僕はその日、衝撃を受けた。まるで悪夢でも見ているようだった。僕の目の前で、彼女が、──黒いパーカーを着た彼女が、白い雲のかかるビルの屋上から、落ちていった。……
六畳一間には磨りガラスからの灰色の光が入っている。白い壁は黄色く見えるくらいに膠で汚れている。少しくねった皺だらけの布団の上に、僕は一人、座っている。横には最後にいつ着たかもわからない、衣服の山がそびえ立っている。そこの一番上にある白いTシャツに目をやる度、ぼんやりと黒いパーカーの少女が浮かんだ。
「何言ってんの?」
僕は或歩道橋の上で、彼女と久しぶりに出会った。黒いキャップに黒いパーカー、そしてこれまた黒いソックスに、白のスニーカーが光っていた。少し吊り目の彼女は僕と同級生だった。
彼女は啣えた煙草に火をつけながら、嘲るように笑った。その薄い唇の下には、黒真珠のピアスがついている。以前とまったく雰囲気が変わってしまった彼女に、僕は恐怖さえ感じていた。
「前から好きだったんです」
「ふーん。前から、ねえ」
煙草を吹かしながら、歩道橋の縁に両肘を乗せた。僕はその姿に、少しの大人らしさを感じた。
「あんた、今の私を見ても同じ気持ちなの?」
「え、まあ……」
僕は挙動不審になった。脳裏にいじめっ子の金髪姿が思い浮かんだからだ。校舎裏で、三人の男女に囲まれていた。
「そうだ。オマエさ、茅野に告白して来いよ。でさ、アイツとセックスして、その動画を寄越せ。そしたらいじめをやめてやるよ」
リーダー格のKは第二ボタンまで外した白いYシャツから、赤いTシャツを覗かせながら、冷笑するように言った。その後ろでやはり金髪の男が、学校の境界に張られた金網に凭れてにやけ顔を見せている。その傍らにスカートを限界まで短くした女が「やば」と思ったより低い声を出したかと思うと、すぐに「きゃはは」と癇高い声をあげた。
その命令に強い嫌悪感を持ちながらも、勿論反抗できない僕は、長らく学校に来ていない彼女に、LINEで渋々連絡した。そうしてこの歩道橋で落ち合うことになったのである。
そんなことをつゆ知らない彼女は、煙草を指の間に挟みながら、白い煙を吐いた。
「まあ、いいや。付き合ってあげる」
「え。いいんですか?」
「あんた、彼女に敬語使うの?」
彼女はそう言って笑った。その蒼白い頬に浮かべた靨に、高校生らしい子供っぽさがあるのを感じ、僕は胸を撫でおろした。
……木でできた天井は、所々に黒い染みを作っていた。もう一度横になった僕はぼんやりと天井を見つめていた。もういない少女のことをいつまでも考えていてもしようがない。そんなことはわかっている。しかしあの淡いトーストのような匂いが、身体に浸みついてまだ離れない。
それから彼女とは、学校終わりに、ほぼ毎日会っていた。出会った時にあった恐怖も、もうすっかり消え去っていた。しかし心のどこかに彼女への畏怖と尊敬の念があった。そして強まってきたのは、彼女への情だった。
ゲーセンの喧々囂々とした空間の中、僕は彼女のために、UFOキャッチャーをしていた。もともとゲームが得意だった僕にとって、小さなぬいぐるみのストラップを取るのは造作もなかった。が、二の腕に感じる彼女の体温に、僕の手は小刻みに震えた。そしてそれは確かにアームに伝わって、取りかけたぬいぐるみはすぐ下へと落ちた。
「もう一回だけやらせて」
「しかたないな、今度こそ取ってね」
僕は悔しさのあまり、もう一度百円を入れて、アームを動かしはじめた。けれどもアームはゆらゆらと動いて、またぬいぐるみを落とした。
ゲーセンの自動ドアをくぐると、外はすっかり暗闇に包まれていた。といっても、ゲーセンの看板の光や向かいのコンビニの白い光のおかげで、あたりは明るかった。夏の涼しい夜風が頬を撫でた。相変わらず二の腕には温かいものがあった。心做しかそれは鼓動を持っていた。
