← 作品ページへ戻る

【無間の涯】仏花黎明篇

Ron

50,852 字

仏教SF、歴史ファンタジー、輪廻転生譚

"輪廻の果てに、魂は無間を識るか、慈悲を識るか。壮大な因果が織りなす、魂の遍歴の物語。"

← 右から左へスクロール


ーー蔵尊の焦げた頭光は
 汝の魂を無の深淵に沈める
 輪断の真言は闇を裂き
 無間鈴の響きは魂を粉砕す
 葬刹院の黒堂に集え、信徒よ
 汝の心を灰に変え、無を讃ーー
 
 涯てのない暗闇の中、巨大な日輪に向かい、一人の僧が経を読んでいる。
 科学の粋を極めた、宇宙に滞在するための施設。
 その一角の展望室では、太陽が一望できる窓を除きすべて黒い幕で覆われ、蝋燭が僧を取り囲むように置かれている。
 これ以上ないほど異質であり、しかしどこか神々しい。
 蝋燭に灯るは黒炎、聞こえるは魂を震わせる鈴の音。
 
 オン サラキャ ムリンジ タラク ソワカ
 ナマク ムリンジゾウソン ソワカ
 
「断輪!」
 若い男が扉を蹴り開け展望室に踊り込み、そして僧に銃を向ける。
 断輪と呼ばれたその僧はゆっくりと振り向き、立ち上がる。
 筋骨逞しいその姿は歴戦の武道家を思わせ、まさに偉丈夫と言うに相応しい。
 断輪は相手を見据え、しばし瞑目した。
「大和よ、汝未だ輪廻にあり。その苦しみ、如何ばかりなりや」
 重々しく、しかし慈愛に満ちたその声は憐れみすら滲んでいる。
「苦しいさ。今まで俺は無限に等しいぐらい死んできた。いっそ全部投げ出したくなる。でもな、お前を地獄に送らなきゃ苦しいだけじゃない、この世が全部終わっちまうんだ」
 大和という若い青年は銃を握り直す。その目は金色に光り、断輪とはまた違った異質なものを感じさせる。
「断輪、ここならもう逃げ場はないぞ。お前も、俺も」
「哀れなり、輪廻に囚われし者よ」
 断輪が手に持った錫杖で床を突き、念珠を握る。
 どちらも焼け焦げ、歪んでいた。
「汝例外なり、我が手にて無間地獄往還の旅路に送らん。唵 地獄無輪 娑婆訶」
 真紅の袈裟がユラリと揺れ、錫杖の欠けた環から陽炎が立ち上る。
「唵 無輪 吽!」
「断輪!!」
 断輪の真言と大和の発砲は同時だった。 

 
 ーーこれは、輪廻と無間を巡る、魂の因果の物語。
 始まりは遥かな昔。後に断輪と名乗る一人の若き僧が、百済より倭国に渡ったことに端を発する。

和上慧輪
 海鳥の鳴く声も鮮やかに、どこまでも広がった青空が揚々たる前途を祝しているようだった。
 穂先が波を切り裂く音がより一層鮮明になった気がして、その若い僧は船首へと歩いていく。これから自分が歩む未来を見ようとするかのように。
「和上、見えてきました! あれが倭国です!」
 船首に立ち航路を見ていた者が、横に出てきた僧に元気よく声をかける。
 視線の先には薄雲に覆われた緑豊かな島国。周辺の海域は鳥が旋回し、小さな船も多く見え、活発な漁場であることがうかがえる。
「おお、美しく豊かな土地ではないか。これから御仏の教えが満ちると思うと心が躍るな」
 若い僧は懐の経典を我知らず掌で抱くと、希望に満ちた眼差しで、遥か先の島を眺めるのだった。
 
 時は六世紀中頃。百済の聖明王が倭国へ仏像や経典を献上し、倭国にも仏教を広めるため、幾人かの僧をそれに伴わせた。
 年若い僧、慧輪もその一人であった。
 慧輪は幼いころ仏門に入った。同じ年ごろの童子達と一緒に、朝も夜も勤めに励み、文字や教義を学び、掃除をよく行なった。
 慧輪の名を授かってしばらくした頃、彼より少し年かさの僧阿河が慧輪を呼び止めた。
「先日ある命を賜ってな。はるばる倭国にまで赴き御仏の教えを広めて参れとの仰せだ」
「おお、それはそれは。何という栄誉ある命でしょう」
 慧輪は心より祝福した。師僧に比べて倭国についての知識はあまりなかったが、御仏の慈悲を知らない衆生へそれを伝える事は至上の喜びだろうと思った。
「他にも手に技ある者、文字を著す事に秀でている者が命を受けている。そこでだ、お前にもぜひ同行してもらいたい」
「私が、ですか?」
「すでに和上と尊ばれているお前なら共に語るに申し分ない。師僧にももう話は通している。共に倭国へ行き、衆生の救済ますます広まらん事を、というわけだ」
 御仏の教えを知らず、救済を知らず苦しんでいる心の純粋な倭国の民。
 それに私達が希望を、救いを伝えるのだ。
 そう思うと、慧輪の胸の高鳴りは抑えられないのだった。
「ぜひ、ぜひ私をその端に加えて下さい!」
 こうして、聖明王から遣わされる僧の一人となった慧輪は、寺の皆に別れを告げて、倭国へと出立したのである。
 
 船着き場に着いた百済の船団から、続々と人々が降りていく。
 初めてかぐ異国の地の香りに、慧輪の胸はますます高まるのだった。
「遠い旅路、よくぞ参られた。この筑紫津で、まずはゆっくりと海路の疲れを癒していただきたい」
 倭国の吏が進み出で、慧輪ら百済の一団を歓迎した。
「大和の大王へと贈るものを持ってこられたとか。都へは我らの使いが疾く向かう故、心安く備えを整えるがよろしかろう」
「お気遣い感謝いたします」
 百済の代表者が礼を返す。
「此度我らが君聖明王が倭国の大王に献上致しますは、遠い地より伝わりし知識と光差す教えの象徴、仏像や経典にございます」
 いささか得意げに、今まさに船から降ろされる大荷物を指さし言う。
 慧輪はそのやり取りを横に聞きながら、まだ見ぬ倭国の都を想うのであった。
「法仁和上」
 慧輪が話しかけたのは、倭国へ赴いた僧達のうち、最も年長の法仁という僧であった。
 法仁は信心に厚く、穏やかにして聡明、倭国の言葉も通訳を頼らずともある程度話せるという、まさに模範のような人である。百済でもよく慧輪は法仁より教えを受けたものだった。
「倭国の都はまだ先なのですか?」
「はい」
 穏やかな微笑みをたたえつつ、法仁は遠くを指さした。
「倭国の都はここからさらに船で数日かけたところ。ここは外つ国からの玄関口なのですよ」
 そうして法仁は船着き場で働く大勢の人々に目を向ける。
「だから活気がある。百済以外の人間も倭国は受け入れています。これからどんどん発展していくことでしょう。私たちはそれに先駆けて、この土地に御仏のご威光を広めにやってきたのです」
 法仁は懐から木彫りの小さな仏像を取り出すと、それに向けて合掌をする。慧輪もそれに倣い合掌をしつつ、人夫たちの荷物を運ぶ荒々しくも頼もしい声に安らかな気持ちになるのだった。
 
 倭国での最初の夜は忘れがたいものとなった。
 簡単な建物しかなかったが、それでも吏は慧輪達を心からもてなしてくれ、故郷とは違う食べ物の味に舌鼓を打った。
 法仁は通訳を介さず御仏の教えを語って見せ、そのまだ触れたことのない慈悲に耳を傾ける者もいた。
 倭国の人々は元々神を祀り自然に敬意を持つと聞く。心が純真で信に厚い者達なのだ。
 素朴だが心根の優しい人々。豊かな自然と、そこに生きる者によって整えられた生活の営み。
 慧輪はここに道を伝え、できる範囲で広めていきたいと切に思った。それほどまでに、若い彼の心は感動で満たされたのである。
 
 慧輪達はまず、ここから南にある内陸の那津郡を目指すことになった。そこでこの一帯を受け持っている豪族に手続きをし、それをもって正式に倭国へ来たことになり、大王への謁見が許されるのだという。
 慧輪は乾いた道を歩きながら、そして後ろに歩く人夫達を見、倭国の言葉を早く覚え、法仁のように彼らの言葉で教えを説きたいと思っていた。
 目的地である那津郡、ことにその中心たる那津宮家まではそう遠くはないとのことだった。
 馬を使う急ぎの使者であれば半日ほどだそうだが、献上品も多く所持している百済の一団ではそうはいかない。
 しかし急ぐ旅路でもないのだ。
 果てのない青空を仰ぎ、緑の匂いのする風を嗅ぎ、慧輪は数珠をその手に改めて巻いた。
 
 那津郡に到着すると、一部の者は宮家に向かい、慧輪達は客館へ通された。
 手続きなどは長くはかからないそうなのだが、筑紫津から都にもっとも近い難波津までの船が整うまで、二日ほどかかるという。
 その間ここに滞在し、改めて疲れを癒し準備を整えてほしいとのことであった。
 慧輪達は客館の一角に、吏の許可を得て小さな仏像を安置し、そして故郷百済で行なっていた勤めを始めた。
 筑紫津の人々とは違い、こちらでは訝しげな目を向けられることが多かったが、そもそも御仏の教えが伝わっていないのだ、それも当然だと思っていた。
 ごく一部の、周りの者と比べ上等な衣を身にまとった者がいたが、彼らは慧輪達をよく見、様々な問いをかけてきた。
 慧輪や法仁はそれに応え、御仏の慈悲を伝えるのだった。
 那津郡は中央と密につながっているようで、中の建屋や人々の生活はかなり豊かなものだった。
 建屋はよく整えられ、衣も良い色が付いたものを身に纏う人が多く、食事も様々なものを食べ、見た目にも美しかった。
 一方で宮家の外にいる人々はそうではなかった。
 慧輪達はこれからのことを見据え、少しの時間を見つけて外へと出かけ御仏の慈悲を伝えに行った。
 通りから少し離れた場所に、ポツリポツリと住居がある。
 全体は藁のようなもので作られており、宮家の中とは比べ物にならないほど簡素であった。
 その中の一つに慧輪は近づいた。
「失礼を致します」
 通じないとは分かっていても、故郷の言葉で外から声をかける。
 倭国の語を知らないというのはもちろん、自分の言そのものを発し、そして触れ合いたいという気持ちがあったのだ。
 中には粗末な衣を着た女と、土の床に枝で楽しそうに何かを書いている、元気な三人の子供がいた。
「あんた、なんだ?」
 女は訝しげな目を向ける。
 当然だろう。
 見たことのない衣をまとった、聞いたこともない言葉を使う男がいきなり現れたのだ。警戒するなという方が無理だろう。
 慧輪は合掌し、そして深く頭を下げた。
「突然の訪問を許せ。この方々は百済という外つ国の人で、この大和の生活に興味があるようなのだ」
 慧輪についてきてくれた通訳役の吏が女に説明をしてくれた。
「中の人が一緒に来るぐらいだ、さぞご立派な人なんだろうね。男衆は出かけているし、何もないところだけど見たいんならかまやしないよ」
 女は一歩身を引いて家の中を見せてくれた。
 慧輪はもう一度合掌し、そして中へと踏み入った。子供たちは不思議そうな顔を向けたが、特に怪しむような様子は見せない。
 慧輪は通訳を通して暮らしぶりなどを尋ね、女は簡単ながらも答えてくれた。生活のための物も見せてくれたが、それらは驚くほど質素なものだった。
 慧輪が礼を言って家を出てから合掌をすると、子供たちは面白がってそれを真似する。
 その様がいかにも微笑ましく、慧輪は懐から木彫りの仏像を取り出すと、一番小さな女の子にそれを手渡した。
「これは仏様と言って、君達を見守って下さるものだ。今のように手を合わせて大切にするんだよ」
 女は少し複雑な顔をしたが、子供たちは喜んで仏像を受け取ると、それで早速遊び始める。床に転がり、土がついてみるみるうちに汚れていった。
 慧輪は一瞬静止しようとしたが、すぐに思いとどまった。
 遊んではいるがぞんざいに扱っている訳ではない。
 この子らは御仏をまだ知らぬのだ。それでも、いや、それゆえに幼子にもこのような笑顔をもたらすことこそが御仏の慈悲なのではないだろうか。
 慧輪は微笑んで思い直すと、改めて女に礼を言って立ち去った。
 
 出立してよいとの沙汰が下ったのはそれより二日後のことだった。
 手早く用意を済ませ、一行は筑紫津まで戻る。
「結局戻るのなら筑紫津で過ごしても良かったのではないですか? 和上」
 傍らを歩む阿河が言い、それに対し法仁がほほ笑んだ。
「筑紫津はあくまでも港であって、客館は簡単なものしかないようです。それに那津宮家には中央の立派な方の御使者がおいでになっていたのです。あなた方は宮家の外へ御仏の慈悲を伝えに行ってくれていたのであまり見かけなかったようですが、私達はその方々とお話をしていたのですよ」
「それはどういった方々なのですか?」
 慧輪が尋ねる。わざわざ中央の都から、おそらくはこの百済の一行に会うためにやってきたという倭国の人間に興味が湧いた。
「倭王の側近としてお仕えする高貴な身分の方の御使者です。彼らは倭国で御仏の教えを広めたいと言っておられ、熱心に私の話を聞いて下さっていましたよ。一足先に出立し、御仏のことをそのお方の、そして倭王の御耳に入れていると思います」
「そのお方の名は?」
 法仁は一つ息をつくと、その名を告げた。
「大臣蘇我稲目様。たいそう聡明なお方のようで、御使者にいろいろと言い含めておいででした」
 
 筑紫津に着くと、一行は休憩する間もあらばこそ、用意された船に乗り込んだ。
 到着する少し前から雲が厚みを増し、遅くなればなるほど天気が荒れると判断されたからである。
「なあ、この船に乗る人ってのは外の変なものを拝んでるっていうじゃないか。日の神様が怒ってらっしゃるんじゃないか?」
「ああ、怖えよなあ。沈まねえか心配だよ」
 こちらを見ながらヒソヒソと、同乗する人夫達が会話をしていた。
 慧輪には当然何を言っているか分からなかったが、恐らく良くない事を言っているだろうことは人夫の表情や、法仁の悲しげな顔を見れば理解できた。
 空を見上げると、ちょうど細かな雨が降り出した。慧輪は数珠を握ると合掌してそれを包み、御仏へ航海の無事を願うのであった。
 
「うっ......」
 覆いのある場所に入ると、阿河が青い顔をして座り込んでいた。
「阿河兄、大丈夫ですか?」
「大丈夫なことがあろうものか……。俺は山育ちで船は苦手なんだ」
 慧輪は阿河の背をさすりながら、いささか呆れた顔を作る。
「百済からの船の時はあんなにはしゃいでいたではありませんか。御仏の御加護、我にあり! と」
 阿河は恨めしげな目を慧輪に向ける。
「あの時は浄土のように晴れ渡っておったではないか。波も穏やか、何より心は希望で満ちあふれておった。しかし今日この波はどうだ。御仏は我々に試練を課しておるやも知れぬ……」
「何をおっしゃいます。かような事があり得ないことは阿河兄も心得ておられましょう」
「しかしだな……うっ……」
 阿河は外に出て縁にうなだれかかると、進路の先を見やった。
「見ろ、雲が龍のごとしだ。御仏の御威光が地にまで届いておらん。天候のことだけではないぞ、倭国の都で何が待ち受けているか、俺は少し不安になってきた」
 慧輪は釣られて同じ方角を見る。
 雨はますます強くなり、唸る風は木の葉のように船を揺らす。
 先程の人夫の態度を思い出し、慧輪の胸に少しのざわつきが生まれた。
 いいや、都では聡明にして御仏の慈悲に興味をお持ちの高貴な方もおられると言うではないか。この胸の内は御仏に対する不信心には当たるまいか。
 慧輪は首を振って考えを改めると、またしてもへたり込んだ阿河の介抱をするのだった。
 
