其処にはただ一面の野が広がっていた。朽葉色の草原が茫々と生い茂り、遥か彼方へと続く天は紫水晶のように硬く透し、凍ついた沈黙がすべてを覆い尽くしていた。荒涼とした世界に双つの光が在った。何奴も寄せ付けぬ純白が咲き誇って居た。
双輪の薔薇である。
昇ることのなき日が何千と廻った頃であった。
荒れ切った地に、独り乙女が降り立った。春の女神である。乙女は世界の有様を哀しんだ。其の瞳から溢れた涙は露と成り、花片と成って舞い落ちた。乙女は水晶の天に捉われ、孤独に咲き乱れた。
アプロディーテ——
乙女の名を喚ぶ厚い声があった。傍に男が降り立った。軍の神である。男は乙女の佇まいに憤った。
何故貴女が世を厭うのか——何故悲嘆に暮れるのか——貴女の力で華を——此の世に春を取り戻してはくれぬか——
マーウォルス——
乙女は男の名を口遊んだ。
私に——私にできるのですか——
できるとも——
男の咆哮に、乙女は細く震えながら其の薄紅の手を天にかざした。書の一頁を繰るが如く、世界は瞬く間に生まれ変わった。日は地を這い漲り巡り風は渦巻き冴渡り、日と風とに照らされた草原には麦が実り果実が熟し、世界は華に彩られた。乙女は悦喜に浸り其の頬を紅く染め上げた。豊穣の女神である。
嗚呼——此れこそ我の求めていたもの——
男は華やぐ情景に酔い痴れた。
又永い月日が経った。
乙女は男と共に居た。男の求めるがまま新緑を創り上げた。乙女は満ち足りていた筈であった。しかし心の片隅に巣喰い始めた闇に気付かぬ振りをしていた。其の心は数千の年月に疲れ果て擦り減っていた。
或る日麗しい少年が独り降り立った。春夏と冬とを分かつ王子である。
嗚呼女神よ——此れが貴女の御恵みですか——
少年の幼く無邪気な声に、乙女の心はいとも容易く射止められた。恋多き乙女である。
又時が流れた。
少年の初心な美しさは、書に挿む栞が如く乙女の道標となり其の心を縫い付け続けた。乙女はとうに男から離れ、少年と共に居た。其れは真の幸福であった。
男は乙女に追い縋り、自らと離れていく心に盾付いた。勇猛な戦士の神である。しかし終に乙女の想いが消え去った時、男に憤怒の炎が宿った。其れは狂おしく男を焼き天高く立ち上り、やがて地をも支配した。乙女は眠っていた。
アドーニス——
男は喉も張り裂けんばかりに幾度となく少年の名を喚んだ。
何故我から奪うのか——何故女神を——魅惑を奪うのか——
如何してです——私はただ女神様の愛を——素晴らしき愛を受けただけ——如何して貴方が——天と地を焼き尽くしてしまうのです——
少年は焼き焦がれながら悲痛に叫んだ。しかし炎を食い止めることはできなかった。男は我を忘れ主を忘れ、少年を天から突き堕とした。嫉妬に拐かされた神である。
少年が地に叩き付けられる轟音に、乙女は目を覚した。其の翡翠の瞳が世界を映したのは、炎がすべてを還した後であった。少年は深紅の血溜りに倒れて居た。其の傍には茨が在った。ただ其れだけは轟々と燃え盛る炎の中生き延びていた。乙女の纏う華である。
救けなければ——
乙女は茂みに飛び込み少年を救おうとした。しかし其の薄紅の足は茨に捕らわれ生き血に埋もれ、其の柔らかき胎は血潮に呑まれた。
如何してです——私はただ——愛に生きただけ——
少年を癒そうと延ばした指は終ぞ届かず、其の女神は事切れた。双りの血は地を染め茎を染め、そして純白であった華をも染め上げた。
其処にはただ一面の世が広がっていた。朽葉色の地には草の欠片も無く、遥か彼方へと続く天は濁った水面のように浅黒く揺蕩い、炎の残匂が沈黙を覆い尽くしていた。荒涼とした世界に双つの光が在った。何奴も寄せ付けぬ赫が咲き誇って居た。
双輪の薔薇である。
赫の誕生
神話的悲劇譚
"愛と嫉妬が織りなす、世界の色彩を変える神々の物語。"
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