「これからどうする? 私は予定ないからあんたさえ良ければ……」
彼女はその蒼白い頬に、ほんのり赤を落としていた。その様子を見て、心にほんの少しの性的好奇心が生まれた。が、それと同時に、恐怖と、激しい罪悪感が湧き上がった。脳裏に浮かんでいたのはあのKの言葉だった。震える喉を抑えながら、声を出した。
「じゃ、僕の家にでも。今日は親いないし」
「意外に、そういうのが好きだったり?」
彼女は上目遣いで僕を仰ぎ見ながら、艶やかな微笑みを浮かべていた。彼女の肩にかかった、内側だけ紫に染まった髪の毛が、風に吹かれて揺れていた。
月明かりの白い光の入った、静かな六畳一間に、僕は腰を落ち着かせた。向かい合うように彼女もアヒル座りをしていた。片方だけ白い光に照らされた彼女の顔はほのかに熱を持っていた。ふと僕は震える手で、ポケットからスマホを取り出した。その様子を彼女はそっと笑った。
「やっぱり変態なんだ」
「そういうあなたも慣れてるね」
「まあね」
彼女は畳の方へ目を逸らした。その表情にはどことなく自嘲の気色を滲ませていた。その表情に僕は、学校にいた頃の彼女を彷彿させた。それは黒いメガネをかけた、スカート丈を膝まで下ろした女子高生の顔だった。金髪の癇高い声の女に、悪口をぶつけられていた少女の顔だった。
それから僕は、──朝方、彼女と別れた後の僕は、保存した動画を、KのLINEに送っていた。
『うわマジで送ってきた笑』
『サイコパスかよ笑笑』
我慢ならなくなった僕は、電源ボタンを押した。胸の内は彼女への罪悪感しかなかった。頭の中に、ぼんやりと呟かれた、彼女の艶やかな声が蘇ってくる。
「私もね、君のことが好きだったんだ」
彼女は目を窓の方へやって、苦しいような嬉しいような笑みをぼんやり浮かべながら、そう呟いていた。その目は月の光に照らされて、ゆらゆら輝いていた。
僕は頭を抱えて、思いっきり叫んだ。言葉にならない声は、体液で滑らかに輝いている畳に吸い込まれていった。
数週間彼女と会わなかった。テスト前だからだと言い訳をしていた。が、勿論勉強に集中できる訳がなかった。Kは間違いなく動画を拡散させていた。周囲の僕を見る目は冷やかなものになっていた。それでも僕は勉学に励んだ。そうしてそのうちにテストは終わった。
或秋を感じる日だった。彼女からLINEが来た。
『あの歩道橋で待ってる』
僕は妙な胸の鼓動を感じながら、歩道橋へと向かった。歩道橋の下は相変わらずひっきりなしに車が通っている。
『来た』
『上見て』
言われるがまま上を見上げた。すると、目の前の灰色のビルの屋上の縁に、黒いパーカー姿があった。その顔はにっこりと笑顔を浮かべていた。そのすぐ後にスマホが震えて、僕はLINEを見た。
『じゃ、またどこかでね』
次にビルの屋上に目を向けた時、彼女の身体は逆さまになっていた。あまりにゆっくりに落ちているように感じた。…………
ふと横を見ると、白いTシャツの下の山から、くしゃくしゃになった手紙が覗いていた。それは彼女が死んだ次の日に届いた、彼女からの手紙だった。
「君の事情、本当は全部知ってたよ。Kにいじめられていること、その命令で私に……」
僕はその文章を見た時、息が止まった。そしてまた激しい罪悪感に囚われた。気づくと涙がこぼれ落ちていた。ぽつりと脳裏に黒いパーカーの彼女の笑顔が浮かんだ。あの笑顔は、涙で歪んでいたのかもしれない。
……窓から強い西日がはいってきた。僕は黒い染みのついた天井をいつまでも眺めていた。
あの歩道橋の上で
青春残酷物語、心理サスペンス
"裏切りと後悔が織りなす、青春の終焉を告げる慟哭。"
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