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弁当

こうよう

2,747 字

幻想文学、日常の異化

"日常の「弁当」に潜む、甘美で残酷な異世界体験。"

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 僕はどうやら弁当の中にいるらしい。薄暗がりの狭い部屋の中に独り、そこに立っていた。風のない部屋の中は、真夏のように暑く、蒸し蒸ししていた。両端は黄色いプラスチックの壁と、緑色のブロッコリーの大樹とに挟まれている。身体は動くものの、よく見てみると肌の色は薄い緑色をしているらしかった。けれども何かになっているというよりは、身体そのものが縮んでいるというものに相違なかった。
 隙間は殆どなかった。座りこむのがやっとだった。ブロッコリーの大樹によじ登ろうとも思ったが、あまりに手が滑って、枝に捕まることすらできなかった。他方で、プラスチックの壁には手が届きそうもなかった。どうする事もできなくなった僕は、静かに三角座りで大樹にもたれて、ため息を吐いた。野菜のような香りが漂ってきた。「やはり僕は誰かに食べられてしまうのか」──そんな事を考えたりした。どうせ食べられるなら、いつも教室で隣に座っている彼女に食べられてしまいたいなどと強く思った。
 それから五分くらい経った。突然空がぱっと明るくなって、爽やかな風がすうとはいってきた。驚いた僕は明るくなった空を見上げた。そこには何と、優しい微笑みを見せている、例の少女の顔があった。僕は思わず息を呑んだ。そして立ち上がって彼女をぼおっと眺めた。化粧っ気のない頬は、日の光を受けて、その底にある青いものを浮き上がらせていた。影になっている喉のところは、まるでティッシュを丸めたような柔らかい、小さな喉仏が少し顔を出している。その横で、つやのある髪の毛が、六月の湿った風に、さらさらと揺れている。そして薄い唇は、熟した白桃のように、ほのかに赤くなっていた。友達といるようで、薄い唇は蜜のような唾液を滲ませながら、腹の中から出てくる温かい息と共に、冷たく淡い水色のような声を発している。それがぱっとこちらを向いた時、僕の息は止まった。彼女の微笑んで線のようになった黒い目が、丁度僕の顔を見ている。が、彼女は僕を僕であると認識してはいないらしかった。
 彼女はまず長いプラスチックの箸で、遠くの方にあった玉子焼きをつまんだ。その瞬間、背中に立っていたブロッコリーの大樹が切り倒されたかのように音もなく倒れこんだ。その先にミートボールの積まれているらしいアルミホイルの容器があった。
 上空からかちんかちんという音が、ぐにゅぐにゅと水と混ざり合う、気味の悪い音と共に聞こえている。耳を押さえていても聞こえてくるそれは、彼女の咀嚼音に相違なかった。けれどもそれは将来の自分を嫌でも想像させる音でもあった。出ないはずの汗が、妙になぜか額から流れていくのを感じた。間もなくごくりと喉の方で大きな音がしたかと思ったら、くるるとお腹からそれが落ちてきたらしい合図が聞こえてきた。
 彼女はその合図を聞いたか聞かずか、また箸をこちらへ近づけた。ブロッコリーの幹をつかんだそれには、玉子焼きらしい屑が、ドロっとした液体と共にへばりついて、生々しい臭いを発していた。そうしてまた、ブロッコリーの大樹は、クレーンで運ばれるようにゆっくりと、少女の口の中へと運ばれていった。
 僕にはもう逃げ出そうという気力さえなかった。横の大樹がなくなって、大きな空間ができても、そこへ動こうとすらしなかった。ただ、三角座りをして、彼女に食べられるのを待つともなく待っていた。いよいよその時がきたらしい。僕の身体は今、二本のプラスチックの棒に挟まれて、持ち上げられている。両脇腹に感じる彼女の体温に、これから食べられようとしているにも関わらず、僕の胸は強く鼓動を打って、頬に熱を送っている。彼女の白く優しい顔がどんどん近づいていく。薄い唇の間は、真っ赤なトマトのような、怪しく艶々した空間が、透明で細い、唾液の柱が三本で組み上がっている。そこからほのかに玉子焼きとブロッコリーの混ざりあった、何とも言えない生々しい臭いが、銭湯のサウナのように湿った温かい空気に混ざって、もわっと漂っている。しかしそれが彼女のものだと思うと、不思議と不快に思えなかった。気づくと僕は柔らかい暗く湿ったサウナの中で、ドロっとした生々しい臭いを発する液体と混ざりあっていた。なぜか彼女は咀嚼の中で、僕を白い歯で切断しようとはしなかった。そうして僕の身体は、ちょこんと垂れたベルのクラッパーのような軟口蓋を通って、ごくんという嚥下音を感じながら、赤く蠢くトンネルを下へ下へとゆっくり落ちていった。
 窄まったところを抜けると、忽ち開けた空間に出た。大きな袋状のエントランスは薄いオレンジ色をしていた。その中に赤色の血管がいくつも通っている。その艶を持った袋は縮んだり広がったりを繰り返しながら、酸っぱい臭いのする液体を纏っていた。そして袋が大きく動く程に、ぎゅるぎゅると気味の悪い音が、けたたましく鳴り響いていた。玉子焼きらしい砕けたものとブロッコリーらしい砕けたものは、酸っぱい臭いのする胃酸と混ざりあって、どろどろした温泉を作っていた。僕はその腰ほどある温泉に浸かりながら、ふとこういう彼女の体内に、どこか生物らしいものを感じた。
 そうしている内にも、窄まった上の方からは、ミートボールの欠片らしい残骸と白い米の塊がいくつも落ちてきては、ぼちゃんと胃液を大きく波立たせていた。玉子焼きとブロッコリーの胃酸は既に固体から液体へと変わってきている。それを見て、いよいよ僕も身体が溶けないか心配になってきた。それは不安から、いつしか恐怖へと目まぐるしく変わっていった。立ち上がったり座ったりして、どうにかその気持ちを紛らわしていた。僕の頭から血の気が引いて、身体は震えはじめた。けれども胃の底から出る事は不可能らしかった。
 不幸か幸か、僕の身体は溶けないらしかった。痛みを感じる事も、温泉に浸かっている身体の一部が崩れていく事もなかった。──ミートボールの残骸は、茶色いソースを胃液に混ぜながら、徐々に液体となっていっている。胃液には細かい米粒がいくつも浮いていた。時々臀から柔らかく力強い波打ちを感じていた。それは僕の身体を消化するための蠕動に相違なかった。溶けない事に気づくと、今度はあの少女と混ざり合えない寂しさが、僕の胸にぽっかりとした穴を開けていた。鼻につく酸っぱい臭いをどうにか身体の中にいれようと努力してみたりした。だんだんその臭いにも飽きてきて、もう一度あの爽やかな彼女の匂いを感じたくなった。僕の隣で、黒縁のメガネをかけた、茶色のブックカバーをつけた小説らしい本を読む、彼女の姿を思い出しながら。
 食べ物がどんどん溶けていく胃液の中で、僕一人だけがいつまでも形を残していた。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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