プロローグ
神話
妖怪。それは、人知の及ばぬ奇怪な存在。
日本各地に伝承を残し、一方でその存在は伝説の中だけのものだと人々に認識されているもの。
しかし遥か昔、妖怪の存在は確かなものであった。人を喰らい、化かし、徒いたずらに命を奪う……。
だがその姿の多くは、近代の日本で人間が目にすることは無くなってしまった。
彼らはどこに行ったのか?
妖怪たちは"あの世"にいった。
『黄泉よみの国』。黄泉の神が治める、妖怪たちにとって死の先にある世界である。
妖怪は古来より、自然を生きる獣や人間のような生命よりも神に近しい存在として人間たちに考えられていた。
そして、それは正しかった。
生命が繁栄する『現世』。死した者はこの世界から追放される。それが理ルール。
しかし神々に近しかった妖怪は、他の生物の魂のように在るべき場所へ向かうことはなく、力も失うこともなく現世に留まり続けた。
そんな中で神々は黄泉の神に懇願こんがんする。
妖怪の存在が自分たちを脅おびやかしかねないことを憂うれい、黄泉の国を妖怪の逝くべき場所としてほしいと。
黄泉の神はそれを承諾し、以来、黄泉の国は死した妖怪の居場所となった。
だが、全てが上手くいくわけではなかった。
妖怪は数千年の時の流れを経て、現世からほとんどその姿を消す。
生まれた妖怪のほとんどが黄泉の国に入ることになり、そして黄泉の国はそんな妖怪たちを全て受け入れられるほど広くもなかった。
黄泉の神も、まさかそ・う・な・る・とは思っていなかった。
黄泉の神は黄泉本来の住民を守るのみで、逆立ちしても己には勝てない妖怪を放置していた。
法も律も無い国で、混沌から生まれし無秩序な妖怪たちが大人しくしているわけもなく。彼らは内乱を起こし、居場所を懸けて争った。
黄泉の各地で戦争が勃発し、尋常でないほどの妖怪たちの血が流れ──
数を増やし続ける妖怪とその諍いさかいにやがて黄泉の国は耐えられなくなり、黄泉の国を形作る境界が決壊。
ついに現世へと妖怪が溢れ出すようになってしまう。
力の弱い妖怪も、もはや修羅の国と化した黄泉から逃げ出すようにして現世を目指した。
力の強い妖怪たちも、彼らを追うようにして現世へと向かった。
近代には姿を消した妖怪は、現代にて再び姿を現す。
神々は当然、黄泉の神を非難する。
黄泉から逃げた妖怪の中には、神々を脅おびやかす存在も紛れていたから。
そして黄泉の神は国をより堅牢に、より広く作り替え……そして使者に命じた。
蘇った妖怪たちを再び殺し、黄泉に連れ戻せ。
黄泉の香りを辿り、鴉からすたちよ、死者を啄ついばむのだ。
東饗──『偽りの太陽』編
1.東饗という都
時は2040年。
50年以上前に起きた、あの弾けるような好景気を迎えた日本は、その勢いを増して世界トップの経済国となった。
アメリカ、欧州、中国、インド、石油輸出国……。それら全てを跪ひざまづかせて。
「よお、姉ちゃあァン。どう? オレらと一緒に遊ばない? 酒代もつよ?」
「朝までパァ〜〜っとやろうよォん」
「え〜〜。どうするどうする?」
「いいじゃンよぉ。ケッコーイケてる顔してるしぃ〜〜」
疑問に思った者もいる。
爆発的なものとはいえ、ただの好景気で世界の中心に最も近かった国々を追い抜かすことなどあるのだろうか。
その疑問を解決できた者はほとんどいない。
今の日本こそ世界の中心。否、生・き・残・り・だった。
「そっちの娘はどーよぉ? 一緒に来いよォ」
「えっ……いや、私はもう門限だし」
「いいじゃんか〜〜。堅っ苦しい親御さんだねえ。でももう二十歳ハタチぐらいっしょ? 子どもじゃねンだからさ」
北米は焼け野原。オーストラリアは海の底。
欧州の街はもぬけの殻。大陸は更地に変えられた。
そしてその事実を知る日本人は少ない。ラジオやテレビ、新聞は日本の外について報じないのだから。
連日連夜、取り上げられるのは芸能人の番組や歌謡ショウ。国内で起きた事件については、もはや取り上げても埒らちが明かない。
「ほらァ……これ。三・十・あるよ。いいじゃん、来いよ。オラ。今の日本はさ、金が全てなのよ。わかる? 俺、あの毛利商事のお偉いさんのコ・ド・モ。ついて来る方がイイと思うけどな〜〜」
「そ、それでも迷惑! 私、カレいるし」
「ああん? ハッ、どーせ貧乏彼氏だろ? カバンも大したモンじゃねぇし服も……。あんま良いの買ってくれないんだ? ケチだねぇ」
「ああ、もううるさっ! 明美アケミ、一香イチカ、私もう帰るから」
「えっ、洋子ヨウコほんとに帰んの?」
「もちっとアタシたちと遊んでこーよ、ねぇ」
金が全ての社会。それに間違いはない。
日本が何故こうなったのか。それは金を持つ者たちによる策略……。政府も司法も、金の力で屈服させた者たちの謀。
『四大財閥』。それが今の日本の支配者である。
「逃さねーよっ」
「きゃあっ!? はっ、離してッ」
「よく見たらさぁーー、君三人の中でいちばん可愛いじゃん? ねぇ、一緒に来てくれよ。金はたくさんあるし、俺、彼氏クンよりも色々と自信あるんだけどな〜〜」
「知らんし! クソっ、マジ離せっ!」
「ははっ、活きが良いな。オトした時が楽しみだわ。ヨっちん、たくさんクスリ用意しとけよ」
「あいよ。へへへ……」
男三人と女三人。ネオンの輝く夜の街で出会ってしまえば、起こることは一つだけ。
リーダー格の男の趣味でもある。
見た目は良い。金もある。
まるでこの時代に選ばれ、産まれてくることが約束されていたかのような順風満帆な人生。
好き勝手振る舞っても、金で誰も彼もを黙らせられる。
今夜のディナーは確保した。ホテルに行って、一晩目の前の女をドロドロにするのが楽しみだ。男は笑みが止まらなかった。
ボタッ──
「あ?」
突如、男の右肩に何か水滴が落ちてきた感覚が走る。
雨か? と一瞬考えるが、それにしては感じ取れた水滴一つ分の大きさが全然違う。大き過ぎる。
男は自分の肩峰に目をやる。
白いスーツだとよく目立つ。水滴が落ちた箇所は青と緑の混ざったようにケミカルで毒々しく変色していた。
「なっ、なん──」
ボトッ!
「あぐッ!?」
「み、ミッチん!?」
何が落ちてきたんだと、男が空を仰いだ瞬間。
あの毒々しい液体の塊が、今度は男の顔面に落下してきた。
「ぎゃあああっ!? あががっ、ああァアアアア〜〜〜〜ッッ!!?」
「ミッチん!? おい、大丈夫かよッ!」
「ァアア熱いッ!! 熱ィイィイ死ぬゥゥゥゥゥウウッ!! しっ、じぬッ!! がオォォがぁとっ、とげッ……!! ぐあッ、ギィィッ」
「「「キャアァァーーーーッ!!!」」」
液体はドロリドロリと男の顔全体を呑み込むように垂れていく。
肉が焼けるような音と臭いを発しながら、男はもがき苦しむ。
だが周りの女や取り巻きは彼をどうすることもできず、ただ黙って見ている他なかった。
やがて声も発さなくなった男は、ガクガクと膝を震わせて地面に倒れるのだった。
時間帯は真夜中。
ネオンの光で昼のように、いや、昼時以上に明るい街は、闇の世界である黄泉からやって来た鴉にとって居心地が悪かった。
テナントも入らず、廃墟となった四階建ての建物の屋上にて、鴉は遠い空に羽ばたいていく鳥を見つめている。
「……黄泉の香り」
真っ黒い軍帽と軍服、コートに身を包んだ男は呟く。黄泉の香りは、あの鳥の方角から漂っている。
探していたのはアレだ。
黄泉の国から逃げ出した、既に亡き者である妖怪。
鴉はビルから飛び降りると、鳥の妖怪を追って駆け出した。
───────────
「はーー。こりゃひでぇな」
人目につかない路地裏で、男が呟く。
頭が溶け、肩あたりの骨が丸見えになっているという凄惨な死体を見下ろしながら。
しかもそれは一つだけではない。
男の死体が二つ、女の死体が一つ。
交番に駆け込んできた男女三人の通報を受けて、来てみればこんなホ・ト・ケ・が散らかっていた。
ベテランの刑事でも、流石に驚きを隠せなかった。
「なんだっけ。空から何か降ってきたかと思ったら、それに当たった奴らが溶けて死んだ……んだっけ?」
「ええ、そういうことだそうで」
「溶かしたブツの正体は?」
「強力な酸性の薬品であることはわかりました。しかし、更に詳しい特定までは……」
「んなもんシロートでもわかるわ……」
死亡してからの経過時間は三時間。
警察署の近い歓楽街での事件ということもあり、刑事と鑑識の到着も早く、さっそく事件現場の検証が行われていた。
しかし始めたばかりということもあり、現場に居合わせた六人中三人が死亡し、争った形跡なども無いことから進展はほとんどなかった。
「交番に来た三人とホトケの三人。それ以外はこの路地に近づいてないことは監視カメラの映像でわかってる。だが……」
「この場所自体はカメラに映らないこと……ですか」
「察するにナンパ中だったんだろーな。男女の人数然り、場所もそうだ。この男の財布の中身もパンパンだった。多少強引な手を使ってもバレづらいよう、ここに引っ張ってきたのかもな」
「しかし、そうなるとホシは?」
「あの三人の中にいるに決まってんだろ。もしくは、三人全員か。この男、毛利商事の上層部の関係者らしい。金のトラブルかもしれないな」
「へぇ、あの毛利商事の……」
刑事と鑑識の一人がそのように話している中、別の刑事が死体の近くである物を発見した。
彼女が手袋をして摘み上げたそれは、黒い鳥の羽だった。
「……ん? おい、加山! 勝手にいろいろ触ってんじゃねえ! 現場を荒らすなとどんだけ言やわかるんだっ」
「長濱ながはま刑事」
「あ?」
「犯人の目星がつきました」
加山と呼ばれた女性は、摘み上げた羽を男性刑事、長濱の目の前に突き出して言った。
長濱と先程まで喋っていた鑑識は、加山の言葉を聞いて頭に疑問符を浮かべる。長濱はというと、「また始まったよ……」と頭に手をやった。
「……一応聞いてやるよ。誰なんだ?」
「人・で・は・な・い・者・の仕業です」
「「…………」」
加山の答えを聞いた二人は顔を見合わせ、沈黙。
共に行動することの多い長濱からすれば、加山のこうした発言はむしろ平常運転だ。だが、それはそれとして当然のことながら彼女には辟易としていた。
「人を一瞬で溶解させ殺すこと……。薬品を使うにせよ、人間でも困難です。あの三人や、周囲を調べてもそうした薬品を所持していた形跡はありませんでした」
「そうだな。持ってはいなかった。処分した可能性は高いがな」
「交番に来た三人がグルで、薬品を用いて殺害したとしましょう。しかし彼ら六人が争った形跡もありません。被害者のうち二人は男性ですが……抵抗も許さずに殺せるものでしょうか」
「さあな! それを今検証してんだろうが!」
長濱は加山に苛立ちを見せ、怒鳴る。
しかしそんな彼を意に介さず、加山は頭上に掲げた羽と、建物に挟まれた夜空を見上げて口にする。
「あの三人は言っていました。空から液体が降ってきて、それが彼らを溶かし殺したと。この羽の持ち主こそ、その犯人だと考えます」
加山の直感はそう言っていた。
この黒い羽も、自分たちの知る生き物のものではない。
自分たちの想像を超える何かが、この『東饗とうきょう』にいる。
その痕跡に違いないと、加山は信じて疑わなかった。
2.鴉の舞い降りる夜
「はいはい……。ったく、お前、なんで刑事部に入ってこれたんだ……」
長濱は加山の話を軽く流し、呆れてそう言った。
確かに最近この東饗、特に都内ではこのような怪死事件が相次いで起こっている。
昼夜問わず、ただの刺殺や撲殺のような殺害方法ではなく、今回のようにドロドロに溶かされる例もあれば体の一部が抉れたように消えている死体もあった。
あくまでも冗談として「妖怪の仕業だ」と言う者もいないこともないが、この加山は違う。彼女は本気で言っているのだ。
「しかし長濱さん、他の事件も同様ですが、本当に人間による犯行だとお思いなんですか?」
「ああ?」
「三日前の歌武伎町かぶきちょうでのボヤ騒ぎは、監視カメラで通行人に火の玉が降り注いだ場面がハッキリ映っていました。その前には上半身を食いちぎられたような死体が下水道で発見されています。東饗に何かがあるのは間違いな──」
「だああっ、うるせえうるせえ! おめえのオカルト好きはわかったよ! だがな、そんな非科学的なもんあり得ねーんだ。今は2040年だぞ? 科学で何でもわかる時代に、俺ら警察が迷信だの幽霊だの化け物を信じていいわけあるか!」
「しかし……」
「話は終わりだ。おい! 加山こいつつまみ出せ!」
加山はその後も長濱に何か言おうとしていたが、命令された他の警官に阻まれて現場の外に追い出されてしまった。
その時手に持っていた羽をつい落としてしまったが、他の誰かに拾われる前にまた手にし、加山は仕方なくその場を離れるのだった。
───────────
加山優香かやまゆうか、27歳。
大学卒業後、警察学校に入学。その卒業後すぐさま上司の推薦で刑事講習を受け、24歳という若年で優秀な実績を積んで刑事部に入った。
元々優秀な人物として周囲に知られ、それ故に刑事部に迎えられたわけだが、実際には長濱が呆れていたように非科学的な存在を信じて疑わない、風変わりな警察であった。
ただし実績が無いわけではなく、全ての事件の犯人を人ならざるものと見なしているということはない。
あくまでも、こうした怪死事件についてのみこのように結論づけている。
「はぁ……私でもわかってる……。そ・ん・な・こ・と・、絶対信じてもらえるはずがない。でも、確かにいるんだから」
加山は羽の付け根を摘み、くるくると転がして回転させる。他意は無く、ただの手遊びだ。
「妖怪はいるんだから……」
彼女がそう信じているのには理由がある。
子どもの頃、彼女は東饗の端、輝く都内ではなく今も尚緑豊かな郊外に住んでいた。
近くには山や森があり、男子たちに混ざってよく虫捕りやザリガニ釣りに行っていた。
ある日のこと、彼女は山の中に一人で入っていった。理由は思い出せないが、そう大した用事でなかったことは確かである。
小学校に入ったばかりの時だろうか。まだ小さかった彼女は、木々の間に毛むくじゃらの何かが動くのを目にした。
『……なに、お猿さん……?』
子どもの目線は低い。それを加味しても、その何かは大人よりも巨大で、恐ろしい存在であることは本能で理解できた。
そしてそれは、熊のように大きな猿だった。
大人の今ならわかる。そんな猿は存在しない。
人智を超えた生物に他ならなかった。
『ウオォォオオオオオオオオオオオオオ!!!』
『あ……ぅ……』
猿は耳が潰れそうな声で雄叫びを上げた。
体の大きさもそうだが、手の鋭い爪、そしてそのとてつもない音圧に幼い加山は完全に動きを止めてしまう。まるで金縛りにあったかのように、体が言うことを聞かなくなってしまったのだ。
猿は彼女を八つ裂きにしようと腕を振り上げる──
『え……』
瞬きはしていない。
だが、加山は目の前で何が起こったことを理解できなかった。
自分に襲いかかってきた巨大な猿の首が、ズルリと滑り落ちる。その切断面からは真っ赤な血が噴き出していた。
そして、目の前には誰かが立っていた。
『大丈夫か?』
『っ…………』
『……まあ、驚くのも無理はない。視・え・て・い・る・ん・だ・な・。可哀想に……怖かったろう』
顔はハッキリ見えなかった。
だが、その人物が黒いマントかコートのようなものを羽織っているのは今でも鮮明に思い出せる。
そして、彼が纏っていた独特の匂いも。
その男は自分に猿の血がかからないよう、自分と猿の間に立って壁になっていた。
これだけは理解できた。彼は、自分を守ってくれたのだ。
『私には仕事がある。だから、君を守り続けることはできない。しかし君は本来目にすることのできないものを、視ることができる。その力は、妖怪から自分や誰かを守る為に使いなさい』
「……誰かの為に……」
加山にとってその言葉は、自分の中心に在り続ける核のようなものだった。
人間の犯罪者を捕まえたり、犯行を防いだりするだけではない。警察になれば、人々に危害を加える妖怪のことも事件と共に追うことができる。
そう考えたから、警察に入ったのだ。
おそらく自分が出会ったあの男は、妖怪を狩る者だったのだろう。
自分は妖怪が視えるだけ。きっと倒すこと、追うことはできない。
妖怪を追いたい。妖怪から守りたい。だが、長濱の言葉もまた事実であり、認めなくてはならない現実。
「……私、なんで警察でい続けてるのかしら」
今までもこうした挫折はあった。だが、今回は特に酷い。
加山からすれば、あの死体の有様は明らかに人間によるものではなかった。
人体を一瞬で溶かせる薬品など滅多に無い上、そもそも入手も困難。
手に入れられたとして、それを入れていた容器や持ち運び方は?
あの人数がいて簡単に殺せるものなのか?
だが、警察の人間はそれが絶対に人間の犯行だと信じている。
あるいはそう信じたいのかもしれない。
言うまでもなく、加山と警察の相性は最悪だった。
周りの人間が自分に向ける冷たい視線も、今までは信念によって跳ね除けられていた。
だが、それにも限界はあった。
(もう……やめ時なんだろうな)
ピッ──
「え?」
「香りを追って来てみれば、ただの羽か」
加山の手にあった羽がいきなり取り上げられる。
ハッとした加山が顔を上げると、目の前に男が立っていた。
真っ黒い軍帽とコートに身を包んだ、自分よりも少し若く見える青年。
身長170cmの自分がやや見上げるほどの背丈だが、近づいて来るまで一切気がつけなかった。
「本体は別の場所に……」
「あっ、コラ、待ちなさい」
男は羽を手に持ったまま、加山に背を向けて行こうとする。
もちろん加山は呼び止めるが、彼は完全に無視を決め込んでいた。
「待ちなさい!」
加山は男の肩を掴んで振り向かせる。
流石にこうすれば男は反応せざるを得なかったが、彼は自分を呼び止めた加山にひどく驚いた表情を向けた。
「……視えるのか?」
「え? 視えるって……」
加山が言いかけた瞬間、視界の端から通行人が姿を現す。
そしてその人は加山の目の前を──男の体にぶつかっていくように──通り過ぎる。
男も通行人もどちらも気にしていない。彼らはすり抜け、それを一切意に介していなかった。
「なっ……!?」
「……なるほどな。久しぶりに会った。こういう奴には」
「い、一体……あなたは」
「この羽、どこで拾った?」
加山の言葉に耳を貸さず、男は一方的に問いかける。
「近くで、殺人事件があったのよ……。その現場に落ちていたものよ」
「殺人……。もう誰か殺やったのか。近くに子どもはいたか? 幼い子どもだ」
「……? いえ、被害者にはいなかったわ。全員成人済み……」
「なら、もっと殺すだろうな」
男はまた加山に踵を返し、どこかへ向かおうとする。
加山は彼から感じ取っていたものがある。古い記憶の中に刻まれた、忘れることのない匂・い・。あの枯れた草のような、葦のような匂いが、この男からも漂っていた。
確かめずにはいられなかった。
「あなたは!? あなたは……誰なの!?」
男は足を止め、口にした。
あの遠い記憶の中の男と、同じ言葉を。
「黄泉の神の遣い、鴉からすだ」
3.鴉の使命
「鴉……」
鴉と名乗った男は再び歩き出す。
だが加山は彼を行かせようとはしなかった。
「ちょっと待って!」
「何だ」
「鴉って、何なの? 私はあなたのように鴉を名乗る人と二十年前に出会ったことがあるわ。彼は、私を妖怪から助けてくれた……。あなたたち鴉って、一体何をしているの!?」
「…………」
二十年前の夏のあの日。
猿の化け物を倒し、自分を助けてくれたあの男。
加山は彼の言葉と面影だけを頼りに、今まで生きてきたようなものだ。
今目の前にいる、同じく鴉と名乗る人物を逃すわけにはいかなかった。
自分を保つためにはそうすることしかできなかった。
「それを聞いてどうする」
「どうもしないわ……。でも、私はどうしても聞きたいの。私は妖怪という存在を知っている。私は妖怪を視ることができる! あなたのような鴉に助けられてから、私は自分の力を人のために役立てたいと思って生きてきたわ。あなたも妖怪を倒しているなら、どうか、協力させてほしいの……」
「協力はいらん。そして一つ勘違いを起こしているようだからそれも訂正しておこう」
鴉は加山に向き直る。
「俺たち鴉は、人間お前たちを妖怪から助けるために妖怪を狩っているんじゃない。もしお前が他の鴉に助けられたというのならそれは偶然か、物好きな奴に逢っただけだ」
「じゃあ、なんで妖怪を……」
「さっきも言ったが、俺たちは黄泉の神の遣いだ。神の命により妖怪を殺して回っているに過ぎない。俺たちの事情はわかったな」
過去に鴉に会ったきり、加山は彼らに幻想を抱いていたのかもしれない。
危機に陥った人々を助ける、ヒーローのような存在として。
だが、現実は違った。
妖怪狩りはただの任務。
そこに情はなく、自分を助け、言葉をくれた鴉はただの物好き。
誰にも知られず人を襲う妖怪の存在を認知しながら、何もできない自分を結局変えることはできなかった。
彼女はただ、よすがにしていた信条を打ち砕かれたのだった。
「黄泉の国は死んだ妖怪が向かう場所だった……。だが黄泉はそこまで広くも頑丈でもなく、妖怪共も争い、耐えきれず黄泉は妖怪を溢れさせた。神は俺たちに溢れ出た妖怪を追わせ、再び殺して連れ戻すことを命じたのさ」
「なら、私もその手伝いをするわ。結局妖怪を倒すっていうのなら、私とも目的はあっているもの!」
「どう手伝うんだ? よく見なくとも、お前が戦える存在でないことはわかる」
「それは…………」
「お前にできるのは首を突っ込まないことだ。変に騒ぎもするなよ。人を救いたいなら、余計なことはしない方がいい。そうしていれば、夜に紛れて俺が奴らを狩ってやる」
鴉は止めた足を再び進め始める。
何も言えなくなった加山は彼を引き留めず、絞り出すように口にする。
「私は……妖怪の情報を持ってるわ。きっと役に立つ」
「結構だ。それも自分で集める」
街の光の中に鴉の姿は消えていった。
夜の闇のように暗い彼の服装は、ネオンの中では逆に目立っていた。
しかしそれでも、彼を認識できているのは加山だけだった。
闇をその目にしていられるのは、彼女だけなのだ。
───────────
(さて……や・つ・を見つけるには人間の密集地を巡る必要があるな)
加山と別れた鴉は、再び建物の上に登って街を見渡す。
妖怪を追う手がかりは二つある。
一つは黄泉の香りだ。
黄泉の国から溢れ、逃げ出した妖怪たちは黄泉を覆うように茂る葦、その香りを纏っている。
つまりそれを追えば、本体に辿り着くことができるわけだ。
しかしあくまで匂いであるため、消えることもあれば逆に利用されて煙に撒かれることもある。
「黄泉の香りは空に途絶えた。これ以上は追えない。俺も飛べれば良かったんだがな……」
鴉はその名前によらず、自力で飛ぶことができない。
人間を遥かに凌駕する身体能力を持つが、それでも飛翔には翼が必要で、鴉はそれを持っていない。
『翼なき鴉』とは、妖怪が彼らを揶揄する言葉だ。
「かと言って、追えるほど奴の『妖力』は強くない。奴の行きそうな場所に先回りするしかないか」
全ての妖怪は『妖力』を発する。
これは魂の仕組みによるものだ。
あまねく魂は『霊力』を発しており、これが肉体を動かすエネルギーとなる。
死とは魂が失われることではなく、その霊力が底をつき肉体を動かせなくなった状態を言う。
では妖力とは何なのか。妖怪の定義とは、魂から発する霊力を妖力に変換でき、自力で妖力を発することができる存在とされる。
妖怪の起こす人智を超えた現象や力は、この妖力が源泉である。
妖力が強ければ強いほど妖怪としての格も上だが、全ての妖怪が目立つほど妖力を発するわけではない。
発する妖力を隠せる妖怪もいる。ただ単に妖力が弱すぎる場合もある。
今鴉が追っているのは後者だった。
「人間は夜に眠ると聞いているが、これでは話が違う。もう夜明けまで二刻程だというのに、人間は未だに明るい街を練り歩いている。これではあの鳥の行く先を推測することもできん……」
鴉の推測によれば、件の鳥の妖怪は人間の子どもを狙う『姑獲鳥こかくちょう』。向かうとすれば、時間帯も考えて人間の居住区である。
しかし鴉が見下ろす歓楽街にそんな場所はない。あるとしても、せいぜい子・ど・も・が・い・る・は・ず・の・な・い・ホ・テ・ル・ぐらいだ。
この辺りの地理についてあの女に聞いておくんだったと、鴉は今更ながら後悔する。
(姑獲鳥が狙うのは子どもと女だ。若い女を子持ちと疑い、狙ってくるか?)
酔っているのか、ふらふらと歩いている女が目に入る。ぱっと見は二十代で、幼い子ども、赤子ぐらいならいても不思議はない女だった。
鴉がこう考えるのには理由がある。姑獲鳥の習性だ。
子どもの泣き声を真似、反応した女を殺して子どもを奪う。
何も子どもを喰い殺そうというわけではなく、自分の子どもとして育てようとする。
子どもと一緒にいない女まで狙うかはわからないが、男に反応しないのは間違いない。
加山から聞いた死体の男は、運が無かっただけだろう。
「……うん?」
鴉が思案していると、突如遠くからけたたましい音が響き渡ってきた。
音のする方へ顔を向けると、赤い光を輝かせながら道を走る、白く見るからに硬そうな塊が目に入った。
そして鴉は気がつく。
「黄泉の香り……!」
音と光を発するそれは、あの葦の香りを纏って走っていた。
何かがその中にいると確信した鴉は、屋上から飛び上がり、時速60kmで走る救急車の上にドンと着地。そしてフロントガラスに貼り付き、その中の様子を探った。
目に入ったのは白い服とヘルメットを身につけた人間が数人。そして彼らに囲まれる、横たわった一人の女。
(あれは……)
カーテンに視界が阻まれている箇所があり、一瞬しか見えなかったが、鴉はあるものを見つけた。
女の服の上に、赤い血のような液体で描かれた四本指の鳥趾の紋様があったのだ。
姑獲鳥は狙った標的に、自身の血を使ってマーキングをする。つまりこの女は、今まさに姑獲鳥に狙われている獲物というわけだ。
棚からぼたもちとはこのことである。
「運がいいな。この女を張っていれば、奴にありつける」
鴉は救急車の上に貼りついたまま、共に病院へと向かう。
運が良いとは思ったが、彼はそれ以上は目の前に転がり込んできた姑獲鳥のヒントを疑うようなことはしなかった。
誰かの策謀であることなど、まるで。
「……また新しい鴉がやって来たか」
高層ビルのとあるフロア。
中央に机とオフィスチェアを置いた広い一室で、煌めく街を一望しながら男が呟く。
滑らかで一切のくすみのない整えられた金髪。
絹のように真っ白で綺麗な肌。
そしてスーツの胸元にある、九つの房が一端で束ねられているデザインの金色のピンバッジ。
その美しい姿を一目見れば、否が応でも記憶に残るだろう。
「楽しませてくれよ。他の鴉たちよりも出来るだけ長く、生き延びてくれ。最初が姑獲鳥と魃ばつでは、難しいかもしれないがね……」
男は不敵に笑う。
彼こそが日本の支配者が一角。四大財閥『Nined Tailer Corp.』社長、玉藻草司たまもそうじ。
4.『日照り神』
救急車が到着した病院は『東饗政樹病院とうきょうせいきびょういん』。
私立の大病院であり、四大財閥である『NTC』社長が同時にその理事長を務めている。
一日の外来患者数は1500人にのぼり、病床数は413、診療科も39科、医師数も200人を超える大規模な病院である。
中でも脳外科の治療実績は国内トップであり、手術治療が難しい脳深部の腫瘍、脳動脈瘤、難治性てんかんといった難治療症例に対してガンマナイフや神経内視鏡等、最新の手術機器を駆使して治療にあたっている。
頭部挫傷と意識障害から目を覚まさない女性は緊急入院となった。処置を終え、彼女は広く機器の並んだ部屋にて寝かされることになるが、鴉はずっとそれについて回り、姑獲鳥の襲撃に備えていた。
(……なるほどな。妊婦だったのか)
腹部に付けられた、鳥の足の形をした血の印。
それは姑獲鳥がターゲットに決めた者に刻まれる。
救急車の外からは服の上から付けられているように見えたが、どうやら染み込んで腹の皮膚まで濡らしたようだ。
この血は中々落ちない。
運ばれた彼女の腹は膨らんでいた。
脂肪ではなく、張りのある膨張であったことから鴉は女性が妊婦であるとわかったのだ。
(姑獲鳥が……腹の中の子どもまで狙うなんて話は聞いたことがないが……。中にいるのは二人目か?)
鴉は訝しむ。
それに姑獲鳥がマーキングするのは基本人間ではなく、外に干してある衣服や布団である。
街中で歩いているのを見かけて女性本人にマーキングしてしまったのか。
真相が何であれ、姑獲鳥が彼女を狙ってやって来るのは確実である。
彼女の側で待ち続ければ、獲物は自分からやって来る。
一つ問題があるとすれば、戦いの舞台。
この場所に姑獲鳥が訪れ、交戦すれば、命の危機に瀕した女性含め周りで寝ている患者たちも巻き添えになる。
「はぁ。さっき変・な・の・に会ったせいで、余計なことを考えちまうな……」
妖怪が視えるという女の警官。
正確に言えば、妖怪というよりは妖力や霊体を目にすることができるということになるが。
姑獲鳥のように、黄泉から復活し実体を得て生きている妖怪は誰にでも視える。
しかし鴉のような実体なき霊体や、一部の特殊な妖怪、妖怪の操る『妖術』は霊力の高い人間にしか目にすることはできない。
彼女はそんな自分の力を人々のために役立てたいと言っていた。
だから鴉である自分と協力しよう、と。
鴉の役目は妖怪を殺すこと。人助けではない。
だが彼女の言葉が妙に引っかかって、病床に伏している患者が目に入る度に彼女の顔を思い出す。
必死で、あと少しで泣きそうだった顔を。
「人助けは、神の命には無かった。俺には関係ない」
鴉は自分に言い聞かせるようにして呟くのだった。
『玉藻様……。鴉が到着しました。いかがしましょう』
『タイミングは任せる。楽しませてくれよ、魃ばつ。心配はしなくていい……。メディアは金を握らせればいくらでも弄・れ・る・。姑獲鳥と一緒に暴れろ』
『は……』
「…………!」
姑獲鳥を待ち侘びていた鴉は顔を上げる。
彼の鼻を、嗅ぎ覚えのある匂いが撫でたからだ。
そう……
「来たな」
黄泉の香りがICUを満たす。
患者たちには嗅げもせず、身体に何の影響も与えないが、鴉の鼻は敏感に反応した。
離れた位置にいる看護師たちも一切気がついていない。
匂いはどんどん強くなる。
間違いなく、黄泉から復活した妖怪がこの空間に近づいてきている。
そしてそれが姑獲鳥なのはほぼ確定だ。
入り口は三つ。
病床からして左右に一つずつと、真正面にある小さめのドア。
看護師が主に出入りする箇所である。
(……あそこから来るか)
向かって右方向にある両開きの扉。そこから漂ってくる匂いが特に強い。
二人分の足音が近づいてくる。人に化けて女性に近づくつもりかと鴉は予想。
腰に差した刀に手を掛け、いつでも抜刀できる準備をした。
扉が開き、入って来たのは白衣を着た男性医師と看護師の女の二人組だった。
「先程、ご家族の方と連絡がつきました。山崎静香さん、28歳。現在妊娠32週で、初妊婦です。旦那さんがもうじき到着すると……」
「夜更けに妊婦が一人で出歩くなんて、私には信じられんよ。何をしてたんだろうな。身内も連れずに」
「それは……わかりませんが……」
「……夫に内緒で秘密の遊び、か。その結果、建物からの落下物で運悪く頭部外傷……」
「先生、止よしてください。定かではないんですから」
「はは、そうだな。まぁ……今のところ経過に問題はない。脳圧が、少し高いぐらいだが」
「注意しておきます」
「それと……」
「鴉が紛れていたら始末するように──」
スパァァァァンッ!!
「!!? キャァァァァァーーーーッ!!」
二人は会話しながら並ぶ患者たちの前を歩いていく。
そして鴉と女性の前を通り過ぎようとしたその瞬間、医師の右腕が背中側へ大きく湾曲する。
人間ではあり得ない挙動で、しかもその右手には鋭い爪が伸び、鴉の顔面へと襲いかかった。
「男の方だったか。だが……」
しかしその凶爪が彼の顔を引き裂くことはなく、逆に医師の右腕が血を撒き散らしながら宙を飛んだ。
抜刀した鴉が、腕を斬り飛ばしたのだ。
真横で医師の腕が飛び、その鮮血を浴びる看護師は当然悲鳴を上げる。それに気がついた他の看護師も異常に気づき、どよめきが起こる。
「うぎっ……ぎっ……。ぎィガァァァッ!」
「ヒッ……あぐっ」
右腕を失った医師は体をふらつかせながら、横にいた看護師の顔を左手の爪で切り裂く。
倒れ伏す看護師。
周りの看護師は悲鳴を上げてICUを飛び出すか、壁に取り付けられた電話機でどこかへ連絡を始める。
「何者だ。姑獲鳥ではないな。獣人のような姿をしているが?」
医師の左腕。その袖からは茶色い獣のような体毛がはみ出ていた。
そして鋭い爪に、背中を丸めた猫背。そして、虚な表情で鴉を見つめている。
正体は掴みきれないが、姑獲鳥ではないことは確かだ。
「ぎィ〜〜〜〜……。反応が、良い。お前、他の鴉、より、強いな」
「…………」
「何か、喋ってみろ」
「命令する前に俺の質問に答えろ。何者だ、お前は」
「ぐっ、ふっふっふっふ。言わなくとも、そのうちわかる。感じるか? 俺が、放っている妖力が、満ちていく。この部屋に。病院全体に」
鴉には確かに感じ取れている。
むず痒い、微風のようなものが自分の脇を吹き通っていく。
何とも感じの悪い、気持ちの悪い悪風だ。
妖力にはそれを発する主である妖怪の特色が現れる。
相手が何の妖怪かわからずとも、その妖力の性質に触れることで、鴉たちは相手の戦い方や弱点を推察することができる。
目の前の獣人のような妖怪の妖力は、温ぬるく乾燥した風のようだった。
「何をするつもりだ」
「お前を、殺す。喜ぶお方が、いらっしゃる」
「喜ぶお方? それも聞かせてもらうが、俺は今からお前がしようとしていることを──」
鴉は口をつぐむ。
目の前の妖怪の妖力に触れている感覚は今もあるが、別の違和感が生じてきたのだ。
ふと気がつくと肌が乾燥していた。唇にヒビが入り、声を発し唇が動くごとに針で突いたような痛みが走る。
先程までそんなことはなかったというのに。
「ぐっふふふ、やっと、気がついたか」
「…………乾燥の力……」
(まさかこいつ……『魃ひでりがみ』か?)
