五月の昼下がり。緑色の歩道橋の上に、男が一人、家路に就いてゐた。
男は白いビニール袋を片手に、黒いパーカーのポケットにもう一方の手を突込み、朱焼けた煉瓦造りの塔のやうなビルに向つて、行くあてなどない程にのろのろと足を進めてゐる。
所々ペンキが剥がれ、赤錆の覗く見すぼらしい鉄橋の上には、男の外に誰の姿も見えない。
歩道橋の下の往来には、黒や灰や白の、大小様々な自動車が、出来たばかりの真つ黒な道を瞬々と、鋭い風きり音をたてながら、素早く行きかつてゐる。その両端で、青や緑や黄の、やはり様々な服装の、こつこつとした雑踏の音が、皐月のどんより白く曇つた空に響いてゐる──さうした都会の喧騒が、男の耳の前には確かにあつた。が、男の耳の中へは、それ等の自動車の振動や、人々の足音は、全然はひつて来ない。唯時々発せられる自分の溜息が、男の頭の中を反響するばかりである。
男は、──年度末に行はれた、年度最後の大学入試に落第した男は、常々の憂鬱を紛らす為に、飛び出すやうに散歩へ出かけた。その次手に母から買ひ物を頼まれ、今夜の食事になるであらう食材を、片手にぶら下げてゐる。その御使をこなす容子が、男にはまるで、戦に敗れ生き残つた将兵のやうに感じられて、思はず苦笑ひを浮べた。入試と云ふ、己の運命を決する戦に敗れた将兵のやうに。……
男が歩道橋の端にあつた、右に折れ曲つた階段にたどり着いた時であつた。ふと五月には珍らしい乾いた冷やかな風が、男の頬を切り裂くやうに吹いた。その風には妙になぜか、桜のやうな香りが含まれてゐた。
さうかと思つてゐると、背中の方から突然、馬の嘶きが聞えて来た。それと共に、ぱかぱかと踊るやうに軽やかな蹄の音が、どんどんこちらへ近づいて来るではないか。男はひやりとした。最近呑んでゐる精神安定剤やら睡眠剤やらが引き起した幻聴か何かを疑つてゐると、今度はどこからともなくかう云ふ詩が聞えて来た。それはまるで冷たい雪解け水のやうな声色であつた。
国破れて山河あり
城春にして草木深し
……
はつと何かに脅かされて男は後ろを振り向いた。
そこには紺色のセーラー服の女の姿が一人あつた。あたりに馬は見えなかつた。
男は驚いた。男には彼女が、不思議と自分のやうに思へて仕かたがなかつた。きめ細かい白い肌、さらさらと風に靡く長い黒髪、白桃のやうに薄い唇、そこから覗く小さい八重歯、──どれを取つてもこの男にはない。にも拘らず男は、目の前に立つ彼女こそが己の生き写しであり、紛れもない己自身であると云ふ不可解な確信を抱いてゐた。女の後ろにある遠くの山々は桜色に染つてゐる。
女は口角を微妙に上げながら、目を細めて言つた。それは男にも身に染みて、よく分つてゐるやうな事であつた。
「あなたは負けたんだ、試験と云ふ戦ひに。」
「うるさい、うるさい。」
「あなたにもわかつてる筈でせう?」
男は震え上つた。男には彼女が、閻魔大王の化身か大悪魔か何かのやうにも感じられた。
女は不相変無気味な笑みを浮べながら、手を背中に組んでこちらへ近づいて来る。男は後ずさりをしようとした。が、不幸にも踵は歩道橋の階段の縁からはみ出してゐた。男はその下に断崖絶壁があるやうに思へた。女はかう続けた。
「かの織田信長は明智に負けて、本能寺の中に燃えた。その明智は羽柴に討たれて死んだ。そして羽柴は、……あなたは?……もうわかつてるでせう?」
「止めてくれ。止めろ!」
男は頭を抱へながら、叫ぶともなく叫んだ。その瞬間、往来に植ゑられた銀杏の並み木から、小鳥のばたばたと羽ばたく音が響いた。
「しかし!──しかし世界大戦に負けた日本は、──昭和天皇は生きてたぢやないか。」
男が静かにさう言ふと、女は「ふふ」と一言笑つてから、かう続けた。
「彼だつて人間にさせられたでせう? 日本人にとつての神様が一柱死んでしまつて、……」
「それは詭弁だ!」
「本当にさう思つてる?」
男は何も言へなくなつた。はつはつと呼吸が浅くなつて来た。胸の奥で男の心臓が一生懸命に血液を全身に行き渡らせてゐる。
血の気のない白い肌の女は、不相変後ろに腕を組んで、嫌な微笑みを浮べながら、下から上へ、男を舐めるやうに見た。
男は金縛りにでもあつたやうにぢつと動けなかつた。まるで蛇に睨まれた蛙のやうにぢつと。……
ふと男の目の前にはセーラー服の女以外にも何か湧き出て来さうな歪みがあつた。その強くなつて行く歪みは徐々に、同級生であつた友人のKの、黒い学ラン姿を浮び上らせ始めた。黒い蕈頭の綺麗な、第一志望にいち早く合格し、いつも愉しげに談笑してゐた、あの忌々しい姿を。
Kはセーラー服の彼女の隣で笑顔を見せてゐる。しかも心做しか彼のその右手が、彼女の組んでゐる白い腕を触つてゐるやうに見えるのが一層腹立たしかつた。
「お前は負けたんだよ、俺らにな。」