 船は様々な津に寄港し、補給や休息などを行なった。天候の影響もあり道程には五日ほどかかったが、特段大したこともなく航海は順調に進んだ。
 難波津に到着し、船を降りた慧輪はその賑やかさに圧倒された。
 倭の都からほど近いこの津は人の往来も多く、沢山の物品を交換するための交易人が辺り一帯に軒を並べている。
 遠くは北の地から外つ国まで仕入れに行った熱心な交易人が、様々な品物を見比べるようにと、往来の左右から元気な声を張り上げている。
 と、ある品物に阿河の目が止まり、そこに近づいていく。
「おい、慧輪。見ろ、これは百済の織物だ」
「ああ、本当ですね」
「しかもだ」
 と、阿河はその布地に指を這わせた。
「我が故郷に近い里の織物だ。こんな遠くの地で出会おうとは、これも御仏のお導きなのかも知れぬな」
 阿河はそう言って交易人と話し始めた。彼の人は百済の言葉が多少話せるようだった。
 慧輪は他の品物をなんとなく眺めていたが、阿河が悲しげな顔で話しかけてきた。
「……慧輪、塩を持っておらんか」
 慧輪は肩をすくめる。
「塩など持っていないことは阿河兄も重々ご承知のはず」
 その様子を見ていた交易人が笑って声をかける。
「百済のお人なら鉄でもいいよ。向こうの鉄は質がいいからね、塩より少ない量で交換してあげるよ」
「鉄などなおさらに持っておらんわ!」
 阿河の慟哭は風に乗って法仁にまで届き、軽く彼はたしなめられるのだった。
 
 そうしている間も人夫達はよく働き、道中必要なものも手早く整えていた。
 そして都へと運ぶ貢物の点検を終え、百済の一行は改めて列をなし難波津を出立する。
 都までの陸路には倭国の兵が護衛として同行し、やや物々しく歩を進めることになった。
 都までは通常一日半ほど、しかし先日までの雨が影響して道がぬかるんでおり、足元の悪い中では速度も落ちる。
 荷車がぬかるみにはまって抜け出すのに苦労したり、山を進む人夫が足を滑らせたりするなど、道は意外にも険しかった。
「和上、大丈夫ですか?」
 慧輪が手を差し出すと、しかし法仁は笑って首を振る。
「心配には及びません。これでも若い頃は師僧の目を盗んで野山を駆けていたのですから」
 それにしても、と法仁は道の先を見た。
 霧がかった山道は薄暗く、濃い緑の匂いがする。
 百済一行の行軍の音のほかは静まり返っており、都にほど近いはずなのに人の往来はほとんどなく鳥の声が時折聞こえるのみである。
「道は険しく、そして静か。都に至る道とはとても思えませんね」
 すると横を歩んでいた倭国の吏が、馬上から声をかけてきた。
「申し訳ない、百済の方よ。普段道として使っている箇所に土が流れ出で、整うまで少し時間がかかっているのだ」
 それに、とやや言いづらそうに言をつなぐ。
「異国の神を祀り、それを運ぶ一行を道行く人は警戒している。都に付き大臣様の下へ導くまではなるべく衝突を避けたいのだ」
 それを聞き、法仁は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「致し方ありません。まだ御仏の教えはこの地に伝わっていないのですから」
 連珠を手に絡め、合掌しつつ歩む。
「それに自然の業は人の手の及ぶところではありません。御身と工む人の身の安全を御仏に深く申し上げましょう」
「気遣いとご理解に感謝する。さて大臣様のお屋敷がある都まではあと半日ほど。いったんこの辺りで休むことにいたそう」
 吏は号令をかけ、護衛の兵達が立ち止まり休憩をすることを片言の百済語で伝える。
 人夫達は汗を拭い、やれやれとそこらに腰を落とし水を飲んだ。
 ふと視線を感じ、慧輪がその方向を見やる。
 離れた場所に粗末な服を着た数人の倭人が固まり、恐ろしいものを見るような目で一行を見ていた。
 慧輪が訝しげに見返すと、彼らは身を翻して山の中に消えてしまった。

仏法の芽生え
 幾度か足を取られ、幾度かの休憩を挟み、一行はようやく都へと到着した。
「これが……都……?」
 慧輪はややあっけにとられ眺めた。
 背よりも高い先の尖った杭が組み合わさり、敷地をぐるりと囲んでいる。囲いの外側は人の背程の深さがある堀になっており、容易に攻め込まれないようになっている。
 今歩んでいる道の先は杭がなく、矛を構えた兵が見張りをしていた。
 囲いの内部はそれなりに広く、大きな建物がいくつかあった。
 柱で支えられた床は高くなっており、壁はすべて光沢のある板が張られている。
 屋根は多く、そして重く藁が拭かれており、見た目以上に丈夫そうであった。
 一番大きな建屋は幾棟にも分かれていて、ときおりそこを行き来する立派な衣を身に着けた者たちが見えていた。
 確かに那津宮家よりは規模も大きく立派であったが、都と聞いて想像していたものと様相が著しく異なっていたため、慧輪は面食らっていた。
「遠路はるばるようこそ、百済の方々よ」
 よく整えられた丸い石が敷き詰められた道の先、大きな建屋の前で、立派な衣を身にまとった位の高そうな吏が一行を迎え入れた。
「まずは客館へ行き、疲れを取るがよろしかろう」
 そう言って吏は一行を先導し、比較的広い建物へと招じ入れる。歩むたびに石が軽快な音を立て、踏みしめる感触も相まって心地よい。
「こちらで自由に過ごしていただきたい。もちろんあなた方の心に従って仏像なるものを置いても良い。我らが長蘇我稲目様の許しは得ておるゆえ」
 そして吏は袖を合わせ一礼して去っていった。
 客館はまだ真新しいらしく木と藁の匂いが残り、その艶のある光沢は見ていてどこか落ち着くようである。
 慧輪を始め僧たちは早速仏像を安置し始め、他の者は荷を解き、足を拭き、先の険しい道行の疲れを癒そうと思い思いにくつろぐ。
「慧輪、先程は何か驚いたような顔をしていましたね?」
 一息ついたころ、法仁が穏やかな笑みをたたえて慧輪に話しかけてきた。
「ええ。その、都と聞いていたのですが、ここはあまり王が住まう場所といった様子ではなく驚きました」
 法仁は柔らかく微笑むと立ち上がって外へ出、慧輪にも来るよう促した。
「確かにあなたの言うように我が百済王の地とも、西方の大国の王の地とも違います。しかしあれを御覧なさい」
 中央にあるひときわ大きな建物を法仁は指す。
「あれがこの倭国の王の城。倭王は民と共にあり、そして倭国は王が変わると都も変えると聞きます。ですから、すぐに造れ、そして崩し易くなっています。威光を強調するのではなく、常に共に歩む王である。それがこの都の在り方であり、尊い物だと私は感じました」
 法仁の言葉に慧輪は胸を打たれた。
「お許し下さい、和上。私は正直に申しますと侮りを覚えたのです。なんと小さな国であるかと。しかしそうではなかったのですね。私は私の傲慢な心が恥ずかしい。御仏よ、どうか私の心をお許し下さい」
 法仁は優しく彼の肩に手を乗せる。
「あまり自分を責めるものではありません。ただ、在り方は様々であり、そして全ては在る事に意味がある。それだけを覚えておけばよいのです」
「在る事に意味がある……」
「はい。まさに御仏の縁起によるものとも言えましょう。私達がここに在るのもまた、意味のあることなのです」
 そして二人はしばらくそこで都を眺めるのだった。
 
「失礼致す。我らが大和の偉大なる大王への謁見の許可が下りた。百済の方よ、さあ、参られよ」
 しばらく後倭国の吏が現れ、朗々たる声でそう告げた。
 一行の代表者が緊張の面持ちで立ち上がる。
「貢物はこちらでお運び致そう。どの品物を持ちゆくのか指示を願いたい」
 そうして代表者と倭国の吏、人夫と貢物の数々は客館を出てゆき、この国の王の下へと向かった。
 慧輪はそれを眺めつつ、連珠を絡め仏像に向かって合掌するのだった。
 願わくは御仏よ、この国に教えの慈悲が満ちん事を。
 
 大王の前へ進み出た百済の一団は、その身を低くして敬意を表した。
「豊かな倭国を治めたもう大王様、此度は我らをお迎え頂き心よりの感謝を申し上げます。我が君聖明王より預かりし貢物の数々、どうぞお受け取り下さい」
 そしてその覆いを取り、質の良い鉄、見事な鉄剣や鉄刀、短甲や冑、柔らかな布を取り出し捧げた。
 特に大王とその場に並ぶ豪族達が驚いたのは、金色に光る人を象ったもの、すなわち仏像である。
「これは西方より伝わりし教え。偉大なる大王と倭国に繁栄と平和をもたらすものにございます」
 仏像と共に数多くの巻物を差し出しながらその者は言った。
 仏法の巻物は高く積まれ、その内容の多さや複雑さを表しているように見える。
 大王は少し間を置いて言葉を発した。
「遠き地より届けに参ったこと、誠に大義であった。我が大和と聖明王の治める百済、両国は益々の親密なる関係を築く事ができよう」
 そして、と大王は仏像をわずかに視界に入れ言をつなげる。
「この仏像も感謝する。されど我らがこの土地は古よりこの国におわす神を祀り崇めてきた。外つ国からの神を果たして祀って良いか慎重に決めるがゆえ、今しばらくは聖明王の厚意を有難く受け取るに留めておく」
 大王が申し渡すと、百済の使者はより一層身を低めて畏まった。
 吏に促され、もう一度深く礼をし、百済の一団は大王の宮から去るのだった。
「さて、皆の者よ。今しがた聞いての通り、百済から仏像、そしてその仏の教えとやらを贈られた。確かに荘厳にして妙なるものなれど、全く未曾有の物なればこれに関し余はどう扱ってよいのか、そち等の言葉を聞こうと思う。何か申したい者はいるか?」
 大王がその場にいる部達を見やるが、集まっている者達も顔を見合わせて言に窮していた。
 すると、一人の男が大王の前に進み出た。
「恐れながら我が君に申し上げます。この教えは広く西の諸国で敬われており、それらの国は豊かになり我が大和が持ち得ぬ技も有しております。私と関係のある海の外からやってきた者共も仏を尊ぶ者共です。大和のみがこの教えを拒み、その尊さや技を捨て去るなど愚かな事と申せましょう」
 その男、目は細く冷たい光を帯び。肌は白きにして纏う衣は異国を思わせる。腰に帯びた鉄の剣は見事な彫り物が施されている。
 男ーー蘇我稲目は大王に申し上げると、深く頭を垂れ、群臣の列に戻った。
「ふむ。蘇我大臣よ、そちの申す事にも理はあるな」
「もったいないお言葉にございます」
 稲目が口の端をわずかに釣り上げたとき、反対の列から声を上げる者があった。
「しばしお待ちを!」
 その男、身の丈は高く、太古の益荒男にも劣らず。顔に刻まれた皺は歴戦の兵にして、衣は神祇を司る重みの輝きを宿す。
 最前列から進み出たその男、大連物部尾輿は大王の前に頭を垂れ、そして口を開いた。
「先程の我が君の御言葉通り、大和は古来より天津神国津神をお祀りし堅く信を得て来たものにございます。しかし今外つ国の言に乗せられ蕃神を迎え祀ることなれば、必ずや神々の怒りを買うことになりましょう。仏なるものを、ことにこの宮中に入れるなど、有ってはならぬ事でございますぞ」
 語気も強めに、尾輿は諌めるような物言いで大王に申し上げた。そして一礼すると再び列に戻り、稲目を目で射る。
「そう猛る事はあるまい、物部大連。余とて神々の信について心を向けないものでは無い。然れども西播がこれを祀り、そしてその技が長じていることはそちも認めることであろう」
 大王は物柔らかに、しかし威厳に満ちた声音で語りかけた。
 そしてしばらく目を閉じ思いをまとめると、群臣をその力ある眼で見据え告げる。
「そこで余はこのように決めた。大和を統べる大王として、余の名を持って命ずる。大臣蘇我稲目よ、そちの屋敷にて仏像を祀り、仏法を執り行え。必要とあらば秦の助力も乞うがよかろう。そして大連物部尾輿よ。そちはより一層神祇を重んじ、神々に力を乞え。中臣と共に見張りも行うがよかろう」
「仰せのままに」
 居並ぶ群臣は一斉に頭を下げ、大王の言葉に従った。
 しかし稲目と尾輿の視線は、火が走るようにお互いを見据えるのだった。
 
 大王への謁見も終わり、役目を果たした百済の一行は客館にて倭国の歓待を受けゆるりと過ごしていた。
 その中にあっても慧輪達は勤めを忘れず、朝に経を上げ昼には写経を行うなど、百済で行なっていた事を倭国でも行なっていた。
「失礼する」
 鋭い声が聞こえ慧輪が入り口を見やると、そこには蘇我稲目が護衛の兵を二人、そして通訳を連れて立っていた。
「私は蘇我の者の長、大臣蘇我稲目。海の外から渡来した者と近しい者である。そこの」
 稲目は一瞬言葉を切ると、客館に安置された仏像に目をやった。
「仏法や仏像に詳しい者と話がしたい。入っても良いか?」
 稲目が一歩歩み出す。そこで法仁が彼を迎え入れた。
「それでは恐れながら私がお話をさせていただきます。我が名は法仁。御仏に深く心を向ける者でございます」
 法仁が合掌し頭を下げると、稲目は少し笑った。
「そなたの事は我が手の者から耳に入っておる。和上よ、那津郡では良い話を聞かせてもらったようだな」
「もったいのうございます」
「とは申せ、我らは仏法を知らず、仏像の祀り方を知らず。今しがたそなた等が行なっていたような事には全くの無知なのだ」
 稲目は仏像をしげしげと眺め、香を嗅ぎ、そして灯る小さな火に手をかざした。
「そこでだ。そなた等が百済に帰る日は近いようだが、ここ大和に残り、我ら蘇我に仏法を教え、民に広める事に力を尽くしてくれる者を探している。数名いれば助かるのだが」
 稲目の言葉を聞いていた慧輪は、心がはやる気持ちがした。
 一度は侮ってしまったこの地に対し、真心を持って御仏の慈悲を伝えたいと思ったのである。
「御無礼をお許し下さい、大臣様」
 慧輪は頭を低くし、稲目に話しかける。
「私の名は慧輪、道半ばな若輩者にございます。しかし御仏の慈悲を尊ぶ心は持ち合わせております。もとより百済からこの国へ御仏を広めるようにと仰せつかっておりました。私でよければ、どうぞここに残らせて頂き、御身一族の、御仏のお役に立ちたいと存じます」
 一息にそこまで言ってから、さて出過ぎた真似をしてしまったと、慧輪は頭を垂れ後ろに下がった。
「耳に及んでおるぞ」
 稲目が目を向ける。
「道行で疲れている時でも民草にまで仏法を伝えに行っていたようであるな。その想い、大和の役に立ててもらいたい、慧輪和上」
「も、もったいないお言葉……!」
 慧輪が頭を下げると、後ろから阿河が彼の首を抱いた。
「もちろん俺も残るぞ。お前一人を残して百済には帰れん。お前が塩や鉄を気前よくくれる身分になるまでずっと一緒だ」
 豪快な笑い声を上げる阿河。
「かような者までおるとは、中々に気苦労もあるようだな、法仁和上」
 阿河の声の大きさに眉をひそめる稲目に対し、法仁は少し困ったように微笑むのだった。
 
