カラカラに乾いたアスファルトが朱に染まっていた。夕焼け。本来ならば数刻で濃紺に飲み込まれるはずの色は、けれど、いつまでも鮮やかな朱に保たれていた。
――どうして、誰もいないんだ!
叫んだ声はただ空に響き渡る。千賀は虚しく反響するそれを確認すると、アスファルトに膝をついた。
どうしてこうなった。『ここ』に迷い込んでから何度も反復した疑問をまた繰り返す。
本を読んだのだ。ただそれだけだ。ただ、怪しげな男に勧められたその本を、出処を確認もせずに読んだだけ――
「何で……こんなことに……!」
確かに迂闊ではあった。軽い気持ちでオカルト研究会に入ったことも、大学内のそんな怪しげなサークルに訪れる見覚えのない男を疑わなかったことも。
けれど、その古びて文字の掠れた本を読んだ――否、単に目を通しただけで、こんな空間に閉じ込められるとは思いもしなかった。
「クソッ! 儀式が要らないなんて、有り得ないだろう!」
誰もいない恐怖を紛らわせるように、千賀は声を張り上げる。
開かされたアレが例えば魔導書のような物――非現実的だとかいう認識はこの際どうでもいい――として、通常ならば中に記載される儀式を行う必要があるのではないか。軽く目を通したことで怪異に巻き込まれるなど不条理極まりない。これではまるで呪いではないか。
あの男に陥れられたのか。否、間違いなく初対面だ。ならば、誰か知人に疎まれて……?
千賀は頭を振ると、余計な考えを払おうと思い直す。こんな場所で暗い気分になってどうする。とにかく戻ることが先決だろう。
何かのヒントになりはしないかと、目を通した書の姿を思い出そうとする。本文は英語だった。翻訳しなければ、と面倒に感じたのを覚えている。それが叶っていないので、当然内容は把握していない。触れたら崩れるのでは、と危惧する程に古びた表紙をしていたのは記憶している。確かその表紙には、
(『Celaeno……』ケレーノ……いや、違う、セラエノ断章か――!)
そこにあった名は外なる神々から身を守る為の知恵とも、旧支配者の遺産とも言われる書のものだった。
恒星セラエノの図書館に収められる石版を英訳し、写したと伝えられている書物。だが、あれはミスカトニック大学で厳重に保管されているはず。そんな魔導書の断片が日本のような極東の僻地にあるというのか? それとも、目にしたのはセラエノ断章を更に書き写したものなのか……?
(いや、それは今はどうでもいい。それよりもここがどこで、どう戻るかを考えなければ)
事ここに至っては、意味のない原因を突き止めても仕様がない。仮にセラエノ断章を開いたのがトリガーだったとして、中身を読めていない状況下でそれを知ることに意味はないだろう。
千賀は改めて周囲を見回す。一見するとこれまで過ごしていた街並みと変わらない。大学の敷地から一歩踏み出した場所。ごちゃごちゃと食堂やらクリーニング店やら、厭に生活の匂いがする店舗が散見される。目の前には二車線の然程広くもない車道と、申し訳ばかりの歩道。景観の為か植えられた街路樹は、経年を感じさせる程度に幹が育っていた。緑の葉が茂る様を見ても、ここに迷い込む前と時節は変わらないようだ。新緑がその色を濃くする初夏である。
(歩くか、留まるか)
歩かなければ情報は得られない。しかし、迂闊に進んでいいものだろうか。人の気配がないだけならばよいが、ここに来るキッカケがキッカケだ。人ならざるモノが蠢いていたとしても不思議ではない。そう、例えば――『邪神』と呼ばれるモノ達が。
H・P・ラブクラフト。アメリカの小説家。クトゥルフ神話の祖とも言われる人物だ。
彼の書き残した小説は総じて未知の怪物達が跋扈する。その作品群はクトゥルフ、アザトース、ナイアルラトホテップ――後に邪神と呼ばれるそれらの怪物と、邪神を中心としたクトゥルフ神話体系を生み出した。