魃。読み方は「ばつ」、あるいは「ひでりがみ」。
中国から渡ってきた、旱魃を引き起こす獣人型の妖怪である。
大旱魃を起こし、その土地を雨の降らない地に変える獣。人々の生活圏に存在していれば、甚大な被害を引き起こす。
それが病院という、よりによって弱った人々の集まる建物の中にいるのだ。しかも、ICUに。
周囲の空気は乾燥し始めている。そして、気温もどんどん上がりつつある。
鴉も汗をかく。温い汗が頰を伝い、清潔を保つべき床に垂れた。
「ぐふっ、ひっひっひっひ……! さあ、始めようか。お前の血と、首を、あのお方に捧げよう」
「……さっきから言う「あのお方」というのは、お前の主人か?」
「ああ……。そう、だな。言うなれば、俺たち妖あやかしの王たるお方……。彼こそ、全ての支配者に相応しい。だから、俺はあのお方に全てを捧げる……」
湿度計が10パーセントを下回ろうとしている。
温度計は35度の目盛りを超えた。
ようやく看護師の通報が伝わったのか、それとも魃が引き起こす異常の現象のためか、室内にブザーが鳴り響く。
それは開戦の合図となった。
5.乾きと熱の妖
「しぃやァッ!」
鴉が魃の喉元に向けて斬り上げる。
しかし魃は後ろに飛び退き、刃は宙を切る。
「ぐっ、ふっふっふ。さっきの一撃は、小手調べだ。俺はお前、より、ずっと速い」
「かもな。お前は風のように走ると聞いている」
片腕を失い、バランスはとりづらくなっているはずだ。
しかし、魃の身体能力に陰りは見えない。
加えて、切断された時も悲鳴の一つも上げはしなかった。
攻撃を当てづらく、加えて痛みに疎いのは厄介だ。ほぼ確実に長期戦になる。
それに、魃の力を考えればタイムリミットも……
「なっ……! ひ、日向ひゆうが先生!? 何をしているのです! ICUで暴れるだなんて」
「「!」」
扉がバンと開き、看護師と医師、警備員が数人部屋の中に飛び込んできた。
片腕がなく、もう片方の腕も毛に覆われているのがわかっているが、まだ魃の姿は人に近いまま。
彼らは鴉と向かい合う魃を自分たちの知る医師だと疑わず、二人の元へ駆け寄っていく。
「ふっふっふ……」
「! 魃、何をする気だ」
「しゃあアァァァッ!!」
「うわあああっ!?」
「ひぃぃぃぃッ!!」
「やっ、やめなさい! 取り押さえるぞっ」
「はいっ!」
魃は鴉を無視し、医師たちに飛び込む。
残された左手をムチのように振るい、彼らの体をズタズタに引き裂いていく。
魃を抑えようとする警備員たちも、妖怪のパワーには流石に敵わず、腕に組みつこうともすぐ振り払われて胴体を抉られる。
「……好機……!」
戦いの最中に相手に背を向け、ただの人間に襲いかかっていった理由はわからない。
だが、鴉からしたらそれはチャンスに見えた。
獣毛で覆われかけている頸を狙い、鴉は魃の背中に飛び込んだ。
「誘われたなッ!」
「うぐぅ!?」
魃は振り向きざまに引き裂いた医師の胴体を鴉に投げつけ、彼の攻撃を妨げる。
刀を振る腕を止められ、宙で当てられたために体勢も崩してしまう。
魃にとっての好機だ。
飛び膝蹴りを鴉の顔に浴びせる。
「っ……! だが誘われたのは、お前もだぜ」
ドスゥッ!
「うがッ」
鴉も負けてはいない。
膝蹴りを喰らった瞬間魃の軸足に刀を突き刺し、彼の動きを止める。
怯んだ魃の鳩尾に、思い切り拳をめり込ませる。
横隔膜がひっくり返り、魃は唾を撒き散らしながら吹っ飛んだ。
周りの患者に繋がれた機器をめちゃくちゃにしながら、管やコードを巻き込んで。
「ガハッ……ぐぅ……!」
「…………」
腹を押さえて立ち上がる魃。
蹴りを喰らい、腫れ始めた頰を指で撫でる鴉。
人工呼吸器や透析機器が外れたりした患者の絶命のカウントダウンが始まる。
心電図が繋がった患者も同じく、ブザーがけたたましく鳴り始める。
「はぁ……はぁ……鴉、人間を巻き込んででも、俺を殺すつもり、か」
「お前を殺すのが俺の仕事だ」
「なるほど……。人間の命は、どうでもいい……。無辜なる民が、どうなろうとも、使命を全うする、か。お前も、妖あやかしと同じだな」
「…………」
鴉の良心を煽り、隙を作ろうという魃の作戦だ。
しかしそれが通じる相手ではない。
彼の挑発は黄泉の国と神に関わる文言だ。
黄泉の住民は部外者である妖怪から神に守られていた。黄泉の罪なき住民たちは、そうして生きていた。
鴉の正体とは、黄泉の本来の住民である。
しかしいざ自分たちが戦うとなれば、自分たちの境遇と人間を重ねることはせず戦いに巻き込み、犠牲を出し、ただ命じられたことだけを遂行する。
良心の呵責もない鬼畜だと、魃はそう非難している。
「ふん。本当に、どうでもいいらしい。それなら、俺も、容赦する必要はないな」
「どういう意味だ」
「この病院にいる人間どもは、お前への人質に、でも、しようかと思っていた。だが、お前にそれは、通じない。だから……本気を出す」
直後、魃から勢いよく熱波が放出される。
周りの機器が吹き飛び、蛍光灯が割れ、ガラスにはひびが入る。温度計は60度近くまで針が振り、湿度計は0パーセントに達しかけるほどである。
「ぐ、うッ……!!」
(な、なんて熱さだ……!! 熱と乾きで、まともに目を開けていられん……!)
バリバリと皮膚がひび割れ、繊維も千切れて血が流れる。
しかしその血もすぐに凝固する。
熱波の勢いは弱まらず、やがて窓ガラスは全て割れて破片が外へと散っていった。
病床もガシャガシャと音を立てて押し除けられたり、倒れていく……
「……くそッ!」
このままではまずいと、鴉は目を瞑ったまま刀を握り、魃がいた位置へと飛びかかる。
脳天から叩っ斬るつもりで刀を振り下ろすが、手応えはなかった。
(まずいっ……攻撃をもらっ──)
躱されたと判断した鴉は間髪入れずに刀と腕で頭、上半身を守るように覆う。
しかし、魃のあの爪の攻撃が彼を襲うことはなかった。
しばらく警戒を解かなかった鴉だが、吹き荒れる熱風がその勢いを弱めていったことから、彼はようやく目を開けて周りを確認する。
「消えた……」
魃の姿は既に部屋の中には無かった。
めちゃくちゃな暴風で天井や壁の一部が剥がれ、機器は散乱し、ベッドから吹き飛ばされた患者たちが部屋の隅に横たわっていた。
あの妊婦も、熱波で壁に吹き飛ばされて叩きつけられたのだろう。
しかし彼女は他の患者とは違い、体を丸めて腹を抱える姿勢となっていた。
子どもだけは何とか守ろうとしたのだろう。
「…………」
鴉はそんな彼女の元に歩み寄り、肩を揺する。
だが反応はない。喉元に手をやるが、脈は既に途絶えていた。
「…………悪かった」
独り呟く。
鴉の使命だけを全うする。
それを心に決め、犠牲は割り切って考えていた。それが、自分が存在し続けられる唯一の方法だとして。
しかし、彼・女・の非難は至極真っ当である。死して尚、子どもを想って自身の腹に手をやり、鴉を睨みつける母親の霊の訴えは。
周りの死体にも目を向ける。
皆、己の体の側に立ち、鴉にじっと視線を送っている。
心の底からどうでもいいと思っていたわけではない。
だが、妖怪を殺すこと、虐げられる人間を守ることは両立することができない。
どちらかを捨てなくては、もう一方を成就させることも叶わない。
鴉はそう信じていた。
人を助けた別の鴉がいた。
彼は巨大な山椒魚の妖怪と交戦していた。
大きく裂けた口の中に呑み込まれかけていた女性。
彼女を助けるために、鴉は妖怪の口の端に刀を突き刺し、さらに口を裂くことで怯んだ隙に彼女を引っ張り上げる。
だが妖怪の口の側にいたがために、鴉は妖怪に食われ、噛み砕かれて死んだ。
また別の鴉は、子どもを助けた。
猿の妖怪を殺して子どもを助けた彼は、その妖怪の群れの総攻撃を受けて死んだ。途中で参戦した数人の鴉も、嬲り殺された。
鴉は妖怪を殺すことが使命だ。
人間を助けることが使命ではない。
使命を神より与えられ、戦いを強いられる運命。
それはきっと悲劇だろう。運命を受け入れて、己の命を他者に捧げるか。使命のために他者を捧げるか。
安寧を取り上げられ、死と隣り合わせの世界に放り込まれた。それが鴉だ。
一体ど・ち・ら・が・正・し・い・の・か・?
「俺はあの妖怪を殺すことしかできない。あれを殺すためにお前たちを切り捨てたのは、確かに俺の罪だ……。恨んでくれ」
理解してくれとは言わない。
自身の行いが、彼らにとって悪そのものであることも否定しない。
守らず、見殺しにしたのは事実なのだから。
鴉は刀を鞘に納めて、部屋を出て行く。
魃を見つけ出し、その首を斬り落とすために。
───────────
「あ……あれは……!?」
医師が看護師を殺傷したと通報を受け、一度警察署に戻っていた加山は東饗政樹病院に駆けつける。
既に周囲にはテープが貼られ、病院の敷地への侵入は止められていた。
他の警察も何人も駆けつけており、パトカーで病院は包囲されている。
病院に来ていたのは警察だけでなく、野次馬にマスコミ、さらには消防士も集められていた。
「どうなってんだ、こりゃあ……!!」
長濱もパトカーから降り、加山の隣で驚嘆の声を上げる。
彼らの目の前に広がっていたのは、窓ガラスのほとんどが割れ、ところどころから火と黒煙が立ち昇る、大病院の姿だった。
6.その者だけの使命
「嘘だろ……とんでもねえ火事じゃねえか」
病院を見上げ、唖然とする長濱。
通報の内容は勤務していた医療者の死傷と、爆発と火事。
そして実際それは起こってはいるわけだが、想像していた様とはかけ離れていた。
ガラスの割れた窓から火と煙の昇る箇所はいくつもあり、まるで複数の爆弾が起爆されたかのよう。
「おい、患者とスタッフの避難状況は?」
「それが、全くと言っていいほど進んでおらず……! ほとんど中にいる状態かと思われます。消防は突入準備を終わらせつつありますが」
「とっとと突入させろ! んで、加山ぁ!」
長濱はテープを潜ろうとしている加山に怒鳴る。
「長濱さん、時間はかけていられません! 煙の上がっている場所は複数、そして窓はほとんど割れています。被害は外から見えるよりもずっと深刻なことは明白です! 急がなければ死傷者は増えるばかりですよッ」
「だからってお前を突っ込ませるわけねぇだろうが! 装備もノウハウも無いお前が行ったところで無駄死にだ、そんなこともわからねぇか!」
「警察の安全のために中にいる患者や医療者を諦めるというんですか!?」
「そうは言ってねぇ!!」
長濱と加山は声を張り上げて言い合いを始める。
加山の言う通り、悠長にしていられる時間はない。
しかし長濱の言うように、気持ちだけで生身で突入すれば意味もなく怪我人、あるいは死亡者を増やすだけだ。
だがこの言い合いもまた意味を持たないのも事実である。
「消防の突入を待て! 俺たちにできるのは現場の封鎖と負傷者の誘導ぐらいだ! お前の仕事じゃねぇんだ。加山、自分の力を過信するなよ。その癖直さねぇとお前、いつか取り返しのつかない目に遭うぞ」
「……!」
長濱は加山の肩を掴み、強く言い聞かせる。
彼は加山を認めているかと言われれば、おそらく完全に認めているわけではない。しかし、彼女には強くこだわっていた。
長濱は五十代手前のベテランである。
目の前の若手を守りたい、それだけではない。
過去の自分と同じ轍を踏ませたくない、そうした思いが彼の言葉から滲んでいた。
熱と勢いだけで助けられる命など、限られているのだから。
「消防、突入します!」
近くの別の警官が二人に報告する。
長濱は加山の肩から手を離し、冷静に言った。
「俺たちには俺たちの仕事がある。まずはそれだ。助けたい気持ちはわかるが、分不相応な行動は悪い結果しか生まねぇんだよ」
長濱は自分の過去を思い出していた。
彼がまだ若い頃。あれもまた、燃え盛る建物を前にしていた時のことである。
中に残された子どもを助けるために、消防を待たずして彼は一人建物に入っていった。
子どもを何とか保護できたまでは良かった。
その子どもはまだ火の手の迫っていない部屋の、クローゼットの中に隠れていた。自分なりに火から逃れようとしていたのだろう。
しかしその後、二人は火で朽ちた瓦礫の下敷きとなり、身動きがとれなくなった。
その結果子どもは一酸化炭素中毒となり、長濱も気絶。
後に突入した消防士たちに救助されるも、子どもは結局死亡してしまった。
あの時、消防を待っていれば。あの子どもの命は助かったかもしれない。
子どもの両親に責められたわけではないが、この出来事は燃え盛っていた彼の正義の炎を鎮火するには十分過ぎたのだ。
加山にも、悲劇が起こる前にそれを知ってほしかった。
しかし彼女は、炎で橙に染まる夜空を見上げるばかり。長濱の言葉は確かに彼女に届いていた……が、それを聞き入れるかどうかはまた別だった。
「自分にしかできない、自分の仕事……。それなら確かに、ここにあります」
「だろう? だったら」
「私は行きます。あ・れ・だ・け・は・、私がやらなければならないんです!」
「!? 加山ッ!?」
加山はテープを押し上げ、消防士たちの後に続くようにして病院の玄関へ走り出す。
長濱は彼女を制止しようと追いかけるが、彼はテープの奥へは進まなかった。
進むことができなかった。
加山にしかできないことがそこにある。
夜空から、葦あしの香りを纏う黒羽が舞い降りていた。
───────────
息を切らし、加山は階段を駆け上がる。
院内は異常な暑さと乾きに包まれており、装備の無い加山の体力を着実に削っていた。
しかし彼女は諦めず、近くで見つけたマスクで乾燥から口を守りつつ病棟を回って逃げ遅れた患者を助け起こす。せめて火と煙から逃げられるよう、誘導を続けていた。
(……あの羽、鴉が言っていた妖怪の羽だった。子どもを狙うと言っていたけれど、まさかこの病院に……!)
殺人現場にて拾った妖怪の黒羽。
あれと全く同じものが目の前に舞い降りてきた。
火の明かりに照らされる煙の中を、巨大な鳥の影が飛ぶのを目の当たりにした。
消防士では、きっと太刀打ちできない。人間を簡単に溶解させる毒を扱う怪鳥だ。
加山は妖怪の存在を知り、銃を携帯している。
勝ち目が無いわけではない。勝てる保証は限りなくゼロに近くもあるが。
だが、妖怪の話をしたところで絶対に信じてもらえるわけがない。
その点、加山は怪鳥が子どもを狙うことまで知っている。
妖怪から他者を守ることは、加山にしかできない。
「た、助け…………み、ず…………!」
「大丈夫!? 水はここよ。ほら飲んで」
病室に残された患者たちの多くは極度の乾燥に晒され、動く以前に水分を必要としていた。
ただの爆発や火事ではこうはならない。加山はこの現象に違和感を抱かずにはいられなかった。
(あの鳥の妖怪がこの惨状を……? でも、鴉はそんなこと一言も言っていなかった。こんな現象を起こすだなんて……。まさか、別の妖怪もいるというの……!?)
行き着く答えは一つだった。
だとしたら、自分一人で妖怪二体を相手にすることになる。
流石に分が悪過ぎる。鳥の妖怪だけでさえ、加山には荷が重いというのに。
妖怪を殺す、鴉がいれば……
「……とにかく、今は患者たちを介抱していかないと……!」
エレベーターは動かない。
病棟の真ん中に造られた階段は煙で充満しておらず、そこだけが人間にとっての唯一の道である。
見つけた患者や看護師たちを集め、自力で動ける者に突入した消防たちとの連絡を任せる。
そして自分はさらに奥や上階へ進み、他の負傷者を探しに行く。
熱と乾きは上に行くほど酷くなる。
それを考えれば、おそらくこの異常な気象現象を操る妖怪はより上階……。
屋上にいるのだろう。怪鳥も空から病院に近づいていた。
上の階に上がるということは、彼らに近づいていることにもなる。
「妖怪に、出くわさなければいい……けど──」
ブオオォンッ!!
「あッ……!?」
加山が7階に到達した瞬間、凄まじいスピードで何かが彼女の目の前を通り過ぎた。
縦に真っ直ぐ、目の前に何かが降ってきたのだ。
驚いた彼女は足元に目をやる。降ってきたのは、いや振り下ろされたのは真剣であった。
「……お前は」
「か、鴉……!?」
階段の角に身を潜めていた刀の主は、なんと鴉だった。
「あなたも、ここに……!?」
「まあな……。姑獲鳥の痕跡を追って来た。お前こそ何故……」
「この病院……この建物から爆発と火事が起きたと通報を受けて来たのよ。外にも大勢警察がいるし、中には消防士たちも入ってきてるわ」
鴉は何者かが階段を駆け上がってくる気配を察知し、身を隠してその正体を探ろうとしていた。
あくまで脅しのために刀を振り下ろしたが、まさかそれが加山だったとは思わなかったらしい。
彼も驚いていた。
黄泉の香りは魃の起こした熱波で病院中に撒き散らされ、妖力も院内に充満しているために妖怪を探ることができなかったのだ。
「姑獲鳥以外の妖怪がどこかにいる。おそらくこの一番上だが……魃そいつが熱風を放って、ここをめちゃくちゃにしたんだ」
「やっぱり、妖怪はもう一匹いたのね」
「……まさか、姑獲鳥が?」
「ええ、屋上に向かっていたわ。おそらくだけど、二体同時に戦うことになる……」
「……わかった」
それだけ言うと、鴉は上階へ続く階段へ駆け出す。
「待って!」
「ん?」
「私も……行くわ。そうすれば、数的不利は覆せる」
「…………」
「囮にならなれる! こんなこと言いたくないけど、あなたが死ぬのは……まずいのよ。妖怪を倒せるあなたがいなくなったら……。私もできる限りのサポートはするわ! だから……」
「落ち着け」
加山は口をつぐむ。
初めて出会った時の鴉はきつい目つきをしていた。
だが今は違う。横目に加山を見つめる彼の瞳は、彼女に何かを訴えたそうで、しかしそれが難しくもどかしそうに感じている。
加山にはそう見えた。
「妖怪は俺が殺す。お前は来るな」
「……勝てるの?」
「勝つ。俺にはそれしかできないんだよ。だからお前も……自分のできることをやれ。俺にはできないが、お前にならできることがここにはある」
「お前は、人を助けろ」
「鴉……」
鴉は踵を返し、階段を駆け上がっていく。
残された加山はその背中をただ見送るのみ。
その者だけの使命がある。鴉には鴉にしかできないことが、加山には加山にしかできないことが。
鴉の言葉を呑み込み、彼女は7階に残された人々を助けるために足を踏み出した。
7.魃と姑獲鳥
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
階段を駆け上がる鴉。
加山の言っていた屋上はもうすぐそこだ。
乾燥と熱気で、普段なら何でもない駆け足も息が上がってしまう。
だが近づくにつれ、黄泉の香りもさらに濃くなっていく。そして二種類の妖力も感じ取れた。
魃と姑獲鳥は確かにいる。
「はあ……はあ……ここか……。最上階は」
階段を上りきると、目の前には鉄扉が。
上部についたすりガラスは夜の闇と火の明かりを鴉に見せつける。その先が確かに屋外であると。
鴉はドアノブを掴み、戦いの舞台へと足を踏み入れた。
広大な屋上はドクターヘリ用のヘリポート。
鴉が入ってきた扉は患者を搬入するための出入り口ではなかったが、目の前にはHと書かれた円形の土台があった。
そしてその上に……
「ぐっ、ふっふっふっふ……。ようこそ、鴉!」
「ギャァァアーーーース!!」
「魃……姑獲鳥」
片腕の無い、一つ目の獣人。
そして人間とほぼ同じ大きさの黒い鳥。
魃と姑獲鳥だ。ついに相対した。
変化を解き、人間の医師の姿から本来の姿に戻った魃は鴉へ薄気味悪い笑みを浮かべて口を開く。
「待って、いたぞ。近くでは、ここが一番広い。俺たちが、戦うに相応しい」
「そうは思わないがな……。俺とサシでやるならまだしも、姑獲鳥と共に俺にかかってくるというのなら、お前の力は姑獲鳥も巻き込むはずだ」
「ぐっふっふっふ……」
魃は笑う。姑獲鳥もじっと鴉を見つめ、動かない。
鴉は刀を握り直し、構える。
注意すべきは姑獲鳥だ。あれを先に仕留めねば、魃を追い詰めても回収され、逃げられる。
その前に魃を殺し切れば問題はないが、戦いの行方は何重にも想定しておかねばならない。
「姑獲鳥、伝えた通りだ。飛べ」
「グググッ」
魃がそう言うと、姑獲鳥は夜空へと飛び立つ。
何をするつもりなのかは今の鴉にもわからなかったが、彼を殺すための作戦の一つであることに間違いはない。
「確かに、お前の言う通りだ。俺の熱波はただ、俺を中心に、放出するだけ。姑獲鳥を、巻き込む、かもな。だが、巻き込むなら使わなければいいだけだ」
「それで俺に勝てるとでも」
「お前を殺す方法はいくらでも、ある。姑獲鳥と俺が組まされているのは、神がかりな、連携によること」
魃は左手の爪をギラつかせ、腰を落として構えをとる。
組まされているということは、彼らの意思によるタッグではなく、魃が言う"あのお方"の命令で今鴉と対峙していることを意味する。
この戦いそのものが、鴉の死が、なぜその者にとって利益になるのか。
鴉には理解できないが、それを解き明かさねばならないことに変わりはない。
鴉を消そうとしている……おそらく魃たちのバックにいる者も黄泉から復活した妖怪の可能性が高い。
「さあ、始めようか──」
「鴉ゥッ!!」
「ぐっ!?」
ガギィィィッ!
「ぐふっ、よく防いだ、な!」
魃は一瞬で距離を詰め、その凶爪で鴉の心臓を狙う。
何とか反応できた鴉は間一髪のところで刀で爪を防ぎ、鍔迫り合いの状態に。
熱波は確かに恐ろしい武器だ。
だが、魃からそれを取り上げたところで、風のように走ると言われるほどのスピードも、十二分に脅威であった。
「ふんッ」
「うぐっ……!」
魃の腹部に鴉の蹴りが刺さる。
そうして怯んだところをさらに追撃。魃の手を押し退け、刀の柄頭で頭部を殴打する。
背中の毛皮を掴んで続けて腹に膝蹴りも加えた。
「掴んじまえばお前の速さは死んだも同然だな」
「ぐふぅぅっ……こ、姑獲ち……!」
「はりゃああッ!」
「うがァァッ」
魃の頭頂部の毛を掴み、刀を握った右手で顔面を殴りつける。
鼻血がぶしゃあっと噴水のように噴き出し、単眼からも堪らず涙が溢れている。
しかし鴉は容赦しない。掴んでいる手も離さず、魃の目玉に刀の鋒を向ける。
そのまま刺し貫くつもりで……
「ギャァァァァッ!!」
「!!」
頭上から甲高い鳴き声が響く。
上空へと目線を向けると、鴉に狙いをつけた姑獲鳥がその尖った嘴を槍の如く、一直線に突っ込んでくるのが目に入った。
「くっ!」
鴉は掴んでいた魃を突き飛ばし、左手を刀の峰に添える。
そして、降ってきた姑獲鳥の嘴を刃で滑らせながら受け流し、その勢いのまま全く別の方向へと吹っ飛ばした。
「ぐぅぅ……中々、やるな。判断のスピードも速い。やはりお前は、厄介、だ……!」
「最初に片腕を失ったのが大きかったな。両手が揃っていれば、今よりずっとお前たちに苦戦したはずだ」
「フン……!」
魃は鼻血を指で拭い、再び構えをとる。
すると、鴉の足元に何かが落下。
雨か? と一瞬思う彼だったが、実際は違う。雨など降ってはいない。
空から落ちてきたのは姑獲鳥の唾。触れた者をいとも簡単に溶かしてしまう、超強力な酸である。
(本気で来るつもりだな……)
「シャアァァァァッ!」
空からは姑獲鳥が唾を垂らし、目の前からは魃が迫り来る。
再び風のように駆け、右へ左へと跳ねながら鴉の視線を翻弄し接近してくる。
姑獲鳥の唾に臆していれば魃の攻撃をもらう。
今反撃に出れば酸に襲われるが、それでも魃を仕留められるチャンスを手にすることはできる。
鴉は前へ出た。
「はぁぁぁっ!」
「うがぁああああッ」
繰り広げられるのは剣と爪の高速の攻防。
攻撃が掠り、頰が裂け、髪の先が切られ、放たれる乾いた風で目や口腔内の粘膜も痛め……。
それでも鴉は剣を振る手を緩めない。
降ってくる酸も何とか視界に入れて回避する。体に当たりはしないが、それでもコートには付着し、穴を空ける。
そうして千切れた裾の一部が宙に舞い、鴉の視界を一瞬遮る。
その隙を魃は見逃さない。
「もらっ、たァァァァ!!」
ザシュゥゥッ!
魃の左手が鴉の右頬に迫り、そして突き刺さった。
何度も何度も刀と打ち合い、傷と疲労の溜まった爪だったが、それでも鴉の右目を潰し頰を貫くには十分。そのまま更に奥へと爪を押し込もうとする。
しかし……
「おおぉおオオォォッ!!」
「んなっ」
再び鴉の前蹴りが魃の腹部に炸裂。
そしてすかさず左腕に刀を打ち当てる。
刃ではなく峰で当て、腕の骨を粉砕した。
「うあッ、ガァッ……! かぁっ」
魃は苦痛に悶える。
鴉は刀を左手側で構え、折れた魃の左腕を斬り上げようと姿勢を落とす。魃の回避は敵わない。
だが当然それを妨げようとする者がいる。
姑獲鳥だ。
今度は鳴き声を上げず、鴉の背後から弾丸のように飛んでくる。
攻防は仕切り直し。魃は姑獲鳥のカバーによって危機を脱する……
はずだった。
「はぁりやァァッ!!」
ズバァァァァン!!
「こっ、姑獲鳥!?」
姑獲鳥の嘴が鴉を貫かんとする瞬間、彼は身を翻し、姑獲鳥へと刃を振るう。
突っ込んでくる姑獲鳥はそれを避けきることがでぎず、嘴から頭、首、胴体まで上下に真っ二つに斬られてしまう。
斬られても飛んできた勢いは死なず、下側の嘴はそのまま鴉の肩を抉り、魃の体へと……
「ぐあぁアアアアアアッ!!!」
胴体を貫かれ、巨体に押されるがまま魃は吹っ飛んでいった。
「…………ふぅ」
鴉は肩と顔の激痛に耐えながら立ち上がる。
吹き飛ばされ、十数メートルほど離れた位置で落ち着いた魃にトドメを刺すため、刀を握りしめて歩んでいく。
魃はかろうじて一命を取り留めていた。
しかし姑獲鳥の死体の下敷きとなり、左腕と胸の負傷もあって、放っておけば絶命するような状態である。
脚は無事だが、それでも逃げられないのは俊足な彼に対する皮肉のようだ。
「うぅ……ああ……」
「終わりだな。魃」
魃の喉元に鋒を当て、少しでも力を入れれば刺し貫けるようにする鴉。
反撃も逃走も敵わないまでにされ、息も絶え絶え。
今の魃にとって、問答すらも難しい。
「熱波を放つか? 悪あがきにしかならん。お前の命は延びないし、むしろ縮めるだろうさ……。諦めろ」
「……そう、しよ、う……ぐふっ」
魃は血を吐きつつも口角を上げ、笑った。
「ええ、と……俺、の……主……か。聞きたい、のは……」
「喋れるか?」
「ぐふっふふ……話さ……ない」
「……もうじき死ぬっていうのに、いらん苦しみは受けたくないだろ」
「拷問して、吐かせる、つも……りか? 無駄、だ……。俺が、あのお方、を……喋れ、ば……あのお方は、離れた位置からでも……俺を……始末できる」
魃は笑みを絶やさず、鴉を煽るように言った。
遠くからでも始末できる。
そんな妖怪がいるとは。
鴉は一瞬思考を巡らせるが、それだけの情報では思い当たる妖怪は浮かばなかった。
「あのお方は……四・者・の・中・で・、最・も・お・強・い・……。この国の……王、いや……世界、の王、に…………」
「! 魃、話せ。お前の主は誰だ、どこにいる!?」
「すぐ、そこ……だ。探さず……とも、あのお方は……お前、を、気に入り……そして殺す、さ!」
そう言うと魃は自ら頭を上げ、喉を貫いた。
自決。最後まで相手の思い通りにならず、嘲笑いながら死んでいく。彼が"あのお方"と呼び慕う者のためだけでなく、鴉への悪あがきである。
まさしく妖怪だ。
他者を害する、悪しき存在……
8.巣食う者
「鴉!」
「ん……」
バンと扉を開け、加山が屋上に駆け込んで来た。
彼女は座り込んで煙草を吸う鴉と、離れた位置に放置された妖怪たちの死骸を一瞥する。
中でも彼女の目に入ったのは、顔の右半分と肩からの出血が著しい鴉の姿だった。
加山は彼の元へと駆け寄ってくる。
「鴉、その怪我……!」
「すぐ治る。人間からしたら重症かもしれんが、鴉はお前たちよりも頑丈だ」
「そう……。無理はしちゃダメよ」
鴉は鼻を鳴らして応える。
加山はそんな彼の隣に座り、妖怪の死骸を見つめながら口を開いた。
「勝ったのね」
「……ああ」
「強かった?」
「不完全燃焼だ」
ふぅっと口から煙を吐き出し、鴉は言う。
「魃ひでりがみの奴は、ここをこんなにした熱波は放たなかった。何かおかしい……。加減していたように見えたが、それがわからん」
「そうなの……。でも、勝てたなら良かったじゃない。下でも負傷者のほとんどが救出されてるわ。死亡者も、多いけれどね」
「……妊婦はいたか?」
「妊婦?」
「腹を守って死んだ妊婦がいた。死人ばっかりの、広い部屋があったはずだ。あそこの壁際で死んでた」
「さあ、わからないわ。私は行ってないし」
「そうか」
鴉は煙草を吸い直す。
畳のような匂いが辺りに満ち、加山の鼻もくすぐる。
黄泉の国の煙草は人間のものとはまた違うらしい。
しばらくして、鴉は再び口を開く。
「あの妖怪ども、別の妖怪の下っ端のようだ」
「えっ……そうなの?」
「魃はあのお方だとか呼んでたな。俺と戦ったのも、そいつの命令らしい」
「妖怪を支配する、妖怪……。そんな存在が……」
「お前は何か知らないのか? たしか……四体いる中で一番強いとか言っていた。四体、この東饗に強力な妖怪がいるってことらしい」
「四体? まさか……きゃっ」
加山がそう言いかけると、突如二人は強風に煽られる。
思わず体勢を崩しそうになった彼女を鴉が負傷している腕で支え、自らは周囲を警戒。
すると、魃と真っ二つになった姑獲鳥の亡骸の近くで何かが動いているのが目に入った。
それは妖怪……というよりは、人影だった。
「誰だッ!」
「…………フフ」
強風が止む。
視界がクリアになり、死骸の近くで蠢いていた者の正体が明らかになる。
それはボロ布を纏った若い黒髪の美青年であった。
「お前は……!?」
「いやぁ、見事だったよ鴉。魃の力は敢えてセーブさせたが、それでも天晴れな戦いだった。あんなに呆気なく、魃と姑獲鳥がやられるとはね」
「……!? まさか、お前が」
「ああ。こいつらのご主人サマ……ということになるね」
鴉からすれば彼の正体は全くの謎であり、今まで出会ってきた何よりも不気味に感じられた。
彼の言葉を信じるなら、間違いなく妖怪ではあるのだろう。
だが、妖力を一切感じられない。黄泉の香りもしない。
煙草で鼻が誤魔化されているのを加味しても、一切匂わないなんてことはあり得ないのだ。
青年は魃の死体を抱え、姑獲鳥の死体ももう片方の手で掴んで立ち上がる。
その様子を目にした加山は、拳銃を取り出して青年へと向けた。
「止まりなさい! あなた、何をするつもり!?」
「何って、見ての通り死体を回収するだけさ。メディアはいくらでも操作できる。警察もな。だが、君・た・ち・に痕跡を残すと面倒になりそうなんだよ。楽しいのは好きだが、まずは君らを知っておきたい。招くのはその後だ」
「何ですって? あなたは、一体……」
「招くだと? どういう意味だ」
「そのうちわかるよ……」
振り返ってみれば、姑獲鳥のもう片方の死骸はとうに消えていた。
既に回収されていたのだ。
二人に背を向ける青年。
来た時のように、風と共に去るつもりだろうか。
しかしそれを加山は許しはしない。
「待ちなさい!」
「っ! 待て!」
ビギュンッ!!
