国鉄183系。
1972年から約40年、千葉から長野、東日本を縦横無尽に駆け巡った特急車両である。
「夜行列車、ムーンライトながら号。間も無く発車いたします。」
その顔には、老いてなお健在な眼光と、誇りを持った皺が刻まれていた。
「……ごほっ。喉の調子がいかんな。」
「183系さん、無理しないでください……。」
緑のストライプの服を身につけた185系が、183系の背をさする。
「いや、早く戻らないといけないんだ。俺には約束がある。」
183系は、どこか遠くを見ていた。
その遠くには、在りし日の仲間たちの姿が映っていた。
「お世話になります!この度、田町電車区に配属になった183系です!ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします!」
昭和50年、1975年。
田町電車区に、新たな列車が配属された。
「ふむ。君は183系というんだね。」
椅子に座っていた男——どうやら157系と呼ぶらしい——は、ゆっくりとこちらを見た。
「その目の鋭さ、貪欲だね。一体どういう野望を持っているのだろうか。」
余裕たっぷりの話し方をしている横で、「また偉そうにしてるねえ、167系も最初はこうだったんだよ」とか、「153系さんだって最初はそんな感じだったでしょ」とか、そういう声が聞こえている。
「俺の野望は、伝説を超えることです。」
「伝説。言うじゃないか。151系先輩のことだろう?」
当たりだった。151系。戦後20年間、1964年の東海道新幹線開業まで大阪から東京を結び、今はここ、田町電車区からは離れているものの日本をここまで成長させた功労者である。
「はい。俺は、あの先輩を超えなきゃいけない。」
「簡単に言ってくれるじゃないか。じゃあ、伝説が何かわかってるのかね?」
面食らった。まさか質問されるとは思ってなかった。頭をぐるぐる動かしていく。
「それは、速さです。151系先輩は速さで伝説に——」
「違うね。速さじゃない。速さと言うなら新幹線にでもなったらどうだい?」
全くその通りだった。何も言い返せない。そして、自分の浅はかさを自分が証明してしまった感じもあった。恥ずかしい。
「伝説とはね。どれだけ心に残せるか。それだけなんだよ。というか、そもそもだね。伝説となる先輩を超えるなら、まず私からだろう?」
伝説は、心にどれだけを残せるか。ならば、ここの会話は先輩の心に何を残せるかの戦いになる。そしてこの返答は試されているな、と直感で感じた。ここの受け答えは「押す」。それが良い気がした。
「157系先輩。俺は、絶対に超えて見せます。」
先輩は、ちょっと顔を背けて笑った。
「あーーー!!おっかしい!いやー、まさかこんなふうに言われるとは思ってもなかった!」
——同一人物か?これが。
「あー、ごめんね?183系くん。先輩って、いっつも仮面かぶって接してるからさ。」
167系の声が耳に入ってくる。「ちょっと、急行列車くん〜!私のやり方をバラさないでくれたまえ〜!」と言っている声も聞こえるが、今はそれどころではない。
こんな感じなのか、国鉄は。
「ああ、183系くん。怒らないでくれたまえ。あくまでこれは内側、電車区の中での話だ。本当に真剣な話の時は真面目に話すさ。」
また元のような顔に戻っていた。
「さて、いつか伝説を超える183系くん。君には重要なものを渡さないといけない。」
そう言って懐をごそごそと弄り、銀のエンブレムを取り出した。
「これが何かわかるだろう?国鉄特急の証だ。これを、君が着けたいと思うところにつけたまえ。」
153系先輩、167系先輩がニヤニヤとこちらを見ている。「どこにつけるかな」「私はネクタイだと思う」と呟いている。
伝説を超えるなら、誰も予想できないことをして見せたい。
——157系先輩と一緒の場所。帽子につけた。
「なるほどね。なぜ帽子につけたんだい?」
「当然、先輩への忠誠心です。先輩で田町電車区の長なのだから、それと揃えるのは当たり前でしょう。」
そばで見ていた二人ともが呆気に取られている。よし、まずは思い通りだ。
「駄目だね。」
——思っていた逆の答えが返ってきた。
「私の言ったことは聞いていたのかな?私は、君が着けたいと思うところにつけたまえと言ったんだ。忠誠とか、そんな感情はいい。君の心が見たい。」
「……では、付け替えさせてもらいます。」
帽子のエンブレムを取り、胸元につけた。
「特急列車として運行するならば、当然情緒的なものも重要でしょう。いつまでも人の心を忘れない特急列車でありたい。ですから、胸元につけさせてもらいます。」