一般的には単なるペイパーバックのホラー作品。だが、後に邪神との遭遇を訴える事例が何件も見られたことにより、これまでに書かれてきたクトゥルフ神話は、ラブクラフトによる人類への警告なのでは、とする説がまことしやかに流れていた。
千賀の所属するオカルト研究会でも、その説が支持されている。単なるホラー小説だとするならば、舞台とされているアーカムやインスマウス、ミスカトニック大学がああまで反発する理由がない。たかが現実離れした小説に目くじらを立てて『事実と異なる風評を流すな』などと差し止めを訴える必要はなかったはずだ。何某か、公にできない秘密に触れているに違いない――それがオカルト研究会での認識である。
千賀はその説を他メンバーほど熱狂的に支持してはいないが、所属しているサークルの信条を理解はしている。浅学ながらクトゥルフ神話について齧ってもいた。だから分かる。
(選択を誤れば、正気を失うか死か……)
惨殺を行う邪神もいる。目にしただけで発狂する邪神もいる。生涯追われ続けたり、人の世に戻れなくなる可能性もある――そんな危険性が潜んでいるという事を。
しばらく考え、彼は一度大学構内のサークル棟へ戻ろうと決めた。まだあの場所にセラエノ断章があるかは怪しいが、あの書がここに来るトリガーだったのだ。何かしらの情報が得られるかもしれない。
と、踵を返し、正門を潜った瞬間だった。ぎち、と硬質な物が軋むような音が鼓膜を揺すった。
千賀は正門の陰に身を潜め、先程まで無防備に立っていた歩道を見遣る。地面に伸びる影を見て、人間ならいいが、と様子を覗った。
ぎち、ぎち、と軋む音は近付いてくる。音は徐々に大きくなるというのに、未だその姿が見えてこない。影は大きく膨れるばかりだ。
声を漏らさないよう、口を手で押さえる。どうしても浅くなる呼吸を無理矢理に深くする。全身が心臓に変わったかのような鼓動を感じながら、千賀は影の主を待った。
ぎち……ぎち……続く不規則なリズムに、聴いたことのないような不快な音が混ざってくる。吐息を歯の間から抜くような、それでいてどこか湿った音。そこにまた別の衣擦れのような音も加わってくる。
(ヒトじゃ、ない――)
本能で理解できる。ヒトの産み出せる音ではない。禍々しく淀む空気も。鼻腔に届く乾いた枯木のような臭いも。
視界に『脚』が踏み込んできた。薄紅の甲殻に覆われた爪先がアスファルトに突き立てられる。
ずっと続いていた軋むような音は、この甲殻の節が立てていたのだろう。徐々に明らかになるその姿に、恐怖を掻き立てられる。
小柄な女性ほどの高さのその身体は、薄紅のツルリとした甲殻を纏っていた。体だけなら巨大な、家を持たないヤドカリのようである。前方に突き出した鉗脚の一対や、節々から音を立てる幾本もの脚部を器用に使い道を闊歩する様子など、まさしくその物だ。だが、楕円形に渦を巻くそのくすんだ色の頭部には隙間なく突起が生え、各々が何かを探すかのように蠢いている。その後方、背中には巨大な蝙蝠のような羽が聳やかされていた。
(ミ=ゴ――!)
惑星ユゴスからの訪問者。アーカム周辺での目撃例は幾つか報告されているはず。地球にある鉱石等を採掘しているのが確認されている。
彼らが地球の生物を捕食したとされる例は未だない。だが、危害を加えない訳ではない。もし仮に気に入られでも――或いは侮蔑の対象になりでも――したら、脳を摘出され彼らの持つ円筒形の器に囚われる。その間、人智を超えた知識を与えられ、体も老いず朽ちずに残るとは言うが、常に彼らの話し相手を余儀なくされては正気を保てやしないだろう。
千賀は怪物の視界から逃れるように正門に体を押し付け、どう回避するかを探る。ミ=ゴが相手だとするなら、過剰な接触さえ避ければ逃げられる。彼らとの遭遇例で襲い掛かってきた、等の事例を聞いたことはない。基本的に彼らの採掘の邪魔をしなければ、関心を買うことはないのだ。