「なっ……!」
「ああ、惜しいな。よく気づいたもんだ」
青年を追おうとする加山だったが、鴉に肩を掴まれて制止される。
そして次の瞬間、超高密度の妖力の光線が天から加山の足元に撃ち込まれた。
彼女はその撃ち込まれた痕を見て戦慄する。
病院の、おそらく一階まで……いや、それよりももっと下まで貫かれていた。底が見えないほど下まで。
「妖力を隠す技術が洗練されている……。お前、ずいぶん長く生きている……いや、生きていたな」
「まあねぇ」
「やはり黄泉から生き返った妖怪か」
「フフ……」
青年の周りに旋風が巻き起こる。
塵が舞い、青年の姿を隠すように風は渦巻く。
「いやいや、本当に楽しみだよ。これから先がね。君みたいにタフな鴉は滅多にお目にかかれない。できるだけ長く、楽しませてくれ。私の生涯を彩ってくれ、ね?」
「逃すと思うか」
「ああ、私は確実に逃げられるとも。君たちからね……。チャオ!」
そう言い残すと、青年の姿は再び吹き荒れる暴風と共に消えてなくなってしまった。
魃と姑獲鳥の死骸も跡形もなく無くなり、青年の正体を探る手がかりも失った。
既に夜明けを迎え始めている空を見つめ、鴉は拳を握る。
「……おい」
「……? なに?」
「手を組もう」
「えっ」
「人を守りたいんだろう? 俺は妖怪を殺すことしかできないが、お前は…………。だから、頼む」
───────────
四大財閥、Nined Tailer Corporation本社。
誰も知らないその部屋に妖怪の骸を無造作に置いて、青年はデスクに向かって歩く。
纏っていた布を脱ぎ去ると、それと同時に髪色までも変わっていく。
頭頂部からゆっくりと、稲のように華麗な金髪へと変わっていく。
ボロ布の下にはスーツを着ており、ネクタイを直し、彼はデスクチェアに腰を沈めた。
「んっんん……。やあ、諸君。楽しんでいただけたかな?」
彼、玉藻草司は虚空へ問いかける。
デスクの真正面には巨大なスクリーンがあり、問いかけに呼応して明かりがついた。
スクリーンに映ったのは三つ分の画面と、それら一つ一つに姿を見せた謎の人物たち。
東饗を、いや日本を裏から支配する四名による秘匿された会合であった。
『ずいぶん……簡単にやられたもんだな、魃は。屋上でもあいつに旱魃と熱波の力を使わせときゃ、鴉にやられずには済んだはずだ。使わなかったのはお前の命令だろ、玉藻!』
スピーカーから苛ついた男の声が響く。
「まぁまぁ落ち着いて。そもそも魃に屋外でその力を使わせたら君はいつも怒るじゃないか。だから配慮して……」
『嘘をつけ! 毎度毎度当てつけのように使わせてた癖に、今回だけ使わずに負けるとは舐められたもんだな……!』
『…………』
玉藻と男の言い合いに、深いため息を吐く者が一人。
わざとらしいそれに対して、男の矛先はそちらへと変わる。
『何だ、おい。お前も俺に文句あんのか?』
『失敬』
『言っとくがな、魃は元々う・ち・の・なんだよ。玉藻が勝手に引き抜いた上に、雑に扱われて死んだ!』
「心外だなぁ」
『……引き抜かれたのは、魃の貴公への忠誠が無かったからだろう。元々信頼されていなかったなら仕方ない、瑞子みずこ殿』
『何だと……』
『それに、魃の力を危惧していた貴公のことだ。そこはむしろ、死んだことを嬉しがるものだろう』
瑞子と呼ばれた男の苛つきは増す。
魃は本来彼の部下であり、乾燥や高熱に弱い瑞子はその力を制御し支配していた。
放っておいたり、敵にしておいては自身に害となる可能性があったからだ。
しかし、それ以上に瑞子は魃に同郷の者としての情もあった。
数少ない大陸からの妖怪だったから。
それを玉藻は引き抜いた。
他の者には信じられてはいないが、瑞子はそれを玉藻の妖力によって洗脳されたのだと言い張る。
だがその証拠は無い。
「まあ、落ち着いて! 瑞子も熱くなり過ぎだし、君も調子に乗り過ぎだ。力関係をもっとよく理解しておきなさい。特に君は、一番下なんだから」
『チッ』
『フン……』
「今回の鴉バーサス姑獲鳥と魃の感想を語ってもらいたいのに……。いつも喧嘩するんだからなぁ、君らはさ」
瑞子は舌打ち。
玉藻に「君」と呼ばれる、隻腕の男はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
力関係。
それは妖力や財力など一つの力によるものではなく、総合的なものだ。
すぐにでも彼らが戦争を起こせば、真っ先に陥ちる。四者の中では最も脆弱な組織だ。
「……で、相変わらずダンマリな貴方は如何だったかな?」
玉藻は一言も喋っていない三人目の男に問う。
一拍置いて、彼は答えた。
『ああ……良かったよ。とても』
スクリーンの画面の奥……男はパソコンに映し出された画像を見ながら呟く。
その画面には病院の監視カメラの映像の一部を切り抜いた写真が。そこに映っていたのは、患者たちを誘導する加山の姿であった。
9.四大財閥
魃ばつの引き起こした病院火災から一夜明け、東饗政樹病院は完全に封鎖され、消防士や警察、その他関係者らが対応に負われていた。
独断行動し、消防士たちとともに院内に突入した加山は当然厳しく叱責され、数十分に渡り長濱からの怒声も浴びせられた。
いくら犠牲者数を抑えられたとは言え、命令違反であることには変わらないからである。
彼女もそれには一切言い訳もせず受け止め、その様子を鴉も少し離れたところから見守っていた。
彼らが追うべき相手は見つかった。
問題は、どのようにしてそれらの尻尾を掴むかであった。
翌日、しばらくの間停職処分となった加山は自身の住むマンションの一部屋で、紙媒体の数々の資料をテーブル上に広げていた。
そこにやって来る予定である、客を待ち侘びて。
午前十時を時計の針が指すと同時に、部屋の窓がノックされる。
「あ、待って。今開けるわ」
加山は鍵を解錠し、窓を開ける。
7階のベランダからやって来た尋常でない客人は、土足のまま部屋に足を踏み入れる。
そういう文化が無いわけでなく、単に靴を脱ぐのが面倒なだけ。
そもそも土も石も付いておらず、付くはずもないのだから。
「時間ぴったりだったわね、鴉」
「そういう約束だろう」
鴉は壁に刀を立て掛け、テーブルに広げられた資料に目をやる。
どれも小難しいことばかり書かれた、鴉一人では読み込みにどうしても時間のかかる代物であった。
「……で、何だったか。お前の見立てでは、『四大財閥しだいざいばつ』とやらが妖怪どもの巣窟として怪しいんだったな」
「そうよ。魃が確かに四体と言っていたなら、その可能性が高いと思ってるわ。あの四つの企業はどう考えてもおかしい……。昨晩の火事があったのも、四大財閥と数えられるうち一社が関係してるわ」
そう言って加山はテレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。
画面に映し出されたのは、鎮火され、ところどころが煤で黒ずんでいる東饗政樹病院。
ヘリコプターに乗ったリポーターが上空からコメントを残していた。
「今まで感じていた違和感があった……。この大病院で爆発と火事が起きたのに、上を飛ぶヘリコプターが一機も無かったわ」
「どういうことだ?」
「規模の大きい火災では、必ずと言っていいほどマスコミはヘリを飛ばして報道するわ。鎮火作業の途中であっても。でも昨晩は、そんなヘリは見当たらなかったし、あなたと妖怪が戦ってる映像のアーカイブも無かった」
何か事件があれば飛びついて来るマスコミが、今回の火災だけは控え目だった。
加山の中ではそれがどうも引っかかっていた。
マスコミを操れる。昨晩、屋上で遭遇した青年はそう口にしていた。
そんな者がこの世にいるとしたら、その膨大な経済力で日本を支えている四大財閥しかあり得ない。
彼女はそう結論づけていた。
すると、テレビの画面が切り替わる。
夥しい数のフラッシュが焚かれながら、長いテーブルに白衣を着る人物が並んで座っているのが目に入った。
そしてその真ん中には、整った顔立ちをした金髪の男が。
「あれよ」
「何が?」
「例の四大財閥、『Nined Tailer Corporation』の社長。玉藻草司たまもそうじ」
『今回の、東饗政樹病院の爆発及び火災事故は誠に残念でなりません。ただ今警察と協働し、早急な原因究明に努めている次第です』
玉藻と院長、医師たちは立ち上がり、深々と頭を下げる。
そして再びフラッシュの嵐が巻き起こった。
『今回の事故について病院側の過失は無いのでしょうか!』
『警察との調査では病院の機器や設備の不備が原因ではないと結論づけられました。第三者による、何かしらの工作であったという線で現在調査を行っています』
会見会場ではどよめきが起こる。
『もし本当にこれが爆弾などによる人為的な事件だとしましょう。これは防げてた事故ではなかった、ということなのでしょうか?』
『どういった意味でしょう』
『事前に犯行声明や脅迫文といったものが病院に送られていなかったのか、ということです。入院患者や病院の周囲の恐怖を煽らないために敢えて秘匿した結果、惨事が起きてしまったのではないのでしょうか』
『それはただの憶測ですね。病院側……我々は何の情報も持ち合わせてはいませんでした。電話や紙媒体で脅迫文が送られたという事実はありません。そのような形跡も既に調べましたが、結果的には無いものだという結論に至っています』
『被害者となった患者や遺族の方々へ何か一言!』
『……何者かによって引き起こされた事件とはいえ、病院とは本来、患者様もとい人々をあらゆる危機から護るための機関。我々には大きな責任があります。スタッフ、入院患者の被害者の皆々様、ここに深くお詫び申し上げます』
玉藻は再び深く頭を下げる。
フラッシュの連続で、画面から放たれる光は最高潮に。
耐え難くなった加山は思わずリモコンの電源ボタンに指を伸ばし、プツンと切ってしまった。
「……どうだった?」
「テレビ画面こんなものを介しては黄泉の香りや妖力なんてわかったもんじゃない」
「そう。まあ、当然よね……」
「だが、"玉藻"と名乗るのは度胸があるな」
鴉はテレビへ向けていた体を翻し、加山の広げた資料の山に向き直る。
そして、玉藻の顔写真の載った企業のHPの印刷された書類を手にして言った。
「九尾の妖狐を知ってるか? 平安の時代、その美貌と頭脳で当時の上皇を誑かし、命を狙ったとされる女がいた。その正体がそれだった。女の名は──」
「玉藻御前たまものまえ、でしょ?」
「ああ。証拠も無い、偶然かもしれない……だが、可能性はある。ましてやこの国の頂点に近いというのなら尚更だ。あれは傾国の大妖怪だからな」
Nined Tailer Corporation、通称『ニンテラ』はデジタル家電製品やプログラミング、コンピューターゲーム開発及び販売を行う株式会社として一般には知られている。
その裏で社長である玉藻は幅広く事業展開しており、病院の経営までもその一つであった。
鴉はバサっと手にした紙をテーブルに放り、そして新たな資料を手にする。
「どんどん教えてくれ。次はこいつだ」
鴉が手に取った資料。その紙束の表紙には会社名と一人の男の顔写真が目立つように印刷されていた。
特に目を引くのは、男の風貌である。
右頬に大きく抉られたような傷痕があり、刈り上げた髪型。いわゆるヤ・カ・ラ・のような印象を与える、二十代後半ほどの青年だった。
「瑞子鳴河みずこめいが。株式会社、一目連龍水道はじめれんりゅうすいどうの社長よ。この東饗の水道インフラを整えたのは、彼のその民間企業なのよ」
「水道を? それは政府の仕事じゃないのか?」
「上下水道、工業廃水用水路を整備したのはそうよ。でも、国は四大財閥に屈した。最初は水道じゃなくて不動産屋だったんだけれどね。莫大な資産を築いたと思ったら、彼は東饗都に水道の民営化を訴え、その運営権を買い取った……」
不動産で莫大な資産を築いた後は、その金を使って民間の水道会社を経営し始めた。
水道に余程のこだわりがあるというのか。
東饗中の水道を意のままにしたいとも思わなければ、普通最も儲かる手段を手放してでもインフラ整備に手を出そうとはしないだろう。
あるいは、金だけでなく、インフラのためにあらゆる土地に手を出したのだろうか。
「……こっちは? トップの顔写真が無いが」
「幻明芸能事務所げんめいげいのうじむしょ。わかる? アイドルとか俳優を売り出してるのよ。全国トップクラスのアイドルばっかり出してて、業界はほぼ独壇場。でも意外なことに、社長はメディア嫌いで写真の一つも無いのよ」
「社長の名前は?」
「月兎げっと。本名も晒したくないみたいで、アイドルみたいな芸名で名乗ってるわ」
国内最高峰のアイドル事務所の社長。
一般人のファンを味方につければ、金や力を得るのに苦労はしない。
それに公な場に掲示する顔写真が一つも存在しないというのも、怪しすぎる点ではある。
その中で最も売れているアイドルグループは『朧おぼろGENEIゲンエイ』らしいが、加山はファンではないらしい。
「……こいつで最後か」
「暁あかつきグループね。飲食や建築、衣服、出版。何にでも幅広く手を出して店舗を構えてる。確かに一つの事業に依存しては簡単に経営が傾いてしまうけど、それでも広すぎるわ」
「トップは」
「……彼の名前はそのままよ。それが本名だって本人も言ってるけど、世間は信じてない。それに、黒い噂も付き纏ってる。他の社長や企業は私たちが疑ってるだけだけど、彼だけは違う」
「……なるほどな」
鴉は暁グループの情報の書かれた書類を手に取る。
幻明芸能と違い、顔写真もついている。名前も。
写真だというのに、見るその人を睨みつける鋭い眼光と険しく眉間に寄せた眉が威圧感を放っている。
そして彼はスーツを着ているが、右腕の袖は力無く垂れ下がっていた。
つまり、隻腕だ。
「暁グループ代表、茨木童子いばらきどうじ……か」
10.影を追って
「"茨木童子"……隠す気がカケラも無いな」
鴉は呆れた様子を見せる。
仮にも人に化けている妖怪が、しかも中でも有名な者が、その名前を一切隠すことなく堂々と掲げている。
妖怪たちの事情を知る鴉からすれば理解が及ばない。
「自分から殺しに来てくださいって言ってるようなものよね。鴉あなたからすれば」
「まあな」
「どうするの? まずはほぼ黒確定な暁グループとニンテラのどっちかを調べた方がいいと思うけど」
「ここからどっちが近い?」
「ニンテラ……と言いたいところだけど、ある意味では暁グループの方が近いわね」
「どういう意味だ」
Nined Tailer Corp.本社は血代田ちよだ区にある。
それに対して暁グループ本社は墨陀すみだ区に。
加山の住むマンションの近くにある神宿しんじゅく区からは血代田区の方が確かに近い。
しかし、彼女は墨陀区にあるはずの暁グループ本社の方が近いと言う。何故なのか。
「さっき言ったこと、覚えてる? 暁グループ……特に茨木童子にはある噂があるのよ」
「ああ、言ってたな。それに関係するのか?」
「ええ。茨木童子は、公にはなっていない極道組織のトップという話よ」
「極道? それはまた……」
「あなたが思ったこと当ててあげる。どうして自分の名前を隠さないような妖怪が、裏社会でコソコソするようなことしてるのか……でしょ」
自分の行いを周知されたくない場合に偽名を使ったり、そのための組織に身を置くというのは理解できる。
だが茨木童子の場合は別だった。
真の名を晒した上で堂々と人間社会に生き、しかし裏の顔も存在はしている。
何を隠したく、何を隠すつもりも無いのかが一切わからなかった。
「で? その茨木童子が、どうして玉藻よりも近くにいるってことがわかる?」
「茨木童子のそのもう一つの組織は、この神宿にあると言われているのよ。反社の巣窟、そう呼ばれるほどこの街はそんな輩で溢れてるわ」
「なるほどな……。だがその言い方だと、問題の拠点の場所はわからないように聞こえる。目星はついてないのか」
「……残念だけど」
「まあ、噂程度で収まってるならそんなもんだと思ったぜ。歩くしかないわけだ」
鴉は壁に立て掛けておいた刀を手に取り、腰に差す。
茨木童子の写真と、暁グループの資料も折りたたんで懐にしまった。
そして真っ黒い軍帽を被り直し、再びベランダへ出ようとする。
「ねえ、私も行くから玄関から出入りしましょうよ」
「……了解した」
───────────
加山のマンションを出た二人は、歌武伎町の縁をなぞるようにして歩いていた。
ヤクザと思しき怪しい人物が出入りしていないか。
鴉の鼻に黄泉の香りが引っかからないか。
そうしたことを確認するため、しらみ潰しに歩くことに決めたのだ。
真上から降り注ぐ日光がビルのコンクリートやアスファルトに熱を与え、加山の頰を汗で濡らす。
鴉も格好が格好のために、滝のように汗を垂らしながら歩いていた。
「……水分、いる?」
「結構だ。俺が飲むのに金はいらんだろう」
普通の人間には見えない、幽霊のような存在だ。
水を飲みたい気持ちは鴉にもあるが、わざわざ加山に金を払ってもらう必要はない。
勝手にどこかで盗み飲むつもりでいた。
だが、加山は警察だ。
幽霊だろうが妖怪だろうが、それを目の前で容認するわけにはいかなかった。
「どこかから盗もうっていうなら私が許さないわよ。あなた、一応私が警察だってこと忘れてないかしら」
「俺だってそもそも人間じゃねぇよ。お前らの法律で縛られる義理はない」
「それでもお金のシステムは人々の生活を支える大切なものなの。遠慮しなくていいから、私が自販機で買ってあげる」
加山は近くの自動販売機に寄って行く。
鴉は「はいはい」と乗り気じゃないことをわざとらしく態度に出しながら、彼女の後について行った。
加山はメロンサイダーを、鴉は麦茶を飲みながら再び偵察を始める。
平日の昼間ともなると遊びのために私服で街を歩く人間は見るからに少なく、客引きや危なげな外国人なども活発ではなかった。
そしてもちろん、反社組織の人間と思しき者も。
むしろ二人の方が怪しまれていたぐらいであり、道ゆく人や物陰にいた者たちは彼らをじっと、訝しむように見つめていた。
だが、二人はそれに気づいてはいない。
ただただ歩き回っているだけという時間に、鴉がいよいよ音を上げる。
「加山、これでは埒が明かん。いつまで経っても茨木童子の根城が突き止められないぞ。諦めて玉藻の方に行くか、別行動を取った方がいい」
「気持ちはわかるけど、落ち着いて。そんな簡単に拠点が見つかったら極道組織のボスだっていう話も噂じゃなく実話として広まってるはずだわ。だからこうしてじっくり隅々まで見て回るんじゃない。でも……やり方を変えた方がいいのは私も思うわ」
二人は一旦足を止め、建物の陰に入って思案する。
鴉の鼻にも黄泉の香りは引っかかっていない。
妖力を感じ取れてもいない。
近くに妖怪がいないことは明白だった。
鴉は建物をよじ登り、その屋根に飛び乗る。
「ちょっと鴉っ!」
「お前は下から探せ。お前より自由に動ける俺は上から街を見る」
「待ってよ! もし何か見つけても私はあなたに連絡する手段が無いわ! それに妖怪に会っても対処もできない」
加山の言う通りだ。
鴉からすれば妖怪を殺すことは自分一人でできることだが、街については加山の方が詳しい。
それに人間を巻き込むことになれば、彼女の手があった方がいいとも思っている。
鴉も言い返すつもりだったが、それは叶わなかった。
やはり別行動はやめた方がいいか。
鴉が一瞬、選択に迷ったその時だった。
「おらぁ! てめぇいい加減にしろよォ!!」
「えっ」
「……何だ」
近くで男の怒号が響き渡る。
トラブル発生。
加山の頭にはこの言葉がさっと浮かび上がった。
しかし鴉は。
(妖力……!)
鴉は建物と建物の間を跳び越し、声の聞こえた方へと駆ける。
加山も彼のただならぬ反応を見て察し、鴉を追って走り出した。
現場はほんの三十メートルほど離れた路地裏だった。
ビル下の地下駐車場が半分見えており、建物と建物に挟まれて陰になっていた。
おそらくそこに追い詰められたのだろう。
スーツ姿で屈強な肉体を持つ、強面の三人の男たち。そして彼らに囲まれる薄汚い格好をした浮浪者がそこにいた。
「やめなさい!」
駆けつけた加山が男たちを制止する。
「ああ……? 何だおめえは」
「警察よ。あなたたち、彼に何をしているの!」
「警察だ? ちっ……私服警官か……」
「なぁ、おい。どうする? こ・い・つ・は・お・呼・び・じ・ゃ・ね・ぇ・ぞ・……。奴を呼び寄せるまで粘るか?」
「ああ……見たところ仲間はいないらしい。そうするとしよう……」
「……? 何をコソコソ話してるの!」
三人は加山に会話の内容までは聞こえない声で相談する。
何かを待っていたようだが、それは加山のことではないらしい。
現在加山は停職中であるが、今の状況を鑑みれば警察として男たちを止めるべきである。
長濱も、この場に居合わせれば後で何かは言うだろうが、彼女を止めることはしないだろう。
「加山!」
上から鴉が降ってくる。
加山の横に着地すると、目の前の四人を一瞥し何となくの状況を察した。
すると、突如男たちの様子が変わる。
「……おい、ずらかるぞ」
「ああ」
「あっ……待ちなさい!」
三人は地下駐車場へ続く隙間へ身を滑らせて入り込み、逃走した。
加山もそれを追おうとするが、彼らの脚はかなり速く、彼女も地下駐車場に入ろうとした頃にはその姿は既に暗闇に消えてしまっていた。
加山は直接追うことを諦め、回り込むためにその場を離れようとする。
「鴉、あいつらを追うわよ!」
「お前が行け」
「なっ…………! あいつら、あなたのことが視えてたわ。あなたが来た瞬間逃げてったのよ。妖怪じゃないの!?」
「ああ。あいつらは違う」
妖怪であろうがなかろうが、加山は逃げた三人を追う必要はある。
それは妖怪が視える者としてではなく、警察として。
だが彼女の中では疑問が生まれ、それが体を動かそうとするのを阻んでいた。
彼女はてっきり妖怪の気配を察知したから、鴉が駆けて行ったものだと思っていたのだ。
しかし、例の三人の男は妖怪ではない。
なら、妖怪の気配は……?
「妖怪は、こいつだ」
鴉はその場に座り込んでいる浮浪者に歩み寄り、彼を指差した。
ボロボロの服装で、何日も風呂に入っていないらしく肌も汚れて黒くなっている部分がある。
髭も伸び、顔の全容もわからないがおそらく壮年期辺りの……そんな男だった。
「あんた……鴉か……」
「ああ」
「そうか……なら、早くここから逃げた方がいい……」
「なに?」
「俺は……餌・だ。あんたを誘き寄せる罠だ、これは……!」
加山も二人に近寄り、状況を呑み込もうとする。
浮浪者は呼吸器系が悪いのか、息を途切らせながら鴉に訴える。
鴉は彼の主張の意味を呑み込めないでいたが、後にすぐに理解した。
浮浪者の彼は被害者だ。
鴉をこの閉塞した空間に誘き寄せるために利用された、哀れな妖怪だったのだ。
全ては、鴉を始末するための罠。
「加山、退どけェ!!」
ドゴォォォォン!!
「きゃあッ!!?」
突如、鴉の頭上を影が覆う。
それと同時に彼は加山を蹴飛ばし、浮浪者の服を掴んでその場を跳んで離れた。
何かが鴉の居た場所に降ってきた。
そしてそれは、強烈な妖力を放っていた。
浮浪者よりも、姑獲鳥よりも、魃よりも。
ずっと強い、燃えるような妖力だった。
土埃が晴れると、その者の姿が露わになる。
「え……に、人間?」
「違う。こいつは確かに妖怪だ。それにこの妖力のカ・タ・チ・……! おそらくは……」
中から現れたのは、日本刀を持った男。
推定二十代ほどで整った顔立ちをしており、首から下では筋肉質な胴体がはだけたスーツとシャツの間から見えている。
彼はギロリと鴉を睨みつけると、刀を振り上げ、彼に切り掛かる。
「ぐぅッ……!!」
「鴉!」
男が土の地面を蹴れば、瞬間的に、爆発するように土埃を巻き上げ、その場所は大きく窪む。
人間の脚力ではまずこうはならない。
鴉も鞘から獲物を引き抜き、振り下ろされる刀を防ぐ。
鴉も人間に比べればずっと強い。
腕力も、脚力も超人レベルである。
だが上からのし掛かる男の圧倒的な腕力に、鴉は苦悶の表情を浮かべて何とか耐えることしかできなかった。
「ぬうぅぅあぁッ!」
「……!」
鴉は刀で防いだまま、脚をふりぬいて男の鳩尾に蹴りを喰らわせる。
男は怯みはするもののそれがダメージになったわけではないようで、表情も言葉もなく、鴉から数歩下がり彼を睨みつけるばかり。
「はぁ……はぁ……。くっ、なんてパワーだ……」
「鴉、そいつは……!?」
「……今ので確信に変わった。こいつ、"鬼"だ」
ついに姿を現した。
鬼。つまり、茨木童子に、彼ら二人は近づいていたということだ。尤も、見事に罠に嵌る形でだが。
赫津鬼会若頭"災いの倅せがれ"
鬼童丸きどうまる
11.『鬼』
ドウッ!!
鬼童丸は再び刀を掲げ、地面を蹴って鴉に迫る。
「ぐッ──!」
攻撃を刀で受けた鴉。
しかし鬼童丸の勢いを止めることは叶わず、そのまま吹き飛ばされてしまう。
後方にはコンクリートの壁。
建物の地下の駐車場を隔てる壁がある。それに鴉と鬼童丸は突っ込んでいき、大穴を空けたのだった。
「鴉!!」
「よせ……あんたが行ってもどうにもならない。ましてや武器が無いなら……な。あれは鬼だぞ。普通の妖あやかしですら敵わない……」
砂埃が舞い上がる穴に、加山は叫ぶ。
浮浪者は加山の近くにまで這いずって行き、今にも鴉たちの元へ走り出しそうな彼女を制止した。
「あなた、妖怪なんでしょう! 何か弱点とか知らないの!?」
「鬼に弱点は無い……。屈強な肉体、莫大な妖力……それに奴は、あの伝・説・の・鬼・の血を継ぐ者だ……。鬼の中でも最たる実力者と言える」
「そんな……!」
「それが『赫津鬼会あかつきかい』の若頭、鬼童丸だ」
「あかつき……? まさか……それって、茨木童子の……!?」
加山にとってそれは聞き覚えのある言葉だった。
先程まで鴉と彼女が追っていたのは、暁グループの代表である茨木童子。
彼の牛耳っているという噂の、極道組織の捜索だった。
赫津鬼会。鬼。鬼童丸という、若頭。
パズルのピースが、綺麗に当て嵌まった。
「探っていたのか……。茨木童子が極道だという話は、事実だ。だが、この話の裏を取れていても警察は動けないだろう……。相手が妖だからというのもあるが……グフッ……!」
「! 大丈夫!?」
「ハァ……ハァ……た、頼む……。俺を助けてくれ……。鬼共は、俺たち妖を奴隷のように使い、捨てる……! し、死にたくないんだ……。黄泉へ、行きたく……!」
「で、でも…………」
妖怪の浮浪者は胸を押さえて苦しむ。
格好からして、今までかなり悪辣で不衛生な環境に身を置いていたのだろう。
先程男たちのリンチに遭っていたのも含めて、彼は被害者に違いないというのは加山にもわかる。
しかし、彼女の心の中ではブレーキが踏まれていた。
相手は妖怪だ。本当に助けていいのか……?
彼を助けるために、この場を離れていいのか?
そんな疑問が彼女の中で渦巻いていた。
───────────
「うぐっ……! あぁッ……」
瓦礫と砂埃の中で、鴉が痛みに耐えながら立ち上がる。
背中から強く、コンクリートを破壊するほどの勢いで壁に叩きつけられたのだ。
いくら人間より頑丈な鴉とはいえ、受けた衝撃は彼にとってとても強く、一時的に呼吸まで難しくさせるには十分だった。
一方で、鬼童丸は一切表情を変えていない。
鬼の頑強さと腕力は妖怪の中でも頭抜けている。この程度の衝撃では彼は動じない。
「はぁ……はぁ……。くっ……まさかいきなりかち合うとは……思ってなかったが……!」
鴉は帽子とコートを脱ぎ去る。
魃と姑獲鳥の時には脱がなかったが、今回は相手が違いすぎる。本気で挑まなくては、死ぬのは鴉の方だ。
「……かかって来い」
腰を落として構える。
鬼童丸もはだけていたシャツと上着を脱ぎ捨て、上裸になると、再び刀を掲げて戦闘態勢に入る。
ただ服を脱いだだけというのに、鬼童丸のまさに筋骨隆々という様の肉体は鴉を十分すぎるほどの威圧を与えた。
ダンッ!!
鬼童丸は床を陥没させるほどの脚力で跳躍。
両手で刀の柄を握り締め、振り上げ、そして敵の脳天目掛けて振り下ろす。
鴉はその動きを、一切視線を動かさず瞬きも無くし、全て視界に収めていた。
振り下ろされる刀は、鴉を捉えなかった。
空を切る。鬼童丸の目の前には誰もいない。
(もらった──!)
鴉は鬼童丸の背後にいる。刀を持ち手の逆の肩辺りで構え、刺突を放とうとしていた。
鬼童丸のガラ空きの背中、ちょうど心臓のある位置に向けて、鴉は素早く鋒を突き立てた。
「ッ……!?」
(さ、刺さらない……!)
肩甲骨の隙間は狙った。
しかし、刀は肉を貫くどころか刺さりもせず、血の一滴も流れはしなかった。
骨だけではない。
鬼童丸、いや鬼の筋肉は甲冑に守られる必要はなかった。
それはただ、強固な肉の鎧であるから。
裸体であれ、鬼の命は常に越えられらない分厚い壁に囲まれているのだ。
ドカッ──!
「ぐっ」
動きを止めた鴉に向け、鬼童丸は背を向けたまま蹴りを放つ。それは鴉の腹に突き刺さり、彼を怯ませた。
生まれる隙。鬼童丸はそれを逃さない。
鴉が体勢を整えない内に振り向き、刀を持ち直す。鋒を地面に下ろし、斬り上げんとする。
「うあアァッ!」
刃が鴉に向かう。
しかし何とか身を翻し、胸元の皮を斬られてしまうだけに留めると、鴉は後方へ跳んで鬼童丸から距離を取った。
血が服の一部を赤く染め、頰を汗が伝う。
鴉が鴉として生き、戦ってきた時間の中で最も強大な相手。
加えて、鬼童丸はまだ一切本気を出していない。
故に、鴉の緊張も最大級であった。
「……何か喋ったらどうだ」
鬼童丸へ投げかける。
しかし、相変わらず口を開かない。表情も変わらない。
(不気味なやつだ……。知性の無い化け物ならまだしも、こいつは人の形をとって……服を着て、社会に混ざってる。なのに…………まさか喋れねぇのか?)
口はある。そして力む時の呼吸のために、口を動かしていたのも見えた。
口は確かに機能している。だが喋らない。
表情も変わらない。
「ッ!?」
鬼童丸は一瞬で距離を詰め、斬りかかる。
何とか回避し、真っ二つになるのを防いだ鴉は自身も負けじと刃を振るう。
鬼童丸の腹は鴉の刀を受け止め、薄皮一枚も切れることはない。
だが、鴉は臆さない。
転じて攻勢をかける。
「はぁぁぁッ!!」
鴉の猛攻が鬼童丸を襲う。
鬼童丸もまた刀を振るうが、鴉の体にそれが当たることはない。
回避、あるいは刀で受け流す。
受け止めはせず、滑らせるようにして攻撃を自身から遠ざける。手数なら鴉の方が上だった。
防御も回避もしない鬼童丸の体に幾度となく鴉の刃が当たるが、明確なダメージはやはり与えられない。
しかし、薄い透明な皮膚片は鴉の斬撃によって確かに斬り飛ばされていた。
「はりゃああっ!」
ザシュッ──!
「っ……!?」
刀の鋒が鬼童丸の左目を掠る。
すると、待ちに待った瞬間が訪れた。
舞ったのだ。血が。
(目なら通る──!)
鴉はすかさず右目も潰そうとする。
しかし鬼童丸はそれを許しはしない。
空いている左手で、鴉の刀を握り攻撃を妨げる。そうなれば今度は鴉がピンチだ。
だが……
バキュゥゥゥゥンッ!!
「ッ!!」
鴉の刀は動かない。動きは封じたはずだった。
刀を握っていたのは、鬼童丸と同じく右手。
つまり左手は空いていた。
その手には、拳銃が在った。
古い、百年ほど前に日本軍で使われていたような回転式拳銃リボルバーが握られていた。
放たれた弾丸は鬼童丸の右目にヒット。
鮮血を撒き散らしながら大きく怯み、思わず後ずさる。
初めてダメージを与えられた。そう実感するには十分すぎる成果。
この確実な隙がある中、鴉が容赦する理由は無かった。
(粘膜なら攻撃は通る……!! だったら、口から脳天貫いてくれるッ!)
鬼童丸が刀から手を離したことで、鴉は自由を得る。再び刺突の構えを取り、狙うは鬼の口の中。
そこから脳を刺し貫くつもりだ。
腰を大きく落とし、膝を曲げ、そして力を解放。
バネのように推進して鴉は鬼童丸の顔面を鋒で襲う。
「なっ…………」
突如、鴉の眼前から鬼童丸が消える。
刺し貫くため、伸び切った刀は空を切って……そして何より、無防備であった。
鴉がここからどのように動くにせよ、ワンテンポ遅れてしまう。
その事実に彼が気づいた頃には手遅れだった。
ガッシャァァーーンッ!!