 少し語り合い、慧輪達、そして技を持つ者達が蘇我の下に残ることになった。
 元々聖明王からそのように伝え聞いていた者も多く、異国の地での不安はあれど、倭国に残ることに不満がある者はおらず、彼らは数日後、百済へと帰る同胞達を見送るのだった。
 稲目は新たに建物を作り、そこに仏像を祀るようにと慧輪達に言い渡した。彼らは渡来した者達の手も借り、その場所を百済の寺に近しく変え、稲目の許しを得てこれを蘇百寺と呼んだ。
「我が蘇我の下、百済より渡りし仏像が納められた場所、すなわち蘇百。これから先の大和での仏法の広まりが期待できる」
 稲目は蘇百寺を眺めて深く頷いた。
「大臣様のお力添えのおかげに他なりませぬ。私達だけでは到底なし得なかったことでしょう」
 法仁は穏やかに合掌すると、満足そうに頭を下げた。
 慧輪達は蘇我の者達に仏法を説き、もとより仏に帰依したいと思う者が多かったそれらの者達はよく聞いて従ったが、一方で抵抗を感じる者達もいたようである。
 しかし稲目は熱心に仏像を拝み、蘇我の者達にも仏法をよく行うよう命じた。そしてそれと共に、寺を建てる時の手の技や材料の作り方などを進んで学ばせるのだった。
 そのようにして忙しく、しかし穏やかに仏に向けて心を向けていた時分、寺の近くに身分の高そうな男が馬を繰り数人の兵を従え立っていた。
「大層な物をこしらえたようであるな」
 神々の雷のようなその声に、慧輪は少したじろいだ。
「我が名は物部尾輿。この神々の降り立った国大和の大連である。ぬし等が蘇我の下で崇めているものを見に参った」
 堂々たるその姿。慧輪が案内しようと前に進み出ると、後ろから声がかかった。
「慧輪和上。そのお方の案内は私がしよう」
 高いところから降りてくると、稲目は鷹揚に頭を下げた。
「ようこそおいでになった、物部殿。私が中をゆるりと見せて進ぜよう。しかし神祇の長であるあなたが来たことで神々の怒りに触れぬとよいが」
 稲目が冷たく笑うと、尾輿も鼻を鳴らす。
「小癪を申せ。神々と大王に仇なす者か見極めに参ったまで。ぬしのように低き身を屈めはせぬ」
 稲目はそれも軽く笑って流すと、護衛と共に尾輿と寺の中へ消えた。
「あな恐ろしや。地獄の獄卒はあのような存在であろうな」
 顔をしかめながら横を掃除していた阿河が言う。
「阿河兄、高き身分の方に失礼かと」
「侮りも蔑みもしておらん」
 阿河はそう嘯くとまた掃除に戻っていった。
 その背を見送って視線を上げると、尾輿の馬を見ながら人が囁きあっていた。
 ときおりこちらを指差しては眉をひそめ、嫌なものを見たとでも言いたげに視線をそらしている。
 慧輪は頭を下げたが、その人々は忌々しげな視線を返すのみであった。
 しばらく経った後、稲目と尾輿が寺から出てくる。
 しかし両者の間には和やかさは微塵もなく、ただ冷たい空気が流れていた。
「今日はこれで引き揚げる。技と術をのみ大和に用いよ」
「大和の安寧と発展の祈りはあなただけのものではあるまい」
 稲目の言葉を背で受け、尾輿は兵を連れて去っていった。
「恐れながら、大臣様。今のお方は……」
 慧輪が尋ねると、稲目は尾輿の去った方を見つめながら答えた。
「大連、物部尾輿殿。大和では大王に次ぐ力を持っておる。古来から受け継がれる神祇を執り行い、大王の兵も一手に預かるお人だ」
 そして振り返り言葉をつなぐ。
「それゆえに仏法も危険視している。この地の神々の怒りを買うと言ってな。案ずるな、慧輪和上。大和の仏法も寺も私が守る。大王からもお許しは得ている。この光、途絶えはさせぬ」
「そのお言葉、御仏もお喜びでしょう。私も及ばずながらこの地に御仏の教えを広めとうございます」
 慧輪はそう答えながらも、胸の内でどことなく不安が広がるのを感じるのだった。

神祠との衝突
 それからしばらくの時が経った。
 慧輪達は仏法を広める一方で大和の言葉も学び、少しずつではあるが話もできるようになっていった。
 蘇百寺には日を追うごとに沢山の人が来るようになり、その見事な仏像に感じ入り仏に帰依する者も増えていくのだった。
 そんな折、慧輪が法仁と語り合っていると、複数人に抱えられた人が寺に転がり込んできた。
「ああ、和上様。こいつが、こいつがいきなり倒れたんです。歯の根も合わないほど震えて、頭も燃えるように熱い。どうかお救いください!」
 慌て法仁が駆け寄ると、その男は紙のような顔色で苦しそうに喘いでいる。そして頭はおろか全身がひどく熱を持っていた。
「これはいけません。慧輪、水を汲んできて下さい。あなた方は隣の部屋へそのお人を寝かせて下さい」
 法仁が指示し、その場にいた者達は急いで従った。
 しかしその者を寝かせている間に、二人三人と同じように熱を持つ者が運び込まれてきた。
「阿河、大臣様に急ぎ知らせて下さい。故は分かりませんが病者が多く、寝かせるために寺の一角を使わせていただくお許しを得てきて欲しいのです」
「お任せください、和上。熱冷ましに良い草も取ってまいりますので、今しばらくご辛抱の程を」
 そして阿河は駆け出し、稲目の屋敷に向かっていく。
 そうしているうちにも病者は増え続け、慧輪達は知識が乏しいながらも水を与え、薬草を与え、そして仏に慈悲を願った。
 稲目も法仁の申し出に答え、寺の一部に病者を寝かせる許しを出した。さらに渡来してきた者の中から薬に長じる者を遣わし、この病の広まりを抑えようと力を尽くした。
 
「我が君!」
 大王の前に尾輿が進み出て頭を下げる。
「宮中の内外の事、すでにお聞き及びの事と存じます」
「疫病のことであろう」
 少し疲れた様子で大王は答えた。
「そち等物部も中臣も、そして蘇我や秦も手を尽くしておることは知っておる。様々な手は尽くし、大和の神にも祈りをささげた。蘇我稲目にも命じて仏にも祈らせている」
「それにございます」
 目も鋭く尾輿は声を上げる。
「百済から蕃神が持ち込まれ、寛大なる我が君はこの大和に入る事をお許しになりました。しかしやはり神々はそれに屈む事に怒りを覚えたようでございます。この疫病、蘇我が蕃神を祀りだしたからに他なりませぬ」
 大王はしばらく額に手を当て考えていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「では、そちはどうしたいのだ」
「仏像を燃やし、寺を燃やし、その火でもって神々に許しを請いまする」
「……よかろう。しかし人には手を出すでないぞ。民草はもちろんの事、蘇我や僧達もだ」
「仰せのままに、大王」
 そして尾輿は大王の前を辞すると、兵を起こすべく馬に乗って駆け出すのだった。
 
 また一人、慧輪の前で男が息を引き取った。
「ああ、御仏よ! どうか、どうかわずかばかりのお慈悲を!」
 疫病の中にあって僧達はあまりにも無力であった。薬草で多少熱が和らぐ者もいたが、大半は手や足が痛いと苦しみ、噴き出すほどの汗をかきながら雪に横たわるがごとく寒がり、わずかに飲んだ水さえすぐに吐き出していた。
 そして。
「ゴホッ」
 法仁が咳き込んだ。
「和上! お体が優れませんか!?」
 法仁は弱々しく笑ってみせる。
「心配には及びませんよ、慧輪。一度に病者の面倒を見たために疲れが出たようです」
 しかし慧輪が法仁の額を触ると、燃えるような熱をすぐに感じた。
「和上、いけません。すぐにお休みください! 後の事は、足りずとも我々が」
 慧輪と阿河は急ぎ僧房に法仁を寝かせ、できうる限りの手を尽くした。
 その折だった。
「中に人はおるか! 出ませい!」
 寺の外から聞く者を圧倒する声が聞こえ、慧輪は何事かと顔を出す。
 そこには兵を従えた物部尾輿が、魔も畏れよと堂々と立っていた。
「此れ病の蔓延りしは蕃神に対する大和の神々の怒りなり。我神祇を司る物部の名の下に蕃神を火に返し、神々に許しを乞う。心得たならば」
 と、尾輿が右手を大きく上げた。それを合図に後ろの兵が一斉に火のついた矢を構える。
「疾く寺から出よ! 人を害する事は我が意に非ず。火に落ち道途絶えるはぬし等の心にも反するであろう」
 有無を言わせぬ尾輿の言に慧輪は震え上がった。
「お慈悲を、大連様! 中には病者が多数おります。動くこともままならない人々なのです」
「ならぬ。ぬし等も知っての通り病は留まる事を知らぬ。ここから程近い場所に仮屋がある故そこに運び込め。この地は火によって清めねばならぬのだ」
「仕方があるまい」
 慧輪が振り返ると、苦々しい顔をした稲目が馬を駆っていた。急ぎ駆けてきたのか息が荒い。
「大王のお許しを得たのであろう、物部殿? 私とてこのような蛮行は許しがたいが、さりとて争わば大王に弓引く者となる。なれば急ぎ病者を移し、このような場所など明け渡してくれる」
「大臣様……」
「事が収まれば我が手の者がすぐにでも再建する。今は耐えよ、和上」
 慧輪は悲しげに合掌し、近くに住む者、寺に集う者、そして蘇我の者の手を借り、仮屋まで多数の病者を移した。
 その決して短くない時間、尾輿と兵は去る事なく巌の如く動かなかった。
 最後の一人を運び出し、僧達が寺に向かって合掌すると同時に尾輿は手を振り下ろし、そして火矢が放たれる。
 始めは小さな火であったがすぐに空を焦がす焔となり、寺全体が灼熱の業火に包まれた。
 倭国に来て初めての寺。
 徐々に人が集まりだしていた矢先。
 病に無力な己の両手。
 静かに佇む仏像。
 数多の感情が慧輪の胸に渦巻き、いつしかそれは涙となり彼の頬を伝って地面に落ちた。
 ーー御仏よ、お慈悲は何処にあるのでしょうか……。
 火が収まるや、尾輿は兵に命じて焼け跡から仏像を掘り出し、程近くを流れる水路に投げ捨てさせた。
 慧輪はそれを横目に見ながら、なんとか持ち出した小さな木彫りの仏像に向かって、ただ沈黙のうちに合掌するのみであった。
 
 蘇百寺が焼き討ちにあって数日。
 疫病の広まりはやや緩やかになったようだったが、すでに数多くの人々が倒れ、少なくない命が散っていった。
 そして、ここにまた、一人。
 稲目が持つ屋敷の一つ、その一角に法仁は寝かされていた。
 その目は赤く落ちくぼみ、震える手は未だ燃えるような熱を帯びていた。
 ここ何日かうわ言を言うこともあったが、慧輪が水を差し出すとそれを飲み、阿河も近くに寄せた。
「阿河、慧輪……。あなた達には心から感謝しています。百済から今まで、良くぞ仏法を支えてくれました」
 慧輪がその手を握ると、法仁は満足そうに微笑んだ。
「倭国、いや、大和での最初の寺はあのようなことになってしまいましたが、あなた達がいれば、大臣様の下これから先も安泰でしょう」
「和上……。そのようなことを……。これから先もお導き下さい」
 慧輪も阿河も、堪えきれず言に嗚咽が混じる。
「悲しむことはありません。……人も獣も虫も、生き物はいずれ死ぬ。死して魂は輪廻をめぐり、またこの世に生まれるのです。慧輪、あなたもよく知っているでしょう。輪廻を幾年も幾年も巡り、生まれ、死に、やがて浄土に至る」
 苦しそうに、しかしそれでも穏やかに、言が綴られる。
 法仁は慈愛の笑みを浮かべ、二人の手をしっかりと握り返した。
「次の世で出会う時は、慧輪、あなたが私の師僧となっているかも知れませんね。そして阿河、あなたは行動の人です。その背でこの大和の仏法を、何よりも慧輪を導いて下さい」
 ひときわ大きく咳き込み、血が吐き出された。
「……二人とも、在り続けて下さい。在ればこそ、その魂は巡り、再び会うことも叶いましょう。在り続けるのです」
「ああ、和上……! まだ俺にも慧輪にもあなたが必要です!」
「二人とも、立派になりました。……また、輪廻の先で、相見えんことを、御仏に願って……。少し、疲れ、ました……」
 法仁は息を大きく吐くと、そのまま永い永い眠りについた。
 志半ばで異国の地に病で倒れ、しかし穏やかに導きを遺した僧であった。
 
 法仁の亡骸は丁重に葬られた。
 仏法の、また百済の習いに従って火に葬することを慧輪達は望んだが、大和の習いや設備ではそれも叶わなかった。
 よく晴れた空に鳥の声が響く。弔いには不向きな日和であった。
 木棺に納められた亡骸は稲目が取り分けた僧のための墓所に葬られ、慧輪達や稲目もその前で経を上げた。
「力尽きたか」
 重々しい声が聞こえ慧輪が振り向くと、尾輿が手に米を持ち立っていた。
「その信相容れずも、大和の安寧を願った心もまた真なり。高僧法仁の死、我物部尾輿、誠に悼む」
 尾輿はそう言って、法仁の墓所に米を手向ける。
「物部殿、感謝します」
 横で香を炊いていた稲目は頭を下げた。
「我は蕃神を拒めど人を貶める事は望まぬ。この者は真から大和の平和を祈っておった。天津神もその祈りは喜んでおられよう」
 経を上げながら慧輪はそのやり取りを聞いていた。
 無力な我が手でも、安寧を祈ることは出来るのだろうか、と。

孤立の萌芽
 その冬はことの他寒くなり、降り積もる雪に慧輪は震えながらも火を焚き、勤めを果たし続けた。
 雪が溶けて芽が息吹き出す季節になると、故郷とは異なる草花を愛で、その在り様を慈しんだ。
 稲目は仏堂を新たに建て、そこには日ごとに人が集まり、仏法はこの大和の地に広く知られるようになっていった。
 そのような移ろいがいくつ過ぎ去った後か。
「なあ慧輪、お互いそろそろ百済言葉も怪しくなってきたのではないか?」
 少しばかり皺の増えた顎を撫でつけ阿河が言う。
「大和の言葉しか話さなくなってもう随分経ちましょう。それはそうと阿河兄、今日こそは色よい返事を頂きたい」
 阿河は五月蝿そうに手を振った。
「何度言われても俺は和上の称など受けんぞ。柄ではないし御仏も呆れておられるに違いない」
「そんなことはないでしょう。仏堂に集まって来られる人にも、阿河兄を慕っている人は多いのですよ」
「それとこれとは話が違う。そも、だ。こう言っては傲慢かも知らんが、大和において僧の頂にいるのは俺達であろう。つまり俺を和上と周囲に呼ぶよう認めるとしたらお前からということになる」
 慧輪は少し口を曲げた。
「私からなぞ受けられない、と?」
「そうではない。お前は俺を兄と呼んでいる。そんなお前が俺を和上と呼ぶとしたら、周りは俺がお前に無理を言ったと受け取るであろうな」
「そのようなこと……」
 慧輪がなおも言い募ろうとした時、必要以上に大きな声が遮った。
「邪魔するぞ、慧輪和上、阿河殿」
 仏堂に入ってきたのは、身の丈高く伸びた髪を後ろにくくり、長い鉄剣を腰に帯び、豪快な色で衣を染めた若い男だった。
「これは馬子様。いかがなされましたか?」
 慧輪が立ってその男、蘇我馬子に座を進めると、馬子は懐から書状を出して阿河に渡した。
「百済からの船が来ていることは知っているだろう? 阿河殿へ特にと渡されたものだ」
 馬子から書状を渡されしばらく黙って読んでいた阿河は、眉間に皺を寄せて苦い顔をしている。
「何がしたためられているのですか?」
「百済に帰ってきて欲しい、と」
 阿河は潰れるほどに書状を握りしめる。
「紙の書状は貴重だ、大事に扱ってくれ。⋯⋯まあ、今すぐには決められまい」
 出されていた湯を飲み干すと、馬子は立ち上がった。
「次また稲が実る時期に船がやってくる。その時までにどうするか決めておいて欲しいとのことだ。場を乱して悪かったな、二人共」
 騒々しく馬子が出ていくと、二人は押し黙った。
「今になってなぜ?」
 少し経った後慧輪が口を開く。
「百済では御仏の御威光ますます広がり、こうして異邦での功ある僧を呼び戻し、もって寺主などに当てたい。ついては阿河にそれを任せたい、だそうだ」
「いかがなさるおつもりで?」
「分からん」
 阿河は立ち上がって仏堂の外へ出た。
「見ろ、この眺めを」
 外を指し、見える都と大和の自然を眺める。
「俺はこの大和が気に入っている。志半ばだったとは言え、法仁和上も骨を埋めた地だ。しかし、俺を産み育てた地が呼んでくれているというのもまた事実」
 そして大きくため息をつくと、阿河は破顔して慧輪を見た。
「馬子殿も言っておったが、稲実る時期まで考えるさ。御仏の御心のままに、な」
「はい……」
 
