せる私に、ボコブリンは手にした鉈を横薙ぎにする。圧倒的な風速を肌で感じた頃には、私の上半身と下半身は二つに別れていた。 

 目覚めたわたしは、暗い地面の底にいた。
 音も光もなく、暗闇だけが支配するどこか。じんわりと体の節々が痛む。わたしはそれを我慢して、なんとか体を起こした。重い頭の中の霧が段々と晴れていく。
 そうだわたし、ゴブリンにボコボコにされて攫われたんだ。
 体を乱暴に触られて、臭い息が頬を舐めるあの感触。それを思い出した瞬間、反射的に虫唾が走った。今日の朝ご飯が喉元までぶり返してきたけど……今は絶対それどころじゃない!
 ゴブリンの巣穴なんかにいたら、一瞬で殺されちゃう!
 戦いの原則はゆっくり、慌てず、ヤバいと思ったらすぐ逃げる。冒険初心者、ヘタレ代表のわたしでもさすがにそれだけは覚えていた。
 だからまずは頭をクリアにして、深呼吸を一つ。光が奪われた暗闇のなか、手だけを使って自分の現状をたしかめる。
 ポーチのついたガンナー専用の装衣は破れていない。買ってもらった銃もしっかりある。肝心の銃弾も抜かれていないことが分かった。
「よし! ならまずは、ラピちゃんと合流しないとだよね」
 うかうかなんかしてられない。わたしは立ち上がって、足裏で地面を感じながら、当てずっぽうでも出口を目指して進もうとした。するとその時、闇を丸く切り抜くように一筋の光が差し込まれる。
「えっ……?」
 その光はどんどんと大きさを増していって、ぽっかりと空いた出口をわたしの前に差し出した。
 ――ラピちゃんが来てくれたんだ!
「ラピちゃん!」
 迷子が親を見つけた時みたいに、わたしはその出口に駆け寄る。
『バカ。だから油断するなって言ったのに』とか呟きながら、わたしの眷属が優しく受け止めてくれる――そう思っていたのに。
「ガァ?」
 光を背負って現れたのは、棍棒を肩に担いだ緑の禿頭が一匹。眩しい白光と不釣り合いすぎるそれは、卑しい目線でわたしを見下げた。
「ひっ……!」
 蛇に睨まれたカエル、なんて生優しいものじゃない。生の殺気を、それも複数で浴びてしまったわたしの体は、石像のように固まってしまう。
 その隙を突いたゴブリンたちは、堰を切ったように巣穴へ雪崩れ込んできて。最後に親玉であろうデカブツが一匹、出口に蓋をしてしまう。
「グェェェェェェェッッ!!!」
 そしてその親玉が耳障りな咆哮をぶちまければ、手下のゴブリンたちが寄ってくる。
 まずいまずいまずい!!
 闇の奥へ、奥へ、奥へと。怪物の咆哮に弾かれるように、わたしはひたすら逃げていくけど。
「あだっ!?」
 そう都合よく逃げ続けられるわけもなく。闇夜の最奥の岩壁に頭をぶつける。
 冷たくて、凹凸が深く皮膚に食い込む岩壁。これ以上、逃げられない。
息を詰まらせて後ろを振り返れば、だらしなく舌を垂らして行進するゴブリンたち。出口は目と鼻の先で、そこからの光が怪物たちの得物をギラリと光らせている。
 血の気がさっと引き、全身が冷えつく。小刻みに震える両足が地面に縫い止められて、一歩も動くことができない。
 ――殺される。けど、逃げられない。
 わたしの脳裏をかすめ落ちるのは、走馬灯のような記憶の数々。胸の奥底にしまい込んだはずのトラウマだ。
 生まれた頃からこの体質のせいでいじめられて、そのせいで大好きな家族も異端の一族にされて。
 家を出て独り立ちする決心をしても、待っていたのは苦しいほどの現実。
 どう考えても、これまでの人生でいいことなんて一個もなかった――だからここで死んじゃったほうが楽なんだ。
 親玉のゴブリンが、私の身の丈ぐらいの鉈を振り上げる。恐怖と諦めにまみれたわたしは、それをただ呆然と見上げるだけで。鉈の刃が頭をかち割る瞬間――。
「――あぁ!!!」
 死のうとしていたはずなのに。勝手に動いた体は、鉈の刃をギリギリのところで避ける。わたし自身も自分の行動に驚いて、周りのゴブリンも一瞬の虚を突かれる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 飛び出てもおかしくないほどのハイテンポで心臓が亢進する。
 さっきまで捨てちゃおうと思っていた銃もしっかり握って、目前の敵をじっと見据えた。
『私が戦えているのは、どうしても守りたい人がいたから』
 なんで、忘れていたんだろう。これまでの人生が最悪続きだったなんて、全くの嘘っぱちだ。
 今のわたしには、大切な人がいる。
 守らないといけない人が、一人だけいる。
 そりゃあ、戦う力は天と地ほどの差があるけど。
 それでも、それを言い訳にして抗うのを放棄していいわけじゃない。
 一人でも守りたい人が、大切な人がいるんだったら戦うべきなんだ。どれだけ怖くて、勝ち筋が見えなくても、絶対に。
「……もう、諦めてたまるもんかっ!!」
 持って生まれた呪いも、さんざん浴びせられたネガティブな声も、銃のグリップを強く握れば打ち消される。明鏡止水、なんてかっこいい感じじゃないけど。命の危機を前にしたわたしの心はひそやかに凪いでいた。
「待っててね、ラピちゃん……主のわたしがすぐ助けにいくから!!」
 戦って、眷属を守り通す。サキュバスの本能がわたしを突き動かし、かすかな震えを残す足はゴブリンたちの方へ向かっていった。
「ガ?」
 わたしの死に急ぎすぎる行動を理解できないゴブリンは、得物を振るわず首をかしげる。
 思った通り。これこそがわたしの狙いだった。
「くらえっ!!」
 恐怖を克服した体は自然と動き、超至近距離から発砲する。どれだけ射撃ができなくても、さすがにこの距離なら外しようがない。
 折れた長剣を持つゴブリンの鼻先に銃火がきらめいて、ぐちゃぐちゃになった脳漿が岩壁にぶちまけられる。頭に風穴を空けた骸は、ズルズルと力なくその場に倒れた。
 ――大丈夫。わたしでも、落ち着けばやれる!
 不確かな自信が確信に変わり、動揺がゴブリンたちの間に伝播する。
 この隙を、逃しちゃダメだ。足は止めず、その動揺の間を縫うようにわたしは駆け抜けた。
 わたしの小柄な体は風に乗り、神経を加速させる。
敵の頭に銃弾を叩き込み、手早くリロード。わたしを狙う矢は明後日の方向に流れていくから、あっちの弓兵もこの闇を捉えきれていない。
 深い暗闇のなかにわたしの銃火が閃けば、確実にゴブリンたちの体を撃ち抜いていく。
 さっきまでしたり顔で囲んでいたゴブリンたちはゆるく円を描くように陣を組む。わたしもその分だけ距離を取った。円の中心にいるのはあの親玉だ。うかつに攻撃はしかけず、じっとりとこっちを見据えている。
「今なら許してあげるから、そこ、どいてよっ!!」
 力で差があっても、気持ちだけは負けていられない! わたしも険しい視線をお見舞いしてやり、銃口を離さない。言葉が通じないのは分かっているけど、それでもはきとした決意だけは声にして示したかった。
「ガァァァァァァ!!!」
 その態度に激昂した親玉が持っていたナタを投げつけた。縦に回転するそれは、画のインパクトこそあったがあまりにもノロマすぎる。
 わたしは横にステップを刻み、鉈をよけた。血と脂で刃はなまくらだけど勢いだけはあって、岩肌は大きく削られた。
 もしあれにかすりでもしたら……ゾッとする感覚はスルーして、わたしは親玉の胸元まで詰め寄った。
 屍臭混じりの呼気が顔にかかる距離でトリガーを引く。銃口から放たれた一発は、狙い違わず親玉の眉間を撃ち抜くが。
「ナァァァァァァッッッ!!!」
 やっぱり、一発だけじゃ足らない! 
弾丸が作りだした穴は黒ずんだ血を噴き出し、白い頭蓋骨を覗かせるだけ。脳ミソまでぶち抜けてないし、逆に敵の激昂を引き出してる!
「あぶなっ!!」
 親玉が怒りにまかせ繰り出す豪腕は淀んだ空気を切り、煙幕代わりの土煙を舞い上がらせる。
 一発でも掠ったらゲームオーバ。集中力が途切れた瞬間に訪れるのは、わたしの頭が弾け飛ぶバッドエンドだ。
 そんな怒濤の連撃に織り交ぜて、力のこもったアッパーが放たれる。
 当たれば即死だけど、大振りの一撃は逆にチャンスになってわたしは距離をとった。
 その行動こそ、敵の狙いだったのに。
 アッパーと一緒に地面の骨とつぶてがすくい上げられる。そのまま手首を返す要領で、わたしが的に据えられた。
 このままじゃ蜂の巣になる! わたしは咄嗟に腕をばってんにしてガードを組むが、それも最低限すぎて。豪速球で放たれた砂礫の雨はラピちゃんが買ってくれた装衣を容赦なく食い破った。
 肉厚な生地が横一文字に切り裂かれる。守られていた肌は細く裂かれて、体中が血だらけになった。
「ぐっ……!」
 それでもなんとか致命傷を避けられたわたしは、すぐに反撃の弾丸を正面に撃ちまくる。
 そこにはなにもいないのに。
「えっ……?」
 弾丸が貫くのは誰もいない虚空。取り巻きのゴブリンたちでさえ、姿を消していた。
 ――どうして……?
 思考に空白が生まれた瞬間、地面が縦横無尽にゆれる。降ってきたのは脂肪と筋肉を鎧にした緑の塊。モヤシみたいな体つきのわたしは弾き飛ばされてしまう。素肌が岩壁に突き刺さって、指先まで余すことなく痛みが広がった。動けないまま、興奮と狂気を吐息に忍ばせた親玉がこっちに向かってくる。
「こ、こないで……!!」
 体を岩壁に預けたまま、腕だけでトリガーを引くけど。
 ――カチッ。
 闇の中に響くのは、弾切れを知らせる空虚な金属音。
 ――こんな最悪なタイミングで……!