(このまま遣り過ごせ……何もしなければ、何もされない……)
否が応でも乱れてくる呼吸を整えようと足掻きながら、視界で蠢く影を注視する。つるりとした甲殻に反射する光。それがどういう屈折をすれば、表面の薄紅に暗い緑が混ざるのだろうか。禍々しい彩りから目を逸らそうとすれば、自然頭部のアンテナ様の突起に視点が定まってしまう。うねる無数の突起物。周囲を注意深く偵察する動き。にゅるりと伸び、左右に振れる。かと思えば別の突起が絡むようにして二本纏めて下方へと垂れ下がる。縮まる。そして別の突起が追い掛ける。
一見くすんだ灰褐色のそれは細かな色のドットによって構成されていた。ゆらゆら、ゆらゆらと彩度の低い赤が、紫が、黄が揺れる。揺れて、混ざり合って、絡まり、連鎖を、
ビイイイイイイィ――
突如響いたブザーのような異音に、千賀は我を取り戻した。思考を失いかけていたことに今更気付く。単純にミ=ゴの動向を眺めていただけだというのに。
正気を失うとはどういうことなのか、その片鱗を味わったような気がする。こんな些細な注意一つで思考が奪われるとは。
頭を軽く振って気を引き締める。僅かでも緩めては駄目だ。いとも容易く正気は奪われていく。
なるべく注視はしないよう、微妙に焦点をぼやかしながら怪物を見守る。と、異音を放ったソイツは、背にある一対の羽を大きく広げて羽ばたいた。翼は蝙蝠のような外見をしていたが、飛行の軌道も蝙蝠のそれである。フラフラと頼りない動きで舞い上がり、彼方へと飛び去る。動きに見合わない速度で小さくなっていく影を見送り、千賀はその場に座り込んだ。
(クソ……腰が抜けてやがる……)
それほどの危機に遭遇した訳ではないというのに、膝に力が入らない。恐怖。緊張。それらがない混ぜになり、解けた今では体が千賀自身の制御から外れかけていた。
とにかく落ち着いて感覚を戻し、ここから移動しなければ。いつまたミ=ゴと遭遇するか分からない。そう判断した。けれど落ち着くだけの余裕は、千賀に与えられなかった。
ふわりふわりと、車道の向こうを光の玉が舞う。握り拳ほどの大きさしかないそれ。柔らかな、蝋燭の灯りのように揺れる優しい光。夕焼けの朱にも似たその色は誘うように踊りながら、車道と歩道を隔てるガードレールに触れる。消えてしまうのでは、と不安を抱くようなか弱い光は保たれたまま空を舞い。
光が触れた鋼鉄のガードレールはぐにゃりと曲がり、やがて朱く溶け出した。
「――――っ!」
声が出ない。常識の範疇を超えた恐怖は、千賀から全てを奪おうとしていた。
夕焼けの朱に似た光? 当然だろう、あれは高温で燃え盛る炎の玉なのだ。周囲が揺らめいて見えるのは、温度差で陽炎が立っているからなのだ。あんな物が触れたら――否、近付いてこようものなら――
(死ぬ……)
つう、と汗が額から目尻を通り頬へと流れ落ちた。まるで涙のようなそれは、恐怖から湧き出したのか暑さ故か。這いつくばってでも逃げなければと自らに言い聞かせる千賀の手足は、未だ制御下へと戻ってはいなかった。
(死……)
諦めれば、一瞬で消し炭になれるのだろうか、などと考え目を閉じた瞬間。
「っ……ぅあ――!?」
体が浮き上がる感覚に目を開ければ、風景が急激に遠ざかっていく。耳元では轟々と風を切る音。自分が後方に投げ出されたのだとどうにか理解するも束の間、すぐにマットのような弾力のある何かに背中から叩き付けられた。
「ぐ、ふ――っ!」
痛みはない。だが、かなりの速度からの停止だ。体に掛かる重力でまともに息ができなくなった。
チラチラと星が散る視界の中。カツ、と音を立てハイヒールに包まれた足が地を踏み締めた。
「……こんなところで人間を見るなんてね」
興味深げな声音。どこか少年のような響きの高い声は頭上から降ってきた。