 石を蹴散らし馬が屋敷に入る。
「父上。百済からの書状、確かに阿河殿に渡しましたぞ」
「お前が隠すとは思っていない。……が、それを秘しても良かったと私個人は思っている」
 馬子は馬から降りるなり、姿を認めた稲目に報告する。稲目は複雑な顔を作った。
「阿河殿は大和に必要な人だ。しかし大王へ正式に通されたものとなればそうも行くまい」
「御言葉を賜る場では何もお言いになっておられなかったようですが」
「大王の寝屋で私のみ賜ったのだ。お前も次期大臣として大王にお気に召して頂くよう振る舞うのだぞ」
「お任せ下さい、父上!」
 馬子の声に稲目は顔をしかめた。
「まずは大王の御前に相応しい振る舞いを身に着けろ」
 
 書状を受け取って数日、阿河はふと空を見上げることがあった。
 故郷への想いは消えるものではなく、慧輪自身それは良く理解していた。
 それでも阿河は変わらず仏堂に集う者に御仏の教えを語ってみせ、時には近くの子供たちと野を駆けることもあった。
「和上様、あれはなんて言ってるの?」
 ごく小さな子から話しかけられ、慧輪はその子の指さす方を見た。
 阿河が子供たちの中心に座り、百済の童歌を聞かせている。
「私達はね、海の向こうにある土地からやってきたのだよ。そこはここ大和と言葉も習いも違う場所なんだ。阿河様が歌っているのは、その場所、百済という地の歌なんだよ」
 慧輪も懐かしそうに、しかしどこか悲しそうに目を細める。
「言葉も習いも違っても、御仏を尊ぶ心は大和も百済も変わらない。例えどこにいようと、ね」
 空はどこまでも高く、傾く日の差し込む仏堂には阿河の太く、しかし懐かしい歌声がいつまでも響いていた。
 その歌声が蛍の舞いに変わり、そして朝晩の風が涼しくなる頃、百済から再び船がやって来た。
「阿河殿、少し良いか」
 仏堂に稲目がやって来て阿河と少し話をし、そして二人連れ立って出て行った。
「慧輪、少し出かけてくる。ここは任せるぞ」
「はい」
 慧輪は短く返事をし、その背を見送るのだった。
 
「百済の秋はどのようだろうな」
 虫が飛ぶ野を眺めながら稲目が歩む。
「もう長く離れております故、俺がいた頃とは随分変わったかと」
 阿河が答えると、稲目は首だけ向けて言をつなぐ。
「御身は大和に根付き、百済は変わった。それでも百済に戻ると心が言うか」
 阿河は田の方を向き、そして目を瞑った。
「大臣様、少し座っても?」
「よいだろう」
 並び腰を下ろすと、阿河は噛みしめるように言を押し出した。
「俺は大和が好きです。外つ国の優れた物を取り入れ、俺が来た時よりも随分発展し豊かになった。大臣様のご尽力で、反対もあったが仏法も受け入れた。でも、百済は逆なんです」
「逆、か」
「百済の周りも少し厄介そうではないですか。だからこそ俺なんかに戻ってこいと言ってきたのでしょう。ひょっとしたら簡単にすげ替えがきくからかも知れない。しかしそれでも御仏の慈悲が必要なんでしょう。それに」
 一瞬言を切る。
「慧輪は立派になりました。元より俺なぞよりも聡く、深く、温もりのある奴です。大臣様の後ろ盾の下、これからも慧輪と大和の仏法はますます広がるでしょう。俺は既に、鉄と塩をもらったのです」
 やおら立ち上がり、阿河は歩を進めた。稲目もそれに続く。
「言を重ねるだけ、無駄か。しかし慧輪和上、あれは時折無を見ているように私には見える」
 稲目の最後のつぶやきは、足元で鳴く小さな虫の声に溶けて混ざった。

 外が暗くなる頃、阿河は一人で戻ってきた。
「お帰りなさいませ、阿河兄」
 慧輪は立って阿河を出迎えると、湯を差し出した。
「船には書状を持たせて帰した。久方ぶりの百済言葉は随分と錆びついておったわ。本当に百済の者か訝しがられた程よ」
 阿河は笑い声を上げたが、目は遠くを見ているようだった。
「これでは百済の衆生に御仏の慈悲を語って聞かせることもままなるまいな」
 夏の頃から随分と涼しくなった風が仏堂を撫でた。
「……やはり、百済に戻られるのですね」
「なあ、慧輪」
 阿河が改めて足を整える。
「お前も耳に聞こえたろう。百済とその周りを。大和は大臣様のお力もあり、大王も仏法をお許しになっている。戦らしい戦もない。だが百済は、余り想像したくないがこれから苦しむ衆生が増えるやも知れん。俺は、俺がその救いの一助にでもなればと、そう思っているのだ」
「ですが、私はまだ兄に何も返しておりません」
 言ってからハッとしたように慧輪は目を伏せた。
「申し訳ありません。御仏の心を私の些細な思いで塗りつぶそうとするなど……」
 合掌する慧輪の肩に、阿河が手を乗せる。
「気にするな。それに、お前の気持ちは本当に嬉しく感じておるぞ。なに、明日明後日発つわけではないのだ。それまでは……そうだな、今日は久方ぶりに語り合うとするか」
「はい。では火を入れてまいります故、少しお待ち下さい」
 慧輪は立って仏堂を横切っていく。
 磨かれた床が随分と濡れたように見えた。
 
 ーー。
 
「!?」
 何かが聞こえた気がして慧輪は振り返った。しかし灯りの火が揺れる仏堂が目に映るばかりで、特に気になるものはない。
 胸の内で言いしれぬものを覚えつつ、慧輪は床を踏みしめ歩いていった。
 
 稲が重く頭を垂れ、そして実りを刈り取る頃。
 仏堂も束の間その喜びを共にしていたが、仏像に経を上げる稲目の顔は疲弊しているように見えた。
「大臣様、いかがなされましたか?」
 慧輪が声を掛けると、稲目は重たそうに口を開いた。
「大王の御身体が思わしくないのだ。最近は召し上がる御食事の量も少なく、伏せっておられる事も多い」
「おお、なんという……」
 慧輪も稲目の横で合掌をする。
「知らぬ事とは言え、無神経にございました。御仏の慈悲が大王にあらんことを」
「大王にもしもの事があれば大和はどうなってしまうのか。御子も御立派になっておられるが、しかし大王は……」
 稲目が顔を伏せる。
 慧輪は初めて稲目の涙を目にしたのだった。
「和上。御仏は大王に慈悲を下さるだろうか」
「きっと下さいます。私達は、ただそれにおすがりするのみ」
 香を焚き、経を上げる。
 いつかの疫病の時の如く、慧輪はそうする他なかった。
 香が少し、黒く見えた気がした。
 
 実りの時期が過ぎ、厳しい冬が去り、そして新しい緑が芽吹く頃、百済の船が再び大和を訪れた。
「とてもお似合いです。阿河和上」
 寺主に相応しい衣をまとった阿河に、慧輪はそう声をかけた。
「和上も世辞もよせ。俺だって好き好んでこんなぞろりとした格好をしているわけではない。こんな似合わぬ格好をさせられると知っていれば大和に残ったものを」
 新しい衣を動きやすいよう縛りながら、阿河は文句を垂れている。
「そも、この衣が必要なのは百済についてからであろうに、なぜ大和にいる時から身に着けさせられるのか。慧輪、お前はよく涼しい顔をしていられるな」
「重たく感じる事もありますが、阿河兄の腕よりは軽いものですよ」
「俺の腕など浄土の蓮ほどに軽いと言われておるぞ」
 二人は笑い合ったが、ふと阿河が外へと目を向ける。
「少し出よう」
 履物を履き仏堂を出る。
 少し歩いた先は法仁の墓所だった。その場所には日が注ぎ、頭上には鳥が澄んだ声を響かせている。
「阿河兄、法仁和上もきっとお喜びです」
「かも知れぬな」
 二人は並んで経を上げた。墓所を吹く風は穏やかで緑の香りがする。
「和上の言葉、覚えておるか? 在り続けよ、さすれば輪廻の先でまた会わん、と」
「ええ。またいつか、輪廻を巡り和上にお会い出来ますれば」
「在り続けてこそよな。そして、慧輪。お前も……」
 阿河が言を詰まらせる。その目からは大粒の涙が溢れていた。
「百済に帰れば、もうお前と会うことはなかろう。俺が大和へ誘い、共に残ると誓ったのに、俺はお前を裏切って百済に帰る。このようなことが許されようか……!」
 阿河は涙を拭うこともせず流し、それが土を濡らした。
「そのような御心にならないで下さい、阿河兄」
 慧輪も目が熱くなるのを感じる。
「あなたは私を導き、助け、支えてくれました。あなたほど誠実で温かな方はいません。例え今生は会うこと叶わずとも、在り続けてまたその先でお会い出来ましょう」
「ああ、慧輪、その通りだ。輪廻を巡り、またその先で会おう。どうか今生は息災に生きよ」
 二人は既にはばかることなく泣き、抱擁し在ることを確かめた。
 降り注ぐ陽は暖かく、土が柔らかかった。
 
 難波津に着くまで慧輪と阿河は長く語り合った。
 ほんの少年であったころ、百済で仏法を学んだこと。
 経を写し、御仏の慈悲を僧房で語り合ったこと。
 大和へ渡る前夜、心が高揚して眠れなかったこと。
 話はいつ果てるともなく続いたが、しかし道には終わりがある。潮の匂いが強くなり、百済の船が見えた。
「率直に言って似合ってはないぞ。衣を返して大和に留まってはどうだ」
 難波津で馬子が軽口で迎える。
「これが似合うような僧になって、大和にまで聞こえるような人物を目指しますよ」
「今さら何も言うまい。大和の仏法は私達蘇我が必ず守る。心置きなく百済で民を導いてくれ」
 稲目が言い、船の世話をする者達と話を始めた。
「では阿河兄、お身体にお気を付け下さい。また次の世でお会いしましょう」
「大和の仏法はお前に任せたぞ。御仏にすがり、輪廻を巡ってその先で待っておるからな」
 二人は固く手を結び、そして阿河は船に乗り込む。
 お互いの姿が見えなくなるまで阿河は手を振り続け、慧輪は合掌し頭を垂れ続けた。
 鋭い風が吹き、慧輪の衣が悲しげに揺れていた。
 
 仏法が大和に広がって幾年月か。
 御仏を尊ぶ者も増え、慧輪に教えを乞う者も増えていた。
 慧輪はそれによく応え、彼を師とする者もまた多くいた。
 変わらず物部や中臣からの目は厳しかったが、目立った反対や攻撃なども行われず、仏堂は穏やかであった。
 そんな折の、日が傾いて仏堂が朱に染まった刻。
「慧輪、少し良いか」
 馬子が仏堂にやってきた。
「父上のことで話がある」
「随分とお悪いとお聞きしております」
 座を進めながら慧輪は苦しげに言った。
「ああ。大王が伏せっておられてから、父上は心を痛めておった。自身も決して丈夫ではないのに、病の床におられる大王へ力を尽くし、結果明日をも知れん身になった」
 馬子は床を睨みつけている。
「私は御仏に慈悲をお願いするより手がございません……」
 合掌する慧輪を横目で見、馬子は言をつなげる。
「もう父上は長くない。しかし例えそうなろうと我等が蘇我は大王にお仕えし、仏法を守る。慧輪、お前は父上程に聡くない俺でも付いてきてくれるか?」
 慧輪は足を正し、馬子に向き合った。
「大和に私がいられるのも稲目様のお力があってこそ。そして馬子様もお若い時からご尽力されている事は承知しております。いまさらなんの言葉がいりましょう」
「その言葉、ありがたく思うぞ」
 
「風が心地良いな」
 稲目が呟いた。
 頬が痩け、土のような顔ではあるが、目は未だ光を失ってはいなかった。
「お休みのところ失礼を、大臣様」
 屋敷の者が寝屋へとやってくる。
「その、大臣様にお会いしたいとの方がお見えでして……」
 言い難そうに下を向く。
「構わん、通せ」
「はい」
 しばらくしてから重々しい足音と共に来訪者が姿を見せた。
「邪魔を致すぞ」
 現れたのは巌のような武人、物部尾輿その人であった。
 予想もしなかった人物に稲目はやや驚く。
「これはこれは物部殿、如何致した。明日をも知れぬ私を笑いに来たか」
「否」
 尾輿は紐で結わえていたやや大ぶりの壺を床に置いた。
「回復は無理であるか」
「無理でしょうな。もういつ死んでもおかしくない身の上だ」
 稲目は首を振って外を見た。
「しかし悔いはない。大王へお仕えでき、仏法の智慧と技術も大和へもたらすことができた。あなたも目障りが消えて清々しかろう」
「其れも否。我は確かに蕃神を拒むが、ぬし自身を憎く思った事はない。そして」
 尾輿は懐から素朴な盃を取り出した。
「ぬしもまた、大王と大和の忠臣である事が今はっきりとした。我も己を殺し大王と大和に仕える者である。以後も我等物部とぬし等蘇我は対立が避けられまいが、我等は互いに大和の真の忠臣。よって今ここで我はぬしと和解を願う」
 尾輿の差し出した盃を、稲目は苦笑しながら受け取る。
「死の床にあり、しかも仏に帰依した私に酒を勧めるとは、あなたもなかなかに非道いお方だ」
 尾輿が互いの杯に酒を注ぎ、稲目は自分のそれを眺めた。
「しかし、もう先もない。この世にいるうちにあなたと酒を交わすことになろうとはな。それでは」
 稲目が一息ついた。
「大和の安寧と繁栄と」
「ぬしの黄泉への旅路を祈り」
 二人は杯を掲げ、それを飲み干した。
 月が大きく、そして明るくそれを照らしていた。
 
 慧輪が稲目の死の報を聞いたのは、それからすぐの事だった。
「慧輪。どうか父上を良く弔ってくれ」
 馬子が沈痛な面持ちで呟く。
「心を込めて送らせていただきます。稲目様は私にとってもかけがえのないお方でした」
 稲目が納められた石棺を前に、慧輪の悲痛な経が響く。
 大和の発展と安寧を心より願った男は、一族と外つ国よりこの地に根付いた者達の涙によって見送られ、生前から築造していた巨大な墓に葬られた。
 遠くから尾輿が見ていることに、慧輪は経を上げ終わってから気付いたのだった。
 