 勢いを増す激痛は歯根で噛み殺して、すぐにポーチから予備の弾薬を取り出そうとする。
 しかし親玉がそれを見逃すはずもなく。汚物に踏み固められた足裏がすかさずわたしの腕を踏み上げた。
 腕から奏でられるのは、嬲るようなミシミシという音。絶対に離さないと、反撃の狼煙として握っていた銃はとっくに手放した。眼前に卑しくゆがんだ親玉の顔が広がる。
 太い指がからみつく。軽々しく持ち上げられたわたしの体は、まるで優勝トロフィーのように掲げられた。
「なぁっ……!」
 子供並みの知能しかないゴブリンから見ても、その姿は決定的で。隠れていた手下たちも、ゲラゲラと高笑いを響かせて這い出てきた。
 ――ついにチェックメイト。
 親玉の力こぶが隆起する。ぎゅっと気道は絞られ、視界が闇にとざされていく。
 息ができなくて、なにもない深淵がわたしを出迎えようとした次の瞬間――。
「それ、わたしの主様なんだけど。汚い手、どけてくれない?」
 聞き慣れた声が、闇を割って耳に入り込んできた。一筋の白銀が閃けば、親玉の太い腕が宙を舞う。
「グラァァァァァァ!!!!」
 重低音の絶叫は強く鼓膜を揺さぶって、周りに飛び散るドブの血がわたしの唇を濡らす。
 狭くなった視界に映るのは、水平に長剣をかまえる赤髪の少女。
 ――わたしの眷属で、わたしが一番守りたかった人。
「ラピ……ちゃん」
 死の一歩手前、ギリギリで解放されたわたしはその場に尻餅をついた。か細い息の通る首筋を指で確かめてみると、くっきりと赤い跡が残っていた。
「ミラシカ、怪我はないって……そんなわけないか」
 わたしを後ろに庇うラピちゃんは、凪いだ水面(みなも)のような構えを崩さない。そのまま器用にマントだけを脱ぎ、わたしによこす。晒されていた素肌が隠されて、ラピちゃんの柔らかい香りが全てを包み込んだ。全身の力が一気に抜けて、恐怖が安堵に塗り替えられる。
「ナイスファイト。ここはさくっと片付けちゃうから、そこで休んでて」
「うん……ごめんね。わたしが油断したせいで、こんなことになっちゃった」
 わたしがしっかり周りを確認していたら、ノルマの一五匹も余裕で達成できていたのに。
今頃、仲良く馬車に乗ってどう晩ごはんを奮発してやろうか話し合っていたはずなのに
――ぜんぶ、わたしのせいなのに。
「謝るのはここを切り抜けてから。ていうか、あんたは悪くないでしょ。バカなのはゴブリンだからって調子にのってた私」
 それなのにラピちゃんは優しすぎる言葉を残して、目の前から消えてしまった。わたしの目に映るのはふわりと舞い上がる土煙と。
「それと一応言っとくけど、あんたらは絶対に許さないから。ノルマを越えてでも、絶対に殺し尽くしてやる」
 どこまでも冷え切ったラピちゃんの言葉だけ。助けてもらったわたしの背筋も、ぞくりと粟立ってしまう。
 けれどそんな言葉とは裏腹に、目の前でスタートしたラピちゃんの殺戮は淡々としていた。守護者としての身体能力と夜目を存分に活かした戦法。目で追うのもやっとなスピードでゴブリンの懐に潜り込めば、手にした長剣で喉を裂いていく。決まりきった作業の連続に、わたしの援護が入り込む余地なんてない。
 積み上げられていくのはさっきまで意気揚々としていたゴブリンたちの屍。その頂(いただき)にラピちゃんは立つ。
「バカで変態で、勝手に人のことを眷属にするヤバい奴だけど、これでも一応私の仲間だから……借りは返してもらう」
 そして泥に濡れた剣先を正面に向ける。
しかし取り巻きを失っても、右腕を切り落とされても親玉の戦意は潰えてはなさそう。
「ナァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
 ビリビリと鼓膜が麻痺する大音声を轟かせながら、親玉は真っ直ぐに突進してくる。
「バカで変態で、ついでにデブでおまけに能なし。ミラシカの方が百倍有能じゃん」
 そう冷たく言い放ったラピちゃんは剣を立てた。
そこからまっすぐに振り下ろされる斬撃は狙いを外さず、正面から親玉の巨体に喰らいついた。
 殺戮のフィナーレを飾るのは泥の噴水。一瞬で胴体とお別れした親玉の頭(かしら)が宙を舞って、ゴロゴロとわたしの側に転がってきた。

幕間②
 一悶着あったゴブリン討伐もなんとか終わり、私たちは帰路についていた。
 ギルドが手配してくれた馬車の上。寡黙な御者はひたすら手綱を操り、疲労を共有していた私たちも無言で木目の荷台に寝転がっていた。
 今は硬い板の上でも、横になれるだけありがたい。
土に轍が刻まれるリズムに身を任せれば、息を潜めていた疲労が睡魔を誘う。さすがに無防備な寝顔を晒すのはだらしないから、仮眠のつもりだったのに。気づいた頃にはまぶた同士がくっついていた。
夢の世界へと誘われる。一年前、私に妹みたいな存在がいたとき。

「毎度毎度脱ぎ散らかして……自分で脱いだものは自分で持って行くって、もう何度目?
 中天に達した太陽が柔らかな光を落とす、心地のいい昼時。私は忙しなく自室を歩き回り、脱ぎ散らかされた洗濯物をかき集めていた。
気分は完全にダメ娘の面倒を見る母親。いつもなら外で素振りしてる時間なのに。
「とか言いながらちゃーんとお片付けしてくれるとこ、わたしは好きですよ……えーっと」
 ここまで部屋をめちゃくちゃにした犯人――一週間前から世話を任された謎の少女は、私のベッドでぐでーんとだらけていた。シーツはぐちゃぐちゃで、熊のぬいぐるみは座布団代わり。ちょっとした女王様だ。
「ラピ。もうあんたの面倒見始めてから一週間経つんだけど?……もしかして記憶と一緒に知能も忘れちゃった?」
「こんなのちょっとしたジョークじゃないですかぁー! そんなに真に受けちゃコワイコワーイになっちゃいますよ?」
 少女はベッドから飛び起きると、トテトテと歩いて私の腰にからみつく。
 しっかり密着していて離れない。動きにくいから離れてほしいのに。
「掃除の邪魔。どいて」
「やです! 私のお姉ちゃんはあなただけなので、死んでもはなれません!」
「……それじゃあここでクイズ。私の名前当ててみて。正解したらそのままでいいから」
「……ラヒ……?」
「ラピ!! マジでいい加減にしてほしいんだけど!?」
 昨日も睡眠時間削ってすり込んだのに! あの時間、完全に無駄になったじゃん!
 わたしがブチ切れると、少女は「わーっ!」とはしゃいでベッドに逃げてしまう。
毛布もシーツも頭から被って、襲撃への防御は徹底的に固められる。
「まったく! 本当にまったく!!」
 一週間前まではかわいい妹みたいだったのに! なにをどうすればここまで生意気になれるんだろう……文句言いながらも面倒みてる私も大概だけどさ。
「ていうか話変わるけど、あんた、人の言葉早く覚えすぎじゃない?」
 切り替わった話題と一緒に思い出すのは、少女と出会ったばかりの様子だ。
 やたらとボディタッチが多いのは変わってないが、言葉の使い方は大きく変わっている。
最初はバカの一つ覚えで『おねえちゃん!!』しか言えなかったのに……今じゃ私のことを小馬鹿にするぐらいのコミュニケーションは取れている。
「そんなに難しいことじゃないですよー。所詮は人のコトバですし、ちょーっとお勉強しちゃえば、お猿さんでもできます!」
「あんたが勉強してるところ、一回も見たことないんだけど?」
 このおてんば娘が椅子に座って勉強? ダメだ。想像できなさすぎて笑える。
「ラピお姉ちゃんを普段から観察してるんですよ。余すことなく、じーっくりとね」
「だったらもっと勤勉になりなさいよ。こちとらあんたのせいでロクな鍛錬もできてないんだけど」
 今週に入って剣を握ったのはたったの二度だけ。おかげで生傷は塞がり、溜まっていた疲労も抜けたけど。動かない分、筋肉は明らかに落ちている。
「それはあれですよ~。疲れた娘を癒してあげたいっていう、お父さんなりの気遣い的な?」
「……そんなわけない。ていうか部外者のあんたが勝手に父さん呼びしないで」
 よそ者のくせに家族ヅラしているのが気持ち悪いし、あの人の存在を認識しただけで呼吸が浅くなった。
 こいつのお世話係が終わったら、またあの日々が戻ってくる。
 休みなんかない。ひたすらにキツい鍛錬が続く毎日。
 認めるのはすごく億劫だけど、こいつのおかげで生まれて初めての休暇っていうものを満喫している。休むのって、こんなにも楽なんだね。
「そ・れ・でー!! ラピ!! 例のアレは決まりましたか!?」
 私が語気を荒げても少女は気にも留めない。逆に毒気を抜いちゃうような、柔らかな笑顔を向けてくる。
「アレ?……なんのこと?」
 このままあいつにペースを握られたくはなくて。
本当は覚えていたけど、わざと知らないフリをした。
「アレですよアレ!! わたしのなまえ!!!」
 ささやかな反抗は、身を起こした少女の睥睨に一蹴される。シーツも毛布も枕も散り散り……せっかく片付けたのに。
「ちゃんとしたのを考えるって、この前約束しましたよね! 忘れたとは言わせませんよ!?」
「あんたの世話見るのに手一杯で、考えるひまなかった」
「なら今すぐ考えてください! 条件はキュートでかっこよくて、お姉ちゃんと似ている感じがいいです!」
「条件多過ぎ……考えるのめちゃくちゃ面倒だったんだけど」
「だったってことは、もう考えたんですね! それならはやく教えてくださいっ!」
「その前にベッドから降りる! なんでもらう側のあんたが上なのよ!」
 私が本気で語気を荒げると、少女はやれやれ、みたいな感じでベッドから降りた。
 なんだろう……物理的にも精神的にも上から目線なのも、こいつのために真面目に考えた自分にもムカついてきた。
「それじゃ、発表します……あなたの新しい名前は」
 一拍置いて、ちらりと少女を見る。新しい名前をもらえるワクワクが溢れて、目が明らかに輝いている。期待の大きさはそのまま私へのプレッシャーだ。
「ツヴィ、です……ラピっていう私の名前が剣を意味する言葉から来てるから、その流れで大剣を意味する言葉から考えました……どう?」
 当たり前なんだけど、誰かの名前を一から考えた経験なんて、私にはなくて。面倒を押し付けられた少女に名前がないのも、もちろん予想外。
 それでも私のセンスで一生使うものが決まるんだから、割と頭を悩まして考えはした。
 反応が気になる。ためらいがちに外した視線を少女に合わせると。
「ツヴィ……ツヴィ……ツヴィ……」
 少女は咀嚼するように繰り返すだけで。丸く形の整った瞳は、ぼんやりと虚空を見つめる。
「ツ……ツヴィ?」
 その反応から彼女の感情を読み取れない。とりあえず私は新品ホヤホヤの名前で呼んでみた……気に入ってくれた?