「自ら来たようにも見えないけれど、ここに迷い込むなんて話は聞いたこともない」
ゆっくりと視線を上げていけば、そこには豊満な肢体を持った褐色肌の女性がいる。
「面白いじゃないか。なあ、キミ」
はち切れそうな乳房を白いブラウスに包み、短い黒のタイトスカートから覗く肉感的な太腿を惜しげもなく晒した女は、横たわる千賀の顔を覗き込んできた。褐色の肌とは対照的な銀の髪が、波打ってさらりと落ちてくる。
「君、は……」
衝撃で軋む肺を絞るようにして、目の前の女に尋ねる。通常なら見惚れて声など掛けられないだろう女性を相手に話せたのは、ここが異質な空間で、異常な事態に巻き込まれているからなのだろう。
「おや、私のことを尋ねるのか? この状況下で!? いよいよ以て面白いな!」
驚愕の表情から一気に破顔した女は、千賀の手を引くとゆっくりと立ち上がらせた。抜けていた腰はしっかりと千賀の支配下に戻っている。
「良いだろう。気に入った。私はナイアルラトホテップ、ナイアーラソテップ、ニャルラトホテプ、ニャルラトテップ、千の無貌、無貌の神、闇をさまようもの、這い寄る混沌。キミの好きなように呼び給え」
彼女の――否、この邪神の名を聞き、千賀は言葉を失った。思わずまじまじとその貌を見つめる。
気の強そうな切れ長の目を縁取る長く豊かな睫毛。瞳の色は海を思わせる碧。控えめな小鼻のその梁は高く、総じて彫りが深い。ぽってりと濡れる唇は桜色で、男の劣情を煽るには充分過ぎる程に艶を含んでいた。
ぼんやりとその唇を嬲りたいなどと場違いなことを考えていた千賀の頬に、女の手が触れた。
「キミの目に私はどう映る?」
「どうって……」
魅惑的な女性だ、と答えかけて、コレの正体を思い出す。千の貌を持つ邪神――這い寄る混沌だ。
「……邪神なんだろう」
どうにか口にすると、邪神はくく、と笑い声を漏らして千賀から一歩分引いた。
「女か。こんな状況で情欲に従った姿を選ぶとはねえ……豪胆か単なる色欲魔か。いずれにせよ、私の興味を引くだけのことはあるな」
よかろう、と一つ頷き、邪神が腕を組んだ。豊満な胸が腕の上に乗っかる格好なのは態となのだろうか。
「まずはここに来るまでの経緯を聞こう。建物の中なら落ち着いて話せるだろう? さあ、どこでもいいから案内してくれ」
鷹揚に言われ、千賀はただ頷いた。
事態に飲まれるだけの千賀はまだ気付いていない。彼の体を浮き上がらせて放り投げたのが、その体を受け止め包んでいたのが、闇のように昏く底の見えない黒を輝かせた数多の触手であったことに。
――――――――――
サークル棟の隅、僻地とも思える場所にあるオカルト研究会の部屋。乱雑以外に言葉が見つからないほどに散らかったそこに邪神と共に戻る。予測通り、戻る間に生き物らしいものの姿に遭遇することはなかった。
床に転がるよく分からない石ころや、一度も使われたことのないウィジャ盤を退けながら奥へ進む。ほとんど埋もれたテーブルと椅子を発掘するかのように引き摺り出し、両者は腰を落ち着けた。
「さて、これで何故キミが『ココ』にいるのか聞かせてもらえるかな」
女――邪神・ナイアルラトホテップは向かいの椅子ではなく千賀の眼前にあるテーブルに腰掛けた。……その姿で脚を組む格好なのは、精神衛生上よろしくない。
「何故と言われても、俺にもよく分からない。本を読んだら――いや、開いたらこの空間にいた」
その言葉を皮切りに現状までの説明をする。ナイアルラトホテップを信用した訳ではないが、この状況を単身で乗り切れるとは思えなかった。相手はクトゥルフ神話の中で唯一と言っていい『人格を持つ邪神』なのだ。マトモに接触が図れるとしたら目の前のコレしかない。戻る可能性を探る為、この邪神に懸ける他なかった。
千賀の説明を一通り聞いた邪神は「ふむ……」と小さく唸る。