 強力な守護者を失い、都の仏法は少し陰りを見せた。
 そのような中、馬子はまず仏法よりも自らの周りを固め、大王との繋がりますます強くさせ、蘇我を強固なものとするように動いていた。
 そうして季節が移ろい、新緑も目に眩しい頃であった。
「慧輪和上! 大変です!」
 弟子の一人、親藍が慌てふためいて仏堂に転がり込んできた。
「どうしたのだ、騒々しいよ」
 軽くたしなめ、慧輪は立ち上がった。
「大王が、大王が!」
 親藍はそこで息を飲み込むと、慧輪に告げた。
「お隠れあそばされました」
 その知らせは衝撃であった。
「ああ、なんという……。兼ねてより長く伏せっておられたとは言え、お隠れになるとは、なんとおいたわしや……」
 慧輪は仏像の前に座ると、香に火をつけ、深く合掌した。
 大王の魂が安らかならん事を祈り、その御霊に御仏の慈悲が在ることを願った。

 仏像の顔が無い。
「え……?」
 頭を振って目を擦る。
「和上? いかがなされましたか?」
 しかし変わらず仏像は慈愛の相を湛えている。
 心が疲弊しているのだ。
 慧輪はそう考え、深く合掌するのだった。

 翌日都は騒然とし、大王の崩御を嘆き悲しむ声がそこここで途絶えることはなかった。
 三日三晩都が嘆き、そして涙も枯れた時分、馬子が仏堂を訪れた。
「慧輪、次の月が満ちる頃にはもう都は別の場所に移る。もちろん主だった豪族達も新たな都に移り住む。それに伴い仏堂も新たに作るがそこに移ってくれるか?」
「馬子様の思いのままに」
 慧輪は穏やかに頷く。
 もとより稲目の庇護の下にいたのだ、その跡目である馬子と共にいることに議論の余地はない。
 馬子は立ち上がって仏堂から外を眺める。
「父を時折思い出す。時に必要以上に冷徹な父であったが、その先を見る目は確かであった。この俺は父のように優れてはいない。しかし俺には父にはない勢いがある。新たな大王の下、さらに蘇我を強くし、仏法を広めるのだ」
 馬子の目は空を見据え、自らの頂を描いているようだった。慧輪はその横に立ちながら、少しの虚しさを覚えていた。なぜそう思うのか己の心に問うたが、答えは得られなかった。
 新たな都は急ぎ作られていき、また仏堂も時を同じくして完成した。
 真新しく、さらに大きく立派になった仏堂の寺主として慧輪は大々的に迎え入れられた。
「馬子様、このような扱い、私には……」
「黙っておれ。仏法を広めるためには権威も必要だ。立派な衣をまとった、先ゆく国百済からの僧。これ以上ない権威だろうが」
 馬子は慧輪の背中を叩くとそう笑うのだった。
 事実大王と蘇我の繋がりはますます強くなり、馬子は稲目の後を継ぐ形で大臣に任じられた。

 その頃、物部の長であり仏法に強く反対していた尾輿が死去したという知らせが慧輪の耳に入る。
 彼は大王に次ぐ力を持っていながら慎ましい人であり、自らの墓も物部以外には隠すことを選び黄泉へと旅立っていった。
 かつて稲目を葬する場に現れ、遠くから見守っていた彼の人を思い浮かべ、慧輪は密やかに経を上げた。
 例え信念違うとも死は悼ねばなるまいと。
「ええい、誰のために経を上げとるか」
 足音を立てながら馬子が仏堂に入ってくる。
「物部尾輿様が安らかならん事をと思いましてございます」
 経を上げ終わってから慧輪は涼しげに返す。馬子のこのような言動はいつもの事である。
「尾輿殿は今頃黄泉の坂を下っておろう。しかしそのようなことはどうでも良い。慧輪、俺はこの度妻を娶ることになった」
 急といえばあまりに急な話に慧輪は驚いた。
「それは、随分と唐突ではございますが、しかしめでたいことです」
 馬子は手を振った。
「父や大王がお決めになったのなら俺だって喜ぶが、此度は向こうからの申し出でな、俺も困惑している」
「それは一体……。どちらの部の方でしょうか」
 馬子はため息をつくと、空を睨んでその名を告げた。
「物部尾輿その人だ。もちろん死人が言ったわけではない。彼の人がそう言ったと、代わりに告げられたのだ。誰あろう、跡目を継いで大連に任ぜられた男、物部守屋だ」
 兼ねてより豪族の中で頭角を現していた物部守屋であったが、尾輿の後を継いだことによってその力ますます強まっているようであった。
「また随分と変わった風の吹き回しにございます」
「そうであろうとも。とは言え我等蘇我と物部は大和の重鎮。両氏族の結び付き強くし大和を支えるという魂胆であろう。俺もそれに反対するものではないが……しかし、物部とこれで完全に手を取り合えるとは思えぬな」
 馬子はそう言って仏像を見あげた。
 それは鈍く輝き、慧輪と馬子をぼんやりと映しているのだった。

音無き落道
 それからまた年月は移ろい、夏に汗を流し、冬は凍えて日をありがたがる。
 そういった営みをいくつ超えた先のことだっただろうか。
 馬子が身なりの良い稚児を連れ慧輪に引き合わせた。
「慧輪、皇子の事は知っておろう? 本日よりお前に皇子の師僧となってもらいたい。都では上宮だの厩戸だの豊聡耳だの大仰な名で呼ばれているが、お前の好きに呼ぶがよかろう」
 そうして馬子は皇子に向き直る。
「皇子よ、いずれお前は大和を背負って立つ身。慧輪を師僧と敬い、良く従い、聞き、聡くなれ。仏法に明るくなれば、それ即ちお前の先行きも明るくなろう」
 皇子は馬子に頭を下げた。
「承知いたしました、馬子様」
 それから慧輪に向き直ると深く頭を下げる。
「本日よりよろしくお願い申し上げます、お師様。まだ何も分からない愚かな子ではありますが、懸命に学んでまいりたいと思います」
 大王の血を引くだけでなく、本人がとても聡く、時には大人ですら舌を巻くほどだということを慧輪は耳に挟んでいた。
 確かに目の前の皇子はその年に似つかわしくない智慧の宿る目をしていたが、しかし稚児らしいあどけない活発さも併せ持っている。
「こちらこそ、未だ届かぬ身で皇子の師などおこがましくはありますが、共に御仏の慈悲を学んでいきましょう」
 皇子はその赤い頬を緩ませ、にっこり微笑むとまた頭を下げた。
「さあ、皇子よ。俺は慧輪とまた話があるから向こうへ行っておれ。屋敷の者には伝えているから仏堂を眺めておくのもいいだろう」
 馬子がそうして皇子を払い、彼がいなくなると神妙な顔を作る。
「我が『兄』守屋のことだ」
 皮肉を相当に込めて言う。
「先日百済から船が来てな、大王へ貢ぎ物としてまた仏像を持ってきたのだ。もしや阿河が手を回したのやも知れんな。そして大王はもったいなくも俺にそれを任されたのだ」
 しかし、と言をつなぐ。
「守屋はそれがかなり気に食わんらしい。もともと廃仏派の物部だ、いい顔をしないことは当然だが」
「しかし大王から賜われたのであれば、物部氏とは言えいかようにも言えないはずでは?」
「何もなければな」
 馬子は慧輪を見据える。力強さと、疲弊が同時に見える。
「蘇我の中で再び疫病が現れおった」
 慧輪の中であの日の光景が蘇った。
 次々に倒れる人々。
 ただ御仏にすがることしかできなかった自分。
 そして、法仁の死。
「かく言う俺もそれに襲われておる。幸いにして俺に取りついた病魔は弱く、またまだ倒れるわけには行かん」
 目を光らせながら馬子が唸る。
「しかしな、守屋はこの疫病を仏を祀ったせいだという。仏像を捨てた報いだとな。燃やし、あまつさえ水路に捨てたのは父君尾輿殿であろうがと言ったら鼻で笑いおったわ」
「御仏が帰依する馬子様にそのようなことをなさるはずもありません」
「そうだとも。しかしこの件でどうも大王に何か入れ知恵をしておるようだ。俺もこうしてはおれんのでな」
 馬子はそう言って仏堂から出て行った。
「近く守屋が動くやも知れん。身辺には気をつけておけ」
 
「勝海よ、お前さんも連名で書いてくれ」
 黄で染めた衣をまとい、首や腕に飾りを多くつけた少し背の低い口ひげのある男。その口調は軽妙にして、しかし人を従える響きを持ち。
 その男、物部氏の長物部守屋は木簡を横にいる男に放った。
「大王に訴えをなさるのですな」
 木簡を受け取った男は、その名を守屋の横にしたためる。
 中臣勝海。中臣氏の長にして大和の吏を務め、物部とも浅からぬ関係にある。
「疫病の蔓延は仏像を祀ったからだというのは明らか。大王にも進言して今度こそ蕃神の教えの広まりを止めてやるさ。それにな」
 守屋は言を切って空を睨む。
「馬子の野心は危険だ。いずれ大王に仇なすかも知れんからな。蘇我の勢いも削いでおく必要もあるだろうな」
「古き神々の理はこちらにあります」
 勝海は木簡を返すと、守屋はそれを検めた後懐にしまった。
「もちろんだ。大王も同意して下さることだろう。しかし備えはあって困るもんでもない。兵ももう少し集めておくことにしよう」
「我が方もそのように致します」
 勝海がそう言って屋敷を辞すると、守屋は簡単に身支度を整えて大王の宮へと向かうのだった。
 
「栄元、今日は外に出て人々の声を聞こうと思う。御仏の教えだけでなく、他にも必要なものも分かるかも知れないからな」
 少し軽めの僧衣をまといながら、慧輪は横にいる弟子に話しかけた。
「何も和上御自らが出向かなくとも我々が行きますのに」
「私とて元々は御仏の御慈悲を伝えに渡ってきた身。今はこのように寺主を仰せつかってはいるものの、外に出て人々と話す方を好んでいるのだよ」
「和上の言葉を聞いていると、とても百済から渡って来られたとは思えません」
 栄元の素朴な言葉に慧輪は軽く笑う。
「私も時々忘れそうになる。もう大和に来てから長いからね。では少し出かけてくるよ。後のことはよろしく頼む」
「行ってらっしゃいませ」
 そうして慧輪は仏堂を出、都の内外の人々の声を聞きに出かけていった。少し曇りがちではあるが、吹く風も心地よく、彼の足取りは軽くなるのだった。
 その日は殊の外人々が良く話してくれた。
 慧輪は人柄も良く、仏堂では飢えた民に施しをする事も知られており、仏法は好かぬが慧輪は認めるといった声も多い。
 そのような実りのある一日を過ごし、そろそろ仏堂に戻ろうかという時。
「おい和上さん! あんた、のんきに話してていいのか?」
 突然都の方からやってきた男が慧輪に声を荒げた。
「と言いますと?」
「大連様だよ。大連様があんたのとこを燃やしに行ったそうじゃないか!」
「なんですって!?」
 血相を変え慧輪は走り出す。
 かつて物部尾輿に焼き払われた寺の残骸が脳裏をよぎった。

「ああ、そんな……。また、なのか……」
 仏堂はすでに炎に包まれ、幾人かの僧は負傷し座り込んでいた。
 栄元や親籃もその中の一人であった。
 そして、炎を見つめながら背を向け立つ男。
「戻ってきたか」
 物部守屋は振り向き、慧輪に語りかける。
「久しぶりだな、和上さん。あんたに対して騙し討ちのようなことはしたくなかったが、大王の御言葉は絶対だ」
 守屋は懐から木簡を取り出し突きつけた。
「大王の御言葉を頂いている。都に蔓延りし疫病は仏法に対する祟り也。火によって清め祟りを鎮めるもの、物部に命ずる、とな。悪く思うな」
「祟りなど……。そのような事が」
「疫病が流行っているのは事実だ」
 守屋が鋭く言う。
「事実がどうであれ、大王の御言葉がこうである以上俺は仏堂を、仏像を焼き払う。蘇我に疫病が発生したことを恨むんだな」
 そして守屋は兵を呼び寄せると、仏堂を包囲させた。
「ちと強引ではあったがな、僧達は外に出している。安心しろ、中にもう人はおらん。だが、もし邪魔をすればこの火の中に入ることになる」
 その軽妙な語りとは裏腹に、守屋の声音は有無を言わせない冷たいものがあった。慧輪の背筋が凍りつく。
「守屋!!」
 突如凄まじい怒号が響き、皆がそちらの方を向く。
 馬上で怒りで顔を夜叉の如きに変えた馬子がそこにいた。
「貴様……! このような狼藉、許されると思うか!」
「思うも何もすでに大王からお許しを頂いている」
 守屋は馬子を指差し続けざまに言った。
「それに俺が何も知らんと思うか? 仏法に対し厳しい大王に、お前が常日頃どう思っているかを」
 馬子が少したじろいだように慧輪には見えた。
「顔色が悪くなったぞ、大臣蘇我馬子。いや、病のせいか?」
「くそっ!」
 馬子は吐き捨てると身を翻した。
「覚えておれよ! この報いは必ず受けてもらうぞ!」
 去っていく馬子の背を、慧輪はもう言葉もなく見つめていた。
「さて、あんた達も下がってくれ。焼け残ったものがあれば捨ててこいとの御言葉でな」
 守屋はそう言うと慧輪に背を向けた。
「和上……、申し訳ありません。仏像を守ることができませんでした」
 そう言って涙を流す僧達に歩み寄り、慧輪はその肩に手を置いた。
「そなた達のせいではない。御仏の力も及ばなかったのだ」
 鼻をも焦がす焼けた匂いと燃え盛る熱。それらを浴びながら炎が高く上がる空を見つめ、慧輪が独り言のように呟く。
 空が一瞬碧暗くなり、音が消えた気がした。

「お師様、馬子様から仏堂の事をお聞きしました」
 仏堂が焼け落ちてから数日後、蘇我の屋敷で慧輪は皇子と向き合っていた。
「大変胸の痛む出来事でした。せっかく皇子に仏堂で御仏の教えをお伝えしようとしていましたのに」
 皇子の澄んだ目を真っ直ぐに見て慧輪は答える。
「ですが馬子様のお計らいでお屋敷の隅をお借りすることができました。仏像もこの通り、置いていただいています。朝夕の勤めも変わらず果たすことができましょう」
 そして慧輪は仏像に向かって合掌し、経を上げ始めた。
 その経が揺るがせたのは、慧輪の声か仏堂の風か。
「お師様」
 皇子はごく小さな声で呟いた。
「お師様のお心は、ここにありますか?」
 その声は風に溶け、慧輪に届くことはなかった。

 それから少しの時が経った。
 蛍が川にいなくなり、日の中の風が暑さの盛りにある頃。
「慧輪、大王がお隠れになった」
 馬子が再建された仏堂で慧輪に語った。
「お聞きしております」
「そうか」
 思い澄まし、そして静かに慧輪は返す。そこで馬子は周りを見回し、誰もいないことを確かめてから小声で続ける。
「真を言うとな、大王は仏法に厳しく我ら蘇我の地位も危ういところであった。忌々しい物部が再び力を付けたりしてな。しかし次の大王は仏法に寛容だ。力衰えようとも我、蘇れり。だから蘇我なのだ」
「馬子様のお力の賜物でございましょう」
「とは言ってもだ」
 馬子が手を振る。
「これは秘中の秘だが、大王がお隠れになって俺は心安い思いだ。そして次の大王は皇子の御父上。さらには我が父の外孫、つまりは俺の甥になる」
「つまり新たな大王の下、仏法と馬子様が力を増す、と」
「そう思っておる。そしてそれに反対する者は大王に弓引く者となる」
 馬子は口の端を上げて笑みを作る。
「先日の某の争いのように血が流れるかも知れんし、誰とは言わんが、今度は燃やされる立場になるやもな」
 慧輪の胸中には、二度に渡って燃やされた仏像の姿がよぎった。
 今度は物部がそのようになると?
 当然それを期待も喜びもするはずもなく、彼はただ吹き抜ける風を眺めるのみであった。