「……うん! めちゃくちゃいい名前!! お姉ちゃん! わたしこの名前、とーっても気に入りました!!!」
 すると一瞬、謎の間を置いた少女は顔に満開の花を咲かせた。全身でありったけの喜びを表現して、私に飛びつく。
「……あっそ。適当に三秒ぐらいで考えたやつだけど、気に入ったのならよかった」
 本当は嬉しかったのに、不器用な私はツヴィみたいにそれを素直に表せず。少し低い彼女の頭を、撫でることしかできない。
「ツヴィ! ツヴィツヴィツヴィ!! いい名前すぎます! これからたくさん使いたいです!」
「とか言ってペンで落書きするのはなしだからね?」
 刺した釘は決してツヴィに向けたものじゃない。
 もし妹がいたらこんな感じだったのかな、と。ツヴィに絆されている私自身に向けての、戒めだった。
 
 無事にエリリアに帰着した私たちは、休憩もそこそこにギルドへ向かった。
 出迎えてくれた受付嬢さんに依頼の完遂を報告して、巣穴からかっさらってきた戦利品も売却。どれも錆びた剣とか鎧で、二束三文にもならなかったけど。それでもボコブリンの乱入は認められて、謝罪と一緒に報奨金もゲットした。
思わぬ臨時報酬に財布の紐が過去最高にゆるんで。だからそのまま宿屋には帰らず、足を向けたのはこの辺りで一番高いレストランだ。
そのレストランが扱う食材はシーフード。エリリアは大陸の中央にあって新鮮な魚介にはなかなかありつけないのに、昼時になるといい香りを大通りに振りまいている、ちょっとした有名店。
 いつもは鼻で楽しむだけなのに……まさか食べられる日が来るなんて。
 なんて、ちょっとした感動を覚えながら扉を開けると、柔らかい音楽が身を包んだ。踏み入れた中は程よく暖かい。外の喧噪とは別世界みたいに、空気の質感が丸ごと入れ替わる。
「う、うわぁ……! みんなお金持ちそう……! わたしたち、場違いじゃない?」
 私の後に続いて中に入ったミラシカは心ここにあらずって感じで。体をちっこくして、周りをキョロキョロ。
「ちゃんと払うもんは払うんだし、場違いでもいいでしょ」
「ぷっ! あの子変な食べ方―!! とか笑われたりしない?」
「誰もあんたの食べ方なんて気にしないっての。自意識過剰すぎ。せっかくご馳走しようと思っていたのに……そんなに気になるなら別の店にする?」
「もうぜーんぜん平気! なんか不思議なんだけど、ご馳走ってワード聞いた瞬間いける気がしてきた!」
 ……現金なやつ。まぁ、変に遠慮されるより、そっちの方が気楽だけど。
 店員に案内されたのは窓に面した席だった。下に目線を向ければ、昼の大通りの喧噪が見通せる。
「ボコブリン、だっけ? あのデカブツ、そんなに強かったの?」
 席について、ようやく雰囲気に慣れたメアリーは、メニューに目を滑らせながらどうでもよさそうに言う。
「まぁ、ゴブリンよりかは数段上かな。一人で倒せるのならそこそこの腕。パーティーを組んでイケるんだったら、一人前って感じ」
「おぉ! じゃあこれで私も立派な冒険者ってこと!?」
「立派かどうかは知らないけど……素人丸出しのビギナーは抜けたんじゃない?」
 銃を使ってしっかり援護していたし。さらわれても冷静に対処して、私の到着まで時間を稼いだ。
おかげで無事に依頼を達成できたわけで……どれだけ厳しく見積もっても、素人とはもう言えない。
「いぇい! なら今日のこれは祝勝会だね! なーんでも頼んで暴れちゃうよ?」
「なーんでもはダメ。もう頼むものは決まってるから」
 せっかくもらった報奨金、他のことにも使いたいしね。
奮発するとは決めたけど、しっかりボーダーラインは決めてある。こんなところでハメ外したら、元も子もない。
「……グラタンとかもNG?」
「今日はダメ。もっと美味しいものがあるから」
 唇を尖らせるミラシカを尻目に、私は店員を呼ぶ。
「このロブスターを一つ。それとワインで」
「かしこまりました」
 手慣れた感じで注文を書き留めた店員が離れる。そしてしばらく、適当な雑談で間を埋めていると、テーブルに大皿が運ばれてきた。どっしりと鎮座するのは、鮮やかな赤を湛えた大きなエビ。敷き詰められた緑の野菜を絨毯に、ほかほかと湯気を立たせている。
「これがロブスター?……ザリガニじゃなくて?」
「まぁ、似たものっちゃ似たものだけど。それでもザリガニより美味しいよ。ほら、食器かして」
 赤い甲殻に備え付けのナイフを差し込めば、研がれた切っ先がスルリと殻をむく。
そうして姿を現した身は湯気を立たせるほかほかで、香りが鼻孔を突き抜けるのを感じながら、ミラシカの皿に分けようとすると……ぐーっとお腹の虫がないた。
「ふふっ。わたしはいいから、ラピちゃんお先どーぞ」
「……言われなくてもそのつもりだし。変な勘違いしないで」
 まさこいつに気を遣われるなんて……ちょっと屈辱。やっぱりなにか食べとくべきだった。
 小さな後悔を空腹に押し込んで、ナイフとフォークを滑らせる。ロブスターは何度か食べたことがあったから、解体のコツは体が覚えていた。
 私の皿にも身が乗って、ワインもたっぷり。テーブルの上で、ご馳走の準備は整った。
「じゃ、私たちの勝利にかんぱーい!」
 カチンと小気味よくグラスを合わせれば、さっそくミラシカがロブスターに取りかかる。
 湯気を絶やさない身に、横から豪快にかぶりついた。あれだけ食べ方気にしていたのに、結局そういくんだ。
「んっ~!!! プリプリ~!! めちゃくちゃ美味しい~!!」
 大きな一口でロブスターを腹に納めたミラシカは、ほっぺを抑えて右に左に大忙し。
 ちょっとはしたない……けど周りに迷惑かけてないし、楽しそうだからいっか。
「そ。ならよかった」
 そう、楽しいのは重要だ。
 私はロブスターの食感を噛みしめながら、テーブルに視線を落とす。
 この店を選んだのはなにも祝勝会だけが理由じゃない。
 ミラシカにちゃんと、話しておきたいことがあった。
「んっ? ラピちゃん、もしかして食欲ない?」
 無言を貫く私に、ミラシカが心配の視線を向けてくる。
「いや、別に……私たちの関係についてあんたに聞きたくて、いろいろ考えてた」
 いろいろ浮かぶ切り口の中、結局私は素直に思ったことを口にした。
 変に小細工を打って着飾るのは性に合わない。
「えっ。やっぱりわたし、ラピちゃんの主にふさわしくない?」
「それは最初からそうでしょ。あんたが私のボスなんて、思ったことないし」
 そうじゃなくて、と。私はナイフとフォークを置いて、正面を見据える。
 緊張の面持ちを浮かべるミラシカが、ロブスターの湯気越しに私を見返していた。
「聞きたいのは一つだけ……龍神との戦い、あんたも付いて行くの?」
「そりゃあもちろん。わたしはラピちゃんの主様だよ? 地獄の果てまでお供するの、忘れちゃった?」
 ミラシカの有無を言わせない即答に、私は少しだけ息を吸った。
「……じゃあ龍神に殺されそうになったら? それでも同じこと言える?」
 脅しのような雰囲気をまとった私の言葉は、流れる音楽とは決して溶け合わず。重い塊となってテーブルに降り落ちる。
「……どういうこと? ゴブリンの依頼が、私の性能チェックじゃなかったの?」
 その塊を受け取ったミラシカは不満を隠さない。猜疑心に満ちたまなざしを、私に突き刺す。
「それはそうだし、テストは合格のつもりだから勘違いしないで。ただゴブリンと龍神じゃ、あまりにも格がちがうから。正直私も、実戦であんたを守り通せる自信ない」
「別にラピちゃんのガードがなくても、わたし一人だけで戦えるよ……それにラピちゃんからしたら、私が倒れても得じゃん」
「……それは、そうだけど」
 ――ミラシカが死ねば、眷属関係も終わる。
 痛いところを突かれた私は、つい唇を噛みしめた。
「わたしにとって、初めての眷属はラピちゃんだから……どう言われようと、最後まで責任は持ちたいよ」
「余計なお世話すぎ。そこまで関係深くないでしょ、私たち」
「そう思うなら、わたしと一緒に戦えばいーじゃん! 私が無事で龍神を倒せたらハッピーエンド。そうじゃなくても、ラピちゃんは眷属から解放されるし」
 なんか矛盾してない、と。ミラシカはロブスターを頬張りながら、軽く首を傾ける。
 ……やっぱり、そう簡単にはいかないか。
ここまで頑固と来たら、こっちも腹を括るしかない。
 ――素直になるのは、あんまり得意じゃないんだけど。
 ミラシカから視線を外して、ワインの残るグラスの縁をなぞって。そうやってたっぷりと時間稼ぎして言葉を探してから、私は気持ちを言葉にのせる。
「……私のせいで、あんたに傷ついてほしくないから」
「えっ? なんて?」
 沸き上がる感情を殺して紡いだ言葉は、薄すぎてミラシカの耳に届かない。
「だから私の戦いに、ミラシカを巻き込みたくない」
 椅子に深く座り直す。一拍の空白だけ置いて、声を少しだけ張った。ストレートな物言いに、ミラシカは目を丸くして呆然とする。
「デレているわけじゃ、ないよね……?」