157系先輩は、しばらくエンブレムをじっと見ていた。
「良いセンスじゃないかな。」
——今度は、思っていた答えが返ってきた。
「あ、183系くん笑ってるね。」
「笑ってません。」
先に口が動いていた。
「いや、笑ってるよ。」
「ですから笑ってません。」
「じゃあ、君を今からとびきり笑わせてあげよう。実は私、生まれた時には特急用車両ではなかったんだ。見たらわかるだろう?経年に比べてエンブレムが綺麗だ。貰い物だから、こんなに綺麗なんだよ。」
つまりは、目の前の男は急行用列車から成り上がったのか。
——面白い。
口角を抑えようとするより先に、自分と同じように成り上がりを狙った存在が、目の前にいる。それだけで、愉悦が止まらなかった。
「あ、笑ったね。」
流石に言い逃れはできない。
「笑いました。」
157系先輩は、少し笑って、言葉を続けた。
「素直でよろしい。」
それから、特急としてひたすら走っていった。
「特急白根発車しまーす!」
声を張り上げ、ひたすら走っていった。
「特急あまぎ発車しまーす!」
それが、伝説への近道だから。
「ねえ、あまぎくん。」
数年走っているうちに、157系先輩も、153系先輩と167系先輩にも「あまぎくん」と呼ばれるようになっていた。
「白根ではなくあまぎと呼ぶんですか。」
「白根くんだとなんか堅苦しくてねえ。」
随分と153系先輩はおっとりとしている。東海道本線を走り、海風を浴び、身体にもおそらくあちこちガタが来ていることは想像に難くない。
「あまぎくんは、伝説になりたいって言ってたよね。」
「はい、俺は伝説になりたいと思ってます。」
「そっか。それじゃ、今から大事なことを言います!」
くるりと153系が後ろを向いた。
「準備できたよー!157系さーん!」
すると、157系先輩がばっと出てきて、半紙をぴっと開いた。
「183系くん、昇進決定〜!」
167系先輩が後ろから拍手をしている。まさかこんな悪戯をするような人だったのか。いや、あの時の性格を考えたらしなくもないか?いや、それでも。とにかく今は気になることが多すぎる。
「昇進?一体どこにですか。」
昇進決定、としか半紙には書いていない。というか、157系先輩は随分達筆だなと感じた。関係ないことを考えられるくらいにはこの生活に慣れてきていたのかもしれない。
「もちろん、私の席にだよ!もうすぐ新しい子がくるから、その子の時には立派なリーダーになってもらわなきゃだからね!それじゃまずは——」
「え、ええーーっ!?」
俺は、俺でも信じられないくらいに驚愕の叫声を出していた。
その後、俺は正式に田町電車区のリーダーとなった。
157系先輩は、正直すごく厳しかった。
「ちゃんと見る目を養え!」
「おかしいと思うことにはおかしいと言え!」
「上に立つと言う自覚を持て!」
いや、厳しいと言うかうるさい。
とにかくいつでも指摘をしてくる。それなのに、157系先輩は外では完璧だった。
「ご乗車いただきまして誠にありがとうございます。」の一言だけで乗客を惚けさせるのだから、相当である。
「ご乗車いただきまして誠にありがとうございます!ご乗車いただきまして誠にありがとうございます!」
何度も復唱してみるが、どうにも上手くできない。時折乗客からは「元気のいい子だねえ」とは言われるが、先輩のような高貴さはない。
果たして俺に、本当に部下を育てる役目を任していいのだろうか。
いや、俺は先輩を超える。超えるためにも、この役目を全うせねばならない。まずは上からもらった新人の計画書を読み込み、プランを作っておかねば。
名称:185系電車
特徴:緑のストライプ型の塗装
用途:153系電車の置き換え、および対伊豆方面の優等種別拡大、特急列車と普通列車の両立によるコストカット。
そこまで読んで、紙がグシャリと軋んだ。
特急列車と普通列車の両立?馬鹿馬鹿しい。そんなことをしたら国鉄特急のシンボルはどうなる。高貴さはどうなる。歴史への冒涜だ。先人へ中指を立て、長年の努力の結晶を蹴り壊すようなものだ。ありえない。こんな列車は許されない。
いや、ダメだ。大人になれ、伝説を超えるんだ183系。この程度、自分の認識程度で列車を嫌ってるような状態でどうしていい上司になれる。
手で紙にアイロンをかける。157系先輩にバレたらまた何か言われる。そっちの方がめんどくさい。大人にならねば、大人にならねば。
新人が来るまでは、もうあまり時間がなかった。
それから数日。