 新たな大王の御代になってから馬子の目論見は当たり、蘇我は力を盛り返した。
 馬子は大王に積極的に働きかけ、仏法をその庇護下にあるよう願い、大王はその通りにした。
 蘇百寺以来となる寺も新たな都に建造し、慧輪も引き続き寺主を務めた。
 慧輪はそこで朝に夕に経を上げ、訪れる者に教えを説き、また皇子に語って聞かせるのだった。
 そんなある日の夕暮れの頃のこと。
「お師様、これを」
 皇子が小さな壺を取り出し、慧輪に手渡した。
「これは何でしょうか?」
「灰です」
 少しためらいがちに、しかし強さを感じさせる声で皇子は続ける。
「ずっと迷っていました。お師様にお渡しして良いものかどうか。あのお話を聞いてすぐ、私は仏堂の焼け跡に行き灰を集めてまいりました。遠い西の国では、御仏の灰をお祀りしそれでもって御仏を偲ぶと聞き及びました」
「ああ、遠い昔、百済で聞いたことがあります。しかしここ大和に仏の灰が伝わることがなく、故にそれを行うこともありませんでした」
 受け取った壺を、初めて見るはずのその壺を、慧輪はどこか懐かしそうに眺め懐に抱いた。
「この灰はお師様の心の在処だと思います。空はしかし無にあらず。お師様が大和で行われたことは、御仏もきっと見ておられます」
 真っ直ぐな皇子の目に、慧輪は胸を貫かれるようだった。
「ありがとうございます、皇子。この灰は大切に寺に保管させていただきます。皇子に仏のお導きと加護があらんことを」
 慧輪は寺の奥、仏像の傍らにその壺をそっと置いた。
「さあ皇子、こちらに。共に経を上げましょう」
 そうして慧輪と皇子は並んで仏像に経を上げ始める。

 瞑るその瞼の裏に、黒い炎に包まれた仏像。
 
 僅かに揺れた経に、皇子が目を向けたことに慧輪は気付かなかった。
 
 都に疫病が現れたのは翌年のことだった。
 以前のように数多の人が倒れてゆくことはなかったが、その病魔は確実に忍び寄っていた。
「このところ馬子様は忙しくされているようですね。寺にお姿を見せることも減りました」
 経を写している皇子に慧輪は話す。皇子は顔を上げて眉間にしわを寄せた。
「大王の御身体が思わしくないのです。それだけではないようですが……」
「聞き及んでいます。重い病に冒されておられると。皇子も御父上の事ゆえ、さぞ心を痛めておいででしょう。そして更には、大和において仏法がまた危難に合うかも知れない、と」
「まさに先日、そのことについて大王から召されました。寺を建て、仏像を建て、篤く祀るようにと。大和を御仏のお力で護りたいとお考えのようでした」
 それを聞いて慧輪は合掌の形を取る。
「おお、御自身がお辛い時に大和と仏法を優先なさるとは。なんと御心の尊いことでしょう」
 皇子は頷いて再び経を写し始めたが、その手は止まりがちであった。
「お師様、私は嫌な予感がします。この大和が二つに割れるかのような、そんな予感が」
 
 それからいくつか日が昇り、そして落ちていった後。
 その若者はじっとりと汗をかいていた。
 日が照りつける中、長い時間を歩いてきたからだけではない。余りにも気が張り詰めているためであった。
 目の前にあるのは、自分が住んでいる集落とは比べものにならない規模の都、そしてその中でも一際大きな屋敷である。
「止まれ! 何者か!」
 門の両脇で矛を構えた門守が誰何の声を上げる。
「あ、あの……、物部の長様のご命令に従いやってまいりました。なんでも、兵を集めておるとか言うて……」
 おずおずと言を発する若者を門守が胡散臭そうに眺める。
「……ふむ、よいだろう。物部守屋大連様が直々にお会いなさる。ここを真っ直ぐに進み、屋敷を右に折れそこで待つがよかろう」
「は、はい、ありがとうございます」
 交えていた矛を解いた門守の横を抜け、若者は屋敷内の少し開けた所に歩みを進めた。
 そのまま待つことしばし。高い屋敷の威圧に足が震えていた。
 やがて屋敷の中から鉄で武装した兵が二人現れ、そして一人が戸を引く。
「物部守屋大連様なるぞ! 地に伏せい!」
 兵の怒号が飛び、若者は慌てて膝をつく。
「遠いところから苦労したな。そう怯えるでない。俺が大和の大連、物部守屋である」
 屋敷から現れた守屋は自ら先に名乗り、若者を落ち着かせた。
「何も知らない山の者なので、どうかお許しください」
「よいよい。名は何という」
 若者は頭を上げ、そして名乗った。
「はい、アはここから急がずとも、日の昇ってから落ち切る前には着きます村から参りました、カワタヒの子ヤマトゥと申します」
 若者ヤマトゥは少し落ち着いた様子で守屋を見上げた。
「変わった名だな。ヤマトゥよ、知っているか分からんが今都は少々きな臭い。働きに期待しておるぞ。手柄があれば褒美も出す。なにはともあれ休むといい」
 守屋は左を指さす。
「兵を集めた小屋がある。そこで寝泊まりし、都にも慣れるといいだろう」
「ありがとうございます」
 ヤマトゥは深く頭を下げ、守屋の指した方に向かう。
 小屋には村で見るよりも多くの男がおり、それを集めるだけの力を持った守屋にヤマトゥは改めて感服するのだった。
「お、お前ヤマトゥじゃないか」
 一人の若者が彼を認め声をかけてくる。いつかの時に顔を合わせ親しくなった、隣の村の若者であった。
「そう言うお前はノベコじゃあないか。久しぶりだなあ」
 二人は声を掛け合い手を結ぶ。
「どこかの立派な人の墓所に土を盛った時以来か? 張り付ける石が重いと泣き言を言っていたお前が兵などと」
 ノベコはそう言って笑った。
「お前こそ鳥がどいてくれないとすごすごと避けていたじゃないか。鳥も追い払えない男に兵なんて向いてないぞ」
 ヤマトゥが笑いながら言い返すと、ノベコは少しだけ顔を曇らせる。
「母がな、もう長く伏せっていてな。物部様のお役に立てば褒美ももらえると聞いた。体にいいものも食わせてやれると思ってな」
 彼が隣の村まで知られる親思いであることを思い出し、ヤマトゥは顔を伏せた。
「そうだったのか……。ならば長様のお役に立つ折が来るといいな」
「ああ。戦はもちろん剣も握ったことはないが、なに、いざとなればシシを相手にするようにすれば……」
 ノベコはそう言って拳を握ったが、ヤマトゥは首を振った。
「お前がシシを? ウサギがいいところじゃないか」
 二人はそうして軽口を叩き合いながら笑うのだった。

 慧輪が皇子と語らい、ヤマトゥが守屋の兵となってから暫くの時が過ぎた。
 大王の病はますます重くなり、明日をも知れぬ身となっている。
 そこで大王は自らの寝屋に集まるよう群臣に命じ、蘇我馬子を筆頭に主だった一族が、そして物部守屋や中臣勝海をはじめ、大和の力ある者達が大王の下に集った。
 寝屋には甘い香が焚かれ、それがかえって大王の病の重さを物語っているようだった。
「皆の者、よく集まってくれた。皆も知っての通り、我が病は極めて重く、この命長くは持つまい」
 大王の細い声に、群臣は声を詰まらせる。
「おお、おいたわしや。大王、そのような事を仰ってはなりませぬ」
 馬子が御床の帳より外から声を上げた。
「蘇我大臣よ、我が身体は我が一番良く分かっておる。そこで皆の意をまとめて欲しくここにこう述べる」
 大王は間を置くと、その声も強く群臣に命じた。
「我は三宝に篤く帰依し、もって災いを消し去らんと願う。ついては皆、これに対しどのように行うか議を設けよ」
 大王の言に馬子とその一族達は身を即座に屈めた。
「とても良き事と存じます。大王のお考えはとても尊く、その御言葉が成されますように」
「お待ち下さい!」
 鋭い声が飛び、馬子達は何事かとそちらを見やる。立ち上がり声を上げたのは中臣勝海であった。
「なりませぬ。我が大和は大王のおわす前より土地の神々を崇め祀ってきたもの。若し蕃神を祀り身を屈めるのなら、必ずや天津神国津神の怒りを買いましょう!」
 そして守屋もまた立ち上がる。
「大王、中臣連の言う通りかと。我らには既に身を屈めるべき神が古来よりおわします。外つ国よりもたらされし蕃神を祀るなど」
 それを聞いて馬子が怒りで顔を染めた。
「大王の御言葉なるぞ! 貴様らなどは自分の位を危ぶんでの進言であろうが!」
 守屋の手が我知らず剣の柄に伸びる。
「何を言う! 蕃神により大王の御心を惑わし、もって大和に災いをもたらさんとするお前こそ大王に叛く者であろう!」
 誹りと嘲りが交わされ、既にいつ腰の剣を抜いてもおかしくない程に場が張り詰める。
「止めよ!」
 御帳の内より叱責が飛ぶ。
「我は皆に議を行えと申した。蘇我大臣、物部大連、そちらの議とは声を張り上げて罵る事を指すか!」
 直ちに群臣は平伏し、大王に服した。
「今一度我は皆に命ずる。和を以て議を行い、大和から災いを祓う道を歩め」
「仰せのままに、大王」
 大王の言葉に群臣は深く身を屈めたが、馬子と守屋の間には既に消えぬ亀裂があることをその場にいた皆は感じ取っていた。

慧輪無常
「慧輪、経だ、経を上げろ!」
 荒々しく足音を立てながら寺に入ってきた馬子に対し、慧輪は湯を差し出しながらその勢いを受け流す。
「また突然な。宮中で何があったのです」
「物部の手の者全てを呪い殺すのだ!」
 握り締めた拳で床を殴る馬子を慧輪は諌めた。
「馬子様もご存知のように経典にそのようなことは記されておりません」
「それ程までに我が手も仏の手も尽くしたいのだ。しかしそれはさて置いて、大王に仏の慈悲を願うことは間違いではなかろう。大王は三宝に帰依を表明された。今大王にお隠れになられては仏法もまた後退するかも知れん」
「そういう事でしたら、もちろん上げさせていただきます。もとより大王に限らず、苦しみを抱えた衆生のため経を上げるのは我らが勤めにございますれば」
 そうして慧輪は寺の奥に行き経を上げ始める。
 しばらくの後、戻ってきた慧輪に馬子は話を続けた。
「とは言っても大王の病はかなり重い。あまり考えたくはないのだが、次を誰にするか決めておいた方が良いな」
「馬子様がお決めに?」
「もちろん群臣の議によるぞ」
 そうは言いつつも、馬子の目はギラリと輝いている。
「最初はな、額田部の皇女を次の大王にと考えておった。しかし少々問題もある。だからまずは泊瀬部の皇子を次期大王にと俺が擁するつもりだ」
「しかしそう上手くは」
「いかん。守屋は穴穂部の皇子に目をかけているようであるし、宅部の皇子を次期大王にという者もおる。しかしな、それらではいかんのだ」
 馬子は立ち上がって寺の奥、その仏像を指す。
「見ろ慧輪。泊瀬部の皇子が大王になれば、俺がその力の下、もっと仏法を広めてこれなどよりも大きくて立派な仏像と寺を建てられる。上宮のも乗り気だぞ」
 そう言って馬子は豪快に笑ったが、慧輪は虚しさに胸が寒くなるを感じた。
 仏法とは、仏像とは、寺とは、ただ大きく在れば良いのか。
 ただきらびやかなれば良いのか。
 ただ大王の力の下に在れば良いのか。
 握り締めた掌を吹き抜けた風が、大和の空へと溶けて消えた。

 大王の崩御に都が揺れたのは、そのすぐ後のことだった。
 人々はその報に嘆き悲しんだが、宮中の群臣は恐れが悲しみに勝った。
 大王をその陵に送る暇もあらばこそ、馬子が次の大王にと泊瀬部にいた皇子を宮中に迎え入れたのである。
 しかし時を同じくして、守屋が穴穂部の皇子と共に都に入り、ここに蘇我と物部は遂に互いに剣を向けることになったのであった。

 その夜は殊の外月が大きく、辺りを明るく照らしていた。しかし都は静まり返り、聞こえるのは虫の音だけ。
「止まれ!」
 夜の静寂を鋭い声が切り裂く。
「私ですよ。馬子様に呼ばれて来たのです」
 近づく人影に門守は剣を突きつけたが、慧輪が先んじてそれを制した。
「これは慧輪和上様、大変に失礼を。馬子大臣様は奥の寝屋におられます。ささ、お通りください」
「ありがとうございます。お務め、ご苦労様です」
 慧輪は頭を下げ馬子の屋敷に入ると、奥の寝屋へと歩を進める。
「馬子様、慧輪です」
「入れ」
 ごく小さな声で馬子が応える。慧輪は戸を滑らせ、馬子の寝屋へと入った。
「忍んで来いとは一体何事でしょう」
 寝屋の中央で座っている馬子に油の光が当たり、影が不気味に揺らめく。
「真を言うとな、俺は恐れている」
 声も低く馬子が口を開いた。
「守屋も、穴穂部のも、そして額田部のもだ」
「大連様はともかく、額田部の皇女様は馬子様の近しいお人ではありませんか」
 慧輪がそう尋ねると、馬子は首を振って息を吐いた。
「慧輪、俺とお前はもうどれぐらいの付き合いになる」
「もう三十は優に数えられます」
「そうであろう。そしてお前はずっと仏に帰依した欲のない人間だ。だからこそ今日ここに呼んだのだ」
 そしていっそう声を低めて、囁くも同然に慧輪に話す。
「守屋が穴穂部のを大王に立てようとしている。まあ、それ自体は俺には分かっていた。そして当然そうなっては困るのだ。だから俺は額田部のにそれを話した。するとな」
 少し言を切って、やや間を開ける。
「穴穂部のを誅せよ、とな」
「なんと……」
 皇子を殺せ。
 恐ろしいその命に慧輪は戦慄した。
「確かに額田部のは皇子に汚されそうになったことがある。そして穴穂部のは気性も荒く人を束ねる器ではない。しかし誅せよとはな」
「とは言っても、穴穂部の皇子も大王となる力を持ったお方。敢えて申し上げますが、臣の身でそのような事を……」
 馬子はため息をついた。
「分かっておる。しかし臣の身と言うのなら額田部の命にも従わねばならん。だからこそ皆恐ろしいのだ」
 そして馬子は慧輪を真っ直ぐに見る。
「俺とて蘇我の長。戦となれば敵を打ち倒すことは何とも思わんし、また倒されることも覚えの上だ。だが、我らが道の上にあるというだけで打ち倒すことはまだ行ったことがない」
 慧輪は衣を握り締めた。
「私は壁、取るに足りない板にございます。馬子様が信頼しお話下さったこと、仏法の下にいる私は何も申し上げることはできませんが、あなたの道が整えられ、その歩みに躓く石のなきよう願うばかりです」
「ああ、お前がただ受け止めて聞かなかったとすること、礼を言うぞ。これより先も俺の横に在ってくれ」
 油の光が二人の顔を淡く照らし、夜の鳥が鳴く声が静かに響き渡った。