「こんなところでふざけたら、それこそ場違いじゃん」
「そ、そうだけどさぁ……なんでいきなり? 今まで、そんな態度なかったじゃん」
「それは……まさかここまであんたがしつこいとは思わなかったから」
「こんなにわたしが粘るのが、想定外だったってこと?」
 ミラシカの問いに、私は首肯する。
「ゴブリンと戦わせれば、『もう冒険者なんてやめる!』って泣き出すかなって」
 生の怪物の気持ち悪さを知って、命が風前の灯に晒される恐怖を味わえば、ミラシカは私から離れる。そうなれば結果的に、彼女が傷つくことはないわけで――これ以上、私と父さんの確執に誰かを巻き込むこともない。
「そりゃあさんざん泣いたし、おしっこも漏らしそうだったけどさ。それでも独りでピンチは乗り越えたよ?」
「そう。だからそれが予想外すぎて、私もどうするべきか迷ってるの」
「私と一緒に龍神を倒しちゃえばいいんだよ。迷うことなんてなくない?」
「それは、そうかもしれないけど……」
 話は平行線を進むまま、落とし所が見えない。
 困り果てた私はさらに椅子に深くもたれかかって、天井のシャンデリアを視界の真ん中に捉える。
「……どんな結末になっても、後悔しない?」
「そんな感情あったら、とっくに私の銃で撃ち抜いちゃってるよ?」
 クサすぎるセリフ……説得するだけ、無駄ってやつか。まさか力づくで、どうにかするわけにもいかないし。
「あんたの意見は分かった。ただ一つだけ、私にも約束させて」
 プランAは失敗。残された選択肢はプランB――私が死力を尽くして、ミラシカを守り抜くしかない。
「死にそうになったら一目散に逃げる、だよね。大丈夫、わたしの一番のモットーは、いのち大事にだから! そこら辺は安心して!」
 ……そんなにヘラヘラして言われても、説得力ないんだけどね。
「まぁ、龍神に挑むにしてもまだ課題が残っているんだけどね」
「は、はぁ!? さすがにそれは聞いてないんですけどぉ!?」
 ばんっ! 机を叩きミラシカは声を荒げる。静かに食事を楽しんでいた周りも、さすがに彼女の方を見る。
「お客さん。ここ、そういうお店じゃないんで。騒ぐのならご退店を」
「うぅ……! そっちが悪いのに……!!」
 恥ずかしさで鼻を膨らませながら、ミラシカは素直に着席
 ミラシカは素直に着席する。その頬にはまだ紅が引きずられていた。
「でもどういうこと? またゴブリン退治とかに出かけるの?」
「そういうことじゃなくて、要するにあれ。龍神のところまで行く手立てがないの」
「手立て?」
 私の言葉をオウム返しするミラシカは、不思議そうに眉をひそめる。
「初戦の敗因はシンプル。私が正面からダンジョンに挑んだから、龍神と戦うまでに消耗して、全力を出せなかった」
 ダンジョンの最奥までワープできるわけでもないし。こっちが攻め手なら、入り口から順々に踏破していくしかない。出現するモンスターが雑魚でも、数が重なれば消耗につながる。
「今回はわたしが付いて行くしね。もちろん、足を引っ張るつもりはないけど」
「それでもバカみたいに正面から攻めるのは避けたい……欲を言えば、龍神まで直行できる転送石がほしいけど」
 そんなレアアイテムが、簡単に手に入るわけもなく。さて、どうしたものか。
ロブスターを胃袋に収めた私は、食後のワインをめぐらせながら、頭を働かせた。
「あっ! そういえば!」
 パチンッ、と指を鳴らしたミラシカが私の思考を途切れさせる。
「転送石、ゲットできるよ! わたし知り合いいるし!」
「えっ……それ本当?」
 転送石は魔法が込められた魔導具で、普通に買おうと思ってもなかなか市場に流れない貴重品だ。私もいざという時のために持っていたけど、あれだってコネとお金をかけている。偽物だって流れているし――ミラシカがその手のコネを持っているとは思えない。
「わたしが冒険者になる前の職場の人でね、めちゃんこ優しいし、この街にすごく詳しいの! あの人にお願いすれば、転送石もどうにかなるんじゃないかな?」
「へぇー。じゃあ明日はその人を尋ねるってことで。私は分からないから、あんたに案内任せていい?」
 とは言え他にアテはないし。頼りなくても、ミラシカの知り合いの線を辿るしかない。
「もちのろん! あそこはもうわたしの庭だから、どーんっと任せちゃっていいよ!」
 ってミラシカは大仰に言うけど。
 こいつの知り合いなんて、絶対にロクな奴なんかじゃない。
 不安しかない。ただ追求するほどの体力もなくて、私はワインと一緒に、その不安を飲み込む宇ことしかできなかった。

 翌朝。太陽が昇り始めるのと同時に、私たちも行動をはじめた。
 私は髪を結んで剣を磨いて、ミラシカは銃に油をさしてから、宿屋を後にする。道すがらの屋台で軽めの朝食を調達して進むのは、エリリアを縦に貫く大通りだ。
 荷物を満載した馬車がカタコトと音を鳴らして石畳を進み、その脇を人が埋める。
 まさしく人と物の波。少しでも足を止めればもみくちゃにされそう……なのに宿屋から先導を務めるミラシカは、慣れた足取りで進んでいく。
「人ゴミやばすぎ! これならもっと遅い時間にすればよかった!」
 私の悲痛な独り言は群衆の喧噪にもみ潰される。
 さっきまでミラシカは隣にいたのに。ちょっと目を離した隙に、人垣の向こうに行っちゃっているし。
「ちょっと……待って……!」
 せっかく案内を任せたのに、案内役が迷子とか冗談にもならないじゃん! ミラシカに探してもらうのはなんかムカつくし……ああもう!
 なんか悔しいけど、私は人垣を縫うようにして手を伸ばした。
「あっ!」
 それに気づいたミラシカも歩速を緩め、手を差し出してくる。しかし勢いにのった群衆の波が、私たちの間を押し流そうとする。
「えいっ!」
 ミラシカも負けじと腕を伸ばして、彼女の爪先が私の指に触れた。
「捕まえた!」
 そのまま手を掴まれ、ぐいっと引き寄せられる。人垣を力づくで割って、私はミラシカの胸元に滑り込む。かなり近い、ぴったりな密着……やけに主張が激しくて柔らかいこの肉塊は、たぶんミラシカの胸だ。
「うっは! これはまた、際どい場所に着地したね~」
 受け止めたミラシカは、なぜか嬉しそう。にんまりと笑って、人目を気にせず胸を横に揺らす。私の顔はちょうどミラシカの谷間に埋まったから、彼女が揺れるたびにボリューミーな質量がビンタしてきて――節度って言葉、知らないのかな。
「ミラシカ……苦しいし変な気分になるから、ちょっと離れて」
 私に、抗議する権利がないことは分かっているけど。それでも周囲の人目が痛いほど気になる。
「えーどうしよっかなぁ! このままイチャつきながら進みたいなーって思っていたんだけど」
「わざわざ人が多いところで見せつける意味がわかんない」
「わたしにはこーんなに可愛い彼女がいるけど、みんなはどう? って見せつけたい!」
「悪趣味すぎ。私はあんたのトロフィーじゃない」
 ていうかそんなに見せつけるほど、可愛くないし。
 私はミラシカを突き放す。どこに行くのか分からないけど、まばらになった人ゴミを一人で突き進む。たまにはこうしてやらないと、調子に乗っちゃうからね。
「ご、ごめんって! 謝るから機嫌なおしてよ~!」
 あたふたと慌てるミラシカを尻目に、私は鼻を鳴らす。
「私とのルールその一。人の目があるところでイチャつかないこと。いい?」
「イ、イエッサー! ラピちゃんは誰もいないところでイチャイチャしたいってことだよね! 覚えておく!」
「ナチュラルにイチャつく前提なの、怖すぎない?」
 別に今更、指摘する気もないけどさ。積極的なボディタッチだけはやめて欲しい。
 そんな軽すぎるやり取りを交わしながら、私たちは大通りを進む。エリリアの中央を抜けて北側に入ると、一気に人ゴミがまばらになった。代わりに目立つのはほのかな香水の香りを振りまき、綺麗に着飾った美女たち。
「本当にこの辺りで合ってるの?」
 ちょっと雰囲気、アングラすぎない? まぁ、サキュバスにはこのぐらいがちょうどいいのかもしれないけど。
「へいきへいき! この辺りはもう庭を通り越して実家だから! そんなに緊張せず、リラックスしなよ!」
「うさんくさい……もしかして副業で詐欺師とかやってる?」
 こんなところ――大都市エリリアの中でも随一の花街――に連れ込んでおいて、その言い草は怪しすぎる。
「騙すつもりならとっくにやってるよ。ラピちゃん、コロっと騙されそうだし」
「人の気持ちを看破するの力には、けっこう自信あるけど?」
「ふふん。だと思った。けどそうやって油断しているからこそ、夢の世界にのめり込んじゃうとかない?」
「どういうこと?」
 いまいちミラシカの言っていることが掴めない。素直に私は首をかしげる。
「ここはそういう場所ってこと。夢って分かっても、嘘って気づいても誰も知らないフリをして、夢を見続けるの。だから嘘って身構えていると、せっかく来たのに楽しめなくなっちゃうよ?」
「別に遊びで来たわけじゃない。ここに来た一番の目的は転送石」