鴉の視界がブレる。
その瞬間、体は後方にとてつもないスピードで吹き飛ばされ、駐車していたワゴン車に激突。
それで止まるどころか、車体を貫通してコンクリートの壁にめり込んでしまう。
壁一面にひびが入り、その中心に磔になったようにして身動きが取れなくなった鴉は、完全に意識を手放してしまっていた。
両目から血を流す鬼童丸。
傷は未だ癒えず、瞼も閉じている。
振り抜かれた剛拳は力強く握り締められていた。
12.取引
「た、助けるって……私はどうすればいいのよ……!」
「はぁ……はぁ……!!」
息苦しそうにする浮浪者。
しかし妖怪である彼に助けを求められ、鴉も鬼童丸と交戦している現在、自身が何をすべきなのか加山はわからなかった。
助けたいと思う、自身が助けるべきと思う人間はここにはいない。
鴉に加勢しようにも、自分が行ってどうにかなる相手ではないのだ。鬼ともなれば。
すると、地下駐車場の方から爆音が轟いた。
硬い大質量のもの同士が、物凄い勢いでぶつかったような。
そうした音だった。
「っ……!? 今のは……!?」
「……まさか…………」
「か……鴉は!? 鴉ッ!」
「行くなっ! ここで待っていろ……。奴の狙いは鴉だけだ……わざわざ死に行くことはない……」
「でも!」
浮浪者は加山の服を掴んで制止する。
鬼童丸のことを知る彼からすれば、鴉が勝ったとは到底思えなかった。
故に、加山を行かせて自身も助けてもらうチャンスを見逃すことはできなかった。
駐車場から足音が響いてくる。
何かを引きずっているような音も、足音に混ざって聞こえてくる。
二人は息を呑んで、音の主が陰から姿を現すのを待った。
「……っ!!」
「か……鴉……! そんな……!」
姿を現したのは鬼童丸だった。
彼は刀を納め、右手で気絶した鴉を引きずっていた。
鴉の服はボロボロで、外傷も見受けられる。
一方で、鬼童丸は頬の辺りに血が流れたような痕・しか見当たらない。無傷であった。
おそらく戦いは一方的なものだったのだろう。加山と浮浪者はそう思わずにはいられない。
「き、鬼童丸……!」
鬼童丸は浮浪者にチラリと目をやる。
目が合い、冷や汗が溢れ出る。
頼むから何もしないでくれと、浮浪者は心の中で手を合わせて懸命に祈る。
その思いが届いたのか、鬼童丸は彼から視線を外してそのまま二人の間を堂々と歩いていく。
まるで眼中に無いかのように。
浮浪者も、加山も、動くことができなかった。
鬼童丸の放つ妖力が、彼らの体を押さえつけていたのか。
それとも鴉を簡単に打倒できる力強さに対する恐怖が、彼らの体を縛りつけたのか。
どちらかはわからないが、二人の間を鬼童丸が完全に通り過ぎるまで、加山と浮浪者は立ち竦むばかりだった。
───────────
薄暗い部屋の中。
冷たい床と壁が、ただひとり残された者を取り囲む。
部屋のど真ん中に寝かされた男、鴉は、左手の甲を彼の持っていた刀で突き刺され、釘のようにして床に固定させられていた。
そして彼の目の前には煌々と光を放つ、スマートフォンが一台。画面が鴉の方に向くようにして、椅子の上に立てかけられていた。
鴉の指がピクリと動く。
そして頭も持ち上げる。鴉が覚醒した。
「うっ……ぐ……」
『……ようやくお目覚めか。かれこれ六時間は寝ていたぞ。外ももう夜だ』
鴉が上体を起こそうとするも、左手に刀が突きたてられているせいで動けない。
顔を上げれば、画面に映っている何者かが鴉に対して小言を漏らす。
目覚めたばかりで視界が不鮮明だが、声の主が男だというのはわかった。
「……誰だ……お前は」
『お前たちが探していた者だ。嗅ぎ回っていたろう? 歌武伎町を。わざわざ顔を見せてやったんだ。よく見ろ……』
鴉は目を凝らし、画面の男を注視する。
黒スーツ姿のその男は、分厚いオフィスチェアに腰を深く沈めて鴉を睨みつけていた。
襟には金色のピンバッジのような物があり、そして……右袖は力無く垂れ下がっていた。
隻腕であった。
鴉は理解する。画面の中のこの男こそが、昼間加山と共に探していた、茨木童子。
「茨木、童子か……」
『ご名答。暁グループ代表、及び赫津鬼会会長、茨木童子だ。うちの若頭、倅せがれ殿が失礼したな』
茨木童子がそう言うと、彼の側に鬼童丸が立つ。
倅殿というのは彼のことらしい。
相変わらず表情が無く、じっと虚空を見つめている。
鴉をこの部屋に運んだのもおそらく彼だろうが、それは茨木童子の命令だろう。
気持ちのこもっていない謝罪を簡単に口にする辺りから、鴉はそう察する。
「俺をこの部屋に閉じ込めて……何のつもりだ、お前ら……!」
『閉じ込めたことに大した意味は無い。ただ、お前とぜひ取引がしたいと思ってな』
「取引だと?」
『ああ。きっとお前にとっても悪くない内容のはずだ。四大財閥を全員倒すつもりというのなら、俺たちと一時手を組もう……そういう話だ』
「なに……!?」
茨木童子の率いる『暁グループ』も四大財閥に数えられる。
自分の会社も含めて鴉が倒そうとしているのを理解した上で、茨木童子は敵である彼と手を組もうというのだ。
鴉の頭の中は驚きの感情で満たされる。
手を組む、組まない以前にそのようにして茨木童子に何のメリットがあるというのか。
何かが隠されている。
そう思わずにはいられない鴉は、茨木童子の言葉を鵜呑みにすることはできなかった。
『お前の纏う黄泉の匂いは、とっくに玉藻や他の奴らの鼻に触れている。俺たちとお前の関わりを悟られないよう、こういう形で話し合う必要があった。まあ、我々の拠点の位置を教えたくないのもあるがな』
「何だと?」
『この前の、東饗政樹病院での戦い。あれは玉藻の手の上で踊らされていただけに過ぎない。奴の遊びだ』
「遊び……」
『玉藻は最も食えない奴だ。裏で何を考えているかわからん……それは月兎もだが。俺たちからしても奴らは邪魔な存在なんだよ。俺たちもお前と同じく、奴らを始末したい』
「だから俺と手を組みたいと?」
『ああ。この国を賭けた……この国の頂点に立つ者が誰か、それを巡る冷戦が今行われている。一石を投じるには、お前の存在が不可欠だ』
『ニンテラ』の玉藻草司。
『一目連龍水道』の瑞子鳴河。
『幻明芸能』の月兎。
彼らを打ち倒し、茨木童子は日本の頂点に立つと、そう言った。
冷戦状態。すなわち、現在四大財閥のトップの間では睨み合いが続いているということだ。
その拮抗状態を鴉を交えることによって崩すというのが、茨木童子の目的だった。
「…………」
『何もこの場で返事を貰おうだなんて思っていない。どうせお前も今すぐ答えを出せやしないだろう。このスマホを持って行け。連絡手段だ』
「その前に」
『ん?』
「取引っていうなら……互いの得が明瞭であるべきだ。俺はお前らを手伝うだけか? 四大財閥の長たちを殺すのは俺の使命のうちだが、お・前・は・ど・う・な・る・つ・も・り・だ・?」
『……どういう意味だ?』
「お前以外の奴らを、お前と手を組んで倒すのは良い。だが、最後に残ったお前も殺せなければ、俺に得があるとは言えない。まさか自殺でもしてくれるんじゃないだろうな」
確かに四大財閥のうち三者を殺せるのは鴉にとってのメリットではある。
だが、残る茨木童子までも殺せなければ取引は成立しないというのが鴉の言い分だった。
なんとも強欲で、身の程を弁えない主張。
しかし鴉も、取引という名目で茨木童子の走狗になることは望んではいなかった。
財閥の大妖怪たちを殺せるとしても。
『フン。威勢がいいのは結構だが、お前はまだ現実をわかりきってはいないようだ。お前一人の力じゃ、財閥は一つも崩せない。倅殿に負けるようではな……。つまり、お前は使命を果たすには俺と手を組むしかないわけだ』
「……それなら、こっちも教えてもらおうじゃないか。お前らと手を組めば、他の三つの財閥は崩せるのか。その根拠を」
『…………』
「……無いのか?」
まさかの沈黙。
茨木童子は面白くなさそうな顔をするばかりだった。
鴉にとっても、この無言の返答は意外だった。
『確実に勝てるなら、お前と組もうとは思わない。だが、お前がいるだけで全てを変えられる。特に玉藻は、お前の存在を面白がってるからな……』
「面白がってるだと?」
『俺と倅殿が暴れるだけじゃ、総攻撃を受けて潰されかねん。だがお前がいれば、少なくとも玉藻は直接手を出すことはしない。月兎の奴も、表立って俺たちと敵対はしないだろう。そうすれば残るは……瑞子のみ』
「……計画は、あるようだな」
『ああ。良い返事を期待している』
鴉は手から刀を引き抜く。
赤黒い血がボタボタと垂れ、そのうち刀に付着した血液を払うと鞘に納めた。
そして立ち上がり、スマホを手に取る。
「……返事はもう決まった」
『ほう』
「手を組んでやる。いや、お前の走狗になる」
『…………つまり手駒になると?』
「ああ。お前の頼みを聞いてやると言っているんだ。だがもちろん、タダでは聞かない。そこは当然だろ。報酬は……お前の首だ」
13.『覚』
『報酬として俺の首を望むか。あくまでも』
「話を聞いてなかったのか? 俺はお前の走狗になるって言ったんだ。立場としてはお前の方が上……。その見返りとして、お前の首を寄越せって話だ。それぐらい求めても構わんだろ」
『……馬鹿な奴だ。だが……』
鴉は本心では茨木童子の手駒となることは望んではいない。
だが、彼が考えを改めたのにはこんな理由がある。それは至ってシンプルなものだ。
茨木童子は高圧的な態度だけで終わらず、自分たちの弱みと不利な状況を鴉に教えた。
それを利用され、他の四大財閥と潰し合いが行われることも予想できたはずだ。
つまり、彼はそんなリスクを覚悟の上で鴉に話を持ちかけたということになる。
弱みというのは、鴉にとって信頼の証でもあった。
「馬鹿はお前もだがな」
『フ……面白い鴉だ。気に入ったよ……。取引は成立だ。近いうちにまた連絡を寄越す。そのスマホは肌身離さず持っておけ』
「わかった」
『早いところ帰ってやれよ。あの人間の女、今頃お前の帰りを首を長くして待っていることだろう』
「余計な世話だ」
鴉がそう言った瞬間、プツリとスマホの画面が暗転する。
唯一の光源を失った部屋は完全な闇に閉ざされた。
と思われたが、背後からスマホの画面よりも弱々しい光が差し込んでいるのがすぐにわかった。
鴉が振り向けば、人一人何とか出入りできそうなサイズの窓があり、そこから街の光が入ってきていたのだ。
この部屋が街の中心からは遠い場所にあることも景色を見ればわかる。
鴉はスマホを服の中に仕舞うと、窓を開けて部屋を出る。
どこかの建物の一室かと思っていた鴉だったが、実際はその場所は建物の屋上、そこに置かれたコンテナルームだった。
夜風に髪とコートを靡かせながら、彼は加山の住んでいるマンションへと向かうのだった。
「……」
「どうした、倅殿。鴉のことが気になるのか? 時間は……まあ、間に合ったろう。奴が来るまでには鴉も離れている。案ぜずとも、GPSを確認すればよい」
「……フンッ……」
「鴉が首を縦に振らなければ、玉藻に奴を売る……。そんなことにならずに済んで良かったな」
数分後、そのコンテナの前にも何者かが降り立つ。
黒髪で、ボロ布を纏った青年だった。
東饗政樹病院での戦いの後、鴉と加山の目の前に現れたあの青年だった。尤も、その正体は変身した玉藻であるのだが。
「……おいおい、誰もいないじゃないか。茨木が鴉を捕まえたって聞いたから来たのになぁ。逃げられてるぞ?」
もぬけの殻になった部屋の中を見渡しながら、玉藻は呟く。
「ま、それでいいんだがね。いつも通り殺してちゃあ、つまらないってものだ。お次は誰を鴉にぶつけようか……。朧車、火車……いや片輪車……。ん? 全部車だな」
───────────
時刻は午後八時を回った頃、鴉は加山の住んでいるマンションに到着した。
およそ十時間前と同じようにベランダに跳び上がり、窓を透過して部屋の中に入る。
鴉は高い霊力や妖力を持たないものは自由にすり抜けられるのだ。
リビングの電気は点いており、それは窓の外からもわかっていた。
足を踏み入れた鴉を出迎えたのは加山。そして、あの浮浪者の妖怪だった。
「鴉! 無事だったのね……」
「ああ。……連れてきたのか? そいつを」
「ええ……まあ。あの後、酷く苦しんで……ここで介抱してたのよ。大丈夫、何もされてないわ」
「お騒がせしたな」
妖怪はソファに腰を埋めたまま、小さく頭を下げる。
昼間に見た時の格好とは打って変わって、小綺麗な服に着替えていた。
髪や肌も汚れが落ちて綺麗になっており、加山の風呂を借りたらしいことがわかる。
「もう問題が無いなら、とっとと帰ってもらった方がいい。妖力が漏れてる」
「……いいの?」
加山は小さな声で鴉に尋ねる。
彼女が言いたいことはわかる。
妖怪なのに、鴉として彼を殺す必要は無いのかということだ。無論、問題はない。
「こいつに黄泉の香りは無い。つまり、一度も死んでいない妖怪だ。珍しい生き残りだな」
鴉の使命は黄泉の国から逃げ出した妖怪を連れ戻すこと。
一度も死んでおらず、黄泉に行ったことのない妖怪を殺す必要は無いのである。
「だが、こいつがこの部屋にいることで他の妖怪の興味を引く。お前も早く帰れ」
「まぁ待ってくれ、鴉。俺はあんたと話したいことがあってな。ここで待ってたんだ。悪かったな、加山さん」
「俺と話したいだと?」
妖怪は腰を上げ、鴉の目の前に立つ。
昼間に会った時は小柄に見えた彼だが、見た目を良くした今では鴉とほぼ変わらない体格になっていた。
妖怪は鴉に聞く。
「鬼童丸にあの後殺されてないということは、あんた、もしかして茨木童子に会ったんじゃないか?」
「会ってはない。話はしたが」
「そうなの? 一体何を話してたの」
「それは……」
「スマホか」
鴉が口にしようとした瞬間、妖怪は口を挟む。
「ああ……よくわかったな」
鴉は服の中に仕舞っておいたスマホを取り出した。
「鬼たちは俺と接触してるってことを他の四大財閥に知られたくなかったようだ。だから対面で話はせず、こいつを通して話をしていた」
「"茨木童子と手を組む"って話だな?」
「えっ!?」
「……お前、まさか」
妖怪は再び口を挟む。
加山は彼が口走った内容に驚愕し、鴉はそこまで知っている妖怪を訝しむ。
そして、すぐに彼の正体について見当がついた。
だが鴉がそれを言葉にする前に、三度妖怪が口を開く。わかっていたかのように。
「ご名答。そうだ、俺は覚さとり。心を読める妖だ」
「やっぱりそうか」
鴉はため息混じりに呆れた様子を見せる。
普通に自己紹介をすればいいものを、わざわざ力をひけらかして正体を明かす。
覚という妖怪の本能なのだろうか。
そんな二人のやりとりに割って入り、加山は話を戻そうとする。
「そんなことより! 鴉、茨木童子と手を組んだって本当なの? どういう意味なの!?」
「四大財閥の妖怪どもを倒したいという利害一致だ。まあ、茨木童子も四体のうちの一角なんだがな」
「利害一致って……」
「鴉に代わって俺が話そう。あの辺りの事情は、俺の方が詳しいだろうからな」
せっかく立ち上がった覚は再びソファに腰を下ろす。
鴉もテーブルの椅子を引き、そこに座った。
「四大財閥のトップに立つ妖……玉藻、瑞子、月兎、茨木童子はこの国を取り合っている。表立って戦争をしているわけじゃないが、今のところはずっと睨み合いが続いている状態だ。奴らは金の力を使い、政府を超えてマスコミや軍にすら影響を及ぼしている……これは知っているな? それは奴らが日本を己が手にするための段階の一つだ」
「じゃあ、茨木童子は鴉を味方につけて日本の取り合いに決着をつけようっていうの? それなら鴉、考え直すのよ」
「まあ待て。はっきり言うが、鴉が単身奴らを倒すのはほぼ不可能と言っていい。鬼たちと組んだ方が、まだ現実的だ」
「そんな! それでも最後に日本を乗っ取られたら本末転倒じゃない!」
「最終的に鬼とぶつかり合うにせよ、そこまで漕ぎつけるまでの苦労を考えれば遥かに手を組んだ方がいい。四大財閥の連中は、日本より巨大な国を滅ぼして回った……神の如き大妖怪たちだからな」
「「!? 国を……滅ぼした?」」
加山と鴉は一緒になって驚嘆する。
覚はそんな二人に対して淡々と告げた。
「奴らが日本に集中するよりも前……いや、先にこっちの話をするべきか。加山さん、あんた、海外の話が以前よりも耳に入ってこなくなったと思わないかな?」
「え? まあ……そんな気もするけど……」
「四大財閥の連中はその時だけ結託し、海外の国々に戦争を仕掛けた。月兎は欧州を、瑞子は豪州を、鬼どもは米国を、そして玉藻は中国を……。たった一晩にしてそれらの国は落ち、日本を世界の頂に立たせられる最低限の力を持っている程度にまで、悉く破壊し尽くしたんだ。そして金に物を言わせ、情報統制を行いマスコミを黙らせている」
「……っ!! そんな…………!」
覚の口から語られた衝撃の事実。
加山は驚きの表情を見せ、唖然としていた。
警察に身を置きながら、そんな情報は一切入ってこなかったのだから。
つまり、病院の屋上で出会ったあの青年が言うように、警察すらも財閥の手にあるということなのか。
だが、ここで一つ疑問が生まれる。
鴉はそれを覚にぶつけた。
「待て、覚。お前どうして加山ですら知らないことをそんなに知っている? お前、何者なんだ? 鬼童丸たちに利用されていただけなんじゃないのか?」
「ああ、その通りだ。俺は……いや、俺・た・ち・は赫津鬼会に利用されていた。奴隷としてな」
「どういう意味だ」
「赫津鬼会は死んだことのない妖を攫い、奴隷同然の扱いをしている。その中でたまたま鬼童丸や茨木童子の顔を見ることもあってな。その時に奴らの心を読んだんだ。単にそうした話が耳に飛び込んできたっていうのもあるがな……」
「妖怪が、妖怪を奴隷として? どうしてそんなことを……」
「さあな。だが、さっき話した内容の中に四大財閥で鬼どもだけ他の妖と違う部分があった。一箇所だけだ。わかるか?」
覚が尋ねるが、二人とも沈黙で応答する。
しばらく考えて、加山が手を上げた。
「もしかして、国を滅ぼしたのところ? 他の妖怪は一体だけでやってるのに鬼だけ集団でって……」
「その通りだ。はっきり言えば、赫津鬼会は四大財閥の中で最も力が弱い組織だ。玉藻や瑞子たちと張り合えているのが不思議でならない。奴らと張り合える、チ・カ・ラ・以外の何かが……赫津鬼会にあると俺は考えている」
「その辺りはお前の力でもわからなかったのか」
「まあな……。あの時は余裕が無かった。また顔を見れさえすれば、読めるんだがな……。だが、ここでチャンスが生まれた」
「鬼と俺が手を組むってのがそれか」
「ああ。俺からあんたへの依頼だ。そしてそれはきっと、将来的にはあんたにとっても役に立つ情報になるはずだ。あんたに暴いてもらいたい。赫津鬼会の、秘密を」
14.次なる刺客
「赫津鬼会の秘密……もしそれを知れたら、鴉は鬼に対して有利な状況になれるかもしれないわ」
加山が頷く。
暴いてほしい。そう言うということは、基本覚は鬼たちに関わらない立ち位置にい続けるつもりであるのだろう。
直接鬼と会ったり近づくようなことがあれば、彼は情報を流す上に心の読める危険因子であり、即抹殺される危険もある。
だから茨木童子と手を組んだ鴉が秘密を暴きに行くのがよい。そういうことだ。
しかし、鴉には疑問が一つあった。
「……覚、どうしてお前は赫津鬼会の秘密を知りたいんだ? お前は俺に秘密の件を教えるだけでいいものを、わざわざ俺に暴くことを依頼した。どうしてもそこが腑に落ちない。お前に何の利益がある」
「利益、か」
覚は再び立ち上がる。
そして鴉の目をじっと見て、答えた。
「そんなものはない……。お前が鬼共あいつらを倒すのに役立ててほしい……そして、俺の仲間たちの無念を晴らすのをお前に託したいだけだ」
「それをするのが、お前自身じゃ駄目なのか」
「ハッキリ言ってしまえば、俺はもう心が折れた。奴らの力と恐怖に屈したんだ。あいつらの妖力を当てられただけで、体が竦んで動けなくなる。おまけに、力も鬼より弱いからな……。逆立ちしても勝てやしない」
「……」
覚の言葉を聞き、鴉は彼に鋭い眼差しを送る。
覚の仲間というのは、おそらく同族に限らず一度も死なずに今まで生き残ってきた妖怪たちのことを言うのだろう。
彼らは鬼に奴隷として働かされていた。
覚が鬼に報復を願い、仲間の無念を晴らしたいと思うほど、それは過酷な状況だったに違いない。
しかし、鴉は……
「秘密は暴きに行く。だが…‥お前らの無念はどうでもいい」
口にした言葉はそれだった。
「鴉、そんな言い方……」
「加山。覚こいつは丁度いいところにやって来た俺に全部背負わせて、自分は安全な場所に閉じこもってようとするクズだ。生き残りの妖怪を殺すのは俺の使命じゃないし、俺も殺そうとは思わないが、こんなヤツは死のうが喰われようがどうでもいい」
「鴉……」
「いいか? 覚。無念を晴らしたいならお前の手でだ。他人に頼むな。時間と、都合の良い誰かが解決してくれるものだと思うんじゃない。禍根を消せるのは自分だけなんだよ」
鴉はいつもよりドスの効いた声で覚に言う。
覚も、そんな鴉の様子を見て閉口していた。「丁度いいところにやって来た鴉に」「使命のついでに仲間の無念を」。
それが、鴉の逆鱗に触れたのだ。
それを加山も悟ったのか、言い方だけを注意して彼の言葉を遮りはしなかった。
「覚、もう帰れ。俺も行く。情報に関しては感謝する」
「ああ……そうだな。加山さん、悪かったな……長居して」
「いえ、それはいいけど……。あなたは帰るところあるの? ホームレスだし、それに敵もいるんでしょ?」
「行く当てはある。見つからないかはわからないがな……。だがまあ、構わない」
覚は鴉に目をやりながらそう答える。
鴉も加山に別れを告げ、窓をすり抜けてベランダから外へと飛び出した。
「玄関から出てってって言ったのに」と、その様子を見て加山は呆れていた。
それに対して覚は窓を開け、猿のように階下のベランダの手すりやパイプを掴んで地上に降りていくのだった。
───────────
「…………」
「…………」
家路……というわけではないが、加山のマンションを離れて同じ道を歩いていく鴉と覚の間には重苦しい空気が流れていた。
お互い何とも思ってはいない。
ただ、話すことが無いだけである。
それはそれとして、鴉は先程の覚の言葉には本気で憤っていた。覚も、それを読・ん・で・い・た・。
「…………」
「…………」
「……鴉」
「……どうした」
「さっきのことだが……鴉というのは皆、ああなのか?」
「どういう意味だ」
「俺は、鴉は遍あまねく黄泉の住人だと思っていた。妖ではなく、黄泉の神が生み出し、統治していた本来の黄泉の国の住人だとな」
「…………」
鴉は閉口し再び無言に。
覚はあの時、鴉の心を読んでいた。
心の中、そこに広がる情景を。
彼が目にしたのは、葦の広がる暗い闇の世界ではなかった。
空は確かに暗かったが、世界は炎に包まれていた。
小さな無数の光が空を飛び交い、たまに地響きが起こったのか風景が小刻みに揺れる。
周りで土を噛むようにして倒れ伏しているのは、軍服を着た大勢の人・間・。
その光景を見て、覚はすぐに理解した。
炎は戦火、空の光は星ではなく戦闘機。
そして周りに倒れていた人々が身につけていた紋章は……
「お前は」
「黙れ」
「…………すまない」
鴉は加山の部屋で口にした時よりも、さらに低い声で覚を黙らせる。
覚の方も流石に踏み込み過ぎたと思ったのか、しばらく呆然とした後に謝罪をした。
二人は歩みを止めず、覚にとって最適な隠れ家探しを続けるのだった。
───────────
鴉は静かに目を覚ます。
窓から差し込んでくる朝日が顔を照らしていた。
彼はテナントの入っていない建物の中で眠っていた。
いくら人間より圧倒的な再生力を持つとはいえ、流石に連日戦っていれば鴉も体力を消耗するのだ。
昨晩ここに来るまでに覚とは別れていた。つまり覚の隠れ家を鴉は知らない。
覚は加山のマンションを知っているため、何かあればそこに行くと言っていた。
危険にも思うが、鴉が鬼童丸に連れ去られ戻ってくるまで加山には何もしていなかった。
そこの保証はできると踏んだのだ。
「……ああ、昨夜あいつに渡したんだったな」
鴉は胸元に手をやり、煙草を手にしようとする。
しかし箱は服の中には入っていなかった。
黄泉の香りを纏えば少なくとも鬼は近づいて来ないだろう。
覚がそう言うので渡したのを、たった今思い出す。
「…………」
鴉はピタリと動きを止め、集中する。
目が覚めてからまだ数十秒。
頭も視界もまだ不明瞭だが、体は確かに異様な気配を感じ取った。
妖力だ。
「こんな朝っぱらからか……。いいぜ、やってやる」
鴉は近くに立て掛けていた刀を手に取り、軍帽を被り直す。
そして近くの窓を開けて、すぐ上の出っ張りに手を掴むと窓枠に足をかけて跳び上がった。
建物は四階建て。
屋上から眺めれば遠くに歌武伎町が見える。
感じ取れる妖力はそこそこだった。鬼童丸には遠く及ばない。
しかしまだ近くにいるというわけでは──
『ねェーーっ、ねェーーっ』
「え?」
ズバァァッ!
「うぐああッ!?」
不協和音としか言いようのない声が、突如背後から聞こえた。
それに反応し顔だけで振り向けば、瞬間的に熱さと痛みが背中に走り、赤い血が宙を舞う。
「う、ぐッ……! こいつ!?」
斬られた。
しかし鴉は受けた攻撃を利用し体をのけ反らせ、そのまま前方に転がって背後へと向き直る。
視界にそいつを収めてみれば、襲撃犯の正体がわかる。
蟲の妖怪だった。
言ってみれば、人間の胴体より一回り大きな蝿か鈴虫のよう。
六本脚で、一番前の二本は鎌のような形状になっていた。
だが異様なのはその顔面であり、頭部自体はまさしく蟲のそれなのだが、目は人間のものだった。
そして口は蟲らしくない縦開きであり、歪な歯が生えそろっていたのだ。
「…………!?」
(何だこいつ……。こんな妖怪知らないぞ……。だが、このタイミングで仕掛けてきたということは……まさか、玉藻の……!?)
自分がいた場所がバレたのか?
鴉はそう考える。
ならば玉藻が自身の位置を把握する術を持っているというのか。それともこの妖怪がそうなのか。
どのみち、鴉は自分が妖怪を追う側という意識であった。
黄泉の香りに妖力、それらを感じ取れるから。
鴉は黄泉の香りを纏うが、妖力を発してはいない。妖怪から鴉を追うのは困難なのだ。
「……待てよ。そういえば茨木童子は玉藻に場所を悟られないためだと言って、俺を閉じ込めていた。なら、俺の場所を探れるのは玉藻じゃない……? こいつ自身か……!」
鴉の居場所を探るのに、彼がどこかに痕跡を残した可能性も十分ある。
しかし、最も危機感を持つべきは今彼が至った結論だ。
この妖怪を逃せば、自分の位置は丸わかりになってしまうことだろう。
そうなれば、茨木童子たちとの関係もバレてしまう。
そうなっては、せっかく得られた四大財閥を崩す算段も全て水泡に帰す。
今ここで、この蟲を殺さねば。
「……かかって来い。鬼童丸にやられて気分が悪かったが、丁度いい。お前で晴らしてやる。どっちにせよ、お前も黄泉に送らないといけないからな」
完全に目が覚めた鴉は、刀を握り直して腰を落とす。
彼の構えを目にして、蟲は口角を吊り上げる。
三日連続の戦いだが鴉の闘志は燃え盛っていた。
目の前のニヤケ面を斬り伏せてやる、そう意気込んで。
"妖狐の愛蟲"
祢々ねね
15.『鳴く妖蟲』
『ねぇーーっ、ねぇーっ』
「…………」
明らかに人間のものではない口元と声色だが、確かに「ネーネー」と鳴いている。
妖蟲、祢々ねねはその鳴き声から名前を付けられたのだ。
祢々切丸ねねきりまるという大太刀が存在するが、祢々はそれにまつわる妖怪。
一人でに動き出したその刀が、山や川を飛び越え続けやがて祢々を討伐したという。
鎌状の前脚を擦り合わせながら、歪で醜悪な口元をニヤケさせて鴉をじっと見つめている。
一応人面であるが、そこはやはり蟲。
鴉からして思考を読むのが難しい。
だが、それが珍しい相手というわけではなかった。
妖怪にも多く、知性なき獣のようなものたちは存在している。
『ねッ、ギギギギッ!』
「!」
祢々は構える鴉に正面切って飛びかかる。
二つの鎌を広げ、挟み切るつもりだ。
しかし、簡単に捕まる鴉ではない。
「ふッ──」
素早く身をかがめ、その頭上を祢々が通過する。
蟲の妖怪の倒し方は知っている。硬い甲殻に覆われている──すなわち昆虫の類の──妖怪は、馬鹿正直に頭や背中を叩っ斬ろうとしても無意味だ。
柔らかい腹、あるいは関節を狙う。
祢々の下に来た鴉からは、現在狙い放題だ。
「しぃやッ!」
『ねッ!?』
鋒を上に向け、刀で祢々を突き上げようとする鴉。
狙いは柔らかそうな腹……だったが、それに反応できた祢々は体の向きを高速で90度回転させる。
狙いが外れ、祢々の脚の一本だけが刀の餌食となって千切れ飛んだ。
本体は無傷だ。
そして鎌の刃ではない側で薙ぎ払い、それが鴉の横顔にヒット。
大したダメージも衝撃もなかったが、一瞬彼はよろめいてしまう。だがこれは十分な隙となった。
『ねェェギャァァッ!!』
「ぐっ!?」
ガギィィンッ!
「あ、危な──」
『ねぇぇぇええっ!』
「うぐあっ!」
祢々は鎌を薙ぎ払った勢いを殺さず、体をぐるっと一回転させる。
そしてそのまま、もう片方の鎌で鴉を頭から縦に真っ二つにせんと振り下ろした。
鴉はなんとかその一撃だけは刀で防いだものの、防御姿勢は完璧ではなかった。
刀を横に構えて、上からの斬撃を防いでいる。
つまり今のままでは、下からの攻撃には無防備ということ。
祢々は自身の腹の先端もとい尻を振り抜き、サマーソルトよろしく鴉の顎を打ち上げたのだ。
(こ、こいつ……知性の無いタイプの妖怪だと思ってたが、存外考えてやがるッ……! 武器として変形してる前脚以外を、まさか攻撃に使うとは)
バク転し祢々から距離を取り、再び刀を構える。
鴉としてはやりづらい相手だった。
彼の経験則から言えば、形が人に近い妖怪や人語を扱う妖怪というのは基本的に頭が良く、戦い方も多様なものとなる。
例えば武器を使ったり、手を使う以外にも本来戦いのために発達していない器官で頭突きや蹴りを放つ等。そんな例は多い。
だが、明らかに姿が人外かつ言葉を話さない妖怪は獣と同じ。
狩りや戦いのための器官や能力だけを使う。
この祢々は、それに当てはまらないのだ。
「……脚は一本もらった。俺は正直お前をナメてたが、それはお前も同じらしいな。さっきの面はどうした?」
祢々が言葉を理解できるかはわからない。
鴉は挑発するかのように言葉を投げかける。
『ギギギ……! ねェェェねェェェ……!』
「ずいぶん余裕の無い顔だな。もっと楽に狩れると思ってタ・カ・を・括・っ・て・た・ろ・?」
祢々は目を血走らせ、ギリギリと歪な乱杭歯らんぐいばを軋ませる。
先程までの笑みは消え、脚を斬られた怒りを顔に滲ませていた。
鴉にとっては助かりもする。
祢々にとって、何が怒りの起点なのか。どんなダメージなら通用するのか。それが一度にわかったのだから。
(だがそれはそれとして、こいつの攻撃はさらに増す……。間違いない。怒りは力を生む。パワーこそ大したことはないが、気をつけるべきはスピードだ)
最初にくらった祢々の不意打ち。
あの時妖力は近くに感じなかったが、一瞬で距離を詰めてきた。
あれが本来のスピードと思えば、先程の攻防の比ではない。さらに過激な攻撃を浴びせてくるに違いない。
鴉は警戒を強めた。
『ねェェェェェッ……!!』
「っ……!?」
祢々は低く唸り始める。
それと同時に、彼の発する妖力がボコンっと膨れ上がるように増大。
さらには彼らが屋上で戦っている、その建物……いや、周囲の大地が揺れ始めた。
───────────
「今回の祢々はずいぶん短気だねぇ。久々に傷つけられたからか」
真っ暗で広い部屋の中、巨大なモニターを眺めながら玉藻が呟く。
今回の戦いもまた、玉藻が魃や姑獲鳥を鴉にぶつけた時のように彼の遊びと試行の一環であった。
『脚斬られるのは重傷じゃねぇのか? まァ、祢々のやつも鴉のことをなめ腐ってたのが悪いがな』
別の場所で玉藻と同じ光景を観ている者がいる。
瑞子みずこと茨木童子だ。今回は月兎はいない。
モニターに映る映像は祢々の視界を玉藻の力によって共有しているものであり、それを三名で同時視聴していたのだ。
モニターの中にはワイプのようにもう二つの画面があり、それぞれに瑞子と茨木童子が映っている。
右目から首にかけて大きく抉れたような傷跡のある男、瑞子が玉藻に尋ねた。
『しかし次送るのが祢々で良かったのか? あいつ、負・け・な・し・だろ? これでもう鴉のこと殺すだろ』
「おや、君はてっきり嬉しく思ってるものかと……。鴉に魃をやられた借りがあるじゃないか。忘れたのか? 浮かばれないねぇ」
『だからそれはテメェがやったことだろうが!!』
ダン! とテーブルを拳で叩く音が鳴り響く。
近くに置いていたコップはその衝撃で小さく跳ね、中に入っていた水が宙へ飛び出してしまう。
しかしそれらがテーブルの上に溢れることはなく、フワフワと滞空していた。
『俺んとこの妖あやかしを軒並み洗脳してして持ち帰りやがって……!」
瑞子は怒りで声を震わせ、怨嗟を吐く。
洗脳は玉藻の能力の一部だ。尤もそれほど特別なものではなく、相手の妖力と魂に干渉して手駒にする程度。
玉藻でなくとも、彼と同程度の妖力を持っていれば後は技術だけの問題となる。
しかし、玉藻の妖力はそもそも桁外れの領域にある。四大財閥の中では頭三つほど飛び抜けたトップだ。
「ふふ……皆、君に対する忠誠が足りなかったようだね」
『だからテメェが無理やり……』
「この世は力・を・持・つ・者・が支配できる。頂いただきに立てるのは、誰よりも抜きん出た強者だけだ。君の配下の忠誠が足りなかったというのは、すなわち、君の実力不足に他ならないのでは? 口でしかどうこう言えない弱者ほど、見苦しいものはないね」
『っ……!! チィッ!』
「ははっ、冗談だってばさぁ。私が無理やり連れてっただけだし、君は厄介だよ。ある意味、この東饗を一番牛耳れてるわけだから」
玉藻はわざとらしくおどけて言うが、その目は一切笑ってはいなかった。
言い返せなくなった瑞子は通信の切断ボタンに一瞬手を伸ばすが、ギリギリでプライドが制止し、引っ込めることに成功した。
玉藻と瑞子がそうしている間、ずっと無言を貫いていたのが茨木童子だ。
彼は昨晩鴉と手を組んだ後で、すぐに祢々を鴉に送るという話を玉藻から受けた。
元々捕まえた鴉を玉藻に渡すというつもり(鴉との取引が決裂した際の口封じのために)だったが、ならばすぐに鴉を見つけてやると、祢々の話が出てきたのだ。
(……正直肝は冷やした。この状況、玉藻は全てを知った上で祢々を送ったとも取れる。今まで、祢々あいつは玉藻の興味が失せた鴉を始末することしかしていなかったからな……)
茨木童子はデスクにパソコンを開き、それで映像を観ていた。
自分を映すカメラにそれが映らないよう注意しながら、デスクの下でスマホの画面を操作する。
打ち込んでいたのは命令。
宛先の欄には鬼童丸の名前があった。
彼は鬼童丸に何かを頼むつもりだ。
「……おや、茨木童子は何をしているんだ? なんか左手がモゾモゾ動いてるように見えるけど」
『……わかるだろ。夏場は蒸・れ・る・んだ。通気性の良いズボンか下着があったら教えてくれ』
「あぁ、なるほどね。でもそれなら、もっとわからないように掻・く・べきだろうさ? 鬼ってのは品が無いねぇ。蛮族だからか」
サラッと鬼を愚弄する玉藻だが、茨木童子は一切意に介してはいなかった。
鬼童丸に送るメッセージを打ち終わり、指令を飛ばす。
(祢々は厄介だ……俺たちが知る玉藻の手駒の中でも特に……。生き延びることは当然だが、逃すようなこともするなよ、鴉。奴は必ず殺せ)
───────────
『ねェェェェェアァァァアアッ!!』
「な、何だ……!? この揺れは!?」
祢々の妖力は高まり続ける。
それに伴い、建物の揺れも更に増す。
立っていられないわけではないが、腰を落として軸がブレないようにしていた鴉も、つい体勢を崩してしまいそうなほどだった。
「くっ……! 何かわからないが……やられる前に首をッ!」
祢々は滞空しながらひたすら声を上げているばかり。
妖力の高まりと揺れに驚いていた鴉だったが、祢々が動かないというのなら今は絶好の機会だ。
鴉は揺れに膝を突きながらも、一瞬で足を踏み締め直し、そして祢々に飛びかかろうとする。
しかし次の瞬間。
『ア゛ァ゛ァ゛ァア゛ア゛ァ゛アァァァッ!!!』
ビギビギビギビギィィッ!!
「うあっ!?」
(足場が、崩れっ──!?)
『ネェ゛エエエエエアアァァァアァッ!!』
「なッ……!?」
頭が潰れるかと思うほどの声量で祢々が絶叫したかと思えば、建物に亀裂が入り始め屋上が崩壊。
足場を失って落下する鴉が目撃したのは崩落していく建物。そしてそのガレキの間に見えた、周囲の建物も同じようにして崩れていく様だった。
それだけではない。
巻き上がったコンクリートの粉塵が渦を巻き、祢々の周りに無数の槍のようになって固まっていく。
そしてそれらは高速で射出され、鴉を貫かんと上から降ってくる。
「まずッ……!!」
(空中じゃ避けられな──)
ドスドスドズゥゥッ!
「ッ……!! がッ……」
コンクリートの槍は鴉の体に打ち込まれ、更には落下するスピードを加速させる。
何とか頭や胸に刺さらないようには避けられたが、腕や肩、脇腹には杭のように打ち込まれている。
鴉はガレキの海に真っ逆さまに落ちていった。
『ねぇェェエぇえええ……!!』
祢々を中心に半径100メートルほどの辺りにかけて。一帯はガレキだけが存在していた。
十階を超えるような建物はほとんどなかったものの、それでも三階建て以上の高さである構造物しか無かった場所だ。
上空から見れば、祢々の力の及んだ範囲と被害は丸わかりである。
祢々は再び妖力を昂らせる。
周囲の大きなガレキは粉々になり、祢々の近くで集まり、渦巻き、波打っている。
これが祢々の本来の能力だ。
岩や砂、大地にまつわるものを自在に操ることができる。
現代では、アスファルトやコンクリートでさえもその対象になっていた。
「……うっ……ぐッ、くそ……」
ガレキに埋もれた鴉は力無く呟く。
遠くから、消防車のサイレンが鳴り響いていた。
16.胡鳥の夢
始まりは、欲望と思い上がりだった。
およそ100年前の大戦。
鴉の脳裏に映っていたのは、その戦火だった。
世界を巻き込む、歴史上最も大きな戦争。
男たちは皆兵士となり、女も構わず働かされた。
童さえも、武器を手に握らされた。
勝てるわけがないと口にしたならば、兵となることを拒んだならば、彼らは全員国・民・に・非・ず・と烙印を押される。
それはまさしく生者の地獄だった。
(……誰だ)
次に目の前に現れたのは、一人の女性だった。
真っ白な空間に、鴉と二人きりだ。
彼女の顔は墨で塗りつぶされたかのように隠されている。
だが、かろうじて口元だけは見えた。笑っていた。
頭には布を被り、額に結び目を持ってきている。
麻でできた地味な色の和装をしているが、畑仕事でもしたのか手や腰にしている前掛けは茶色く汚れていた。
(……なんで笑ってる? 俺に?)
声は無い。
だが女性は確かに、鴉に優しく笑いかけていた。
まるで彼女は彼を知っているよう。
鴉は彼女を知らない。いや、覚えていない。
その直後、女性の体から血が噴き出す。
至るところからだ。特に、背中からは一度噴水のように鮮血が噴き上がった。
鴉は目を丸くしてその光景を見ているばかり。
体が動かない。強制的に見せられている。
(やめろ──!)
咄嗟に叫ぶが、何にも届かない。
白い空間は燃え盛る夜の戦地に変わり、女性は土の上に倒れてしまう。
辺りを見渡せば、無数の死体が焦げた草木と共に散らばっていた。
そして、鴉は気づく。自分の服装の変化に。
いつもの黒コートと黒い軍帽は無くなっていた。
周りの死体と同じく、緑色の軍服と軍帽を身に着けている。
(……あれは……)
女性の体が、崩れる砂像のようにして消えていく。
視線を上げれば、女性の倒れていた場所から3メートルほど前に一人の兵士が膝を突いていた。
血まみれで、天を仰いで慟哭している。
(そうだ、あれは…………)
鴉はここでようやく全てを察した。
これは、自分の過去の光景だ。
(あれは……俺だ)
自力で思い出せることはほとんど無い。
だが、確かに思い出せることもある。
目の前の兵士は、過去の自分だ。
何があったかは思い出せない。だが、どうしようもないほどに、絶望に打ちのめされていたのはわかる。
兵士の視線の先へ、鴉は背後へ振り返る。
東の空。夜が明ける、その瞬間の光景だった。
「『絶望を明かす』」
鴉と兵士の声が被る。
これが鴉の始まりだ。兵士が憎んだ世界への呪いは、誓いとなって。
"黒い太陽"が彼に微笑んだ。
───────────
「ん?」
モニターを見ていた玉藻が違和感を抱く。
祢々の視界に異常があったわけではない。
祢々はずっと目下のガレキの海を見渡しており、周囲にコンクリートの粉塵を巻き上げている。
問題はモニターではなく、彼のア・ン・テ・ナ・にあった。
(今の感覚……妖力か? ほんの一瞬だけ、とてつもない何かの気配を感じた……。瑞子と茨木童子は気づいていないらしいが。異質な何かが……)
瑞子と茨木童子のワイプに目をやるが、何かあったような様子は無い。
モニターの映像の主である、祢々にもだ。
(……この東饗に、私以外の"大妖魔だいようま"が……?)
───────────
「おい、どうなってんだこりゃあ……!?」
目の前に広がる光景を目にして、感嘆の声を漏らす男が一人。
大規模な爆発があったかのように何十軒もの建物がガレキと化したその一帯には、消防車やパトカーが何台も集まってきていた。
「長濱刑事! 火や黒煙は一切見当たりません。しかし道路に走った亀裂などから、爆発事故というよりは局所的な強い地震が起きたかのような……」
「今は原因なんてどうでもいい! 二次被害に注意しつつ負傷者優先で対処しろ。負傷者が先だ! 散れェッ!」
「「「はい!」」」
長濱の鶴の一声で、数十人という警察官は散り散りになって人々の救助にあたる。
消防に原因究明や分析を任せ、二次的な被害が起こらないよう対策を練ってもらう。
プロにはプロの仕事をやらせ、自分たちはその手足となって動く。
長濱のやり方は、あの病院火災の時から変わらない。
「何がどうなってんだ最近! 病院といい、神宿しんじゅくは今呪われてんのか!?」
長濱はコンクリートの塊を蹴飛ばす。
あの病院火災、理事長である玉藻は何者かによる爆発テロと結論づけていた。
しかし現場ではそのような痕跡は見つからず、警察、消防、誰もが首を傾げていたのだ。
そして上層部から、あの一件は爆発テロとして処理すると片付けられてしまった。
(クソっ……。今となっちゃあ、加山の言うことも馬鹿にできなくなってきた。俺だってあり得ねえって思ったが……だが……!)