 慧輪が馬子の心を受け止めてからいくつ日が落ちた頃か。
 都の守屋の屋敷は騒然としていた。
 兵のための小屋で寝泊まりをしていたヤマトゥ達は、守屋直下の兵の声で目覚めた。
「皆、己の剣を帯び短甲を身に着けよ! 大連様はこれより渋河へ居を移される。それに従い、道中でもしも大連様に災禍あればそれを退けよ!」
 兵達は動揺しながらも手早く身の回りを固め、守屋とその将兵の後に従った。ヤマトゥとノベコもそれに続こうとしたが、彼らを含め数人が屋敷の者に呼び止められる。
「そこな者達はここに残れ。宅の守りと都の見聞きを業とせよ」
「はっ」
 命が下り、それぞれの役を任じられた後、ヤマトゥは近くにいた屋敷の者に尋ねた。
「あの、長様はなぜ移ったのでしょう。何が起きて兵は渋河へ移動するのですか?」
「知らずとも良い。……と言いたい所ではあるが、大連様は下々の者にも隠さず伝える寛大なお方。話しても良いだろう」
 ヤマトゥに近付くよう手招きをし、声を低くする。
「我らが物部と蘇我がもはや対立を免れ得ないことは知っておろう。大連様は蘇我の専横を防ぐために穴穂部にいらっしゃる皇子を次期大王にと都へ迎え入れたのだが……」
「知っています」
 ヤマトゥは神妙な面持ちで頷いた。
「皇子が殺められた。手を下した者は見つかっていないが、蘇我の手の者であることは間違いない」
「なんと……」
 ヤマトゥは絶句する。
 都のことは未だ良く分からずとも、臣が大王になり得る人物を殺めて良いはずもない。
「だからこそ俺は蘇我をこのままにするわけにはいかんのだ」
 そう言って現れたのは、誰あろう守屋その人だった。
「大連様!? 渋河へ向かわれたのでは?」
 ヤマトゥのみならず屋敷の者も目を点にする。
「俺に似た者に俺の衣を着せて向かわせた。蘇我の力が強いこの都を空にするわけにはいかんが、さりとて渋河の備えを蔑ろにするわけにもいかんからな」
 守屋は部屋の中央へ立つと、その場のすべての者へ命を下した。
「もはや時はない。蘇我との剣による争いは必至。これは我等物部だけでなく、大和の行く先を決めると心得よ。蘇我は蕃神を祀り、外つ国の者共を重んじる。このままではいずれ大和は外つ国の思うままとなるだろう。我等がそれを止めるのだ」
 腰に帯びた金の飾りもまばゆい剣を抜き、それを前に突き刺すように構える。
「大和を守るとその身を捧げる者は剣を抜け。皆の心構えを見せよ!」
 その場にいた者は応え剣を抜いて守屋のそれに重ねたが、ヤマトゥとノベコの剣は微かに震えていた。
 
「蘇我も将兵を集め、戦の用意を整えているようです」
 その知らせがもたらされたのは次の日が落ちてすぐのことだった。
「やはりな」
 守屋は頷くと兵に命を下す。
「一人は馬にて渋河へ行き、蘇我の兵に備えさせろ。砦を築き、攻め立てられならば矢を雨と降らせるように。そして石人、お前はヤマトゥとノベコを連れ勝海の屋敷に行き蘇我の動きを伝えろ」
「はっ」
 それぞれの兵の動きは速く、戦慣れしていないヤマトゥとノベコはついて行くだけで精一杯であった。
 慌ただしく木の短甲を身に着け屋敷を出る直前、守屋が二人を呼び止めた。
「備えのためとは言え、俺の所に来てすぐ不慣れな事をさせて戸惑うこといみじかろう。しかし今こそが最も重きを置くべきなのだ」
 そして二人にそれぞれ肩に手を置いて語りかける。
「ヤマトゥよ、功を挙げれば冬を越せるだけの米をやろう。ノベコよ、お前には病める母を癒やすための良きものも贈ろう。俺のため、大和のため、力を尽くしてくれ」
 大王に次ぐ力ある者が、自分のような山の者に目を同じ程に落とし語ってくれる。
 そのことにヤマトゥとノベコの胸は熱くなった。
「ア共は愚かな山の者です。それでも、大連様のお役に立てるよう力を尽くします」
 二人は共に剣を取り、立てて柄を守屋に向けて跪いた。兵達の儀を知らねども、心の内から出る礼であった。
「礼を言うぞ」
 辺りをうかがい、そっと屋敷を出る二人の背に、守屋は小さくつぶやくのだった。

「中臣連様の屋敷は少し遠い。それまでに蘇我に気取られるな」
 物部の部民に名を連ねる者の一人石人は、ヤマトゥとノベコを後ろに従わせ身を低くして都を駆ける。
「あの、どうしてア達も共に行くのでしょうか。石人様お一人の方が早く向かえると思うのですが」
 ヤマトゥがそう聞くと、顔のみ振り返り石人は答えた。
「お前達はまだ都に慣れておるまい。大連様はこの都が重要な戦場になると考えておられる。だから同行させて少なくとも中臣連様の屋敷、蘇我の屋敷の位置を覚えさせたいのだ。それにな」
 そこで石人は再び前を向き、何もない空を睨んだ。
「もしも蘇我に見つかり捕らわれることあらば、私が奴らを斬り、道を開く。そのうちに疾く行くのだ」
「そんな……。その時はアが戦います。石人様が逃げてください」
 それに対し石人は軽く笑った。
「お前達の剣では奴らは斬れないだろう。何、見つからねば良いだけの話だ」
 しばらく移動し、大きな寺の横を通る。闇に佇むそれは、暗い危険な獣のようにも見えた。
「ヤマトゥ、これはなんだ?」
 ノベコがささやき声で聞いてくる。
「詳しくは分からんが、大臣様……いや、蘇我の手の蕃神を祀る場所らしいぞ」
「ここの位置も覚えておけ。必ずこの場所もまた来ることになる」
 石人に言を返そうとヤマトゥが前を向いた時、寺から火皿を持って出てきた、立派な衣をまとった法師と目が合った。
 彼は訝しそうな目を一瞬したものの、すぐに目を伏せ、寺の中へと戻っていった。
「今のは……?」
 ヤマトゥのそのつぶやきは、闇の中へと溶けて消えた。
 一瞬、ヤマトゥの目の奥に、金色の輝きが見えた気がした。

 日ごろ経て、都にて人々と話していた慧輪は馬子の屋敷が騒がしいことに気づき足を向けた。
「馬子様にお会いしたいのですが」
 慧輪の姿を認めると、屋敷の者はすぐに馬子のいる場所へと通してくれた。
 向かった部屋の中では馬子が杯を傾けていた。
「慧輪、急にどうした」
「お屋敷が騒然としていたので何事かと思いました次第でございます」
「おお、そうか。あれを見せてやろう! ……と言いたいところだが、僧たるお前に見せても仏の怒りを買うやも知れん」
 と、馬子は遠くを指さした。
「中臣勝海の首を上げたのだ」
 仏法に強固に反対し、物部と共に兵を挙げたという連。
 それを討ち取ったと馬子は誇らしげに語った。
「もっとも撃ったのは俺ではないが。奴は俺に反対し物部と共に兵を挙げ、あろうことか押坂の大兄と竹田の皇子の像作って何やら呪いを行ったそうだ」
「ああ、そのような……」
 慧輪は苦しげに呻くことしかできなかった。
「しかしな、不利と見たか知らんが、その後すぐ押坂の大兄に従おうと門をくぐったらしい。しかし屋敷を出たところを見計らって首を上げたと聞く」
「なぜです? 押坂彦人大兄の皇子様の元を訪れたなら、少なくとももう逆らう意思はなかったはず。懐に飛び込んできた鳥を殺すなど、そのような慈悲のない行いを……」
 馬子はうるさそうに手を振った。
「そんなことは知らん。張本人の迹見赤檮にでも聞けばよかろう。ただな」
 そこで馬子は怒りの相もあらわに、首の置いている方を睨みつけた。
「像を作り、それに神々の呪を願うなど、この大和にあってはならん。そのような危険な奴を易々と許すわけにはいかん。まして中臣だ、我等蘇我に兵を挙げればどうなるか、他の群臣への見せしめにもなっただろうな」
 慧輪は衣を握りしめ、そして唇を震わせた。
「ではせめて、良く弔う事をお許し下さい。中臣連様の御霊の安らかならん事を」
「構わんが、奴は神祠の筆頭だった男だぞ。仏の下で弔われる事を喜ぶとは思えん」
 そう言って馬子はさも嬉しそうに笑い声を上げるのだった。
「さて、俺は数日のうちに渋河の物部の元に打って出る。お前は寺で俺と蘇我の為に経を上げてくれ。上宮のも連れて行けと言っていたが、あれはまだ幼い。お前に預けるから横において同じく経を上げさせるがいいだろう」
「かしこまりました。皇子の場所を整えると共に、馬子様の勝利を祈願し経を日ごと夜ごと上げてまいりましょう」
「そう日は掛かるまいがな」
 そして慧輪は馬子に勝利の祈願をすると寺に戻り、皇子のための場所を整えつつ、日頃の勤めに戻った。
 慧輪が経を上げていると、僧房から硬い音が聞こえてきた。
 訝しく思い見に行くと、立てかけていたはずの錫杖が倒れ、わずかにその円環が欠けていた。
 きっと置く形が悪かったのだ。
 そう思い今度はそれを寝かせて置いたが、なぜかその出来事はとてつもない不安となり慧輪の胸を騒がせるのだった。
 翌日馬子が皇子を伴い寺に現れ、そして彼を白膠木の木と共に慧輪に預けた。
「四天王像を作りそれに祈願をしたいと言ってな。皇子よ、寺を汚すでないぞ」
「心得ております、馬子様。お師様、邪魔にならないよう心を配りますので、どうか像を寺で作ることをお許し下さい」
 頭を下げる皇子に、慧輪は腰をかがめた。
「頭をお上げ下さい、皇子。馬子様のため、大和のため、祈願の像をお作りになるその姿勢、きっと仏もお喜びでしょう」
 その肩に手を乗せると、皇子の顔は喜びで輝いた。
「では慧輪、皇子のことはくれぐれも頼んだぞ。皇子、良く仏法を学び、師に従い、尽くすのだぞ」
 馬上からそう言うと、馬に一鞭入れ駆け出す。
 慧輪と皇子はそれを深く合掌しつつ見送るのだった。
 
「蘇我が軍を進めました!」
 蘇我の屋敷を見張っていた兵からそう知らせがなされると、守屋邸はやにわに騒然となった。
「狼狽えるな!」
 しかし守屋は声を上げ、兵達を静める。
「そのための備えはすでに整えさせている。蘇我の兵力もお前達の働きで分かっている。まずは憂うに及ばん。それよりも」
 と、その場にいる者達を見渡した。
「奴らは必ずその多くが手負いになって戻って来る。ここに残った者は少ないが、手負いならば十分に叩けるだろう」
 そう言う守屋の顔は何かの決意をたたえているように見えた。どこか薄ら寒いものを覚え、ヤマトゥは背筋が冷たくなるように感じるのだった。
 兵達はさらに少ない人数に分けられ、それぞれが定められた所に身を潜めた。
 高い日が肌を焦がし、草の匂いがむせ返るように感じる。
 顎を伝って滴った汗が土に落ち、それを拭うことも忘れるほど気が張り詰める。
 
 そして、蘇我の軍が、引き上げてきた。
 
 おびただしい数の手負いの兵達が寺に運び込まれ、馬子自身も軽い矢傷を負っていた。
「少し侮った。俺の屋敷だけでは寝かせておく場所が足りん。寺の敷地を使うぞ」
 慧輪の手当てを受けながら馬子は悔しそうに言う。
「あれほどの備えをしているとは思わなんだ。孤立してもさすがは大和の武を束ねる男よ」
「馬子様の矢傷は浅くて何よりでした」
「俺には強力な仏の加護がついている。物部のようにその仏を退け古きに固執しては大和に先はないのだ」
 馬子は立ち上がると寺を出た。腕に巻いた布はすでに少し赤く滲んでいる。
「一度立て直し再び打って出る。さらに強く加護を求めていてくれ。お前の経が勝利をもたらした暁にはどんな褒美でもかなえてやるぞ」
 それに対し慧輪は首を振る。
「私はただ、この大和が安らかならんことを願うばかりでございます」
「お前はそういう奴だったな」
 去っていく馬子の背を見送って、慧輪は手負いの兵達の手当てを行った。寺にいる僧達もそれを助け、いっとき兵がこの場所を埋め尽くした。
 皇子もそれを助けようとしたが、身分のゆえに慧輪から止められ、祈願のための仏像作りに戻った。
 やがて急ごしらえの手当てが終わると、動き戦える者は再び蘇我の屋敷へ戻り、動けぬ程の傷を負った者は寺のあちこちに寝かされるのであった。
 やがて日が沈み、火皿の炎が揺らめく夜。
 痛みに呻く声が、一つ、また一つと寝息に変わってゆき、慧輪をはじめとする僧達もまた横になる。
 虫の音が途絶えたような気がした。

 寺の灯りが消え、もうどれぐらい経ったか。
「そろそろいいだろう」
 石人がささやき、弓を構えるよう部民に指示を出す。その先には火が着いている。
「石人様、まさかこの建屋ごと燃やすのですか? 兵達ならばともかく、剣すら持っていない法師という人々もいるのに」
 ヤマトゥが石人の衣を引く。
「その法師が蘇我の拠り所であるのだ。先の大連、物部尾輿様は火によってその地を清められた。我等もそれにならい、火で清めた後この場所を神々にお返しするのだ」
「そんな……」
 ヤマトゥは振り返る。後ろではノベコの、痛みすら感じさせる顔がかすかな火に揺らめいていた。
「聞くな、ヤマトゥ。アは……アはやらなきゃならん。母の病を治してやりたいんだ。母一人子一人の、互いにたった一人きりなんだ……。褒美がいるんだ……!」
 もはやヤマトゥに言はなかった。ノベコの気持ちは痛いほど分かる。しかし剣を持ってすらない相手を傷つけるなど。
「心は定めたか。いずれにしろ火は放たれる。お前達がやらなくても、な」
 矢に付いた小さな火の音すら聞こえる程の静寂が訪れる。
 ヤマトゥの息が荒くなる。
「構え」
 弓が一斉に構えられ、矢が寺に狙いを定めた。
「射て!」
 矢が闇を裂き、寺に小さな火が着いた。

 妙な気を感じ取り、慧輪は目を開けた。
 かすかな物音。僅かな熱。そして寺の口で燃える火。
「火だ! 起きろ!」
 慧輪の声にほとんどの者は目を覚ましたが、手負いの者は急ぎ逃れる事はできない。
「逃がすな! 僅かでも蘇我を叩くのだ!」
 突如聞こえた声にその先を見れば、寺の口に逃げた兵が何者かに斬られ、事切れていた。
「物部か!」
 動ける者は弓を持ち抵抗する。しかし乾いた寺に放たれた火の回りは思うより早かった。
「和上、お逃げ下さい!」
 突き飛ばされ、壊れた板の隙間から慧輪は外に転がり出た。直後、慧輪を突き飛ばした親藍の胸が矛に貫かれ、そしてその場が火によって崩れ落ちた。
「親藍!」
 慧輪が叫ぶと同時に崩れた屋根が彼に襲いかかり、燃え盛る柱が片足を砕き、焼いた。
 苦痛に呻くが、他の兵や僧がまだ寺や僧房にいる。皇子もまだ逃げていない。
「なぜだ……? 私は、私達はただ、大和に平穏を、人々に安らぎを、ただそれだけを願って……!」
 涙が頬を伝う。悲しく、そして悔しかった。
 また寺の一角が崩れ、大きな音を立てる。
「……! 皇子! 栄元! どこだ!」
「お師様……」
 少し離れた場所から皇子の声。しかし栄元はもちろん僧達の声はない。
「お待ち下さい……、今、お助け致します……」
 皇子の下へ這いずっていく。その間にも兵達の命の消える声がそこここで上がり、寺の炎が夜を焦がし、崩れ落ちる建屋が音を立てる。
 慈悲のない、地獄だった。
 ふと、手に錫杖が当たる。何処から落ちてきたそれは、円環が欠けていた。
 それを地に突き立てながら、腕だけで這って進む。
「う、動くな! 蕃神の者め!」
 震える声に横を向くと、粗末な短甲を身に着けた若者が剣をこちらに向けている。しかしその切っ先は定まらず、脚は震えていた。
「よせ」
 慧輪は掌を相手に向け、努めて穏やかに語りかける。
「そなたは剣を握るべきではない。そなたの神も命を奪うことは是としておらんはずだ。慈悲の心を持って、私と一緒に人を助けてはくれまいか」
 片手は錫杖を頼り、反対の手で片手合掌を見せ、敵意がないことを示し共に歩まんと話しかける。
「ほうびが……ほうびが欲しいんだ。村で母がアの帰りを待っている。母は病なんだ。慈悲というならここで、ここで死んでくれ!」
 若者は震えながらも剣を振りかざし切りかかってきた。
「やめろ!」
 命を奪わんとする剣の恐怖から逃れようと、無我夢中で慧輪も錫杖を振り回す。
 刹那、若者の後ろで寺が崩れ落ち、柱がその背を押した。
 倒れ込む若者の前には、慧輪が突き出した、円環の欠けた錫杖。
 それが、若者の、喉に。
「ガカッ……!」
 奇妙な声を上げ、若者の喉から血が噴き出した。
 そのまま倒れ込み、慧輪の横で目が虚ろになる。
「……。苦しいよ……、母ちゃん、痛いよ……」
 呻く若者に、慧輪が手を添える。
「おい、しっかりしろ!」
「母ちゃん……、ごめんな。痛いよ。会いたいよ。ごめんな。ごめんな……」
 その目から光が消え、力なく手が地に着く。
「私が、人を、殺めた……?」
 慧輪は錫杖を放り投げると、自分の両手を見つめた。
 その手は血の赤に染まっており、止めどもなく赤黒い血が溢れ地面に滴り落ちる。
 そうかと思うと、黒い炎が噴き出し、血をすべて舐め尽くして消えた。業火にさらしたが如く、凄まじい痛みが手と腕を包んだ。
「私は……、私は何ということを……! 慈悲は、救いは、仏はどこに!」
 刹那、寺の一部が慧輪の頭を打ち、彼は暗闇に沈んでいった。
 暗闇に、何かがいた気がした。
 