 と、ポエマー気質なミラシカには言うけど。私自身、こんな世界は見たことなくて。
 今まで、厳格なレッドガーデンの中でしか生きてこなかったから、男女が自由に乱れている姿を見るのは、ドキドキするのと同時にワクワクと期待してしまう。
「分かってるって。わたしも別に、古巣だからって長居がしたいわけじゃないし――あ!」
 なにかに気づいたミラシカが振り帰ると、大通りの向こうからしゃん、と。まるで鈴が鳴るような澄んだ音が吹き抜けた。
「なに……?」
 私はつい、ミラシカと一緒に振り返る。
 別に大きい音じゃない。むしろ人と街の騒音に埋もれてしまいそうなほど、小さな音。ミラシカが反応しなかったら、絶対に気づかなかった。
 ――しゃん。
 また鈴の音がする。耳奥に残る音に誘われ視線をやると、一人の遊女が大通りに出てきた。
 ――しゃん。
 うなじを背中を大胆に晒す紅の衣裳に、黄金色に飾られた長髪が華を添えて。全員の視線を浴びる遊女は紅を引いた口元に微笑を湛えて、大通りを闊歩する。
 鶴が水面(みなも)を歩むような、優雅で色気のある足遣い。鳴り渡る鈴は、遊女の長髪を彩るかんざしのものだ。
 ――しゃん。
 遊女が通った場所に残されるのは、花の香りと音の響きだけ。誰もが魅了されて息を吞んで。その場所だけ時間が止まったみたいだ。
「あぁ、百華姉さん……やっぱり、いつ見ても美しいなぁ……!」
 横目で隣を見てみると、ミラシカも例に漏れずうっとりしていた。そのセリフ、完全に太客にされてるじゃん。
「……浮気者」
 私は静かに、しかし狙いは外さず彼女のお尻へローキックをかます。
あれだけ眷属が大事だとか言ってたくせに。ちょっと見てくれがいいだけで、もう浮き足立ってるじゃん。
「痛った!!」
 もろに受けたミラシカはお尻を抑えて飛び上がる。軽すぎるそのノリが口火になって、遊女の止めた時間が動き出した。
「アホ面下げて油断してたから、ちょっとお仕置き」
「にしては痛すぎない!? せめて頭にチョップとかにしてよ!」
「そうしたらミラシカの頭が割れちゃうから。さすがに殺すのは悪いかなって」
「こっわ! もしかして怒ってる?」
 ミラシカは目元に涙を滲ませながら、上目遣いで訊く。
「私が? なんで?」
「……ラピちゃんの恋人はわたしだけなのに、百華姉さんに一目惚れしてたから?」
「別にそれはいいんだけど。あんな風に注目してたら、あっちの思う壺だよ。ああやって注目を集めるのが好きな手合いだと思うし……てか待って。いま恋人って言った?」
「ふぇ? 言ってないよ?」
「嘘。ぜったい恋人って言った。私、耳もそれなりにいいから」
「……ちっ」
 ミラシカは笑顔を保ったまま、舌打ちする……こっちの方がよっぽど怖いじゃん。会話の流れに忍ばせて、私を恋人にしようとするし。
「もうほんと、油断も隙もなさすぎない?」
 呆れて怒りすら湧かない。声を荒げるのも無駄だと悟った私は、花街の奥へと足を向ける。
「ま、まぁ私とラピちゃんはもうそういう関係みたいなもんだし? 眷属と恋人の違いなんて、誤差みたいなもんだよ~!」
「誤差でもなんでも、あんたみたいなのと恋人なんてありえないから」
 決心が滲む私の言葉は、花街の享楽的で艶めいた喧噪に消えていく。

 そして歩き通してしばらく。私たちはエリリアの最北部に到着した。
 さすがに最北となれば、花街の中でもディープなエリア。行き交う男女は裸同然みたいな格好で絡み合っていて、路地の隙間からはピンク色のお香みたいなのが漂っている。息を吸うだけで気が狂いそう。早く帰りたい。
「んで、ここが目的地? 群青娼館って……思いっきりそういう店じゃん」
 私たちの前にどっしりと鎮座するのは巨大な娼館だ。花街のエリアに入ってからここまで、色々な娼館を見てきたけど、その中でも群を抜いて大きい。実家の屋敷よりも広いかも。
「ラピちゃん、もしかしてこういう所、慣れてない?」
 気圧されている私を見て、ミラシカは訊く。
「慣れてるわけないじゃん。サキュバスじゃあるまいし……なんか入る前にむせ返りそう」
 広大な敷地をぐるりと囲むのは、私二人分ぐらいの高さを持つ壁だ。この辺りじゃ、あまり見ない感じ。隙間から向こうに目をやると、敷地には白い砂利を敷き詰めた中庭が広がり、見たことない様式の建物が連なっている。
「ていうかここ、本当に娼館? こんな雰囲気の建物見たことないんだけど」
 あまりにも異色の雰囲気に、私はポツリと零す。
「……わたしも、あまり詳しくはないんだけどねぇ~。東の果てにある島国じゃ、これが普通なんだって」
「そんな僻地の文化が、なんでエリリアに? オーナーがそこの出身とか?」
「さぁ……どうだろう」
 隣にいるミラシカは、独り言のように呟く。
「なにそれ。ここ、あんたの古巣じゃなかったの?」
 しかもさっきから明らかにテンション下がっているし。いや、下手に元気だとうるさいからこのままでも全然いいんだけど。
「もしかして、ここまで来て尻込みしてるとか?」
 思いついた予想をそのまま口にすると、ミラシカは「うっ」と声をもらす。やっぱりね。
「こんな所まで連れ回しといて、今更怖くて行けませんとか許さないんだけど?」
「べ、別に大したことないよ。ここのお仕事やめるとき、ちょっとトラブルがあっただけで」
「それこそ今更でしょ。あんたの行くところには、必ずトラブルがつきものだし」
 所詮は人間関係のいざこざ。命まで取られるわけじゃない。そんなのにビビって、転送石を逃がすわけにもいかない。
「何度も言っているけど、私たちに時間はないから。あんたには悪いけど、ここは我慢して」
「ふぇぇ~……どうしても行かないとダメ?」
 ……それなのに当の本人はこの言い様。よっぽど行きたくないのか、後ろ髪を引くように私の袖口をつかむ。勘弁してほしいんだけど。
 落胆の感情と一緒にため息が漏れそうになる。しかし寸前のところでひねり潰して、代わりにミラシカの耳元へ唇を近づけた。
 私の熱を持った吐息がミラシカの耳朶に跳ね返って、めちゃくちゃ恥ずかしい。けど、ここで時間を食うわけにもいかないし。
「いざとなったら守ってあげる。だから、一緒に行こ?」
 私は即興で考えた甘い言葉を、平気な顔でうそぶく。こんな言葉、本当は口にしたくもないけど。ドが付くほどの変態でわがままな主には、これが一番だから。
「ひゃぁっ! ラピちゃん!?!?」
 頬を染めた赤みはすぐに耳朶へと伝播して、ミラシカの顔を一色に染め上げる。
「こんなお願いするの、私も恥ずかしいんだけどさ。転送石のためには、ミラシカの力が必要だから……ね、お願い」
 嘘で塗り固めたハニートラップの効果は抜群。あともう一押し。ミラシカの手にそっと触れる。
「わ、わかった! めちゃくちゃ怖いけど、私に任せて!」
 するとミラシカは鼻息は荒くなり、勇み足で娼館の門をくぐる。
 チョロい。あまりにもチョロすぎる。これじゃどっちが主なのか分からない。
 私はため息の代わりに鼻を鳴らして、一緒に門をくぐった。

 そしてそのまま屋敷に入ると、煌びやかな世界が私たちを迎えた。
 建物の中はロの字の回廊となっており、その構造が五層に重なる。回廊と部屋を仕切るのは紙と木枠だけで作られた引き戸だ。吹き抜けの天井に吊された灯りに客と遊女のシルエットが浮かび上がる。ここまで楽しそうな声も聞こえて、あそこだけ自分たちとは違う世界みたい。
「ものすごい派手…こんなところで働いたら、金銭感覚おかしくなりそう」
「お客さんの使うお金がハンパないからねー。わたしも働いていたのに、年中貧乏だったよ」
「それはあんたが散財しすぎなだけじゃ?」
 いくらか貯めとけば、路頭に迷うこともなかったのに。まったく。
「まずはここのまとめ役、百華姉さんに会うよ!」
「百華……もしかしてさっき通った遊女?」
「そ! あの人に話を通せば、転送石もなんとかなるんじゃないかな?」
「ちょっと楽観的すぎない? あんただって下っ端だったんだし」
 そもそも百華に認知されているのかも怪しいし。顔を見せても誰? と言われる未来しか見えない。
「それは会ってからのお楽しみ~。あ~あ、ラピちゃんが嫉妬しなきゃいいんだけど!」
 ミラシカはわざとらしく声を弾ませる。
「……なに? あんたと百華ってそういう関係なの? 恋仲?」
 美女と野獣……はさすがにミラシカがかわいそうだけど。そのぐらいの差があるなと思ってしまうほどのカップル。人間には腐るほどモテて飽きたから、次はサキュバスってこと?
「ち、ちがうよ! 私と百華姉さんがそんな風になるわけないじゃん! ラピちゃん、なに考えてるの!?」
「いやだっていま、嫉妬しなきゃいいなーって。そういうことじゃん」
「そういうのじゃないから! そういうのじゃないから!!」
「なんで二回言った……?」
 恋人じゃないとしたら、一体どういう関係? 友人? ペット? 実は百華もサキュバスで、同族の絆で結ばれているとか?
