分厚い布を手で押さえ、定規を当てて薄く線を引いていく、カーブは慎重に、でも線は勢い良く。後から消せるように薄いけれど、途切れることはない。真っ直ぐ、綺麗な線……。
彼女は小さく息をついて手を離した。
「よし、型は取れた。これ通りに裁っていこう」
その手で裁ちばさみを持ち、少しずつ布に滑らせていく。様々な裁縫道具を扱う彼女の手は、豆だらけで赤らんでいる。綺麗ではないかかもしれないけれど、誇り高い、彼女らしい手。彼女はその手で、多くの人を着飾ってみせる。
高城真子――私の、憧れの人。
私は、幼い頃から服が好きだった。親に強請って新しい服を買ってもらう中で、そのうち自分でも服を作ってみたいと思うようになった。特別手先が器用なわけではなかったけれど、それでも必死に勉強し、練習した。そんな私には、小学生の頃から来ていたお気に入りの服がある。真っ直ぐな線と、柔らかな線。それぞれが混ざり合った、斬新な、そして荘厳な刺繍が施されたワンピース。サイズが小さくなってもう着られないと言う親をなんとか説得して、中学一年生の頃まで着ていた。それでもとうとう限界だと思った時、手放す前にとその服について調べた。そして知った――その服を手掛けたファッションデザイナー、高城真子。ストリートブランドの創設者であり、若くして国内外で注目される天才。今目の前にいる彼女だ。
私は努力して服飾の道に進み、数多くの現場を渡り歩いてきた。専門学校を出て二十年余り、ついに彼女の元で働けるところまでこぎ着けた。彼女は今では老年だが、その才は尚磨かれ続けている。自ら服のデザインを考え、作っていく彼女の姿を間近で見ることができる。これ以上に幸運なことはない。
――なのに。
舞い上がっている、はずなのに。目の前にいる彼女が、どこか遠い存在のように感じる。私は、彼女の傍で働くようになってから、ずっと心のどこかに何かもやもやしたものを抱えたままだった。
「……ふう、今日はここまでかな。君、もう帰っていいよ」
彼女は私にそう言って、道具を片付けていく。……あまりにも、あっさりと。
「はい、お疲れ様です」
私はそう言って、自分の荷物を持つ。いつもと同じだ。
私の仕事は、簡単に言えば彼女の手伝い。と言ってもまだ彼女の元に来て日が浅いので、任されるのは軽い雑用だけ。ほとんど彼女を見学し、メモを取るだけの生活だ。ただ、最近大きな仕事が入ったらしく、ここのところずっと布を型どって裁つ作業を繰り返している。もうメモすることもなくなってしまった。
私も、もうそろそろ自分でデザインして、自分で作った服を売ってみたい。そんな思いがむくむくと湧き上がってくる。初めて天才・高城真子を知った時、私も大人になったらあんな風に活躍したいと思った。けれど、その時の彼女の年齢をゆうに越した今、私が世の中に出した作品と言えるものなんて、何一つとしてない。
とうに分かりきっていた。自分に才能がないことぐらい。そんなもの、ずっと前に見切りをつけた。それでも自分にできることを精一杯やると、決めたはずだ。それなのに――現状に不満を持ってしまう。
……ああ、ようやく分かった。私があの天才の傍で感じる、もやもやした感情の正体。
劣等感――彼女を見ていると、どうしようもなくみじめになる。考えていて分かった。いい歳をしてなんて子供じみた感情なのだろう。努力して辿り着いた場所のはずなのに、自ら道を切り開いていく彼女の前で、勝手に曇り、勝手につまずいている。……ああ、それこそみじめな姿でしかないじゃないか――。
私がそこまで考えたところで、思考を一度止めた。これ以上続けたところで時間の無駄だ。ただ、それだけをはっきりと理解した。
電車に乗って、座席につく。今後のことを考えるのも後にして、鞄からノートを取り出した。私が自分で考えたデザイン案――こんな服を作ってみたい、という私の願望の表れだ。……まあ、それが役に立ったことはないわけだけれど。
高城真子への憧れから、彼女の仕事を見て気付いたことをどうにか活かせないものかと何度も描いていたが、少し経ってから見てみても彼女の作る服とはまるで違うように見える。
「……あ、ここをこうしたら――」
ふと、変えたら良くなるんじゃないか、というアイデアを思いついて、描き足してみる。――少しでも彼女に近づけないか、という気持ちで。でも、線を描こうとしてもどうしてもがたついてしまう。
「うーん、もうちょっと、こう……」
なんでこう、うまくいかないんだろう。彼女のように柔らかな線も、真っ直ぐ綺麗な線も、描けやしない――。
「……あ」
夢中で描いていたら、ふと見るとデザイン案は汚い線だらけでぐちゃぐちゃになっていた。……いや、よく考えたら膝の上で描いているのだから、線ががたつくのは当たり前だ。どうやら、考え過ぎてここが電車の中だということを失念していたらしい。
あー、もう……。
声に出したいのをどうにか我慢して、私は溜息をついた。
どうしたらいいんだろう。
どうしよう。
どうしたら彼女に近づけるんだろう。
どうしたら……。
……ああ、考えるのは止めようと思ったのに。
……ああ――。
「……あ、」
「あの……」
「え?」
突然聞こえてきた声に、びくりと体が動いた。驚いた顔のまま振り向くと、隣には中学生くらいの女の子が座っていた。
「それ、綺麗ですね」
次に聞こえてきた声に、私はさらに驚いた。どうしたらいいか分からず何も言えずにいると、女の子は困ったように微笑んだ。
「ごめんなさい、突然……。悩んでるみたいだけど、いろんな線が交じり合ってるの、綺麗だなって思って」
私は、固まった。何か言うべき、ということは分かったけれど、何だか頭の機能が停止してしまったような気がした。
「ありがとう」
結局それだけ言って、私は逃げるように電車を降りた。しばらくはふわふわしたような感じで、そのまま歩いた。歩いて、歩いて、……分かった。
――ああ。
あの子は、私だ。ただ服が好きで、デザイナーに素直に憧れていた、私。
もう遠くなってしまったと思っていた。でも、あの子は綺麗だと言ってくれた。私の汚い線を……。
そこまで考えた時、私は手元のデザイン案を見て、何だか妙に納得してしまった。
「……そっか」
あのワンピースを、思い出した。親に古着屋に売られてしまって、今はもうどこにあるかすら分からないけれど、お気に入りだったワンピース。色々な線が交じり合ったデザインのワンピース。私の絵は、それだ。
――汚い線かもしれない。憧れとは違うかもしれない。柔らかくも、真っ直ぐでもない……それでも、私の描いた線。私が書いた、いくつもの線の交わり。
早く家に帰ろう。そして布にこの絵を描いてみよう。世に出すことはないかもしれないけれど――何だか少し、いいものが作れる気がする。
――ああでも、彼女に見てもらうのは少し恥ずかしいな。さて、どうしたものか。
線と憧れと、
内省的ドラマ/自己発見
"憧れの天才の傍で、私は私だけの線を見つける。"
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