「聞いた限りでは罠に嵌められたのだとしか思えないな。人畜無害そうな顔をして、一体どんな恨みを買ってるんだい?」
興味深げに覗き込まれ、千賀は思わず「やめてくれ」と顔を背けた。誰かから恨みを買った覚えなどない。仮に気付かずに恨まれていたのだとしても、流石にこれはやり過ぎだ。こんな訳の分からない空間に閉じ込められるなど、殺されるよりも酷い仕打ちだろう。
「まあ、それは置いておくとして、だ。もしも個人的な恨みでないのならば、贄として差し出されたとも考えられる」
「贄……? 何かを召喚する為とか……」
「キミ達の世界では一般的なのだろう? 滑稽としか言い様がないがね。……見てごらん」
邪神が指し示す方へと千賀は目を向ける。窓の外。どこを指しているのかよく分からず、恐る恐る窓へと近付き外を覗った。そして、目にする。
「彼奴は別に贄なんか求めてはないのさ。条件さえ整えてやれば勝手に出てくるというのに。だからほら、不完全な形で現れているだろう」
背後からの邪神の声が遠く聞こえた。千賀の目は遥か遠方の宙に浮かぶ『それ』に捕らわれている。
漆黒に蠢くそれは、恰も炎のようだった。周囲を取り巻く揺らめきも陽炎にしか見えなかった。だが、その色彩は全てを呑み込むかのような闇色なのだ。
『それ』は奇妙にくねり、踊る。探し物をするように。何かを訴えるように。
「あれは『生ける漆黒の炎』だ。彼奴であって彼奴ではない。白痴の神と何ら変わらないのさ。見ただけで発狂せずに済むだけ、こちらの方がマシかもしれないがね」
声に振り返れば、苦々しい表情を浮かべた邪神がテーブルの上でふんぞり返っている。『生ける漆黒の炎』――確か、旧支配者であるクトゥグアの別の姿だったか……召喚を失敗すると現れるというが。
「ただでも鬱陶しいというのに、あんな姿で出てくるとは。全く、喚ぶならしっかりと喚んで欲しいものだよ」
「……敵対しているというのは、事実だったのか」
ナイアルラトホテップとクトゥグアの対立は、ダーレスの創作だとばかり思っていた。
「あれを敵対と言うのかね。向こうが勝手に私の周りで小火騒ぎを起こしてくるだけなんだが。ただ、鬱陶しいと感じているのは事実だね」
心底嫌そうに呟き、邪神はテーブルから降り立つ。窓際の千賀の横まで歩み寄り、生ける炎を眺めていた。
「キミの方がここに迷い込んだお陰か、キミがいた世界は無事なようだが……どうだい? アレをここに置いたまま、元の世界に帰りたくはないかい?」
ナイアルラトホテップはどこか嘲りの色を含んだ、しかし、慈愛に満ちたような笑みで問うてきた。千賀はその蠱惑的な姿を眺めながら思考を巡らせる。
――這い寄る混沌。此奴の目論見が何かなど知る由もない。何故こんな提案をしてくるのか、考えれば考える程に昏い想像しか湧いてこない。けれど、
「…………帰りたい。こんな場所は真っ平だ」
ここに囚われたままでいるのは我慢ならなかった。
「なるほど。良い答えだ。ならば手伝ってあげよう。幸い、利害は一致しているからね」
そう返したナイアルラトホテップは、開き気味のブラウスの胸元から何やら小瓶を取り出した。蓋を開けて中身を一口含み――
「……――――っ!」
唐突に塞がれた唇の隙間から、芳醇な香りのする液体が流し込まれた。喉を灼くような熱さが食道を通り過ぎ、すぅっと消える。
重なっていた唇と、触れていた柔らかな女性の肢体が離れた。ついでのように頬をなぞった邪神の指先からは、甘ったるい蜜の香りがしている。
「……これで準備は整った。では行こう。この世界の外へ。キミの求めるままに」
高らかに宣言した邪神は、瞳に愉悦と某かの期待を滲ませながら不敵な笑みを浮かべていた。
――――――――――
――キミは校舎の屋上へ走れ。
行動を共にするとばかり思っていた邪神にそう指示され、千賀は思わず口を開け放した。
――俺一人で行けと言うのか!? 冗談だろう!