 ミラシカが変に濁すからこっちも気になる。もう一人の眷属とかだったら、こっちの負担が減って楽だな。
 とか考えながら歩いていると、回廊の突き当たりに差し掛かった。ちょうどロの字の角にあたる部分で、目の前には朱色の階段。二階に続いている。
「百華姉さんの部屋は五階だから、ぱぱっと昇っちゃお!」
 声と一緒に足も弾ませるミラシカは、私の手を取って階段を昇ろうとする。
「人間もどきのあんたが、百華に会えるだって?」
 しかし陰険な気配を漂わす声色が行く先を遮った。ミラシカは表情を凍らせて、ゆっくりと声の方を向く。
「月花(つきか)姉さん……!」
 上から私たちを見下ろすのは、月花と呼ばれた遊女。百華に負けず劣らずの派手さを誇り、肩を露わにした濃紺の着物を着こなす。着物の裾から膝口にかけて施されるのは、銀糸で織った花の刺繍。赤黒い色合いで飾られた目元からは、険しい目線が放たれる。
「ミラシカ。あんたどういうつもりだい?」
 月花はゆったりとした足取りで階段を降りる。
「ここにはもう顔を出さないって、約束したじゃないか」
 そのまま嬲るような口調で、ミラシカの鼻先に顔を近づけた。
「へ、へへっ……月花姉さん、久しぶりー……!」
 対するミラシカは何もかもが限界そうで。下手っぴな作り笑いを必死に浮かべていた。
「なにがそんなに、おかしいんだい?」
 牙を剥く月花の目の奥には、煮えたぎるような怒りが宿っている。騒ぎを聞きつけた他の遊女たちも回廊からこっちを見ている……これは、一筋縄じゃいかなさそう。
「ちょっとタンマ。まずは落ち着いて」
 けれど、このまま立ち尽くしているわけにもいかない。私は一歩踏み出して、ミラシカの隣に並ぶ。
「あ? 誰だい? このネズミは」
 月花のいかつい視線は私にも注がれて。
「こ、この子はラピ! 今は私の相棒、みたいな人かな」
 私に代わってミラシカが事情を語る。
「相棒? いまあんた、相棒って言ったかい?」
 するとなにがそんなにおもしろいのか。月花は腹を抱えて「ははははっ!」と高笑いを響かせる。彼女の目尻には涙が溜まっていて、周りの遊女たちも「くすくす」と忍び笑いを漏らしていた。
「あーおかしい……まさかサキュバスのあんたが、相棒、だなんてね?」
 ミラシカに案内されたエリアから大体の察しはついていたけど。やっぱり知られているか。
「なんの勘違いか知らないけどあんた、騙されているよ」
 私の自慢の赤髪を指でもてあそびながら、月花は続ける。
「他人に言われなくとも、そんなのは分かっている。それよりも百華を出して」
 素人がやる明らかな挑発。これに乗って騒ぎを起こしたら、もっとこっちが不利になる。
 ぐっと堪えて、私は淡々と要求した。
「やだね。通いの客でもないあんたが、なんでここの稼ぎ頭と遊べるんだい?」
「遊びで来たわけじゃない。ちょっと百華に用があるだけ」
「ならまずは私を通しな。本当に百華が手を割くべき用事か判断してやる」
「その手間を省くために、この子を連れてきたんだけど?」
 水を向けられたミラシカはこくこく、とうなずく。
「だからさっきも言ったろ? そいつは人間もどきで、私たちを騙したクズ野郎。ここは人が人を癒やす店なんだから、さっさと出ていきな」
 歯に衣着せぬ月花の物言いに、だんだんと嫌悪感を抱いていく。
 だって人間かどうかと聞かれたら守護者(ガーディアン)だって微妙な立場だし。ミラシカもサキュバスで立派な魔族だけど、言われるほどの悪人じゃない。
「もし嫌だって言ったら?」
「街の用心棒を呼んで、あんたたちを叩き出す」
 と、月花は豪語するけど。直感で嘘だと分かった。店の一番でもない遊女に、そこまでの力はないだろうし、やったとしても懇意にしている客を動かすだけだ。
「……分かった。今日のところはひとまず退散する。ミラシカ、行こ」
「う、うん」
 しかしここで騒ぎを起こせば、後になって必ず面倒になる。
 ここは一端スルー。最悪、百華に会うだけなら他の手段も思いつくし。
「はっ! 小娘共が。家に帰ってクソして寝てな」
 勝利を確信した月花はゲタゲタと笑い、しっしっ、と手払いする。
 ……むかし読んだ本に、『物は金で買えても品性は金で買えない』って書いてあったけど、あれって本当だったんだ。
 この仕打ちは絶対わすれない。悔しさを細い吐息に忍ばせて、来た道を戻ろうとすると。
「まちな!!!」
 凜とした声が階上から響き渡った。露悪的で聞くにも耐えない月花のとは明らかにちがう質感。耳にするだけで心地いい。私は反射的に振り返った。
「百華姉さん!」
 ミラシカが叫ぶ。回廊の最上階から、手すりに片肘を突いてこっちを見下ろすのは、大通りのあの遊女――百華だ。
「月花……何度言えばそのがなり声、直るんだい?」
 とろんとした口調に険のない言葉なのに、どこか隠された圧を感じる。雰囲気は全然ちがうのに、喋り方は父さんと似ている。
「……こいつらはネズミだよ、百華。少しでも隙を見せたら、また寝床を襲われちまう」
 見下ろす百華に月花は怯むが、言葉の勢いが弱まることはない。
「確かにね。あんたの言う通り、ミラシカにも落ち度はあるよ」
 月花の反論を百華は素直に受け止める。が、百華の存在感と上から見下ろすという状況のせいで、月花が押し切られているみたいだ。
「……なんだい。それじゃあこいつらを客として扱うのかい?」
「半分正解で、半分間違い。客なのには違いないけど、あんたらの客じゃない」
 客であって、客ではない……どういうことだ? 私たちのことなのに、シンプルに意味が分からない。
「……とんちを楽しむ気分じゃないんだけどね」
 私の思いを、そのまま月花が代弁する。
「要するに、そいつらは私の客だよ。文句はいいから、粗相がないよう、丁寧に私の部屋まで通しな」
 しかし百華はその言葉を無視し、さらに手すりへ身を預けた。ストレートに要求を突きつけしゃらん、と髪飾りが鳴れば、会話の終わりを暗に告げる。
「……どうやら、命拾いしたようだね」
 これ以上は暖簾に腕押しと悟ったのか。諦めた月花は肩を落としてこっちを振り返る。
 殺意こそ奥に潜めているが、その瞳には未だに凶が宿っている。剣を持ったら問答無用で刺してきそう。
「安心して。用事が済んだらすぐに帰るから」
 これまでのやり取りを聞きかじるに、ミラシカがここでやらかしたのは確実。
月花だって、自分の店を守るのに必死なんだ。こっちからなにかやり返すのは、完全にお門違い。
 と、そんなことを考えながら、私たちは百華の部屋に案内された。
 そんなことを考えつつ、私たちは百華の部屋に案内された。五層に連なる回廊の最上階。
重く横幅のある扉を、金銀の糸で織られたタペストリーが彩る。
娼館らしい華やかさと、由緒正しい屋敷のような気品。その奇妙な両立を前に、百華と親しくもない私ですら、彼女らしさと感じてしまう。
「ここが群青娼館のラスボスの部屋……準備はいい?」
「……うん。いつでも!!」
 緊張しいのミラシカもここに来るまでに覚悟を決めた。ぐっと拳を握り、百華の待つ扉の先を見据える。百華とつながりのある彼女がいれば、私も心強い。
「さっき助けてくれたんだから、とりあえずは敵じゃないと……と思う」
 胸を蝕む不安は、深呼吸と一緒に追い出して。扉をゆっくりと押した。
金銀のタペストリーが互いに共鳴し合い、清らかな音を奏でて私たちを招き入れる。
「ようやく来たね」
 部屋の灯りは提灯が一つだけ。中はぼんやりと仄暗い。ガラスをはめられた観音開き窓は開け放たれていて、漂う煙を夜気に吐き出している。
 部屋の中央、たばこの草やマッチが詰まった煙草盆に肘を置く百華は、気怠げに煙を吐く。
……私たちの顔に思いきりかかっているし。
「髪に臭いがつく」
 レッドガーデンの象徴は何と言ってもこの赤髪。こう見えても、毎日の手入れには気を遣っているのに。
「この煙はちょいと特別でね。火をつける葉っぱに、数滴の媚薬を垂らしているのさ」
 百華はゆったりとした所作で紫煙をくゆらせる。
「へぇ~。だからこの部屋に入ったときから、ずっと変な気分だったんだ」
 私の後ろからひょこっと顔を出したミラシカは、そんな呑気なことを言って百華の前に立つ。
 前にもここに入ったことがあるのか。緊張はあまり見せず、若干のホーム感。
「久しぶり、百華姉さん」
 漂う紫煙越しに、ミラシカは頭を下げる。
「あの時は、助けてくれてありがとう」
 助けてくれたってことは、やっぱりミラシカは百華に借りがある?
「今さら感謝されてもねぇ……私は単に、弱い者いじめが嫌なだけさ」
「でもあのとき月花姉さんを説得してくれなかったら、最悪わたし、死んでたかもだし」
「大袈裟だよ。私はあんたが思うほど、善人じゃない」
「で、でもでも! 今だって助けてくれたじゃん!」
「寝るのにうるさかっただけさ。あんたたちを呼んだのも、眠気が飛んじまったから話し相手が欲しかっただけ」
 それなら全然、交渉の余地はあるわけだ。
「百華、ミラシカとあなた、一体なにがあったの?」
 ミラシカと百華のやり取りが一段落して、沈黙が降りそうになったタイミング。私はなるべく通る声音を意識して、百華の目を正面から見据える。百華はまたしても煙を吐き、嘲笑うように私の顔にふきかけた。
「部外者のあんたに、一から説明してやる必要、あるかい?」
「月花にも説明したはず……一応、今のミラシカの相棒は私だから」
「ふぅん。ずいぶん回りくどい言い方だねぇ……サキュバスの眷属になるのは、そんなに嫌かい?」
 ――やっぱり知られていた。私は奥歯を強く噛みしめ、動揺をひた隠す。
「群青娼館で働いている奴らはみんな知ってるさ。外に漏れていないのは、私がキツく口止めをしているから」
だからあんたにも感謝されるはずなんだけどねぇ。と百華は余裕を崩さず首をすくめる。
「なんでバレちゃったの?」
 このままじゃあずっとあっちのペースで埒が空かない。二人の間に立つ私は、今度は後ろのミラシカに問いを投げる。
「え、あ、……その……えっと……」
 水を向けられたミラシカはモジモジ。こういうときのこいつは、大抵なにかを隠している
「なんだい。餌が欲しくて片っ端から夜這いをかけていたら、月花に見つかった。簡単なことじゃないか」
「えっ……」
 痺れを切らした百華の言葉に、私は言葉を失う。なにそれ……普通に犯罪じゃん。
「この娼館に変な噂が立つのも嫌だからね。ちょいと私の力で火消しさせてもらったのさ。それだけの話」
「……ただの恩人じゃん」
 なんかこう、持ちつ持たれつの腐れ縁みたいな関係だと思っていた。いやまぁ、私が勝手に誤解していただけだから、ミラシカはなにも悪くないんだけど。なんかイメージとちがう。
「ま、そういうことになるだろうねぇ」
 要するに百華がミラシカを助けたのは、あくまでも群青娼館を守るためで、彼女の身を案じたわけじゃないってことか。そういうことなら、ミラシカを切り札に交渉を進めるのは難しそう。
「百華。私たちはあなたに頼みがあって、ここに来た」
 しかし私は削がれた気勢は微塵も覗かせず語気を強めた。
それなら、私自身の言葉で説得すればいい。どうせここ以外に、行くあてもないし。
「これかれ寝付こうってときに、商売の話かい?」
 媚薬入りの煙を楽しんだ百華はことりと。煙管を盆に置く。煙の残りを口端から漏らして、胡乱げな目線を私によこした。
「こっちにもそれなりの理由がある。悪いけど付き合って」
 言いながら私は、剣の柄頭にゆるく手をやる。
 ――手荒なことはしたくない。
 漏れ出した殺気に、百華は人形のような微笑みをたたえる。
「龍神に直通する転送石ねぇ……手配ができないわけじゃない」
「……まだなにも言ってないんだけど?」
「あんた以外にも欲しい奴がいるってことさ。こうして話を聞いてやるのは、あんたが始めてだけど」
 龍神はA級モンスター。単独でもチームでも、討伐すれば名が売れるし、桁違いの報奨金が手に入る。私たちと同じような考えの冒険者が、百華にアプローチを仕掛けるのも普通か。
「てことは、私たちには転送石を譲っていいってこと?」
「そうだねぇ……そうとも言えるし、言えないかもしれない」
 手のひらで転がすような話法。焦らされている。交渉の戦略だと分かっていても、気持ちが逸ってしまう。
「……あんたのトンチに付き合わされる月花の気持ちが、ようやく分かってきた」
「意地悪してるわけじゃないんだよ。ただ一つだけ、あんたたちにお願いがしたいだけ」
「それを叶えたら、私たちに転送石を譲ってくれる?」
「もちろん」
 我が意を得たりと、百華は笑みを深める。こっちがお願いしている分、無茶な要求されそうだけど――ここまで来て、背に腹は代えられない。
「……分かった。なんでも言ってみて」
「あんたら、遊女になっておくれ」
 自分の耳に飛び込んできた単語を疑う。
 ――遊女? 私たちが?