 ヤマトゥがそれを見たのは、ほんの偶然だった。
 少し離れた場所で、ノベコが法師に剣を向けている。法師は立つこともできず、哀れなウサギのようだった。
「ノベコ!」
 止めようとそちらに駆け出した時、ノベコが法師に切りかかった。法師がそれを防ごうと棒を振り回す。
 ノベコの後ろで崩れた寺が彼を押し、法師と重なった。
 そう見えるや否や、ノベコは血を吹き出し、倒れた。
「ノベコ……?」
 倒れた彼は動かない。横の法師は手を見つめたまま動かない。
「うわあああああ!」
 病の母のためだと慣れぬ剣を握った。村に帰って母に楽をさせると笑っていた。褒美が欲しいと切りかかった。
 そのノベコが死んだ。殺された。それも、慈悲だとかを言う法師の手にかかって。
「……殺してやる!」
 泣きながら剣を握った時、石人に腕を掴まれた。
「蘇我に気取られた。引くぞ」
「嫌だ! 離せ! あいつを殺すんだ!」
「命を聞かんか!」
 その腕を振り払おうとヤマトゥは暴れたが、腹を殴られ彼は気を失った。
 落ちる暗闇は、あまりにも深かった。
 
「無事、とは言わんが、お前の命があって何よりだ」
 深い憂いを顔ににじませ、馬子が言った。
「皇子も無事だ。お前のせいではない。寺まで狙った物部の悪らつさにすべて責がある」
 馬子の屋敷の一角に寝かされた慧輪は、合わない目で上を見つめていた。
「……私は、人を殺めてしまいました。それもまだ若者でした」
「大方お前を殺そうとしたのだろう? 殺したのはお前ではない、その者自身の行い故だ」
 傾いた日が二人を照らす。馬子の影が慧輪に落ち、その顔はいっそう暗く見えた。
「もはや私は何にすがって良いのか分からなくなりました。仏にすがった者も、それを咎めた若者も死んだ。慈悲はどこにありましょう」
 一人語りのようなそのつぶやきに、馬子はただ首を振った。
「今は体を治すことだけを考えろ。その間に、俺は物部を滅ぼしてくれる。一人も逃さんぞ」
 馬子は立ち上がると、人を呼んだ。
「この者にすべて言い含めている。身の回りの世話はすべて頼るといい。それからな、これを拾っておいたぞ」
 持ってこられたそれを、慧輪の横に置いた。
 円環の欠けた、錫杖。黒く、赤く見える。
 慧輪は呻いて目を背けた。
「歩みの助けにもなろう。では打ってくる。加護を求めていてくれ」
 馬子は屋敷を出ていき、そして慧輪は静かに涙を流した。
 
「僧を殺せとまでは言っていない」
 守屋は苦々しく呻く。
「申し訳ありません」
 石人が地に伏せる。
「都の人の心は我等を悪しざまに思うことだろう」
 深く考えた後、息を一つ付くと守屋は命を下した。
「ここにいる皆すべてで渋河に引き上げ、そこで最後の足掻きを見せてやろう。物部、ここにありとな」
 そして守屋は屋敷に残っていたすべての者を連れ、渋河の邸へと目立たぬよう引き上げた。ヤマトゥはその一番後ろを、足を引きずるようにして歩んだ。
 邸に篭っていた兵達は守屋の帰還を喜んだが、しかし戦の先は暗いことを心得ていた。
「そんな顔をするな」
 努めて明るく守屋は皆に語りかける。
「いざとなればここを抜け、筑紫にでも潜む。そこで再び力を蓄え、先の磐井のように蘇我に剣を向けよう」
 物部の者達はその言葉を胸に刻むんだ。
 例え大和に弓引く者と指を差されようとも、守るべきもののため、先を生きる者のため、恥を受け入れようと。
 その時、見張りから蘇我の接近を知らせる声が飛んだ。
「剣を取れ、矛を構えよ! 弓を持ち、矢をつがえよ! 大和の武をその手に担う我等が物部、蘇我のごときに遅れを取るな!」
 守屋の激にヤマトゥが、そして各々が武器を手に取り蘇我を迎え撃った。
 鬨の声が上がり、地を揺らすほど大勢の蘇我を始めとする群臣の兵。
 数においては劣ること甚だしかったが、武においては並ぶ者無しの物部は勇を示し、相対する者達を恐れさせた。
 守屋も高い櫓の上から矢を雨のように次々と降らせ、兵を全く寄せ付けなかった。
 矢が空を切り裂く音が聞こえるたび、悲鳴が上がり人が倒れる。守屋邸とその砦の周りは兵の血で赤く染まった。
 ゴウッと、重たい音が聞こえた気がした。
 ヤマトゥが音を感じた次の刹那、耳が、いや、耳のあった場所に溶けた鉄を当てられたように痛む。
 あまりの痛みに顔を背けうずくまった時、目の端に、それが見えた。
 ヤマトゥの耳が付いたままの矢が、守屋の目に突き刺さっていた。
「長様!」
 武に長け、しかし情け深く、驕らずに目を合わせてくれた物部の長。
 守屋は刹那、自分を射た者を呪うように見据えたかに見えた。
 櫓から落ちる守屋の姿が、異様に遅く感じる。
 そして、守屋が地面に叩き付けられるや否や、兵が襲いかかりその首が打たれた。
 しかし、それを理解する間もなく、ヤマトゥもまた。
 見開いたその目が最後に映したものは、自分の胸を貫く矛。最後に聞こえたものは、血が溢れ出る音。
 痛みすら既に感じず、ヤマトゥは底のない闇に落ちていくのだった。

「我等の勝利だ!」
 火が放たれ、灰と炭となって崩れ落ちた守屋邸を前に、馬子は大声で笑った。
 まだ焼けた匂いが濃く残り、物部の兵の死体があちこちに転がっている。
「皇子の四天王像の加護もあったが、何よりお前の上げた経のおかげだろうな。蘇我はもちろん、仏法を行う群臣は奮い立ったぞ。慧輪和上、我等にあり、とな!」
 慧輪は何も言えず、ただ頭を垂れるのみだった。
 物部守屋が討たれたとの知らせを聞き、屋敷の者に言って馬で運んでもらっていたのだ。
「褒美も何もかも思いのままだぞ。金色の仏像がある新しい寺か? それとも立派な塔か? 清めもままならん程の広い屋敷か? 全て俺が叶えてやる」
 馬子は笑いながら焼野を歩く。
 しかし慧輪の目は何も動かず、連珠を握ろうとしてそれをやめ、ただ熱い土を踏みしめるのみであった。懐に入れた皇子の掘った像ですら冷たい。
 その手には、あの錫杖。
 風が唸り、焼けた土が足の下で崩れる。

 悲しむには、すでに彼の心は仏法にはなかったのである。

結語
 慧輪は錫杖をつき歩んでいた。
 都はすでに遠く、人のいない山の中。
 人を殺めた。すがるものもなし。
 自分の命などどうでもよかった。
 ふと、辺りが碧暗くなる。周りからは一切の物が失せていた。足の下は土から硬い岩に変わっている。
 少し先は崖になっていた。先に行くほど幅を失い、その突端は剣のように鋭くなっている。
 ちょうどいい。あそこから身を投げよう。
 砕けた足を引きずり先を目指す。
 
 ーー。
 
 不意に。
 何かが聞こえた。いや、音ではない。
 目を足元から上へ向ける。

 それが、在った。

 大きな、仏像に似た何かが空に在る。
 その相は無貌。右腕は円環の欠けた錫杖を抱えながらも、掌は外を向き、指先は地を向け垂れている。左腕は全てが衣に隠れ、その意志を見ることは叶わない。
 その足元からは焦げた匂いのする黒い香が立ち昇っていた。
 その昔百済で読んだ書物にあった地蔵という仏に似ているが、その様はあまりに異様であり、なぜ空に在るのかも分からない。
 
 ーー。
 
 慧輪は恐れおののき震えていたが、不意にその意志を理解した。いや、心の内に流れ込んできたと言うべきか。
 ああ、そうなのか。慈悲は在る。しかし、輪廻の先には無い。
 自らの錫杖を見る。先の円環が欠けている。
 輪廻は偽りの円環。死ですらない。生まれぬことが慈悲なのだ。
 
 ーー。
 
 どうか御名を。

 慧輪の思いに応え、その名が心に刻まれる。
 ……無輪……地蔵……尊。

 慈悲を与え給え。衆生に救いを。無輪地蔵尊。
 
 目を開ける。
「幻、か……?」
 気づくと足が癒えていた。無輪地蔵尊の加護なのか。
 慧輪はもう一度目を閉じ、大きく息を付いた。深く合掌し、繰り返し言を紡ぐ。
「南無無輪地蔵尊」
 と。
 再び開いた慧輪のその目には、凄まじいほどの力と、限りのない慈悲が現れていた。
 
 
 暗闇を彷徨っていた。
 上も下もなく、在るのはただ果てのない闇。
「……そうか、死んだん、だったな」
 形のない魂になったヤマトゥは、どこに行くともなく漂う。
 すでに嘆きも苦痛もないが、心は穴の空いたようだった。
 不意にその行く先に、金色の光が見えた。
 吸い込まれるようにそちらへ向かう。
「なんだ………あれは……」
 どこかで見た事がある。確かあれは寺という、外の神を祀る建屋の中にあったものだ。
「ノベコよ……」
 寺を思い出し、友を思い出す。
 そして同時に怒りも。
 やがて、それの姿がはっきりと現れた。
 金色に輝く外の神。仏と言ったか。
「ヤマトゥよ」
 不意にそれが語りかけてきた。心が震えるような、尊ささえ感じられる声だった。
「そなたは死に、これより輪廻を巡る。しかし、それを砕こうとする者が現れた」
 ヤマトゥは恐れながらも、それに言葉を返す。
「そのような事を言われても、アは何もできません」
「人の業は人によってしか正されない。そしてまた、人を救うことも。その者を正しき道へ戻し、輪廻をつなげるのだ」
「アに何ができましょう。ましてそれが誰なのかも分からないし、そもそもアは死んでいるのです」
 ヤマトゥの言がまだ口にあるうちに、その魂はぼんやりと形を取り始めた。
「輪廻を巡り、人として生まれるたび、そなたはその者と巡り合う。道を説け。そして救え」
 ヤマトゥの魂が魚の形に変わっていく。
「行け。そなたに我が加護を授ける」
 ヤマトゥだった魚の目が金色に輝いた。
「我が名は大日。この法界そのものである」
 その言葉が聞こえるか聞こえないかのうちに、魚は意識を失い、金色の光へと溶けて消えたのだった。

間章
 外を吹く風は冷たく、その一部は戸を震わせ寝屋にまで入ってくる。
 乾いたそれは火を揺らし、体を冷やし、魂まで凍えさせるようだった。
 斑鳩宮で皇子は床に就き、死を目前にしていた。
 妻も逝き、母も逝き。
 皇子自身も病魔に倒れた。
「ああ、来世では妻にまた会えるだろうか」
 皇子が悲しみの声を上げた時だった。
 空気がのしかかるような重さになった気がして、あまりの息苦しさに咳き込む。
 人を呼んだが誰も応えない。まるで世界が孤立したようだった。
 静かに戸が開かれ、一人の男が入ってきた。
「……お師様!?」
 幼い皇子に仏法を説き、慈悲を示してくれた師がそこにいる。それも、かつてと変わらぬ姿で。
「幻……」
 生きているはずがない。よしんば生きていたとしても、あの時と変わらぬ姿でいるはずがないのだ。
 師は皇子の横に膝をつくと、身体にかけたそっと布を整えた。
 そして、静かに経を上げ始める。
 
 それは、その昔共に並んで上げた、あの経そのものだった。
 
「ああ、お師様……。ありがとうございます……」
 皇子は大粒の涙を流しながら師の上げる経に聞き入り、そしてその魂はゆっくりと、そして安らかに旅立っていった。

 屋敷の者が皇子の様子を見に訪れた時には、すでに息を引き取った後だった。
 しかしその顔は、病にあったとは思えないほど微笑みを湛えていた。
 
 
 数え切れない程の卵、その一つからその魚は生まれた。
 共に生まれた兄弟たちは、しかし少し泳ぐ間もなく他の魚に呑まれて死んだ。
 自分は運が良かったのだ。
 金色の瞳を持つその魚は、急な流れを誇る川を住処に方方を泳いでいた。
 水底には水草が踊り、時折蟹が石の影に隠れる。
 降り注ぐ陽に暖まった水が岩に当たり、弾けた飛沫も見えるほどに水面に近づく時もあった。
 時折他の魚が鳥に攫われる事もあったが、自分はそこまで迂闊ではないと思っていた。
 時が移ろい、子供も卵から孵り、流れを泳ぐ姿も見届けた後のこと。
 水面に虫が叩きつけられ、そのまま眼前に沈んできた。
 愚かな虫が葉から足を滑らせたのだろう。
 魚は迷わずそれに食いつき、水底に引きずり込もうとした。
 しかし、その抵抗は思いのほか強かった。いや、違う。
 
 口に鋭い痛みが走り、体が水面に向かって引き上げられる。
 
 身を捩って抵抗したが、それは意味をなさず、ついに水から上げられ空気にさらされる。
 息ができず、口を大きく開け、閉じ、開けた。
「見ろよこれ、大きいぞ!」
 魚を捕らえたのは、川の中から時折見かけた動物だった。
 
 ヒト。
 
 魚の頭に、何かが形作られようとしたが。
「うわっ、こいつ目が光ってる!」
 妖しいものに触れたかのように、その動物は魚を地に叩きつけた。
「川の神様に祟られるんじゃないか? 今日はもう帰ろう」
 そしてそのまま去っていってしまった。
 
 取り残された魚は、もう跳ねる力すら残っていなかった。
 空気はゆっくりと命を削っていき、苦しみながらその金色の瞳を持つ魚は干からびて、死んだ。

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

作品ページへ戻る

コメント

まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。

しおりを挟みました