――キミは彼奴と正面から向き合うつもりなのかい? 随分と無謀な事を考えるものだな。
半ば嘲るような口調でそう言われては、邪神の提案を飲むしかなかった。ナイアルラトホテップとクトゥグア。この二柱の間に普通の人間が割り込める訳もない。
「クソ……っ! どうやってこんなところを抜けろってんだ!」
自棄になりながら千賀は大声で毒吐いた。大声を出したところで周囲の怪物どもがこちらに目を向けることもないだろう。周囲は奇妙なブザーのような音が響き続けているし、頭上には薄紅の甲殻類モドキが何体も飛び交っている。その更に上空では黒く輝く数多の触手が悍しく蠢いているのだ。この状況下で矮小な人間が叫んだところで、何者が気に留めるだろう。
頭上から不規則に小さな爆発音が聞こえてくる。小さな炎の玉を漆黒の触手が叩き割っている音だ。十、廿とナイアルラトホテップに向かう光球は、邪神に触れる前にその触手によって破裂させられていた。
(向こうを気にしてる場合じゃない)
千賀は建ち並ぶ校舎を眺める。『屋上』と指定されたが、どの校舎のものかは決められていない。ひとまず一番高い本校舎を目指すことを決めたが、サークル棟からは陸上競技場の脇を抜けて六、七百メートルは走らなければならないだろう。
距離だけならば問題はないが、その間に高熱を放つ光の玉やら甲殻類のような怪物やらが点在しているのだ。それらを避けながら進むとなれば一筋縄で行くとも思えない。
(やるしかない、か……)
どれだけ危険があろうと、ここに閉じ籠もって生涯を終えるなど我慢ならない。ならば、飛び出すしかないのだ。
一つ頷き、千賀は身を潜めていたサークル棟近くの銀杏木の影から飛び出す。思ったようにこちらに気付くミ=ゴはいない。
陸上競技場の脇道は見通しもよく、他の生き物らしい影がないせいでやたらと長く見えた。二百メートル程をガムシャラに走り、本校舎へ向かう為に右手の広い道へと曲がる。普段走ることが少ないからか、既に息が上がり始めていた。
(こんなことなら、もっと運動しておけばよかった)
学業に集中していたという訳でもないが、大学生にもなって走り回る必要に迫られる事態などそうそうない。こんなに呼吸が乱れることなど何年も経験していなかった。
このままの速度を保てる気がせず、千賀は已むなく足を緩める。惰性でも走れる程度の速度に切り替え、本校舎を目指す。
自らの呼吸が煩い。耳元に心臓がきたのでは、と錯覚しそうな程に拍動が大きく感じられる。脚に疲労が溜まりだしたのか、太腿が、ふくらはぎが、締め付けるような鈍い痛みを訴えてきた。
「くそ……あの、ヤロウ……次に……会ったら、ぶん、殴って……やる――!」
肺が痛むが、それにも構わず悪態を吐く。そうでもしないと全てを投げ出してしまいそうだった。
あんな気味の悪い書物を手渡してきた男に、どう報復してやろうか。そんなことを頭に浮かべ、それに縋る。敵意を保っていられる内は、生きることを諦めない。それを本能で悟っているのか、千賀は名も知らぬ男に対しての殺意を尖らせ足を動かした。
第三校舎を横目に、鈍くなっていく足を持ち上げる。前に投げ出す。後方に流れていく校舎の存在を忘れる。苦しい。足が重い。けれど進む。元の世界へ。
(見えた!)
視界に本校舎の玄関が映った。無機質で味気ない入口が、今は楽園のそれかのように見える。
尽きそうな体力を振り絞り玄関へと駆け寄る。本校舎は五階建てだ。祈るようにエントランスホール奥のエレベーターに向かい、昇降ボタンを手の平で何度も叩いた。
5……4……酷くゆっくりに感じられる点灯の推移を見守っていた時だった。
むわっと空気の圧迫するような感覚。そして、ジリジリと肌に迫る熱。外の明るさは夕焼けから変わることはない。ならば、この熱は――
振り返る。玄関のガラス戸越しに見えるのは握り拳ほどの大きさの光球。
「なん、で……」
震える声で呟き、千賀はエレベーターのパネルを見上げる。表示はまだ箱が三階層に留まっていることを伝えていた。
(間に合うか?)
あの光球が近付く前に箱に乗り込めるか? 否、仮に乗り込めたとして無事に屋上へと辿り着けるのか?
「……っ、畜生……この期に及んで――!」
吐き捨て、千賀はその場を離れた。エレベーターの脇にある階段へ。
エレベーターを待っている間にアレが近付いてこない保証もない。仮に間に合ったとしても密閉性の高い箱の中ではアレが近くに来ただけで蒸し殺される可能性もある。少しでも生存の確率を上げる為には、残りの力を振り絞って階段を駆け上がるのが正解だ。分かってはいるが。
(保ってくれよ……!)