今日は新人がやってくる日だ。ちゃんとネクタイを締めておかねば。
しかし、自分が椅子に座った時には、すでにその新人——185系がちょろちょろ彷徨っていた。
だいたいこういう時はまず挨拶だろう。それも挨拶もせず、ちょこちょこ歩いては何かを訪ねている。というかなぜ157系先輩は何も言わず、167系先輩と157系先輩……ああ、もう「先輩という言葉を使うな!」と言われていたんだった……。とにかく157系は何も言わず、167系と157系は今日だけ仕事を大量に持っている。何を企んでいるのかもわからない。
つまりは、自分で動けということか。上等だ。やってやろう。
「おい、185系。こっちに来なさい。」
——言った途端、ビクッと185系の体が動いた。
「はっ、はい!」
新人としてはあまりにも不甲斐ない声を漏らしていた。やっぱり緊張しているな。緊張しているならちょうどいい、こいつの力を見せてもらおう。
「今日からお前も国鉄特急の仲間入りだ。」
仲間入りと言わざるをえない。当然豪華さは俺や157系には劣る。当たり前だ、最終的には普通列車に合わせる物なのだから。
「……まあ、とはいえ普通列車もしてもらうんだが。ともかく、国鉄特急の証をやる。大事にしろよ。」
そう言って、金銀の逆三角形のエンブレムを取り出した。
さて、ここでどこにつけるか見せてもらおうじゃないか。俺と同じ胸元か?襟につけるか?いや、まさかスカートにでもつけるのか?なんでもいい、何か指摘しておきたい。
「胸元につけるでもいい、襟につけるでもいい。自分が特急であると言うことがわかる位置につけろ。」
しばらく、185系は目が離せないようだった。当然だろう。あの、「国鉄特急」のエンブレムが目の前にある。それをどこにつけるかだなんて聞かれて、簡単に答えられるわけがない。俺ですら無理だったんだ、だから、この185系だって——
髪につけていた。
「こんな感じですか……?」
185系が不安そうに漏らす。
そんな感じなわけがないだろう。
髪飾りにしては大きいとは思わなかったのだろうか。いや、大体髪につけるなんておかしい。前例もない。何もかも型破りだ。そんなの許せない。怒鳴り上げてやろうか。
しかし、後ろにいた153系、そして153系と話していた167系が、そしてあの157系が、みんな、笑っていた。
「いやいやいや!その付け方見たことないよ!」
157系は腹を抱えて笑っていた。あの157系が。
「151系爺さんが見たら『最近の若者はなっとらん!』って笑うんじゃないかな
?」
「良いのよ!あの人が怒ったらわたしが止めるから!」
153系も167系も大笑いだった。俺の顔は多分、口をぽかーんとだらしなく開けてる状態だっただろう。阿呆面を晒していたに違いない。
——しかし、それは。間違いなく一本取られた、ということの証拠であった。
「あ……あの、わたし、頑張りますから……!」
全員の笑い声が、ぴたりと止んだ。
「国鉄さんは、お金がないって聞きました……だから、わたしが頑張って働くことで、少しでも楽にならないかなって!だから、わたし、頑張ります!」
——どうやら本気らしい。本気で国鉄を変えようとしていて、本気で走ろうとしている。
「そうか。良いことを聞いた。」
ならば、こちらも答えてやるのが道理だろう。
「では、185系の運用は……。朝4時32分、品川から沼津に向かい、夜23時52分に東京からまで行ってもらおう。それだけ働いてくれたら、俺たちは楽だな。」
さてこれでいいだろう。これでどんな反応をするだろうか。
「え、えぇーーーっ!!!!!!!」
……それじゃまるで俺の時と同じじゃないか。
心の中のツッコミは、まだ目の前の相手には言えないままだった。
185系は獅子奮迅の働きを見せた。
「特急・踊り子」として走り、俺の運用を少しずつ追い、157系を田町から他の場所に転属させた。
それでいい。
転属させたと、というのは言い方が悪いが、しかし転属させられないということの方がよっぽどいけない。転属させられないということはつまり、古い車両の方がマシという扱いだからだ。
185系が俺たちの運用を追いやっていく様は、見ていて心が少し躍った。
これが先輩になるということなのかもな、と思っていた。
——矢先に、転機は起こる。
「ねぇ、あまぎくーん。」
157系は、一応先輩であるはずなのに最近は俺に何もかも手伝ってもらってばかりだった。
「起きれなくてさ。手、貸してくれない?」
列車とあろうものが、手を貸さないと起きれない?甘えているのか?