 そしてその後すぐ、百華によって私たちの着物が手配された。遊女らしい振る舞いを求められるのは、このあとすぐ。家に帰る暇もなく、すぐに別室に移った。
 こんな重い布の塊、着たことないし、遊女をやらされる理由も教えてもらえなかったし。
 まったく。なんで私がこんなことしてるんだろ。
「ま! そんな気落ちせずにさ! きっと百華姉さんにも考えがあるんだよ」
「ま! 百華姉さんにもなにかしらの考えがあるんだよ!」
 隣のミラシカも着物に悪戦苦闘……というわけでもなく。とっくに帯を絞めて、格好になってる。さすが経験者。この辺は手慣れているか。
「気楽なセリフ吐いてる暇あるんだったら、こっちを手伝って」
 袖を通すだけで身体が重いし、帯の結び方が複雑すぎる。こんなの、初心者が一人でできるわけない。
「はいはい! たまにはラピちゃんのお役に立たないとね!」
 ミラシカはにへらと笑いながら、私の後ろに回った。ぐちゃぐちゃになった帯を手際よく団子にまとめる。そこからネコの尻尾のように一本取り出すと、それを軸に綺麗な蝶結びをこしらえた。
「……うま」
 反論の余地のない、熟練の手際。私はポツリと、恨み節を漏らす。
「なーんか、私がお姉ちゃんになったみたいだね」
「ちょっと服を着させたぐらいで調子乗りすぎね?」
 とは言え帯がしっかりすれば、着付けもほとんど完成。後はかんざしと金粉で頭を飾り、化粧をするが、それは下女たちの仕事だ。
 彼女たちを呼ぶ鈴をちりりんと鳴らし、畳の間に膝を折る。その間、頭の中に浮かぶのは、百華の思惑だ。
「百華の狙い……私たちを広告塔にするとか?」
道筋の有無にかかわらず、とりあえず浮かんだ可能性を言葉にした。
「それならラピちゃんだけでよくない? ワケアリの私を使わなくても、いい気がするよ?」
「む。たしかに……それじゃあ……単純に百華の興味?」
「百華姉さんはそんな単純な人じゃないと思うな~」
「ならあんたは、どう思うの?」
 まさか代案がないとは言わせない。私より百華に近い分、ミラシカなら彼女の考えも読めるはずだ。
「ん~……厄介な客の相手をさせたいとか?」
「厄介な客?」
 私は唇を奥に巻く――要するに百華のボディガード。その可能性は、私も考えてはいた。まさかミラシカも同じだったとは。
「でもそれなら、お抱えの用心棒がいるんでしょ?」
 伝説級の怪物を相手にするんじゃないんだ。別に個々の腕が立たなくとも、頭数さえ揃えちゃえばどうとでもなりそう。
「そこが引っかかるんだよね~……結局、やってみないとなーんにも分からないんだけどさ」
「……それもそっか」
 ここでウダウダ考えても無駄か。もしかしたら単純に人手が足りないだけかもしれないし。
 そこでミラシカとの会話が途切れる。するとその切れ目を見計らったように襖が開かれる。化粧道具を持った下女が二人。無言のまま、私たちに取りかかる。銀粉で水鳥が描かれた櫛が髪をとかし、肌触りの良い筆が顔に白い粉をまぶしていく。小慣れた手つきは髪をまとめ上げ、唇には鮮やかすぎる紅――遊女としての見てくれが、着々と整えられていく。
「わー……! ラピちゃん、とっても綺麗!」
 隣のミラシカが羨ましそうな声を漏らす。
 同じような感じなのに……まぁ、私史上、最高にビジュはいいけどさ。
「別に……あんたもそんな変わらないでしょ」
 ミラシカだって、美人と呼べる範疇には顔が整っているんだ。そこに同じような化粧を施せば、私以上になるはずなのに……わざとらしいお世辞のせいで、なんだがむず痒い。
「あー! ラピちゃん、もしかして照れてるな~! 可愛いって褒められたら素直に喜んじゃえばいいのに~! このこの~!」
「だから普通だって! 脇腹ぷにぷにしないで! くすぐったいから!!」
 いつもはビビりの癖に、ちょっとこういう場に慣れているからって調子に乗りすぎ! 遊女としての経験も、どうせないくせに!
「お二人さん、ずいぶんと仲が良さそうだねぇ」
 いつからいたのか。喋り倒す私たちの間に、百華が割って入る。
「うんうん。やっぱり私の見立てはハズレていなかったね。二人とも、今すぐ客が取れるくらい美しいよ」
「……一応、褒め言葉として受け取っておく」
 どこまで行っても遊女の言葉だ。機嫌を取るためのでまかせ。真に受ける方どうかしている――って頭では分かっているのに。胸の奥底では気持ちが高鳴ってしまい、なんか悔しい。
「それで百華姉さん! 身なりはバッチリ整えたけど、私たちは何をすればいいの?」
「それ。顔を見せたんだったら、ついでに教えて。まさか、客引きなわけじゃないでしょ」
 渡りに舟。ミラシカの話題に乗っかって、褒められた気恥ずかしさを隠す。別になにをするかなんて、聞いといて損はないはずだしね。
「やだねぇ。そんなに難しいことじゃないよ」
 百華はあっけからんと笑う。するとそのタイミングを見計らったように、下女たちが部屋から出ていった。騒がしい楽屋から、怪しい話をする密室へ。がらりと雰囲気が切り替わる。
「誰かの耳に入れたくない依頼ってことは分かった」
「ふふん。さすが守護者。察しがいいね」
 わざわざ外様の私たちを使うんだ。真っ当な仕事の方がおかしい。
「簡潔に言えば、あたしを守ってほしいんだ。あたしの命を狙っている、妙な客からね」
 ――命を狙われている。一般人ならパニック必然の状況を、百華はさらりと言う。
「え……誰が百華さんを狙っているの?」
 それに対するミラシカの顔は、面白いほどの真っ青。剣先が鼻先まで迫っても、あんな表情は浮かべない。
「それが分かっていたら苦労しないさ」
「でも心当たりがまったくないわけじゃないでしょ?」
 護衛の基本は、守るべき対象よりも襲ってくる敵を知ることだ。なんでもいい。今は上等な武器よりも情報が欲しい。
「恨みならいくらでも買っているからねぇ……正直に白状しちまうと、こんなことは初めてじゃないんだ」
「ならその時はどうしたの? 私たちみたいな腕利きを雇った?」
「いいや。丁寧にもてなして、お引き取りをお願いしたさ」
「お引き取りって……殺されちゃうかもしれないのに、普通に相手したの!?」
 ありえない! とミラシカは口元に手を当てる。狙われているのに飄々としているのは、そういうわけか。
「こっちにもいろいろ事情があるのさ……大っぴらに話せないような事情がね」
 百華は長いまつげを揺らして、控えめに微笑む――それ以上は教えないってことか。
「OK。転送石を約束してくれるなら、どんな相手からでも守ってあげる」
「群青娼館一の遊女に二言はないよ。安心しな」
 だといいんだけど。私は着物の下に隠した短剣に、布の上からそっと触れる。いつもの長剣は取り回しが悪いから、今回はお留守番だ。
「作戦はいつも通りでいいよね。いざとなったらラピちゃんが前を張って、私が後ろから応援するって感じで」
「応援、じゃなくて援護ね。なにちゃっかり逃げようとしてんの」
「べ、べつに逃げてねぇーし! ちょっとした言葉の綾だしっ!」
 鞘に収まった短剣よりも、トリガーを引けばすぐに弾の出る銃の方が屋内じゃ有利だ。スペースが狭い分、距離を詰められやすいっていうリスクはあるが、その時は私がカバーすればいい。
「さぁ、お二人さん。楽しいお喋りはそこまでにして、そろそろ仕事の時間だよ」
 百華は立ち上がり、隣の自室に戻る。彼女が中央で膝を正し、その両脇を私たちが固める布陣だ。武器の最終チェックを終えた後は、沈黙を共有して噂の客を待つ。
 依頼を受けてからここまで、遊女らしい装いは整えた。後はせめて、百華みたいに綺麗な正座ができたら完璧なんだけど――どうやっても、すぐに足が痺れて崩れてしまう。
「焦りなさんな。若い女にはちょっとばかし穴があった方がいいのさ。そっちの方が、色々と燃えるらしいからね」
「そんなの知らないし、私に男心の理解なんか求めないで……そういうのは、こっち担当でしょ」
 毒づきながら密かに指を伸ばし、後ろからミラシカの足裏をなぞってやる――どうせまだ来ないんだ。暇をもてあそぶぐらいなら、さっきの仕返しだ。
「ひっ! なんか足の裏が這った! 虫!? 百華姉さん!?」
 予想通り。ミラシカのハスキーな声が、厳かな空気にヒビを入れる。
「なんであたしなんだい……腐っても客が来るんだよ? いい加減、お笑いは止してくれ」
 百華がたしなめ、緩んだ部屋の空気は取り直される。
 これ以上は蛇足だ。私は顎を引き、意識を空気と同じものに切り替える。
 するとその瞬間を計ったように、ひた、ひた、と。階下からかすかに足音が聞こえる。隠そうとしているのか誇示しているのか、どっちつかずの中途半端な質感。
「……もてなすのはあたしがやる。あんたらは黙ってマネをしてりゃいい」
 百戦錬磨の百華にも緊張の色が現れる。その間にも足音は着実に迫り、ついに部屋の前でとまった。
「……くる」
 いつでも抜けるよう、着物の上から鞘に指を当てる。襖が音もなく開いた。灯籠が薄ぼんやりと照らす廊下には、誰もいない。
「……え?」
 残されたのは、うるさいほど耳朶の奥に響く心臓の亢進。虚を突かれた私は何もできず、ただ目を見開くばかりで――一迅の風が、部屋の中を吹き抜けた。
「――なっ!!!」
 疾風の如きスピードで何かが突き抜ける。黒をまとった人影。迷いのない一直線で、百華の正面に飛びつく。
「――あ」
 無論、百華にはなにもできない。元々大きかった双眸はさらに見開かれ、中途半端に伸ばされた腕が、助けを求めて私の袖口に触れた――あまりに速すぎる展開に、私はなにもできない。その間にも、黒をまとった影は部屋の中を突き抜けていく。
「百華姉さんっ!!」
 ミラシカが叫ぶ。完全に隙を突かれた。影は誰よりも速く、部屋の窓から逃げ出した。夜風が部屋に流れ込み、水を打ったような静けさに満たされる・
「くそっ!!」
 私は悪態をつきながら、窓枠から身を乗り出した。時間はちょうど繁忙の最中。群青娼館の面する大通りは客と女で溢れていたが、それらが騒ぎと一緒に縦へ割れていく。
 ――あそこだ!