脚の痛みは着実に増していた。僅かでも立ち止まった所為で気力も削がれつつある。だが、進まなければ待つのは死か恒久の絶望だ。
一階層分の階段を駆け上がる。二階層の途中、踊り場に上がるところで軽く躓く。だが、止まれない。
無理にでも、と足を持ち上げ三階層に向かうその背に、チリ、とした熱が伝わってきた。この熱は、まさか……
恐る恐る手すりに寄り、階下を覗き込む。一階の階段、一段目のその傍にふわふわと漂う光の球。
(ここまで追って来てるのか!? いや、そうでないとしても――)
何れにしても、近付けば熱にやられる。アレに意思があろうとなかろうとそんなことは関係ない。逃げるしか、術はない。
「――っ!」
痛む足を上げて半ば這い上がるように登っていく。ひたすらに。アレは垂直方向に上がってこられるだろうか。そうでないことを願いながら登る。
痛い。脚が、肺が、腹が、背中までもが。それでも止まれなかった。この体のどこにそんな力が残っていたのかと驚くほどのそれを振り絞って、屋上へと続くドアに飛び付く。常に開放されている空間への扉を開けて転がるように屋上へ飛び出した時、背後の空気が揺らぐ気配がした。
「ナイアルラトホテップ! ここだ! 上ったぞ!」
千賀は手すりに縋り、声の限りに叫ぶ。あの邪神に縋るよりない。
「ここだ! 来てくれ! 早く!!」
悲鳴のような声を上げ、手を大きく振った。来ている。すぐ近くに。邪神ではなく、あの光球が。
漆黒の触手に包まれた邪神がこちらに気付いた。宙を滑空するようにぐいぐいとこちらに迫ってくる。その姿を追うようにして、光球と漆黒の炎も近付いて来ていた。そして、屋上と屋内を隔てていた扉はじわりと飴細工のように歪み始めている。
眼前からは這い寄る混沌とそれを追う漆黒の炎。来た道からは燃え盛る光球。迫る者共の中、千賀はただ「早く!」「助けてくれ!」と喚き散らしていた。
「早――ぅあ……っ!」
叫ぶ体が急激に持ち上げられた。手足と腰回りを漆黒の触手が絡め取り、ぐん、とナイアルラトホテップの元へと引き寄せられた。そうしながらも、邪神の滑空速度が落ちることはない。
「ナイア――――……!」
「クームヤーガ!」
呼び掛けは高い声に遮られた。続けて擦り硝子を擦るような耳障りな音が響き渡る。触手に捕らわれ滑空していた体に、更に重い力がかかった。
風を切る轟音の合間にしゅるりと衣擦れの音が鳴る。やがて、宙に浮いていた千賀は何か生温い地面に下ろされた。
「間に合ったようで何よりだ」
ふふ、と含み笑いで言われたが、何か返すどころではなかった。全身を襲う疲労感と痛みも然ることながら、未だ追ってくる光球を弾く爆発音と少しも緩まない――どころか増していくばかりの移動速度に生きた心地がしないからだ。
「おい! アイツら、まだ――っ!」
遠ざかる風景の中何度も響く小さな爆発音に焦り、邪神に向かって喚く。地の亀裂を掴んでしがみつくと、それを愉しむかのように邪神は流れる髪を掻き上げて応えた。
「そう。だから逃げているのさ。しっかり掴まっているんだね。シャンタク鳥の真骨頂を見せてあげよう」
邪神が言うが早いか、体に更なる重さが掛かった。どんどんと光球と漆黒の揺らぎが遠くなっていく。
「シャンタク鳥だって!?」
「ああ。私の従者だ。なあ、クームヤーガ」
ナイアルラトホテップが地を撫でると、応じるようにガラスを擦り合わせるような声が足下から聞こえてきた。シャンタク鳥。邪神達に隷属する奉仕種族。だが、これがシャンタク鳥で、生ける漆黒の炎から逃れるつもりだとするならば。
「待て、宇宙は――」
生身の人間が宇宙空間に放り出されて無事に済む訳がない。意味がないと知りつつ、キツく両目を瞑る。しかし、覚悟していた苦しさも窒息する感覚もない。
「……――!」
恐る恐る開いた目に映るのは碧い球体と昏い空間。浮き上がりそうな体は、空間に溶け込みそうな漆黒の触手によって邪神に括り付けられていた。
「…………」
どうなっている、と叫んだつもりだった。が、声は発せられない。当然だ。音を伝える為の空気が存在しないのだから。
もどかしい思いで邪神を見遣ると、ナイアルラトホテップは、ふ、と口の端を上げた。