——いや、まさか。まさかそんなことはあるまい。26歳とは言え、早いだろう。
「起きれないというのは、自分では起きることができないということですか?」
考えた結果、聞いた。聞かなかったら後悔すると思ったから。
「うん。そんなところ。もう起きれないんだ。」
悪い予感は当たっていた。
ここのところ随分と丸くなった。俺に何かを言うことも少なくなったし、動くことも少なくなった。
列車は運用がなくなれば死んでしまう。だからと言っても、早すぎる。
「起きてください。自分で。」
引っ張ろうとした腕を離した。
「あまぎくん——」
「起きてください。」
起きさせなければ、もう自分で起きることすら放棄してしまう。放棄したら何が起きる?何もできなくなって死ぬ。
ぼんやりとしてしかなかった「死」の輪郭が、雲が晴れたようににわかにはっきりした。
「あまぎくん。私は本気の話をしているんだ。目を見てほしい。」
157系の目は、初めて会った時のように澄んでいて、はっきりしていた。
「君は伝説になると言ったね。もう伝説の意味は、わかってるでしょ。言ってごらん。」
忘れたことは一度もない。
「人の心に残ることです。人の心に残れば、間違いなく伝説になれます。」
157系はふいと目を逸らした。
「なら君も伝説になったよ。」
照れているのか。照れるほど余裕があったのか、157系は。でも、それより。
伝説になったという言葉は、何よりも嬉しかった。
「伝説ですか。本当に。」
「伝説で満足してちゃ駄目だろ?君は伝説を超えると言ったんだ。」
こう言うところでぴしゃりと締めてくる。157系、いや、先輩らしい。
「伝説を超えるなら、君もいい後輩を作りなさい。」
いい後輩。昔ならなんて抽象的な言葉なのだろうと思っていたが、今はなんとなくその言葉が見えてきたような気がした。
「いい後輩。なら、俺は185系を大事にします。あの子はきっと歴史に名を残す。もしかしたら、俺より先に伝説を超えるかも——」
そこまで言ってから、157系がこちらを向いていたことに気づいた。
「そんな弱気なこと言ってて、どうやって伝説を超えるのかね。」
——もう、笑いを堪える必要はない。
笑みが口からまろび出ていた。
「いい声で笑うじゃないか。」
157系も、そう言いながら笑っていた。
「あーあ……死にたくなくなっちゃった……。」
157系の口から、その言葉が漏れた。
帽子がずれ落ちて、床にぱさりと落ちた。エンブレムが、帽子から外れていた。
あれから時間が過ぎた。
157系の帽子をかぶることも考えたが、かぶろうとしたら「君にはまだ早いよ」と聞こえてくる。
嘘だと思えば嘘と思えるくらい、本当だと思えば本当だと思えるくらいの声で。
なんだか、田町電車区が少し広くなったように感じる。
今思えば、晩年は157系は常に田町電車区にいてくれた。時々、今もふらっと日光にでも行ってるだけじゃないかと思う。
でも、時間が経つにつれて、いなくなったと言うことは浮き彫りになっていった。——弱気になるな、183系。覇道を進むんだ。伝説を超える。
でも、伝説を超えるのは、何のためだっただろうか。
「あまぎくーん?」
153系が肩を揉んでいた。
「185系ちゃんがね、自分は東海道を走る資格がないんじゃないかって。」
「なんだと?」
思ったより大きな声が出てしまった。
「海を眺めたらきっと落ち着くっていったんだけど、まだ落ち込んでるみたいで。あの子、このままだったら潰れるかもねえ。」
——またか?