 今からまだ間に合う。守護者の身体能力を使うのに、一切の躊躇はしていられない。
「え、え、え! 百華姉さん、連れてかれちゃった……どうしよう……どうしよう!?」
「ミラシカ!!」
 でもその前に、まずはミラシカを落ち着かせないと。私はわざと大きな声を出して、強引にミラシカの両肩をつかむ。びっくりした彼女は、口を中途半端に開いたまま、私を正面から見据える。
「まずは、深呼吸。ほら、吸って……」
「はいてー……うん、ちょっと落ち着いた」
 さすがはゴブリンの巣穴で一暴れしただけはある。こんな鉄火場に身を置いても、理性が動揺に奪われるようなことはない。
「ミラシカはここで待機。百華は私が助ける」
 現時点で打てる最善の一手を、私は早口でまくし立てる。
「で、でもそれじゃあラピちゃんは!?」
「私は絶対平気だから……それに多分、ミラシカがいても歯が立たない」
 それを言うなら龍神もそうなんだけど。相手は怪物じゃなくて、こっちと同じ理性を持ったプロだ。対峙すればミラシカの実力を見抜いて、真っ先に彼女を狙うかもしれない。
「……極力、あんたには傷ついてほしくないから。お願いだから、留守番してて」
「……ここでデレラピだすのは反則なんですけど」
 そんな軽口の応酬はいい加減にして。納得してくれたのなら話は早い。私は窓枠に足をかけた。
「あんまり、無茶はしないでね?」
「あんたが私を心配するとか、百年早い」
 そのまま夜気に体を預ける。重力に従って落ちていき着地したのは大通りに軒を連ねる屋台の屋根だ。布の屋根は衝撃で大きくたわみ、私は弾かれるようにして石畳に足をつける。
 滅多刺しにするのは、周りの好奇の視線。騒ぎを聞きつけた用心棒たちが、蛮声を轟かせてこっちに向かってくる。
 ――今は、かまっていられない。
 大通りの人波は影が走った軌跡をなぞるように割れていた。用意された最短ルートを、みすみす逃す手はない。
 足に力をこめれば、はっきりと心臓の鼓動が早まる。体中を流れる血流が太股に集中して、それを一気に放出するように地面を蹴った。
 体はどんどん加速していき、視界はゆっくりと後ろに流れていく。野次馬のどよめきも、舞い上がる土煙も置き去りにして目指すのは、影の逃げた方向。群衆の声をそのまま道標にして、そちらに足を向けると。
――見つけた。敵は全身を黒の衣装で固めていて、気を失った百華を右肩に担いでいる。背丈は私よりも大きくて、引き締まったシルエットが衣装の上からはっきりと強調される。
「とまれっ!!」
 守護者の身体能力を持ってしても、距離が縮まらない相手。手加減なんかしていられない。私は大通りを挟む娼館の塀に足をつけ、そのまま壁走りの要領で突き進む。敵との距離を縮め、短剣の柄に指をかける。壁を蹴るのと同時に、抜き身の刃を放つ。
「くっ――!」
 頸を狙った一撃は、しかし寸前のところで弾き飛ばされる。影は黒の衣裳の隙間から長剣を抜き、百華を抱えながら片手で扱う。夜光に照らされ、ぬめぬめと反射する白刃の紋様。襲撃からここまで、片隅に抱いていた嫌な予感が確信に変わる。
「ふざけるなっ!!」
 私は両手で短剣を握り、相手は片手に構える。大通りには依然として人に溢れていたが、そんなのはお構いなしだ。
 ――敵は、誰よりも私を知る人。こっちの動き、考えは読まれている……けど、それはこっちだって一緒だ。
「その人を返して」
 無駄だと知っていても、私は声を飛ばす。柄を握る指の間にじっとりと汗が溜まる。私だって、できることなら戦いたくないのに。
「戯言を」
 開戦の火蓋は一方的に落とされて――影は左右に揺れる独特の歩法で距離を詰め、上から刃を振り下ろしてきた。
「はっ!」
 私は短剣の刃を横に構え、その斬撃を迎える。ガキンッ! と金属の重低音が響き合えば間近に風を感じて火花が散らされる。
「このような下種の女の力を借りるとは……血迷うのもいい加減にしろ」
 強い言葉を飾る冷ややかな声音は、嫌でも心の中にこびりついている。耳朶から入り込んだ声はトラウマの呼び水となり、胸の内の動揺をかき立てる。
「血迷っているのは、そっちの方だっ!!」
 それでも私は間一髪のところで踏み止まり、己を叱咤するように声を荒げる。迸る激情はそのまま短剣に注がれ、敵の刃を弾き飛ばす――今度はこっちの番だ。
 熾火のようにくすぶっていた両足に力をこめる。石畳の地面がへこむのと同時に、敵の懐に潜り込んだ。姿勢は低く、下からの刃で攻める。何度も練習した、得意の形。守護者のスピードで、このゼロ距離なら、防げる者はそうそういない。
「甘いな」
 ――はずなのに。男は踊るように体を動かすだけで、私の渾身の一撃を避けた。盛大に空振る私は鳩尾を晒して、そこにすかさず柄頭がめり込む。
骨が軋み、臓腑が圧覚され、酸っぱい胃液が逆流する。耐えられない。たまらずその場に膝をつく。
「情けない……それでもレッドガーデン一の天才か」
「うる、さい……!」
 四肢の隅まで支配する激痛を振り切るように、短剣の刃を滑らせる。胸の内を迸る焦燥の激情が刃に乗って、攻撃の精緻さが欠けていくが、それでもかまわない。
 今はかすり傷でもいい。なんとかして、この男の気を引かないと。
「もういい。全て分かった」
 男はため息を漏らすと、担いでいた百華を放り投げた。朱と金に飾られた、彼女の華奢な体が夜空に浮かび上がる。ここまでの立ち回りを何かの劇と勘違いした群衆は声を上げ、私もそれに引っ張られるように視線を上げる。
「終わりだ」
 二度目の隙を晒した私に好機(チャンス)なんてない。男は私の肩を掴み、強打を加えた鳩尾に膝蹴りを加える。石のように硬い膝頭が脆い骨を粉砕する。うねりを増して押し寄せる激痛の波が、立ち上がる気概を刈り取って。
「ま、だ……!」
 言葉とは裏腹に、息が上手くできない。私はその場にうずくまる。背後ではどさりと、百華の体が石畳に打ちつけられた。
「家を出てから、ここまで……少しは成長していると思ったが、見当違いだったな」
 男は剣を鞘に収めながら言う。黒の衣装から私を見下すのは、思った通りの鉄仮面。これまで、何度のその顔に怯えてきたことか。
 ここまで来たってことは、どうせミラシカのことも知っている――ここでなんとかしないと、またこの人に奪われる。
「無駄だ」
 それなのに私はなにもできなくて。支えにしていた短剣も蹴り飛ばされる。なにもできない。為す術を失い倒れた私に差し出されるのは、手ではなく剣の切っ先。
「私の邪魔はしないで……どうして……父さん!!」
 あの刃紋から繰り出される剣技、この体に刻まれた痛み――どんなに離れていても、忘れられるわけがない。
「腐ってもお前もレッドガーデンの一人だ」
 鍛え抜かれた刃のような眼差しで私を刺しながら、父さんは続ける。
「これ以上、勝手な振る舞いで家名を汚すな」
 静かな怒意と一緒に紡がれる言葉は、思った通りの内容――娘の心配なんか微塵もなくて、逆に安心してしまう。
「あの娘のことはお前に任せる……同じ轍を踏まぬよう、今度は上手く調教してみろ」
 そうして言いたいことを一方的に吐き捨てた父さんは、くるりと踵を返した。
「ま、て!!」
 あの冷血漢には届かないと分かっていても、声を荒げずにはにはいられない。
 自分の実力を示して、あの人に代わってレッドガーデンの首座につく。それが家出の目的だったのに、こんな結末――納得できるわけがない。
「まだ、やるつもりなのか?」
 私の絶叫に、父さんはぴたりと足をとめる。こっちに視界に収めず、耳だけ傾けている――思った通り。
「――ッ!!」
 私は最後の力を振り絞って、地面を蹴った。まともな攻撃ですらない、最後の悪あがき。獣みたいに四つ足をついて、短剣を口にくわえて猛進した。せめて、一太刀だけでも。
「家名を汚すなと、言ったはずだ」
 父さんは剣を抜き、そこで初めて振り返る。体の軸を右にずらして、星に掲げるように刃を縦に構えた。間抜けな私は、今更止まることはできない。右腕の付け根が、用意された白刃に食い込む。速度はそのまま凶器となって、私の肉を断ち切る。
「がぁぁ!!」
 痛い、なんてものじゃない。筆舌に尽くしがたい苦痛が五感を塗り潰す。
私の赤髪よりも、唇に塗った紅よりも赤い鮮血が腕から噴き出して、石畳を潤していった。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 群衆はそこでようやく、目の前で惨劇が本物の殺し合いだと気づいた。私の血が頬につく人は甲高い絶叫をあげて、他の野次馬も蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
 惨劇の現場に残されたのは、気を失った百華と、右腕をなくした私、血のこびりつく刃を丁寧に拭く父さんだけ。
「……次はないと思え」
 誰もいなくなった宵街の闇に溶けるように、父さんは姿をくらませる。
「あァ……あァァァァァァ!!!!」
 腕を断ち切られても半端に意識を残す私は、胸に渦巻く感情を声に叩きつけることしかできない。
 結局、私はなにもできなかった。一族を離れる前と変わらない無力のまま、百華を守り通すことも、父さんに実力を誇示することも――なにもかも。
 血を出しすぎた。猛烈な痛みに喘ぐ私の意識は、生温かい血溜まりの中にとけていく。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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