生き残った看護師たちの証言だ。
ICUに現れた医師が、なんと猿の化け物に変身した。そしてそいつがいた部屋から、爆発が起きたのだと……。
極限状態の中で幻覚を見たと言う者もいるが、それなら時系列がおかしい。
爆発が起きた後の話ならそれは通る。だが、猿の化け物が出たというのは爆発の前のことだ。
長濱の中でこれが引っかかっていた。
優秀なはずの加山という婦警が、信じて疑わない妖怪の存在。
それが長濱の頭の中でチラつく。
「……あいつがいたら……いや、待てよ。こういう面倒な状況にあいつを野放しにするのも気が引ける……」
ガレキをどかして道を拓いたり、負傷者に肩を貸して歩く警官たち。
きちんと全員が白いヘルメットを被り、救急キットを持って負傷者に応急処置を行うことも忘れない。
そんな中、二人の警官があるものを見つける。
「お、おい……何だ、これ……」
「気持ち悪いな……。虫の脚か? デカすぎる」
一人がガレキの中で見つけた、巨大な節足。
カブトムシの脚が人間の片脚並みに巨大化したかのようなそれであり、その付け根側にある切断面からは黄土色の液体が垂れている。
人工物というにはあまりに生々しく、確かに先程まで何かの生物の一部として機能していたと思わされる。
「……デカいゴキブリだったりしてな。ほら、この辺飲食店多かったしよ。繁華街のネズミみたいにブクブク太ってても違和感ないだろ?」
「やめろ馬鹿! 何でもいいからさっさと捨てろよ、バッチぃな。ほら、この辺のコンクリートどかすぞ」
二人は脚を近くに放ると、道を塞ぐガレキをどかし始める。
ガレキは膝下ぐらいの高さで、頑張れば跨げる程度だが、足を怪我した人間ではそれは難しい。
早くどかして通路を確保しなくては。
だが、その近くでそれを行うのは避けるべきだった。
『ねぇぇーーっ、ねーーっ』
「ん? なん──」
シュパァァァァン!
「う、うあああああッ!!? 田辺ぇーーっ!!」
突如頭上から不気味な声が響いたと思ったら、相方の首が宙へ吹き飛ぶ。
切断面は完璧に平ら。
そしてそこから噴水のように血が噴き出し、彼の顔を真っ赤に染め上げる。
「なっ、何だコイツッ!?」
『ねぇぇえあああ?』
警官は腰を抜かし、後ろ手を突いた状態で後退あとずさる。
目の前に突如現れた、人面の巨大な蝿のような化け物。
それが羽ばたく音は落ち葉を吹き飛ばすブロワーのようにうるさく、そして蟲の羽音らしく忌避感を掻き立てる。
祢々は鎌状の前脚を器用に使い、斬り飛ばした頭を拾い上げた。
警察がやって来たと知った祢々ねねは、一度その身をガレキの山の中に隠して様子を窺っていたのだ。
そして彼らが非力な人間の集まりとわかると、再び姿を現した。
妖怪でも朝から活動していると流石に腹が減るらしい。
祢々は拾った頭を空中に放り投げると、その裂けた口でキャッチし、バリバリバキバキと音を立てながら食べ始める。
目の前の怯える人間に見せつけるように。
「ヒッ、ヒィィィィィィッ!! た、助け」
『ねぇぇねぇぇねえええエエッ!!』
「ぎゅばッ」
遅れて悲鳴を上げる警官。
頭の最後の一片まで呑み込んだ祢々は、彼を頭から縦に真っ二つに切り裂いてしまう。
左右に体が開いて倒れ、血の池が出来上がる。
祢々は地面に降り立つと、広がった血液を青紫色の舌で舐め取り始める。無論、死体にも齧かじりつく。
遠くから人間の声が聞こえてきた。
祢々が顔を上げればその先には、今の悲鳴を聞いてこちらに注意を向けている人間たちの姿が。
それを見た妖蟲は口角を上げ、妖力を昂らせる。
悪夢の始まりだ。
17.絶望の嵐
「な、何だ今の悲鳴……」
散り散りになっていた警官たちが、祢々に殺された二人の悲鳴が聞こえてきたところへ近づいてくる。
祢々はニヤリと笑うと、咥えていた腕をペッと吐き出す。
そして羽を広げ、警官たちの前に躍り出た。
『ねぇぇーーっ、ねぇぇーーっ!」
「うわあああッ!?」
「な、何だぁっ」
「ヒィィッ」
ブブブブと羽音を響かせながら、警官たちを脅かすように飛び出た祢々。
それを目にした彼らは、口々に驚嘆や悲鳴を上げた。
「むっ、虫!? 何だよ、こいつ……!?」
「おいっ、アレっ……!!」
口から鳴き声を出す、人面の巨大な蟲。
それに驚くなというのは無理な話だ。
ほとんどの警官たちの視線が祢々に集まる中、そのうち一人が祢々の背後の地面を指差した。
真っ赤に染まり、肉片が散乱する地面を。
「「「うわああああああああッ!!」」」
『ねぇぇーーッ!!』
肉片の中には服の切れ端もあった。
それは警官の制服であり、祢々の血に汚れた口元とを見比べてその場に集まった警官全員が察した。
悲鳴を上げた警官は殺された。
殺されて、喰われたのだ。
この目の前の巨蟲に!
警官たちは祢々に背を向け、一斉に駆け出す。
まさに蜘蛛の子を散らすように、という様だった。
しかし祢々に彼らを逃すつもりは毛頭無く、ホバリングしている状態から急発進して警官たちを追いかける。
何人も何人も、悲鳴を上げる間もなく背中から真っ二つになっていく。
『ねぇえあッアッあっあっあっ!!』
大口を開いて声を上げる祢々。
それは狂気の笑い声であり、同時にかつての晩年の恨みを晴らす雄叫びでもあった。
「なっ、長濱さん! ばっ化け物がッ」
「んなもん見りゃあわかるッ! 何なんだあいつはっ」
警官たちが逃げ惑い、蟲の怪物に殺されていく。
それを遠目から見ていた長濱は、とにかく負傷者や近くにいる者から退避するように指示を出していた。
この付近の建物が崩落した原因がテロリストであった場合のため、一応武装隊の準備は済ませてある。
彼らにも連絡を寄越し、ただちにこの場に向かわせているが、彼らはあくまでも対人のプロだ。
化け物退治は専門外である。
「うわあああッ」
「ギャッ」
「たっ、助けてくれぇえええっ!!」
「くっ……クソっ……!」
歯を噛み締める長濱。
百人を超える警官がこの場に集められたが、もうその半分が殺されていた。
動きが素早い。
長濱の腰元には拳銃が収められているが、実戦における発砲経験は無いに等しい。
当てられる気がしなかった。
しかし、目の前で自分の部下、仲間たちが無惨に殺されていく様を見続けていられるほど肝の座った人間でもない。
今にも安全装置を外し、巨蟲に銃を向けて走り出したかった。
この惨状を止めたかった。
だが、何とか平静を保っていられているのは自分だけ。
自分が戦いに行けば。死にに行けば、それこそ全滅は免れない。
(化け物……虫の化け物……! まさかあれが……いや、あれこそが! 妖怪……!?)
加山の言っていた通りだ。
妖怪はいた。
人間に害をなす、人智を超えた怪物は。
粗方警官たちを斬り殺した祢々は、自身の鎌に付いた血を舐め取りながら数十メートル先に目をやる。
そこには何台ものパトカー、消防車、こちらは数台だが救急車が停められていた。
そしてその近くにはまだ多くの人間が。
「まだ楽しめる」。
そう考えた祢々は、妖力によって付近のガレキを再び粉々にしていき、空中へと巻き上げる。
「な、何だ……? 何をする気だ」
祢々の背後で、まるでベールのようにうねる粉塵。
長濱はその様を見て嫌な予感がしてならなかった。
祢々は生き残った警官や消防士たちを明らかに狙っている。
つまりあの行動は、攻撃の準備。
それでいてあの場から動かないということは……
「退避だッ、退避しろォォーーッ!! 遮蔽物の後ろに隠れるんだァーーッ」
根拠は勘だけ。
しかし長濱の危険信号は、構わず何かの後ろに隠れろと叫んでくる。
彼の叫びにより、近くにいた四十人近くの警官や消防士たちは悲鳴と共に急いでパトカーや消防車の後ろに隠れ始める。
救急車も後ろの扉を閉め、負傷者を守った。
その直後──
『ねぇええあああアアアァアァアァァアアッ!!!』
車体が揺れるほどの祢々の雄叫び。
そしてそれと同時に、舞い上がったコンクリートの粉塵や塊が一斉に彼らの元へと飛ばされた。
何十もの機関銃の一斉掃射を喰らっているかのように、爆音と共に車体が揺れ、穴が空き、削れていく。
窓ガラスは当然の如く割れ、たまに車体を貫通する弾があれば、後ろに隠れていた者の体を抉りとっていった。
「畜生……チクショオォォーーッ!!」
「うわああっ!!」
「ヒィィィィィッ……!」
「終わりだ……もう終わりなんだぁ!!」
触れる者を殺していく砂嵐の如く……
中には砲弾レベルの大きさの礫つぶてが混ざっており、飛んでくるスピードも数百キロメートルに至る。
隠れて何とかやり過ごそうとする警官たちも、地面に伏せて怯えるばかり。
ひたすらに天に祈る者、絶望する者、恐怖で歯をガチガチと鳴らす者。
長濱も絶叫していた。
彼ら人間の体感では、それは何時間にも感じられたことだろう。
しかし、祢々が実際に礫で彼らを襲ったのはものの十数秒程度だった。
礫の嵐が止んでみれば、その場にあった全ての車、その車体は見るも無惨な姿に。
何発も銃で撃たれた様を「蜂の巣」と言うが、まさにその言葉が似合う状態だ。
パトカーに至っては、礫の威力で穴が空くを通り越して完全に装甲が捲れ上がったり、紙屑のようにぐしゃぐしゃになっている。
完全にスクラップと化していた。
「うっ……く……! お前ら、無事か?」
「は、はい……。なんとか」
「あっ、ああ……」
長濱は同じパトカーに隠れていた二人に呼びかける。
二人とも無事だったが、一人は恐怖にやられてしまって返事もできない状態だった。
周りを見回せば、隠れていた車が悲惨なことになってはいても、その後ろにいた者たちの多くは無事な様子。
しかし脚を礫に撃ち抜かれ、ちぎれかけている者も見受けられた。
「な、長濱さん……武装隊の方は?」
「……駄目だ。今ので車内の無線は使い物にならなくなってやがる。だが、到着はもうすぐのはずだ」
彼らの一抹の希望。
パトカー内にのみその連絡手段があったが、今の祢々の攻撃で駄目になってしまった。
しかし武装隊はそう遠いところにいたわけではない。
むしろ後一秒で到着してもおかしくない。
『ねぇえええ……!』
「虫のクセに、笑ってやがる……」
「長濱さん、もしかして……あれ、加山さんが言っていた…………?」
「……かもな」
若い彼もそう思うらしい。
長濱もそれは同じだった。
いつもなら「くだらないこと言ってんじゃねえ」と言うところだが、状況が状況。
長濱自身も冷静になりたいがため、彼の言うことに頷いた。
祢々はニヤニヤしながら警官たちに近づいていく。
フワフワと移動しているが、羽は高速で動かされ、不快感を煽る音を周囲に撒き散らしている。
祢々からすれば先程の攻撃は遊びに過ぎなかった。
当たれば普通の人間は死ぬことは理解していたが、ふざけ混じりの脅し程度の使い方でしかなかったのだ。
本気で殺すというなら横殴りの礫の嵐ではなく、上空からガレキの豪雨として降らせていた。
嬲り殺しが趣味なのだ。
祢々の、その飼い主と同じく。
「おい、お前の相手は」
『ねッ────」
バキュゥゥゥン!!
背後から男の声。
反応して振り向こうとした瞬間、甲高い破裂音と共に祢々の羽に直径二センチほどの穴が空く。
『ねぇえあああッ!?』
「俺だぜ。よそ見してんじゃねえぞ」
振り向いた祢々の視界に入ったのは、ガレキで押し潰し殺したはずの男だった。
鴉だ。
左手に回転式拳銃リボルバーを握り、それを祢々の羽に向けていた。
さらに彼は間髪入れずにもう片方の羽も撃ち抜いてしまう。
両方の羽に穴を空けられ、ホバリングしていた祢々は大きく体勢を崩してフラついてしまう。
祢々の羽は普通の虫のそれとは違い、ずっと分厚い。
一センチ近くの厚さがある。
この羽を動かし続けるには相当のエネルギーと力が必要であり、そして穴を空けられてしまったことで、飛行には更なるそれらが要求されることになってしまった。
『ねぇッ、ねえええ!?』
フラフラと飛び、明らかに動きが鈍っている。
高さも明らかに落ちている。
祢々の目線は鴉の腹辺りになるほどだ。
動揺して、余裕だった表情が再び陰りを見せ、まずいまずいと慌てる妖蟲。
それを見下ろしながら、鴉は低い声で言った。
「覚悟しろ。お前を殺す」
鴉は右手に持つ刀を握り締め、振り上げた。
18.堅粉に舞う
鴉は祢々の左側の脚を全て斬り落とさんと刀を振り下ろす。
しかし刃は祢々の体に当たることはなく、地面コンクリートに打ち付けられた。
「……そういう使い方もあるのか」
鴉は自身から左手側へと目をやる。
十メートルは離れていない地点に、祢々は浮遊して鴉を睨みつけていた。
羽は使いものにならなくなったはずなのに、だ。
だがカラクリは実に簡単なものである。
祢々は刀で斬られるよりも速く、自身の踏んでいたガレキを浮かせてそれに乗ったまま移動したのだ。
事実、浮遊する祢々の足元にはガレキが固まっていた。
(羽を撃てば多少ラクになると思ったが……そうでもなかったな)
『ねぇえええエエェェッ!!』
祢々は目を血走らせ、怒りの叫びを上げる。
「……フッ」
そんな様子を目にし、鴉は鼻を鳴らす。
余裕が消えるということは、それが確実に効いているということ。
そしてここから、本気の攻撃を浴びせてくるということである。
祢々は周囲のガレキをすり潰し、粉塵のベールを背後に生成。
そしてそれを再び槍状に固めていく。
先程鴉を襲った、無数のコンクリートの槍だ。
自身を一度は戦闘不能にまで追いやった攻撃にも関わらず、鴉は銃を手放さず、刀を右手に握ったまま、祢々をただ見据えている。
「…………」
(脚はもう治った……。十分だ)
鴉のズボンには、先程貫かれたときにできた穴が空いている。
また血にも濡れていたが、既に傷は塞がっていた。
『ねぇえええええっ!!』
祢々の咆哮と共に、コンクリートでできた槍が鴉へと飛んでいく。
何本もの鋭い先端が、鴉の心臓を貫こうと迫る。
しかしそれらが鴉の体を捉えることはなかった。
鴉の動きは、一度祢々にやられるよりも前とは格段に違っていたのだ。
最小限の動きだけで、体幹を狙ってくる槍の群れを回避する。
避けるための体の向きから動きを悟られないよう、ギリギリまで槍がくるのを待ち、素早く、小さく体を傾けて避ける。
槍を刀で弾くのは困難だ。
そのため、刀を槍に当ててその力の反動で体を動かす。
十数本の槍をやり過ごし、刹那──
バキュゥゥゥゥン!!
『ギャァアァアアアアアッ!?』
何本もの槍が鴉の前に迫り、また取り囲む中、その隙間に祢々の姿がはっきりと見えた。
その瞬間、左手にあったリボルバーを標的に向け、引き金を引く。
放たれた弾丸は祢々の左目に直撃し、複眼じみた硬い目玉に穴を空けられる。
穴の周りに放射状にヒビが入り、黄色い粘液が漏れ出ていた。
今まで上げていた雄叫びとは違う、完全に痛みに悶える悲鳴を響かせる祢々。
この一撃によって祢々の集中、妖力も切れ、鴉の周りを取り巻いていた槍たちの動きも止まる。
そして形を保てなくなり、ボロボロと元のコンクリートの粉や塊として落下していった。
『ねッ、ガァアアアアッ!』
「ふッ──!」
『ねっ!?』
祢々は残った右目で鴉を睨みつけ、忌々しそうに鳴き声を発する。
しかしこの隙を見逃さず、鴉はすぐさま距離を詰めて刀を振り上げた。
振り下ろされる刀。
反応できた祢々は鎌を交差させ、峰で刃を防ぐ。
『ね、エェェ……!』
「ふん!」
なんとか耐えた祢々だったが、鴉は一瞬刃を浮かせ、交差したその前脚を蹴り上げる。
祢々は思わず防御を解いてしまった。
「せぇああッ!」
ザンッ──!
『ねアアッ!?』
間髪入れず、鴉は右前脚の関節に一太刀浴びせる。
綺麗に関節に刃が入り、鋭利な鎌は分断されて宙を舞う。
驚きの声を上げ狼狽える祢々。
それでも鴉は容赦せず、残ったもう片方の前脚も斬り飛ばした。
その間わずか2秒足らず──
「ふんッ!」
『ねガアァァアィイアァッ!?』
武器を失った祢々の頭を踏みつけ、足で押さえる鴉。
そうすれば、彼のすぐ下には妖蟲の首の関節が丸見えとなる。
左手に持っていた拳銃を放り、祢々を断頭しようと両手で刀を握り振り上げた。
「死に果てろ!」
『ねァアァアアっ!!』
ギュゴォォオオオッ!!
「なに!?」
鴉は関節めがけて刀を振り下ろす。
冷たい刃が触れ、首を斬り落とすかというその一瞬、祢々は土壇場で妖力を放出。
体の下にあったガレキが形を変え、高速で鴉の刀を弾く。
そして祢々の体を覆うようにして纏わりつき、球体状のバリアのように本体を鴉や外界から隔絶してしまう。
ただの防御形態かと思ったのも束の間、コンクリートの隔壁は四方八方に無数の棘を瞬間的に伸ばし、鴉を攻撃した。
「うぐっ……!」
自身に向かってくる棘を寸前で身を翻すも、鴉の右腕の肉は抉り取られてしまう。
後ろに跳んで、コンクリートの壁の様子を窺う鴉。
棘は伸びきったままで戻らず、それ以上動いたりすることもなかった。
「面倒な状態だ……。仕方ない、あれを使うか」
鴉は負傷により動かしづらくなった右腕の代わりに、左手で服の中に手を入れる。
掴み、取り出したのは金属製の円筒状の物体。
その上部には更に細い筒があり、それを貫くようにして針金が刺さっていた。
鴉は上の筒を握り、右手の指で針金を引き抜く。
そして祢々が閉じこもるコンクリートのバリアに向かって放り投げると、鴉は更に後退してバリアから15メートルほど距離を取った。
ドゴォォォオオン!!
『ねェェエアアアァッ……!!』
円筒を投げて4秒後。
バリアのすぐ手前で円筒は光と火を噴き爆発、コンクリートの壁を破壊し、中にいた祢々を吹っ飛ばしてしまう。
鴉が投げたのは手榴弾である。
これも彼の持つ拳銃リボルバーと同様、百年ほど前に使われていたものであり、人間目線では古い過去の遺物も同然の代物。
しかしただの武器ではなく、黄泉に由来する火薬が中に詰められているため一度死んだ妖怪には威力を十分に発揮することができるのだ。
ただ、鴉の戦闘は近接戦が主体。
拳銃の弾丸といい、この手榴弾といい、彼はあまり使用しない。
使い続けて自身の手の内が広まってしまうのを防ぐのも理由の一つだが、再調達が面倒なのもある。
「飛び出たな。はァッ!」
腕で顔に向かってくる爆風を防ぎ、それが晴れた瞬間再び祢々の元へ跳ぶ。
刀を左手に握り直し、右手はその下で柄を握り力を入れる。
吹っ飛んで無防備になった祢々は、その甲殻のところどころに傷ができて体液が漏れていた。
関節以外狙うことはこれまで難しかったが、あの傷を狙えば甲殻からもダメージを与えることはできるだろう。
鴉は胴体に見えた傷を狙い、突進する。
「せぇいはァッ!!」
『ねェガァァアッ!!』
鴉は右手を柄の尻に手を当て、祢々の胴体へと刀の鋒きっさきによる突きを放つ。
祢々はなんとか妖力を安定させ直し、ガレキをドリル状に形成して鴉の脇腹へと放つ。
「うぐぅっ……!!」
『ギガッ──!?』
鴉の刀は祢々の胸にできた傷から軟組織へ刀を滑らせ、見事刀で貫いてみせた。
しかし祢々の反撃も鴉の左脇腹に突き刺さり、貫通し、抉ってしまう。
お互い、力を緩めた瞬間に敗北が決定する。
両者のもらった攻撃はそれぞれ致命傷であり、出血のために時間経過と共に力は抜けていく。
負けは死を意味する、我慢勝負だ。
「ぬうぅぅぅっ!」
『ガアアアアアッ』
刀を押し込む鴉。
妖力を放出し続け、鴉の貫きに耐える祢々。
傷口から血を流し、彼らは最期の悪あがきを続ける。
「今だッ、放水開始ィィーーッ!!」
「っ!?」
『ねッ──』
ドバアァァァァーーッ!!
男の掛け声が響いたかと思えば、それとほぼ同時に四本の水の激流が祢々の鴉を襲った。
不意の放水攻撃に、鴉は思わず刀から手を離してしまう。
脇腹を貫いたコンクリートのドリルからも、水の勢いによって引き抜かれて解放される。
放水を行ったのは、祢々の攻撃を生き延びた消防士たちだった。
無事だった消防車からホースを伸ばし、その放出口を祢々に向けて水を放っていたのだ。
掛け声の主は長濱。
彼は手に拳銃を持ち、他の動ける警官と到着した武装隊と共に祢々を取り囲む。
「撃て撃てェッ、あのクソ虫を撃ち殺せェーーッ!」
長濱の声と発砲を皮切りに、周囲の警官たちは祢々に銃を向けて弾丸の雨を浴びせ始める。
『ねッ、ガァッ……ギャッ』
「死ねっ、死ねこの野郎ォーーっ!!」
「よくも……よくも俺たちの仲間をっ……!」
本来ならば硬い甲殻により、人間の用いる拳銃程度痛くも痒くもない。
しかし鴉の炸裂させた手榴弾により多くの傷ができた今の祢々の体は脆く、いくつもの拳銃や自動小銃の一斉掃射を喰らって更に傷ついていく。
祢々を撃つ者たちは、仲間を殺された怨嗟の声を上げながら攻撃を続ける。
彼らの仇を討つという気持ちが、祢々の体に弾痕として刻まれていく。
甲殻の破片が、黄色い体液が、軟組織が、弾を撃ち込まれた勢いで次々と宙を舞った。
「…………」
『ギッ、ガァァッ! ねギィィアァァっ!!』
そんな祢々の様を、鴉は憐憫の目を向けて見守る。
ただ憐れむだけでなく、「自業自得だ」と目で祢々に伝えている。
数々の弾丸が体に突き刺さり、削り取っていく。
痛みを感じ、鳴き声を断続的に上げながら。
これが、妖蟲の最期であった。
「……終わったな」
『ガッ、ねッ……! ギバッ』
徐々に動きが鈍くなり、ブシュッブシュッと体中から体液を噴き出すと、祢々は空へ腹を向けて息絶える。
祢々に突き刺さった刀が、体液と共に体外へ押し流され出てきていた。
一瞬でなく、ゆっくりじわじわと殺されていく。
それが最も苦しむ死に方だ。
目が濁り、動かなくなった祢々を囲む警官や消防士は雄叫びを上げる。
拳や銃を天に突き上げ、口々に祢々の死を、仲間の仇討ちを歓ぶ。
中には仲間の死や恐怖への緊張の糸が完全に切れ、涙が溢れて泣き崩れる者も。
「派手な戦いになったが……俺たちの勝ちだ」
脇腹を押さえながらガレキに腰掛け、服の中に手を入れる。
煙草の箱を取り出そうとし、しかし覚さとりにやって手元には無いことを思い出してため息を吐くのだった。
19.渦巻く妖力
「……負けた。祢々ねねが……」
モニターを見上げながら、玉藻が呟く。
モニターの映像は祢々の視界を共有したものだったが、祢々が死んだ今、映っていたのは何も見えない砂嵐の画面だった。
『……祢々が死んだのか? 人間の手があったとはいえ、あの鴉……なんて奴だ……!』
瑞子みずこも思わず驚嘆の声を漏らす。
今まで数多くの鴉を殺してきた祢々が、ついに鴉に討伐された。
大地や岩にまつわるものを自在に操る力と、飛行する妖怪の中でもずば抜けた飛行性能、そして刀剣の如き前脚の鎌。
それらの武器をもってしても、あの鴉には勝てなかったのだ。
瑞子も玉藻のように、鴉に関心を持たざるを得なかった。
『…………』
(……見事だ。トドメこそ人間たちが刺したが、時間の問題という段階まで追い詰めた……。文句の言いようの無い、鴉の勝利。倅せがれ殿を向かわせる必要は無かったな)
茨木童子は顔と言葉に出すことなく、鴉の戦いぶりと勝利を讃たたえる。
スマホで鬼童丸に「何かあったら手を貸す」よう伝えていたが、彼の出る幕も無いまま戦いは終わった。
触覚や尾葉によって鴉の居場所を嗅ぎつけられる祢々は厄介な存在であり、鴉と手を組んだ鬼側としても生かしておけなかったが、そんな不安は解決されたのだった。
『……おい、玉藻?』
「…………」
瑞子が玉藻に声をかける。
玉藻は黙ったままモニターを見つめるばかりで、彼の言葉に返答することもなかった。
が……
「ふっ」
『あ?』
「クハハハハッ!」
『玉藻? どうし──』
「ウゥハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハアァーーッ!」
『っ……!?』
突如吹き出したかと思えば、玉藻は天を仰いで高らかに笑い声を響かせる。
その表情は何とも愉快そうで、積み木を組み上げ自分で破壊し、それを楽しむ幼児のように、ひどく楽しげであった。
瑞子は玉藻の豹変ぶりに思わず息を呑む。
「はぁ〜〜〜〜……いやはや楽しませてくれる。鴉……最高だよ、全く! まさか祢々を……! 人間たちが彩る祢々の最期も、かなり良かった……!」
笑いすぎて溢れた涙を指で拭ぬぐいつつ、やや痛くなった腹筋をもう片方の手でさする。
玉藻は祢々を何よりも可愛がっていた。
少なくとも、彼のことを知る茨木童子や瑞子はそう思っていた。
祢々の死に際には流石の玉藻も表情に陰りが出るものだと……
『壊れてやがる……』
瑞子はそう言わざるを得なかった。
月兎を除いて、彼ら四大財閥は妖怪の部下をある程度は抱えている。
同族である鬼たちと徒党を組み、一度も死んだことのない妖怪を捕らえて労働やある目的のために、死ぬまでこき使う茨木童子。
妖怪を洗脳して引き入れ、自分が楽しむための道具として浪費していく玉藻。
その二名に比べれば、瑞子は同胞には確かな情を抱いていた。
持つ力が、自分の天敵となり得る魃ばつに対してすら仲間の認識があったぐらいだ。
茨木童子が玉藻に何を思うかはわからない。
だが瑞子からすれば、あの様はかの妖・狐・とは絶対に相容れないとより一層感じさせるものだった。
「ハハハックククク…………」
(…………だが……途中で鴉が明・ら・か・に・変・わ・っ・た・。瑞子と茨木は気づいているかわからないが……やはり、あの気配と関係が……)
笑いながらデスクに手を突き、カメラとスクリーンへ背中を向ける玉藻。
しかし彼の表情はとっくに落ち着き、真面目に思考を巡らせる。
一度祢々が鴉をガレキに生き埋めにした辺りで感じた、強大な異様な力の奔流ほんりゅう。
それは鴉と祢々の戦闘が繰り広げられた地点ではなく、天から、玉藻を押し潰すかのようにして降り注いできた。
玉藻の中に生まれたのは、鴉への興味関心よりも強い、その謎の気配への探究心だった。
───────────
「負傷者を運べ! 手が余ったやつは遺体の回収だ! 働けェ!」
ガレキの上で長濱ながはまの声が響く。
祢々が絶命した後、彼らは一時感傷に浸っていた。
だが、そもそも警官や消防士たちは救助のためにここへ集まった。
本来の仕事を遂行するため、殺された同僚たちをきちんと弔うためと、彼らは涙を拭って動き始める。
「……」
応援のパトカーや救急車が到着し、人手がさらに増えていく。
その様を、鴉は黙って見届けていた。
(妖怪は、人の目に触れず生きていたわけじゃない。絶妙に、両者の領域が被っていなかった。その領域が稀に交差し、初めて存在を知られる。だが、この件でそれが崩れることになったか……)
隠れて生きていた妖怪もいただろう。
だが、全ての妖怪がそうだったわけではない。
人間の間で妖怪の存在が伝説的だったのは、操作されたかのように人間と絶妙な距離感と領域で存在していたからだ。
だがここまで公に妖怪の存在が人間に知られた例というのは、おそらく初めてであろう。
そうなれば、この金とネオンの輝く現代に激震を走らせることは想像に難くない。
ましてや、日本を現在支配している四大財閥は、妖怪が頭目なのだから。
「……コートはもう駄目だな。弾丸も、手榴弾も使っちまった。そろそろ再・調・達・の頃合いか」
鴉のコートは祢々の攻撃を受けてボロボロ。
あちこちに穴が空き、汚れ、コートの体ていを成してはいなかった。
リボルバーの弾も連戦により消費。
次の戦いにこのまま挑めば、傷は治っていることだろうが、鴉の戦法が狭まり勝つことが難しくなる。
確実に。
「……加山に頼るか」
鴉はため息を吐く。
そして座っていた平たい大きなガレキの上に体を放り、瞼を閉じるのだった。
「……で、どうする? これ」
「どうするって、鑑識に……。いや、動物なら専門家呼ぶべきなのか……?」
「とりあえずバケモンの写真は撮っとくべきだ。俺のスマホはバッキバキになっちまったから、誰か頼む」
脚を曲げ、ひっくり返って死んでいる祢々の周りにはその対処に悩む警官たちが。
巨大な蟲の化け物。
しかもコンクリートを操り人間を何人も何人も殺したという、前代未聞の現象を引き起こした存在。
どう処理をしたらいいのかと頭を抱えるのも当然ではあった。
生物学者を呼ぶべきなのか。
それより先に鑑識を呼んで、"事件"として対処をしていくべきなのか。
それともゴミ収集車を呼んで捨てる……それに賛成する者はいなかったが。
「う……しかも、臭いも酷くなってきたぞ」
「とりあえず写真だけパパッと撮ろう。俺のでいいな?」
一人の警官が自前のスマホを手に尋ねる。
周りの四人の警官たちは「ああ」「やってくれ」と言い、鼻を摘んで臭いに耐えたり、耐えきれず彼に任せて離れていった。
「じゃ、撮るぞ」
警官はカメラ機能を使い、レンズに祢々の死骸を収める。
そして横向きにしたスマホの画面右端にある、丸いシャッターボタンに親指を伸ばした。
「っ…………!?」
「な、なんだ……?」
「じっ、地震か!? うわああっ!」
警官がシャッターを切ろうとした瞬間、突如として地面が揺れ始める。
しかも広い範囲で揺れているようで、遠くにいる他の警官や消防士たちからもどよめきが起こっている。
地響きが、去ったと思われた脅威として再び人間たちを恐怖させた。
「こ、今度は何だってんだ…………!?」
長濱も戸惑わずにはいられない。
蟲の化け物の次は何が出るのか。
そう思わずにはいられなかったのだ。
振動を感じ、鴉もまた閉じた瞼を開く。
そして跳ね起きると、鞘にしまっていた刀の柄に手をやっていた。
彼だけが感じていたものがあったのだ。
「……来・る・……!」
ドバァァァァーーーーッ!!
「うわあああっ!」
「な、何だ!?」
ガレキとアスファルトを突き破り、地面から噴出したのは水の激流だった。
かなりの勢いで噴き上がっており、水の柱の高さは十数メートルに至っている。
最高地点まで昇った水は、小雨のようにして警官たちに降り注ぐ。
幸いにも人間が密集していない箇所に噴き出たために怪我人は出なかったが、突然の出来事に誰もが狼狽するしかなかった。
「み、水!? なんで地下から……」
「まさか……水道にもダメージがあったのか? 亀裂か何か入って、それが今頃地上に……」
「言ってる場合か! 揺れがどんどん強くなって──」
ドバァァァァーーーーッ!!
ドバァァァァーーーーッ!!
「うわあああああっ!?」
天へと昇る激流は一つだけでは済まなかった。
最初の噴水を皮切りに、地下から何本もの水柱が出現する。
時には誰かの足下から噴き出し、その者を何メートルも吹っ飛ばしてしまうほどだ。
長濱は消防士に怒鳴る。
「おいっ、二次被害は無いはずじゃなかったのか!!」
「たっ、確かに水道についても調べはしましたが……! しかし、仮に水道管に損傷があったとしても、普通ならこんな現象は考えられません!」
「なんだと……!?」
長濱の中で引っかかる。
先の蟲の化け物を見てからだろうか、彼は「普通なら」という言葉が妙に頭に残った。
まさか。
「まさか……ま・た・……!?」
長濱は疑った。
また、今度は水を操る化け物が?
その考えは奇しくも当たっていた。
鴉は、何十も現れたその全ての水柱に感じていたのだ。
鬼・童・丸・を・超・え・る・妖力を。
「こいつは、鬼童丸以上の……! 何者だ……!? まさか…………四大財閥の……」
鴉の頬を冷や汗が流れる。
鬼童丸の妖力は、それまで鴉が感じてきた中でも最大レベルの強さであった。
彼に並ぶ妖力の持ち主はそうそういない。
ましてや、それを超える妖力など滅多には。
この水柱を噴出させている者の正体こそ、四大財閥の一角なのではないか……?
鴉にはこの考えが浮かんでいた。
「まずいッ、まさかこいつの死骸を……!」
鴉は気づく。
祢々の死骸の周りにだけ、やけに水柱が多い。
まるで死骸を隠そうとしているかのように。
警官はその場から離れるのに精一杯。
水柱の主の目的には気がついていない。
「くそ!」
鴉は刀を手に、祢々の元へと駆け出す。
だが次の瞬間、死骸のあった地点に水が噴き上がり、祢々の体をバラバラに破壊してしまった。
水飛沫みずしぶきに混ざって体液、脚や羽の破片が舞う。
そしてそれらは激流の中に消えてしまい、地面を流れる小さな小さな小川によっても流されてしまう。
水柱の主の目的は達成された。
祢々の体を一片残らず水が回収してしまうと、ピタリと水柱の噴出が止まる。
噴き出ていた穴の中に、小さく砕かれた祢々の黒い体の破片が流れていく。
「くっ……!」
鴉はしてやられたと悔しさを顔に滲ませる。
警官たちも、しばらくして祢々の死骸が消えたことに気づき何やらまた悲鳴を上げていた。
鴉と警官たちの戦いは、ようやく幕を閉じる。
鴉としてはいつもより激しかった戦闘ということで済んだものの、警官たちからすれば……歴史に残る大事件と呼ぶに相応しい、凄惨な事件であった。
その一部始終を遠目から見ていた者が一名。
数キロ離れた歌武伎町の建物、その屋上より、白いシャツをはだけさせた筋肉質な男が双眼鏡も使わず鴉たちの戦いを眺めていた。
茨木童子の指令を受けた、鬼童丸だった。
「フン……」
俺が出るまでもなかったな、と言いたげに彼は鼻を鳴らす。
水柱が全て消え去った後、鞘に収めた日本刀を肩に乗せ、拠点の帰路につくのだった。
20.帰宅
「はぁ……はぁ……。ふぅ……」
建物の壁を伝いながら、鴉はある場所へ向かっていた。
祢々ねねとの戦いを終え、強大な妖力を放つ水柱をやり過ごし、高い回復能力によって傷は治ったとはいえ、彼の体力の消耗は激しい。
動悸が続き、息も上がっており、視界も歪み……
その状態で、彼は加山の元へ行こうとしていた。
(流石に……どこかで休むべきか……)
ちょうど今いる場所は建物と建物の隙間の通路。
日陰となっている静かな路地裏だ。
この辺りでしばらく横になってもいいかもしれないと、鴉は考える。
カビか苔か、暗緑色に汚れた段ボール箱の山が側そばにある。
鴉はそこに頭から倒れ込んだ。
「うっ……」
(酷い臭いだ……。だが、休めないわけじゃない。しばらく眠って……こう……)
鴉は目を閉じる。
そうすれば、一気に意識が遠のいていく感覚が。
ものの数秒で完全に気絶することだろう。
しかし、彼は実に運が悪い。
ボロボロであるものの羽織り直したコートの中で、ブルブルと振動する物があった。
せっかく眠りにつきかけていた鴉だったが、そのせいで意識を取り戻してしまう。
「…………?」
鴉はコートの中に手をやり、内ポケットから振動の主を掴み、取り出す。
スマホだ。茨木童子から貰ったものだ。
画面には数字の羅列。鴉からすればそれが意味するものが何なのかはわからない。
しかし、これ見よがしに「触さわれ」と画面の下の方に鎮座するボタンが映っているのが目に入ると、鴉は朦朧としながらもそこを触った。
『鴉、先の戦いは見事だったな』
「……茨木童子か」
『流石に堪えていると見た……。まさか祢々ねねを単身で殺せるとはな、思っていなかったぞ。倅せがれ殿を一応近くまで向かわせたが、その必要は無かったようだ』
電話の主は茨木童子。
祢々と鴉の戦いが終わり、玉藻たちとの観戦会もお開きになった。
そしてさっそく鴉に声をかけてきたのだ。
「……見てたのか? どこから……」
『毎度のことだが、玉藻が俺たちに見せてくるのさ。別に見たくもないが……。だがお前に玉藻が絡んでいる以上、俺としては今回の戦いは見ておきたかったがな」
「……」
『ずいぶんお疲れだな』
「当然だろ……」
茨木童子の顔は見えない。
しかし疲れきって余裕の無い電話先の相手の様子を察してか、やけに機嫌が良さそうなのが鴉に伝わってくる。
『……ひとまず、祢々を殺せたのはお手柄だった。機動力、戦力共に高い妖あやかしだったからな。厄介な奴が消えて、俺たちも動きやすくなった』
「そうか……」
『こちらの方針は決まった。後はいつ実行するかだけだ。追々連絡を寄越す。それまでには回復しておけ』
「命令されずともする、それぐらい……」
鴉は段ボールに埋もれながら仰向けになっている。
スマホを指で摘んで顔の前にぶら下げながら喋っているのだが、彼はここであることに気づく。
チラリと、彼が今いる路地裏の先の人の往来を見てのことだった。
(……そういえば、スマホこいつは人に見えないのか……? 俺が使っている様子は、あそこからだとこれが浮いてるように見えるはずだ……)
宙に浮いているスマホがあれば、誰か一人ぐらいは気づいて声を上げるはずだ。
いくら路地裏とはいえ、無意識にそちらへ目をやる者もいないことはないだろう。
しかし、誰も鴉のスマホには気がつかない。
(そういえば、これも茨木童子から……。まさか……その辺に売ってるような物じゃないのか? 鬼たちがつ・く・っ・た・……?)