また失うのだろうか。すでに自分の中で、185系がいなくなるということは、損失にも喪失にも値する出来事と化していた。
こんな時、電車区のリーダーならどうすればいいのだろうか。
考えろ、伝説の特急。伝説を超えるために、考えろ。
「183系さん。」
気づけば、185系が目の前に立っていた。あっという間に時間が過ぎたようだった。
「私、やっぱり邪魔なんでしょうか。だって、みんな私を見ても喜んでくれないし、それに——。」
途端、ものすごい速度で頭が動く。頷けば潰れる、半端なアドバイスをしても潰れる。アドバイスするなら的確でないといけない。しかし喋らせ過ぎても自分の言葉で自分を傷つけてしまう。時間がない。ならば。
「わかった、じゃあこうしよう。」
話を遮って、打開策を試してみる。
「東海道が嫌なら高崎はどうだ、ちょうど急行列車を置き換えたいんだ。あと、新幹線みたいな塗装をして東京に運んでくる仕事もいいだろう。そっちに回るか?」
185系の沈んでいた顔が、みるみる間に明るくなる。
そうだ、この子は動くことで不安を吹っ飛ばすんだ。これなら、きっと。
「ほら、新しい服だ。北関東は寒いから、これを羽織っていけ。」
——185系は生まれ変わった。
「あかぎ」として群馬を走り、「新幹線リレー号」として上野を走り、そして「踊り子」として東海道を走る。
「よし、群馬だけじゃなくもっと行ってこよう。軽井沢にも南魚沼にも行け。」
どんどんと旅させた。
可愛い子には旅をさせよ、と言うが。俺だっていろいろ旅してきた。長野に、千葉に、伊豆にも行った。同じ経験をさせてあげることが、何よりこの子のためになると思った。
185系の顔は随分明るく、一直線な笑顔を浮かべていた。
1985年。昭和60年の関東。
時代はスキーブーム。国鉄特急183系としては、冬になるたびに全国各地を走りまわされて大変な時期だ。
正直いえばかなりきつい。身体にも応える。167系も毎晩夜行列車のために走りに行く。一緒に走ってくれる国鉄特急は、この時は自分と全国各地の特急車両たちだった。
さて、そろそろ俺も心を鬼にしなければならない。185系もこの大きな仕事に取りかからせないと、いつまで立っても甘えるかもしれない。もう185系も4歳だ。奥手なままじゃいけない。
185系をデスクの前まで来させた。
「183系先輩、どうされましたか……?」
相変わらず性格はおとなしく、ビクビクとしている。いかん、ここで日和ってはならん。育てるためだ。
一呼吸おいて、続ける。
「前に新潟に行った事があっただろう。その時の実績が評価されて、君を夜行列車にも使うという話が出た。」
「え、私が……?」
しかし、普通列車も兼務するような車両に夜行列車の任務を与えるのだ。よっぽど国鉄は車両不足に喘いでいるのだろう。
185系はどういう反応をするだろうか——
「ぜひやらせて下さい!」
——普通はもっと躊躇うものだと思っていた。
俺でも正直躊躇う。過酷な道のりだ、途中で何があるかもわからない。自分の身体も痛む。でも、この185系の心は、きっと。
少し言葉に詰まってしまった。
「……そうか。では、頑張ってくれ。」
185系はにこやかに「ありがとうございます!」と伝え、嬉しそうな顔のままデスクの前を離れた。
「——変わったな。」
誰に言うでもなく、田町電車区の中にその言葉が響いていた。
それからまもなく、上から「長野運転所への転勤」という指令が降った。
もちろん、伝説を超えるためにも背くことはできない。そもそも考えてもない。
だが、心残りなことは一つだけあった。
だから、俺は動いた。
「それじゃあ、いってくる。」
「……はい。随分老けましたねえ。」
167系から手荷物を受け取り、改めて田町車両センターを見回す。
まだ暗い時間帯で、185系は眠っているままだ。
「本当に起こさないでいいんですかね?」
「いいだろ、泣きつかれたら困るし。」
長い間暮らすと、敬語という壁は溶けていくものだ。自然と167系にはタメ口で話すようになっていた。
「あまぎくんらしい選択ですねえ。」
「そうだろうか。」
そういって、しばらく隣に立っていた。
「これ、157系先輩の帽子。あまぎくん、持っていく?」
手にとって、そして。
「いや、いい。」
「そりゃ珍しい。やっぱりまだ『つけるな!』って聞こえてくるの?」
「その声はなかった。でも、もう俺は帽子がなくてもやっていける。」
帽子をぽんと167系の手元に返す。
「それじゃ、行ってくるよ。婆さん。」
冗談まじりに呼んでみた。
「誰が婆さんですか!この爺さんが……。」
やっぱり食いついたと思ったら、同じように返された。
「誰が爺さんだ?まだたったの10歳と言うのに……。」
「列車にとっては10歳は寿命の半分か4割くらいですよ。」
——なら当然、進むしかない。人生は一度きりなのだから、伝説を超えるためにも。
「そうだな。じゃ、行ってくる。田町は任せたぞ。」
「はいはい。行ってらっしゃい。」
そして、出発線から長野に向けて駆けていった。
185系はもう大丈夫だ。きっと、俺の代わりに頑張ってくれるはずだ。
でも、それでも、やっぱりまた会いたいと思ってしまうのは自分の弱さだろうか。いや、自分の弱さじゃない。185系の強さだ。
空の星を見れば、それはまるで185系のヘッドライトのような明るさだった。
国鉄特急一八三
擬人化成長物語
"鉄路を駆ける魂たちの、師弟と世代交代の叙事詩。"
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。