「心配しなくても、キミには黄金の蜂蜜酒を飲ませただろう? ここから出るまでなら問題はないさ」
脳に伝わる声に、千賀はただ呆けた顔で邪神を見上げていた。黄金の蜂蜜酒――協力関係を結んだ直後に口移しで飲まされたあれか。
――あの世界は何なんだ。話に聞くドリームランドなのか。
そう考えた千賀を覗き込み、ナイアルラトホテップが嗤う。
「まさか。あれは『狭間』でしかない。キミは銀の鍵の所有者ではないし、『門』も『鍵』も見てはいないだろう?」
そうだ。『門にして鍵』である存在には遭っていない。ならば、この邪神の言う通り、千賀は何かの『狭間』に堕ち込んだだけなのだろう。
「そうさ。幾ら私が混沌を齎すとはいえ、意味のない場面でまで嘘を教えはしない。さて……」
千賀の体が更に邪神へと引き寄せられた。豊満な肢体が千賀に伸し掛かるように押し付けられる。未だ残る蜂蜜酒の香りと絶妙な弾力を持つ膨らみの感触に、思考が阻害されていく。
「もうそろそろ、キミはキミの世界に戻る事ができる。けれど、これでお別れだなんて、そんな寂しいことを言うつもりはないだろう?」
なあ、と染み込ませるように囁き、邪神は千賀の頬をその細い両手で包み込んだ。
「この私が手伝ってあげたんだ。それなりのお礼をしてくれてもいいじゃないか」
柔らかな体。甘い香り。脳を揺さぶる声。それらが千賀を縛り付けているかのように身動ぎすらできずにいる。
「キミの世界は楽しそうだ。少しだけ、私にも見せてくれないか」
銀糸の髪が頬に掛かった。深い碧が潤んで揺れている。桜色の肉厚な唇の間から覗く白い歯が、やけに煽情的に映った。
「怖がらなくていい。キミの瞳を私と共有するだけだ」
細い褐色の指が、千賀の両目蓋を押さえて広げる。しゅるり、しゅるりと衣擦れのような音が聞こえた気がした。
「ほら……私を受け入れておくれ」
その言葉と同時にぞわりと数多の触手が眼球へと迫り、やがて千賀の視界は漆黒に覆われた。
――――――――――
目を開けた時、窓の外には夜の帳が下りていた。先刻まで見ていた――否、見たと思っていた風景とは違い、遠くから人の立てる声が僅かに聞こえている。
(夢……だった、のか)
伏していた上体を起こし、たった今まで体を預けていた机上を見る。そこには何も乗っていなかった。
千賀は周囲を確かめる。サークル棟の隅にあるオカルト研究会の部屋。使われたことのないウィジャ盤や隕石などと呼ばれている石ころ。無駄に厚みのある古い書物などがただ乱雑に転がっている。
酷い悪夢だった。そう思う。徐々に薄れつつある夢の残滓は、千賀の気力をごっそりと奪っていた。
息を吐いて傍らに置いていた鞄を掴む。帰ろう。こんな場所で転寝などするから悪夢を見るのだ。
さっさと自宅に戻って休んでしまおう、と狭い部屋の扉を開ける。その向こう側に。
「……お前、は……」
開けた扉が穿つ四角い空間には、男のような何かが立っていた。手には、触れたら崩れてしまいそうな古書が一冊……
「無事に戻ってきたか。期待通りだ」
酷く掠れた声でソレは言った。地面に古書が落ちるのにも構わず、千賀の両肩を手を模した肉塊で掴む。
「向こうで得た物を見せてくれ……ああ、そうか、これは素晴らしい――!」
感激に打ち震える声を、千賀はどこか遠く聞いていた。目の前のコレは、人のような肉塊は、ギシギシと掠れたその声は、
「君は目を得たのだな……ならば、この世界に散らばる泡沫を外なる神々へと伝えられるだろう。我々は君を歓迎する」
バンバンと、まるで旧知の友人であるかの如く肩を叩かれる。その勢いに圧されたか、千賀はその場に座り込んだ。
悪夢は終わっていなかった。否、始まったばかりだった。この目は、瞳は、ナイアルラトホテップの侵食を許したのだ。その証拠に、千賀は目の前にあるヒトならざる者の姿をはっきりと認識してしまっている。
――これからも、仲良くやろうじゃないか。
頭蓋の内から、這い寄る混沌の囁く声が響いた気がした。
その瞳に捧ぐ泡沫
クトゥルフ神話ホラー
"その瞳は、異界の混沌を映し出す窓となる。"
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