覚さとりの話によれば、鬼は妖怪を集めて奴隷のように働かせていたと聞く。
だがその内容は鴉は知らない。
そして、彼から教えられた赫津鬼会あかつきかいの秘密のこともある。
覚が言及しなかったということは、秘密と覚たちの労働が直接結びつくことはないのだろうか。
鴉は朦朧とする頭でそう考えを巡らす。
『どうした? よほど参ってるようだな。気を遣って、そろそろ切ってやるか……』
「……うるさい」
『……確かに伝えたぞ。ではまた、次の機会に』
茨木童子がそう言うと、プツリと電話が切られる。
そしてホーム画面がスマホに映し出されるが、鴉は画面を操作することなく、腕の力を抜いてスマホごと自由落下させた。
段ボールの山に全身とスマホを放って、数時間の眠りにつくのだった。
───────────
『今朝未明に起こった謎の爆発事故について、未だ負傷者や行方不明者の救助や捜索は続いており──』
「…………」
同日の午後十六時を回った頃。
加山は自室でソファに座りながら、今朝に起こった謎の建物崩落事故のニュースをひたすら見続けていた。
鴉と分かれた翌日、しかも彼女のいるマンションのある地区(斗島としま区)と近い神宿しんじゅくで起こったのだ。
本来ならマンションを飛び出て自身の脚で調べに行くところだが、彼女がこの話を知った時には既に全てが終わっており、現場は封鎖されていた。
謹慎中に現場へ向かえば、また処分があるかもしれない。
それにことが終わった後で且つ人間が作業できているのなら、妖怪の活動は終わったということ。
断定はできないが、おそらく鴉は勝ったのだろう。
加山としてはそう信じる他なかった。
「鴉……生きてるわよね」
ついこの前出会ったばかりで、共に死線を潜ったというには過ごした時間も戦いも少なすぎるものの、加山からすれば鴉は希望の星のような存在だった。
妖怪の存在が確かであると知れたのは彼のおかげだ。
心折れずに済んだのも。
この街……否、日本に潜む巨悪をようやく捉えた今。この国にとって鴉だけが希望なのだ。
「……やっぱり、私も行くべきかしら……」
鴉の安否が気になる。
その気持ちにはどうしても素直なってしまう。
彼のことだ、妖怪との戦いがあったとわざわざ加山の部屋を訪れるかもしれない。訪れないことも予想はできる。
訪れるのであれば、加山はこの部屋を離れるべきではないが……
ドンドンッ──
「……!」
思案し続けていると、玄関からドアを叩く音が聞こえてきた。
インターホンを使わない、周りの住人にも聞こえるノックを堂々としてくる。
根拠は無いというのに、加山は直感でそれが誰の来訪を告げているのかを理解する。
「待ってて! 今開けるわ」
加山はソファから腰を上げると、パタパタと玄関へ向かう。
そしてドアを開けてみれば、目の前には思った通りの来客が。
「……悪いな。昨日の今日で、また来て」
「ううん、いいのよ。とりあえず上がってっ」
ドアの前にはボロボロの服装の鴉が立っていた。
加山は彼のその様を見て、やはり今朝に妖怪と戦い、そして勝ってきたのだと理解する。
彼女自身でも気づいていないが、彼女は無事な鴉を目にして、とても安心していた。
加山は鴉を家に上げると、彼に冷えたお茶を振る舞った。
「はいこれ。妖怪と戦ってきたのよね? おつかれ様……。喉乾いてるでしょ?」
「ああ、悪い」
鴉は立ったままコップの中の麦茶を飲み干す。
ついでに中に入っていた氷も口の中に放り込み、ガリガリと噛み砕く。
「……ぷはっ! あーー、生き返るぜ……。今日はずっと飲まず食わずだったからな……」
「ニュースで見たんだけど、神宿であった爆発事故? って、やっぱり妖怪とあなたが戦ってたのよね。広範囲で建物が崩落したってあったけど」
「ん? ああ……あそこが神宿っていうのなら、そうだな。確かに朝にやった……。建物をすり潰して、瓦礫がれきを操ったりするような奴だったよ。「ねーねー」鳴いてた虫だった」
「ねーねー? それって、もしかして祢々かしら……」
「知ってるのか?」
「あなたと会ってから、また妖怪について調べ始めたのよ。昔はこうやって図鑑を広げて、色々調べたりしてね。最近はあまり目にしてなかったけど」
加山はテーブルの上に置いてあった本を手に取り、その表紙を鴉に見せる。
それはずいぶん分厚い妖怪図鑑で、ところどころ紙がささくれたりしていることから、彼女が長年その本を所持していたことが窺い知れる。
鴉は彼女に「へぇ」と返すと、コップをテーブルに置いた。
「……風呂、借りてもいいか?」
「え? お、お風呂?」
「ああ。さっきまでゴミの山で寝てたからな。体が臭くてたまらん。お前もわからないか?」
「あ……まあ、確かにちょっと生臭いような……。でも浴槽に湯を張るっていうなら、もう少し時間かかるわよ」
「なら、その間にお前に頼みたいことがある」
「ええ?」
部屋にやって来てお茶をもらい、それでも鴉は遠慮なく部屋の主に注文をつける。
バサバサとボロボロになった加山の前で脱ぎ始めると、流石に彼女も焦り出す。
「ちょ、ちょっと! 何やってんのよ!」
「捨てる服を纏めてるだけだ。上しか脱がねえよ。それで、加山。お前に頼みたいのはな……」
鴉は黒いコートと制服、シャツを床に散らかすと、その手を止めて上体を起こす。
そしてテーブルの上の紙の束を指差すのだった。
「あれぐらいの紙が欲しい。そして、桃を何個か俺に買ってくれ」
21.桃の婆
「鴉ーー、買ってきたわよ」
ガチャッと玄関を開け、両手に中身がいっぱいの白いビニール袋を持った加山が入ってくる。
「ああ、悪いな」
「はぁ、重かった……」
風呂から上がり、前日に覚さとりが置いていったボロい服に着替えていた鴉は、まるで家主かのようにソファに座ったまま彼女を労う。
服はもちろん洗濯済みだ。
部屋に入ってきた加山は、近くのスーパーや文房具店から持ち帰ってきた重い荷物をドサッと雑にテーブルに乗せる。
「はい、頼まれてたものよ。桃をたくさんに……印刷用紙の山。桃、最近高すぎよ。スーパーで一個1200円よっ、1200円! 前までこんな高くなかったのに」
「……他にもあるように見えるが?」
「食料品よ。そして……あなたがさっき壊したボディソープのボトルね」
「……」
加山はジロリと鴉を睨み、嫌味っぽく言う。
というのも、加山が買いに出かける少し前に鴉は体を洗いに風呂場に行ったのだが、どうにも人間の生活様式に疎いがためにトラブル続きだったのだ。
流石に一緒に浴室に入るわけにもいかず、脱衣所から色々と説明していた加山だったが……
───────────
『……? これどうやって水を出すんだ?』
「なんかレバーみたいなの無い? それを上に上げるとシャワーヘッドから出てくるわ」
『何ヘッドだって? わからん言葉を使うな。レバーだな、これか……。……おおっ、出た』
「左のレバーで温度変えれるようになってるから」
『おい、石鹸が無いぞ。お前いつもどうやって体を洗ってんだ』
「そこに色々並んでるでしょ? それが石鹸の代わりよ。えーと……上の方が青くて、下の胴体部分……って言えばいいのかしら。そこが白色なのが体用ね」
『それはわかったが、どうやって中身を出すんだ。この穴から出そうとは思うが──』
バキッ。
『あっ』
「ちょっと!? 何壊したのよ!」
───────────
ボディソープの出し方がわからず、力ずくでどうにかしようとした結果、鴉はボトルを破壊してしまったのだった。
睨んでくる加山に対し、鴉は何も言わず視線を外す。
そして袋の中に入っている桃を取り出し、ボディソープの件など全く意に介してないかのように彼女に言った。
「それで桃だが、籠かごか皿に全部乗せてくれ。切らなくていい。そのままの状態でだ」
「……わかった。でも、そろそろ教えてよ。何に使うの? 食べるわけでもないんでしょう?」
「それはこれからわかる……」
鴉は加山に桃を渡すと、彼女が持ってきたもう一つのビニール袋の中のものに手をやる。
持ち上げたそれは包装された印刷用紙の束だった。
風呂に入る前に鴉は、テーブルの上にあった紙の山を指差して「あれぐらいの紙が欲しい」と言っていた。
だがこれは加山が集めた四大財閥の資料であったため、これに代わる紙を用意する必要があったのだ。
「……これぐらいで十分か」
鴉は包装紙を破り、紙を厚さ1cmほどの束の分だけ取り出す。
そしてテーブルの上に並べてあった鴉の持ち物の中から、ライターを取り上げて火を着けると、なんとその場で紙の束を炙ろうとした。
「ちょっ、ちょっと!? 何しようとしてるのよッ! こんなとこで燃やしちゃ駄目!」
「あ、おい」
加山は慌てて鴉から紙束を取り上げる。
「火災報知器が鳴るから室内で火は使わないで。やるなら外ベランダでよ」
加山がビシッと掃き出し窓を指差して言う。
鴉も「はいはい……」と口にしながら服やテーブル上の道具を持ち出しながら、窓を開けてベランダへ出ていくのだった。
返してもらった紙束に火を着け、灰や塵が空に舞っていく様を眺めている鴉。
しばらくして、桃を果物かごに盛り合わせた加山がベランダに顔を出す。
「はい、桃よ。それで何するのよ」
「もうしばらく待て」
「……?」
鴉はかごを受け取ると、もう片方の手で紙束をバタバタとは・た・め・か・せ・、立ち昇る煙を周りへ散らす。
加山は彼の行動を理解することができなかったが、代わりにあることに気がついた。
煙が消えない。しかも煙には匂いがあった。
あのむせ返るような臭さではなく、鴉が纏っている、しかし彼のそれよりもずっと強い葦の匂いが充満し始めていた。
「鴉……これは……?」
「頃合いだな。そろそろ着くぞ」
「着く? 着くって何が──」
加山が口にしようとした瞬間、ベランダから見える東饗とうきょうの夜景がフッと消える。部屋の明かりも消えた。
鴉の手にあった燃える紙束すらも。
紙と明かりだけではない。
二人のいたマンション自体が、東饗が消えている。
鴉と加山は、光の無い真っ暗な空間に移・動・したのだ。
「か、鴉、ここは何なの……!?」
ただの暗闇でないことは加山にもすぐにわかった。
その場所には光は一切無い。
だというのに、加山から鴉の持つ桃はしっかり見えているのだ。
鴉は霊体であり、霊力の高い加山には光に関係なく目にすることができるが、桃は実体がある。
光が無くては見えない物が見える。
その異様さが、加山に言いようのない違和感と不安を与えていた。
鴉もそれを察して、彼女に言う。
「……ようこそ、"黄泉よみ"へ」
「えっ……!? こ、ここが……」
「まあ、黄泉と言ってもお前たちの世界との隙間の中にある、黄泉に近い部分と言った方が正しいか。鴉は自力ではもう黄泉には帰れないのさ」
鴉は果物かごを脇で抱え、他の物品もボロボロのコートの中のポケットにしまい、それを肩に掛けて歩き出す。
加山も困惑しながらも彼について行く。
鴉がベランダで行ったこと。
それは、この黄泉と現世の隙間にある空間に入るための儀式である。
彼ら鴉が持つライターは黄泉で製造された物であり、扱う火も特別なのだ。
これが燃やす物からは葦の匂いを発せられる。
この煙を多く撒き散らし、肺と身の回りを煙で満たせば、黄泉に近寄れる存在に一時的になることができる。
しかし完全に黄泉の住人にはなれないため、あくまで二人がいるこの空間に入ることになるのだ。
「鴉って黄泉からやって来たんでしょう? なのに自力では帰れないなんて、大変ね」
「……まあな」
「家族はいるの?」
「どうだろうな。いたとしても、同じように鴉になってるかもしれんな」
「……そう」
どこへ向かっているのかもわからぬまま、加山は鴉に質問を投げかける。
全く未知の場所にいるために、そうでもしていないと落ち着かなかったのだろう。
黄泉や鴉に関する質問であったが、答えたがっていないような鴉の態度から彼女もすぐに問答を切り上げてしまった。
時計も無いため具体的な時間はわからない。
しばらく歩き続けていた二人だったが、目の前にようやく、自分たち以外のものが見えてきた。
それは古い、木造の小屋であった。
「やっと着いたな。今回は結構離れたところに転移したもんだ」
「方向はわかってたのね」
「ああ。葦の匂いがしてたろ」
「えっ、そうだったの?」
「まあ……匂いが弱くはあったかもしれないな」
鴉の言葉からして、この小屋が目的地であったようだ。加山はそう納得する。
決して新築ではないが、近づいてよく見れば小綺麗で趣のある日本家屋。
鴉はその戸をノックもせずに開けて中に入る。
加山もそれに続いた。
「まあ……!」
中に入った加山は思わず声を漏らす。
外見とは裏腹に、中はなんと昔懐かしの駄菓子屋そのもの。
このノスタルジックな雰囲気が好みな加山は、鴉の後ろにいながらも内心ははしゃぎたい気持ちでいっぱいであった。
鴉は建物の奥に進む。
それに続く加山はワクワクしながら棚やショーケースの中を覗き込む。
「えっ……」
しかしそんな彼女の気持ちはすぐに消え去ることになる。
並んでいた商品の数々は駄菓子ではなかった。
大中小様々な銃、弾丸、ショーケースには刀剣。
他にも手榴弾やクナイ、槍……
ここは駄菓子屋の皮を被った、武器屋だった。
「鴉……ここってまさか」
「ああ。鴉御用達の武器屋だ」
「……でも、ここに並んでる武器って全部……」
加山は感じていた。
警察組織に身を置くために、ある程度近代兵器は目にしている。
だからこそわかる。
並んでいる武器はどれも、古いのだ。
まさにあの世界大戦で使われていたような。
歩いていた鴉が立ち止まる。
後ろから加山が彼の前を覗き込むと、座敷になっている段差にちょこんと座り込む背の低い人物が。
彼女はここの経営者かとすぐに理解する。
「久しぶりだな。元気してるか」
「……ああ、どの鴉と思えば。お前さんもしぶといものだね」
「さっさと死ねって聞こえるぞ、"桃ももの婆ば"」
その人物は老婆だった。
黒子のように顔を布で隠しており、骨と血管の浮き出た手を除いて地味な色の和服で隠れている。
鴉は彼女を桃の婆と呼んだ。
桃の婆は鴉の後ろにいる加山に気づくと、ゆっくりとした口調で鴉に言う。
「おやおや、見ない顔だね。鴉、駄目じゃないか。こんなところに人間を連れ込んでは……」
「社会見学だ。それに、今は俺と組んでる。無関係じゃない」
「加山優香です……。あの、お婆さん、人間がここに来たらいけないっていうのはどういう意味なんですか?」
「んん? ああそれはねぇ……」
桃の婆の顔は布で隠れて見えない。
しかしこの時、加山は何となく桃の婆がニヤリと笑ったことを察した。
「黄泉に近いからねぇ……現世の人間が、黄泉の住人に本当になってしまう可能性があるのさ……。現世に帰れず、永遠にここに……ククッ」
「まあ、滅多にないから安心しろ」
「滅多ってことは、たまにあるってことじゃない!」
「フッ」
「ククク……」
鴉と桃の婆は焦る加山をからかう。
滅多というのは、そもそも人間がここに来ることがまずないという意味も含まれている。
ただし、本当に黄泉に適応し現世に帰れなくなる可能性はゼロではない。
「それで、桃の婆。本題だが」
鴉は桃の婆の前に、十個強ほどの桃が入った果物かごを差し出す。
「服が破れた。新品をくれ。あとはいつもの銃の弾、手榴弾……。ライターの燃料も足しといてくれ。あ、それから煙草もいつものやつ三箱。そして灰・も頼む」
「……いつもいつも面倒な注文だねぇ。定期的に来たらこんなことにならないのに……。まぁ、いつもより桃は多いから許してあげるよ」
桃の婆は「いつもこれぐらいあればねぇ……」と呟きながら立ち上がり、鴉に頼まれた物を準備し始める。
立ち上がっても身長が1メートル程度の老婆は、加山からすれば小人レスラーを見ているような気分であった。
「……あのお婆さん、お金じゃなくて桃で売るのね」
「まあな。だから桃の婆って言われてるんだろうさ」
「そういえば、この武器とかってどこから仕入れてるのかしら。日本軍の使ってた武器にも見えるけど……」
「さあな。だが……葦の匂いがする以上、ライターや煙草は少なくとも黄泉で作られてるんだろう。それ以上のことはわからん」
そんな会話をしていると、店の奥から桃の婆の鴉を呼ぶ声が聞こえてきた。
服の調整のためのようである。
鴉が桃の婆の元へ行こうとすると、加山は彼を呼び止めた。
「ねえ、鴉」
「ん?」
「あなた、いつも野宿してるんでしょ? 今朝もそれで襲われてたじゃない」
「ああ……それはそうだが。だからどうしたんだ?」
「うちで寝るようにしなさいよ」
「なに?」
鴉からすれば寝耳に水であった。
野宿というよりは風雨は防げているためホームレスに近いが、それでも色々と不便ではある。
快適な拠点を確保できる点では魅力的な提案であるが、同時に加山に危機が近づくことになる。鴉は現在、四大財閥(茨木童子を除いて)から命を狙われている状況だ。
「わかってるのか? お前まで危険になるんだぞ」
「あなたが外で寝て暗殺でもされたら、もっと困るわ。もっと安全な場所を探しましょうよ。マンションも確かに危険になるかもしれないけど……四大財閥が日本を牛耳ってる以上、東饗中が危険なのも事実なんだから」
「……考えておく」
鴉はそう返答すると、桃の婆の元へと向かった。
加山はため息を吐くと、二人が戻ってくるまで店内を落ち着かない様子で歩き回っているのだった。
22.朧月の男
幻明芸能事務所げんめいげいのうじむしょ。
皆途みなと区に構えられた芸能プロダクションであり、歌やダンスのみならず、テレビ番組で活躍できる数多くの男性アイドルたちを輩出してきた。
若い美男子をバラエティでも上手く振る舞えるよう教育を行い、女性だけでなく男性ファンも味方につけ、この界隈で台頭したのだ。
社長である月兎げっとはその顔をメディアには一切晒さないが、この功績と絶世の美男であるという噂から、顔・も・知・ら・ぬ・フ・ァ・ン・も多い。
あろうことかファンクラブまで存在している。
「社長、玉藻様がお見えになりました」
「……ああ、通してやってくれ」
デスクに向かい、キーボードを打ち続ける男。
淡い金色で筋盛りした髪に細く尖った鼻、シャープな目つき。そして紺色のスーツを着た彼こそが、その例の美男社長。
四大財閥の一角、月兎げっとである。
秘書が「玉藻が来た」と言えば、彼は顔を上げることなく彼女に応答する。
自身を見ていないとわかりながら秘書は月兎に軽く頭を下げ、一度社長室を退室した。
「思ったより早く来たな。まだ完成してないのに……」
月兎が作成していたのはテレビ局から打診されていた、事務所のアイドルをメインにした新番組に関する契約書であった。
誰を貸・す・の・か・、出演料にいくら出すのか、どれだけ続けるのか。
それ以外にも、グッズ制作会社との提携についてやスポンサーと出演するアイドルの抱える他のCMとの問題が無いか等、月兎の仕事は多い。
若年とはいえ、たった一人で会社を日本トップにまで押し上げた経営方針だ。本人が中心となるのは当然のことである。
数分すると、部屋の前まで歩いてくる二人分の足音が聞こえてきた。
秘書と客人だ。
両開きの分厚いドアをノックする音がした瞬間、月兎は「入ってください」と返事をする。
扉を開き、入ってきたのは月兎の秘書と『ニンテラ』社長、月兎と同じく美しい金髪と白肌の持ち主である玉藻草司であった。
「案内、感謝します……。ええと、沼田さん? ここからは友人同士、二人だけで話がしたい。申し訳ありませんが退室をお願いできますか?」
「は、はい! もちろんです。ごゆっくりどうぞ……!」
「お茶はいらないよ、沼田くん」
玉藻は丁寧な口調で、社長室まで案内してくれた秘書・沼田に退室するよう頼む。
顎に手を添えられ、美しい顔と甘い声で迫られ、普通の女性である彼女が玉藻の頼みを無碍むげにできるわけもなく。
月兎も背・を・向・け・た・ま・ま・、遠回しに戻ってくるなと念を押した。
沼田が出て行き、玉藻は社長室を完全に閉め切ってしまう。
そして月兎のデスクの正面にある、テーブルを挟むように置かれているソファの上座に座った。
「……あんな雑にやっても照れるようなのが秘書でいいのか? 男のアイドル事務所なら、もっと硬派な女を置いといた方がいいんじゃないかな?」
「何かと便利なんだよ。ああいう方がね」
月兎の社長室は異様な配置がされている。
普通社長のデスクは部屋の奥にあり、入室者の顔が見えるように、また入室者から社長の顔が見えるように置かれる。
月兎の場合、それが逆である。
入室すると月兎の背中が目の前にあるのだ。
メディア嫌いから人に顔を見られたくないのでは、と考える者も多い。
だとしてもそれだけの理由でこのように配置するものなのか。という反論もある。
まるで月兎が、入室者の顔を敢えて見ないようにしているかのようだ。
「……忙しい中悪かったねぇ」
「気にしなくていいよ。すぐ終わる。それで? 用事っていうのは?」
「祢々ねねが死んだ」
「……!」
今まで顔を上げず、ひたすらパソコンを触っていた月兎だったが、玉藻の言葉を聞き指の動きが止まる。
しかしそれもほんの一瞬の話。
再びタイピングを始める。
「……あの鴉に?」
「ああ。トドメは人間が刺したが、もう瀕死まで追い込まれてた。神宿のニュースは見たかな? あれだよ」
「へぇ。派手にやったね」
月兎は空返事をする。
祢々の敗北は思ってもいなかった話だが、所詮よその妖怪の訃報に過ぎない。
それに今のところ、まだ玉藻から月兎への用事というのも明かされてはいない。
「それで僕にどうしてほしいんだ? 言っておくけど、流石に連・れ・戻・す・のは無理だよ」
「違う違う! 祢々はもういいんだ。死骸の方も問題はない。ただ一つ、尋ねたいことがあってね」
「尋ねたいこと?」
「最近何か気配を感じなかったか? 具体的には、空から強大な妖力が降ってきて……体を押し潰すような感覚だ。茨木童子や瑞子は気づいていなかった」
「……いいや? そんなのは別に」
月兎はパソコンの画面を凝視しながら首を振る。
その答えを聞き、玉藻もため息を吐いて背もたれに背中をぶつける。
「月兎なら何かわかると思ったんだがな〜〜」
「君が言うほどの強大な妖力なんて、気づかないはず無いと思うけどね。気のせいっていうのは?」
「無いな。その気配がした後、一度祢々が倒した鴉が復活した」
「ふぅん、そういうことが。鴉に肩入れしてる妖あやかしがいるのかもしれないね、そうなると」
「私もそう思う。だから今は鴉よりも、そっちを調べたい気分なんだ。だがウチで一番強い祢々はやられ、後は有象無象の雑魚ばかり。今の鴉には薙ぎ倒されるだけだ」
「君が行けばいいじゃないか」
「うっかり殺したらつまらないだろう? それに、私が出るのは最後の最後だけさ……」
玉藻がそう言うと月兎は鼻を鳴らし、「君もどうしようもないね」と毒づく。
祢々を倒せるほどの力は見上げたものだが、それでも玉藻の足元にも及ばない。
鴉にまだ可能性や謎がある以上、今から出向いて台無しにしたり、味見程度に留めても最後の楽しみが減るようなことはしたくはない。
それが玉藻の言い分わがままだった。
「……何となく君の言いたいことがわかってきた。つまりこういうことだろう? 祢々に代わる、ちょうど良い手駒が欲しい。探してくれ」
「流石は月兎! 何か良いのがいないか教えてくれよ」
玉藻は指を鳴らして月兎をおだてる。
月兎は相変わらずパソコンと睨めっこしているだけだ。
「何をもって"良い"のかはわからないが、実力だけで言うのなら……大陸に封印されてるや・つ・ら・に覚えがある」
「大陸に封印? できれば一度死んで、黄泉から出てきたようなのが良いんだが」
「そんなに都合の良い妖がうじゃうじゃいるはずないだろ? どこかは妥協してくれ。鴉が戦ってくれなさそうって言うんだろうけど、自分の命を狙われたら誰でも応戦するよ」
「……フン。詳しく聞こうか」
玉藻は面白くなさそうに鼻を鳴らし、改めて腰をソファに沈める。
「大陸……いや中国の四方の隅にそれぞれ封印されてたやつらだ。彼らは全員、厄介者扱いされていた。ここまで聞けば何となくわかるんじゃないかな」
「……あーー、あいつらか」
「君も一応中国出身だからね。シナジーもあると思うし、良いんじゃない?」
「一応訊くが四体だよな? 強いかどうかはあまり聞いたことないが……名は確かに……」
玉藻は件の妖たちについてピンときたようだ。
自分の顎を撫でながら、口角を少し上げている。
月兎もあるキーを一際強く打つと、デスクチェアが軋むほど背中を押し付けて伸びをした。
「ふぅーー、終わった。ただまぁ、封印の解除の方法については僕も知らない。そこは、賢いお狐様に頑張ってもらいたいね」
「ああ、こちらこそ感謝するよ。月兎。おかげでこれからも、まだまだ楽しくなれそうだ」
「フフ……それは良かった……」
月兎はパソコンから視線を外し、チラリと玉藻の顔へ目をやる。すると次の瞬間──
パァァァ────ンッ!!
社長室の壁中にヒビが入り、窓ガラスは全て破裂するように割れた。
まるで、玉藻を中心に見えない力が部屋全体に放射状に放たれたかのように。
「…………」
「やれやれ、ちょっとからかっただけじゃないか。こんな壊さなくても……。おたくの会社に請求しとくからね」
先程までの空気感はどこへ行ったのか。
玉藻は黙って月兎を睨みつけており、月兎は何かしたようだが部屋は玉藻の放った妖力で一方的に破壊されたのみ。
玉藻の用事は済んだ。
そう判断した月兎はパソコンを閉じ、椅子から立ち上がった。
そして空気に溶けるように、実体から影になるようにしてその場から消えていく。
月兎はどこかへ行ったようだ。
元より、神出鬼没と言われる者である。
一人残された玉藻はソファから動かず、呟くのだった。
「"四凶"か」
23.闇の世界
桃の婆の営む武器屋には、元の世界(現うつつの世)へ続く"門"がある。
門と言えども店の奥にある襖ふすま、その隙間から溢れ出る灰色の霞か霧のようなものが正体であり、それに包まれることで元居た場所に戻れるのだ。
鴉の用事が全て済んだ後、鴉と加山はそこを通って転送してきたベランダに戻ってきた。
ベランダには燃やした紙束とその灰が放置されており、燻りながら風に散りかけていた。
「……そうだ。お前に訊いておきたいことがあったんだ」
「訊いておきたいこと?」
時刻は午後九時を回った頃。
加山が振る舞った料理を平らげ、鴉は椅子に座ったまま皿洗いをする彼女に言う。
加山が聞き返すと、鴉は茨木童子から貰ったスマホを服の中から取り出してテーブルの上に置いた。
「こいつのことだ。加山はどう思う?」
「どうって……どういう意味よ」
「何か違和感は無いか?」
「違和感……? 普通のスマホじゃないの?」
加山は蛇口を捻って水を止める。
そしてタオルで手を拭いてから、鴉の向かい側の椅子に座った。
「ああ、普通じゃない。やっぱりお・前・に・は・見えるんだな」
「……? 私には見えるって? まるで見えない人間がいるような言い方ね……」
そこまで口にして、加山は気がつく。
それが見える者がおり、見えない者もいる。そして加山には見える。
まるで、鴉のことのように思えたのだ。
だが今回は彼のことではない。
鴉が茨木童子から渡されたスマートフォン。
元々鴉の持ち物ではないというのに、これもまた普通の人間の目には映らないというのだ。
「でもそれって……茨木童子から貰ったんでしょ? その辺に売ってるようなスマホなら、他の人間には見えるはずよ」
「お前以外の人間には見えない。尤も、もっとよく探せばいるかもしれないがな。祢々を殺してからここに来るまでに、人間の視界に入れて確認をしてみた」
「茨木童子が、あなた用に作ったってこと?」
「かもな」
鴉は煙草の箱もテーブルの上に置き、ライターも取り出す。
そんな様子を見て加山は、「火」と煙草を指差して言い鴉を制止した。
「……俺の武器や服は黄泉の代物だ。黄泉のものは、こっちの世界の人間には見えない。言ってしまえば霊体。つまり、お前のように高い霊力を放つ者にしか見えないんだよ」
「え……。それじゃあ、このスマホも黄泉のものってこと……!?」
「あり得ないと思うんだがなぁ……」
加山は驚きを隠せない。
というのも、鴉の武器や常識というのは明らかに現世と比べて時代遅れである。
そのため彼女は、黄泉の世界は現世と似ながらもその過去の時代をなぞって時が流れている。そうイメージしていた。
鴉の反応からしても、この考えが大きく外れているとも思えなかった。
「鴉、そろそろ教えてもらえないかしら。あなたの居た、黄泉のことについて」
「……そうだな。いずれ、とは思っていたことだ。教えてやるよ。黄泉の世界、妖怪たちのこと、そして……黄泉の神について」
───────────
黄泉の世界には光が無い。
いや、正確に言えば太陽が無い。
──黄泉では何も見えないってこと?
いいや。さっき行った桃の婆の店の周りみたいに、空と景色はひたすら闇に覆われている。
だが、光が無いにも関わらず近くにある物品や住人同士は、目に映すことができる。
暗闇の中に、ただ物か動物がいる。
そんな世界だ。
──不思議な世界ね……。あなたはそんな場所に住んでたんでしょ?
ああ。
それで黄泉の住人についてだが、種族としては俺たち鴉と同じ……
見た目はお前たち人間とは変わらず、お前たちよりは身体能力と再生力に優れている。
生活様式も、俺もあまり詳しくないがこの世界の過去の日本と似通っていたはずだ。
少なくともこのスマートフォンとやらがあったり、作ることができるような場所じゃない。
──だからあなたもあり得ないって言ってたのね。だとしたら、茨木童子はどうやってこんな物を……
もしかしたら、これが覚の言ってた鬼の秘密とやらかもしれんな。
奴らのことについては、どうして黄泉に一度も行ったことのない妖怪に固執するのか。それも探りたいと思ってる。
──そうよ。それで思い出したわ。妖怪は死んだら黄泉に行くって言ってたけど、どうしてそこから妖怪がまた現れたりしてるの?
……一説には、黄泉の世界は大勢の妖怪どもを放り込むには狭く、また妖怪たちの内戦に耐えられるほど頑丈でもなかったからと言われている。
──一説には?
疑っていた者は多かった。
というのも、そもそも何故黄泉の世界が妖怪の死後の行く先として選ばれたのかって部分がきな臭いのさ。
神話の時代、国生みの後の話だ。
神々は自分たちに近しく、しかし劣る存在である妖怪を疎ましく思っていた。数が多く、余計な力を持ち、自我もあるが故にまつろわぬのだから、当然と言えばそうだ。
──神々でも妖怪には勝てなかったって、ことなの?
おそらく臭いものに蓋を、ってことなんだろう。
だが妖怪にも、神々を脅かせるほどの力を有する者がいる。"神殺し"を為せる者がな。
死して尚力を失わず、自分たちを脅かしかねない。
無駄に誇り高く、貴い者だと自負する神々にとっては邪魔だったろうさ。
だから妖怪は消すのではなく、罪人として黄泉に収容したんだ。神に歯向かう愚者には劫罰ごうばつを……と。
これが神々の答えだった。
──それじゃあ、死んだ後の妖怪の監視だったり管理を任せられたのが黄泉の神だったってことね。
そうだな。
黄泉に送られた妖怪に罰を与え続けるよう、他の神々より命じられていた。
一度黄泉に送られてしまえば、その世の支配者たる黄泉の神に逆らうことは不可能。
神々はこの優位性に目をつけたわけだ。
だが、問題は黄泉の神もまた、神々にまつろわぬ異端の存在だったということだ。
──えっ、神なのに、他の神を裏切ったの?
所詮、神と呼ばれている点でしか共通点が無いからな。
光の無い闇の世界で、"人間擬き"を生み出して孤独を埋めていた黄泉の神は妖怪を放置し、劫罰を与えなかったんだ。
──どうしてそんなことを……
俺が思うに、それは現世の神々の真似事だろう。
自分の世界に神ではない命が入り込み、それらが生き、争い、倒れていく様を眺めている。
現の世の神への嫉妬か、それとも学・び・か……
──学び?