いつか聞いた誰かの笑ひ声が、何度もなんども頭の中を騒がせてゐる。自然と足が一歩引いた。あつと声が出た。その儘男は崖を滑り落ちた。重力が消えた。どんどん落ちて行く落ちて行く……底の見えない奈落の深淵へ──
男は実際階段を一段踏み外しただけであつた。女の影はもう目の前から消えてゐた。桜の香りもいつの間にか幽かに漂ふのみであつた。……
その日の夕方。四畳半の自分の部屋の中で、けふの出来事を思ひ返してゐた。
緑色のカーテンのかかつた大窓の横に、ぽつんとあつた学習机の上には、乱雑に置かれた赤本やら資料集やら教科書やらが、汚らしい山を造つてゐる。その山の中には黒書きの上に母の赤ペンで、こと細かく添削され尽くされた、あらゆる試験の答案用紙も混つてゐた。その横にやはり母の貼り付けた、紙で印刷された志望校一覧が一枚、セロテープもすつかり剥れて、唯のぼろきれと化してゐた。
その手前には、皺だらけの黄ばんだ布団が一枚二枚、ドブ川のやうに部屋の中心を通つてゐる。そこ等に幾つか散乱してゐる衣服の丘が凸々とあつた。
だんだん一階から立ちこめて来たらしい、味噌汁の好い匂ひが男の鼻腔を支配した。味噌汁の匂ひは男の心を、どうにもけふの曇り空のやうに濁らせてしまつた。さうして机の上にあつた、ぼろきれが目の中にはひつて来た。
ぼろきれには、数々列挙された難関大学の名前の中の一番下にあつた所に、小さく囲つた丸印と、そのすぐ横に「ここだけは受かりなさい」と書かれた走り書きとが、まだ薄ら残つてあつた。それを見た途端、男は落第の通知を眺めた時の、鼓動を打つてゐた心の臓を、メスか何かでさつと切つたやうな、鋭い胸の痛さが又身体に蘇つて来た。
ふとパーカーのポケットに突込んだ指の先には、何か四角い硬い物がある。取り出して見ると、果してそれは、けふ買つた安物のライターであつた。けれども一つ気がかりであつたのは、一階にゐる母を、──今、自分たちの為に夕飯を作つてゐるであらう母を殺してしまふ事であつた。
そつと手にした小さな灯火は、男の目の前を、ゆらりゆらりと揺めいてゐる。親指の先が焼ける。男はさながら阿片中毒者の如き、恍惚な表情を浮べながら、小さな灯火を見るともなく眺めてゐた。
その時である。ふと又どこからともなく女の声が聞えて来た。
「もうわかつてるでせう?」
男はそつと目を瞑つた。さうしてゆつくりと目を開いた。
母上様、御謀叛をお許し下さい。──男は小さな灯火を一枚の薄いティッシュペーパーに引火させた。一ひらの塵紙は黄色い火を大きくしながら、黒く小さく焦げて行つた。
母上様、御謀叛をお許し下さい。──その火はすぐさまティッシュのはひつた小箱に燃え移つて、炎となつて男の前へ広がつた。
狡兎死して走狗烹らる。──嗚呼、自分はもう、駄目なやうです。……
炎はぱちぱちと乾いた音を立てて、烈しく火の粉を舞ひ上らせながら、散乱してゐた衣服、ぼろぼろの赤本、折れ曲つた教科書、くたくたの資料集、本棚に嵌つてゐた漫画、卒業アルバム、──ありとあらゆる学生時代の思ひ出と云ふ思ひ出を、跡形もなく燃やし尽してゐる。
──我が城が燃え盛つてゐる!
男はその目にめらめらと揺れる焔を映しながら、唯薄ら笑ひを浮べてゐた。一階にゐるであらう、自身の母親の焦りに戸惑ふ姿を思ひ浮べながら。
「お許し下さい。母上様!どうかどうか愚かなわたくしめを!……」
次の日。すつかり燃え朽ちた焼け跡の、現場検証の黄色いテープの前に、大学生らしい二人の男女が立つてゐた。
ギンガムチェックのワンピース姿の女は、胸の前で両手に、一輪の白い菊を握り締めて目を閉じてゐる。その隣には茶髪の綺麗な、デニム生地の上衣を着た男が、彼女の背中をそつと支へてゐた。
白い肌の女は静かに目を開いた。さうして二階の方を、──焦げ茶色の一本の柱がある以外、青い空しか見えない所を見上げた。隣の男はさう云ふ彼女の顔をぼんやり眺めてゐた。
真昼の黄色い光が、女の艶やかな黒い目の中に映つてゐる。目尻にある粒が、やけにきらきらと、輝いてゐるやうに見えた。
さあと横から吹いた、湿りを含んだ暖かい風が、彼女の前髪をさらさら揺した。そつと彼女は焦げた家から目を離して、往来を左へ歩き始めた。男は女の翻した黒髪を一目見ると、慌ててその後ろをついて歩いた。
二人の背中姿は、その焼け跡からどんどん離れて行つた。……
「供へなくてもいいのか?」
「ええ。」
「本当に?」
「ええ。……あなたこそ、友だちが亡くなつて悲しくないの?」
「俺はいいんだ。お前こそ、──彼の事、高校の時からずつと好きだつたんだらう?」
「ええ。でももういいの。わたしの思ひはきつとあの人には伝はらないのだから。……さうだ。今からどこか遊びにでも行きません?」
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