俺は実際に神を目にしたことはないが、黄泉の神は幼・か・っ・た・と聞いている。
そもそも黄泉の世界そのものが、国生みの後に出来上がったらしい。
一つの世界を生み出した神が、もう一つの既に出来上がっている世界を見て学び、世界を拡張していく。
神々も誤算だったろう。だが自業自得だ。
未熟な世界に邪魔者を押し込めた結果、妖怪どもは溢れ返り、現世へと蘇っている。
──そう思うと、黄泉の神も少し気の毒ね。でも、現世の神への嫉妬の可能性もあるのよね? 事実は多分この先もわからなさそうだけど、でも黄泉の神はあなたたち鴉に妖怪を殺して連れ戻すよう命じた。これは本当なのよね。
ああ。
嫉妬であるなら、わかってて妖怪を現世に放った可能性すらあるわけだ。
だから黄泉の神が本気で俺たちに連れ戻させるつもりがあるのか、それとも黄泉の神の命ということにされているだけで他の神々による命令なのかはわからない。
どちらであれ、俺たちは妖怪を殺すという使命を果たさなくてはならん。
──あなたの話を聞いていると、まるで呪いのような使命と思うわ。
呪いで合ってるだろうさ。
俺たちは黄泉へは帰れないんだからな。
それに妖怪たちは俺たちの存在を知っている。
力さえあれば、俺たちを逆に狩ろうとしてくる。
それが自分の名声になるからだ。
──名声……。
四大財閥の連中がわかりやすいだろ。
妖怪は人間とは違う。
力と"名"が、奴らにとっての全てだ。
強いやつほど、俺たちの纏う葦の匂いに敏感になっている。
死なないためには戦うしかない。
それが、鴉だ。
───────────
加山は鴉の話を聞き、彼らの事情を憐れむ。
しかし同時に、こんなことも感じていた。
(生きるために、殺している……。それが鴉だと言ったわね。でも、私からは……あなたは、殺すために生きているように見えるわ)
24.私たちの希望
祢々との戦いから五日が経過した頃。
ついに、加山の謹慎が解かれた。
実に一週間の謹慎処分であるが、そもそもの経緯としては上官の命令を無視した独断専行のみであり、重大な問題も結果的には起こさなかったことから短期間の謹慎で済んだのだった。
「その服も一週間ぶりに見たな」
「最初にあなたと会った時はこれ着てたわね、そういえば。一週間ぶりに着ることなんてまず無いから、私も変な気分よ」
神宿警察署へと出勤途中の加山と、彼女について歩く鴉は徒歩で街を巡回していた。
朝七時過ぎの現在であるが、繁華街に足を踏み入れてみればそこら中に泥酔して寝ていたであろうサラリーマンや不良たちの姿が二人の目に入る。
全員気分が悪そうに俯いているか、未だに色々と投げ出して死んだように眠っていた。
「結局あれからは妖怪は出なかったわね」
「そうだな。お前と出会ってからの三日間が異様に激務だった気がするが……まあ、こういう一週間もあるだろうよ」
「茨木童子の連絡も思ったより遅いわよね。何か企んでるんじゃない?」
「さあな……少なくとも今のところは、俺を後ろから刺すようなことはしないだろう。あいつらも、俺がいないと困るらしいしな。……それにしても、すごい街だなここは」
桃の婆の元から帰ってきてから、鴉は加山の提案通り彼女のマンションの部屋に居候することにした。
とは言えあくまでも拠点のような扱いであり、彼はほとんどマンションの外におり、パトロールを行っていた。
妖怪の襲撃も気配も無く、茨木童子からの連絡も無かったため、鴉は夜の繁華街に向かい、下品なネオンの輝く下で人間たちが欲に溺れてる姿を観察していたのだった。
「大量の酒を浴び、乱雑に金を舞わせ、淫らに異性を抱き……妖怪よりも恐ろしいかもしれん。今の日本は」
「……そうね。みんな、欲望に溺れてるわ。お金のシステムは便利だし、日本の社会には不可欠なものだけど……この有り様は私も醜悪だと思うわ」
二人は道の隅で嘔吐する、大学生ぐらいの青年たちの姿を見ながらそう話していた。
欲に支配された人間は醜く目に映る。
しかしこ・れ・を引き起こしたのは妖怪であり、だがその土台を作ったのはやはり人間である。
───────────
「おはようございます。加山優香、本日より復帰しました。ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
街中の散策を終えて警察署に到着し、刑事課の部署に足を踏み入れた加山は、入り口の前で全体に向けて挨拶をする。
「加山さん……」
「加山……」
「運が良かったな……あいつ」
ザワ……ザワ……
部署の雰囲気は、はっきり言えばお通夜のようにどんよりとしていた。
三、四十人ほどの職員が疲れきった顔のまま、広いオフィスの中を往来したりひたすら書類やパソコンに向かって作業を続けている。
皆、加山の方へ複雑な表情を向けている。
そしてぼそぼそと何やら話しており、その声が数十人分集まることでやや入室してきた加山や鴉にとって耳障りに思えた。
「……歓迎されている雰囲気ではないな」
「……当然よ。この前の病院に、祢々の事件の後処理とか……毎日とんでもない仕事量に押し潰されてたはずよ」
鴉は加山の横で普通のトーンで。
加山は側から見れば独り言のように小さい声で話す。
少しだけ聞こえてきた「運が良かった」という言葉は「サボれて良かったな」という意味だろう。
恨めしそうに加山を見つめる視線にも多少納得はいく。
しかし、加山へ向けられる顔というのはそれだけではなかった。
「あの……加山さん。ちょっといいですか?」
「あ、貴島きじまくん」
加山が自分の席に向かって歩いていくと、その途中で彼女より若い男が話しかけてきた。
髪がやや茶色で天然パーマの彼は貴島悠介きじまゆうすけ。
加山の後輩にあたる。
「どうしたの?」
「その……長濱さんのことなんですけど」
「えっ……長濱さんがどうかしたの?」
「いえ、どうにもなってはないんですよ。いや、何かあるかと言われればあったんですけど……。長濱さんにちょっと顔を見せてあげてください。あの人、最近色々あったので」
貴島の目元には隈くまがある。
彼もかなり疲労していることだろうに、それでも長濱を優先して心配していた。
彼の優しい気質もあるが、本当に長濱はまいっているのも事実なのだろう。
加山はそう考える。
「わかったわ。長濱は今は?」
「多分、屋上ですかね……。考え事する時、あの人はいつもあそこに行きますから。加山さん、お願いします」
「ええ」
加山は頷くと、ひとまず自身の先輩にもあたる長濱に会いに行くことに決める。
仕事はその後でも構わない。
後ろで黙って佇んでいた鴉にも小声でこのことを告げると、二人で長濱がよくいるという屋上へと向かうのだった。
15階分の階段を上り、屋上に続く扉を開く加山。
関係者でない者が見たら意外に思うかもしれないが、この警察署の屋上は観葉植物やベンチなどが設置され、比較的快適に過ごせるようにされている。
異常好景気により全体主義と個人主義の同時存在する現在、働きやすさもまた重視されつつあるのだ。
屋上に出た加山は、花が消え青々とした藤棚の下のベンチに座る人影に目をやる。
後ろ姿からわかる。長濱であった。
「長濱さん」
「……! 加山。お前……ああ、そうか。今日が復帰の日か。悪かったな、きちんと出迎えてやれなくてよ」
「いえ、私は構いませんよ。ご迷惑おかけしました。それにしても長濱さん……かなり、お疲れのようですね」
ベンチの前に回り込み、缶コーヒーを片手に黄昏ていた長濱に声をかける加山。
彼女が言うように、多忙どころではない仕事量に追われていた長濱の顔はすっかり体力の限界を表していた。
目の下には貴島以上に暗い色の隈があり、瞼もかなり重そうに下がっている。
色黒で健康的だった顔色も、今は病気でもしているかのように悪い。
「そりゃあな。ここ五日間は何も無かったが、先週の連続テ・ロ・事件の後始末や報告書やら……。とにかく色々やることが多すぎるんだよ」
「テロ……ですか?」
「お前……五日前に神宿であったあの事件知らねぇのか? 建物が三十近くぶっ潰れたやつだぞ? めちゃくちゃニュースになってたはずだろ……。お前だらけてたのか?」
「いえ、あの事件なら私も知ってますが……。しかし、テロとして片づけられたとは知らなかったです」
「まあ、それに関してはそうだろうな。昨晩そう結論づけられたんだからよ。……納得がいかねぇ」
長濱は表情こそ変わらなかったが、握っていた空の缶に入れる力を増し、メキメキと音を立てている。
そこには彼の静かな怒り、苛立ちと悔しさが滲み出ていた。
「加山、俺ぁお前に謝りたいことがあったんだよ」
「え? 謝りたいこと、ですか?」
「……お前は、俺たちによく妖怪やら化け物の仕業だと話してた方があったな」
「……それは……」
「神宿の事件だが、俺たちは確かに見たんだ。警察や消防を殺して、瓦礫を操って俺たちまでミンチにしようとしてきた……虫の化け物を」
「……!!」
長濱の正面に立っていた加山は驚きの表情を浮かべ、そして長濱の背後に立つ鴉へ視線を上げる。
鴉は黙ったまま加山に目を向け、「そういえば長濱こいつは現場にいた」とアイコンタクトで伝える。
「あれが、お前が言ってた"妖怪"ってやつなんだろう。俺だって信・じ・た・く・な・か・っ・た・が、信じるしかねぇ。仲間が大勢殺されて、実際ニュースになるぐらいの事件になったんだ」
「……長濱さん」
「お前は、きっと一人でああいう存在に向き合い続けてきたんだよな。お前を信じてやれなくて、本当に申し訳ないと思ってんだ。……すまん」
「長濱さんが謝ることなんて何一つありませんよ……。私だって、長濱さんたちの命令を無視することはしょっちゅうで、それで、妖怪にだって何の太刀打ちもできてなかったんです。口だけの人間だったんです」
「…………」
長濱は黙りこくる。
加山も、それ以上彼に声をかけることはできなかった。
励まそうというわけではなく、懺悔でもなく、ただ長濱に謝ってほしくないと、あなたは間違ってないと加山は伝えたかったのだ。
二人の間に重い沈黙が流れる。
加山は再び鴉に目をやった。
しかし今回はその意図が鴉にはわからず、彼は首を傾げるばかり。
だがそれでいいのだ。
これは、加山の決意である。
「……長濱さん、私には仲間がいるんです」
「仲間?」
「……」
(喋るつもりか。だが……それは──)
加山の一言で、鴉はすぐに全てを察する。
「東饗政樹病院での爆破事件……あの時、私の前に妖怪を狩るある者が舞い降りたんです。彼は今、長濱さんの後ろにいます」
長濱はその言葉を聞くと、バッと振り返る。
しかし、彼の視界には誰もいない。
長濱は見・え・な・い・者・だからだ。
「彼は、孤独な私に力を貸してくれました。私を認めてくれて、色んな話をしてくれました。妖怪狩りは彼の仕事、命をかけて妖怪と戦うんです」
「……まさか、あの時。虫が急に何かと戦ってたような動きをしてたが……そいつが……?」
「はい。彼が、戦っていました」
「…………」
長濱は後ろへ振り返ったまま、虚空を見つめ続けている。
自分の目には見えない者。
死傷者多数とはいえ、虫の妖怪から自らを含めた生存者を守ってくれた者。
会いたい。ぜひ話してみたい。
長濱はそんな思いに駆られていた。
「彼は今、この国の社会を相手取ろうとしています。それが真の闇なんです。彼は、鴉は、私たちの希望なんですよ」
25.潜む癌
「鴉……それが、お前の仲間の名前か」
「はい」
長濱は自身の背後へ顔を向けたままそう言う。
加山も肯定するが、実際に長濱の目の前にいる鴉は彼の目には映ってはいない。
座っている長濱を、鴉も見下ろすばかりで特にアクションを起こすようなこともなかった。
姿勢を戻し、長濱は再び加山の方へ向く。
そして口を開いた。
「加山。お前はさっき、敵はこの国の社会だって言ったな」
「ええ。言いました」
「詳しく聞かせてくれねぇか」
「わかりました」
長濱はベンチの左端へ移動すると、空いた右側のスペースに加山を座らせ、「鴉とやらは座らなくていいのか?」と後ろへ声をかける。
鴉は加山に首を横に振って見せ、そんな長濱の誘いを断った。
「それで、さっきの話の続きですが」
「ああ。社会が敵ってのはどういう意味だ? まさか人間社会に妖怪が大勢紛れてるってことか?」
「はい、まさしくその通りです。社会に紛れている……それどころか、掌握していると言っても過言ではありません」
「社会を掌握……!? んなこと、人間にバレずにできるのか?」
「実際にそうなっているんです。私と鴉は、先週に何体かの妖怪と接触しました。その中で出会った若い男の姿の妖怪は、こう言っていたんです。彼らは金の力を使い、警察もマスコミも、自在に操作できると」
「……! 警察も……」
長濱は目を見開き、そして視線を落とす。
まるで何か、心当たりがあるかのような反応であった。
「つまり、それだけの経済力を妖怪たちが持っているということなんです」
「待て、それだけの力があるってことは『四大財閥』クラスの金を持ってるってことだぞ……!? 数千兆円規模の資産があるってことだ……。妖怪が人間に隠れてそこまで金を蓄えられるなんて、俺には到底信じられん」
「……その四大財閥のトップこそが妖怪なんですよ。全員漏れなく」
「……何だとっ…………!?」
長濱は驚愕する。
加山にとってもこれは、たった一人では到達することができなかった真実である。
鴉と出会い、彼が四大財閥の一角である茨木童子や、その捕虜であった覚と関わったことでようやく知り得た情報なのだ。
長濱は自身の両手を組み、項垂れる。
妖怪という、ただでさえ人智を超えた力の持ち主が敵だというのに、それらは今社会の頂点に立っている。
自由の身であったと信じていた家畜が、草原を囲う柵に直面し、自分たちのその命は人間に管理されている、そう実感したようなものであった。
「お前たちは……そんな奴らとどう戦っていくつもりなんだ?」
「それは……」
加山も言葉を詰まらせる。
彼女には戦う力が無い。
妖怪の存在を知り、鴉と情報を交えているだけだ。
鴉は彼女に自分に代わって人間を助けるようにと述べたことはあったが、それは彼女自身の力で妖怪と対しているとは言えない。
「結局は私も、鴉頼りですから……」
そう答えるしかなかった。
確かに茨木童子と鴉は手を組みはしたが、それでも未だ何かを成したということはない。
まだ口だけの約束に過ぎなかった。
どう戦っていくのかという答えは、加山と鴉には無い。
「……加山」
「はい」
「俺からも、お・前・た・ち・に・伝えておきたいことがある」
そう言われた加山と鴉は顔を見合わせる。
長濱は続けた。
「この前の神宿でのテロ事件……いや、虫の化け物の起こした殺人事件は、上層部によって揉み消された。もっと正確に言やあ、隠された」
「テロだった、ということにされたんですね」
「ああ」
長濱は回想する。
祢々による死傷者数は70人を超えていた。
建物の倒壊に巻き込まれてその数となれば納得はできるが、これは倒壊事故が起・こ・っ・た・後・の・死傷者数である。
加えて、ボディカメラによる記録もある。
その映像には確かに、猛威を振るう祢々の姿は映っていたはずだった。
『なぜそうまでしてッ! これをテロとして片づけようとするんですかっ』
『何度も言わせないでくれ、長濱くん。これは東饗を狙うテロ組織による犯行なのだよ。先日の病院爆破事件もそう……』
『馬鹿を言わんでください!! 俺たちのボディカメラには確かに映っていたはずだっ! 警官を次々と八つ裂きにし、コンクリートを飛ばしてパトカーや消防車を破壊していく虫の化け物の姿がッ!!』
長濱は小太りの刑事課長に詰め寄り、彼のデスクに拳を叩きつけながら怒鳴っていた。
納得がいかなかった。
いくはずがなかったのだ。
目の前で多くの人間が化け物に殺され、しかも他の警官や消防士たちもその惨状を目撃していたにも関わらず、現場にすらいなかった上官に揉み消されんとしているのだから。
『そんなものは無かったんだよ、長濱くん。これは、過剰なストレスによって発症した集団ヒステリーの一種だ。専門家を交え、すでに調べはついている。あの現場を前にして、正気でいられる方が難しいだろう』
『ならあのパトカーや消防車のザマは何だってんですかッ』
『パニック状態になった者たちによる破壊行動の結果だ。今回は不問とする。仕方のないことなんだ』
『〜〜〜〜ッ……!!』
ボディカメラは既に回収されている。
長濱側に証拠は残っていなかった。
パトカーや消防車も形は見るも無惨な見た目となったが、妖怪の存在を確実に証明できるものではない。
殉職した者たちも、既に処理されて手遅れだった。
『ふッ……ふざけるなァァァァッッ!!!』
長濱の怒声が上下のフロアにまで届き、響き渡る。
こうして祢の事件は完全に偽物の記録に塗り潰され、殉職した警官たちも闇の中へと隠された。
神宿警察署は、既に妖怪の手に堕ちていたのだ。
「……そんなことが……」
長濱の話を聞き、加山もまた唖然とした表情を浮かべる。
流石にあれだけ派手な被害と、大勢の犠牲者、目撃者のいる事件であれば警察も無視はできないはず。
そう思っていたからだ。
「……見事に腐ってたな」
鴉もポツリと呟く。
「お前の話を聞いて、よくわかったよ。どうして上官が化け物絡みの事件を隠したがるのか……。それは、上層部あいつらがもう妖怪側にいたからってことなんだな」
「…………おそらくは」
「ったく。どうすりゃいいんだ? 俺たちは……」
俯き、頭を抱える長濱。
加山も彼にどう言葉をかければいいのかわからなかった。
まさか自分の身を置く警察の組織が、ここまで闇に呑まれていたとは。
「警察はいくらでも操れる」とは聞かされていたが、やはり実際にそれを感じる出来事に直面するとなると心にくるものがあった。
「加山」
「……鴉」
ここで鴉が口を開く。
「茨木童子が言っていたが、魃ばつや祢々は玉藻の部下だ。おそらく警察おまえたちの上層部を掌握しているのも玉藻だろう」
「それは私にもわかるわ。でも、これからどうするべきだと思う?」
「別に状況が悪化したわけじゃないだろう。ハナから俺たちは、警察の手なんぞ借りずに四大財閥と対そうとしてたんだからな」
気を落とした長濱と加山とは対照的に、腕を組み落ち着いた様子で話す鴉。
そんな空気感の差を感じさせる彼に、加山もムッとして言う。
「何が言いたいのよ」
「ハッキリ言って、警察に纏わりつく闇を払うことはできん。玉藻を倒さない限りはな。だが……闇に通じてるやつを掴んで、脅すぐらいはできるだろう」
「……? どういうこと?」
「真実を揉み消され、隠されているなら暴けばいい。俺たちにはとっておきの助っ人がいる」
「助っ人? ま……まさか」
加山は鴉の言う"助っ人"の正体に心当たりがあった。
鴉は答え合わせをする。
「長濱の上官に、覚を引き合わせるぞ。あいつを使って警察の闇を暴き……あわよくば、玉藻の情報を吐き出させる」
26.覚のジャーナリズム
「それで、俺が呼ばれたと」
「ああ。頼むぞ」
午前十一時を回った頃。
神宿警察署の前に二人の男の姿が。
尤も、そのうちの一人は誰の目にも見えない鴉。
もう一人は猫背でガタイが良く、夏にも関わらずコートを羽織っている三十代後半辺りといった見た目の男。
「それにしても、よく俺のいた場所がわかったな。鴉」
「何にも無い日は暇で仕方なかったからな。お前の拠点を探してたのさ。心を読める能力、いつか役に立つと思っていた」
鴉と話しているのは覚さとり。
祢々ねねが襲撃してきた昨晩、彼と別れてからずっと鴉は覚の居場所を探ろうとしていた。
その結果、覚は斗島としま区のある建物の屋上、そこにあるコンテナハウスの中に住んでいたことを突き止めることができた。
鴉から貰った煙草を香代わりにし、比較的弱い妖怪を遠ざけ、鬼たちの嗅覚も欺いていた。
加山と長濱と別れた鴉は、さっそく覚を警察署へ連れてきたのだった。
「想像できていたことだったが、実例を聞いてみると中々ショッキングだな。本当に玉藻が関わっているなら、俺もアンタたちもタダじゃ済まなそうだが……その辺りは大丈夫か? 鴉」
「構わん。加山もあの長濱という男も、覚悟はできている。後はお前がどうするかだ。の・る・か・、そ・る・か・な」
「意地悪い鴉だな……」
覚は下唇を突き出し、呆れたような顔を見せる。
というのも、覚を今回の件に付き合わせるのに鴉からある交換条件が提示されたのだ。
以前、覚は鴉に自身に代わって死んだ妖怪たちの仇を取ってほしいと乞われたことがある。
その時鴉は彼の願いを拒み、非難したが、今回は条件付きで覚の願いを聞き入れたのだった。
「いずれにせよ、鬼は倒すつもりではあった」
「だったらそれは聞き入れたとは言わんだろう……。行き着く場所が結局同じなだけで。まあ……俺としてもお前たちと協定を結べるのなら断る理由が無い」
茨木童子率いる鬼たちは、覚のように一度も死んだことのない妖怪を集めて捕虜とし、奴隷のように働かせていたという。
その過程で覚の同胞たちは死んでいき、彼はその仇を望んでいた。
鴉はその仇討ちを引き受けたが、彼としては最終的に鬼とも敵対するつもりでいた。
結局既定路線ではある。
「まあいい。では、行こうか鴉」
「ああ、二人が待ってるからな」
鴉と覚は警察署へと足を進める。
中では加山と長濱が待っている。
警察の闇を暴くために、覚は妖力を昂らせた。
───────────
長濱と加山はエントランスで二人を待っていた。
ベンチに座り、覚の到着を今か今かと待ち侘びていたようである。
覚とその横にいる鴉が自動ドアから入ってくるのを目にした加山は、長濱に声をかけて立ち上がり、共に二人の元へと歩み寄ってきた。
「ありがとう、覚。来てくれて」
「構わん。アンタには助けてもらった借りがあるからな、加山さん」
覚は加山に手を上げて「気にするな」とジェスチャーを行う。
「加山、この男が……?」
「ええ。この人……いえ、妖怪ですね。彼こそ、心を読むことができる妖怪の覚です」
「よろしくお願いします、長濱修ながはまおさむさん。高・橋・警・視・と・の・会談は任せてください」
「っ……!? 俺や警視の名前を……。本当に、心が読めるのか……」
覚はニヤニヤしながら長濱へ握手を求めた。
身長180cmを超える長濱を、妖怪らしいニヒルな笑みと共に見上げる覚。
そんな彼の様子が不気味に思え、ぶるりと身震いする長濱だったが何とか握手は交わすことができた。
「それで、どこまで準備ができているんです?」
「ああ、警視には既に客が来ることは伝えてある。約束の時間までもう五分程度だ」
「ほう。結構時間ギリギリだったようだ。危なかったな、鴉」
「フン」
時間ぴったりにこだわるきらいがある鴉だが、ここでもそのこだわりが出てしまったようだ。
「行こうか。警視の部屋まで案内する」
長濱を前にして、四人は歩を進める。
うち一名は覚と加山にしか見えず、うち一名は完全なる部外者。
しかし加山と長濱が連れていることで、目を惹きこそすれど呼び止めて阻もうとしてくる者はいなかった。
エレベーターを使い、ものの十数秒で目的地のある九階に到着する。
重要な管理職の集まるフロアなだけあり、エレベーターを出てからの空気は静かでやや重い。
加山も少しだけ緊張しているのか、体が強張っていた。
「……着いたぞ。ここだ」
エレベーターを降りてすぐの廊下の突き当たり。
そこまで歩いていくと、扉の前で長濱が小さな声で言った。
「警視は中にいるんですね?」
「ああ。さっきも言ったが、一応客が来ること自体は既に伝えてある。覚さん、よろしく頼む」
「鴉、中に妖怪の気配ってあったりしないかしら? 念の為聞いときたいんだけど……」
「妖力は感じられない。よっぽど隠すのが上手い妖怪でなければいないだろう」
鴉は覚に目をやる。
それに気づいた覚も、鴉の言ったことに同意するように頷いた。
四人全員、入る用意はできた。
そう判断した長濱は「では入るぞ」と合図をし、両開きの扉をノックする。
『入りなさい』
「失礼します」
扉の奥から男の声が聞こえてきた。
了承を得られた長濱が扉を開けば、四人の目の前にまさに偉い管理職の部屋、といった具合の広い部屋が。
扉の正面、その奥にはデスクがあり、窓ガラスからの逆光を受けながら小太りの中年の男が座っている。
部屋の左手側には二つのソファとそれを挟むように置かれたテーブルと、壁側には本棚に詰め込まれた大量の本やファイルが目に入る。
右手側には観葉植物やガラス張りの棚、壁には大きな額縁に入った「真実無妄」という揮毫きごうが飾られていた。
「長濱くんに、加山くん……そして、そちらの男性が私に用があるという方かな」
「はい。さと……里山雅人さとやままさとさんです。ジャーナリストだとのことで」
「ジャーナリスト……?」
長濱が咄嗟に覚を偽名で紹介する。
しかし、ジャーナリストという点で警視は訝しむ。
今回警視は長濱から客が来るということしか伝えていなかったが、蓋を開けてみればそれは記者だったのだ。
つまり正規の手続きを行わずに取材に来たという設定になる。
「忙しい中お時間を取っていただき、誠に申し訳ありません。ご協力感謝いたします。私、ネットニュースの記事を執筆しております里中です」
覚はペコリと礼をする。
流石に名刺までは用意できていなかった。
「あーー……それで、里山さんでしたね。長濱くんもだが……本当に困りますね。色々と事情を隠してやって来られては。記者の方には、エントランスの受付やホームページから取材の手続きをしていただきたいと案内をしているはず。例外は認められない。申し訳ないのですが、本日はお帰りください」
警視──高橋渉たかはしわたるは閉じていたノートパソコンを再び開き、中断していた作業を再開しようとする。
しかし、覚は退かなかった。
「本当に申し訳ない。しかし、ほんの少しだけ質問に答えていただければよいのです。お時間は五分もいただきません」
「そう言って一時間、二時間と粘るのが貴方たちだ。ジャーナリスト魂と言うのですかな。見上げたものです。私は考えを変えるつもりはありません……」
「受付を通さなかったのにはワケがあるんです。ぜひ教えていただきたい。五日前の、西神宿建物三十棟破壊テロの件について」
覚の言葉を聞き、高橋はピクリと眉が動かす。
開いたノートパソコンを再びパタリと閉じ、覚と長濱をジロリと睨みつける。
「何でも、警察の死傷者は70人にも上るのだとか。テロは警察が到着するより前に起こり、多くの建物が倒壊した後に警察が来たとのことですが……それならどうして警察に死傷者が出たのでしょう?」
「その場に留まっていたテロ組織の構成員との戦闘の結果だ。悲惨な犠牲だったと感じています」
「それは聞いていた話と違いますね。長濱さんからは、集団ヒステリーによる相互殺傷の結果だと聞いています」
「長濱くん……これは情報漏洩だぞ。捜査や事件のデータを記者に横流しにしていたのかッ!」
「っ……!」
高橋はデスクを拳で叩き、長濱を叱責する。
だが長濱も負けはしない。
これは確かに、明確な規約違反である。
普通なら停職、いや賠償やクビだってあり得る。
上官の言葉に何とか耐え、彼は覚の言葉を待つ。
「うーーん? 自身の部下に嘘をついていたということでよろしいですか? お二人の間で齟齬そごが生じるのはおかしいですね」
「……事件の詳細については機密事項です。事実を簡単に外部へ漏らさないよう歪曲した情報を流布することもあります」
「……なるほど……。納得しました」
「「えっ…………!?」」
覚は何とそれ以上の追及をやめてしまう。
長濱と加山は思わず驚きの声を上げた。
「それなら良かった。では、里山さんには早いところお帰りいただいて……。長濱くんと加山くんは、ここに残りなさい。わかったね?」
「くっ……!」
「…………!?」
(覚……どういうつもりなの!? 心を読んだんじゃないの? あなたがここでやめたら、何の意味も無いじゃない!!)
「覚……」
覚はまたペコリと高橋に礼をすると、長濱、加山、鴉の三人の間を通り抜けて部屋の出口へ歩いていく。
高橋は目の前にいる二人の警官に対し、怒りに燃えた目を向けている。
二人の処分は確実である。
長濱はともかく、加山も協力していたものと高橋は判断したのだ。
「では……」
覚は扉の前で立ち止まり、取っ手に手を掛ける。
その状態で振り返り、後ろの四人に向けていった。
「玉藻草司によろしくお伝えください。今回の事件、隠すのが大変だったでしょう。八千万ではなく、もっと欲しいと我儘を言ってみてはいかがでしょうか」
「「「なっ……!?」」」
「なぜ……そのことを!?」
覚がそう口にした瞬間、警官三人は驚愕する。
誰より驚いたのは、警視その人であった。
「どうして知っている」と口にしてしまったことで、加山と長濱はバッと高橋の方へ振り向く。
「警視……まさか本当に!!」
「やはり……わかっていたんだなっ!? この事件をっ、隠そうとしていたんだなッ!! 高橋ィィ!!」
「うおおああっ!?」
長濱は怒りに身を任せ、デスクに身を乗り出し高橋の胸ぐらを両手で掴み掛かる。
寝不足の状態もあり正常な判断ができないのもあるが、殺されていった同僚たちの無念を更に踏み躙られた。
その怒りが最も強かった。
「落ち着けっ、落ち着いてくれッ長濱!」
「落ち着くかぁッ!」
「まっ、さっき言った通りだ。加山さん。彼は玉藻から八千万貰って、この件を隠していた。娘さんが大学に入る時期らしいんだが……多分これは裏・口・ってやつだな」
「裏口入学までさせようとしてたの……?」
「今回だけじゃないぞ。病院火災の時も同じぐらいの額貰っているな。しかも、貰っているのは彼だけじゃない。警察の上層部のほとんどが、同じ状況だ」
覚は再び加山の隣までやって来ると、高橋を妖力の込められた目で見つめ続けて次々と暴露していく。
加山も引き気味であった。
「おっ、お前……! 何者だ……!? どうしてっ、そのことを知って……!!」
「ん? ああ、俺のことかね?」
覚はとぼけたように高橋に訊き返す。
そしてニヤァと口角を上げると、高橋に言い放った。
「俺は覚。心を読むことができる。人間の本音、本心を全て把握することができる……"妖怪"だ」
妖怪というワードを聞き、高橋の血の気が引いていく。
覚の前に隠し事は通用しない。
だが、暴いた後でどうするかもまた問題である。
そして、鴉の服の中のスマホには一件のメールが入っていた。
27.尋問
「わ、私をどうするつもりなんだ……!」
玉藻と通じていたことが判明した高橋。
長濱、加山、覚、鴉の四人は彼をソファに座らせ、取り囲むようにして立っていた。
「別にどうもしねぇよ。覚さんが言うには、この問題はかなり根深いところにまで闇が浸透してるみたいだしな。どうもできないってのが正しいだろうぜ」
長濱はもう完全に吹っ切れてしまったらしく、妖怪と繋がっていた事実を暴けただけで失脚したわけではない高橋に対して、すっかり敬語を使わなくなっていた。
尤も、裏口入学の件については調べればボロが出るだろう。
玉藻もそこまでフォローするとは思えないと覚も言っている。
だが、今やるべきはそんなことではない。
「さて、高橋警視にはこれからいくつか質問をさせてもらう。喋らなくて結構だ、俺が勝手に心を読むからな」
「やっ、やめろっ。玉藻社長にバレたら、お前たちタダじゃ済まんのだぞ!」
「それは君だって一緒だ。我々は最初から敵対しているしな。命が惜しかったら、俺たちの言うことを聞け」
往生際の悪い高橋を脅す覚。
ここからは彼の専門分野である。
黙って立っていた鴉は覚の隣まで来て、彼と一緒に高橋を尋問するため、質問内容を覚へ指示し始める。
「覚、まずは玉藻との関係についてだ。いつから始まったのか? どう知り合ったのか? 玉藻は妖怪についてどれだけこいつに喋ってるのか? 頼む」
「……さて、高橋警視。質問を始めるぞ。君はいつから玉藻草司とつるむようになったんだ? どう知り合ったのか、君がどれだけ妖あやかしのことについて知ってるのか。教えてもらおう」
「くっ……! うぅっ……!」
「頑張って心を無にしようとしても無駄だぞ。めちゃくちゃわかりやすいな、君は」
高橋は目と歯を食いしばり、まるで力むか何かに耐えるかのような様子を見せる。
しかしそんなことでは覚の読心を防ぐことはできない。
覚の目の中に、「読まれてたまるか!」「心を無にするんだ!」という言葉が流れ込んでくるだけで、多少鬱陶しい程度で済んでいた。
「……ふぅむ。なるほど。玉藻から近づいてきたのか。最初から金をチラつかせられて……簡単に食いついたな。国家公務員もこんな程度か」
「や、やめろっ」
「知り合ったのは六年前。当初は自転車で人を轢く事故をした娘のために金が必要だったところ、玉藻につけ込まれたようだな」
「あっ……そういえば、確かに警視の娘さんと同じぐらいの女の子が、登校中に高齢者を轢いたって事件があった気がするわ。重い後遺症があったって話だったけど、それからあんまり報道されなかったような」
「なるほどな。最初はそれを隠すために……」
覚は自身の顎を手で撫でながら、高橋の心に見えたことを全て口に出して述べていく。
事故を穏便に済ませ、被害者への治療費や慰謝料を支払うために金が必要だった時、玉藻が近づいてきたそう。
その頃高橋は今の地位に至ったばかりであり、厄介な揉め事を公にするわけにはいかなかったということだ。
加山と長濱は納得する。
「妖怪のことは……存在は知っているが、あまり見たことはない。玉藻と私だけ、か。長濱さんたちのボディカメラに妖怪が映っていたのは知っているが、確認せず全て記録を消去させたようだ」
「くそッ、やっぱりか!」
「や、やめたまえ長濱くん! 暴行だぞ!?」
拳を振り上げる長濱と、それを制止しようとする高橋。
しかし長濱の鉄拳が振り下ろされることはなかった。
クズに振るう拳はない、と彼は吐き捨てるばかりだった。
「覚、次の質問だ」
「ああ」
「鴉の存在を知っているかどうか。そして四大財閥について知ってることを全て吐け、と言え」
「了解した」
「……? お、お前はさっきから一体誰と喋ってるんだ……?」
高橋には未だ鴉のことを話してはいない。
それは少なくとも覚や加山たちからという意味だが、玉藻から聞かされているのかは知っておきたかった。
鴉にとっての敵が妖怪だけでなく、人間まで含まれるとなれば。
彼の今後の動きも変わっていくだろう。
「警視、"鴉"を知っているかね?」
「なに? か、カラスだと? そんなもの、外を飛んでるし知らないわけないだろうっ」
「……知らないみたいだな」
「心の中も読んだか?」
「ああ。さっぱりわかってなさそうだ。嘘は吐いてない」
高橋は鴉については知らない。
玉藻も、流石にそこまでは喋っていなかったようである。
自然な考え方をすれば、それは人間が自身を裏切り鴉へ情報を渡さないようにするためと想像できるが、玉藻はまだ掴みどころが少ない。
単に面倒だから話していないということも想像できるのだ。
「他の四大財閥についても、何か知ってることがあれば教えてもらおうか。各トップが人間ではなく妖だっていうのは知ってるね?」
「う……」
「知ってるな。だが、めぼしい情報は特に無い」
「なんかこう、四大財閥の妖怪たちの弱点とか知らないんですか?」
「し、知るワケない! 私は玉藻社長としか会ったことがないんだからな。他の三人は知らない……!」
「おや……?」
加山の質問についてもNOの返答。
玉藻以外の社長とも会ったことは無いようだった。
しかし、覚は高橋の心の中にある情報を見つける。
「これは……新情報だな」
「何かあったのか?」
「どうしたの? 覚」
「『幻明芸能事務所』社長、月兎げっとについての話だ。これは俺も知らなかったが……月兎は、黄泉から出てきた妖ではないらしい」
「「!?」」
月兎。四大財閥の中でも特に謎に包まれた存在だ。
以前鴉と加山の二人は、加山の部屋で四大財閥について資料を集め情報を得ていたことがあった。
月兎は四名の中で唯一顔写真を手に入れられず、詳細な情報も手に入らなかったのだ。
茨木童子や覚から月兎は妖怪であるというのはわかったが、それ以上の情報は待ち合わせていなかった中で、この事実が発覚したのである。
「……これは玉藻から聞いたらしい」
「鴉……黄泉から蘇った妖怪じゃないってことは……」
「……」
加山は鴉に言いかける。
鴉の使命は黄泉から復活した妖怪を殺し、連れ戻すことである。
しかし月兎は黄泉から出てきた妖怪ではない、つまり覚と同じく一度も死んだことのない妖怪というのだ。
鴉の標的、ではなかったのだ。
「ん……? まだ何かあるな。月兎の顔を見てはいけない……? どういうことだ?」
「知らない! 玉藻社長がただそう言ってただけだ! 見たらどうなるかも知らないんだ私はっ」
「……謎が深まるな。やつに関しては」
覚は相変わらず顎を撫でつつ呟く。
「鴉……」
「月兎のことか?」
「月兎も日本を狙っているというのなら……私は、彼とも戦いたいわ」
「お前にそんな力は無いだろう」
「……あなたは戦う気は無いのね……」
「場合による。やつが俺に対して明確に敵対して、邪魔しようっていうなら容赦なく殺すつもりだ」
「……」
逆に言えば、邪魔をせずに大人しくいるのなら、鴉は月兎を狙うつもりは無いということであった。
彼が言うように加山に妖怪に対する力は無い。
鴉がいなければ何もできない。
加山は日本のため、人々のためにと妖怪を討ちたいと本気で考えている。
しかしその思いを鴉に押しつけていたのも、また事実なのだ。
「……よし。まあ、尋問はこんなもんだろう。最後に仕上げをしておくとしようじゃないか」
「し、仕上げだと!? 私に何を……!?」
加山と鴉の様子を眺めていた覚だが、二人の間に流れる空気が悪くなるのを察し、手を叩きながら仕切り直そうとする。
「とりあえず、だ。この男は玉藻と繋がっていて、我々四名は玉藻の敵対者だということも警視にはバレた。警視から玉藻へこの話が渡れば、我々はかなり危ない」
「か、かなりで済むのか?」
「いいやぁ? 済みませんよ。特に長濱さんは鴉の庇護にもいないわけですから」
長濱を脅しつつ、覚は右手を開閉させながら「私は多少腕に覚えがありますけど」と話す。
そして覚は高橋のデスクへ歩いていき、勝手に引き出しを開けると、中からペーパーナイフを取り出した。
「な、何をっ……!?」
「安心しろ。君を傷つけるわけではない。傷つけるのは俺・自・身・だ」
覚はペーパーナイフを握りしめて逆手持ちにすると、その鋒を自身の左前腕に突き立てる。
そして思いきり皮膚に突き刺した。
「覚っ!?」
「何をしてるんだ!?」
加山と長濱が驚きの声を上げる。
ナイフが突き刺された箇所からはじわりじわりと血が溢れ出し、腕の側面を血が伝っていくと、カーペット床材に垂れて赤黒い痕を残す。
出血を確認した覚はペーパーナイフをテーブルに置くと、人差し指で血を掬すくいとる。
赤く染まった人差し指を掲げ、覚は高橋に迫った。
「今から君に呪いをかける」
「ひっ、ひィィィィっ!」
「落ち着け。すぐ死ぬようなものじゃない。死が確定するものでもない」
覚は自身の血を、高橋の脂ぎった頬に塗っていく。
円を描き、線を走らせ、覚は高橋の左頬に何かの印のようなものを描いていく。
そしてそれが完成すると、覚は高橋に言った。
「俺が君にかけた呪いは、言うなれば"禁句"だ。君が、玉藻を含めた他者に対して我々の情報を喋った場合、即座に君を呪殺する。ついでに君の家族も呪われる」
「ひィィえぇっ……!!」
「酷い方法で死にたくなければ、我々のことは忘れることだ。決して、喋らないことだ。わかったね」
覚が脅しをこう締め括ると、高橋は顔面蒼白、怯えきった表情で頷き続ける。
加山も長濱も、自分たちのことが玉藻にバレてはまずいと思っていたところでの覚の呪いの登場に、心底安堵した様子であった。
(まあ、呪いは嘘なんだがな。本気で心の底から怯えてるし理解したっぽいから、長濱さんの監視をつけつつこのままでいこう。本当に呪いをかけたら逆に玉藻にバレそうだ)
結局は覚のブラフであった。
加山と長濱、高橋はそれを知ることはないが、鴉だけは気づいていたようで呆れた表情を覚に向けていた。
しかし落としどころは文句なしの満点だと、心の中で覚を評価していた。
「さて、それじゃあ行こうか。鴉も用事ができたみたいだしな」
「え、そうなの?」
覚がそう言うと、加山は鴉の方へ振り向く。
この部屋に入るまで、鴉から彼女へ何も言っていなかったからだ。
というのも、その鴉の用事というのは覚と高橋のやりとりの最中にできたものである。
「呼ばれたんだろう? 鬼たちに」
「……ああ。茨木童子から通達だ。これから、西神宿にある『一目連龍はじめれんりゅう水道』を襲撃する」
株式会社『一目連龍水道』。
四大財閥の一角であり、その支配者は……
瑞子鳴河みずこめいがである。
28.『大蝦蟇』
「急な呼び出しだな」
『情報はどこから漏れるかわからん。思い立ったが吉日吉時だ。送った地点は理解してるな?』
「ああ」
スマホを耳に当てながら、鴉は疾走していた。
加山たちと別れ、警察署を出た彼は茨木童子に指定された場所へと向かっていたのだ。
往来する人間たちをすり抜けながら、西新宿のとある水路へ。
「……四大財閥の瑞子鳴河。どんなやつなんだ?」
『水妖だ。東饗中の水道インフラを己がものとし、この都は実質的に奴のホームグラウンドとなっている。豪州……オーストラリアを海に沈めた張本人でもあるな』
「海に……!?」
770万平方キロメートルにも及ぶ面積のあるオーストラリア大陸。
それを一晩で、たった一人で海に沈めたのだ。
それを耳にした鴉は驚く他無かった。
「そんなやつを相手にするのに、お前はどういう作戦を立てたんだ」
『大陸を海に沈めたというのは確かに恐ろしい話だ。その気になれば日本も海の底に沈められるだろう。だが……』
「だが?」
『どれだけ強力な妖であれ、奇襲には弱い。伝説の存在であったとしても、たかが人間に討たれるほどに通用する』
「奇襲……か」
茨木童子の言葉には、どこか彼自身の苦い思い出が滲み出ているようだった。
明らかにトーンが落ちている。
しかし、鴉は奇襲を行うことに関して賛成だった。
鴉には妖力が無い。
黄泉の国の住人独特の葦の香りを纏っているだけだ。
妖怪が妖怪に対して奇襲をかけるのは妖力の感知によって看破されるリスクがあり、非常に困難である。
だが、それが鴉であれば。
匂いでバレるにしても、ギリギリまでは決して気づかれることはない。
『まず貴様には『虎水館こすいかん』という場所に向かってもらう。その地下には巨大な治水施設があり、そこを真っ直ぐ進めば『一目連龍はじめれんりゅう』に向かうことができる』
「なるほど。地下からバレずに瑞子の拠点へ襲撃するということか」
『いいや、厳密には違う。虎水館には番人がいる。唯一瑞子の手元に残っている、忠誠心の厚い番人がな……。まずはそいつと戦闘しろ』
「待て、やるのは良いがどんな相手なのかはわからないのか? その戦いで瑞子が気づいたらどうする?」
『番人は大蝦蟇おおがまだ。その時点でなら瑞子に気づかれてもいい。お前の仕事は、大蝦蟇を一目連龍本社へと向かわせずにその場に留めること。そして、お前の開戦が全ての合図だ』
「合図だと?」
『我が『赫津鬼会あかつきかい』の部隊と、倅せがれ殿を本社へ突入させる。瑞子を討つのは、倅殿だ』
茨木童子の奇襲作戦。
それにおける鴉の役回りというのは言わば囮だ。
鴉が地下で大蝦蟇を引きつけ、瑞子以外の戦力がいなくなった一目連龍を鬼童丸を筆頭とした赫津鬼会の構成員が襲撃する。
鴉はてっきり自身が瑞子と戦うものだとばかり思っていたが、鬼童丸という自分以上の実力者が作戦にいるというのなら、この配役が適切と言える。
彼はそう納得した。
「了解した。虎水館から地下に向かい……大蝦蟇と交戦する」
鴉は走るスピードを上げ、虎水館の目印となる公園とサッカー場を探す。
しばらくしてそれらを発見すると、鴉はついに虎水館に到着した。
地下の治水施設──鴉は治水が何かはわかっていないがーと聞いて、工場のような場所を想像していた鴉だったが、実際の虎水館は違った。
水道や川、洪水対策のための施設に関する博物館も兼ねており、外装も子どもウケのためかレンガ造り風で、カッパのようなキャラクターの大きな看板もあった。
「……ここが……」
『瑞子は割とそ・の・辺・の・センスがあるようだな』
「なんだか気が抜けるぜ……」
可愛らしいカッパのキャラクターを見て、調子を狂わされる鴉。
だがタイミングは良かった。
休館日だったらしく、中に人の気配はほとんど無い。
時間帯ももう午後四時に近い頃であり、近づく人間も少なくなることが予想できた。
『鴉、ここからは電話を切らせてもらう。お前のスマホは妖力を感知できるよう設計してあるが、それで大蝦蟇の妖力を感知したら即、部隊を本社へ向かわせる』
「……設計ということは、やはりこれは鬼おまえたちが作ったんだな」
『ああ。普通の人間には見えていないだろう?』
「後で色々聞かせてもらうぞ。鬼たちのことを」
『生きて戻ってこれたらな……』
やはり茨木童子から貰ったスマホは、彼ら鬼が製造したものであった。
鬼には隠された秘密がある。
覚の予想は確実なものとなった。
鴉の言葉に、茨木童子は鼻で笑って応える。
そして一方的に通話を切られた鴉は、虎水館の自動ドアを霊体特有の性質によってすり抜け、中に侵入する。
関係者以外の立ち入りを禁ずる鉄扉でさえも通り抜け、暗闇の中地下へと続く螺旋階段を降くだっていくのだった。
───────────
「ここが治水施設……。東饗の地下に、こんな場所が……?」
階段を十分近く降り続け、その終点に到着した。
見渡す限りコンクリートに覆われた、広大な空間。
何十本もの巨大なコンクリートの柱が立ち並び、空間の端も遠く、視力の良い鴉でさえ見えない。
暗がりであった階段とは違い、この場所は十数メートルの高さの天井にある夥おびただしい数の照明により昼間のように明るかった。
「……大蝦蟇か」
鴉はまだ妖力を感じていない。
姿を隠しているのか。
それともまだ付近にはおらず、見えないほど先にいるのか。
鴉は降り立った場所から真っ直ぐ歩き始める。
この場所を守るという、瑞子鳴河の唯一の部下を相手取るために。
『倅殿、準備はできたか?』
茨木童子は鬼童丸に問いかける。
鬼童丸の耳にはイヤホンマイクが付けられており、茨木童子からの通信はそこへ届く。
尤も、鬼童丸は喋らないためマイクは必要無いのだが。
「…………」
『そうか……。計画に変更は無い。倅殿率いる第一部隊を筆頭に、全三隊。総勢46名。鴉が大蝦蟇と接触したら、一目連龍本社へ突撃しろ』
一部隊につき15名。
そして統率者である鬼童丸を含めて46名。
鬼も人間も入り混じっている三部隊となっている。
三台の大型トラックを使い、文字通り一目連龍本社へと突撃するという算段だ。
かなりの力技であるが、それも瑞子鳴河の性・質・に対抗するため。
要は鬼童丸。
他の赫津鬼会の構成員は捨て駒同然の囮、盾だ。
もし本当に45名の構成員を失うとなれば、組織にとってかなりの痛手である。
だが、それだけのリスクを負ってでも茨木童子はこの機会を逃すことはできなかった。
『……玉藻がいない今が絶好のチャンスだ。どこへ消えたのか知らないが、これを逃せば我々の勝機は永遠に失われたも同じ。頼むぞ』
「……」
玉藻は現在、どこかへ姿を隠している。
この東饗のどこにも彼の妖力は感じられなくなっているのである。
このタイミングを逃した場合、茨木童子はこれ以降の戦いには必ず玉藻の邪魔が入ることを予想していた。
鴉を引き入れたのも、玉藻への対抗の一手のつもりだったのだ。
玉藻がいないならば、鴉の戦力も他の四大財閥への打倒に割くことができる。
『……いよいよだな。大蝦蟇の妖力を、鴉に持たせたスマホが感知した』
茨木童子の手元には探知機ソナーの画面が映されたタブレットがある。
画面の真ん中には鴉が持つスマートフォン。
その正面には点滅する点が。
それが大蝦蟇だ。
両者の距離は30メートルであることが示されていた。
「…………!」
地下施設を歩いていた鴉。
気がつけば、周囲は霧で覆われていた。
この地下空間の果てが見えなかったのは広いこともあるが、この霧のせいでもあった。
そして、彼の鼻をくすぐるものが更にある。
葦の匂いだ。
「……誰だ」
「我らが『一目連龍』の領域に土足で踏み入る侵入者に、私の名前を教える趣味は無い」
鴉の正面、霧の奥にシルエットが浮かぶ。
返ってきた声は若い男と思われるもの。
鴉は自身に向かって歩いてくる、その男から既に妖力を感じている。
「フン。まあ、何の妖怪かわかっていればお前の名前なんてどうでもいい」
「なに?」
「大蝦蟇おおがまなんだろう? 確かに地下ここはじめじめしてる。好き好んでこの場所にいるのも理解できるぜ」
「……知ってたのか」
面白くなさそうに呟く男。
それと同時に、彼の姿も霧の中から現れる。
身長は鴉の目測によれば鬼童丸と同程度の180cm超。
上裸で、腰にはふかふかな毛皮の腰巻きを着用しており、ゆったりとした袴はかまと足袋を履いている。
黒い長髪を後ろで結び、顔はやや童顔かつ左目には蛙かえるのように横長の瞳孔が見えていた。
そして彼の右手には、柄の長い三叉槍が。
「なぜ私の情報を、初対面である貴様が握っているのかは知らないが……。もし情報を流した者がいるならば、そちらも始末すべきかな」
「せいぜい頑張ればいい。お前はここで殺すがな」
「それは私の台詞だ。鴉、貴様の狙いは社長の首だろう。ついでに私の首も、といったところか?」
大蝦蟇は三叉槍を回し、持ち直す。
腰を落として槍を脇に挟み、鴉に構えた。
鴉も同様に刀を抜き、霞崩しの構えをとる。
「瑞子社長は、私が必ずお守りする。本社には行かせはしない。いや……首だけは通そうか。貴様を弑しいし、その首を社長に献上するとしよう!」
「いいや……その代わりに、お前の首が瑞子の横に転がることになってる」
「生意気を……! 行くぞォ!!」
大蝦蟇はコンクリートの床を蹴飛ばし、槍の三本の先端を鴉に向けて突進する。
一瞬で詰められる距離。
しかし鴉は焦らない。
刀の刃を端の先端に当て、自らの体を大蝦蟇の軌道から外すように弾き飛ばす。
鴉がそうして回避した瞬間、大蝦蟇はベタッと床に足を接地させて急ブレーキをかける。
そして鴉に背面を向けたまま柄の尻を高速で振るい、鴉の頭部を殴打しようとした。
ガギィィッ──!
「良い反応だ!」
「それが全力か?」
「まさか!」
側頭部に柄尻が当たるスレスレのところで、鴉の防御は間に合っていた。
刀の峰にも手をやり、大蝦蟇のパワーに張り合う鴉。
両者は互いの獲物を弾き、再び距離を取る。
いざ、開戦──。
一目連龍水道・都心地下放水路管理指揮官"霧中の忍"
大蝦蟇
29.誤算
「はぁぁっ!」
「ぜぇえやァッ!!」
薄らとした霧の漂う地下空間に、幾度となく金属と金属がぶつかり合う音が響く。
鴉と大蝦蟇おおがまの剣戟は激しさを増すが、戦いの開始から今まで互角の戦闘模様。
「ふんッ!!」
(大蝦蟇……確かな腕前だが、鬼童丸や祢々ねねほどの実力は無い。何か隠し玉が無い限り、ここにこいつを留めることは容易だ)
「ふッ、たアァァッ!」
(やるな鴉……! 社長から聞いていた話の通りだ。玉藻草司の祢々を殺したと言われても納得できるほどの腕前! 私のスピードについて来れるとはっ──)
大蝦蟇は槍の先端による刺突だけでなく、柄尻も用いて打撃を行う。
槍を左右の手で持ち替えながら高速で回転させ、高速の乱撃・どのような攻撃をしてくるかという翻弄・円形に回転する槍によるガードまで実現させている。
それに対して鴉は、持ち前の動体視力で的確に大蝦蟇の攻撃を回避、あるいは刀で受け流す。
そして一瞬の隙を突き──盗人がすれ違う人間から物を掠め取るように──刀の鋒きっさきで大蝦蟇の体を斬り裂いていた。
「──ッ!? ふッ、ハァッ!!」
鴉の攻撃により、左目のすぐ下にかすり傷を負う大蝦蟇。
弾けるように舞った鮮血が左目に入り、汚すと、彼は槍の柄尻を力強くコンクリートの地面に打ちつける。
柄尻は地面にめり込み、そして抉り出す。
コンクリートの破片の礫つぶてが、鴉に向けて打ち出される。
「うぐあっ」
弾丸のように礫が体を突き破ることはなかったが、それでも時速百と数十キロで飛んでくる無数のコンクリート片である。
鴉を怯ませ、動きを止めるには十分だった。
腹にモロに喰らい、崩れ落ちる鴉。
その隙を大蝦蟇は逃さない。
「もらったァァッ──」
バキュゥゥンッ──!
「んがぁああっ!?」
槍の三つの鋒ほこさきを鴉に向け、串刺しにしようと迫った大蝦蟇。
だがその直後、鴉の左手にいつの間にか握られていた拳銃が火を噴き、大蝦蟇の左目を吹き飛ばす。
「しィッ──」
大蝦蟇は顔の左半分を片手で覆い、痛みに悶える。
鴉は即座に銃を手放すと、刀の位置と体勢を低くして構え、滑るようにして大蝦蟇へと距離を詰める。
そのまま彼の首を斬り上げ、断頭するつもりだ。
「〜〜〜〜っ!! 舐めるな鴉風情が!」
「ッ!?」
大蝦蟇の右目が鴉を捉える。
それと同時に鴉は大蝦蟇の開かれた口に膨大な妖力の塊を感知。
次の瞬間、その正体が姿を現す。
(な、何だこれは……!?)
大蝦蟇の口の中には虹色に輝く霧のようなものが貯留していた。
これが彼の妖力の正体だ。
鴉が謎の霧に気を取られていると、それは大蝦蟇の口の中から突如として溢れ出す。
いや、鴉に向かって放たれた。
「うああああッ!?」
まるで突風。
虹色の霧は螺旋状に渦巻きながら鴉を襲い、彼の体を持ち上げる勢いで吹き飛ばしてしまう。
鴉では抗いようの無い力だった。
そのまま霧は鴉を呑み込み、あちこちに立つコンクリートの柱に彼を叩きつける。
何度も何度も、柱が傷つこうと抉れようと関係なく。
自在に操れるこの霧は、大蝦蟇の舌のようなものだった。
「ガハッ……! ァァ……!」
霧から投げ出され、地面に倒れる鴉。
胸を強打し、呼吸がままならない彼はうずくまりながら必死に酸素を取り込もうとする。
「はぁ……はぁ……。く、クソ……!」
(この都心地下放水路の管理指揮官を任されたこの私が……守衛を行わなくてはならないこの私が、戦闘で逆に施設にダメージを与えることになるとは……! 社長に、顔向けができん……)
左眼球が潰れ、瞼の下からドクドクと血が流れている大蝦蟇。
本来この治水施設を守らなくてはならない彼だが、侵入者の排除のために逆に傷つけてしまうという失態を犯し、自責していた。
「だが……この勝負は私のものだ。私の舌・の前には、鴉やつは手も足も出せない……!」
大蝦蟇は三叉槍を握り直し、50メートルほど前方まで吹き飛ばした鴉の元へと歩き始める。
再び妖力を昂らせながら。
「……!」
うずくまっている鴉の胸元で振動する物があった。
大蝦蟇から離れ、霧が体を隠しているとはいえ、鴉は用心して体の下でその物体を取り出す。
振動の主はスマホだった。
茨木童子からの通信だ。
「……何だ」
『鴉、まずいことになった』
「なに……?」
『つい五分ほど前に、作戦通り倅せがれ殿及び『赫津鬼会』の部隊を一目連龍の本社へと突入させた。が……さっそく通信が途絶えた』
「!」
茨木童子の作戦。
それは鴉と大蝦蟇の開戦を合図に、鬼童丸率いる三部隊を一目連龍水道に突入させ、社長である瑞子鳴河みずこめいがを攻撃するというものだった。
鬼童丸と二部隊は大型トラックで本社に突っ込み、残る一部隊は会社を囲みながら外から銃火器による攻撃を行うというもの。
だが、彼らの通信は既に途絶えた。
鬼童丸と三部隊、四つの通信機器は反応を返さないというのだ。
「……そうなると、負けたのか? 鬼童丸が?」
『倅殿に限って殺されたとは考えられん。メディアが流している映像を見る限り、本社を囲む部隊は壊滅したがな。倅殿含め、突入した部隊も無・力・化・さ・れ・た・と判断した。瑞子は生きている。そしておそらく……お前の方に向かう』
「…………」
『いや、奴は確実にお前の元へ向かうだろう。大蝦蟇と瑞子……。二対一では、お前に勝ち目は無い。祢々の時の戦いとは比にならないぞ。瑞子がお前の元に到着するまでに、大蝦蟇を殺せ』
「……言われなくてもそうするさ」
茨木童子との通話はこれで終わり。
一方的に電話をかけられ、そして切られた鴉だが、彼はそんなことは気にも留めない。
瑞子が向かってくる。
その情報がわかっただけでも儲けものだった。
「さて……大蝦蟇やつのあの霧は厄介だな。こんなすぐに使うことになるとは思わなかったが……」
鴉はそう呟きながらコートの内ポケットに手を入れる。
取り出したのは、中に粉末の入った小瓶だった。
粉末、その正体は灰である。
鴉は瓶の栓を外すと、自身の刀に中の灰を振りかける。
そうすると刀に何か変化がある……というわけではない。
コンクリートに幾度となく叩きつけられてダメージが蓄積した鴉だが、彼の瞳に再び闘志が宿る。
「来い、大蝦蟇」
「言われずともッ!!」
鴉が呟いた瞬間、立ち込める霧から槍を構えた大蝦蟇が飛び込んでくる。
「串刺しにしてくれるッ!」
「ふッ──」
ガギィィィィッ!!
「はぁぁっ!」
「ぬおっ!?」
大蝦蟇の全体重が乗せられた一突き。
鴉は槍の三叉に枝分かれする手前の部分に刃を当て、突きの軌道から自身を外し、地面に槍の鋒を叩き落とす。
「喰らえぇぇええ!!」
一瞬のこととは言え、槍を封じられた大蝦蟇。
即座に大口を開き、あの霧を再び鴉へ吐き出そうとする。
しかし鴉はその様子を黙って見ているばかりだった。
大蝦蟇の口の中に、虹色の妖力が溜まっていく。
そして、放出──!
「フンッ!」
鴉に吐き出された虹の霧。
彼はそれを、なんと刀で斬り払おうとした。
霧を斬るなど普通はできはしない。
だが今の鴉の刀は、特別な力を纏っている。
(なっ……!? わ、我が霧を斬った……!?)
刀で斬ろうとも、霧は形を変えて再び一つになるはず。
だが大蝦蟇の霧は鴉に斬られ、斬られた端から消滅していく。
口の中からどんどん溢れる妖力の霧は、鴉によって斬り刻まれて消えていく。
次から次へと吐き出される霧。
それを素早く捌さばき切る鴉。
大蝦蟇と彼の距離は近い。
鴉が霧を斬り刻む連撃の中で、大蝦蟇に一太刀浴びせるのは実に容易いことであった。
「はぁああっ!!」
「ぬああああアッ!?」
鴉の刃が、大蝦蟇に袈裟斬けさぎりを浴びせる。
胴体に斜め一文字に斬撃を受け、赤黒い血が噴き出る。
「チィッ──!」
「せいはァッ!」
カウンターとして、大蝦蟇はその発達した脚で鴉の脇腹に蹴りを放つ。
しかしすぐに見切られ、逆に太腿に断裂寸前の裂傷を刻まれてしまう。
「うがッ、あああッ!」
「終わりだな、大蝦蟇!」
体勢を崩し、後ろへ倒れかける大蝦蟇。
断頭せんと容赦なく、彼の首へと刃が振るう鴉。
大きく振りかぶって、鴉は渾身の一撃を放とうとする──
パシュッ──
突如、そんな音が鴉の耳に入ってきた。
消音器サイレンサーが取り付けられた拳銃が弾丸を放った時のような、そんな破裂音だった。
だが、それと同時にもう一つ。
鴉を襲った感・覚・がある。
それは、激しい胸の痛み。
「うおあああああああああああッ!?」
大蝦蟇に斬りかかろうとしていた体勢を崩し、思いきり前方へ倒れ込んでしまう鴉。
「あッ、ああっ……! うぐッ、ハァッ、ハァッ……!?」
(な、何だ!? いきなり、胸、が……あ、あれは何かに……撃・た・れ・た・音・!? この、血は……!?)
冷たいコンクリートに再びうずくまり、激痛に悶える。
鴉は先程の音の正体は、確かに何かに撃たれた音だと断定する。
痛みの箇所、心窩部には半径1cmほどの穴が空いており、止めどなく血液が溢れ、流れ出てきていたのだから。
鴉の背後から、コツンコツンと足音が聞こえてくる。
彼は痛みに耐えながら、何とか音のする方へ振り向こうとする。
「だ、誰……だ……!?」
「あ……しゃ、社・長・……!」
大蝦蟇は確かに口にした。
彼がそう呼ぶ人物はただ一人。
「派手にやられたな……ガマ」
「も、申し訳ありません……」
「…………!?」
(社長……まさか、こいつが……!?)
霧を割るようにして、二人の元へ歩んできた者。
声からして男。
しかし背格好からは性別は判定できなかった。
下半身は鴉のように黒い軍服のズボンとブーツに包まれている。
異様なのはそこから上だ。
上半身は水のベールを纏っており、水面が光を反射して地面や霧に独特の模様を映し出している。
頭部も同様、水で出来ているフードを被っており、その中も水面が揺らめき顔が見えない。
そして何より目を惹くのは、彼が両手に持っている巨・大・な・水・鉄・砲・だ。
「ガマ、お前気づいてねェだろ。本社に鬼共がカチコミかけてきやがった」
「えっ……あっ、そういえば、確かに本社の方から妖力が……」
「やっぱりな。気づいてなかった。そ・れ・が・狙・い・か・? 鴉」
「っ……!」
鴉は何も言わない。
こう言ってくるということは、もうバレていると見ていいのだ。
鬼と鴉には繋がりがあると。
手を組み、今日一目連龍水道を襲撃したのだと。
「ガマ、お前もう帰っていいぞ」
「し、しかし……我々二人なら、鴉は確実に仕留められます。本当によろしいので……?」
「バカか。怪我して碌に動けないお前を勘定に入れて勝てるんなら、むしろお前はいらねェお荷物だ」
「は、はい……」
「わかったら行け」
大蝦蟇はちぎれかけている右脚を引きずりながら、何とかその場を這いながら離脱する。
ある程度待ち、大蝦蟇が離れられたと判断したその者は、改めて鴉に投げかける。
「ハッ、ずいぶんナメられたもんだなァ俺も」
「…………」
「お前と鬼が手を組んでるのか、鬼がガマとお前の戦いを利用したのか……まだどっちかわからねェが、色々とで・き・す・ぎ・て・ん・だ・よ・な・」
「……できすぎてる?」
「自分で言うのもアレだが、俺も大妖怪の一角。地下のお前らの戦闘は始まってすぐにわかった……。そして鬼共。あいつら、それと同時に来たんだよ。俺の元にガマを加勢に行かせないよう、足止めするつもりだったんじゃねェのか?」
完全に読まれている。
そもそも、鬼童丸や鬼の部隊がここまで簡単に無力化されるというのが想定外だった。
かなりの力技とは鴉も思ったが、これは茨木童子の鬼童丸に対する信頼の厚さが誤算に繋がったと言っても過言ではない。
この瑞子鳴河には、バレている。
「まっ、そんなことは後で茨木童子に聞けばわかることだ。立てよ、鴉。そろそろ胸の穴は塞がったろ?」
「……!」
鴉と直接戦った経験があるのか、瑞子はそう促してくる。
実際、もう傷は治りかけていた。
鴉は黙ったまま、ゆっくり立ち上がる。
目の前にいるのは、現在この東饗都を牛耳る最強格の妖怪。
緊張は過去最大級であった。
「さて……俺のことはもう色々と知ってるだろうが、改めて自己紹介しようか。俺は『一目連龍水道』社長、"水虎すいこ"の瑞子鳴河だ」
地下治水施設が轟音と共に突如として揺れ始める。
地震かと思いかける鴉だったが、それは間違いだった。
瑞子が放つ妖力がコンクリートの床を伝ってこの空間を……否。
付近の土地全体を揺るがせていた。
これが、四大財閥のトップの力。
四大財閥・一目連龍水道社長"暴れ水"
瑞子鳴河
30."鴉狩り"の瑞子鳴河
「こっ、これは……!?」
地下で鴉と瑞子が相対した頃。
地上のテレビではどの番組でも速報が流れ、番組を中断してある場所を中継していた。
そこはもちろん、一目連龍水道はじめれんりゅうすいどう本社。
「加山、一目連龍水道にお前の仲間が行ったんじゃなかったか」
「はい……しかし、こんなことになってるだなんて……」
加山と長濱、そして覚は高橋警視の部屋の中でテレビに目を向けていた。
今頃は警察署内のどのテレビにも職員が殺到し、同様に画面に食いついている。
そうでない警官は、パトカーへと急いで現場へ向かっている。
長濱と加山がやりとりをしている横で、覚はぼんやりとそんなことを想像していた。
テレビに映し出されていた光景。
それは、敷地内及び地上五階まで辺りまでが壊滅状態にあった一目連龍の本社ビルの姿であった。
全二十八階、外壁のほとんどがガラス張りであるが中は見えない。
周りは広大な駐車場と芝生に囲われ、屋上には青々とした庭園があるというビルだったが、今や見る影は無い。
ビル周囲の芝生は燃え、あるいは黒く焦げている。
五階までのガラスはほとんどが割れ、中からは黒煙が昇り、そして見えているコンクリートの壁のほとんどが煤けていた。
そして極め付けには、大きく損壊したビルの入り口。
縦横それぞれ5メートルほどの大穴が空けられており、中には大型トラックが三台見えていた。
(あれで突っ込んだのか……)
覚はそう考える。
鬼たちが鴉を呼びつけたのはわかっている以上、トラックで特攻したのも赫津鬼会あかつきかいの者どもだと想像がつく。
中に入って行った多くは鬼。
鬼と瑞子の戦いの結果が、この惨状である。
「……アンタたちは行かなくていいのか?」
「……加山」
覚の問いに、人間二人は答えない。
長濱は加山の方を見るが、彼女も何か思うことがあるような顔をするばかりで何も言わなかった。
「加山さん、茨木童子はどこまで知っている? アンタと鴉の関係について」
「それは……わからないわ。鴉がどこまで喋ってるかも知らないし……。でも、私のことは奴らは知ってるみたい」
「ふぅん……」
覚は視線をテレビへ移す。
よく見れば、ビルのすぐそばの地面にはモザイクが掛けられていた。
このような場合のモザイク処理の目的は大抵一つに絞られる。
あの辺りに死体が散らかっているということだ。
巻き込まれた社員か、それとも突撃した鬼が瑞子にやられたのか。
少なくとも中継が始まった頃にはこの状況だったため、真相は想像に任せるしかない。
しかし、覚はあることを疑問に思っていた。
四大財閥、あるいは妖怪が関わる事件の報道はほとんどの場合、玉藻によって規制がかけられる。
それに対して今回は──
(鬼たちの襲撃。なぜこのタイミングで、と思ったが……。まさか、玉藻が動けない状況にあるのか? それとも、現在進行形でやつはこの東饗とうきょうにいないのか……?)
───────────
「くっ……!!」
一方地下では鴉が膨大な体力を使って傷を修復し、瑞子を前に何とか立ちあがろうとしていた。
瑞子は東饗最強格の大妖怪。
四大財閥の一角である、一目連水道の社長。
先程戦った大蝦蟇おおがまよりも、以前殺した祢々ねねよりも、遥かに強い。
「てめェが前に殺した妖あやかし……魃ばつを覚えてるか?」
「……あいつがどうした」
「魃はなァ、元々は一目連龍ウチにいた妖だったんだよ。それを、玉藻の野郎が引き抜いてった。玉藻の能力の一つさ。妖の魂に干渉し、自分の傀儡かいらいに変える……」
「……? 何の話だ」
唐突に玉藻と魃の話を始める瑞子。
鴉にとって目標の一つである玉藻の能力の情報は収穫物ではあるが、瑞子の意図が見えない。
「俺は結構、身内には甘いんだよ。こう見えて大蝦蟇や魃のことは数少ない同胞として大切に思ってた。他の妖たちもな。だが、玉藻に奪われ、お・前・ら・に殺された」
「……それじゃあ、俺を殺しにここへ来たのは復讐のつもりか?」
「そういうことになるな。前に殺した鴉にはこう言われたよ」
「"鴉狩り"ってな」
「……」
鴉は他の同僚たちとは接したことが無い。
鴉たちの話を聞くのは、物資調達のために桃の婆の元へ赴いた時だけだ。
かつて東饗に足を踏み入れた鴉たちの間では、瑞子の名は恐れられていたのだろう。
わざわざ通り名まで付けられているのだから。
「……天下の四大財閥の大妖怪さまが……ずいぶん情けないことをしてるんだな」
「ああ?」
「先の話、お前は玉・藻・に・勝・て・な・い・か・ら・、仕方なく自分より弱い鴉を殺して憂さ晴らししていると、そう聞こえた──」
バシュゥッ──!
鴉が言い終わる瞬間、再びあの破裂音が。
しかし今回は鴉の体に穴を空けられることは無かった。
瞬間的に反応できた鴉は、刀で瑞子の攻撃を斬り上げ、防御に成功したのだ。
(やはり……あの攻撃は銃から放たれている!)
瑞子の持つ大型の、カラフルな水鉄砲。
夏場に子どもたちが持ち寄って遊ぶようなそんな水鉄砲だが、その銃口から放たれる水は脅威そのもの。
鴉は一直線に飛んでくる高圧の水の弾丸に刃を当て、左右に水を散らした。
しかしその水は彼の後方のコンクリート壁へと向かい、容赦なくその表面を抉っていく。
「なるほどな……反射神経は確かに良い。だが今のは奇跡だ。冷や汗垂れてるのが見えるぜェ?」
「バカ言え。飛んできた水滴だ」
「ハッ、達者なのは口だけだろうが!」
瑞子は両手の水鉄砲をもたげ、鴉へと高圧水流を乱射。
鴉は一度後方へ跳んで瑞子から距離を取ると、瑞子の銃口から目を離すことなく水流を回避し続ける。
下手に刀で弾けば、跳弾した水流が逆に鴉の危機となり得る。
そう判断した鴉は回避に専念し、横目である物を探し始めた。
「チッ、ちょこまかと……」
瑞子は鴉を襲う高圧水の連射スピードを速める。
もはや機関銃のように撃ち出される高圧水を避けるのは、いくら鴉でも難しい。
流石に体の端を掠め、服の切れ端が飛んだり、血が宙を舞う。
(どこだ……どこにある……! あれさえあれば、瑞子にダメージを……)
間一髪のところで──側頭部を光線のごとく水流が掠めさせ──回避しながら、目的の物をひたすら探す。
瑞子は一切その場を動くことなく、しかし鴉は連射される高圧水を避けながらいつの間にか最初に鴉と大蝦蟇が対峙した地点に至っていた。
絶えず襲ってくる無数の高圧水。
水が撃ち出される音は、まるで鴉自身が滝壺にいるかのように錯覚させるほどの轟音。
そんな中、鴉の足に硬いものが当たる。
(あった──!)
「くたばれ鴉ゥ!!」
瑞子は二丁の水鉄砲の銃口を鴉に合わせ、高圧水を撃ち出す。
鴉はそれに気づきながらも、視線はなんと瑞子から外していた。
足元にあった物体を右足で空中へ弾くと、鴉は身を翻しながらそれを左手でキャッチ。
その間、瑞子から放たれた二本の高圧水流の間に身を通して回避する。
そして──
「くらえ」
バキュゥゥゥン!!
「うぐゥッ!?」
左鎖骨の上部から血を噴き出す瑞子。
硝煙と共に放たれたのは、黄泉産の鉛の弾丸。
ただの弾丸ではない。
鴉は右手に握っていた刀を逆手持ちし、その側面(=鎬しのぎ)に銃口を添わせて弾丸を走らせながら撃っていた。
刀の反りによって弾丸の軌道がカーブを描くだけでなく、もう一つの効果を狙っていた。
「うっ……ぐッ……! こ、これは……!?」
瑞子の銃創からは止めどなく血が流れ出ている。
その様子に、瑞子自身も驚きを隠せていなかった。
(瑞子は……お・そ・ら・く・実・体・が・無・い・。まだ刀に灰・が付いてて良かったな)
鴉はこの短い時間の間にそう悟っていた。
というのも、水鉄砲から無尽蔵に撃ち出されてくる水。
それはどこから来ているのかという話だ。
(補填される水は、瑞子の妖力から生み出されているものかと思っていた。が、違う。瑞子の前腕辺りだ。あそこは水のベールを纏っていないが、一定の時間が経つごとに水のように変化し、鉄砲の貯水部に入り込んでいた。瑞子の正体──流動する水か)
瑞子は鴉に、自身の種族は水虎と名乗っていた。
水虎。
元は中国の水妖であるが、日本にも渡って生息していたという。
本来は人間の子ども程度の大きさであり、虎のような猫科動物に似た顔と鋭い爪、鱗を持つが、日本では河童かっぱの一種とされていた。
鴉は水虎と出会ったことはなかったが、体を水に溶け込ませ、一体化するというのは水妖の中では珍しい特徴ではない。
河童の類では特にだ。
「俺の体に、傷を……! "魂灰こんはい"か……!」
一方で鴉の弾丸。
わざわざ刀の鎬を弾丸で削らせたのには、かつて鴉が桃の婆から買ったものの一つである魂灰の効果を持たせるためである。
大蝦蟇との戦いで彼の霧を斬り刻むのに用いられたが、刀に振りかけられた灰を弾丸にも付与させたのだ。
魂灰とは黄泉にて作られる特殊な灰。
というのもその原材料は、妖怪の魂を燃やした後に出る灰である。
現世では手に入らない。
妖怪の魂から出ているのだから、この灰には妖力が宿っており、故に妖怪にダメージを与えられる。
実体が無くとも、だ。
「戦いのセンスは、認めざるを得ないな……。流石は祢々を殺した鴉だ。俺には勝てねェがな……!」
「"鴉狩り"の瑞子鳴河か……。だが、まだやれる。その首、今ここで貰うとしよう」
両者の距離は30メートルほどに離れていた。
戦いは仕切り直し。
そして同時に、歴史上四大財閥の首に最も鴉の刃が届いた戦いでもあった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。